family historyFukuzawa
福澤家のルーツは「室町時代中期」(南北朝合一後の前期) 改書
 プロフィール
 昭和の団塊世代(1947年生)、東京に本社がある電子部品会社に就職、本社工場の品質管理部門に配属し、東北への工場展開が加速する中で新設された営業技術部門(営業部)に移籍、テレビ製造メーカーを担当、そのメーカーの技術部門の工場移転に併せ熊谷営業所に転勤、当地で結婚(10年生活)、支店長付で販売促進全体に携わり、本社営業本部に戻りマーケティング・商品企画・新製品売込・新市場開拓等に従事、この間の10年は横浜暮らし、担当していた宮城の事業部の生産管理課長として転任、海外進出を進める海外課長・企画室で3年、思い描いていた「天職」(経営コンサルタント事務所)に向け退職、翌1991年(44歳)に事務所開設。
 
2004年に宮城を後にし郷里の長野に戻る。長野市のハローワークで就職支援業務に携わり2010年に退職し、当地にセルフビルド・ログハウス(蝶棲庵)を建て今日に至る。20224月に大動脈乖離を発症、命拾いをキッカケに「ルーツ」探索、「福澤家の歴史Ⅱ」をまとめる。
「望月の牧なる原の深山辺に吾とたはぶる百種の蝶」・・・・私の名前は「蝶狂人」です
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒 紀貫之(拾遺和歌集;170
 千曲川と支流鹿曲川に挟まれた御牧ヶ原台地に位置し、現在の長野県佐久市望月地区を中心に、同市浅科地区・東御市北御牧地区に比定され、各所に「野馬除け」という遺構が残る。
 私のルーツは塩田庄(当時は福田郷小泉庄)にあり
 源氏に代って幕府の実権を握ったのは北条氏である。北条氏も頼朝と同じように、信濃をとくに重要視したことは、北条氏一族の重要人物である北条重時を信濃の守護(=県知事)に任命したことによっても推察することができる。この重時が、信濃守護に任ぜられたころ、この塩田平は、信濃における学問・宗教の一大中心地となっていた。
 鎌倉時代、信濃の生んだ名僧に無関普門というお坊さんがいる。京都随一の名刹といわれた南禅寺の開山となり、いわば日本最高位にあった高僧だが、このお坊さんの経歴を書いた「塔銘」というものをみると、このお坊さんは、「若いころ塩田で学んで大成した」と記してある。そして、そのころ、塩田は「信州の学海」といわれ、学問・宗教に志すものは、からかさや本箱を背負って、遠方からたくさんやって来たとも記されている。
 「信州に却回して塩田に館す。乃ち信州の学海なり。凡そ経論に渉るの学者とうを担ひ、笈を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし」
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 ファミリーヒストリー「福澤家の歴史」 その探索は・・・・
 父(趣味として郷土史研究会に属し活動していた)から・・・・当家は、どうも「坂木(現坂城町網掛)の福澤らしい」と聞いていた。さらに、「平氏(北条氏)の流れであった」とも記憶している。したがって、ファミリーヒストリー「福澤家の歴史」は、父から聞いた事の裏付けが調査の対象になろう。
 ○坂木・・・・戦国時代の武将「村上義清」の家臣に福沢氏がいる
 ○北条・・・・塩田庄に「塩田城」があり「北条義政」(子、孫の三代)
 事前知識として、論文「塩田城主福沢氏を見直す」(元上田市立博物館長、東信史学会常任理事)の寺島隆史先生のセミナーを拝聴していた。
 「ルーツに至る旅マップ」を片手に実家へ、平成5年(1993)に作成された家系図と仏壇にある繰出位牌、そして福澤家の墓の総合的な照合をし「福澤家の歴史」をまとめあげた。本書は、その改書になる。
 初期の目標は、家系図の祖「福澤市兵衛廣時(承応03年/1654)」の父母、事良ければ祖父母まで明らかに出来ればと欲張らずに臨んだ。ところが、繰出位牌を調べた「初日」で「明応、天文、弘治」といった「塩田福沢氏全史」をカバーする大発見に大興奮する始末であった。
 その結果を「塩田福沢氏を見直す」論者の寺島隆史先生(元上田市立博物館長、東信史学会常任理事)にご覧頂き「塩田福沢一族に相違ないでしょう」とのお墨付き、福澤家挙げての歴史的快挙であった。
 ルーツ探索の旅マップ (南北朝時代は北朝で記す)
鎌倉 1299 4 正安 1350 3 観応 1452 4 享徳 桃山 1593 5 文禄 1744 5 延享
1302 2 乾元 1352 5 文和 1455 3 康正 1596 20 慶長 1748 4 寛延
1303 4 嘉元 1356 6 延文 1457 4 長禄 江戸 1615 10 元和 1751 14 宝暦
1307 3 徳治 1361 2 康安 1461 7 寛正 1624 21 寛永 1764 9 明和
1308 4 延慶 1362 7 貞治 1466 2 文正 1645 5 正保 1772 10 安永
1311 2 応長 1368 8 応安 1467 3 応仁 1648 5 慶安 1781 9 天明
1312 6 正和 1375 5 永和 1469 19 文明 1652 4 承応 1789 13 寛政
1317 3 文保 1379 3 康暦 1487 3 長享 1655 4 明暦 1801 4 享和
1319 3 元応 1381 4 永徳 1489 4 延徳 1658 4 万治 1804 15 文化
1321 4 元亨 1384 4 至徳 戦国 1492 10 明応 1661 13 寛文 1818 13 文政
1324 3 正中 1387 3 嘉慶 1501 4 文亀 1673 9 延宝 1831 15 天保
1326 4 嘉暦 1389 2 康応 1504 18 永正 1681 4 天和 1845 5 弘化
1329 4 元徳 南北 1390 5 明徳 1521 8 大永 1684 5 貞享 1848 7 嘉永
1331 4 元弘 戦国 1394 35 応永 1528 5 享禄 1688 17 元禄 1855 7 安政
1332 2 正慶 1428 2 正長 1532 24 天文 1704 8 宝永 1860 2 万延
室町 1334 5 建武 1429 13 永享 1555 4 弘治 1711 6 正徳 1861 4 文久
南北 1338 5 暦応 1441 4 嘉吉 1558 13 永禄 1716 21 享保 1864 2 元治
1342 4 康永 1444 6 文安 1570 4 元亀 1736 6 元文 1865 4 慶応
1345 6 貞和 1449 4 宝徳 安土 1573 20 天正 1741 4 寛保 明治 1868 45 明治
 福澤家のルーツは、明応二年五月二十日(1493)卒「龍光院殿山洞源清大禅定門」、未詳ながら享年60歳とするなら文安5年(1433)、時は「室町時代中期南北朝合一後前期」までさかのぼる。塩田荘(塩田城)福沢氏一族と完全に重なります。福澤家は、「前山」でなく「舞田」(前田)であることもミステリアス‼
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 塩田荘関連歴史人(北条氏、村上氏、福沢氏)と福澤家の歴史上人物史
時代 西暦 和暦 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
鎌倉 1273 文永10 義政;叔父政村の死去を受け連署に就任
1277 建治03 義政;連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
1281 弘安04 義政;塩田荘にて死去
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞郡に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
  1335 建武02 北条氏残党狩り
南北朝
(室町)
1335 建武02 信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1433 文安05 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1448 文安05 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1454 享徳03 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1459 長禄03 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1465 寛正06 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
戦国
(室町)
1469 応仁03 左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
1474 文明06 左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479 文明11 五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
1484 文明16 入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭(=清胤の法名?
  1485 文明14 福沢殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(この年を最後に記録なし)
1493 明応02 龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501 文亀01 義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
1520 永正17 義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛書状
1543 天文12 五郎顕胤卒
1544 天文13 顕昌(修理亮);伊勢大神宮宛寄進状
1545 天文14 塩田真興、蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興(福沢氏一族庶家?);蓮華定院宛書状
1548 天文17 義清;上田原の戦い
1549 天文18 蓮華定院過去帳日杯 預修前匠作舜曳源勝禅定門
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛書状
1551 天文20 義清;砥石城落城
1551 天文20 清光院壽覺妙相大姉(覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城自落 川中島の戦い(第一次合戦)
1553 天文22 昌景;塩田城自落
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
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1561 永禄04 川中島の戦い(第四次合戦/大激戦) 1564永禄7年の第五次合戦で終結
時代 西暦 和暦 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
安土
桃山
1573 元亀04 義清;越後で病死
1583 天正11 上田城完成に伴い塩田城廃城(真田昌幸)
1592 天正年間 福沢薩摩守政隆 福泉寺(坂城町)塩田福沢氏菩提寺として建立
江戸 1608 慶長13 この時代(江戸時代は1603 -)の史料に、舞田村は小泉庄から塩田庄に移っている
1627 寛永04 成圓院願誉宗本居士(福澤家七世)
1654 承応03 福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士 福澤家八世、家系図の祖
1686 貞享03 廣時の妻 福松/自性院空誉理貞大姉
 塩田流北条氏の簡略系譜
 北条時政-義時(得宗家)-重時(極楽寺流)-義政(塩田流)-国時-俊時 1277-1335
 村上氏の簡略系譜
 信泰-義日
   ∟国信
   ∟
信貞
   ∟
義国-頼国-国衛-国清-満清-政国顕国義清
                    |
    国信-国清-
頼清-国衛----政清-  ★政清の子が政国との親子説
 「村上氏の歴史」に名を連ねる信貞(建武2年/1335)/塩田北条氏滅亡から義清(天文10年/1541)海野平合戦で小県掌握までの系譜(200年余)を抜き出してみた。
 福沢氏系譜(推察) 室町時代から戦国時代(六世代120年強の一族)
像阿

沙弥像阿・左馬助信胤

五郎清胤・沙弥頭賢・左館助政胤・四郎

不詳

五郎顕胤・顕昌

昌景
像阿(1448、1454、1455没)
 
沙弥像阿(
1459、1465)・左馬助信胤(1469
  左馬助信胤代理・四郎(1459、1474
五郎清胤(
1479)・沙弥頭賢(1484)・左館助政胤(1489
・・・・短期間での当主交代は若死か?
不詳
41年の空白)・・前;御射山祭 後;村上義清・蓮華定院
 
