東日本大震災 復興の歩み
あれから13年、我が事として後世に伝えよう
自転車を漕ぐ先いずこ今日も又
県道10号(亘理塩釜線)宮城県仙台市宮城野区 
 東日本大震災が発生 2011311日午後246分 宮城を後にしてから満7
 201111日、いよいよ今日よりログハウス(前年半年がかりで建築)生活がスタート。1月・2月の仙台出張は新幹線での日帰であった。3月の会議は19日である。会議資料は6日に作成完了した。
 311日、午後から雪になるとの天気予報、ならば午前中に長野美専(かつて、マーケティングの単位講座を務めた)の卒業進級制作展(ホクト文化ホール/長野市)を見ておこうと9時に長野に向かう。作品は若さで溢れていた。特にテーマの選定に感銘した。帰りにデパ地下で惣菜と露天の花屋でチューリップの切花を買う。明日、ロシア旅行に出発する姉を歓送すべく惣菜とチューリップ持参で立ち寄る。昼食をご馳走になっていると牡丹雪が降ってきた。積もらぬうちにと家路に着く。帰宅して直ぐ、隣の姉宅へと妻が惣菜を届ける。その時に小刻みの振動で大きく揺れる。今迄経験したことのない地震が・・・・
 マグニチュード9.0の巨大地震(東北地方太平洋沖地震)によって引き起こされた死者・行方不明者が22200人以上にのぼる大災害です。東京電力福島第一原子力発電所の事故も発生しました。国内史上最大の地震による最大震度7の揺れ。北海道・東北・関東の沿岸を襲った大津波。そして日本の形を変えるほどの地殻変動等、当時の状況です。
 太平洋側を中心に激しい揺れに襲われます。宮城県栗原市で震度
7 。震度6強は宮城県、福島県、茨城県、栃木県の437市町村で観測されました。東京23区でも最大震度5強。超高層ビルなどを大きくゆっくりと揺らす「長周期地震動」も観測され、震源から遠く離れた東京や大阪でも被害が出ました。九州南部や小笠原諸島でも震度1を観測。国内の観測史上最大となる巨大地震は、日本全国を揺らしたのです。
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 一週間余りの音信不通
 地震発生の一週後の18日夜、車で仙台に行く予定になっていた。新幹線も東北自動車道も一般道も何時になったら利用出来るか見当がつかない。顧問先や友人に携帯電話での連絡がとれたのは15日の夕方になってからだ。被害を受けるも無事だったので安堵する。住んでいた岩沼市の情報は皆無に近い。また、仙台空港近くには妻の友人が住んでいる。那須塩原の友人から「給油ほぼ平常に戻る」と28日に電話を受け、顧問先と連絡を取り合い出張予定を「4516時着」(地震発生から26日後の現地入り)と決める。
 被災地を訪ねた記録
紀行日 「蝶と里山の浪漫紀行」のタイトル 被災地の撮影
2011.03.16 復興への祈り 東北関東大震災 被災地の回想
2011.04.06 被災地へ 激甚被災地と化す第2の故郷 多賀城、仙台、岩沼、亘理
2011.05.21 旗巻古戦場跡 心の故郷の行方は 亘理、岩沼
2011.07.16 被災地も梅雨明け 急ピッチで進む片付け 岩沼
2011.08.20 思い出の走馬灯 震災後の仙南沿岸部 新地、山元、亘理、岩沼、名取
2011.09.17 あれから半年 復旧進む被災地の日の出 岩沼、名取、仙台、多賀城
2011.10.15 心痛む被災地へ 奥松島に見る津波の爪痕 東松島(矢本、成瀬)
2011.11.19 鳥の海 仙南沿岸部の被災復旧状況 亘理
2011.11.19 閖上漁港 仙台平野沿岸部の被災復旧状況 名取
2012.03.16 一年後の被災地 東北人の心の温もりに祈る 石巻から相馬まで
2012.09.15 一年半後の被災地 大きく変わった故郷への思い 岩沼から名取まで
2013.03.15 二年後の被災地 宮城県沿岸北部へ 南三陸から気仙沼まで
2015.04.17 被災地 4年後の仙南沿岸部 仙台から名取まで
2017.04.14 幻想の旅 奥の細道“石の巻”描き 石巻市
2017.11.17 浜通り 陸前浜街道“帰還困難区域”を行く いわきから相馬市まで
2020.03.20 常磐線全線開通 原発災害から満9 楢葉町・富岡町・双葉町・浪江町
2020.11.20 旗巻古戦場跡 記念標柱修繕紀行 相馬市・丸森町
 この空に生きる 菅原保徳 (合宿訓練を行う某社の講師を一時お手伝いした際の訓練歌
何処までも何処までも
この空に生きていく
泣いたらだめだよ笑ってごらん
いつか心に幸福がくるから
ランランランランランラン
ランランランランランラン
雲にのってやってくる
青空に青空に
向かって生きる木の芽を見よう
泣いたらだめだよ笑ってごらん
いつか心に幸福がくるから
ランランランランランラン
ランランランランランラン
風にのってやってくる
この大地にこの大地に
人はみな生きていく
泣いたらだめだよ 笑ってごらん
いつか心に幸福がくるから
ランランランランランラン
ランランランランランラン
心の花が咲く日まで
ランランランランランラン
ランランランランランラン
心の花が咲く日まで
 顧問先への月次訪問に合わせ、その前後に被災地を訪ねている。夜間移動であり、殆どが早朝であったことから自ずとして画像も暗く見にくいことも多々あると思う。
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 震災地を案じ(回想)
 自然の宝庫、高館丘陵より眺める岩沼市街と太平洋を眺める。平地の半分近くまで巨大津波が押し寄せた。
