佐久往還;新蕎麦求め八ヶ岳山麓へ
2023.12.9(土)晴 長野県南牧村
 心に決めた約束
 来週の土曜日(16日)は兄の一周忌である。10月は8日も医者通いをした、定期診察と検査等で別段問題があるということでなく安心が目的であった。しかし、無理は禁物なので法事は失礼させて頂きたく返信ハガキを投函しておいた。
 さて、新蕎麦だが「安曇野」と「野辺山」を挙げ、妻に選択してもらった。とは言うものの、「野辺山」を選択するように仕向けたことは否定しない。理由は、兄の一周忌までに千曲川源流とはいかないが、川上村方面に足を運びたかった。兄は「千曲川」(源流から河口まで、千曲川・信濃川の風景と文化」を退官してから何十年も撮り続けていた。私も宮城に居る頃から度々お伴をし宮城から実家に帰省し甲武信ヶ岳にも同行している。同行した思い出の地で「一周忌の語らい」をしたかった。
 まちの駅(農産物直売所);小海町
 特に「此れ」ということでなく、何か「野菜」をという妻のリクエストで立寄先の一つにしていた。一目で「豆類の種類が豊富」と気づいたが、煮る手間が大変とのことでパス。「白麗茸」(はくれいたけ、別称アワビ茸)に眼が留まり購入した。キャッチフレーズが「深山のかほりあわびの食感」(下句が字足らず)、俳句ではないが、「深山」は中国の深山が原産で、ステーキ風に食べると正にアワビの食感だという。勿論、今夜のお酒のつまみにしました。
 佐久甲州街道「海尻宿」「海ノ口宿」を訪ねる;南牧村
 佐久甲州街道(佐久甲州脇往還)9宿のうち、「海尻宿」「海ノ口宿」「平沢宿」がおかれていた。海ノ口宿と平沢宿の間に広がる野辺山原は約12kmにわたる無人の荒野で、旅人及び物資の輸送を難渋させた佐久甲州街道の難所でした。慶長11年(1606)に幕府は旅人を救護するために、周辺の村より村民を野辺山に入植させ、どれだけ開墾しても無年貢とし、茶屋を数カ所に設置しました。 長野県側最南端の宿場町であった「平沢宿」は現在ほとんどその遺構を残していませんが、かつて問屋が置かれていた「海尻宿」と「海之口宿」にはわずかながらも、往時を偲ばせる家並みが風景が残されていました。海尻宿の享保年間の家数は81軒で人口は298 人でした。ちなみにJR海尻駅は標高1,035mで、JRの駅の中で8番目という事らしいですが、 この海抜1,000m級の土地に「海」のつく地名が多く見られるのは、かつてこの一帯に湖があった事に由来します。
 今から約1100年前の平安時代。仁和3年(887)の大暴風雨により八ヶ岳が大崩落。この崩れた八ヶ岳の泥流によって塞がれた千曲川と、その支流の相木川にそれぞれ大小2つの天然のダム湖が誕生しました。小さな湖は「小海湖」(古相木湖)と呼ばれ、その名は今に残されていますが、大きな湖(古千曲湖Ⅰ/南牧湖)の方はまったく記録がありません。しかしこのダム湖は約120年も続いて、平安時代後期の寛弘8年(1011)に大崩壊し、下流に甚大な被害をもたらしながら消滅します。 この天然のダム湖に千曲川が流れ込こんだ場所が「海ノ口」、反対側の湖の水の流出部が「海尻」と呼ばれた由来です。今回は、この二つの集落を訪ねる旅です。
 佐久甲州街道/佐久甲州脇往還「海尻宿」;南牧村
 いではく誕生の地「北国の春」作詞