五郎顕胤(
1530、1543没)-顕昌(1544
 
昌景(
1551、1554
 福澤家の祖(龍光院殿山洞源清大禅定門)は明応2年(1493)卒である。仮に享年60歳とすれば文安051433)生れになる。福沢五郎清胤の名は文明111479)に記録されている。福澤家の祖は「1479-1433」(=46歳)である。さて、当時の「福沢五郎清胤」は何歳だろう。戒名に、俗名より1字とるとすれば「清」であろう。そして「46歳」であれば、「福沢五郎清胤」=「龍光院殿山洞源清大禅定門」、「同一人物」の域であろう。更に付け加えるならば、「龍光院」は「塩田北条氏」の菩提寺、「北条流福沢氏」で「坂木福沢氏」(福沢五郎顕胤、福沢顕昌、福沢昌景)でなく「福澤本家」であろうとの説も浮かぶ。塩田福沢氏は坂木村上家を尊敬し心底忠誠を尽くした働きをしてきた。それ故「時」でなく「胤」を「通字」にしたのであろう。
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 塩田城跡(塩田北条氏→坂木村上氏/塩田福沢氏→真田氏)
 塩田城跡入口(画像下段)、虎ノ口(画像左上)、北条国時墓(画像右上)。
 龍光院(塩田北条氏の菩提寺)
 参道の右側(墓地)、見晴らしの良い場所に「塩田北条初代義政公の墓」(画像上中)がある。また、本堂前の道を山の手に進み左手奥に「塩田北条氏追善供養塔」(画像上右)がある。
 創建は弘安5年(1282)、塩田北条国時が父である義政の菩提を弔う為、月湲和尚を招いて開山したのが始まりと伝えられています。塩田北条氏の菩提寺として庇護され、「信州の鎌倉」とも言われた文化の中心的寺院として寺運も隆盛しますが元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めた際、幕府側として行動した為、塩田北条氏一族が滅びその後は庇護者を失い衰退します。
 前山寺三重塔(塩田城の鬼門・祈祷所、塩田福沢氏建造の未完成の完成塔)
 塩田城跡に隣接する前山寺には木造三重塔がある。推定建築年代は、古くは鎌倉時代と考えられていたが、戦後の重文再指定の折には室町初期に引き下げられていた。それでも鎌倉期の塩田北条氏による建立と考えたい向きには抵抗があったのだが、平成2年刊行の「長野県史美術建築資料編」では、さらに下って室町後期(1467~1572)つまり、戦国時代の建造物とされている。塩田城主村上福沢氏の極盛期は、前述の通り海野平合戦の戦勝により支配領域を大きく拡大した天文10年(1541)より22年の塩田落城までの間であったと言える。
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 福沢氏は小県では他を圧する最大の領主になっていた。同時に滅亡への道をたどることになった時期でもあった。繁栄の一方で、不安な空気もただよう中、現世利益の伊勢神宮に神領を寄進し、高野山蓮華定院には死後の冥福の祈念をしきりに依頼、という面があったのかもしれない。何れにせよ、前山寺三重塔の造立施主は福沢氏に相違ない
 砥石合戦の
2年前には、やはり武田氏と村上方との上田原合戦もあった。この2度の戦い、ともに武田方の敗北、村上方の勝利というも、攻め込まれた側の被害も甚大であったことは言うまでもあるまい。立て続いた戦火により三重塔建造も中断、そして最終的には、その造立施主だった福沢氏の滅亡により未完成のままで終わってしまった。そう考えると当時の信濃・小県・塩田・塩田城をめぐる状況ともよく合うように思われる。未完成の前山寺三重塔は、武田氏の侵攻による塩田城主福沢氏の滅亡という戦国の争乱状況そのものを、化石化したように今に伝える、貴重な歴史的建造物とも言えるのではなかろうか。
 砥石城跡(砥石崩れ)
 砥石城は、米山城・砥石城・本城・枡形城の4要害で構成されている。米山城跡には「村上義清公之碑」と「古地図掲示板」があった。砥石城には「福沢曲輪」と呼ばれる一郭もある。小県郡における村上方の当時の勢力としては、福沢氏が図抜けた勢力であった。砥石攻防戦の最中は、義清自身が率いる村上勢の主力は北信濃にあった。砥石城に立て籠もっていた兵力の中心は、福沢勢であったと考えられる。
 塩田の館(塩田城跡の発掘調査出土品展示)
 昭和42から昭和52年(1967-1977)にかけて、数回にわたる発掘調査が行われ、礎石をもつ建物跡や空堀、敷石、井戸などの遺構や多くの遺物が出土した。出土品は城跡近くの観光施設「塩田の館」に展示されている。
 おたや
 前山寺から龍光院に向かう途中に「おたや」と呼ばれる社がある。説明板に、「塩田城にいてこの地を治めた福沢氏は、ここにお伊勢様とお坂木様を祭った。この地方では大切な史跡である」と書かれていた。
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 三水城跡(坂木福沢氏の山城)
 狐落城・三水城は村上義清が葛尾城の支城として築いた城のひとつ。狐が落ちるほど急峻な山だからとこの名がついた。一方の三水城も嶮しく福沢城との別称もある。村上氏の詰めの城ともいわれるほど重要視された城で、天文22年(1553)に武田信玄の侵攻(村上家臣大須賀久兵衛尉の裏切り)によりこの城が落ちたことを聞くと、義清は家臣を連れて越後に逃れている。
 坂木福沢氏館跡(福沢氏)
 「福沢の里」に残る遺構?は「福沢川」と「福沢橋」のみ、館跡は「この辺り」というだけで標柱もなし。「福沢川」という名もいつの時代に付けられたものかも解らない。
 福泉寺(福沢氏の菩提寺)
 坂城町網掛に「福泉寺」という曹洞宗のお寺があり、天正年間(1573-1586)に福沢薩摩守政隆(戒名 福泉院殿佛光法隆大禅定門)が天台宗福泉寺を開き、寛永7年(1630)に室賀前松寺二世住職玄国了頓和尚が隠居し当寺に入り曹洞宗に改めたという。塩田城自落;福沢昌景(1554)から19年後、続柄は不詳。
 葛尾城跡(村上氏の本城)
 葛尾城の堅牢さは「切岸」(山城の周囲に造られた急斜面)と「掘切」(山城に通じる稜線に造られた切込み)が施されているからだという。
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 満泉寺(村上氏居館跡)
 村上義清の居館は満泉寺とその周辺一帯であった。満泉寺は村上氏代々の菩提寺で、寺伝によると応和3年(963)の創建で修善寺という天台宗の寺であった。永正元年(1504)に曹洞宗に改宗し満泉寺と改めた。
 村上家墓所跡(村上義清供養塔)
 明暦3年(1657)、坂木の名家遺跡の亡失を憂えた利次は、義清の子孫・義清の家臣の子孫らにはかり、自ら施主となって義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって建立した。長谷川安左衛門利次は江戸時代初め越後高田藩の所領・坂木五千石の奉行。
 笄の渡し(義清の奥方)
 天文224月(1553)、村上義清の居城「葛尾城」が落城。その折り、村上義清の奥方は葛尾城から千曲川に下り川を渡って力石へ落ち延びようとした。敵軍が迫り来るなか無事対岸まで送ってくれた船頭に、お礼として奥方は髪にさしていた「笄」を渡り賃として贈った。以来、この渡し場を「笄の渡し」と呼ぶようになった。
 姫宮跡(義清公の奥方自刃の地)
 「笄の渡し」の地で、対岸に渡った奥方は敵兵に囲まれ自刃した。その地(坂城町上平の出浦北部の田の中)に、「姫宮の跡碑」が建てられた。寛延3年(1750)に建立された石祠が明治30年頃に岩井堂山中腹の自在神社奥社に移転されたため大正13年に建碑された。
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 戦国武将「武田信玄」(晴信)vs「村上義清」「上杉謙信」(長尾景虎)
塩田福沢氏 村上義清 村上vs武田 諏訪頼重 武田晴信  武田vs長尾 長尾景虎
 戦国初期の信濃国での歴史を研究し「塩田福沢氏」そして「福澤家の先祖」がどう生きたか考察を深めたい。ちなみに、「武田晴信→武田信玄」;永禄2年(1559)第三次川中島の戦いの後に出家「徳栄軒信玄」している。一方「長尾景虎→上杉謙信」;元亀元年(1570)に輝虎から謙信に改名、本文では景虎で通しましょう。
 武田信虎の信濃侵攻(武田信虎・諏訪頼重同盟)
大永05/1525 ・武田信虎(信玄の父)、この頃から信濃国諏訪郡への侵攻を開始するも成功せず。→41日、諏訪某、武田信虎ヲ頼リテ、甲斐府中ニ赴ク、
天文04年/1535 ・諏訪郡を治める諏訪家と和睦し同盟を志向する。918日、武田信虎、諏訪碧雲斎頼満と堺川北岸に会し和睦す、
天文06/1537 ・諏訪頼重、筑摩郡塩尻城を攻め即日之を陥る、
天文09/1540 ・武田信虎の三女・禰々と諏訪家総領の諏訪頼重(諏訪上社現人神)の婚姻で両家が同盟。
・甲斐武田信虎の息女祢々、諏訪頼重に嫁し、即日諏訪に入る、→武田信虎は、諏訪家(村上義清が加わる)との同盟関係を基に信濃国・佐久郡を攻略し小県郡への侵攻を行う。
・信濃国・海野棟綱が小県郡侵攻で敗北、上野国上杉憲政に援軍要請し出兵を受ける。
・武田信虎、佐久郡に攻め入り諸城を陥る、
・諏訪頼重、小県郡長窪城を領す、
天文10/1541 ・武田信虎、諏訪頼重・村上義清を誘ひ、海野棟綱を小県郡海野平に攻めて之を破る、棟綱等、上野に逃れ祢津元直・矢沢綱頼等降る、
・関東管領上杉憲政、海野棟綱の請に依り小県郡に村上義清を攻めんとす、是日、諏訪頼重、村上義清に応じて小県郡長窪へ出陣す、尋で、頼重、武田晴信の義清を援けざるに依り憲政と和し陣を班す、
・諏訪頼重が武田・村上家に断ることなく単独決行した為、武田家・諏訪家との同盟関係に綻びが出る。
★諏訪頼重は戦国時代の武将(信濃四大将のひとり)、諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子で宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝。武田勝頼の外祖父にあたる。大祝職は叔父・諏訪満隣の家系が継承。
 武田信玄の信濃国諏訪郡支配は・・・・調略で始まる
 「瀬沢の戦い」をなんとか凌いだ武田晴信は、諏訪頼重に対する反撃と諏訪の獲得を考える。これは、甲斐盆地しか生産性ある土地を有さない国力の低い甲斐国・武田家の生き残り策であった。今川・北条と事を構える(国力のない)甲斐国・武田家に南進策は有り得ず必然的に勢力拡大方向は大大名のいない信濃国に向かう。信濃国には、伊那・諏訪・佐久・松本・善光寺平等の豊かな盆地が点在しており、甲府盆地のみの甲斐国と比べると格段に豊かな地であり武田家が勢力拡大を狙うには必然的であった。まず狙うのは先に手を出してきた諏訪である。晴信は調略から始める。まず諏訪家の庶子であり諏訪頼重に不満を持つ上伊那にある高遠城主・高遠頼継と諏訪下社の金刺氏を調略する。
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 武田信虎追放
 天文10年(1541)、武田晴信が、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、信虎を駿河国追放し武田家の第19代目の家督を相続する。
 天文
11年(1542)、信濃国・諏訪郡を治める諏訪頼重が、晴信の政権基盤がまだ盤石でないと見て、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻(瀬沢の戦い)を始めた。
 晴信は自ら出陣し、甲信国境付近にて諏訪・小笠原連合軍を迎撃し、激戦の上、甚大な被害を出すも諏訪・小笠原連合軍をなんとか退ける。「瀬沢の戦い」で武田・諏訪両家の関係は悪化し小競り合いが始まる。
 桑原城の戦い
 武田晴信は、天文11年(1542)、満を辞して高遠頼継と共に諏訪に攻め込み、本格的な信濃国・諏訪郡侵攻を開始する。晴信の進軍を聞いた「諏訪頼重」は、1000人(騎馬150、歩兵700~800人)の兵を率いて上原城の南にある犬射原社まで進軍し対応にあたる。他方、北上してきた「武田晴信」は、御射山に本陣を置いた。
 晴信と矢崎原で対峙した諏訪頼重は、武田軍と戦う兵力はないと判断し決戦に挑むことなく後退し居城である上原城に戻るも、南東からの晴信、南西からの高遠頼継に挟撃されることを恐れ、居城の上原城を自ら焼き捨て北にある支城である桑原城へ後退した。武田軍と高遠軍は合流して北上し桑原城に迫るも、桑原城下の高橋口で一時的ではあるが防戦される。その後、武田・高遠連合軍は桑原城を囲み諏訪頼重に降伏を勧告する。
 天文
11年(1542)、信濃史料より
・高遠の諏訪頼継と共に諏訪頼重を諏訪郡上原城を破り、同郡桑原城を降し頼重を自刃せしむ、
・高遠の諏訪頼継、同頼重の遺領を領す、
・諏訪頼重の遺子虎王を擁して諏訪頼継・矢嶋満清等を諏訪郡安国寺前宮川に攻め之を破る、
・晴信の将高白斎、伊那郡高遠に入り藤沢に放火し藤沢頼親を降す、また板垣信方、上伊那に攻入る、 
 諏訪総領家の滅亡
 天文11年(1542)、諏訪頼重は、晴信の降伏勧告に対し、生命安堵・本領安堵・裏切者のからの高遠頼継の殺害を条件として受け入れた。晴信は、降伏した諏訪頼重の身柄を甲府へ連行し、和睦条件を反故にして諏訪頼重とその実弟の諏訪頼高を切腹、これにより諏訪惣領家は事実上滅亡した。
 武田信玄の信濃国侵攻本格化
 信濃国諏訪郡を獲得した晴信は「信濃国侵攻への足掛かり」を得て、ここから本格的に信濃国侵攻を開始する。次のターゲットは、福与城主・藤沢頼親と高遠城主・高遠頼継が治める上伊那侵攻となる。
 高遠頼継の裏切り
 ところが、晴信の諏訪分割に高遠頼継が不満を持った。諏訪総領家である諏訪頼重が死亡した後は、自分が諏訪総領家として諏訪郡に君臨出来ると思っていた。ところが、与えられたのは諏訪郡の半分であり、また晴信の下に位置付けられるような立場となったからである。そこで、高遠頼継は、晴信に反旗を翻し自分こそが諏訪総領であると主張し上原城へ侵攻を開始した。
 天文
11年(1542)、上原城を攻略した高遠頼継は、諏訪上社の矢島満清・有賀遠江守・伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけ信濃国諏訪郡の全域支配に乗り出した。これに対し晴信は、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰のため板垣信方に軍を預けて諏訪郡に急行させた。また、高遠頼継の主張を廃して自身の正統性を担保するため、諏訪頼重の遺児である寅王丸を擁して若神子まで出陣し、先行する板垣隊と合流する。晴信が、諏訪頼重の遺児である寅王丸を擁したことで多くの諏訪衆が晴信側についた。武田軍約2000人は宮川まで進軍し、宮川橋付近(宮川の戦い;安国寺前古戦場)で高遠軍約2000人と衝突した。高遠軍は高遠頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700~800余人の死者を出して敗走し、武田軍勝利に終わり、高遠頼継は杖突峠を越えて本拠地である高遠城に退去した。
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 武田軍は、敗走する高遠頼継を追って杖突峠を越え、信濃国上伊那郡に侵攻し、高遠頼継に加担した藤沢頼親の居城であった福与城を包囲し降伏させた。
 高遠軍は高遠頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら
700~800余人の死者を出して敗走し、武田軍勝利に終わり、高遠頼継は杖突峠を越えて本拠地である高遠城に退去した。武田軍は、敗走する高遠頼継を追って杖突峠を越え、信濃国上伊那郡に侵攻し、高遠頼継に加担した藤沢頼親の居城であった福与城を包囲し降伏させた。また、板垣信方は、別働隊を率いて有賀峠を越えて上伊那に侵攻し、春近衆を圧迫し、伊那衆や高遠方に壊滅的な打撃を与えて、諏訪西方・西方衆を武田へ帰属させ、晴信は信濃国諏訪郡全土を獲得した。
 武田信玄の諏訪郡支配の手筈
 天文12年(1543)、晴信は諏訪郡支配のために上原城を修築し板垣信方を諏訪郡代として在城させる。また、晴信は、諏訪郡獲得当初、諏訪家惣領として諏訪頼重と禰々御料人の子である千代宮丸を擁立したが、やがてこれを破棄し晴信自らが諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に迎え、生まれた男子(武田勝頼)に諏訪惣領家を継承させることにした。
 当初、武田家臣団では、晴信を父の仇とする諏訪頼重の娘を側室にするのは危険だという理由で諏訪御料人を側室に迎えることに反対した。武田家軍師である山本勘助が「諏訪の血を引く姫を側室にし、その側室に男児が生まれたら諏訪家が再興できると諏訪の人達が喜ぶでしょう」と家臣達を説得したとされている。この選択で武田信玄による諏訪郡支配は順調に進んだが、後に武田家滅亡の悲劇に繋がるとは皮肉なものだ。
 天文12年(1543)-弘治1年(1555 信濃史料
天文12/1543 ・板垣信方、諏訪在城を命ぜらる、尋で、信方、諏訪郡上原城の普請を行ふ、
天文13/1544 ・伊那郡高遠諏訪頼継の兵、諏訪郡に攻入り諏訪社上社神長守矢頼真の屋敷に放火す、千野靭負尉等、之と戦ひ戦功を顕す、
天文14/1545 ・晴信、杖突峠より伊那郡に攻入り諏訪頼継を同郡高遠に攻めて之を破る(杖突峠の戦い)、尋で同郡箕輪城に逼る、
・小笠原長時、伊那郡竜ヶ崎城に拠りて藤沢頼親を援く、是日晴信の将板垣信方等同城を攻めて之を陥る、尋で箕輪城も陥ち頼親、晴信に降る、
天文15/1546 ・晴信、佐久郡内山城を攻む、城主大井貞清破れて城を開き同郡野沢に逃る、
天文16/1547 ・晴信、佐久郡志賀城(小田井原の戦い)を攻めて之を陥る、城将笠原清繁父子及び援軍上野菅原城主高田憲頼等敗死す、
天文17/1548 ・晴信、村上義清と小県郡上田原に戦ひて敗る(上田原の戦い)、晴信傷き板垣信方等部将多く討死す、
・小笠原長時、村上義清等と共に諏訪郡下宮を侵す、
・村上義清の兵、佐久郡内山城に放火す、
・諏訪郡西方衆矢嶋・花岡等、小笠原長時に通じ晴信に叛す、仍りて晴信、諏訪郡に出陣す、晴信長時と筑摩郡塩尻峠に戦ひ(塩尻峠の戦い)て之を破る、
・晴信の将小山田信有、佐久郡田口城を攻めんとし却つて敵のため内山城に囲まる、信玄、諏訪を発して佐久郡に入り前山城を陥る、尋で、同郡の諸城を陥る、
天文18/1549 ・晴信の軍、佐久郡春日城を攻めて之を破る、
天文19/1550 ・晴信、真田幸隆に小県郡諏訪形等の地を宛行ふ、
・晴信、信濃府中に攻入り小笠原長時を筑摩郡林城に破る(林城の戦い)、
・晴信、村上義清を小県郡砥石城に攻め(砥石崩れ)て敗績す、
 