 巨大津波に呑み込まれた岩沼の沿岸部。海浜緑地(ヒヌマイトトンボ生息地)・岩沼海岸・貞山堀。
 自然の宝庫、亘理地塁山地より眺める仙南沿岸部から新地・相馬(福島浜通り)、巨大津波により甚大被災。
 菖蒲田浜(七ヶ浜町)、野蒜海岸・石巻湾、雄勝湾・雄勝町、巨大津波により甚大被災。
 宮城県沿岸部の津波浸水マップ(濃青部)
 左より、「石巻市-塩釜市」「塩釜市-多賀城市」「仙台市」「名取市-岩沼市」「亘理町-山元町」「福島県新地町」、ざっくり言って「仙台市-岩沼市」は「仙台東部道路」(高速)、「亘理町-山元町」は「国道6号」まで巨大津波が到達しています。私が利用していた宮城仙南から相馬(福島県)沿岸道路、「県道10号亘理塩釜線」「県道38号亘理新地線」(ストロベリーライン)沿いの集落は基礎部まで100%消滅しました。
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 被災地を踏む第一歩(宮城県仙南地域);激甚災害地と化す第の故郷 2011.4.5-6
 家を3時発で岩沼12時着、一般道455km/9時間(通常)、竹駒神社で合掌、すぐ近くの友人宅を見舞う。
 国道4郷は大渋滞、仙台港近くの顧問先に14:30着、予想より早い業務再開に一安心。車中泊の準備をするも、休憩棟の二階が和室、布団もありそこで宿泊することになった。
 翌朝、かつての顧問先と仙台港に行って見た。引込線が飴のように曲っていた。
 顧問先を13:00に出る。県道10号塩釜亘理線の沿線の被害状況(テレビで放映された巨大津波が襲った地域だ)を見ながら亘理町まで南下、亘理町14:45を後に来た道を戻る。家に着いたのは0:40、日光通過時に告げた帰宅予想時刻より8分早かった。何時もの事ながら時間読みの正確さ、震災地との道も復旧が進んでいる。
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 旗巻古戦場跡(宮城県丸森町); 心の故郷の行方は 2011.5.21
 今回の出張は、2021時発、日光経由矢板、白石から丸森へ。会議の前に「心の故郷碑」(旗巻古戦場跡)に立ち寄る。丸森町に住む友人から、「見舞いメール」の返事が来ていた。「いつ避難指示が出ても良いよう転居の準備を進めている」「生きているうちには戻れないでしょう」とも。「放射能汚染」である。私も「立入禁止区域」に指定されないうちにと・・・・旗巻古戦場保勝会」さまに建てて頂いた「記念柱」向かい、共に生活を送った家族(犬と猫)に合掌をする。近い将来、この地(旗巻峠)に立ち入ることが出来なくなる可能性のあることを告げる。
 旗巻峠を福島側に下る。そこは相馬市、一般車は通行自粛との看板があったので山側の道路で新地に向かい国道6号に出た。
 山元町の国道6号、通行出来るが画像でも判るほど縦横に波打っている。坂元地区、海岸から2km離れているが巨大津波は超えていた。
 阿武隈川河口付近の左岸に広がる水田地帯→地盤沈下で沼地状態、雨に濡れ災害直後を再現させたようだ。亘理・塩釜線の海岸方向(上写真の太平洋側) 車は農道沿いにガレキも随所に集められていた。
 仙台の顧問先に8時過ぎに入り、8:30-9:00社長様と懇談、9:00-12:00営業会議、13:00-15:00役員会議。一般道で仙台 - 矢板 - 日光 - 前橋 - 帰宅、日が変り1:00着。

 
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 被災地も梅雨明け(宮城県岩沼市);急ピッチで進む片付け 2011.7.16
 6時前に朝日山公園(岩沼市)着。ゼフィルスの観察より戻ると「みみ男くんが交通事故で即死、お店の奥様が目撃し連絡をくださり、妻が抱き抱え連れ戻り玄関で横たわっていた思い出がある。
 岩沼海岸付近の通行禁止が解除されていたので、二の倉工業団地へ、巨大津波で防風林は歯抜けに・・・・。
 県道10号亘理塩釜線は残骸を運ぶダンプで混雑していた。巨大津波の爪痕は雑草が伸び緑に代っていた。
 梅雨明け、地盤沈下した被災地に水溜りが目立つ。甚大な被害なのに予想以上に片付けが進んでいた。雑草で爪痕が覆い隠されたことでそう思ったのか・・・・被災地の皆様も雑草のように強く生きて頂きたい。津波で半壊した住宅地、新築中の家屋が目につく、顧問先営業会議でも「震災で壊滅的被害を受けたというのに仮店舗で営業を始め立ち直ってきている得意先も少なくない」との報告を耳にした。
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 思い出の走馬灯(宮城県仙南沿岸部);震災後の仙南沿岸部 2011.8.19
 197:30発、日光から逸れて「ツマグロキチョウとシルビアシジミ」の地に12:00着。本降りの中、なんとか撮影し国道4号を北上、矢板手前で車が大きく横揺れ、妻から「何処、震度5弱」との電話。
 白石で入浴と車中仮眠、翌朝5時前に旗巻古戦場後に着く。宮城を後にする際に記念植樹(2004.3.8)したミモザ、根付かず。会長様が翌年に植え直して下さったと風の便りで知る。土地に適応できなくミモザの姿はなく記念柱のみが迎えてくれた。
 今回の被災地視察は、今まで足を踏み入れてなかった福島県新地町釣師浜漁港、宮城県山元町坂元駅、宮城県仙台市名取川閖上大橋地区に重点を置いた。
 新地の国道6号沿いに津波に流された漁船、基礎部のみが残る壊滅状態の釣師浜漁港、JR常磐線坂元駅舎跡。
 亘理大橋岩沼側付近、修復が進む民家、矢の目端付近のガレキ処理は大分進んでいると感じた。
