塩田城:城下町散策
2024.5.5 晴
 安曽神社;上田市古安曽
 東塩田の安曽神社は、鈴子・石神・柳沢の3地区の産土神、地域の守り神です。「安曽」の名前、このお宮の南側に聳え立つのは「安曽岡山」。ここ、塩田の地は大和朝廷時代から平安時代は「安宗郷」と呼ばれていた。信濃国の国造に任命された阿蘇の国からやってきた阿蘇氏一族がこの地に住んだことから名付けられたという。安曽神社の祭神は、大国主命と、その次男夫婦である建南方命、八坂刀女命です。出雲、諏訪大社系の神様です。
 鳥居から本殿までの間の参道に建つ「随身門」は、入母屋の楼閣造りで屋根を支える垂木は「扇垂木」という形式、柱を貫いた「貫」という横材の先には「木鼻」という彫刻が施されている。古建築でいう「禅宗様」(日本の伝統的な建築様式の一つで唐様ともいう)、建てられたのは江戸時代の終わりに近い文政7年(1824)。門の両側には「随身像」が安置されている。随身は、お宮を守るための神様。どちらも笑顔、虎の皮の敷物の上に座り、弓を手に矢を背負った武将姿。悪い者をここから先には通さないということでしょう。随身像の裏側に、白馬がそれぞれ安置されています。随身の神様を乗せるための馬でしょうか。こうした随身門があるお宮は、この辺ではここだけです。
 「和名抄」高山寺本・流布本ともに「安宗」と記し、高山寺本に「阿曾」、流布本は「安曾」と訓じている。「あそ」と称したことは疑いない。
 「信濃地名考」は「安曾郷廃して今本郷上下下郷三村あり、是れ則ち其地成べし、かの南にあそ岡の地あれば也」とし、「日本地理志料」はこの説を受けて「按図亘五加・十人・小島・保野・舞田・中野・八木沢・別所・山田・手塚・新町ノ諸邑、蓋其地也」とし、「大日本地名辞書」は「今、東塩田村・西塩田村・別所村、及び富士山村等」に当る。
 塩田の地は大和朝廷時代から平安時代は「安宗郷」と呼ばれていました。信濃国の国造に任命された阿蘇の国からやってきた阿蘇氏一族がこの地に住んだからついた名とも言われています。
 鎌倉道遊歩道;上田市前山(旧東前山)-古安曽(旧柳沢)
 鎌倉道遊歩道は前山地区から手洗池(柳沢地区)を一周し戻って来る約1.5kmの遊歩道である。右上の現在値から公民館まで450mのコース。その後は柳沢地区の鎌倉道が有ったと思える集落中心を横切る一般道を散策し旧鎌倉道を戻った。
 推定鎌倉道は、手洗池の中央付近を通っていた。丁度、祠のある辺りであろうと思う。前山側は、遊歩道より北側100mの畑の中を抜ける農道になる。
 手洗池の北方400mに「泥宮」がある。上田市の国分にある「信濃国分寺」と下之郷の「生島足島神社」、上本郷の「泥宮」そして「女神岳」。この4つは、信濃国分寺からだいたい西南西の方角に一直線に並んでいます。しかも、この線は「夏至の朝日」が昇る角度なんです。これが「塩田のレイライン」。もう一つあって、「安曽神社」-「前山寺」-「龍光院」-「塩野神社」-「中禅寺」も、信濃国分寺-女神岳ラインとほぼ平行の直線が引けるんです。(補足)

 
 柳沢集落;上田市古安曽
 北条義政は引退したものの、鎌倉との縁が切れたわけではなく、その子の国時、孫の俊時は、幕府の今でいう裁判官や大臣を務めていました。ご本人たちは幕府でのお勤めで塩田にいる時間はあまりなかったのでしょうが、それに代わる代官などが地元での仕事をしていたようです。いずれにしても、塩田と鎌倉の行き来は頻繁にあったと考えられます。また、塩田には安楽寺や前山寺など全国から僧が集まる「信州の学海」と呼ばれるようなところだったので、首都の鎌倉からお坊さんたちもたくさん塩田に来ていたでしょう。
 竹之内から東の方に道はのびて、今の手洗池の中を通り、というと池の中に道があったと思われそうなので注釈しておくと、塩田のため池の多くは江戸時代に築造されたり増築されたので、それ以前は、鎌倉時代にあったとしても小さなものだったのです。で、手洗池を通り、安曽神社や来光寺池、砂原池のあたりを経て丸子との境にある砂原峠に至ります。
 手洗池東端、南北中間地点に祠が有った所の柳沢集落西端(左上画像の池土手下)である。これより北へ70m(画像下方向)下ると別所丸子線に合流する。別所丸子線の路傍に鎌倉道(推定)標柱がある。これより東へ150m進むと左側に道祖神がある。右(南、山の手)に50m上る十字路があり、柳沢公民館が左側に見える。
 この道が柳沢集落の中心地を抜ける鎌倉道(旧)であろう。左折し東方へ170m行った所でUターンする。柳沢公民館を通り抜け手洗池下に戻る。鎌倉道(旧)を600m散策した。
 旧鎌倉道;上田市前山(旧東前山集落)
 手洗池の西側から前山地区(東前山)の西側に広がる田畑に旧鎌倉道跡が農道として残っている。突き当りの前山地区の「竹ノ内」に塩田北条氏館跡があったと考えられている。