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天文19/1550 ・小笠原長時、村上義清の援を得て安曇郡平瀬に兵を進む、晴信之を討たんがため甲斐中下条に陣を進む、
・村上義清、佐久郡桜井城を攻めて之を焼く、
天文20/1551 ・真田幸隆、小県郡砥石城を陥る、
・晴信、安曇郡平瀬城を攻めて之を陥る、
・晴信、伊那郡高遠諏訪頼継をして甲府に自刃せしむ、
天文21/1552 ・晴信、安曇郡小岩岳城を攻めて、之を破る、
天文22/1553 ・晴信、筑摩郡苅屋原城を陥れ、城主太田長門守を生捕る、同郡塔原城も陥る、
・晴信、諸将をして埴科郡葛尾城に村上義清を攻めしむ、同城陥り、義清、越後長尾景虎の許に奔る、
・晴信、小県郡和田城を陥る、
・晴信、小県郡塩田城を陥る、尋で飯富虎昌をして同城を守らしむ、
・越後長尾景虎の軍、村上義清を援けんがため信濃に攻入り晴信の軍と更級郡布施郷に戦ひ晴信の軍を更級郡八幡等を攻めて之を破る、
・晴信の兵、筑摩郡麻績・更級郡荒砥両城に放火す、
・晴信、小県郡塩田より筑摩郡深志城に入る
天文23/1554 ・晴信の子義信、佐久郡に攻め入り同郡の諸城相ついで陥る、
弘治01/1555 ・長尾景虎、村上義清・高梨政頼等の請に依り晴信を討たんとして善光寺に兵を進む、晴信、更級郡大塚に陣す、両軍、更級郡川中島に戦ふ、
 大塔合戦 応永71400) 塩田北条氏滅亡より67年後、福澤家初代先祖卒より93年前
 大塔合戦とは、応永7年(1400)に信濃守護小笠原長秀が、村上氏(村上満信、頼清の父もしくは祖父)・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍(大文字一揆)と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる。
 信濃は、鎌倉時代のほぼ全期間を通じて北条氏が守護職を独占しており、鎌倉時代が終焉を告げた後も「中先代の乱」に信濃の御家人が主戦力となるなど、北条氏の勢力が強い地域であった。そんな中にあって、元々は甲斐国の甲斐源氏の一族である加賀美氏(清和源氏義光流、武田氏と同族)から別れ信濃各所に勢力を保持していた小笠原氏は、早くから足利尊氏による倒幕に加勢し、建武2年(1335)に小笠原貞宗が信濃守護に任命される。しかし中先代の乱により船山守護所を襲われた青沼合戦では警備をあずかる市河氏らが奮戦するも敗走、国衙を焼かれ建武政権が任命した公家の国司が自害に追い込まれるなどがあって信濃国内は混乱した。尊氏による新帝擁立で南北朝時代が到来し、また、尊氏と弟の直義の兄弟対立による観応の擾乱が起こると、信濃の国人領主達も北朝方と南朝方、尊氏党と直義党に二分して各所で抗争を引き起こし、守護職が斯波氏に交替した時代には、守護代の二宮氏泰の命に抵抗したり、その篭城する横山城を攻め落としてしまった。また制圧されはしたものの時の守護を兼帯した関東管領上杉朝房の攻撃に対して、これを栗田氏が迎え撃って合戦に及ぶ事件、等(漆田原の合戦)なども続いた。南北朝合一の後、永らく北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏が念願の信濃守護に再び補任されるのは応永6年(1399)のことであった。
 小笠原長秀は将軍足利義満から信濃国守護に任命され太田荘から島津氏や高梨氏の排除を命じられた。就任直後の10月には反発した長沼の島津国忠が守護方の赤沢秀国、櫛置清忠らと石和田(長野市朝陽)付近で抗争した。応永773日(1400)、京都を出立した長秀は同族の大井光矩(佐久)のもとを経由し、北信濃の有力者である村上満信には特に使者を送って協力を求め、東北信の国人領主に対しても守護としての政務開始を通告。その中心地である善光寺に一族郎党200騎余を従える煌びやかな行列を組んで入る。
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 そして信濃の国人領主達を召集して対面する。この時の対面は、相当に高圧的なものだったと伝えられている。守護就任に反感を強めていた犀川沿岸の栗田氏(長野市栗田)や小田切氏(長野市小田切)、落合氏(長野市安茂里)、小市氏(長野市安茂里)、窪寺氏(長野市安茂里)、香坂氏(長野市信州新町)、春日氏(長野市七二会)、三村氏(塩尻市洗馬)、西牧氏(松本市梓川)、宮高氏(松本市梓川)ら国人は「大文字一揆」を形成し、窪寺氏のもとに集まり談合したが推移を見守ることとした。なお、「大塔物語」によれば大文字一揆には大塔古城の攻撃の際、大手門攻撃総大将であった禰津遠光の配下に「実田」氏が加わっており、後の真田氏の一族とする説がある。長秀は、ちょうど収穫の時期となっていた近隣の川中島で、「幕府から知行された守護の所領である」として年貢の徴収を開始する。しかし当時は村上氏が押領していた地であり、守護の一存で所領が左右されることは多かれ少なかれ押領地を有する他の国人領主にとっては認めがたく、多くの国人領主たちを反小笠原に決定付けることとなった。
 守護小笠原氏に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏、信濃島津氏など大半の国人衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では市河氏と、元々地盤としていた南信地方を中心とした一部の武士たちだけだったとされる。また小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされる(後に仲介役となる大井氏など、ほぼ半数が加勢しなかったとされる)。
 上田市立博物館所蔵の「大塔物語」によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、善光寺から横田城へ兵を進めた。これに対する国人衆(大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏一族など須坂・中野地方の国人衆)、方田ヶ先石川に800余騎(安曇地方の有力国人仁科氏や、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。この「騎」というのは何人もの家来を連れた武士のことで、実数は4千弱の小笠原勢に対して国人衆は1万以上の兵力だったと推定されている。また、この時諏訪神社上社の諏訪氏は国人側を支援し、下社の金刺氏は守護側寄りであったと伝えられ諏訪神社の分裂が顕在化したとされる。この状況に横田城では防ぎきれないと判断した長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城への秘かな脱出を目指すが、途中で発見され塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみで、300騎余りが途中の大塔の古城(古砦)に辛うじて逃げ込んだ。この時、諏訪方の有賀美濃入道が上原・矢崎・古田ら300余騎を率いて大手口から攻めたとされる。しかし、食料を始め何も準備していない古城(廃城)では篭城する術も無く、取り残される事となった小笠原勢は乗っていた馬を殺して血を啜り生肉を食う凄惨を極め餓死者も出始めて、結局は全員が撃って出て討死か自害して果てる。更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。翌年の応永8年(1401)に長秀は幕府から信濃守護職を罷免され、信濃は幕府直轄領(料国)となった。その間、幕府の代官として細川氏が派遣された。信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。なお守護方の侍大将の中に井深氏の名が見られる。
 海野平の戦い 天文91540
 天文9年(1540)、武田信虎は佐久地方に兵を出し多くの城を落としている。その記録に「一日に城を三十六落とし佐久郡を手にいれ」(妙法寺記)とある。当時は館・物見・烽火台・小屋・砦も「城」と呼んでいた。この頃、東信濃の雄と呼ばれた「海野氏」は、本領の海野・海善寺・太平寺・東西深井(東御市)、のみならず上下青木・国分寺・踏入・大久保・長島(上田市)辺りまで領地を広げ、真田郷一帯にも影響力を持ち、更に会田(松本市四賀)地方まで進出していた。また、塩田平全域(上田市)は村上氏の所領だった。村上氏は小県郡・佐久郡へ勢力を広げることを画策していた。その中で、海野氏と村上氏は互いに邪魔な存在であった。

