信濃国小泉郷を訪ねる
2024616日(日)
 塩田神社(河合曽良の句碑);上田市小泉塩野2336 「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」(曽良)
 塩田神社のある山口地区一帯は、その昔「塩田村」と呼ばれていました。神社はその名を残し、山口の集落のほぼ中央に建てられている。祭られているのは、「古事記」「日本書紀」にも登場する海神の「鹽土老翁神」です。約400年前の建立と言われる旧社殿は、平成20年地区住民によって建て替えられた。入口の鳥居は当時のまま残されている。かつてお祭りに使った芝居(塩田歌舞伎)の背景画や幕が、現在も保存されているようです。社殿の裏には曽良の句に詠まれた沼もありましたが埋め立てられ遊園地になっています。
 石碑は、河合曽良が1702年頃に献納されたと伝承。曽良は上諏訪出身の俳人で、松尾芭蕉の弟子です。碑には「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」という曽良の句が刻まれています。曽良が芭蕉の「更級紀行」の跡をたどって「姨捨の月」を訪ねた折、上諏訪の生家への帰途、塩田神社へ立ち寄ったと伝承。
 弓崎神社;上田市小泉八幡山1311-
 小泉村日向小泉の東方、浦野川の左岸に鎮座する。通称八幡宮、祭神は誉田別尊・息長足姫命・玉依姫尊。創建年代は不詳だが、古来小泉庄の総鎮守とされる。古代東山道が小泉村から浦野川を渡って築地に至る地点にあり、その傍らに後期古墳と、埴輪片が発掘されている。
 創祀年代不詳。『小縣郡史』によると、奥州の賊に対する防衛として朝廷より派遣された官人が、鎮守の神として八幡宮を勧請した古社。その官人は藤原勝海の苗裔である出浦某とあるが、坂城町に居城した村上氏の一族である出浦氏の祖だろうか。古歌に、「弓楯爾 矢幡能神曾多知帯志陸奥治爾出浦廼里」とあり、当地周辺は出浦の里と呼ばれていたらしい。
 福田神社;上田市福田451
 福田郷(荘園)は、小県八郷の一つとして、その名は古く平安時代に由来しています。上田市の西部に位置し、浦野川と湯川の間に広がる粘土質の水田地帯であり、古来より旱魃の常襲地でもありました。
 そのため、第3代将軍徳川家光公の頃、寛永12年(1635)に築造の灌漑用ため池(宝池)と六ヶ村堰からの用水により稲作の栽培が行われてきました。
 「和名抄」高山寺本・流布本ともに「福田」と記し、訓を欠くが、「ふくた」と称していたものであろう。現上田市の西南部、浦野川と湯川の合流点流域の平坦地に福田という集落がある。「日本地理志料」ではこの福田を中心とし、神畑・吉田・小泉・上田原・築地・中之条・下之条・御所・諏訪形・小牧の諸邑をその地とする。「大日本地名辞書」は「今福田あり、小泉と併せ泉田村と云う此歟。されば、往昔浦野・室賀をも此郷内と見るべきごとし」と記す。「小県郡年表」は「東は上田原・保野よりして西は殿戸に至り、南は別所・野倉より塩田川を限りしなるべし」と述べ、「小県郡史」は、「福田を本拠として地勢上浦野川流域地方に当り、現今の川辺の西部、泉田・浦野・青木に及べるものの如し」という。
 旧倉沢家住宅;上田市築地314-2
 旧倉沢家住宅は上田市築地にある旧家で、江戸時代の17世紀中期から後期に建てられたと考えられる主屋など、県内で最も古い年代の建物が残されている貴重な民家で、長野県宝に指定されています。倉沢家は、大字築地にある旧家で、過去帳に記された先祖のなかには明暦元年(1655)に没した人があり、また、所蔵古文書のなかには、元和9年(1623)以降の築地村年貢催促状などがあるので、江戸時代初期頃にはこの地に住んでいたものと考えられます。
 倉沢家は享保9年(1724)に上田藩主から小泉組大庄屋に任命され、苗字帯刀を許されていました。所蔵古文書のなかに、享保8年から19年(1723-1734)までの家作普請帳があり、これらの普請は、大庄屋任命と関係があるものと考えられます。特に大庄屋任命以後の普請は、代官等を客として迎えたり、大庄屋としての格式を整えるためのものとみられます。現在の倉沢家の屋敷は、旧道から細い路地を入った奥まった所にありますが、元は旧道に沿った土地も屋敷地に含まれていたようです。
 東信地方の古い民家として知られている重要文化財の春原家住宅(東部町、推定
17世紀中期-後期)、旧佐々木家住宅(旧所在地八千穂村、享保18年頃)と比較してみると、倉沢家は、佐々木家よりも一時代古く、春原家とほぼ同時期の17世紀の中期から後期に建てられたと推定されます。客座敷の建設年代は、内部の意匠からみても、享保時代の建設と考えられ、家作普請帳のうち、享保12年(1727)のものが客座敷の建設を示しているのではないかと考えられます。客座敷は、十畳二室と八畳の「とりつぎ」があり、床の間や欄間等で意匠を整えたもので、大庄屋が代官等を接待するのに相応しい造りになっています。倉沢家の客座敷のように、江戸時代前期の民家の客座敷は、最上層の家のみが、別棟の座敷を建てるのが一般的でした。
 倉沢家の主屋は重文の春原家住宅や、小松家住宅(塩尻市、
17世紀後期頃)と並び県内では、最も古い年代に属しており、当初の間取りがほぼ復元可能である点や付属建物がそろっている点でも貴重な民家です。
※「とりつぎ」(取次);玄関でお客さんを迎える場所としてあったのが取次です。上がり框から座敷へと続く戸(舞良戸など)の間にあり、昔は畳が多かったようですが板間もあります。今は廊下と一体になっていることが多いです。
 小泉氏館跡;上田市小泉(遺構なし)
 グーグルマップに掲載されている「小泉氏館跡」に向かうも、遺構がないとのことで皆目場所を特定できない。この辺りと思える場所に上がってみる。大画像は上ってきた道を振り返ってのものなので、実際には右手にあたる。
 小泉氏館跡から更に上ると「高仙寺」(大日堂)参道杉並木の最下部の山門に行き着く。従って、「高仙寺」参道を下り切った山門の左下辺りが「小泉氏館跡」ということになる。
 予定していた「高仙寺」「大日堂」は、時間がなくなり別の機会にすることにした。