family historyRepⅡ
福澤家の歴史考(視野を拡げ)
 気候変動から読み直す日本史
 これまで人類は何度も気候変動を経験してきました。過去の気候変動が農業生産等にどんな影響を与え、その変化に社会がどう対応したかについて、古気候学と考古学・歴史学の協同による研究が始まっています。
 気候と農業の関係は、温暖だと農業生産力が高まり、寒冷では低下したと考えられがちですが、降水量も考慮に入れると単純ではありません。藤原氏による摂関政治が行われた10世紀*は、気温は温暖でしたが、樹木の年輪に含まれる酸素の同位体比から降水量を復元した中塚武の研究によると、千年単位でみても異常に少雨だったことがわかりました。温暖な気候は稲作に有利ですが、雨が降らなければ元も子もありません。
 考古学では10世紀*に古代集落の多くが消滅したことが判明していましたが、その原因が深刻な旱魃だったことがわかったのです。摂関政治ではこの事態に際し、地方を治める国司に大きな権限を与え、税収を競わせることで危機を克服しようとしました。国司は有力農民に田地の耕作と納税を請け負わせ、貴族や寺社の荘園を認可して農地の再開発を促して、土地制度は律令制から荘園制へと転換してゆきました。
 前述の「10世紀」は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。日本では平安時代中期に差し掛かるころである。律令国家体制を支えていた古墳時代以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた班田や戸籍による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司(受領)に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた富豪層を負名に編成し、田堵として公田経営を請け負わせる王朝国家体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として武士が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。
 11世紀後半からは比較的安定した気候が続き、大規模な再開発や荘園の設立も進みました。武門の平家も後白河上皇と結んで数多くの荘園を設立し、一族は高位高官に昇って栄華を極めました。しかし平清盛は後白河上皇と対立して幽閉したため、皇子の以仁王が諸国の源氏に蜂起を促し、治承4年(1180)から源平の争乱が始まります。平家にとって不運なことに、温暖多雨の気候が終わって寒冷・少雨に転じており、養和元年(-1181)にかけて「養和の飢饉」が発生しました。
 各地で蜂起した反乱軍に対し、平家は討伐軍を派遣しようとしますが、飢饉のために兵糧米を集められず、やっとのことで関東に派遣した軍勢も富士川の戦いで源頼朝らに敗れて、平家は滅亡への道をたどります。戦いの勝敗に気候変動が影響したのです。
 鎌倉時代には新田開発が進み、牛馬耕の普及等によって農業生産力は増しましたが、異常気象には勝てませんでした。寛喜2年(1230)の夏は異常な冷夏となり、新暦727日に雪が降り、百人一首の選者として有名な藤原定家も綿入りの衣を取り出し飢饉を予想して庭木を掘り捨て麦を植えています。この年から翌々年にかけて「寛喜の飢饉」という大飢饉になりました。さらに正嘉2年(1258)にはインドネシアのサマラス山の大噴火の影響で「正嘉の飢饉」が発生しました。現代でもフィリピンのピナトゥポ山の噴火の影響で1993年が異常な冷夏となり、タイ米を輸入したことを覚えておられる方も多いでしょう。
 30年弱の間に繰り返された飢饉によって多くの人々が亡くなり、食うために自分自身を売って下人になる農民が多く生まれました。それでも当時の朝廷や鎌倉幕府はこの危機に真摯に対応しました。朝廷は貞永元年(1232)に公家新制42箇条を発布し民への救援米の施しや病者や孤児の置き去りの禁止などを定めました。
- 1 - 
 鎌倉幕府は御成敗式目を発布し、逃散した百姓の財産や妻子の差し押えの禁止を定めたほか、追加法で飢人を下人にしても主人が亡くなれば解放し、流浪の飢人が山で芋を掘り川海で魚や藻を採るのを制止しないよう命じました。また幕府は文永元年(1264)に水田の裏作麦に課税することを禁じ、飢饉のリスクヘッジとして二毛作の普及を後押ししています。