 
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 天文105月(1541)、海野平(上田市蒼久保から東御市左岸南西部)で、小県地方としてはこれまでにない大きな戦いが行われ。この戦いの先に立ったのは「武田信虎」であり、これに力を貸すかたちで「村上義清と諏訪頼重」が兵を出し戦いに加わった。戦国大名として次第に力を付けてきた武田勢に、信濃きっての勢力を誇る「諏訪・村上勢」を合わせると相当の大軍であった。これを迎え撃ったのは、「海野氏」と海野一族の祢津氏(東御市祢津)と矢沢郷(上田市矢沢)に本拠を持つ矢沢氏。
 海野左京太夫幸義(棟綱の嫡子)は村上軍との「神川の激戦」に破れて戦死した。戦いに敗れた海野棟綱は上野へ逃れ、上野国の平井城(藤岡市)の関東管領の上杉憲政を頼った。上杉憲政軍は、海野氏支援のため佐久に入るも、武田・村上軍の出陣の手立てはなく、上杉軍は芦田郷(立科町芦田)を荒らしただけで関東へ帰ってしまった。その後、上杉勢の出兵はなく、棟綱の故郷へ帰るという願いは果たされなかった。信濃の名族海野宗家は天文
105月(1541)の戦をもって滅亡。棟綱の去就は不詳。真田郷を本拠地にしていた真田幸隆、棟綱に合力した記録は残っていないが、幸隆も海野平合戦に参戦し、海野氏敗北とともに真田郷を捨て上州に逃れた。
 村上氏の海野平攻めの狙いは海野氏の壊滅にあり、戦いの戦利として上田市東部・東御市域等の海野氏領が村上氏のものになった。しかし、
海野氏領に村上氏の家臣が配置されたり所領を宛行った形跡は残っていない。この合戦に関係して他の地方でも争いが行われ、小県郡の浦野(上田市浦野)に拠る浦野氏は浦野・越戸・青木村一帯を領有した。青木村の山間部には奈良本・田沢・塩原に一族が入り込んで治めた。海野平合戦に際して村上軍の主力は、浦野氏や内村方面への攻撃にも向けられ、浦野氏と村上氏の争いがどの程度行われた解らないが、浦野氏は村上氏に屈している。
 海野攻めに勝利して帰国した武田氏にとって前代未聞の大事件が起きた。甲斐に帰ってわずか20日もたたない614日、21歳の嫡男の信玄により、親の信虎が駿河の今川氏の元へ追放されてしまった。海野平の戦いは武田氏の先立ちで始まったが、終わった直後、武田氏は盟主の追放さわぎで海野平に関わっているどころではなかった。この戦で一番得をしたのは、村上氏ということになる。
 上田原の戦い 天文172月(1548
 甲斐武田氏の信濃国を巡る攻防は、晴信の父親である信虎の代より諏訪氏や村上氏と結んで行われていた。やがて父信虎を追放し当主になった晴信は、かつて同盟も結んだ諏訪氏や高遠氏を滅ぼし順風満帆に信濃国に勢力を拡大していく。そこに立ちはだかるのが、北信濃に勢力をもつ天敵ともいえる存在となった村上義清であり、天文17年(1548)、武田晴信と村上義清が最初の激突をしたのが「上田原の戦い」である。
①信玄の信濃国侵攻 強敵村上義清との衝突
 天文
10年(1542)以降、晴信はしきりに信濃国に侵攻を繰り返し、佐久郡制圧を試みていた。天文15年(1546)からは一気に制圧が加速し、同年5月に佐久郡の内山城を陥落させて大井氏を降し、さらに翌天文167月(1547)には佐久郡の志賀城を攻めた。志賀城の笠原氏は関東管領の上杉憲政の援助を受けるも、肝心の援軍が小田井原の戦いで大敗を喫し、このときに武田方が討ち取った3000の首級(しるし=首)を志賀城の周囲に並べたことで守兵の士気は大いに低下し志賀城は陥落、将兵らは討ち死し捕虜となった兵は奴隷扱いとなり女子供は売られた。このような過酷な侵略と処分によって、晴信は佐久郡をほぼ制圧することに成功した。
②上田原の戦い 北信濃で最大勢力の村上氏
 晴信の信濃国での勢力拡大は順調に進んでいたが、佐久郡を制圧したことで、北信濃最大勢力を誇る村上義清の領地と隣接することとなり両者の激突は避けられないものとなった。村上氏は清和源氏の流れを汲む名族であり、鎌倉期には幕府の御家人となり、室町期には本拠地を植科郡の葛尾城に移し、植科郡の他、高井郡、水内郡、更級郡、そして当主が義清の代になると、小県郡にまで勢力を拡大し、海野氏を追い出す勢いであった。勇猛果敢な武田勢に対し怖気づく豪族が多くいたが義清は違った。義清もまた猛将として知られていた。先祖代々の領土を守るため、信玄に降る気など全くなかった。そして天文
17年(1548)、晴信と義清が最初の激突をした。これが「上田原の戦い」である。
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③「上田原の戦い(1548)」は・・・・晴信が初めて敗北を喫した屈辱の一戦
・戦いの経緯
1:千曲川を挟んでの布陣
 
