family historyⅠ Fukuzawa
福澤家の歴史
タイムスリップの目標 家系図の先祖;承応345日(1654)→幾年前の繰出位牌を探し出せるか
 ルーツ探索の旅マップ (南北朝時代は北朝で記す) 新たに繰出位牌より見付けた先祖  最古の何某 生誕
鎌倉 1299 4 正安 1350 3 観応 1452 4 享徳 桃山 1593 5 文禄 1744 5 延享
1302 2 乾元 1352 5 文和 1455 3 康正 1596 20 慶長 1748 4 寛延
1303 4 嘉元 1356 6 延文 1457 4 長禄 江戸 1615 10 元和 1751 14 宝暦
1307 3 徳治 1361 2 康安 1461 7 寛正 1624 21 寛永 1764 9 明和
1308 4 延慶 1362 7 貞治 1466 2 文正 1645 5 正保 1772 10 安永
1311 2 応長 1368 8 応安 1467 3 応仁 1648 5 慶安 1781 9 天明
1312 6 正和 1375 5 永和 1469 19 文明 1652 4 承応 1789 13 寛政
1317 3 文保 1379 3 康暦 1487 3 長享 1655 4 明暦 1801 4 享和
1319 3 元応 1381 4 永徳 戦国 1489 4 延徳 1658 4 万治 1804 15 文化
1321 4 元亨 1384 4 至徳 1492 10 明応 1661 13 寛文 1818 13 文政
1324 3 正中 1387 3 嘉慶 1501 4 文亀 1673 9 延宝 1831 15 天保
1326 4 嘉暦 1389 2 康応 1504 18 永正 1681 4 天和 1845 5 弘化
1329 4 元徳 南北 1390 5 明徳 1521 8 大永 1684 5 貞享 1848 7 嘉永
1331 4 元弘 戦国 1394 35 応永 1528 5 享禄 1688 17 元禄 1855 7 安政
1332 2 正慶 1428 2 正長 1532 24 天文 1704 8 宝永 1860 2 万延
室町 1334 5 建武 1429 13 永享 1555 4 弘治 1711 6 正徳 1861 4 文久
南北 1338 5 暦応 1441 4 嘉吉 1558 13 永禄 1716 21 享保 1864 2 元治
1342 4 康永 1444 6 文安 1570 4 元亀 1736 6 元文 1865 4 慶応
1345 6 貞和 1449 4 宝徳 安土 1573 20 1741 4 寛保 明治 1868 45 明治
 元号左は明治より逆番、元年と元年の西暦、 赤文字は歴史記述記録年次、青文字は福澤家の歴史(家系図)
 現在の家系図での先祖は、「承応3年」(1654)である。時は「江戸時代」、第4代征夷大将軍徳川家家綱公の就任に伴う元号変更「承応」(じょうおう)の3年目である。「戦国時代」(応仁-元亀、1469-1573)の104年を終え、「安土桃山時代」(天正-文禄-慶長、1593-161522年間を過ぎ江戸時代に入って61年也。
 歴史に残る「塩田福沢氏」の最後は「天正年間」(
1573-1586)である。タイムスリップの目標を「天正」と置くならば「1654-1615=39」、現時点の家系図の「祖の父親世代」・・・・先ずは「一代の遡り」となる。
 昨年(2022)の48日、大動脈乖離を発症し救急車からドクターヘリと厚生連佐久医療センターに連携搬送、6時間を越える大手術を経て3週間の入院、49回目の結婚記念日の前日、428日に退院、大手術時の脳梗塞で左下1/4の視野欠損、普通に生活できる状態で満1年を迎えた。そこで、「我がルーツ」を極めたいとの気持ちが高まり今回の旅(タイムスリップ)を計画した。
 さあ、旅に出よう。「旧家屋の写真」と「繰出位牌」を見に・・・・「旅マップ」持参で実家に向かう。
Web閲覧時;地色(繰出位牌閲覧以降) 薄青地 家系図範囲 黄地 繰出位牌範囲
白地 新たに見付けた先代の存命仮定期間(享年
50で仮定)、旅マップは繰出位牌調査結果を後日記入した。