 室町時代に入ると、耕地だけでなく周辺の山野も含めた土地利用の高度化が進み、のちの「里山」の原型が作られて行きます。しかし建築材や薪炭生産のための樹木伐採は森林の荒廃を招いたとみられます。14世紀末からは年々降水量が低下し、応永27年(1420)には旱魃による「応永の飢饉」が発生しました。ところが1423年からは一転して多雨傾向となり、気温も急上昇して1428年にピークに達しました。これは最近の気候のように集中豪雨が発生しやすい状態です。実際に東寺領山城国上野荘は14299月の桂川の洪水によって壊滅しています。この時期には米価も上がり、播磨国矢野荘での米価は1424年に1石あたり650文だったのが1427年には1300文になりました。正長元年(1428)には「日本開白以来、土民の蜂起、これ初めなり」と言われた「正長の土一揆」が勃発しますが、その原因の一つにこの異常気象があったことは間違いないでしょう。
 こののち気温は低下に転じ、「寛喜の飢饉」に近い水準まで下がります。長禄3年(1459)~寛正2年(1461)にかけて「寛正の飢饉」が発生し、3年目の京都での死者は82000人に及びました。しかし時の将軍足利義政がやったことは、粟粥の炊き出しをした僧に銭100貫文(約1000万円)を援助したぐらいでした。この6年後には守護大名や将軍家の相続争いから「応仁の乱」が勃発し、室町幕府の体制は崩れてゆきますが、その背景には飢饉に無策な支配層への失望が人々のなかにあったことでしょう。
 こうした歴史をみると、自然は気まぐれに試練を与えますが、それに当時の社会がどう対峙するかで、危機を収拾する、危機によって混乱に陥る、危機の克服のため社会が刷新されるなどの途が分かれたように思われます。
 飢餓の日本史より
 平安時代末期、世情の不安を背景に「六道思想」が流行しました。すべての生命は六道を輪廻するが、生前に罪を犯した人間は、そのなかの地獄道や餓鬼道に落ちるというものです。六道は上から「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」で、いわゆる人間世界の下には「苦の世界」が4つも広がっているのです。
 平安時代に作られた国宝『餓鬼草紙』はその思想を反映したものとされ、たとえば餓鬼のおぞましい姿が描き出されています。しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。『日本書紀』には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」とあります。欽明天皇28年(567)には「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」と、いきなり食人の記録が書かれています。
 養和元年(1181)には、京都で42300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の『方丈記』には「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり」とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。1230年から数年間続いたのが、「寛喜の飢饉」です。極端な寒冷気候で、全国的な大凶作に。『吾妻鏡』には、「今年世上飢饉、百姓多以欲餓死」寛喜3319日(1231)とあり、幕府は出挙米を拠出して救済に乗り出します。このとき、妻子や自分自身を「売却」する者が続出。幕府は当初これを認めませんでしたが、暦仁2年・延応元年(1239)「飢饉の際の人身売買は有効」としました。寛正元年-2年(1460-1461)には、風水害や疫病で「人民の2/3が死んだ」、『興福寺略年代記』飢饉もありました。
- 2 - 
 信濃国の戦国時代
 
高井郡;高梨氏
水内郡;高梨氏・村上氏
安曇郡;仁科氏
更級郡;村上氏
埴科郡;村上氏
小県郡;海野氏(真田氏)
佐久郡;望月氏
諏訪郡;諏訪氏
筑摩郡;小笠原氏
伊那郡;高遠氏

高梨氏;清和源氏井上氏一族
村上氏;河内源氏
仁科氏;桓武平氏
海野氏・望月氏;清和源氏の滋野一族
諏訪氏;諏訪大社の神官
小笠原氏;河内源氏
高遠氏;諏訪氏の一族
木曽氏;信濃源氏
室町時代(1336-1573
 小笠原氏が信濃国の守護になるが、村上氏等国人衆をまとめられず統治は不安定
・1400年;大塔合戦、村上氏・海野氏・高梨氏等国人衆が連合し小笠原氏に反旗を翻した