118日、晴信は諸将らに「信濃国が思い通りになったら、働きに応じて所領を与える」と約束し、士気を大いに高め、21日には5000軍勢を率い進軍を開始した。そして上原城(茅野市)で、城代を務める板垣信方や諏訪衆、郡内衆を率いる小山田信有と合流。武田勢は8000ほどの大軍となり、そのまま大門峠を越えて小県郡の南に進軍し千曲川南に布陣した。それに対し、義清は本拠地である葛尾城と砥石城の守りを固め、さらに南の上田原まで兵を展開し、防衛ラインを築いた。晴信と義清は千曲川を挟んでにらみ合う状態になった。村上方の軍勢はおよそ5000ほどだったと『甲陽軍鑑』に記されてる。この時、もと小県郡を支配していた海野氏の一族である真田幸綱が先陣を願い出るも、晴信は最も信頼していた板垣信方に先陣を任せた。214日には、戦場での経験豊富な板垣信方を先頭に、晴信の実弟である武田信繁、小山田信有らが上田原に進撃し村上方の守りを破った。
・戦いの経緯
2:晴信の油断か、板垣信方の油断か
 ここまでは武田方の優勢なのですが、守りを突き破った時点で勝鬨をあげた板垣信方は早々と首実検を始めた。義清を討ったわけではないのに、もはや味方の勝ちは確実と考えたのでしょう。板垣信方は武田四天王のひとりとして抜群の手柄を挙げてきたが、やや増長していたようです。信玄は事前に板垣信方を諫めるべく和歌を送っています。ここで油断した板垣信方の隙を突き、村上勢が反撃に転じた。馬に乗る前に板垣信方は討ち死。先陣が乱れたことで武田方は浮足立ち本陣にまで攻め込まれ、晴信はこの時二箇所の傷を負ったようです。武田四天王のひとり甘利虎泰もまた晴信を守るべく討ち死にしています。『勝山記』によると、さらに初鹿野伝右衛門尉、才間河内守といった名のある武将も討ち死にし、武田方は
7001200人の戦死者を出して敗れたと伝わっています。一般的には信玄の驕りによって生んだ敗戦とされていますが、どうやら敗戦の原因は板垣信方の先陣の采配にあったようです。一説には守りを破って、そのまま深入りしたところを討たれたとも伝わっています。志賀城の一件もあり、緒戦を勝利して打ち破れば敵は恐れおののき逃げ出すものと思い込んでいたのでしょう。しかし、村上勢の士気はこれまでの敵以上に強かったということでしょう。もしかすると義清はその隙を誘う戦略を練っていた可能性もあります。
・戦いの経緯
320日間「シハヲ踏む」晴信
 追撃したい村上勢でしたが、損害は大きく、
3001700人の戦死者を出していた。晴信がすぐに退却していれば勢いで追撃できたかもしれませんが、晴信は退かずに陣を固くし、20日間以上戦場に滞在を続けた。『甲陽軍鑑』では戦場に留まることを、「シハヲ踏む」と表現しています。晴信が負けたとなると信濃国一帯で反乱が起きることは目に見えていた。当時は、「合戦の終了時に先に戦場を去った方が負け」という認識だったため、負けを認めたくない晴信は戦場に留まったとも言われる。その後、晴信の母親である大井の方の説得で引き上げ、35日には上原城に戻り、26日には甲府へ向けて帰国した。
 塩尻峠の戦い(勝弦峠の合戦) 天文177月(1548
 村上に援軍も出さず、様子を見ていた小笠原長時は、上田原の戦いで武田の敗北を知ると、村上氏や仁科氏、妹婿で一度武田氏に降参した藤沢頼親などと共に諏訪へ進入し、天文1745日(1548)諏訪下社を攻めた。425日には村上勢が佐久に侵入。武田勢・上原昌辰の守備する内山城に放火。小笠原長時は、610日にも再び諏訪下社へ侵入するが、諏訪下社の地元人が協力して迎え撃った為、小笠原長時の身辺に仕える馬回りの17騎と雑兵100人余りが討ち取られ小笠原長時自身も2箇所に傷を負った。6月に村上義清は田口城を落として田口長能を復帰させ、大井行頼と共同して旧領の佐久・岩尾城を回復した。更に、710日、諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族矢島氏、花岡氏らが、小笠原長時に通じ、武田に反旗を翻し、武田勢の神長官・守矢頼真や千野靱負尉らは上原城へ撤退し、武田氏の諏訪支配が危うくなった。元々も情報が入っていたのだろう。武田晴信は711日に甲府を出陣。しかし、行動はとても慎重で18日になっても甲斐領内・跡部氏の田屋に留まりから出る様子を見せなかったが、実は小笠原勢を油断させる作戦であった。
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 718日からは進行速度を全速にして大井の森(北杜市長坂町)より上原城に入り、すぐさま深夜ひそかに進軍し、夜陰に紛れて小笠原勢近くまで押し出した。そして、塩尻峠の峰に本陣を置いていた小笠原勢500019日早朝に急襲した。「朝懸け」と言われ、その進軍速度はまさに風林火山で言う「はやきこと風の如く」である。武田本隊はまだ来ないと、防御体制もできていなかった小笠原勢は不意を突かれて大混乱となり大敗北。1000名を超える死者を出し敗走した。ただ、この敗北には、小笠原勢の三村長親、西牧信道らが武田に内応して背後から小笠原長時を襲ったとも言われ、また、戦いのさなか、小笠原氏の一門衆である仁科盛明が戦後の恩賞条件として小笠原長時に下諏訪の領主になることを願い出たが拒否されて、戦わずして戦線を離脱したことが敗因とも言われており、武田の調略による勝利もあったようだ。
武田勢は諏訪・西方衆も追討し、西方衆の家々に火をかけ、また、勢いに乗じて、小笠原氏の本拠地・府中(松本市)まで追撃。林城付近を焼き払って、
725日上原城に帰陣した。武田勢はすぐさま佐久に進軍し、818日には小山田信有を大将として田口城を包囲。その後、武田晴信自らも出陣し、911日には前山城を攻めて田口長能を初め数百人を討ち取り、近辺の13城も落ちた。912日には5000人ほどの首をとり、無数の男女を生け捕ったという。そして、武田勢は104日には小笠原氏居城・林城まで約6kmの地点(松本市芳川小屋)に村井城を総普請開始し松本方面へ本格的な侵入の準備を開始した。塩尻峠の戦いで大敗した小笠原勢は、戦力も衰退し、戦線離脱していた仁科盛明らが武田に寝返るなど、以後武田勢の進入を止めるだけの力すらなくなっていた。
 翌天文
18823日(1549)には、武田晴信が佐久の桜井山城に入り、94日には平原城(小諸市)に放火し占拠。これら一連の軍事行動により、佐久郡はふたたび武田氏の勢力下に入り、佐久の失地を回復した。以後、信濃の村上氏・小笠原氏は武田勢の巧みな戦術に打って出て抵抗できるだけの戦力はなく川中島の戦いまで野戦は行われなかった。
 砥石城崩れ 天文199月(1550
 天文19年(1550)、武田晴信は小笠原氏攻略の為、73日甲府を出発、10日に村井城に入っている。15日夕刻、林城に近い出城の1つである小笠原勢の犬飼城(犬甘城)が武田勢の攻撃を受け落城。その夜、小笠原勢の大城(林城)、深志城(松本城)、岡田城(伊深城)、桐原城、山家城の5城では城兵が逃亡し、島立城(荒井館・浅間城)の2城は武田に降参した。小笠原勢の大町・仁科道外、青柳城主・青柳頼長、苅谷原城主・赤沢経康らも、前後して武田に屈したようで、小笠原長時は平瀬城に落ちやがて葛尾城の村上義清を頼っている。晴信は小笠原氏本拠だった林城を破棄。19日深志城の鍬立式を行い、23日には深志城(松本城)の総普請を開始した。
 小笠原氏を攻略した晴信は、村上義清が中野小館の高梨政頼と対陣している隙をついて、村上勢の信濃・砥石城を攻略する作戦を立てる。
824日には今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して砥石城を検分。25日には大井信常、横田高松、原虎胤らを再度砥石城に派遣し検分させた。武田勢は27日に長窪城を発ち、29日以降に着陣。829日には晴信自らが砥石城際まで馬を寄せて検分し村上勢に開戦を通告する矢入れを行った。武田の真田幸隆らが村上方諸将への調略実施しており、海津に館を構える清野氏は武田に降伏。93日から全軍が砥石城に接近し、99日から武田勢7000で総攻撃したが、村上勢500が守る砥石城は落ちなかった。砥石城は本拠葛尾城の支城であるが、葛尾城より縄張りの規模が大きく、三方を崖に囲まれた天然の要害であり、また武田に恨みある志賀城攻めの残党が多く、10日経っても落城しなかった。そんな中、村上義清は対陣していたと高梨政頼と913日に和睦し、急遽、砥石城を後詰(救援)に向かった。まず、武田方になっていた寺尾城を攻撃。この時、地蔵峠を越えて、寺尾氏を救援しようと真田幸隆が軍を進めたが間に合わなかったとされている。9月末になっても砥石城は落ちず、村上本隊が到着すると不利と考え、武田晴信は評定の上撤退を決定。101日に撤退開始し、順次大門峠を目指したが、村上義清の本隊2000が後詰に到着し撤退する武田勢を追撃した。武田に降伏した将の一人に村上義清が扮して武田陣内に紛れ込み武田勢を大混乱に陥れたとも言われている。このように村上義清は、甲斐に戻る武田勢を追撃した。武田勢は判断の遅れが命取りになり、晴信も影武者をたてて窮地を脱するなど、村上勢は「砥石崩れ」と呼ばれる大勝を治め、晴信は生涯最大の敗北となった。
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 武田勢は戦上手で弓にも優れていたと言う重臣・横田高松(横田備中)がしんがりを勤めて討死の他、渡辺雲州が戦死するなど、「ほうほうの体」で望月城に敗走したと言われている。小山田有信も城攻めで重傷を負ったとされており、数年後死亡。武田の死者720名。村上勢の死者は193名であったと言われている。
 砥石城乗取 天文205月(1551
 天文20526日(1551)、砥石城は、武田氏の配下になっていた真田幸隆の謀計により落城してしまいます。天下一の戦上手といわれた甲州軍が、前の年40日もかかっても落とすことができなかった堅固な城を落とした幸隆はどんな作戦をとったのでしょう。晴信が甲府に引き上げた後も地元に留まり、村上の内部工作に奔走したものと思われます。その成否は、今後の命運を決するものだけに懸命な働きが続けられたのでしょう。この年の4月・5月、晴信は甲府にいて屋形の普請を行い、村上方にすれば武田軍が来攻する恐れも少なく、砥石城も守兵もわずかにして、守りを手薄にしていたかと思われます。その隙をついて地理や城の状況にくわしい真田幸隆が、戦闘らしい戦闘も行わず落としてしまったのでしょう。駒井高白斎の日記「高白斎記」には一言「砥石城真田乗取」との記述があり、以後、砥石城は真田氏に与えられた。この砥石城攻略という快挙は、幸隆にとって二つの大きな意味を持っていました。一つは怨敵おんてき村上義清を破り、本拠地真田を奪還できたのに加え、上田平に千貫文の地を保障されたことであり、もう一つは武田配下としての地位を確立し、以後真田氏の伸展に大きな力を得たことです。その後、砥石城は真田氏が上田城を築くまでその居城となりますが、上田城へ移った後も上田城外護(周辺を守る)の城として重要視されます。
 本城の西の守りは、西斜面に造られた「福沢曲輪」(=福沢出丸)と呼ばれる小曲輪が担っており、本城の北側に付けられた堀切を下っていくと着けるようになっている。この「出丸」(=福沢曲輪)をさらに西に下ると、西側山麓の金剛寺集落に出る。つまり西側からの攻撃にも配慮して、「福沢出丸」(=福沢曲輪)を造っておいたのだろう。「福沢曲輪」は尾根上の「本城」より三十四間(≒62m)下るとある。
 村上氏の衰退 天文21年~22年(1552-1553)以下重複するも此処で記載する
 家臣の切り崩しにあい、小笠原氏を充分に助けられない村上義清の影響力は低下する一方だったが、村上勢は反撃もしている。城攻め後の守衛の名人で、落城後は必ずそこの守衛にあたった武田譜代の重臣の石田小山田系・小山田昌辰を、天文2138日(1552)「常田の戦い」(上田市)で討ち取り、武田普代の家臣・栗原昌清には重傷を負わせ45日後に死亡させるなど村上勢は再び佐久にて抵抗をした。しかし、武田家が再び今川家との関係を強化し、小笠原氏が完全に実力を失ったのを目の前で見た村上氏の家臣団の動揺は止まらなかった。晴信は信濃進出をより強化する為、106日、甲府より諏訪に至る棒道の建設を佐久郡の高見沢氏に命じている。
 天文
22124日(1553)には仁科城(森城))主の名門仁科氏、仁科盛康が武田に出仕。28日、晴信は小山田昌辰に偽装書状を送り、元服した「武田義信とともに信濃に出陣するが、あくまでもこれは砥石城再興のためであると触れるよう」にと命じ、武田勢が佐久から侵攻すると見せかけ深志城へ進軍した。武田の調略により3月村上勢の大須賀久兵衛が謀反。大須賀氏は狐落城を攻め小島兵庫助が弟の小島小四郎・与四郎と共に討死し狐落城は武田に降伏。323日に武田勢は深志城を出て、その日の午後には苅谷原城(松本市)を包囲。330日に城の周囲を放火し、41日から攻撃。武田勢の米倉重継は鉄砲玉避けの竹束を使って城攻めしたと言われ、42日には苅谷原城・太田資忠(太田道灌一族)は戦死。苅谷原城が武田の手に落ちるとその日の夕方には塔ノ原城(安曇野市)も武田に降伏。43日には虚空蔵山(会田城)も放火され会田氏が降伏。45日には宝賀城の宝賀信俊、荒砥城主・屋代政国(屋代越中守政国)・屋代満正、市川信綱、楽巌寺雅方など村上勢の諸将が武田に降伏した。それら、旧村上家臣は武田勢の先陣となり武田信繁を大将に十二頭が村上義清の本拠葛尾城の攻略に46日出発。葛尾城内では大混乱に陥ったと言う。48日、晴信は今福友清を深志城守りの要とも言える苅谷原城主に任命。小泉城主・小泉重成、出浦守清、布下雅朝らも前後して晴信に下った。49日(1553)、村上義清は戦わず葛尾城を一時脱出し葛尾城は自落した。415日武田本隊は青柳城まで進出する一方、長尾勢が進軍の報を得て武田八頭の軍は川中島まで出た。その間、416日更級の高坂氏が武田に出仕。
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 417日から青柳城の改修を開始した。村上義清は、葛尾城脱出後、従った者をまとめ、更に越後・上杉氏の援軍を得て5000の兵力となり、420日更埴市八幡附近で武田軍と戦闘。422日には葛尾城の城代・於曾源八郎を討ち取り葛尾城奪還するだけでなく村上義清は塩田城も奪い返す大反撃に出た。
 常田合戦(地蔵峠の戦い) 天文213月(1552
 『甲陽軍鑑』(武田氏の戦略・戦術を記した軍学書)の「信州の時田(常田)合戦の事」(以下「常田合戦」という)は、天文213月(1552)地蔵峠で行われた。時期的に定説にはない戦いである。そもそも、甲越両軍の合戦(武田vs長尾)は、坂城・葛尾城主村上義清が、天文22年(1553)晴信によって坂城(葛尾城落城)を追われ、越後の景虎を頼って逃れたことが発端であるから、「常田合戦」には史実上の疑問点(年次の逆)が多い。ただ、戸石城を失った義清が、北信濃の高梨・須田・井上等の豪族と語らい、一矢を報いようと地蔵峠越えに戦いを挑んだことが誤り伝えられたのかもしれない。
 真偽はともかく『甲陽軍鑑』の記述をもとに常田合戦を再現してみよう。地蔵峠は、北国街道(現国道
18号線)の脇往還である地蔵峠道の真田町傍陽と長野市松代の境界上に位置している。地蔵峠道は、上田市長島を起点に、同金剛寺、真田町曲尾、同軽井沢を経て長野市松代に至る街道である。現在の道は、県道35号長野真田線と称され、国道144号線の真田町荒井から分岐している。真田町側は比較的緩傾斜で峠まで上っていくが、長野市側は急な斜面を九十九折りの道路が縫っている。下りきると、しばらくして松代の市街地となる。地蔵峠からは、戸隠連山や飯綱山を背景に善光寺平の眺望が見事である。常田合戦はこの峠を挟んで行われた。松代側から上杉軍が峠頂に向け進軍、武田軍は真田町側から迎え撃った。天文213月(1552)のことである。
 東信濃の拠点であった戸石城(
1551)を失い、その勢力に陰りが見えた坂城の村上義清と、一方、晴信によって、本拠である松本・深志城を追われた小笠原長時の両者は、長尾景虎に加勢を乞い信濃への出馬を要請した。「このままでは、いずれ武田晴信は北信濃をも席巻するであろう。となると、わが越後にも累が及ぶ。今のうちに禍根は断たねばならぬ」と景虎は出馬を決意した。それに、景虎は義理堅い武将で、頼まれれば嫌と言えない性格を持っていた。「まずは戸石城奪還のため、小県に向け出陣する」(これなら理に叶う)と、景虎の号令は下った。32日春日山城を発向し、38日地蔵峠に着陣した上杉軍はこの辺りの民家に放火したり狼藉を働いたりした。かたや武田軍も信越国境に多くの間者を放ち、上杉軍の動静を探り上杉軍の出陣を知ると、武田軍もまた甲府を出発、これも38日地蔵峠下に着陣した。まさに疾風迅雷の行動であった。この時、晴信はわずかな近習を伴ない一騎駆けに出馬し、諸将はこれを追うようにして出陣したという。上杉軍の先陣は、景虎の姉婿の長尾越前守政景(長尾政景)である。配下の桃井清七郎・平賀久七郎・唐崎孫次郎以下三千余騎の兵を率いて、地蔵峠を越えるべく九十九折りの道を進み峠を越えた。この時、景虎は政景に「政景、この度は敵を深追いせず一戦したら一度は退かれよ。わしに含むところがあれば」と使いを出した。これを聞いた政景は、「若い者(景虎より4つ年上)に教えられるには及ばぬわ」と、満面に怒りを現わし退却にかかった。以前から景虎と政景の間に確執(政景の謎多き12年後の突然死は謙信による粛清説もある)があり、上杉軍に統率の乱れがあったことがうかがえる。一方、武田軍は、上杉軍の小県への侵入を阻止しようと、飯富兵部・小山田備中・小山田左衛門・真田一徳斎幸隆(=真田幸隆・幸綱)・芦田下野・栗原左衛門佐等の軍勢を押し立て退却する政景軍を追撃した。地蔵峠にかかった政景軍は、大返し(総退却の時に逆に全軍で引き返し戦うこと)の戦略を取ったため激戦となった。戦いは最初のうち武田軍は劣勢で、小山田左衛門・栗原等は傷つき、小山田備中は討ち死にした。しかし、晴信の旗本先陣の甘利左衛門尉・馬場民部・内藤修理の三隊の働きが目覚ましく、攻撃態勢を立て直して長尾軍に襲いかかったため勝敗の趨勢は逆転し武田軍は勝利を博した。「越後衆を雑兵ともに七百十三人を打ち取り、勝鬨(かちどき)を執行なされる。信州常田合戦(小県郡)というのがこれである」。また、「先陣の中で真田一徳斎は、返して義景(政景のこと)がひかえさせていた中の備え陣に突込み切りかかって崩し多勢をうちとる。それで義景は敗走してただ二三騎で峠を越えて退いた。」と、『甲陽軍鑑』は武田軍の戦勝と幸隆の働き振りを記して「品三十」の文を締めくくっている。地蔵峠で行われた合戦が、なぜ常田合戦と呼ばれたか疑問が残る。
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※海野平の戦いにより上野国に亡命していた真田幸綱は、晴信への家督交代後の武田家に仕官し、幸綱は村上勢の武将切り崩し調略を行う。その結果、天文20年(1551)には幸綱により砥石城が攻略される。砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通していたためであった。これにより村上義清の影響力(砥石城には福沢曲館があり主力は福沢勢、砥石城は落城しているが地蔵峠は地蔵峠道で14km、葛尾城へは傍陽川沿いに登り詰め和平越えで坂城に下る山道もある)は一気に低下し、天文21年(1552)の常田の戦いで勝利を収めるも家臣団の動揺を抑えられなくなった。
 川中島の戦い (1548-1564
 川中島の戦いとは、1553~1564年におこなわれた甲斐の虎「武田信玄こと晴信」と越後の風雲児「上杉謙信こと長尾景虎」との間に起きた戦いである。5回にも及ぶ合戦(通して川中島の戦い)が繰り広げられましたが、一般的には一番大きい戦となった第四次合戦を「川中島の戦い」と呼ぶことが多い。元々は、甲斐の守護武田晴信が信濃攻略を目指して勢力を強める中、信濃の国衆の本領復帰のため、立ち上がった長尾景虎との間に起きた戦です。武田家は、信濃を攻略の後は景虎の本拠地・越後攻略をも目指していました。しかしながら、そこに景虎が立ちはだかり、川中島一体を武田領にする事はできたものの、越後侵略は諦めざるを得ませんでした。
 第一次合戦(布施の戦い、更級八幡の戦い) 天文22年(1553
 当時は戦国真っ只中、各地の大名達が領土拡大のため戦を繰り広げていました。甲斐統一を果たした武田家も例外ではなく、信濃へと領土拡大を進めるべく進軍を繰り返していました。着々と現地の国衆を撃破して、勢力を強める武田家を相手に最後まで抵抗したのが村上義清です。実際、晴信は上田原の戦いで義清に敗北をきしますが、その後、砥石城を超略すると後がない義清は信濃の背後にいる越後の景虎を頼りました。
 
第一次合戦は、村上義清の本城(葛尾城)と福沢昌景の塩田城が自落した戦いです。
4月、晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった義清は、「葛尾城」を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して景虎に支援を願った。
5月、義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、「八幡の戦い」(千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、義清は葛尾城奪回に成功する。
7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し村上氏方の諸城を落とし村上義清の「塩田城」(福沢昌景)を攻めた。
8月、義清は葛尾城を捨てて(葛尾城落城)越後国へ逃れる。福沢昌景の塩田城自落。
9月、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。「布施の戦い」(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて「荒砥城」(現千曲市上山田地区)を落とし「青柳城」を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する「苅屋原城」救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに「荒砥城」に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして越後国へ引き揚げた。
10月、晴信は本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
 景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。(第一次合戦については更に細かく後述)
 