 仙台空港を過ぎた県道10号亘理塩釜線、津波に流され家に乗り上げた船が取り外されていた。閖上大橋を渡ると一般車は左折し国道4号へと誘導表示板が続く。道路脇に、自衛隊・ボランティアの手で片付けられた過程ゴミが幾袋も並んでいた。ダンボール箱に入れられた雛壇に眼が潤んだ。



 
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 あれから半年(宮城県仙南地域);復旧進む被災地の日の出 2011.9.17
 かつての居住地、岩沼市のショッピングモール駐車場で仮眠、まだ寝苦しい暑さが車中に篭るので時々エアコンを入れる。午前4時半、グラグラっと揺れる。後で分かるが震度3、その1時間半後にもまた地震があった。
 朝焼けが綺麗なので、居住地近くの阿武隈川河川敷にある阿武隈公園に移動し日の出を見ることにした。太平洋からの日の出を見ようと急いで亘理方面から阿武隈川河口に架かる阿武隈橋に向かった。橋を渡り左岸の堤防上に駐車した。250mmズームで河口を眺めると大きな波が押し寄せ何となく怖くなった。
 南浜中央病院は、津波が襲った状況がテレビ報道されたので多くの方の記憶に残っていると思います。被災前も防波堤があり、海岸線は遠浅の砂浜でした。防波堤工事が進み、内側には大きな土嚢袋が無数に積まれていた。防波堤の内側に砂地、海浜道路、防風林、貞山堀という海岸構造になっている。
 巨大津波の状況はテレビ報道で見ただけ。それなのに防波堤の先から聞こえてくる波の砕ける音に恐れをなしている。仙台平野の沿岸部は地盤沈下していると聞くが、この写真からは遠浅の海岸が消え陸地が隆起したかのように錯覚する。
 荒浜地区の新興住宅地で何年かの間に一気に家並みが増えたと記憶している。殆どの家が基礎を残し破壊され海岸まで見通せる状態になっている。この辺りは、4月に見ている。道路の両脇にガレキの壁が出来ていて道路も走り難かったが、こんなに綺麗に片付いている。
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 心痛む被災地へ(宮城県東松島市);奥松島に見る津波の爪痕 2011.10.15
 岩沼のAさんと22時半迄カラオケ。目的地へ、仙台から石巻街道(R45)を北上し三陸自動車道の鳴瀬奥松島IC近く吉田川右岸のパーキングに0時に到着した。夜明けまで横殴りの冷たい雨が吹き付ける。5時に発つ。
 石巻地区の地盤沈下は著しい。名取から新地の被災状況は、殆どが土台のみ残っている状態だった。それに比べると破壊力は少し弱かったのかな。北上運河の内陸側に広がる水田地帯は甚大度が高いと感じた。
 仙石線、のびる駅を同時刻に発車した2本の列車。石巻行は運良くやや高台で停車し津波の被害を免れた。仙台行は津波に襲われ脱線し、くの字に曲がった。乗客は近くの小学校へ避難、同時に津波が襲ったとか。名取から新地で見た津波による被災家屋と異なり壁が抜け家の形が残っている。想像だが、津波の直波が激しいと一気に壁が抜け、そこを海水が通過するので家の形が残るのだろうか。
 東松島市での甚大な津波被災地は野蒜地区。宮戸島も壊滅状態、死者も数百人出たとか、足を踏み入れることに躊躇した。何を物語るか、のびる駅前のバス停と、橋を渡った先に椅子が置かれ花が添えられていた。不思議なことに50cmほど土盛りした新築家屋が無傷なのに他は2階まで破壊している。松島の市街地を抜けたが沿岸部でも浸水はあるも破壊の爪痕は皆無に近かった。松島湾の島々が津波の威力を吸収したことで、松島町と塩釜市の沿岸部は不思議なくらい少ない被災で収まった。矢本町・成瀬町の顧問先の状況を見て、仙台の顧問先に7:15に着いた。会議を終え15:30に仙台を後に帰路に着く、0時少し過ぎ帰宅。往復の総距離は990km
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 鳥の海(宮城県亘理町);仙南沿岸部の被災復旧状況 2011.11.19
 岩沼で約1時間休憩し4時にR6を南下し亘理町に向かった。日の出は6時半頃、厚い雨雲が夜明けを一層遅く感じさせた。R6から鳥の海に向かう途中に亘理塩釜線から相馬まで浜沿いの道路がある。その交差点にあるコンビニで一休みする。それでもと相馬方向に車を走らせ長瀞地区まで行く。辺りは真っ暗で何も見えないが、路面の段差から感じ取れた。
 6時、ライトを点けないと被災地の道路は危険が多いので走れない。道路脇の家屋の被災状況も暗くて見えない。鳥の海公園まで車で行けた。建物の5階ほどの高さに積み上げられたガレキの山が防波堤のように見えた。道路ならびに周辺は想像をはるかに越えるほど片付けられていた。
 鳥の海公園を見て回った。ポツリポツリとコンクリート造りの建物が残るのみ、見渡す限り“河原状態”に化していた。時折、ライトを点灯した車がやって来た。ガレキの近くで停車し、しばらくして走り去る。台だけではない。もしかして、被災者の家族が避難所から“お参り”に来られているのだろうか・・・・。全て津波に流されてしまったが、道路脇の敷地内に一株の白い花が咲いていた。撮影してはみたがブレ写真になっていた。鳥の海周辺で気付いたこととして、殆どの電柱がまっすぐに立っている。亘理中学校の建物、走りながらの確認でよく分からないがブルーシートは1階部分のみ。2階以上はどうなったのかな。津波は一様な面状でなく渦を巻きながら押し寄せたのではと思える形跡が見受けられる。理由は、中学校より内陸側でも全壊家屋が多くあるのに道路を挟んだ南側は床上浸水程度かなと思える建物も多くある。