 「ナビ設定」は「海尻簡易郵便局」、「目標地点に到着しました」と言うが見回しても「それらしき看板」が見当たらない。「北国の春」(海尻簡易郵便局)より30m先で停車、「北国の春」の直ぐ横だが奥まっている。間口がとても広いので判るはずだが・・・・。作詞家「いではく」(井出博正)さんは私より6歳年上、「北国の春」(千昌夫)、「北のふるさと」(森進一)、あれから一年たちました」(小林幸子)等、信州人であること初めて知りました。
 「海尻宿」の街道筋 散策ルート(Google Map
 JR小海線、上り・下り、各9本、海尻宿散策中(10:44-11:24)で小諸行11:07の一本が撮影チャンス、この踏切撮影は10:50 (後ろ姿)知っていたら待ったかも・・・・
 南牧村域北部の海尻地区は中世に城が構えられていた。八ヶ岳山麓の舌状台地に砦を構え南の甲州勢に備えたもので、国境に近いこともあり軍事的拠点だったのだろう。廃城後、城の東側の千曲川沿いに甲州脇往還が整備された。当往還は中山道の岩村田宿から分岐し、野沢・高野町・上畑・海尻・海ノ口・平沢の各宿駅を経て甲州街道の韮崎宿に達するもので、佐久地方の動脈でありまた善光寺等の信仰の道としても利用されていた。宿泊業務より馬継ぎが主な任務であったが、安永5年(1776)に交わされたこの六ヶ宿問屋連印の議定書によると、通過荷は茶・綿・紙・楮・下駄・塩・生姜・生薬など多岐にわたっている。
 国道
140号の千曲川寄りに街道筋が残る。脇街道らしい古い町並が随所に感じられる。平入り妻入り混在で真壁が目立つのは佐久地方中南部に見られる特徴のようだ。また庭木に亭々たる大木が目立つのも歴史と格式を感じさせる。八ヶ岳麓一帯は良質の木材が得られ、宝永4年(1707)に現在の善光寺金堂が建替えられたときは、この地域の木材が使われ付近から千曲川の川流しで運んだといわれる。
 海尻山醫王院薬師寺(天台宗)
 本山は滋賀県大津市の比叡山延暦寺。信濃神光寺の末寺として、元禄2年(1689)、性海阿闍梨によって開山されました。信濃神光寺は、天長3年(826)、慈覚大師円仁上人の創建と伝えられ、松原諏方神社の別当寺でありました。多くの伽藍と五つの末寺をもつ佐久地方南部の一大霊場として人々の信仰を集めていました。しかし、信濃神光寺は、度重なる厄災や明治の法難により壊滅的な打撃を受けて廃寺となりました。その折に、信濃神光寺の御本尊(薬師瑠璃光如来)と過去帳などは醫王院へと移されました。信濃神光寺の法灯は、唯一残った末寺である当院へと継承されましたのです。当院は、その後、信濃五山の慧日山修学院津金寺の末寺となり、檀徒各家の先祖回向を行う滅罪の道場として今なお、その法脈を伝えております。
 醫王院の裏山に「海尻城跡」がある
 海尻城は前山城主・伴野氏の家臣である井出長門守によって築かれたと伝わる。また村上義清と武田信虎が戦った「海尻合戦」の舞台となったことで知られている。天文9年(1540)、村上方の薬師寺右近らが守るこの城を武田方の板垣信方が攻め落とすと、この報を受けた義清はただちに海尻城へと迫り、二の丸まで攻め落としましたが、信虎が救援にかけつけたため撤退しました。現在城址には堀切などの遺構を確認することができ本丸跡に標柱が建てられている。
 海ノ口温泉源泉 泉質:ナトリウム・マグネシウム・炭酸水素塩・塩化物泉 泉温:35.3℃(人肌)
 温泉は昭和6年に掘削により湧出したもので100年近い歴史がある。近隣の鹿の湯温泉やうそ沢温泉は時代の流れで廃業。泉質はナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩・塩化物泉で、旧泉質名では含塩化土類重曹泉。マグネシウムを多く含む温泉は珍しいです。鉄分の含有量はわずかですが、ストロンチウムやマンガン、リチウムなど、様々な金属イオンが含まれている。これはなかなか面白い。重曹と炭酸と鉄が入った珍しい温泉です。