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 期待が膨らむ「繰出位牌」(過去帳)閲覧
 実家の仏壇に「過去帳」(薄板に毛筆書)がある。明治元年から承応元年まで216年、父から先祖まで11代平均119.6年(兄弟同列が1代有)、繰出位牌1ケースに10枚ぐらいかな・・・・そんな目分量で仏壇を覗く。
 「塩田城」(上田市前山)276年の歴史
 塩田城は、建治3年(1277)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。塩田流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の分流であり、北条重時を祖とする極楽寺流の一支流で、重時の五男・北条義政を祖とし、義政が居住した信濃国塩田荘は「信州の鎌倉」と呼ばれ中世文化が開かれた。
【鎌倉時代】・・・・塩田北条氏
 北条国時、北条俊時と
3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘3年(1333)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際に、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。
【室町時代】・・・・坂木村上氏(坂城町、当時は坂木、時代に合せ使い分ける)
 南北朝、室町時代を通して村上氏の支配となる。
【戦国時代】・・・・坂木村上氏(塩田福沢氏)の終焉
 武田信玄の信濃侵攻、長きに渡る激しい攻防、遂に武田氏の手に落ちるが、上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とする。しかし、数ヶ月後には武田氏に包囲され自落。
 天文22年(1553)に行われた第一次川中島の戦いの際には武田勢の本陣となった。以降、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦において、武田氏方の重要な出動拠点となった。武田氏滅亡後、この地域は真田氏の支配となるが、天正11年(1583)、上田城の完成により塩田城は廃城となった。
 「塩田福沢氏」百数十年の歴史
諏訪御符禮之古書(信濃史料)には
 文安
05年(1448)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道像(阿)何・・・・頭役
 享徳03年(1454)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道儀(像阿)何・・頭役
 長禄
03年(1459)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿・・・・・・左頭
 寛正
06年(1465)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙彌像阿・・・・・・左頭 14年間で2人の名が
 応仁03年(1469)、諏訪社上社御射山祭 福澤左馬助信胤・・・・・・・・左頭(代、四郎)
 
文明11年(1479)、諏訪社上社御射山祭 福澤五郎清胤・・・・・・・・・・左頭
 文明
16年(1484)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥頭賢・・・・・・左頭
 長享
03年(1489)、諏訪社上社御射山祭 福澤左館助政胤・・・・・・・・右頭 20年間で5人の名が
とあり、福沢氏が塩田庄を代々相伝していることが知られる。
 頭役銭
50貫から70貫の「御符礼銭」は伊賀良庄(飯田市)の小笠原に次ぐ高で、岩村田大井氏・佐久矢島氏・井上郷井上氏・須田郷須田氏・長沼島津氏・坂木村上氏・船山屋代氏と並ぶ。福沢氏の所領は塩田庄内12郷に及んでいたと見られる。
 「頭役」とは、中世の祭礼で田楽や流鏑馬などの神事芸能の費用を負担する役割・その人である。すなわち「頭役銭」はその金額である。当時は銅銭で、