 気になっていた“鳥の海”(亘理町荒浜地区)を見て2つのことを感じました。その一つは、何処の被災地でも同じことですが津波の怖さを改めて感じたということです。津波の災害はリアス式海岸特有なもので平野部では“想定外の災害”だったのではなかったのかとさえ思いました。そして二つめは、復旧の度合いです。思っていた以上に片付いていました。この状況をみて被災者の皆様も、きっと大きな元気を受け取って頂けたのではないでしょうか。私は、そう思いました。頑張ろう東北、頑張ろう宮城、そして頑張ろう第2の故郷、新天地で私も頑張ります。
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 閖上漁港(宮城県名取市);仙台平野沿岸部の被災復旧状況 2011.11.19
 620分に鳥の海を後に亘理塩釜線を北上、岩沼市の沿岸部を抜け仙台空港を通過、名取川に架かる閖上大橋の手前を右折し閖上漁港まで約30分。閖上漁港も津波災害は甚大で先月まで一般車進入禁止であった。
 商店街を含め、ガレキが取り除かれた被災地は砂漠のよう。一瞬に何10兆円という国家資産を消し去った東日本大震災。自然の力の巨大さを改めて感じた。名取川の河口部、自然の高台など皆無、河口から3km地点の仙台東部道路は「災害時の臨時飛行場」の機能を有するとのことだった。「巨大津波からの非難場所」、3kmといえば40分かかる。それに登口がない高架道路にどう登ればよいのだろう。
 仙台の中心部と異なり高層ビルは1棟もない。また、津波の被害を免れたと思われる家すらない。逃げようにも何処まで行ったらいいのか・・・・。商店街で商売を営んでおられる多くの方は年配者のはず。非難する車で大渋滞。そこに巨大津波が襲ったとも報じられていました。名取川は勿論のこと、貞山堀も津波の流路になったようだ。被災地の被害状況からアスファルトの無力さを知った。津波は回転しながら進むというので、進行方向に直角に交わる道路は陸側が深く抉られ堀状になっている。道路の法面、陸側を斜面にすると道路破損も多少は抑えられるのではないだろうか・・・・。
 閖上漁港には知られている笹蒲鉾メーカーが2社ほどあったと記憶している。その工場や売店も跡形もなくなっていた。また、私がお世話になっていた会社の協力会社の工場もあったが、同様に消滅していた。渡カニやシャコエビを買いに来た鮮魚店もあったが、どの辺りなのか見当も付かない程に変わり果てていた。全てが流され建造物がなくなった閖上地区、こんなにも広かったと感じると同時に空しさが込み上げてきました。閖上漁港の街並みは陸地方向に約1km、海岸線方向に約2kmといった広さです。ものの数分足らずで写真のように変わってしまった。ここでも自然の脅威をまざまざと見せ付けさせられた。閖上漁港がある広浦、海側(無傷に近い)と陸側(著しい破壊)の壊れ方が著しく異なっている。段差は地震によるものではなく、津波の破壊力(水圧)によるものだと推察する。8ケ月が経ち、予想を上回るスピードで後片付けが進み、その甚大さも初めて目にする人にとっては感覚も異なるほどです。
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被災地で東北人の心の温もりに祈る 2012.3.16
宮城県石巻市から福島県相馬市まで “東日本大震災から一年後” を訪ねる
 石巻市
 仙台東部道路の岩沼から三陸自動車道の鳴瀬奥松島まで高速道を利用する。3月末までは一般車も無料。石巻中心街の女川街道を通過するも商店街には被災の痕跡は殆ど見当たらなかったが・・・・。
 
R398(女川街道)沿いの赤十字病院前を通過、R240(県道)との合流点で石巻漁港方向に右折する。石巻漁港を一見し日和大橋を渡り南浜町と門脇町に向かう。ここで凄まじい光景が目に飛び込んできた。
 日和山公園(石巻城跡)は旧北上川河口右岸にある小高い丘で、その南側石巻湾に面した一帯は津波に流され跡形もなかった。ガレキの撤去作業が行われているが、いくら手が合っても足りないという状況だ。石巻漁港の埠頭に行ってみた。まだ手付かずといった水産会社がいくつか見受けられた。時過ぎということもあるのか埠頭には災害対応の船舶が目立ち漁船の姿は目立たなかった。
 製紙工場脇の道路から東を眺めると大破した市営・県営住宅の先にガレキだけの南浜町が旧北上川まで広がっていた。被災地は何処も残酷さは同じ、そこにどれ程の家屋があったかで異なろうが全て消滅した後では悲惨さに甲乙は付けられない。
 日和山公園に上る細い道がいくつも見えた。門脇町や南浜町の皆さんは、ここを必至で駆け上がったのでしょう。この辺りの道は城下町の名残があり狭くて入り込んでいたと記憶する。最初は門脇町から日和山公園に上り眼下に広がる被災地を・・・・そう考えていたが被災地を見て気力を失せてしまった。
 石巻駅から内海橋までの商店街には船員さん達で賑わった飲食店街もかつては多かったと・・・・経営相談訪問で伺った時のことを思い出した。
 経営相談で伺った企業様の殆どは巨大津波に襲われた地区、ご無事なんだろうかと人影のない被災地で合掌し被災地石巻を後にした。
 
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 東松島市(旧矢本町