・1416年;上杉禅秀の争いを鎮圧した貢献で再び守護職に返り咲くも一時的
・1541年;海野平合戦で村上義清・諏訪頼重が小県郡に攻め込み海野氏ら滋野一族を駆逐、海野氏は没落、同
     一族の真田幸隆は箕輪城主長野業政を頼り落ち延びる
 海野平合戦の結果、小県郡を手に入れた村上義清の勢いが強くなり、信濃国で大きい影響力を持つようになります。 一方、隣国の甲斐では父信虎を追放した武田晴信が家督を継ぐと信濃国への侵攻を開始します。晴信は諏訪氏と諏訪氏の一族である高遠氏を滅ぼすと、のちに誕生した勝頼に諏訪氏を相続させ、諏訪郡と伊那郡を手に入れます。さらに佐久郡に浸出すると、望月氏を降伏させ配下に組み入れます。怒涛の勢いで信濃を席巻する武田軍に対し、更級郡、埴科郡、小県郡を領有していた村上氏がこれに対抗し、上田原の戦いで武田晴信を打ち負かしたのです。
 塩尻峠の戦い、武田の惨敗を好機とみた信濃守護小笠原長時は、諏訪郡に侵攻して武田の城を攻撃します。武田晴信も軍勢を率いて出陣し、1548年に塩尻峠で小笠原軍と激突し激しい戦いとなりますが、晴信の調略を受けた仁科氏など長時側の武将が次々に裏切り、小笠原軍は内部崩壊します。長時は居城林城を奪われ落ち延びて行きました。これ以降仁科氏は武田方となり、のちに信玄の五男盛信が仁科氏を継ぎ仁科盛信となります。
 砥石崩れ、上田原の敗戦で一時勢いを失った武田ですが、塩尻峠の戦いで勢力を回復すると村上氏の領地に再度侵攻します。村上義清はこれを迎え撃ち砥石城で戦闘が行われました。この戦いで武田晴信は再び村上義清に敗れ甲斐に逃げ帰ったのです。
 義清に二度敗れた晴信は、力攻めをあきらめ調略で村上陣営を切り崩しにかかります。このとき活躍したのが真田幸隆です。海野平合戦で領地を追われた幸隆は、武田に接近して失地の回復を画策します。小県にネットワークを持つ幸隆を配下にした晴信は、調略で村上方の武将を寝返らせ義清の勢力を削いでいったのです。配下の武将に次々裏切られた村上義清は長尾景虎を頼り越後に落ち伸びていきます。
 北信濃をほぼ手中にした晴信は1555年になると木曽郡に侵攻し、木曽義昌を服従させます。晴信は娘を義昌に嫁がせ、木曽氏を親族衆として配下に組み入れたのです。さらに、最後まで抵抗を続けていた高井郡の高梨氏も持ちこたえることができなくなり、越後に逃れて長尾景虎の庇護を受けることになりました。こうして武田晴信は念願であった信濃を手に入れたのです。
- 3 - 
 戦国時代 村上義清の時代
 村上義清は、文亀元年(1501)顕国の子として葛尾城に生まれました。「福澤家の先祖」(龍光院殿山洞源清大禅定門)卒より8年後、塩田福沢氏の記録前半より12年後(福沢氏の記録は41年途切れます)。義清は永正17年(1520)、19歳で家督を相続し葛尾城主になります。戦国武将「北信の雄・天才戦術家」の活躍が始まります。「葛尾城自落」の天文20年(1553)までの33年をみてみましょう。天文20年といえば、福澤家四世「光現院覺忠誉本居士」の妻「清光院壽覺妙相大姉」卒の年になります。
 どんな戦い方・戦利は何であったか
 私は昭和22年生まれ、小学校に上がる前は、その先にある保育園(真光寺)に通わせて頂いていました。片道2.2kmです。近所の同じ年の「郁ちゃん」と通った記憶はありますが、交互に仮病を使い途中で遊び保育園には行かずに時を見計らかって帰宅していたので保育園生活の記憶は極く僅かです。小学校に上がり低学年は小学校より西側に帰る3地区の「ガキ大将」でした。北側に帰る地区の子とは小学校のすぐ脇まで一緒です。道路が泣き別れる田圃中で、よく「喧嘩」(悪ふざけ)をした記憶があります。決まって「投石」が届くか届かないかの境界辺りで「石投げ」をしました。ある日、誰が投げた石か判りませんが、私達から相手方に飛んだ石が男の子の頭に当り怪我を負わせてしまいました。翌日、学校から呼び出された母が「ガキ大将」の責任として叱られ相手方の家にお菓子を持って侘びに行った記憶があります。
 戦国時代の「戦い」は、NHK大河ドラマのような格好いいものではなかったようです。領内の武士・農民総出、武士は刀や弓、農民は鎌や竹槍を持っての戦い。その前哨戦は「投石」、まさに前記の「喧嘩」ですね。そして、「戦国の争乱」には暗黙のルールがあったようです。地域の領主であっても、危なくなったら手を上げて(降参)しまえば大抵助かります。もし降伏するのが嫌なら逃げてしまえば(自落)いいのです。「去る者は追わず」ここでお終い。往生際が悪ければ、ルール違反と見做され「皆殺し」が待っています。「皆殺し」も武士の範囲で農民まで及ぶことは稀なことのようです。あれだけ「城落」を成し遂げた武田信玄でも「皆殺し」は3城ほどと記録されているようです。武田信玄は、地元衆(農民)まで皆殺しにしたと伝えられていますが、基本域に農民には手出しをしていないようです。