1貫=1,000枚、当時の商人は数える手間を省くため銅銭1,000枚を一塊とし、真ん中の穴に紐を通し頭とお尻を結んで「1貫」と数えるようにした。「貫」とは「つらぬく」という意で、元々は銅銭1,000枚を貫いた紐のことを「貫」と言った。現在の貨幣価値への換算は難しいものの、「お米の価値」を用いることが多い。戦国時代の米1石の値段は500文ほど、1貫は1,000文なので米2石ということになる。当時の成人男性の2年分の米代に匹敵する。現在のお米10kg=4,000円で計算すると、米1貫は約120,000円と試算される。50貫から70貫は、600~840万円に相当する。
 諏訪社上社「御射山祭」について、ネット検索するも、短文での説明が出来なく割愛する。
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 「村上義清と福沢氏」の歴史
 村上氏は、平安時代の末ごろから千曲川左岸の村上郷を本拠地にしていた清和源氏の一族である。
 文亀元年 (
1501)、村上義清、顕国の子として葛尾城に生まれる
 永正
17年(1520)、村上義清、家督を相続し葛尾城の当主になる
 天文
13年(1544)、小県郡福沢顕昌(修理亮の名を持つ)、伊勢大神宮に同郡奈良本等の地を寄進す
 天文
23年(1554)、小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に戦乱により賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す
 元亀
04年(1573)、村上義清、越後「根知城」にて病死(享年73
 塩田庄は、文安5年(1448)、村上氏の代官福沢入道像阿が諏訪大社上社の重要祭事の頭役を務めるなどして、戦国時代の天文年間(1550前後)まで福沢氏が塩田荘を支配していた。当時、鎌倉時代の所領相続が庶子を含む分割伝領から嫡子惣領の一括相続となり、本拠地以外は代官支配へ移行し、それが福沢氏の塩田入りの時代背景であった。
 
その福沢氏、上室賀から室賀峠を越え更科郷へ下ると福沢氏の館址に出る。塩田城跡から徒歩でルートを引くと「半過岩鼻」経由で14.1kmなるも、「舞田峠・室賀峠」経由だと18.9km4割増、塩田庄の舞田峠口に実家がある。塩田⇔坂城、密かに往来するには遠回りでも後者が格段に良い。→Google Map
 「塩田城跡」 長野県上田市前山
 独鈷山1266m)の北麓、塩田平を見渡す弘法山(842m)に塩田城跡が残る。左画像手前の駐車場(564m)から城跡遺構の中を山頂に向かい25分程登ると、右画像の「北条国時の墓」がある。
 「坂木福沢氏」への定説
 塩田地方は、鎌倉幕府が滅亡するとともに北条氏にかわって村上氏の勢力下におかれた。村上氏はいまの坂城町を本拠とした豪族であるが、塩田地方の支配権を握ると、重臣福沢氏を代官(城代)として塩田城を前進基地とした。
 坂城町網掛に「福泉寺」という曹洞宗のお寺があり、天正年間(
1573-1586)に福沢薩摩守政隆(戒名 福泉院殿佛光法隆大禅定門)が天台宗福泉寺を開き、寛永七年(1630)に室賀前松寺二世住職玄国了頓和尚が隠居し当寺に入り曹洞宗に改めたという。「小県郡福沢昌景」(1554)から19年後、続柄は不詳。
 「坂木福沢氏館跡」
 坂城町網掛(びんぐしの里公園付近)に、「福沢氏の館」があったと言うも遺構はなく、地名等(福沢川、福沢橋)が残るのみ、小高い丘陵を挟み「福泉寺」(福沢薩摩守政隆創建の寺)がある。
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 江戸時代からの福澤家の家屋(取壊直前;昭和42年(1967
 ○○橋西詰から〇〇川に沿って南へ、門までの「蹴出し」は70m余りと奥まった造りになっている。蓮池の反対側は果樹園だったが、「下屋敷」と呼んでいたので古くは屋敷があったかも知れない。