 前回この地を訪れたのは雨降りの早朝だったので粒子の粗い写真ばかりで被災状況は分かり難かった。住宅地の入口にガードマンが立ち大型ダンプが行き交っていた。やっとガレキ処理が始まったところと推察する。破壊された家屋の取り壊しは始まっていない。前回は水浸しだった住宅地もだいぶ乾いていた。ボランティアが入るのはもう少し片付いてからになるのだろう。当地も一見して新興住宅地と思える。
 ここ矢本町にも顧問先があった。社長様は契約切れの2年後にお亡くなりになられた。津波の被害が大きかった亘理塩釜線と奥松島パークラインは通い慣れた道だ。それなのに「ここは何処?」と考え込んでしまうほどの様変わりした被災地もある。
 東松島市(旧成瀬町
 矢本と同じ日に野蒜地区を訪れている。今回は奥松島パークラインで宮戸島の入口まで行ってみた。奥松島公園はガレキ置場になっていた。確か、この一帯には自由宅地があったはずだが・・・・。
 仙石線野蒜駅を同時刻に発車した運命の分かれ目になった上りと下り列車の話。前回は運良く高台で停車した下り列車を撮影した。野蒜小学校近くで脱線して“くの字”に折れ曲がった上り列車は悲惨さが激しかったので早々に撤去されたようだ。当地にも顧問先(津波が直撃)があった。前回から全く手付かずの状態なので気になる。宮戸島には松島四大観の一つ“壮観”という眺望で知られる大高森がある。
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 七ヶ浜町
 当地に行くのは初めてだ。現在ならびに過去の顧問先の社員様が多く住まわれている。また、多門山がある。そこからは松島四大観の一つ“偉観”の眺めがあるので何度も行ったことがある。
 仙台塩釜港や仙台新港から菖蒲田浜・阿川沼にコンテナが無数に流れ付いたという。環境豊かな汐見台は新興住宅地である。人口が少なく被災地としては知られていないが甚大災害地の一つである。菖蒲田浜の沿岸部は壊滅状態で犠牲者(津波の来襲予報で帰宅者が多かった)も非常に多かった地区だ。写真でも分かるように湾内の防潮堤(?)は数mと満潮対策程度のものだ。その内側に住宅地が広がっている。災害が起きて初めて「何故?」という場所が実に多いのが被災地の共通課題だ。
 仙台市(宮城野区
 仙台新港の南側、七北田川河口左岸は自然環境豊かな蒲生干潟で知られる場所だ。顧問先の社長様に乗せて頂き被災状況を一度見ただけなので初めて訪ねる被災地といえる。
 蒲生干潟へはロープが張られガードマンがいて立ち入りは不可能であった。砂浜を迂回しサーファーが10数人海に出ていた。泉ケ岳に源流を持つ七北田川の河口、甚大な被災地の中野地区は左岸、右岸は蒲生地区である。当地は津波に加え火災による被災地でもある。地盤は砂地、海岸線から約3km以内は津波による甚大な被災地である。この地帯は共通して新興住宅地になっている。津波から避難するには10km以上内陸に移動が必要。
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 仙台市(若林区
 震災直後の46日に訪問した激甚災害地の状況を比較掲載した。当地に限らずこの程度になっている。しかし、地域事情に寄るものか震災直後の状態と思える被災地も少なからずあるということを追記する。
 一戸たりとて家が破壊され流失してしまったことに対しての痛ましさは同じである。被災者ではないが当地で生活した者としての感じ方は・・・・。コンクリート基礎のみが残る被災地、全壊家屋が点在して残る被災地、コンクリート基礎ごと流失してしまった被災地。この順で心が重苦しく痛んだ。コンクリート基礎だけでも残っていて欲しい。私の個人的な感想だがそんな思いを被災地で感じた。発生原因から津波は天災、原発は人災といえることを改めて考えたい。
 名取市
 名取川河口付近に架かる閖上大橋を渡り五差路を左折する。今回は名取川沿いの道で閖上地区に向かう。深い思いの目印を連続させることで記憶は蘇る。それが消滅してしまったことが痛ましさを増した。
 閖上地区のガレキ撤去は早くから行われている。復興構想(住民不在の構想らしく圧倒的に反対が多いようだが)も描かれテレビ報道で中身を知った。復興目標は是非とも当事者に主権を置いたものであって欲しい。傍は国であっても(価値観が違うのだから)支援者の立場に留まることが肝要かと感じた。
 
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 相馬市
 時間の都合で岩沼・亘理・山元地区は取り止め仙台東部道路の名取から山元まで高速を利用した。国道R6の相馬バイパスで磯部地区まで直行した。被災地に入る前に百尺観音像にお参りした。
 磯部は沿岸部の集落であり松川浦の最南端に位置する。被災地の水田にコハクチョウが10数羽いた。当地はコンクリート基礎も疎らに残る甚大な被災地。余りにも重苦しくなり被災地は望遠レンズで撮影するに止め立ち入ることはしなかった。当地にも顧問先があり、津波による浸水域の先端部に当り被害は少なかったようだ。県道R74を走り松川浦に抜けた。サラリーマン時代に担当した事業部があるので松川浦のホテルで宿泊したり、その後には毛ガニを買いに来たこともあった。
 大州松川浦ラインは通行止、原釜地区の被災状況を見てから仙台東部道路の山元から仙台空港まで高速を利用し仙台市のホテルに直行した。被災地走行は約360km、家からの往復を含めると1210km走行になった。
 ここ相馬地区は、社会人となり就職した企業、配属先の本社東京工場が東北移転で、担当製品部門は宮城県角田市へ、それに伴い営業部門に移り営業技術へと新設部署に転出。その後、同列製品は福島県相馬市へ移転、その製品の営業技術も兼務することになり、角田・相馬へと出張することか多かった。
