遊行柳(おくのほそ道)
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔にのこる。此所の郡守戸部某の、此柳みせばやなど、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍つれ。
  田一枚植て立去る柳かな
 句碑  田一枚植て立去る柳かな
 「おくのほそ道」(遊行柳)元禄2420日、「芦野遊行柳」での作。歌枕で知られる「遊行柳」、漂泊の歌人「西行」を想う芭蕉と曽良は時の流れを忘れたのか。
   504 田一枚うゑてたち去る柳かな   栃木県那須町 遊行柳
 曾良随行日記
・廿日
 朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三リ余。半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不レ知シテ難レ通。
 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也 (市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)
 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。
 おくのほそ道の風景地 No.05(遊行柳)栃木県那須町
 「遊行柳」(清水流るゝの柳)、漂泊の歌人として知られる西行の歌に「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」がある。これにより芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られる。西行にあこがれる芭蕉は、その地に立った灌漑を「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と記し「田一枚植て立去る柳かな」を詠んだ。
 建中寺;芦野氏新墳墓(栃木県那須町)
 遊行柳(元禄二年四月二十日);又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔にのこる。此所の郡守戸部某の、此柳みせばやなど、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍つれ。その「戸部某」とは、19代当主芦野資俊(俳号桃酔、江戸蕉門の一人)のこと、元禄5626日(1692)に死去すると保寧山建中寺境内に葬られ、以後、建中寺が芦野家歴代の菩提寺となる。 
 白河の関(おくのほそ道)
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。いかで都へと便求しも段也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改し事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良 
 「此関は三関の一つ」とは、「北の三関」(奥羽三関)を指している。「常陸の勿来関」「羽前の念珠関」「陸羽の白河関」であり、芭蕉・曾良は「陸羽の白河関」と「羽前の念珠関」(鼠ヶ関)を通っている。
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 関連句碑  早苗にも我色くろき日数かな
 「おくのほそ道」(白河の関)元禄24月、「白河の関」での作。当時でも「白河の関」は過去のもの、「境の明神」付近に「白河二所の関跡」があり迷ったようだ。
   505 早苗にもわがいろ黒き日數哉   福島県白河市 宗祇戻し
 関連句碑  西か東か先早苗にも風の音
 「おくのほそ道」(白河の関)元禄24月、「白河の関」での作。旅人芭蕉をしても生まれて初めての「白河越え」、足を踏み入れた「奥羽」は感慨深かっただろう。
   506 西か東か先早苗にも風の音   福島県白河市 白河関跡
 関連句碑  関守の宿を水鶏に問はうもの
 「おくのほそ道」(白河の関)元禄24月、白河関跡から関山満願寺を訪れたとの伝承。関山山頂の句碑には「関守の宿を水鶏にとはうもの」芭蕉の句も共に刻まれている。
  関守の宿を水鶏に問はうもの  芭蕉
  卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
  奥の花や四月に咲くを関の山  桃隣
   509 関守の宿を水鶏にとはふもの   福島県白河市 関山満願寺
 句碑    卯の花をかざしに関の晴着かな
 元禄2421日、「奥の細道」旅中「白川の関」で曽良の作。満願寺は、関山(619m)の山頂にある。芭蕉・曾良はこの日に参詣している。
   *** 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良  福島県白河市 関山満願寺
 曾良随行日記
 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)
・廿一日
 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。
 ○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。
 ○忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
 ○二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古 哥有由。みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
 ○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)