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 母家の西2/3が写っている。上画像の右奥は蔵で、並び手前は離れの奥座敷で母家と渡り廊下でつながっている。右下の屋根は門である。門の土台部は石垣になっていて、門の右下は古の馬屋跡である。右上は土蔵であり養蚕具が入っていた。中央の暗部は裏庭になっている。懐かしい想い出が込み上げてきた。新館の「やがため披露」は昭和43212日(1968)に行われた。私が家を出て2年後になる。
 福澤家の墓地・家紋・繰出位牌
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 繰出位牌・菩提寺
①繰出位牌(回出位牌、本位牌のひとつ)に貴重な記録が
 家系図の祖は、福澤何某(承応
3年/1654)、その妻(貞享3年)である。目標の「天文23年(1554)小県郡福沢昌景」まで、100年線引きが伸びればと儚い期待で繰出位牌を開く。繰出位牌は薄板に毛筆書、位牌箱仕様のケースに入っているとの記憶。1ケースと記憶していたが3ケースもあり、何と両面使いと予想外、古いものなので判読不能は想定内。そこから思いがけない先祖、何と「天文」の後「弘治3年」(1557)が1枚、「天文20年」(1551)が1枚、「天文」より5代先の「明應2年」(1493)が1枚確認できた。俗名は不詳。
 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應二年五月二十日;「龍光」「院殿」「清」「大禅定門」「明應」に釘づけ。
②現在の菩提寺は「○○院」
 「○○院」は明治以降の菩提寺。廃仏毀釈で旧菩提寺は廃寺になったので古い記録はないという。下之郷に由緒ある「生島足島神社」がある。別当である「長福寺」(康保
2年創建と古い)と「神宮寺」(明治の廃仏毀釈で廃寺)の2寺。実家の菩提寺は、廃寺になった「神宮寺」であったとのこと。
 繰出位牌より探し出した三枚の位牌
明應2年(1493 天文20年(1551  弘治3年(1557
左端は最も古く先祖より161年前、「明應2520日 龍光院殿山洞源清大禅定門」。中央は、「天文2044日 清光院壽覺妙相大姉」。右端は、「弘治365日 光現院覺忠誓本居士」。享年に6年の差、夫婦かと思われる。
 家系図で、先祖先代は福澤何某(承応3年/1654)であった。判読不能の中から貴重な3枚を見付け出すことが出来た。一気に161年も遡ることが出来るとは信じがたいことである。
 「龍光院殿山洞源清大禅定門」、明應2年 (1493)。これより26年遡ると「応仁元年」で「戦国時代」が始まった最初の元号である。享年記録はなく存命を知るすべはない。仮に享年50才としてみよう。1443年(嘉吉3)、室町時代のど真ん中、かつ「塩田福沢氏」の時代に合致する。
 塩田城自落後の福沢氏の去就
 武田軍に再度敗れた村上義清は再び越後へ逃れ、上杉謙信より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。
 「保元の乱」(
1156)・「平治の乱」(1160)に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にあり、年中行事を本家へ報告し、お伺いを立てた記録が残っていると伝えられる。福沢氏はこの縁を頼って伊予(愛媛県)へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩(大分県中津市)奥平家(未詳)への仕官を仲介した。
 塩田城が自落した頃、塩田福沢氏は福沢昌景だが他にも居たはず。福沢氏の中で「坂木の福沢の里」や「塩田の庄」で身を潜め生き延びても不思議でない。今一度振り返ってみよう。塩田城自落は天文
221553)、福沢氏の名が残るのは、福沢顕昌は天文13年(1544)、福沢昌景は天文23年(1554)、福沢薩摩守政隆は天文年間(1532-1555)。一方、福澤家では、龍光院殿山洞源清大禅定門(福澤家)は明應2年(1493)、清光院壽覺妙相大姉は天文20年(1551)、光現院覺忠誓居士は弘治3年(1557)、少し飛んで成圓院願誉宗居士は寛永4年(1627)である。
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 取り壊された「実家」(古い家屋)から歴史的背景を考察したい