 そんな関係で宮城県岩沼市と同じくらい福島県相馬市の土地勘は明るい。むしろ、隣の新地町には住む可能性すらあり、罹災の可能性もあった地域なので他の被災地とは異なる「震え」を持って訪問した。


 
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 一年半後の被災地(宮城県岩沼市);大きく変わった故郷への思い 2012.9.15
 二の倉海岸に向かう。亘理-塩釜線を仙台新港まで走り「震災から一年半」を車窓から確認した。津波の浸水被害に遭った稲作地帯、利用価値が著しく低下し国有化される "かつての一等地"を眺め、 "列島改造" なる再開発の方向性について思い描いてみた。
 防砂林の松は、いずれ塩害で枯れてしまうだろう。震災直後と同じ異臭が未だに漂っていた。寸断された用水路の水溜りには油幕が張っていた。モンシロチョウが異常に多く舞っていた。
 仙台市若林区。津波に流された新興住宅地は地域ぐるみの移転が決定、整然と並ぶ電柱群に違和感を感じた。
 蒲生地区、継続居住を決められた修善家屋が目立つ。どう言葉で表したらよいか、今までと違った重苦しいものを感じた。故郷を破壊された思いから故郷を失った思いへと変わったのかも。
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 二年後の被災地;宮城県沿岸北部へ 2013.3.15
 道の駅「津山」 登米市(旧津山町)
 成瀬奥松島ICから三陸自動車道に乗る予定だったが渋滞が酷くナビ任せで農道を走った。古いナビなので迷いに迷った。道の駅「津山」に9:40着。この先10km足らずで津波被災地だ。
 南三陸町(旧志津川町)
 ホテル観洋はドライブ旅行で泊まったことがある。駐車場から志津川湾を眺めてみた。海抜24mにある当館も津波の浸水被害があったようだ。南三陸町(志津川町と歌津町)の市街地はリアス式海岸の湾部に開けている。いずれも防潮堤はあったが完全に破壊された。志津川病院と防災対策庁舎が痛々しい。防災対策庁舎の正面玄関跡に献花台があったので合掌。津波の高さは屋上より2mほど上という。
 本吉町津谷(気仙沼市)
 津谷、セミナー講師として招かれ「はまなす海洋館」で宿泊した。大谷郵便局付近まで津波の痕跡が残っていた。海岸から500~600mはあろうか。大谷海岸を走る国道45号、何も残っていない。
 鹿折唐桑駅(気仙沼市)
 大船渡線の鹿折唐桑駅前に漂着した大型漁船を撮っていると近くにお住まいのご婦人が話し掛けてきた。モニュメントとして残すか撤去するかについて問われ、「撤去」と言うと「私も」と笑顔で答えられた。
 気仙沼から南三陸町(歌津)
 気仙沼市街からの帰路、歌津大橋の破壊で迂回路へ、歌津の沿岸市街地も全壊し何も残っていなかった。
 登米市信金セミナーの事前打合せ、その日は「阪神淡路大震災」('95.1.17)、カーラジオで状況を聞きながらの往復、その記憶は真新しい。「みやぎの明治村」と呼ばれるほどに明治の歴史が残っている。大崎市へと大きく迂回し、かつての顧問先に寄り社長様と旧交を温め、仙台のホテルに着いたのは20時であった。
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 4年後の仙南沿岸部 2015.4.17
 仙台市宮城野区
 七北田川左岸の蒲生地区の津波被災地に行って見た。殆ど取り壊されているが、未だに被災時のままの姿を残す建物も点在していた。
 仙台市若林区
 県道10号亘理・塩釜線の海岸寄り荒浜地区、県道から500m程の所に「貞山堀」がある。海岸線までは900m程、ここにあった新興住宅地は消滅し非住居区域になっていた。
 内陸寄りは仙台平野の水田地帯になっている。土壌入替と区画整理は大分進んでいるが広大故進行中。
 閖上湊周辺(名取市)
 閖上港周辺(名取市閖上)はもとより閖上地区は・・・・難しい問題だと思うが「復興」を感じ取ることは困難な状態であった。
 あれから4年、1秒足りと時の流れは止まっていない。被災地から遠く離れた地で生活を送っている者の記憶は着実に薄まっている。ここ被災地に立ち辺りを見回してみたら・・・・時を刻む音は聞こえても復興が進む足音は聞こえてこない。



 
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 幻想の旅;奥の細道“石の巻”描き被災地  2017.4.14
 野蒜築湊跡 東松島市
 津波で全て流された成瀬川左岸河口(北上運河/貞山堀運河)、工事車両が踏み固めた管理路、手探り状態で行き着いた場所が「石上神社跡」、そこから徒歩で北上運河まで行ってみた。対岸の「橋脚跡」が残っていた。
 日和山公園 石巻市
 鳥居から門脇町に下る石段の参道から「石巻湾」を見渡した。「津波で流された街」が消えたまま。北上川河口に架かる日和大橋の彼方に牡鹿半島が見える。
 袖の渡り 石巻市
 頼朝に追われ逃亡していた義経が、石巻で北上川を渡る時に無一文なので袖の一部を切り取って船賃代わりに渡したことから「袖の渡し」と呼称。東日本大震災の津波で被災、6年経つも修復は・・・・
 大川小学校跡地(追波湾の湾奥部を襲った津波被災地) 石巻市
 校庭跡地の山際に献花台が見える。周囲は住宅街であったと思うが、小学校跡を残し全て更地になっていた。「東日本大震災」で起きた「巨大津波の激甚被災地」のひとつ、ここ「大川小学校」では児童74名・教職員10名が犠牲になった。