 海ノ口大橋
 右画像は千曲川上流方向で、海ノ口大橋(右岸端)より上流方向に240m地点に「湊神社」がある。JR小海線佐久海ノ口駅近くの国道141号の踏切付近には、「湊神社」が存在します。古千曲湖が存在していた133年間に海ノ口と海尻間を舟で渡っていた頃、水路の安全祈願の場として、湊神社が存在したのでしょう。
 平安時代の仁和
458日(888)に、八ヶ岳の稲子岳が水蒸気爆発をおこし押出した泥流により海尻地区と海ノ口地区の間に南牧湖、小海町にある松原湖が作られました。その後、平安時代末期に広瀬地区の平地に人が住み始め、南牧湖の水がなくなり干潟となった海尻地区や海ノ口地区、山梨県と長野県の要路に当たる平沢地区に集落が形成されていきました。大月川岩屑なだれは千曲川および相木川を堰き止め,2つの巨大な湖が千曲川に形成された。湖は最大時には上流10kmに及び深さ130mあったらしい。10ヶ月にわたり堰き止められ次第に水かさが増した天然ダム湖は翌年決壊し下流に大洪水をもたらした。湖の一部はその後100年近く存在し最終的に1011年に決壊して消滅。一方で相木川に形成された湖はその後600年近く存在し続けたようだ。
 海ノ口宿;南牧村
 江戸時代に街道が整備され、以降の佐久往還の起点は甲州街道韮崎宿の本町通り、上宿と中宿の間にある通称「韮崎追分」から東へ分岐する形をとる。韮崎から、中山道につながる岩村田宿まではおよそ18里(72km)、その間甲州側に中条、若神子、長沢の3ヶ所、佐久側に平沢(南牧村)、海ノ口(南牧村)、海尻(南牧村)、上畑(畑八村=佐久穂町畑)、高野町(佐久穂町)、野沢(佐久市)と6ヶ所の馬継場が置かれた。
 韮崎を出ると、塩川に沿って七里岩を北上し、八ヶ岳の南麓へ向かう。長沢には口留番所が置かれ、通行を監視した。番所を過ぎると難所の弘法坂を上り、念場原(清里高原)に出て、甲信国境を越えて平沢に入る。そこから平沢峠を越えて野辺山原を通過し、海ノ口へ下り、以降は千曲川の左岸を川に並行して北上し、海尻、上畑、高野町と進む。高野町には承応年間からおよそ半世紀、甲府藩の陣屋が置かれ、甲州と佐久の交流を促進した。その後、臼田を抜けて野沢で道は折れて千曲川を右岸へと渡り、北上して岩村田宿に至る。
 佐久往還は参勤交代の道ではなく、大名の移封による通行や領主の通行も江戸時代中期以降はなくなったので主として物流の道であった。それ以外の大きな用途としては、信仰の道が挙げられる。富士講や御嶽講の参詣にも重要な道であったが、特に盛んだったのが伊勢講である。佐久地方からの伊勢参りには、佐久往還から駿信往還、駿州往還を経て東海道へ出る経路が多く使われた。
 野辺山駅;南牧村
 野辺山駅ロータリーの「みやげ店」で、「年越し蕎麦」を土産に買い求めた。
 富士山と八ヶ岳;山梨県北杜市
 旅の目的は「信州蕎麦の新蕎麦を食べる」ことだった。何だかんだで「甲斐蕎麦」になってしまった。しかし、立ち寄ったお店は「清里」にある蕎麦店でキャッチフレーズが「木の香り漂う空間で極上のそばの味をご堪能ください」ときた。左端はお店のテラスから眺める「甲斐富士」、折角なので往路を引き返さず「富士山・八ヶ岳」を眺め、「中央道長坂IC-諏訪南IC」で時間短縮し大門街道白樺湖経由で16時前に帰宅した。