 戦国大名が軍事行動を起こす時には「利益」(戦利)で配下の者たちを奮い起こし、その行動が正しいものであると大義名分を示し、さらに神さまも味方してくれていると精神的に安心感を持たせるなどして参陣する者たちを奮い立たせるようです。武田信玄は、信濃国が自分の思う通りになったら相応の土地を与える(知行)ぞと書面に書いて朱印を捺して(約束手形)家臣にばらまいていたようです。
 そして、戦争に行って戦功をあげ味方が勝てば、武士たちは領地がもらえます(知行宛行)。一方、農民たちは適地での略奪による収入となります。百姓たちは無理矢理に財産を奪い取って帰ります。戦勝の勢いに乗って敵方から略奪したものは取った者の利益になります。その時の相手が百姓家だったら特別な財産はないでしょうから略奪品は人(奴隷)になります。中世は奴隷制の時代でした。武田氏の志賀城攻撃の際には、甲州勢はお城にこもっていた大勢の人たちを連れ帰っていました。農民は殺さないと前述していますが、領地を奪いとっても耕す農民がいなければ無価値です。農民から年貢を取ればよく、皆殺しにしたら元も子もなくなってしまいます。
 戦国武将が目指すもの
 さて、戦国武将が戦う目的は何であったのだろうか・・・・、巻頭で記した「飢饉」から領民を救うことだったのだろう。「寒冷化」から「温暖化」に変わる中で「不安定」な気象環境で「作物」が思うように獲れない。作物の品種改良は何十年もかかる。「飢饉」から領民を救うには、手っ取り早い「略奪」しかなかったのだろう。「領地」それもなるべく肥沃な土地をを求めて侵略する。「領地」を確保したら、そこで「作物」を生産する「農民」が必要である。だからこそ、人の命を奪うことなく領地を奪うという政策をとったのだろう。
- 4 - 
 坂木村上氏の流れ
 村上氏はその出自(しゅつじ;己の出た所、出身地、生まれ)をまったく異にするものが各地に多く散在している(村上氏に限らない福沢氏とて同じ)が、戦国武将「村上義清」を出した村上氏は清和源氏頼信流といわれている。『尊卑分脈』によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任らの兄弟があり、そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったという。顕清の子が為国で、以後、代を重ねて戦国武将の義清へと続く。もとより、そのような所伝があるだけであって、史料的な裏付けになるものは見当たらない。村上氏の系図は各種伝わっているが、それぞれ異同が少なくない。それらは、『尊卑分脈』にみえる信泰の子(信貞)あたりから少し違う系譜(継承の無い系譜)になっている。
 [源頼清-仲宗-仲清-盛満-為国-安信-信村-胤信-信泰-信貞-師国-満信](不詳)[政清-政国-顕国-義清]・・・・政清の父が突然出てきている。
 塩田北条氏と村上氏の頭領村上信貞の関係・・・・村上福沢氏と塩田福沢氏と福澤家の先祖の関係
 村上義日(義光、鎌倉時代末期の武将で父は信泰、弟に国信および信濃村上氏棟梁/頭領の信貞)の弟とされる村上信貞は信濃国にあって、建武2年(1335)諏訪氏の支援を得て蜂起した北条高時(鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行(鎌倉時代末期から南北朝時代の武将)に呼応する信濃の北条党鎮圧のために、「信濃惣大将」として信濃各地に出兵して活躍したことが『市河文書』などから知られる。この時、塩田北条氏は鎌倉に上り幕府方として戦い一族と共に滅亡した。
 その後、後醍醐天皇に叛した足利尊氏に属して、箱根竹の下の合戦には尊氏の弟直義の軍に加わって新田義貞軍を撃破する戦功を立て、小県郡塩田庄を宛行われたという。以後、信濃守護に任ぜられた小笠原貞宗とともに、信濃の足利方の武士を率いて国内の北条党一掃のために奔走した。このように村上氏の行動は南北朝の内乱期、北条氏およびその与党討伐を基本的な立場としたことから、後醍醐天皇の南朝方というよりは尊氏の北朝方に政治的去従を移し、信濃守護小笠原氏と肩を並べる勢力を築きあげるに至ったのである。