元和08 1622 上田藩主、真田信之松代へ移封。上田へは小諸より仙石忠正入部。
大湯玄斉湯の名があり、お茶屋敷があって領主湯治の旅舎として利用された。
宝永03 1706 上田藩主、仙石政明但馬出石(兵庫県)に移封松平忠周出石より上田へ。
宝永指出帳できる(松平氏が上田領全村に命じ一足の形式で作らせた各村の村勢要覧)
・湯五ヶ所 大湯、大師湯、長命湯、石湯、こが湯旅舎院内四軒大湯十六軒
・お茶屋(上田藩主の保養所)一軒 ・御用所一軒
 江戸時代は上田城のお姫様などが別所温泉へ入湯に行く際の御休憩所として使われていた。その時代の家屋に私自身も暮らしていた。父から聞いた記憶が残る。
 「福泉寺」 「坂木福沢氏」への定説(p3)参照画像
 ファミリーヒストリーの結論
名前が出てくる福沢氏は(福沢入道儀阿から福沢薩摩守政隆まで)一人ではない。
 塩田城と実家の距離は現在の道路で一里未満(
3.5km、徒歩48分)、馬なら常歩で35分・速歩で14分・駈歩なら8分、充分なる通勤圏内、兵士・職人・下働き等々であっても構わない。ただ、親分さんと同じ「福澤」を名乗って許されるとは思いません。苗字は平安時代の終盤から付けられ始めたようです。父の話しにあった名前に付された「平」は「時」の記憶違いかも知れない。名にある「時」は「塩田北条氏」で多用されている。
歴史上の福澤氏と福澤家の先代
史料年次と没年比較
光現院覺忠誓本居士
弘治
3年/1557
人探 龍光院殿山洞源清大禅定門
明應
2年/1493
 福沢入道儀阿 享徳3年/1454 103年後


64




39年後
 福沢五郎清胤 文明11年/1479 78年後 14年後
 福沢左館助政胤 長享3年/1489 68年後 4年後
  村上義清誕生 文亀元年/1501 顕国の子 56年後 8年前
  村上義清葛尾城主 永正17年/1520 37年後 27年前
 福沢顕昌 天文13年/1544 13年後 51年前
 福沢昌景 天文23年/1554 3年後 61年前
 福沢氏塩田荘支配 天文年間/1550 7年後 57年前
 福沢薩摩守政隆 天正年間/1592 35年前 廣時の親世代 99年前
 福澤家3名の先祖は村上義清が生まれる以前に生きた先人たちである。先に記述した「塩田福沢氏」の福沢入道像何(文安・享徳)、福沢入道沙弥像阿(長禄-寛正)、福沢左馬助信胤代(応仁)福沢左馬助信胤(文明)、福沢五郎胤(文明1479)、福沢入道沙弥頭賢(文明)、福沢左馬助政胤(長享)・・・・この人達、信濃史料古文書に記された年次は1448-1489である。龍光院殿山洞源清大禅定門は同世代に生きていた。上記、福澤家の先祖、享禄・大永辺りに1名が存在しているはず。何とか判読困難の過去帳より探し出したい。
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 編 集 後 記 
2023.5.23
 我想うに、「塩田福沢氏」のどなたかの戒名が「龍光院殿山洞源清大禅定門」(享年1493)であったとしても不思議でない。院号が院殿号になっている。これだけで意味ある戒名かと思う。龍光院=塩田北条氏の菩提寺、山=弘法山、洞源=起源が同一。そう考え福沢氏の連名に目を向ける。何故か「福沢五郎胤」の「」に目が止まる。「生前年次は見事に重なり」「俗名・戒名に見られる意味深の戒名」は何を語るか。塩田庄であれば塩田城関係者と考えても大きな誤りとは言えない。
 「龍光院殿山洞源清大禅定門」(戒名)=「福澤五郎胤」(俗名)、お寺さんに「過去帳」が残っていれば簡単に証明出来る。そして、「信濃史において大発見」でもある。今日では「推認」しかない。世の歴史には、しかるべき研究者による「推認」もあろう。「可能性は否定しきれない」という「推認」でも良かろう。
「龍光院殿山洞源清大禅定門」(享年1493
過去帳に明應の人花御堂
 塩田城跡から眺める実家周辺、橙色の屋根が菩提寺、その左手に福澤家の墓が指呼できる。福澤家の先祖は、今日まで「530年」一日も欠くことなく見守ってきました。これからも塩田城跡(塩田福沢氏)を見守っていくでしょう。
