上田原の戦い ; 義清と晴信の激戦跡
20231217日(日) 霽
 妻の送迎で某所へ、14時少し前に着く、16時少し前まで2時間弱空がある。「給油」後に「上田原古戦場跡」「海野平古戦場跡」に行ってみようと事前調べを済ませてある。
 上田原古戦場;長野県上田市
 天文17年(1548) 「上田原の戦い」村上義清は父信虎を追放し小県南部へ侵攻した武田晴信を撃退する。
 村上軍の将 雨宮刑部の墓
 当地より千曲川左岸縁に、村上軍の「小島権兵衛の墓」「屋代源吾の墓」、武田軍の「板垣信方の墓」がある。何かの機会があったら行ってみよう。
 石久摩神社 上田原合戦の碑
 碑文を以下に転記(判読し難い箇所があり、誤字があったらお許しください)
 この戦いは全信濃の征服をめざす希世の英雄、甲斐の武田信玄に対する北信濃の勇将村上一族の命運をかけた抵抗でありまた川中島合戦の前哨戦でもあった。村上、武田両軍合わせて一万七千人の将兵は上田原地域を中心に死闘を展開し、討死者は約四千人或は六千人とも言われている。石久摩神社より西北方に村上軍の陣、天白山、千曲川等が望まれ東南方には武田陣、倉升山、物見山等が見える。村上義清が渡河して室賀峠へ向かったと言われる「石久摩渕」の断崖、産川が南西に流れている。また武田信玄が退陣の際通過したと言われる通称「信玄道」は神社のすぐ西下を通っている。合戦の関係のあった「旗塚」御陣ヶ原等も近い。その激戦での武将の墓も散在している。これを末長く伝えるべく、この中心地石久摩神社境内に古戦場碑を建立した。
 石久摩神社 上田原合戦のあらましの碑
 天文172月(1548)武田信玄は、大軍をひきいて、小県郡に攻めこんだ。葛尾城主村上義清は、これをむかえ討ち、14日上田原で大いに戦った。両軍に死傷が多く、とくに武田軍は、優将板垣信方、甘利虎㤗が戦死し、信玄も負傷したが、村上軍でも、雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛らの勇将を失い、両軍大打撃をうけた。
 石久摩神社(北方遠景)と上田原合戦無名討死者の墓
 信玄道(往路)
 「信玄道」、折しも空模様は「霽」、整備が行き届き気が良ければ絶好の散歩コースだろう。
 産川を渡り「加美畑神社」「超誓寺」の脇道を抜け、神畑集落から林道「神畑北線」を選んでみた。長野大学近くの塩田運動公園を抜け直進すると「生島足島神社大鳥居」近くに出る。駒瀬川右岸から左岸に渡り雨吹川との間を上流方向に進むと富士山集落に入る。奈良尾集落との間で「鎌倉道」と交差する。「鎌倉道」へと左折すると「砂原峠」に至る。9.2km、徒歩2時間20分程の距離になる。このコースが「信玄道」かは不詳である。
 鎌倉道 懸案の「竹ノ内」(北条氏館跡地)
 北条義政は引退したが鎌倉との縁が切れたのではなく、その子の国時、孫の俊時は幕府の裁判官や大臣を務めていました。彼等は幕府でのお勤めで塩田にいる時間は余り無く、それに代わる代官(誰?後の福沢氏?)が留守を守っていたようです。塩田と鎌倉の行き来は頻繁にあったと考えられます。また、塩田には安楽寺や前山寺など全国から僧が集まる「信州の学海」と呼ばれる地、鎌倉からお坊さんたちも塩田に来ていたでしょう。
 
東塩田の東前山に「竹之内」という地籍があって、どうもそのあたりに塩田北条氏の館があったと想定されています。そこから東の方に、鎌倉に通う道「鎌倉道」があったようです。竹之内から東の方に道はのびて、今の手洗池の中を通り、というと池の中に道があったと思われそうなので注釈しておくと、塩田のため池の多くは江戸時代に築造されたり増築されたので、それ以前は、鎌倉時代にあったとしても小さなものだったのです。で、手洗池を通り、安曽神社や来光寺池、砂原池のあたりを経て丸子との境にある砂原峠に至ります。これが塩田の「鎌倉道」。そこから先鎌倉までは、丸子から碓井峠を越え、関東に出て上野・武蔵と南下する道と、もう一つ、諏訪と甲斐経由(=信玄道)で鎌倉に行く道も考えられるようです。 蝶と里山の浪漫紀行