 信貞のあと、信濃村上氏の嫡系は子の師国その子満信へと伝えられた。しかし、師国・満信父子の代に、室町幕府が国内統治の体制を幕府-守護体制による支配へと整備されていくにつれ、守護の管国領域支配権は強化されていった。それにつれて、村上氏の持つ信州惣大将の地位は微妙なものとなり、ついには一国人領主として、近隣の高梨・嶋津氏らの国人層と同心して守護体制に反抗する姿勢を顕わにした。
 それは、小笠原氏のあとを受けて信濃守護に任ぜられた斯波義将への実力行使としてあらわれた。至徳
4年(1387)、師国は守護代二宮氏と北信濃の諸所に戦った。子の満信は反守護勢力の盟主となり、応永6年(1399)、斯波氏に替わって信濃国守護職に補任された小笠原長秀への反抗・対立の姿勢をとった。翌7年、守護方と国人勢力とは篠ノ井で合戦におよび、守護方は散々に敗れて長秀は命からがら京都に逃げ帰り、守護職を罷免された。信濃史に名高い「大塔合戦」である。
 永享53月(1433)、守護小笠原政康と村上中務大輔が合戦におよび、村上氏は鎌倉公方持氏に加勢を求めた。しかし、管領上杉憲実の諌言により持氏は出兵を取り止めた。これが原因となって公方と管領との間に不和が生じ、関東は大乱となった。「永享の乱」である。乱は幕府軍に敗れた公方持氏が自害して終熄したが、永享12年、持氏の遺児を擁した結城氏らが挙兵し「結城合戦」が起こった。この合戦に信濃守護小笠原氏は、州の武士たちを従えて出陣したが、そのなかに村上氏も加わり室町政権=守護体制下に組み込まれていたことが知られる。しかし、守護体制下に至るまでの村上氏は幕府と対立する鎌倉公方足利持氏と通じて、小笠原政康と連年にわたって戦った。このような村上氏の幕府体制への抵抗姿勢は、信濃国内における同氏の存在を危うし、それが世代交代という政治的配慮をとらせるに至ったようだ。信貞の孫満信の消息が応永10年(1403)をもって跡絶え、義国の子とされる頼清の名があらわれてくる。頼清は永享9年(1437)、自ら足利将軍義教のもとに出仕している。おそらく、濃村上氏は信貞系から信貞の弟の義国系に交替したとみられる。それを裏付けるように、この時期の村上氏の系譜はかなりの混乱を見せている。
-5 - 
しかも、『尊卑分脈』の村上氏系図には義国が記載されず、村上氏の世系をたどる上で相当の困難さを残している。さらに、村上信貞が戦功の賞として宛行われた塩田荘が、文明6年(1474)ころには頼清の孫と推定される政清の領有下に置かれていたことが『諏訪御符礼之古書』に記されており、これからも信濃村上氏の嫡流の系譜、所領領有関係が、信貞系から義国系に移っていたことは確かなようだ。加えて、応仁2年(1468)、政清は平安時代末期の村上盛清以来、村上氏発祥の地としてきた更級郡村上郷から、千曲川東岸の埴科郡坂木郷に居を移して本拠としているのである。こうして、坂木郷を本拠とした村上氏は、同郷に近接した小県郡海野荘の海野氏を攻めてその所領を奪うなど、戦国乱世を目前に控えて武力による領域支配を押し進めていった。政清のあとは政国が継いだが、父政清が海野領に侵攻したとき、政国も軍に加わり海野氏幸を敗死させたことが『諏訪御符礼之古書』などに記されている。政国の子顕国の事蹟については史料を欠いて、不明な点が多いが、おそらく坂木郷を根拠地として埴科郡制圧を進めるとともに、村上氏勢力の整備と拡充を計った。
 顕国の子として戦国村上氏の家督を継承した義清は、坂木郡内の葛尾城を居城にして領土拡大を画策し、天文10年(1541)、甲斐の武田信虎と謀って海野棟綱を攻め海野一族を上州に追い払った。義清の代で、村上氏は北信濃四郡の強豪としてその武威をおおいに高めた。その後、甲斐の信虎はクーデタによって駿河に逐われ、武田氏の家督を晴信が継ぐと、村上氏は小笠原・諏訪氏と結んで武田晴信に先制攻撃をかけたが武田勢の攻勢によって退けられた。以後、晴信は信濃侵攻を急ピッチに推進、信濃の諸豪は晴信の攻勢に晒されることになる。天文117月(1542)、諏訪の大祝諏訪頼重が攻め滅ぼされ、晴信の部将板垣信形が諏訪郡代となって、諏訪を治めた。これに対し諏訪氏の一族高遠氏が諏訪回復を目指して、諏訪に攻め込んだが武田軍に敗れ去った。天文14年になると、晴信は府中および伊那に進出し藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。