 編集時にモヤモヤし始めた「ある事」について・・・・
 旅人なる我がルーツは、実家の先祖であることに違いはない。しかし、旅から戻る途次、「下流」なる今日の「福澤家」が何処にあるか、途中まで出迎えてくれた妻がいなけれは戻り着くことは容易ではなかった・・・・と今思う。私を出迎えた妻に、全国の「福澤さんの心」を感じた。
 ルーツの旅土産、実家の過去帳にあった「龍光院殿山洞源清大禅定門」(明應
2520日没/1493)は、「塩田福沢氏」の成り変わりかも知れないと、烏滸がましい考え方が脳裏を横切りました。全国の福澤さんから、寛大なお許しを頂戴出来たら、過去帳の明應の人に「心の故郷」になって戴きたいと伝えたい。
 そんな「念い」を、ルーツの旅(
Face Book)で知り合った福沢恵介さんに明かした。初対面なのに、古き友達かのごとく時の過ぎるを忘れ4時間もお話をさせて戴いた。このように全国の福澤さんが、「心の故郷」を持つことが出来たら素晴らしいだろうと「ルーツの旅」(PartⅡ)の旅マップ作りを思い立った。福沢恵介さんに気付かされた貴重な事とは、私が辿り着いた「龍光院殿山洞源清大禅定門」は唯一の1人。ところが、我が家に戻る帰路での徘徊、それは21代目の福澤家の表札は、1/221=1/2,097,152人(長野県人口より少し多い)であるという事。(直系のみ)
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 旅を終え
 話しは飛びますが、
  私の名前は Google Pixel です。
・・・・というテレビコマーシャル。面白い広告だなと思い何気なくネット検索していたら、「控えめな自己主張日記」というフレーズが目に飛び込んできた。
 「福澤家の歴史」は、自分のルーツを探る旅日記。「塩田福沢氏」が活躍した時代に、福澤家の先祖「龍光院殿山洞源清大禅定門」が同じ塩田庄に生きていた。この事実が確認できたことで大満足です。
ルーツを探る旅マップを手に通学で乗り降りした○○駅で下車 去りゆく電車(丸窓電車)を見送る

信濃なる塩田の庄に降り立ちて故郷の風おもほゆるかも
蝶棲庵主人 蝶狂人 


この心境を一言で表現するなら「心の故郷」であろう
己のルーツを探し旅立つ多くの友 最初に立ち寄って頂きたい場所を残したい

日本のアダム
& イブ、日本人口は125,708,382人、この数字に近いのは、27代目の子孫は134,217,728人、
10代目の子孫は約千人、20代目だと約100万人、30代目だと約10億人います。(直系のみ)
そのうち誰がかけても、今の自分はいなかったのです。
ルーツを辿る意味ってあるだろうか・・・・心の故郷さえ持てば十分だと気付く、
あなたと私は、兄弟姉妹の関係、兄弟は他人の始まりと言わず・・・・友人と思いましょう。
殺伐とした現代社会・・・・心の故郷が必要不可欠・・・・持とうと思えば誰でも持てます

福沢ゆかりの地に「心の故郷」・・・・人の営みや情け「邂逅と別離」(芭蕉の奥の細道より)
タイムスリップが出来る「洞源庵」(息抜きが出来る休息エリア)を
建造出来ればと・・・・ご協力戴ければ幸いです
これまでに掲載した史料、不足分は以降の考察等で追記載しています

 
- 9 - 
 最終章
 「福澤家の歴史」、予想を上回る成果が得られた。ホームページだけでなく、別な形で何か残せないか・・・・、実家の義姉の賛同を得て以下の「形」(原稿、実物と異なる)で残すことにした。
先祖の位牌(実家の仏壇) 私の墓誌(福澤家の墓地)
 表
  福澤家伝承 鹽田城主一族
 龍光院殿山洞源清大禅定門
  明應二年丑五月二十日
 
 裏
   経 緯
 福澤家伝承に基づき
 江戸前期に追贈法要が営まれたと推察
 没五三〇年を経て繰出位牌より改める
 
位牌
 福井県鯖江市にある仏具一式が揃う明治創業の「はんなり仏壇」に上記希望見本をFAXで送りお盆に間に合うよう作って頂けることになった。(
2023.8.4到着、8.15追贈供養)
墓誌
 墓誌のルール;一般的に墓誌に彫る内容は四つ
  「戒名」「俗名」「亡くなった年月日」「行年(数え年)」