 手洗池の北側を抜ける推定鎌倉道(別所丸子線)を別所方向へ、手洗池の西側に回り込む農道に入る。手洗池の西辺中央辺りから西に延びる畦道のような旧鎌倉道を進むと竹之内に着く。
 塩田城跡;上田市前山
 鎌倉時代の中頃、幕府の連署(執権の補佐役/副総理のような立場)という要職にあった北条義政が、突然鎌倉を出て信濃の塩田の地に入ったのは建治3年(1277)の事であった。以来、国時・俊時と三代57年に渡って塩田荘に館を構えた。その館跡は昭和50年代迄、弘法山麓北斜面に築かれていた「塩田城」であろうと考えられていた。
 ところが、昭和43年(1968)から52年(1977)にかけての数次に渡る発掘調査の結果、室町期以降の遺物・遺構は多量に出土するも、中世前期(鎌倉時代)の遺物・遺構は殆どしなかった。この発掘調査の結果と建武2年(1335)村上信貞が塩田12郷を領有している事を合せ考えると、塩田城は葛尾城を本拠とする村上氏によって構築され、村上氏重臣福沢氏が代官として200余年間に渡って居城した城であり、さらに戦国期の天文22年(1553)以降の凡そ30年間は武田氏の支配下におかれた城であると考えられるようになった。塩田城跡→説明文
 北条氏の館跡は、その後の調査・検討の結果、東前山集落の北突端部にある、小字「竹之内・道城・下木戸」、柳沢の「西畑大道上・西畑大道下」などの小字名が残る辺りの「竹之内」を中心とする場所であろうと推定されるようになった。「竹之内」は「館ノ内」の転化したもので、館のあった場所を物語る地名と言われている。
 小字「竹之内」の周りに、「大道上・大道下」の地名が残り、北側には地元で「鎌倉道」と呼ぶ古道が東西に通じている。南側は小字本町、東側は神戸川、西側は小字道城と字界を接している。
 ①「道城」は道場で、仏を祀り仏の教えを説く所であり、仏道を修行する場所でもあり、寺堂などがあったと考えられる。②「大道」は、その地域の幹線道路で中世の文書等でしばしば出てくる。③「木戸」は中世における城の入口に防衛のための柵に設けた門と言われ、東前山の「下木戸」は上木戸に対する下木戸と思われ、鎌倉時代の北条氏館跡と推定される「館の門」と言うより、塩田城の城下町の下の方、つまり北の出入口を固めた木戸と考えられる。
 塩田城の城下町;上田市前山
 塩田城・城下町の散策コース(Google Map)全2.4km1時間、塩田城跡入口駐車場より、「上町・本町・立町・竹之内」(城下町中央通り)と下り、ほぼ同じルートを引き返す。
 塩田城の城下町は、東前山の集落にあった。現在の東前山の集落は全くの農村地帯となっているが、中世にはこの地方の文化・経済等の中心地となった城下町として大変栄えていたと考えられる。城下町は塩田北条氏がこの地を去った後、塩田城とともに村上氏や、その代官であった福沢氏などにより、次第に形づくられていったと考えられる。この城下町は塩田城の北側の緩斜面一帯に広がっていて、南北700m、東西210mに及ぶ古い町割りをもつ、上町・本町・立町・横町などには、侍屋敷が立ち並んだり市場の賑わう規模の広い城下町であったことが調査・研究によっても明らかにされている。
 城下町に侍屋敷があったと推定される場所は、城跡の北側に造られた内堀(あじさい広場から龍光院山門へと抜ける道路の南側/山の手)の北側(里側)から下木戸(黄色に塗られた道路、県道82号別所-丸子線と交わる地点)に城下町中央を一直線に下る道路沿い上町・本町・立町(東前山の市神のある道路)であろうと考えられる。ことに上町は220mほどで、道の左右に井戸を持つ広い削平地が幾つも残っている。おそらく、家臣たちの住居であろうと推定される。それより下る本町・立町は合せて240間(430m)は、凡そ60間(108m)毎に地割りをし東西に小路を通し、その60間をさらに30間毎に小割(一般的の倍の広さは例をみない)をする珍しい姿が推考(立町の道筋では城下町の面影を残す)できる。これより推定すると、上町・本町・立町には少なくとも100戸を超える侍屋敷あったであろうと推定される。
 塩田荘のみならず小県郡を司った塩田流福沢氏の塩田城ならびに城下町、名残りを感ずるものはないが、塩田平から上田・真田を一望できる自然環境は残されている。村上義清の名は広く知られている。しかし、塩田福沢氏の名を知る人は極限られている。
 推定鎌倉道(別所丸子線)の北側一帯は「下城戸」
 鎌倉道に出ると道標がある。北北東350mに「泥宮」がある。左別所方面(西)に進む。左画像の左手は「竹之内」右手は「下城戸」、中画像の十字路は左方向は城下町中央通り、正面は「藤之木」、右画像は塩田城跡へと戻る。
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