 義清は信濃各地を制圧する晴信の行動に危機感を深め、天文17年(1548)、信濃に進出してきた武田信玄と上田原で戦い、信玄の宿老板垣信形・甘利虎泰らを討ち取り、信玄自身にも手傷を負わせる大勝利を得た。この勝利によって、義清は小笠原氏・仁科氏・藤沢氏らと結んで諏訪に侵攻したが、晴信によって退けられた。同19年、晴信は小笠原長時を攻め、敗れた長時は義清を頼って落ちてきた。晴信はさきの上田原の合戦での雪辱を果たすべく、義清軍が集結する戸石城に寄せてきた。世に「戸石城の戦い」と呼ばれるこの合戦は8日間も続いたといわれ、この戦いがいかにすさまじいものであったかがうかがわれる。この合戦でも義清はたくみな駆け引きをあらわし、武田軍を打ち破り、信玄は横田高松をはじめ戦死者一千余を出して退去していった。
 信玄との二度にわたる合戦に勝利した義清であったが、天文
20年、わずか1日で難攻不落といわれた戸石城が落城する。これは、武田方の部将真田幸隆の知略によるものであった。幸隆は村上同盟軍である高井郡の高梨政頼、埴科郡の寺尾一党に対し、利をもっての切り崩し作戦を行い義清の孤立を謀った。幸隆の作戦は成功し、戦いもなく戸石城は武田氏の手中に落ちた。この事態に接した義清は本城の葛尾城で地団駄を踏んだだろうが、いかんとも為し難く、上田原・戸石城で打ち立てた輝かしい勝利も、利に惑う人心によってはかなく崩れてしまったのだ。このとき、義清が「武田には戦で勝ちながら、謀略に負けた」と語ったかどうか。以後、戸石城は北信攻略を目論む武田方の強力な拠点となった。それに変わって、村上方の戦意は喪失する一方となった。それを見てとった信玄は、天文22年、葛尾城に攻め寄せ、義清はついに支えきれず居城の葛尾城を失い、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに走り復領を依頼した。これがひとつの原因となって、信玄と謙信による川中島の戦いが繰り広げられることになったのである。
 川中島の合戦は前後5回にわたって行われたが、上杉・武田の両氏ともに決定打のないままに合戦は終わった。川中島の戦いは戦闘そのものは両者互角であったが、北信濃の地は武田氏の領国に組み込まれてしまい、義清ら信濃国人衆の旧領回復の願いは達せられなかった。その後の義清は、謙信との間に旗下的関係となり謙信の庇護を受けて、根知城五万石を与えられた。信濃の旧領回復の宿願は子の国清に託して天正元年(1573)に越後の根知城で死去したと伝えられる。義清のあとを受けた国清は謙信から上杉一族の山浦氏の名跡を与えられ、元亀年間の謙信と徳川家康の和親締結の折に、謙信側近の将として活躍し重用されるようになった。
- 6 - 
 塩田福沢氏(前期) 文安5年(1433)-明応2年(1493)福澤家初代先祖の生涯と一致
 村上義清は未だ生まれていない。従って父・顕国、祖父・政国、父との説がある政清の時代になるが、その記録は殆ど見当たらない。以下は「武家家伝・村上氏」(播磨屋)より転載
 永享53月(1433)、守護小笠原政康と村上中務大輔が合戦におよび、村上氏は鎌倉公方持氏に加勢を求めた。しかし、管領上杉憲実の諌言により、持氏は出兵を取り止めた。これが原因となって公方と管領との間に不和が生じ、関東は大乱となった。「永享の乱」である。乱は幕府軍に敗れた公方持氏が自害して終熄したが、永享12年、持氏の遺児を擁した結城氏らが挙兵し「結城合戦」が起こった。この合戦に信濃守護小笠原氏は、州の武士たちを従えて出陣したが、そのなかに村上氏も加わり、室町政権=守護体制下に組み込まれていたことが知られる。
 しかし、守護体制下に至るまでの村上氏は、幕府と対立する鎌倉公方足利持氏と通じて、小笠原政康と連年にわたって戦った。このような村上氏の幕府体制への抵抗姿勢は、信濃国内における同氏の存在を危うくするものであり、それが、世代交代という政治的配慮をとらせるに至ったようだ。そのことは、信貞の孫満信の消息が応永
10年(1403)をもって跡絶え、義国の子とされる頼清の名が現れてくることに伺われる。
 頼清は永享
9年(1437)、自ら足利将軍義教のもとに出仕している。おそらく、信濃村上氏は信貞系から信貞の弟の義国系に交替したものとみられる。それを裏付けるかのように、この時期における村上氏の系譜はかなりの混乱を見せているのである。しかも、『尊卑分脈』の村上氏系図には義国が記載されず、村上氏の世系をたどる上で相当の困難さを残している。(塩田城福沢氏の最古記録は文安5年/1448、当記事の11年後、福澤家初代先祖卒より56年前)