廃校に花菜供えし那為の痕
 雄勝湾 石巻市  北上川のヨシ原 石巻市
 雄勝硯で知られる雄勝町は巨大津波で壊滅状態、津波によって町の8割の住宅が全壊し、震災前に4千人以上いた人口は流出が止まらず、いまは当時の1/4の約千人となっている。
 震災前の北上川河口付近には、約180haのヨシ原が広がっていたが、震災により河口から約10kmにかけての約100haのヨシが失われた。震災が約6年経過しても、ヨシ原の大部分は再生していない。
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浜通り;陸前浜街道“帰還困難区域”を行く 2017.11.17
- 原発事故68ケ月後の帰還困難区域14.1kmを行く -
 原子力科学研究所 茨城県東海村  日立灯台 茨城県日立市
 「東海第二原発」は、「東日本大震災・津波被害」は辛くも避けることが出来たようだ。かつて、この前(国道245)を通過した時に「異様なプレッシャー」を感じたことを思い出した。人間の手でコントロールの効かないものは造るべきではないと、その時以降ずっと思っている。「福島第一原発事故」を契機に「全て廃炉」へと進む勇気が必要ではないだろうか、そんなことを考え抱く旅である。
 鵜の岬(伊師浜海岸) 茨城県日立市
 「国民宿舎鵜の岬」を一周する「森林浴の道」コース、1km程の早朝散歩を楽しんだ。
道の駅よつくら港 福島県いわき市  広野火力発電所 福島県広野町
 20091226日にオープンした道の駅、13ヶ月で東日本大震災・巨大津波で全壊した。2012811日にフルリニューアル、駐車場と道一本離れ不便さを感じる。いよいよ「帰還困難区域」へと向かう。海沿いの県道391を北上すると「広野火力発電所」の3本の煙突が見えてきた。1・2号機(1980)、3号機(1989)、4号機(1993)が重油・原油。5号機(2004)、6号機(2013)が石炭で総出力440kw
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 ヴィレッジ 福島県広野町・楢葉町
 「ヴィレッジ」は1997年に開設されたスポーツ施設であるが、東日本大震災・巨大津波で起きた福島第一原発事故に伴い2011.3.15-2013.6.30まで全面閉鎖し、国が管理する原発事故の対応拠点となっていた。2013.7に対応拠点が第一原発内に移転したことを機に、2018夏に一部再開、2019.4に全面再開を目途に再開に着手。
 常磐線木戸駅 福島県楢葉町
 「楢葉町」は、平成2795日に「避難指示解除」、現在の区域指定はなし。平成2951日現在の避難者は5,615人、帰還者854世態1,616人(22.3%)。常磐線「木戸駅」ならびに「竜田駅」は、東日本大震災・巨大津波の直接的被災はなかった。しかし、平成2795日までは「旧避難指示解除準備区域内であり運休していたが「木戸駅」が終着駅として運転していた。そして、「木戸駅⇔竜田駅」は平成2661日に運転再開、「竜田駅⇔富岡駅」も平成291021日には再開した。
 笑(えみ)ふるタウンならは 福島県楢葉町  常磐線竜田駅 福島県楢葉町
 「木戸駅」から「竜田駅」に向かう途中(海から直線で約2km、標高17m)に、楢葉町新拠点「笑(えみ)ふるタウンならは」という「戸建て型災害公営住宅」(復興住宅123戸)があった。
 天神岬 福島県楢葉町 高台での出迎え;福島沖を震源とする M4.8 の地震
 「天神岬」は高台。南方向に「広野火力発電所」、北方向に「断崖の海岸線」、右画像に見えるグリーンは「放射性物質の仮置場」である。
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 富岡駅 福島県富岡町  さくらモールとみおか 福島県富岡町
 「帰還困難区域」を抜ける国道6号は「駐停車禁止・窓開不可」それに「ノンストップで50-60km/h」、インターバル撮影(10sec)に任せ“ひたすら走る”、思い描くシーンが2-3枚撮れれば満点と、「さくらモールとみおか」から「浪江町役場」まで142枚、8枚に絞る。
 国道6号沿線の「帰宅困難区域」 福島県富岡町 - 大熊町 - 双葉町
富岡警察署北 大熊町郵便局付近 大熊町小入野付近 東大和入付近
 「富岡消防署北」、是より帰還困難区域、国道に面する住宅を閉ざすフェンスが痛ましい。
双葉町光善寺付近 双葉町新山下条付近 双葉駅入口付近
 国道に面する「住宅」「店舗」「脇道」、例外なく閉ざすフェンス群・・・・
 浪江町探索(其の壱) 福島県浪江町 国道6号高瀬-陸前浜街道-国道6
 浪江町探索(其の弐) 福島県浪江町 国道6号田中前-陸前浜街道(旧道)-国道6
 浪江町には、かつて勤めていた会社の衛星工場(相馬事業所)があり出張で来たことがある。「帰宅困難区域」の全面解除は2020年代との政府方針、既に13年、最大で震災時誕生者は成人を迎えることになる。
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 百尺観音 相馬市  大規模メガソーラー群 相馬市磯部
 相馬松川浦南部、「磯部」というだけあって「太平洋の磯」に面した集落である。独身時代、職場の文化委員として「松川浦」の磯部地区でのキャンプ講習(職場でのリーダー研修)に参加した記憶がある。東日本大震災の津波罹災で磯部地区(浜部)は流失。その田園部には大規模ソーラー。
 松川浦(晴風荘新館・ホテル飛天)