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 第二次合戦~第五次合
第二次合戦(犀川の戦い) 天文24年(1555) 長野市青木島町;犀川南遊園地と犀川第二緑地
 景虎との対立姿勢を強めた晴信は、相模の北条氏康・駿河の今川義元を通じて三国同盟を結び景虎に対抗姿勢を強めます。当時の今川は大国、北条は関東を拠点に勢力を強め景虎とも敵対していたので、武田としては格好の後ろ楯を得た事になる。その上、景虎の家臣・北条高広を武田に寝返らせるなど、信玄の攻防は強まります。特に善光寺(善光寺を巡る戦い)の国衆が武田に寝返った事で、景虎への圧力は強まり再び川中島で対峙する事になる。
200日に及ぶこの激戦は、両軍共に兵糧が尽きるなど結局正確な勝敗はつかなく双方の撤退となった。
第三次合戦(上野原の戦い/尼飾城の戦い) 弘治
3年(1557);尼飾城(尼厳城)長野市松代町、尼厳山
 その後も勢力を強める信玄に追撃するべく出陣する景虎でしたが、家臣の大熊朝秀が寝返るなど、ほとほと嫌気が差したのか、景虎は出家隠遁事件を起こします。流石の景虎も家臣には裏切られ一揆が起きるわ、義清には期待されるなど、俗世が嫌になってしまったのかもしれませんね。結局家臣の説得により思い止まり、出陣すると猛攻の末、尼飾城を攻めますが、武田方は決戦を避け、お互い勝敗をきすことなく撤退を余儀無くされるのでした。そんな中、京では時の将軍・足利義輝が内紛により京から追放されるなど、慌ただしい世情となっていました。義輝は自身救済の為に景虎を頼り、この長引く戦の調停役に入ると義輝の計らいで和睦を結ぶ事となります。一応将軍の手前和睦を結ぶ信玄ですが、はなからすでに失墜してる将軍の言いなりになる気などなく、早々に第四次合戦への幕開けとなるのでした。
第四次合戦(川中島の戦い/八幡原の戦い;長野市小島田町、川中島古戦場跡) 永禄
4年(1561
 第四次合戦は、全ての戦の中で最も大規模な接戦が繰り広げられ、お互い数千人もの死者を出す事となりました。お互い相手が強いと分かっているだけに下手に攻撃しないと言う出し惜しみ戦法を取り膠着状態が続いていました。しかし、いつまでも勝敗のない戦を続けても仕方がなく武田方は別動隊を編成すると挟み撃ちにする戦法に動き出します。流石の上杉方も先にそれを読み、別動隊が布陣している夜間に静かに本隊の配置を変えると朝方には武田の本陣前へと布陣したのでした。一気に武田の本陣へと攻め混んで来た上杉勢は、何と景虎本人が単身乗り込み信玄と一騎討ちを果たします。これが世に言う有名な一騎討ちシーンで、後の創作とも言われていますが、当時の目撃段として景虎自らが太刀を震ったと言う書き残しも有り、あながち嘘では無いのかもしれません。
 武田信玄は軍配でそれを受け止めたとされ、激しい攻防戦でしたが、結局首を取る事はできず、仕舞いで別動隊も本隊に合流した事から、景虎も兵を退き、結局今回も明確な勝敗はつきませんでした。しかし、武田勢は信玄の右腕として常に支えてくれていた弟・武田信繁が撃ち取られたほか、軍師として名高い山本勘助(山本勘助の墓;長野市松代町柴、千曲川河川敷)、重臣の諸角虎光という幹部の家臣達が撃ち取られ武田としては痛恨のミスでした。
第五次合戦(塩崎の対陣;塩崎城跡=長野市篠ノ井塩崎、長谷寺に登城口、後方の山) 永禄
7年(1564
 景虎は、弥彦神社に必ずや信玄を討つと奉納している事から、強い意思で再び出陣します。お互い塩崎城を境目に布陣するも、特に信玄側は決戦を避け二ヶ月もの間お互い膠着状態の末にらみあいを続けていました。結局大きな合戦をする事はなく、景虎も強い志で出陣しておきながらお互い兵をひき、結局勝敗をきす事はありませんでした。流石にお互い考えを変えたのか、特に信玄はその後東海や美濃に関心が向き、景虎も関東官領に就任したことで関東平定に忙しく、言ってみればお互いいつまでも勝敗が付かない相手に構っている暇がなくなったとも言えます。また、隣国の体制も変わりつつあり、特に大国であったはずの今川がその根幹が揺るがされ始めており、織田の勢力が強まっていて、時代の移ろいが変わって来たと言わざるを得ませんでした。
 補足;村上氏の没落と川中島の戦い
 甲府に戻っていた武田晴信は、天文2261日(1553)軍議を開き、村上義清が立て篭もり、奪われている塩田城を攻めを決定。6月中の出発を予定したが、京の将軍家より使者が来るため出発を延期した。
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 723日に使者が来て、嫡男・太郎に将軍より「義」の字を与えられ武田義信と改名する。725日に大軍を率いて再び甲府を出発した。須玉の若神子城、728日佐久の内山城を経て進軍すると、元村上勢で越後・長尾氏に内応した和田信定(大井信定)の籠る和田城が81日自落。84日には武石城も自落。武田勢は同じ84日高烏屋城を攻撃して落とした。そして武田勢は塩田城を目指すが、村上勢だけでは大軍を迎えることができず窮地に追い詰められた村上義清は行方をくらます。85日には塩田城もなんなく落城し、村上勢の諸城16(不詳)は1日で落ちた。以後、村上義清は長尾景虎を頼って越後に落ち延びる。晴信は、真田幸隆らに恩賞として秋和の地を与え、塩田城代に飯富虎昌(飯富兵部少輔虎昌)を配置。
 越後に向かった村上義清は、
828日春日山城下で宇佐見良勝を訪問。村上残党は水内・芋川城に入り、援軍として出陣してきた越後・長尾勢と合流し再び信濃を目指す。この時は景虎が自ら出陣したとされ、村上氏の援軍として信濃に出ると、晴信は飯富虎昌を後方の室賀城(笹洞城・原畑城)に移動させ、晴信自身は塩田城に本陣を置き、ついに晴信は景虎と始めて対峙することになる。
 長尾勢は、布施(現在の篠ノ井)で村上義清を裏切った狐落城主・大須賀久兵衛を破り(布施の戦い)、
91日八幡で武田勢の小勢を破り、荒砥城(新砥城・荒戸城)を占領。そして93日青柳城に放火すると、武田勢は苅谷原城に山宮氏を配置し、更に飯富左京亮らを援軍として送り、913日には長尾勢が占拠していた荒砥城を夜襲し奪還のうえ、青柳城を攻撃。長尾勢の退路を絶つ作戦に出た。武田は麻績の窪村源左衛門、長尾勢の禰津冶部少輔らを討ち取っている。この武田の反撃に長尾勢は915日に八幡(布施)まで一時撤退。917日に坂木南条に放火したものの武田勢本陣がある塩田城は撃って出る様子もなく、景虎も決戦を避けて、920日越後へ撤退した。これが、最初の川中島合戦(第一次川中島の戦い)である。晴信は、107日塩田城を出て深志城へ向かい、1017日甲府に帰還している。以後、村上義清の要請などに答えて、川中島で計5回も長尾勢(上杉勢)と武田勢は対峙することになる。
 補足;その後の村上氏
 村上家臣だった小泉城主・小泉重成、出浦守清、布下雅朝、市川信綱、楽巌寺雅方、屋代政国・屋代満正らは村上義清が越後に落ち延びた際に武田晴信に下った。屋代氏はのちの江戸時代に安房10000石の大名になっている。村上義清は上杉勢の根知城5万石を1565年に与えられ、旧来の家臣、井上清政、須田満親らが従った。嫡男の村上国清とともに上杉家の属軍となる。村上国清は上杉謙信の養子に迎えられて上杉氏一門の山浦姓となり、山浦景国と改名し、完全に上杉氏の家臣となった。上杉景勝に次ぐ上杉家臣第2位の地位であった。武田信玄が死去する少し前の157323日に村上義清は、越後・根知城にて病死、享年73
 ちなみに、
1582年甲斐・武田氏が滅亡すると。山浦景国(義清の子)は上杉氏が支配していた海津城代に任命され、父・村上義清の旧領に一時復帰している。しかし、副将だった一族の屋代秀正が、徳川家康に内通し荒砥城に立籠る事件が発生し、村上国清(山浦景国)はその責任を問われ、城代は解任。奉公人が2人だけ付き従うだけの有り様に没落したとも言われている。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにも参陣したとも言われ、1598年、上杉家の会津移封に従い、市川房綱とともに塩之森城代となり6500石を知行。
 補足;塩田城攻め
 葛尾城の自落を知った信晴は、511日に一旦、甲府へ帰陣しています。そして、休む間もなく、621日には、次の目的地を「村上の残党福沢昌景などが守る小県郡の塩田城」に定めています。塩田城は独鋸山を背にした弘法山の北斜面に築かれ、広大な山腹一帯に多数の郭を備えた文字とおりの要害です。しかし周辺の諸将は度重なる武田方の攻撃で追い払われたり、武田方に出仕したりで、頼るべき武将もみあたらない状況でした。
 