 さらに、信貞が戦功の賞として宛行われた塩田荘が、文明
6年(1474)頃には頼清の孫と推定される政清の領有下に置かれていたことが『諏訪御符礼之古書』に記されており、これからも信濃村上氏の嫡流の系譜、所領領有関係が、信貞系から義国系に移っていたことは確かなようだ。加えて、応仁2年(1468)、政清は平安時代末期の村上盛清以来、村上氏発祥の地(都から配流)としてきた更級郡村上郷(村上村、上平)から千曲川東岸の埴科郡坂木郷(坂城)に居を移して本拠としているのである。
 こうして、坂木郷を本拠とした村上氏は、同郷に近接した小県郡海野荘の海野氏を攻めてその所領を奪うなど、戦国乱世を目前に控えて武力による領域支配を押し進めていった。
 政清のあとは政国が継いだが、父政清が海野領に侵攻したとき、政国も軍に加わり海野氏幸を敗死させたことが『諏訪御符礼之古書』などに記されている。政国の子顕国の事蹟については史料を欠いて、不明な点が多いが、おそらく坂木郷を根拠地として埴科郡制圧を進めるとともに、村上氏勢力の整備と拡充をはかったものであろう。この顕国の子として戦国村上氏の家督を継承したのが義清であった。
 長福寺の開基は、康保2年(965)に修行中の身であった祐存上人が信州塩田の霊峰独鈷山の東北(鬼門)の位置にあたる神仏の功徳あふれる生島足島の神域に近遠者の祈りの霊像として独鈷山守り仏である瑠璃に輝く薬師如来(独鈷山麓にある中禅寺の薬師本尊)を勧請し奉安したのが始まりであると今に伝えられております。創建当初は、西隣に対のかたちにて「神宮寺」があり生島神の別当として仕え、長福寺は足島神の別当として仕えていました。明治の廃仏毀釈により「神宮寺」は廃寺となり、仏、仏具等は一部は長福寺に預けられ、他は各寺院に配られました。長福寺は、癒しのお薬師さまとして、その大いなる救済の本願によって苦しみのない人生と安らかな来世を願う人々の祈りの聖地となってまいりました。
 史学者の先生方が結論付けられた「定説」に異議ありと声を上げるのではなく、「福澤家の歴史」から考察すると、「坂木村上氏」より「福澤家の歴史」は古いのではないかと前文書から推察されます。一方、村上郷にある「福沢の地」は「村上福沢氏」より後に付与されたものと類推されます。その時期は「村上氏」が「村上郷」から「坂木郷」に移った時期が相当と考えられます。また、「福澤家」の通字の「時」からして、「塩田北条氏」の家臣であったのではなかろうかと推察されます。
-7 - 
 塩田福沢氏は・・・・塩田北条氏の家臣ではないかという説(筆者考察)
 北条義政の塩田入は建治3年(1277)、4年後の弘安4年(1281)に死去、北条氏滅亡が元弘3年(1333)までは国時・俊時が52年間、鎌倉でのお勤めをしながら塩田城主を兼務、留守中は「代官」が代理城主を務めた。そこで「代官は誰?」なのか・・・・。
 塩田城における初代北条義政の記録  1277-1281 4年間
 建治3年(1277)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。弘安4年(1281)、義政は塩田荘にて死去、享年41歳。
 信濃史料に2件の義政関連文書記録
建治03 1277 北條義政、出家して鎌倉を出奔す、尋で、善光寺に参詣の後、小県郡塩田庄に籠居す、
弘安04 1281 北條義政、小県郡塩田庄に卒す、
 塩田城における北条国時・俊時の記録  1281-1333 52年間
 義政-国時-俊時と356年にわたり塩田庄に大きな勢力を持ち、特に国時・俊時は幕府でも重要な役目を務めていたことは諸史料の証明するところである。
北条国時;徳治
2128日(1307)、二番引付頭人に就任、応長元年1025日(1311)、一番引付頭人に就任。正和2年(1313)一番引付頭人を辞任。
北条俊時;元徳元年
1111日(1329)、評定衆に任じられ、同3123日(1331)、四番引付頭人に就任した。元弘3522日(1333)、鎌倉幕府の滅亡に伴い死去。『太平記』巻十「塩田父子自害事」によると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り自害して果てた。
 信濃史料に3件の国時関連文書記録
正中02 1325 東寺公文大江某、山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す、小県郡塩田庄、東寺被物月宛を課せらる、鹽田庄地頭関東武蔵左近大夫(北条国時)将監請所