お願いする「石工房近藤石材店」様に、右上の内容は一般的でないが如何なものかと相談したところ、「墓誌」標記を消すか縦線で区切り墓誌ではない標示をすれば良いかと思います。一応、文面を検討しましょう。いろいろ言う人は居ますが、基本は「その人の生きた証を永遠に残すことになり、子孫の方々が、ご自身のルーツを思い出させてくれる場所になるので、建てられるご本人の意思で良ろしいでしょう。新たに明らかになったご先祖様を記すことも否定はしません。とのことでした。
 今迄の「福澤家の先祖」(福澤市兵衛廣時、承応3年/1654没)は七世代、それより161年前に亡くなった一世代(龍光院殿山洞源清大禅定門)。その「追贈法要」を実家で先祖代々がお盆で来られているので令和5815日に行った。
「福澤家の歴史」  調査・編集 ; 福澤三雄(長野県)  Mp3 懐かしき故郷
- 跋 -
- 10 - 
 「福澤家の歴史」(専門家のコメント)
 「塩田城主福沢氏を見直す」(信濃史学会発行「信濃」第73巻第8号)論文 寺島隆史氏(元上田市立博物館館長、東信史学会常任理事)に見解を伺いたく622日にお宅に届け、628日に返信着、要点を以下にまとめる。
 さて、「福澤家の歴史」拝見しました。ご実家の繰出し位牌や墓石を調査されての、なかなか立派なご成果と存じます。ですが、一般的なことを申し上げますと、戦国時代以前まで確かな系譜がさかのぼれる家は万に一つもないのが普通であります。上小地方全域を見回しても、そのような家は1軒もないというのが実情と存じます。
 御宅様の「明応、弘治、天文」(明應2520日 龍光院殿山洞源清大禅定門、弘治
365日 光現院覺忠誓本居士、天文2044日 清光院壽覺妙相大姉)の繰出し位牌については、一般的な事例からみて江戸時代になってから、貴家に伝承のあった御先祖について、法名を追贈して供養したものではと思われます。
①元号表記
 「明應二年丑」→中世の普通の年号表記は「明応二年癸丑」あるいは「明応二年」と記すのが普通、「明応二年丑」は江戸時代的な書き方。
②法名
 戦国時代までの法名は、領主級でも二字か四字の「〇〇禅定門」や「〇〇〇〇禅定門」が普通、院号や居士・大姉号もありません。江戸初期没の真田昌幸にしても当初の法名は「一翁千雪居士」で「院殿号」などを追贈前の当初の位牌だけです。
③寺院の過去帳にしても、戦国時代まで確かにさかのぼれるものはまずありません。稀にあっても、高野山文書だけです。
④日本人全てが法名を付けられるようになったのは
 何れかの寺院の檀徒となり、死後は誰もが法名を付けられるようになったのは、江戸幕府によるキリシタン禁制による強制が始まりで、寺院に過去帳があったとしても、いまからさかのぼっても江戸前期ということになります。
 「明応」「天文」「弘治」等という戦国時代までさかのぼるご先祖について、伝承にしてもあるのは、ごくまれのことと存じます。貴家もご先祖は塩田城主であった福沢氏の一族であったことには違いないのでしょうし、「承応」「寛文」という江戸時代前期からの系譜が判明するような例にしてもごく稀でもあり、それだけでも大したものと言うべきでしょう。(福澤家の歴史、過去帳調査・編集過程で気付いた疑問にお答え戴いた)
 論文「塩田城主福沢氏を見直す」 寺島隆史の紹介 返信に同封されていた論文→論文
 「塩田城主福沢氏を見直す」(信濃史学会発行「信濃」第73巻第8号)論文 寺島隆史氏(元上田市立博物館館長、東信史学会常任理事)に見解を伺いたく622日にお宅に届け、628日に返信着、要点を以下にまとめる。本文と重複する部分があるも、寺島隆史氏の論文要約としてその部分は省略せず。
 論文 はじめに(抜粋)
 室町~戦国時代に信濃小県郡塩田城に拠った福沢氏については、坂木村上氏の一家臣であり塩田の代官に過ぎない、というイメージが強い。しかし、特にその末期、天文二二年(一五五三)に武田氏により塩田城が攻略され滅亡する直前の福沢氏は、小県郡では他を圧倒する最大の領主であったとみてよい。それにもかかわらず、福沢氏の存在は矮小化され過ぎているきらいがあるように思われる。(省略)本稿では、これらと蓮華定院過去帳の福沢氏関係の未検討記事をあわせてみる中で、滅亡直前に最盛期を迎えていた様子だった福沢氏について考えたい。以下別添(塩田福沢氏を見直す)

 