 「ホテル飛天」は、東日本大震災・巨大津波被災の復旧拠点として自衛隊の前線基地にもなった。
 松川浦
 「百尺観音」(12:15)で妻が用意してくれた昼食を摂った。係留されている漁船の反対側に「海鮮丼」の幟を目にした。食後間もないので「海鮮丼」は豪華でもあり「ランチ」(13:30)にした。熱々のカレイのフライがとても美味しかった。かつて、此処には鮮魚売場がありカニ等を買ったことも思い出した。松川浦を外洋から囲む渚ラインへの「吊橋」で磯部まで行けたが津波で流され今は通行出来ない。かつて、磯部の顧問先へは国道6号ではなく浜通りを走っていたので毎回渡っていた。右画像は原釜地区にある相馬港である。
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常磐線全線開通(茨城県・福島県);原発災害から満9 2020.3.20
 さて、3.11も過ぎ東日本大震災から満9年が経った。何で知ったか今になると判らなくなったが、「3.14常磐線全線開通」を知る。ならば、再び国道6号を北上してみようと決めた。大洗海岸の「磯前神社」が、日出ビューポイントであることを知った。予報では荒れ模様との事で一抹の不安があるも、24時に家を出た。4:00に到着、朝食ならびに仮眠で日出(5:40)を待つ。「五浦岬公園」(茨城県北茨城市)・「波立薬師・弁天島」(福島県いわき市)を経て「Jヴィレッジ駅」へと先を急ぐ。
 Jヴィレッジ駅(常磐線) 福島県楢葉町
 東日本大震災で全面閉鎖となっていた「J ヴィレッジ」のグランドオープンに合わせ開業(2019.4.20)した。激しい横風で普通列車2本の運休を知らせる表示、今回の「目玉」(撮り鉄)ゆえ落胆を隠しきれず。
 天神岬 福島県楢葉町
 第二原子力発電所(国道6号線信号) 福島県富岡町
 普通列車の運休は承知、特急列車は遅延しても動くのではと事前確認の撮影ポイントで待機すれど現れず。
 夜ノ森駅(常磐線)国道6号「月の下→夜ノ森駅」インターバル撮影  福島県富岡町 
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 夜ノ森駅 福島県富岡町
 「東口」は帰宅困難区域で閉鎖、「西口」はOK・・・・線路1本で放射線量が異なるのか・・・・
 夜ノ森駅(付近の町内撮影) 福島県富岡町
 駅周辺の住宅街、「信号は消え」「道路に面した家はフェンスで遮断され」「小路は通行禁止ガードで閉ざされ」、未だ「帰宅困難区域」である。「駅」は開業し、誰が「昇降」するのか理解不能。
 帰宅困難区域(国道6号線) 福島県富岡町→大熊町(第一原電)→双葉町
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 双葉駅(常磐線) 福島県双葉町
 東京電力福島第一原発事故で全域避難が唯一続く福島県双葉町で、一部区域(北東部の避難指示解除準備区域とJR双葉駅)の避難指示が34日に先行解除された。双葉駅の歩行者陸橋は記憶に残っている。この道路は、国道6号線だったと記憶するが不確かだ。岩沼に18年(1986-2004)住んでいた初期の頃だったと思うが、双葉海水浴場のキャンプ場で、熊谷・横浜時代に社宅が一緒であったK君夫妻とキャンプした記憶が真新しい。
 浪江駅(常磐線) 福島県浪江町
 「浪江駅」の一日平均の乗車人員は、震災前の2010年は734人、営業再開(2017.4.1)当時は18人、2018年は24人であった。ちなみに、2019331日に一部の全域避難指示は解除されたが、20202月までは「帰還困難地域」が町内の大半を占め、町内の居住人口は事故前より大幅に減少し、現時点で約1,100人余が居住している。駅の貼紙に「2020314日より無人駅」にと・・・・
 旗巻古戦場後(旗巻峠) 宮城県丸森町
 「旗巻古戦場保勝会」様協賛で標柱(ミモザアカシア巡拝記念植樹、ミモザは二世も根付かず)を2004年に建てて頂いた。柱元が朽ちて倒れていたが、まだまだ全体はしっかりしている。標柱を立て直し、クロちゃんの子、パンダちゃんの子「みみちゃん」が昨年(2019.1.5)亡くなったことを報告し、しばし合掌。クロちゃんの血は途絶えてしまった。標柱修理は出来るだけ早くやろう。
 今回の「旅の未知草」は、「旗巻古戦場跡」で幕を閉じた。仙台のホテル、16:56チェックイン、走行距離546km、翌2121:40帰宅420km、総走行距離969km

 
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 旗巻古戦場跡(宮城県);記念標柱修繕紀行 2020.11.20
 旗巻古戦場保勝会の会長様が建立してくださった記念標柱は約16年で地中部が朽ちた。朽ちた部分の切断除去で、固くて上質の木材を使って下さったと改めて感謝。この地に残してきた「家族たち」、それぞれの名を呼び「ありがとう」「また逢おうね」と合掌するのであった。
 この後、2022日大動脈乖離の発症を持って経営コンサルタントを卒業した。仙台出張の最後は、20211217日「浅香山;帷子ほして通里介李」であった。今にして、「記念柱」の修繕を済ませておいて良かったと思う。宮城に残してきた「家族」の思い出は、「故郷へと旅」のお伴をしてくれた「パンタちゃん」と「みみちゃん」の思い出とともに「蝶棲庵記」に込めてあります。
望月の牧なる原の深山辺に吾とたはふる百種の蝶
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