元徳01 1329 幕府、諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め、併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す、御射山左頭、塩田庄半分陸奥入道(北条国時)、
元徳02 1330 塩田国時、明年諏訪社上社七月頭役勤仕のため、所領小県郡塩田庄に赴くにあたり、金沢貞顕を訪ふ、
 北条国時・俊時は、この多くを鎌倉に滞在し幕府の要職に就いていたことが諸記録から判る。不在時は「代官」が、その職を務めたとも・・・・
 「福澤家の初代先祖;龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門」は、明應2520日(1493)卒である。仮に享年60歳としよう。20歳(1473)から正中2年(1325)の差は148年ある。私の父は1900年生まれ、そして私は1947年生まれである。この差は47年、前述の148年の1/3、曾祖父に相当する。福澤家初代先祖の曾祖父の時代である。塩田福沢氏「福澤入道像(阿)何」、諏訪社上社御射山祭頭役」文安5年(1448)から123年前、祖父・曾祖父、同じようなものだ。「福澤家」は「塩田福沢氏」と極めて近い関係にあると言える。
 「村上福沢氏」か「北条福沢氏」か・・・・
①「村上福沢氏」定説
 通説だと「福澤家の初代先祖」(龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門)と、文明
5年(1479)諏訪社上社御射山祭頭役を務めた「福澤五郎清胤」は同一人物である可能性は限りなく高いと言えよう。
②「北条福沢氏」異説(筆者考察)
-8 - 
 考察要件
村上福沢氏 北条福沢氏
出自(しゅつじ) 坂木郷(家臣時代の現住所) 塩田庄(本籍地)
主君 坂木村上氏 塩田北条氏
城代 村上氏への忠誠 塩田城代官への誇り
最古の史料 入道像阿御射山祭頭役 文安5年(1448 初代先祖墓 明應2年(1493
相関 福沢五郎清胤 文明11年(1479 龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門 明應2年(1493
通字 胤、顕=坂木村上氏 福沢清胤、福沢顕昌 時=北条氏 八世より俗名(福澤市兵衛廣時)
古文書・戸籍の姓 福沢→福澤 福澤→福澤 ※昭和の頃、福澤より福澤に変更
地名⇔姓 福沢川・福沢橋 不詳
菩提寺 坂城町 福泉寺
福沢薩摩守政隆創建寺
→福泉院殿佛光法隆大禅定門
神宮寺(生島足島神社別当)→法樹院(廃仏毀釈)
龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門
→龍光院は塩田北条家の菩提寺
考察 ・地名は後からでも付与可
・福澤家(北条福沢氏)は本家、村上福沢家は分家
 史学専門家コメント
 文安(1448)以降、天文22年(1553)までの百年余の間の当主(塩田福沢氏)が七代にもなる。やはり兄弟間の相続が多かったことなどが想定される。→この兄弟間の中で「五郎清胤⇔山洞源(玄)清」があっても不思議ではない。
 その他
 主君と家臣、何であれ主君の方が表に出るのは当たり前のことですが、古文書を始め村上義清に関する史料は武田信玄の比ではありません。文書によるコミュニケーション力、村上義清(3点)に対し武田信玄(1500点以上)。信玄は何かあるとき文字を媒介にして家臣や領民を支配していた。これに対し義清は殆ど文書を媒介に支配していないと言えます。ところで、塩田福沢氏は15点以上の古文書が残っています。
 一方、塩田福沢氏は、「塩田城」・「砥石城」(出丸)・「三水城」(別称福沢城)、「福沢氏館跡」(坂城町)、内村・尾山領等依田川流域まで領地拡大、福沢氏一族ならびに家臣は高野山蓮華定院の旦那(檀家)、更に家族の状況(塩田城御北、大万殿)まで古文書が残るのは領主階級でも珍しい。「塩田前山福沢殿局」、前山は塩田城の城下集落、そこに福沢氏の奥向きの女性が住んでいた。
 また、福沢氏家臣「塩田以心軒真興」(塩田以心、塩田肥前守、西光寺住職)が塩田城落城後の武田氏支配下の塩田に居住していた事実も判明しています。塩田福沢氏の名が残っていないと言いましたが、こうしてみると「まあまあ」、残っていますね。
-9 -