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 追記(寺島先生の論文より福沢氏の足跡を追加)
蓮華定院宛書状が主なもの
 長享
03年(1489)、諏訪社上社御射山祭 村上福沢左馬助政胤
 享禄
03年(1530)、蓮華定院宛契状 福沢五郎顕胤契状
 天文
12年(1543)、福沢五郎顕胤死去
 天文
13年(1544)、福沢修理亮顕昌寄進状
 天文
16年(1547)、塩田以心軒真興(福沢一族庶家、重臣)書状
 天文
18年(1549)、預修前匠作舜曳源勝禅定門(蓮華定院過去帳日
 天文
20年(1551)、福沢昌景書状・・・・・・ここで新たに3名の福沢氏の名が出ている(全歴史上で8名)
福沢氏系譜
 像阿-五郎清胤-左馬助信胤(代四郎)-左馬助政胤-五郎顕胤-顕昌-昌景 
8名の名が
 福沢氏の通字(とおりじ)は「胤」
ちなみに当家「福澤家」の通字は「時」、「時」といえば北条氏だが・・・・
 「龍光院殿山洞源清大禅定門」に再び戻ろう
  「龍光院」・・塩田北条氏の菩提寺である 院号に何故「龍光」を付けたのか(最大の謎)
  「清」・・・・・・一般的に「俗名」より一字をとっている 存命期間で「五郎清胤」が見事に重なる
 「山洞源清」の享年は「明應2年」(1493)であり、仮に享年
60才とすれば1433年(永享5)、塩田福沢氏初代「像阿」世代に届く。塩田北条氏滅亡より100年後である。歴史が曖昧な坂木村上氏家臣「村上福沢」より、塩田北条氏家臣「北条福沢」説を信じたい。亡父の話しでは、北条氏の家臣に「宮澤氏」「福澤氏」が居り、実家の墓地は、その宮澤家と福澤家で共有している。
 北条義政-時治・国時・胤時-俊時・藤時と塩田北条氏3代系譜を眺めてみると、通字に「時」と「胤」、前者の「時」は福澤家、後者の「胤」は塩田福沢氏で塩田北条氏より引き継いだとしよう。どう見ても、「村上福沢」は当時の就職先であり系譜とは異なるものである。歴史上「村上福沢」は「家臣」であり、家柄は「北条福沢」ではなかろうか?
 更に言えば、「塩田城」築城初期(室町時代)、北条氏の前代から福沢氏が関わっていたのかも知れない。そうなれば、坂城町網掛に残る「福沢館跡」は居住地にすぎないと思う。
 少なくとも、「龍光院殿山洞源清大禅定門」は室町時代に生きた人である。
 福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城しており、天文22年(1553)、武田信玄に攻められて落城するまで少くも百数十年間、村上氏の代官として塩田城を管理していた。時には村上氏が直接ここを居城としていたこともあったらしい。
 推察であるが、
1553年-1448年=105年、最初の塩田福沢氏が史料に記された年齢を仮に35才としよう。その生誕は1343年になる。塩田北条氏が滅亡したのは元弘3年(1333)であり、その10年後に塩田福沢氏の歴史(1343-1553)はスタートしている。塩田北条氏と塩田福沢氏は、どのような形か解らないが継続している。北条流福沢氏が坂木郷に逃れ村上氏家臣となり、坂木福沢氏として再び塩田城代官となり派遣されてきた。10年という短い間の出来事としては多少無理があるのではなかろうか。福沢氏を語る前に、先ずは福澤家の歴史をご一読願いたい。それから、白紙の状態から考えてみようではありませんか・・「福澤家の歴史考
 戒名と俗名が照合一致する史料があったら・・・・どれほどのことがと悔やむ。塩田北条氏の時代では「北条残党狩り」、塩田村上氏の時代では「武田氏の残虐」、これを考えれば敗者側の一族は長い間「隠遁生活」を強いられたであろう。まして「家臣」は余程のことが無い限り「隠れ者」であり歴史上には残らない。その中で、「塩田福澤氏」は、よくぞ名を遺せたものと子孫として有難く思う次第である。  合掌
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