725日、晴信は甲府を出発―若神子(山梨県)―佐久海ノ口(南佐久郡南牧村)―28日内山城―30日望月城と進軍し、81日には長窪城で陣を整えた後、和田城(小県郡長和町旧和田村)を落として城主以下を討ち取り、4日には高鳥屋(上田市武石と丸子の境)を攻撃して、これも全員討ち死にさせ、続いて内村の城(上田市丸子)も落城させ、塩田城の後背部を攻略した。このため塩田城は、すっかり戦意を失って5日に自落。
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 自落という言葉は、晴信の城攻め作戦の中によく出てきます。戦いの前にひそかにデマを広め、また忍びのものが入りこんで、戦闘用具などを使用不能にしておくこともあったといいます。城兵の戦意をなくすことを目的とし、戦闘の前に城を逃げ出したり、戦わずして降参という場合が自落です。それだけ、武田軍の強さが恐れられていたことを物語るものでありましょうし、塩田城の場合は、先の和田城、高鳥屋城の籠城衆が皆、討ち殺されたことが城兵たちに恐怖感を与えたのかも知れません。これで小県郡内から晴信に敵対する勢力はすべて撃退され、室賀・小泉氏等も武田配下となり所領を安堵されました。
 補足;第一次合戦
 天文2191日、越後勢は八幡(千曲市)にいた武田軍を追い、さらに武田配下にあった荒砥城(千曲市上山田)、青柳城(筑北村)を破り、麻績(麻績村)、会田(松本市四賀)虚空蔵城まで取り返しました。塩田城にいた武田軍もただちに兵をくりだし、13日の夜、麻績、荒砥城に放火させ、反撃を示しました。この時、室賀山城守信俊の手勢が敵の首七つを取ったと『高白斎記』は書き留めています。17日、越後勢が坂城南条付近まで進出、武田軍もこれを迎え撃ちましたが、20日謙信は急に兵を引き上げました。これは、景虎が弾正少弼に任ぜられ、従五位に序せられたので朝廷や将軍にその答礼のため、京都へ上る期日が迫っていたからです。
 補足;塩田城落城後の福沢氏の去就
 武田軍に再度敗れた村上義清は再び越後へ逃れ、景虎より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。「保元の乱」「平治の乱」に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ、昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。
 伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にある。福沢氏はこの縁を頼って伊予へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、
※豊前中津藩奥平家への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢氏は無事に幕末を迎えたという。
 ※豊前中津藩奥平家(中津藩の藩史)
 天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高(如水)が入部し、123000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600)、筑前福岡藩に523100石で加増移封された。代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より399000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。同年、播磨明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し、再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の長円が半減の4万石をもって跡を継いだ。享保元年(1716)、第5代藩主・長邕が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。享保2年(1717)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年(1871)の廃藩置県まで9155年間支配するところとなった。
 ところで、中津藩が出来たのは慶長5年(1600)、藩主は黒田長政である。享保2年(1717)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年(1871)の廃藩置県まで9155年間支配するところとなった。塩田城が自落したのは天文22年(1553)である。塩田福沢氏、創藩当初に仕官したとしても塩田城自落より47年後ということになる。47年後と言えば福沢昌景の孫世代に当る。この頃の信濃国小県郡では、「上田合戦」(第一次;天正10年/1582、第二次;慶長5年/1600)、真田氏と徳川氏の戦いの最中である。福澤家先祖は、先祖六世「成圓院願誉宗本居士」(寛永41627卒)、の親世代(先祖五世)、塩田福沢一族にとって昔話・・・・。
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 上田合戦(上田城の戦い、上田城攻防戦) 第一次;天正10年(1582) 第二次;慶長5年(1600
 上田合戦は、信濃国の上田城(上田市)と近隣の山城(砥石城や丸子城)周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏との戦いの総称である。この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585)の戦を第一次、慶長5年(1600)の戦を第二次とし区別する事もある。東信濃の小県郡、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し上田城を築城し塩田城を廃城とした。
 第一次上田合戦 天正10年(1582) 第二次;慶長5年(1600
 天正103月(1582)、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃・上野に及んだ武田遺領は織田氏家臣に分与され武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)、織田氏と友好関係だった北条氏が、北条氏直が指揮を執る56000の兵で織田氏上野に侵攻し、織田政権の関東守護と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は領地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が国人一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条氏方に属していたが、徳川氏方の依田氏の工作により離反する。10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。翌天正11年(1583)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
 天正
13年(1585)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると8月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。82日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける(丸子表の戦い)。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り完全に撤退することになる。
 合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。
なお、この上田合戦に連動して天正
139月(1585)から天正145月(1586)まで、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。
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 第二次上田合戦 慶長5年(1600
 真田昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長56月(1600)、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍の指揮を執る家康に従っていたが、慶長57月下旬(1600)、下野犬伏で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されている。
 徳川家康が指揮を執る東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠が指揮を執る
38000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かった。92日に秀忠は小諸に到着した。93日、昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾する、ところが4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入った。秀忠軍は95日、上田城に接近し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向けると、真田信繁軍は撤退。これにより信之軍は戦わずして戸石城を接収した。戸石城を落とした後、秀忠軍は96日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきたが敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫ったが、ここで秀忠より撤退命令が下る。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進する。
 通常、第二次上田合戦は『烈祖成績』に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記されるように、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗し、またこの敗戦により関ヶ原合戦に遅参したと考えられていた。しかしこれらを裏付ける当時の史料は無く、家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。また秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、
9日に一旦全軍を小諸へと撤収した直後に家康の書状を携えた使者が到着し、その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とされるが、森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田である。秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に915日の関ヶ原本戦に遅参してしまった。いずれにしても秀忠が上田城攻めを諦めたのは、家康の作戦方針の転換による急な参陣命令に従ったまでなのである。つまり秀忠は上田城を攻めあぐねたのではなく、それに専念する時間的な余裕を失い、打倒昌幸という本来の任務を中断せざるをえなくなったまでなのである。上田攻めに秀忠が専念していれば結果は違ったものになった可能性が高いと指摘されている。松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。また、追撃した牧野康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。
 編集後記 福澤家のルーツは「室町時代中期」(南北朝合一後の前期)
 戦国時代は一般的に15世紀後半から16世紀後半、応仁の乱(応仁元年~文明9年/1467~1477)から織田信長の上洛(永禄11年/1568)までの期間とされている。戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするため、都鄙(中央と地方)で約20年の時期差が生じ、始期についても地域ごとに大きく異なっている。慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。
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 室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で守護代を務め、幼少期の古河公方足利成氏を庇護した大井氏、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領山内上杉氏を後ろ盾とした海野氏、逸早く土着し信濃源氏の祖となった井上氏、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く仁科氏などの旧来の名族も健在であった。応仁元年(1467)からの応仁の乱では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍(細川勝元)、府中小笠原氏が西軍(山名宗全)についた。長享元年(1487)の長享・延徳の乱に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍足利義尚、足利義稙に従って出兵した。
 戦国時代には甲斐国や越後国との関係が深まり、諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社の諏訪氏と下社の金刺氏、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡み晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重、仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時や村上義清らを追い、木曾義康や真田幸隆を従属させ、佐久郡において関東管領上杉憲政を破ると(小田井原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従え、一方の高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎を頼り、武田・長尾間の川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571)、三河国山間部を攻略する過程で、同国加茂郡から現・根羽村の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。
 武田晴信の死後、その後を継いだ武田勝頼が上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582)、織田信長に敗れて滅亡、高遠城主仁科盛信らが戦死。その後は織田家の版図に加えられ、北進の森長可、東信の滝川一益、伊那の毛利長秀、諏訪の河尻秀隆、安曇筑摩の木曾義昌らに与えられた。しかし約三ヵ月後には本能寺の変が起き、信濃においても一向一揆が発生し織田家の勢力は瓦解、権力の空白地帯となった信濃には徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が進出した(天正壬午の乱)。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。
 室町文化とは足利氏によって京都に室町幕府が開かれた時代の日本の文化。南北朝文化の後、3代将軍足利義満の時代に北山文化が栄え、ついで8代将軍足利義政の時代に東山文化として成熟した。戦国時代にはさらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。広義には、南北朝文化を含むことがある。
 武家が公家を圧倒し、政治にも大きく成長をとげた時である。征夷大将軍足利氏を中心に有力守護をはじめとする上層武士が京都に多く居住し、伝統的な公家文化とさかんに接触し、また海外との交易によって禅宗をはじめとする大陸文化が伝えられると、武家はその影響を受けながらも、自らの力強さ、簡潔さと公家文化の伝統美を融合させ、新しい武家文化を開化させた。一方、庶民の社会的地位が高まり、商工業の発展にともなって町衆や農民が文化の担い手として登場したことから、文化の面でも幅広い交流がすすみ、庶民性や地方的特色がいっそう強まった。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教の地方への広まりなどはその現れである。猿楽・狂言・連歌などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯として広がった。これらはいずれも多かれ少なかれ団欒的な、あるいは「一味同心」的な性格をもつ芸能・芸道であったが、当時の武士の日常に対応したものであり、惣における庶民の日々の生活、さらに都市民の生活にも合致したものであった。室町文化の流れには
2つの頂点がある。14世紀末に興起した北山文化と15世紀末に興った東山文化がそれであり、武家が政治・経済のみならず文化の面でも時代を代表する存在となった。さらに、16世紀中葉に小書院座敷を中心に発展、天文文化へと続いた。これら都の流行の最先端の文物は戦国時代に広く地方へと普及し多くの小京都が生まれ、国民文化へと発展した。
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 追記 塩田福沢氏の人となり
 定説
 上田市では、こうしたこの地域の貴重な文化資産である写真や記録映像や文化財のデジタル化による保存、蓄積と、さらには再生、再利用を進める活動を「地域映像デジタルアーカイブ事業」として平成7年(1995)から進めています。
●塩田平の文化と歴史「塩田城跡と福沢氏」
 塩田地方は、鎌倉幕府が滅亡するとともに北条氏にかわって村上氏の勢力下におかれた。村上氏はいまの坂城町を本據とした豪族であるが、塩田地方の支配権を握ると、①「重臣福沢氏を代官」として塩田城に置き前進基地とした。(②「福沢氏は室賀峠北麓の要衝福沢の出身」である)
 福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安
5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城しており、天文22年(1553)、武田信玄に攻められて落城するまで少くも百数十年間、村上氏の代官として塩田城を管理していた。時には村上氏が直接ここを居城としていたこともあったらしい。昭和50年から3年間にわたる発掘によって発見されたのは、主としてこの福沢氏在城時代の遺構であり遺物であると推定される。
 「塩田城主福沢氏を見直す」 寺島隆史氏曰く 元上田市立博物館館長、東信史学会常任理事 抜粋記事
 福沢氏の苗字の地は、小県郡に隣接する現埴科郡坂城町村上地区網掛の字福沢とみられている。また、福沢氏は後述のように村上とも称しており、村上氏の庶流として福沢の地に居住したことにより、福沢姓を名乗ったことに相違はないと考えられる。鎌倉時代の塩田庄の諏訪上社頭役(祭祀の責任者の役)は、塩田北条氏が勤めていた。室町時代の塩田庄も同社頭役を勤めており、『諏訪御苻礼之古書』により文安5年(1448)以降は、福沢氏が塩田庄を支配していたことを確認出来る。
 福沢氏が塩田へ入ったのは、文安5年以前に相違なかろうが、いつであるか不明である。これについて『上田小県史』では、福沢氏の塩田入りは、諸情勢からみて南北朝末期以前であったとしている。
 15世紀半ばから後半の福沢氏は、村上氏の家臣として塩田の代官を勤めていただけの存在ではなかった様相が浮かび上がってくる、と言えよう。福沢氏は村上氏に従属はしていたにせよ、ただの家来・代官というわけではなく、独自の家臣団も抱える塩田の領主としての色合いが濃かったように見えるのである。
 家臣団を抱えていたからには、それらに分給する自己の所領を保持していたと考えるのが自然だろう。しかし、福沢氏はこの時期に塩田平以外に本領・知行地を持っていた形跡はない。苗字の地福沢については、それを維持していたかどうかも不明だが、何れにせよ福沢は近世の網掛村の字でしかない狭小の地でもある。かつ、⑨からも明らかなように福沢氏は塩田に在住していた。具体的には、塩田城を本拠としていたことは、後掲の「高野山蓮華定院過去帳」からも確かだが、福沢領が塩田以外に見当たらない中で、その知行地が塩田に全くなかったとは考え難い。塩田城とその城下集落の前山のほか、塩田平の内どれほどかの地が福沢領となっていたと考えてよいのではないか。そして、福沢氏は、残りの村上領については代官として支配、といった存在ではなかったのだろうか。(割込①;本項、筆者が疑問視する塩田福沢氏と坂木福沢氏の両立もしくは塩田本家と坂木分家説にもつながろう
 本契状で福沢(村上)顕胤は「拙者領分僧俗とも・・」と言っている。代官などではなく明らかに自ら領主と称し、この文書を発給しているのである。この時点でも福沢氏は、まだ村上氏に従属する面はあったには違いあるまい。しかし、実質的な塩田の領主として振る舞っていたし、周囲からもそのように見られていた存在だったと言えよう。少なくとも、高野山側からは、海野氏と並ぶ小県の大領主と認識されていた点は疑いない。
 福沢氏は文安以降だけでも80余年、数代にわたる支配の実績があったのだが、その塩田支配が南北朝時代(福澤家初代先祖の祖父母時代)からだったとすると、既に200年近くにわたって塩田を支配していたことになる。福沢氏はこれ以降も滅亡時まで塩田城主であり続けた。
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 福沢氏は村上氏の代官という性格を持ってはいたにせよ、これだけ長期にわたり更迭されることもなかったということは、やはり塩田にかなりの知行地を持っていた事実にもよる、とみてよいのではなかろうか。
 福沢氏が村上氏に反抗の姿勢を見せたという史料は知られていない。しかし、右の大永・享禄年間というと、戦国時代である。守護の代官であった守護代が主家にとって代わる、というような下剋上の乱世であった。福沢氏についても、大変長期にわたる塩田在城の中で、自領以外の当初は代官として預かっていただけの支配地に対する権限も強め、塩田平全体の領主という性格を濃くしていったは自然の流れでもあろう。
 小県(上田盆地)のほぼ中央を貫流する千曲川の右岸(北)の盟主は海野氏だったとして、左岸(南)最大の領主は、武田氏侵入以前より福沢氏であったと言えるだろう。
 福沢氏は、前掲の①文書からうかがわれるように、既に武田氏侵攻以前の享禄3年(1530)段階かそれ以前から、実質的な塩田の領主として振る舞っていた。
 村上知行の塩田の「代官」と書かれていたのは、『御苻礼之古書』(諏訪神社上社の御射山祭)より知られる
15世紀後半きでのことだったとも言えよう。また、その時点でも、福沢氏自身が独自の家臣団を抱える、塩田の領主としての顔も持つ存在でもあることは明らかだった。(補足;p4、福沢氏空白の41年間を指す)
 一方でこの
16世紀半ばの時点での村上氏と福沢氏の具体的関係を示す史料はない。福沢氏は村上氏に従属という面は、まだあったのだろう。しかし、実質的には独立の領主であり、海野平合戦でも村上方の先頭に立って戦い、その戦果として、自らの領域を塩田平の周囲まで大きく広げ、小県郡の千曲川左岸地域の大半とも言える部分を手中にしていた、というべきだろう。
 一つ書き二項目の「内村靏(鶴)寿丸」とは、鎌倉時代より内村の領主であった平(和田)氏の末裔だろう。海野平合戦後、内村も福沢氏領となった中で、靏(鶴)寿丸は「祈禱」つまり祭祀の主催者としてのみ内村での居住が許されたものであろうか。
 本史料は、小県郡関係では最古の寺社への土地寄進状である。家臣への知行宛て行状の類もまだ皆無の時期でもある。何れにせよ、この3年前、天文10年に海野棟網が没落した後では、福沢氏は塩田平周辺地域まで大きくその領域を広げていたことを確認できる。小県では他を圧する最大の領主となっており、その面目が躍如としている寄進状とも言えよう。
 本書状は福沢氏最後の当主昌景のもの。『信濃史料』ではこれを天文23年としているし、『戦国遺文武田史編』でも同様である。それは「去る秋甲州衆乱入」を、その前年、228月の武田氏による塩田城攻略戦と解釈していることによる。しかし、秋の武田勢の小県への侵攻というと、198月からの砥石合戦のこととも考えられる。天文22年の塩田落城後の福沢昌景の消息は、本書状を別とすると全く不明となる。福沢昌景書状(高野山蓮華定院蔵)
 昌景は命はあったにせよ浪々の身だったはずである。武田氏に追われて佐久などから上州へ亡命し、旧領への復帰を期していた者たちが、蓮華定院へ出した書状類も伝わっている。しかし、本書状では「領中土貢など不調」と、領内からの年貢の収納が順調に進まないと言っている。また、この秋中には「少々その理」をしたいとあるのは、申し訳に少々にしても送金したいということだろう。よって、これは明らかに塩田落城以前のものであり、砥石合戦の半年後、同
203月の書状とするしかない。
 砥石合戦は、天文19年の8月末から101日まで続いた。その間にも武田勢の刈田などによる村上方福沢氏領内の被害もかなり大きかったということだろう。砥石合戦による小県の村々の被害状況もうかがえる貴重史料ということにもなる。砥石城攻めにあたり武田勢は、依田川沿いに北進し砥石城の麓に至っている。②の寄進状で見た福沢氏領の内村・尾山(尾野山)はともに依田川流域の村でもあった。また、海野平合戦後のこの時期には、これら以外に砥石城近辺にも福沢氏領があった可能性もあるし、福沢氏の本拠地塩田平自体が砥石城から10kmほどの近距離でもあった。この合戦は、城の攻略を断念した武田勢が、撤退時に背後から攻めかかられ砥石崩れという大敗を喫した戦いとしてよく知られている。砥石城には「福沢曲輪」と呼ばれる一郭もある。
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 小県郡における村上方の当時の勢力としては、福沢氏が図抜けた勢力であったことは間違いない。砥石攻防戦の最中は義清自身が率いる村上勢の主力は北信濃にあったわけであり、砥石城に立て籠もっていた兵力の中心は福沢勢であったと考えてよいかもしれない。武田勢は、村上方の主力が砥石救援に駆け付けるとの報を受けて退去を開始したものであった。それにしても一ヶか月余りにわたる砥石合戦は、武田対村上というより武田対村上方福沢の戦いであったと見た方が、より実態に近いのではとも考えられる。近世の話ではあるが、塩田平は「塩田三万石」と言われた上田藩領(小県郡)の穀倉地帯であった。福沢氏の主力が砥石に籠城していたとすると、福沢領などは敵地として武田勢により思うがままに蹂躙され、その被害は甚大だったということにもなろう。
 前に触れた『諏訪御苻礼之古書』から知られる文安5年(1448)以降の福沢氏歴代に、右で見てきた顕胤以降の三代をあわせると、次のようになる。
 像阿 - 左馬助信胤 - 五郎清胤 - 左馬助政胤 - 五郎顕胤 - 修理亮顕昌
 享禄3年(1530)の宿坊契状(①)の五郎顕胤が、天文12年(1543)に死去したのをうけ顕昌が福沢氏惣領になり、同13年には伊勢神宮へ寄進状(②)を出したとして、同16年には「隠居入道」と見える(④)ので、わずか数年で隠居したことになる。顕昌は相続時には既に高齢であったものだろうか。また、顕昌は顕胤と同じく、村上顕国(義清の父か祖父)の顕の字を用いているとみられるが、歴代当主の通字であった胤は使っていない。これは本来だと福沢氏惣領になるはずではなかったためでもあろうか。何れにしても文安以降、天文22年までの100年余の間の当主が七代にもなる。やはり兄弟間の相続が多かったことなどが想定される。また、福沢氏最後の当主となった昌景は、先代顕昌(父親か)の一字を使っているが、村上氏の一字拝領はしていない。これは同氏からの自立が進んだ現れとも思われる。
割込②;本項、筆者が疑問視する塩田福沢氏に切れ目があるかも知れないとの考え方につながろう
 これでまず気づくことは、天文22年の塩田落城・福沢氏滅亡以前の小県郡の登牌者は、海野氏と福沢氏関係だけという事実だろう。また、同10年の海野平合戦の敗北による海野氏没落後、22年までの登牌者は福沢・塩田という福沢氏関係だけでもある。この登牌は④でもみたように蓮華定院からの使僧を通して行われていた。これからも当時の福沢氏は、高野山側から小県郡最大の領主と見なされていたことは明らかと言えよう。
 天文223月の「塩田福澤大方殿」の「大方殿」とは貴人の母親の尊称ということであり、最後の塩田城主福沢昌景の母親(顕昌の妻)であろう。右の「大方殿」の登牌が福沢氏の最後の記事である。福沢氏はこの5ヶ月後に居城を落とされ滅亡することになるのだが、領主階級にせよその家族の状況までうかがえる史料は小県郡関係では最古のものでもある。また、「塩田城御北」や「大方殿」という呼称からは、福沢氏はやはり有力領主と、周囲からも認識されていた存在であった様子がうかがえる。また「妙貞」が「塩田前山福沢殿局」とあることも注目される。前山は塩田城の城下集落だったが、そこに福沢氏の奥向きの女性が住んでいた様子であった。
 高野山は周知のとおり真言宗の聖地だが、前山寺も真言宗で塩田城の鬼門の方角にあり、塩田領主の祈願寺として開かれたものと考えられる。何れにせよ、前山寺三重塔の造立施主は福沢氏に相違ないが、右のような背景の中で、やはり天文10年代に建立の可能性が高いのではなかろうか。
 福沢昌景書状には、天文19年の武田勢の砥石攻めによるとみられる「領中土貢等不調」という困難な事態も記されていた。建立を中断というからには、大きな障害が持ち上がったからに他ならないだろう。右の砥石合戦の2年前には、やはり武田氏と村上方との上田原合戦もあった。この二度の戦いともに武田方の敗北、村上方の勝利ということになっているが、攻め込まれた側の被害も甚大であったことは言うまでもあるまい。立て続いた戦火により三重塔建造も中断、そして最終的には、その造立施主だった福沢氏の滅亡により未完成のままで終わってしまった、そう考えると当時の信濃・小県・塩田・塩田城をめぐる状況ともよく合うように思われる。未完成の前山寺三重塔は、武田氏の侵攻による塩田城主福沢氏の滅亡という戦国の争乱状況そのものを、化石化したように今に伝える、貴重な歴史的記念物とも言えるのではなかろうか。(寺島隆史論文転記完)
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 福澤家のルーツ
 これまでの初代先祖より、今回の調査で卒年で161年遡っての新たな初代先祖。承応3年(1654)から明應2年(1493)江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代から「明応の変」(細川政元が将軍足利義材を廃して義澄を擁立)で室町幕府第11代征夷代将軍の時代まで、福澤家にして七世の遡りである。その初代先祖になった「龍光院殿山洞源清大禅定門」、享年不詳であり仮に60歳としたら1433年(永享5年)生れ、室町時代の南北朝合一という話になる。
 初代先祖といっても「アダムとイブ」ではあるまいし、「龍光院殿山洞源清大禅定門」に父母はいたはずである。少なくとも、父母・祖父母の代まで考えないと「福澤家のルーツ」は語り切れない。そうなると「
1433-20=1413」で、「塩田北条氏」滅亡の元弘3年(1333)の80年後になる。
 ここで問題提起、塩田福沢氏は坂木出身で村上氏の家臣とされている。村上信貞が新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘を与えられたのは建武
2年(1335)、78年前と略「福澤家のルーツ」に等しい。さて、村上氏であるが、その系譜は複雑かつ不詳、天下に名をはせた武将、村上義清が生まれたのは文亀元年(1501)、家督を相続し葛尾城主になったのは永正17年(1520)、福澤家では三世(光現院覺忠誉本居士/弘治31557卒、妻・清光院壽覺妙相大姉/天文201551)の時代になっている。
 福澤家家系図で俗名が判明しているのは八世以降、繰出位牌の古いものは俗名・享年が書かれていない。八世以降、既存の家系図では俗名が判るも、今回の調査で家系図で欠けている世代で判明しているのは戒名と卒年のみである。その家系図で見ると通字は「時」である。前述と併せて考察すると、「福澤家の先祖」は、塩田北条氏の家臣あるいは庶流であっても不思議ではない。坂木福沢氏のルーツは不詳、否定も肯定もしない。少なくても、塩田荘に福澤家は「村上史」とは別に存在していたことは疑いの無い事実であろう。
 寺島隆史氏が述べた「像阿 - 左馬助信胤 - 五郎清胤 - 左馬助政胤 - 五郎顕胤 - 修理亮顕昌」、5氏+2氏の間に41年の空白史がある。前5氏は「諏訪社上社御射山祭」、後2氏は「村上義清軍史と高野山蓮華定院」、両者の活動内容にも大きな違いがある。想像を「家風」に当て深耕してみましょう。
 一つの考え方を述べさせて戴きましょう。塩田北条氏の家臣に「福澤氏」が居て、その「福澤氏」の本家筋が代々塩田に居住してきた「福澤氏」を北条残党狩りから守るため、あえて小泉庄前田で隠棲を続け、分家なる「福澤家」が坂木に逃れ「坂木福沢家」であり後の「塩田福沢氏」(塩田城主)。また、福沢昌景が村上水軍を頼って落ち延びたという説には「時代差80年」もあり疑義ありと思います。乱世に生きる「福澤家」の血を後世に伝える。この考え方は、そのまま「真田家」でも活かされたのではないでしょうか・・・・戦国の世の知恵。
 我がルーツを調べる過程で、「墓」(墓地)に対する価値観が大きく変わったことに吾ながら驚いている。子供の頃は、「墓地」に一人で行けなかったと記憶している。何か「怖い」という感じがあったのだろう。そんなことで、「陰陽」で言うなら「陰」であったと思う。晩年になって、松尾芭蕉の「奥の細道」(碑撮り旅)を続けるなかで、句碑が寺社に有ることが多いことから「墓地」への考え方も変ってきたと感じている。
 そして、今日、「墓・墓地」は「心の頼りどころ」「心の故郷」へと強く感じるようになった。兄が墓地を整え「福澤家の墓」(家墓)をつくり、祖父母からの墓誌を建て、そこに私達三人兄弟の独里墓誌を設けてくれている。今回の「福澤家の歴史」調査結果を、「塩田城主福沢氏を見直す」論者の寺島隆史先生にご一読頂き「塩田福沢一族に相違ないでしょう」とのコメントを頂戴した。
 その証として、令和
5年(2023)のお盆(兄の十三回忌)に、「龍光院殿山洞源清大禅定門」の追贈法要も兼ね「位牌」を再製した。また、私名の墓誌を「蝶棲庵の記」と改め、和歌と預修に加え初代先祖として改めた「龍光院殿山洞源清大禅定門」の経緯をも刻んだ。
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 福澤家のルーツ 果てしないタイムスリップは「夢の二度見」・・・・
 歴史を遡ることは、とてつもない浪漫である。ここからは、筆者の「夢物語」としてお読み頂ければ幸いです。その前に、ルーツの探索における重要な要素である「お墓」について調べましたので記載しておきます。
 日本のお墓の歴史
・縄文時代は屈葬
・弥生時代には様々なお墓が現れる
・古墳時代の権力者は古墳建設
・平安時代から火葬が広まる
・江戸時代から庶民にお墓が普及する
 現代の古代学でさかのぼれる範囲で言うと、お墓の歴史は約15000年前から約2300年前の縄文時代に始まります。縄文時代のお墓は単に遺体を素掘りの穴の中に身体を曲げるようにして埋葬していたものです。シンプルな形であれ、お墓、つまり埋葬ということが存在していた事実はお墓の発達と日本人の死生観の歴史から見て大きなポイントでしょう。弥生時代には、遺体を甕棺などに納めるようになり埋葬の形式が整って来ます。
古墳時代の権力者と庶民のお墓
 今から
1800年ほど前の3世紀から4世紀半ばまで続く古墳時代には、古墳と名がつく通り、大規模な古墳というお墓が造営されました。最大級のものは、大阪府堺市にある仁徳天皇陵です。仁徳天皇陵はクフ王ピラミッド、始皇帝陵と合わせて世界3大墳墓と呼ばれ、全長約486mの巨大な前方後円墳です。古墳時代には仁徳天皇陵を頂点に、大規模な古墳が多数生まれました。これらの古墳はすべて天皇や貴族、あるいは有力な地方豪族などだけが埋葬されているお墓で、権力を持っているもののみが権力の象徴として造営できました。
 一般庶民のお墓はどうだったのかというと、縄文時代、弥生時代とほぼ変化はなかったようです。古墳時代は大和朝廷がお墓の大きさを制限する「薄葬令」を
646年のを発したことで終わります。
 平安時代(今から1000年前)には、仏教の影響によって貴族など一部の特権階級の間では火葬という埋葬方法が取り入れられるようになり、お墓がさらに小規模化していきました。
 「夢の二度見」の時代になります
鎌倉時代以降は墓石なしの土葬と風葬がメイン
 今から
900年前の鎌倉時代(1185-1333)以降には仏教が一般庶民にも浸透し、一般庶民も火葬するようになります。その結果、火葬と土葬が並行して行われました。しかし埋葬先のお墓にはまだ今のような墓標の概念はなく、火葬後の遺骨はお棺に入れて土中に埋め、その上には何も墓石などは置かれませんでした。
江戸時代は土饅頭がメイン
 江戸時代になると、時代は逆行し火葬は廃れて土葬が主体になります。この理由ははっきりとはしていませんが、仏教による輪廻思想の影響があるのではないかと言われています。お墓は遺体を死に装束で棺桶に納め、土中に埋葬し、その上に土を盛り上げた土饅頭(盛土、現存なし)にするようになりました。このころにほぼ形式としてのお墓が定着するようになります。
 武士のお墓には板塔婆や石塔婆(追善供養のために墓の脇に建てる長い板のようなもの)などを建てるようになり、それが
庶民にも広がって、卒塔婆や墓石などをお墓の上に設置することが一般的になりました。これが現代のお墓の原型だと言ってよいでしょう。
 したがって「土饅頭」「板塔婆」は歳月と共に消滅し、後に「追善法要」が営まれない限り跡形もなく消滅してしまっていることになります。かと言って、
現在の世に生きる人、証の有無によらず一人残らず「ルーツ」というものは100%あることに違いありません。ルーツは私たちの「心の中」に生き残っていると私は思います。
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