 ○宗祇もどし橋、白河ノ町(石山より入口)より右、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまニて連歌有時、難句有レ之。いづれも三日付ル事不レ成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被レ聞之て、其所ヘ被レ趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々。
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 女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。
  月日の下に独りこそすめ
 付句
  かきおくる文のをくには名をとめてと申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。
 境の明神付近(旧陸羽街道) 栃木県那須町、福島県白河市
 住吉神社(那須町)  玉津島明神(白河市)  白河二所関址碑  句碑「風流の」
 衣がえの清水  観音寺(白坂宿の本陣・問屋の白坂周右衛門家の菩提寺)
 
 本筋から離れるが
 この先には「東山道」の遺構が幾つかある。信濃から下野の入口まで探索したところで「大動脈乖離」(
2022.4.8)を発症した。従って、我が人生において未踏の地になってしまった。
 追分の明神付近(旧東山道) 下野・陸奥の境にある古い峠神
 境の明神(旧陸羽街道)と同じように二社が並立していたが現存は「住吉玉津島神社」のみ
 白河の関付近(福島県白河市)
 白河関の森公園 句碑「風流の」「卯の花を」  白河神社社務所 句碑「関守の」
 白河神社  古関碑(藩主松平公考証) 文学碑(白川の関)  古歌碑
 路肩に並ぶ石碑  句碑「西か東か」  旗宿の家並み  庄司戻しの桜
 関山口 句碑「卯の花を」  関山満願寺  句碑「関守の」「卯の花を」&「奥の花や」(桃隣)
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 聯芳寺 句碑「關守の」  「鹿嶋の社ノ近所」  転寝の森(白河市)  宗祇戻し 句碑「早苗にも」
 「聯芳寺」は、旧奥羽街道沿いの白河外れにある。白河宿は幕府の道中奉行が管轄する奥州街道の終着地、JR白河駅前本町界隈、白河宿本陣芳賀家跡(白河市本町堀川印刷所前、向かいに白河宿脇本陣柳屋がある)。「宗祇戻し」から「鹿嶋神社」まで阿武隈川を挟んで直線距離で1kmほど。
 「宗祇戻し」とは、室町時代を代表する連歌師・飯尾宗祇は、文明13年(1481)、鹿嶋神社で催された連歌興行に参加するため白河を訪れました。このとき通りかかった婦人に連歌興行のことを尋ねると既に終わったと知らされました。婦人が綿を背負っていたので、戯れに「その綿は売るか」とたずねると、婦人は 「阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌でこたえたため、宗祇は陸奥の風流を感じ、ここから京へ引き返したと伝えられています。芭蕉一行は須賀川の相楽等躬から宗祇戻しの話を聞いたそうです。
※白河宿について、何故か余り触れていないと疑問に思い執拗にネット検索した。興味深い記事(福島民友新聞)が・・・・
 白河は江戸時代、白河藩の城下町として一気に発展した。全国屈指の規模を誇ったといわれる「白河の馬市」は、商人をはじめ多くの人でにぎわい、戦後まで約300年続いた。風流を愛する俳聖松尾芭蕉はそんな巷の俗っぽさを避けたのだろうか。白河城下はほとんど素通りした感がある。しかし、縁がなかったわけではない。会った人物が2人、会えなかった人物が1人いた。本名知らぬまま、芭蕉が陸奥に入る折に詠んだ「西か東か先早苗にも風の音」の句は、「早苗にも我色黒き日数哉」を改作したものだった。改作については「日記」の俳諧書留に記されているが、白河に住む人物に宛てた芭蕉の手紙にも記されている。人物の名は「何云」。はっきり分かるのは、この名と、作品がいくつかの俳諧撰集に収録されたということで謎の人物である。
・・・・と言うことで「芭蕉」は、次の宿泊地須賀川で地元の俳人相良等躬から何云のことを聞き、彼に次の手紙(何云宛書簡)を出している。
白河の風雅聞もらしたり。いと残多かりければ、須か川の旅店より申しつかはし侍る。
  関守の宿を水鶏にとはふもの  はせを
又、白河愚句「色黒き」といふ句、乍単より申参候よし、かく申直し候。
  西か東か先早苗にも風の音
   何云雅丈
 「白河の風雅聞きもらしたり」は「白河であなたの俳諧を聞けなかった」の意。会えずに心残りだと書き「関守の」の句では、何云を白河の関の関守になぞらえ「水鶏にあなたの家を訪ね、戸をたたけばよかったのに(水鶏の声は古来、人家の戸をたたく音になぞらえられる)」と詠んだ(今栄蔵「芭蕉句集」)。
 また、現存する手紙(出光美術館所蔵)には「芭蕉翁は私と会いたかったが、私の俗名が分からず白河を過ぎてしまった」(意訳)などと書いた何云の添文が付されている。
 この何云の正体については、元白河市文化財保護審議会長の金子誠三さんが「追跡」していた。手掛かりは何云の句と一緒に俳諧撰集に記されていた彼の所在地名。「宇都宮」「奥州白河」「出羽山形」「備後福山」。いずれも当時の白河藩主松平忠弘とその孫忠雅が国替えしていった城下で、何云は奥平家の家中だったと推理される。
 一方、芭蕉が白河城下で会った
2人については「日記」に「中町左五左衛門ヲ尋ネ、大野半治ヘ案内シテ通ル」と名が書かれているが、謎は一層深い。中町は現在の白河駅前の一角。芭蕉と曽良は、同地の町人左五左衛門と会い、大野半治の元に案内してもらったということだが、金子さんによると、大野は450石取りで、物頭(足軽を支配する隊長)を務める白河藩士。そんな上級の武士に、芭蕉たちは一体何の用があったのか・・・・、理由はどこにも書かれていない。付け加えると、金子さんが大野の名を見つけたのは元禄5年(1692)に同藩のお家騒動で城下を去った脱藩者の記録の中。つまり彼は、芭蕉らが会った3年後、クーデターを起こした反藩主派の一人だった。何ともきな臭い人物である。
 金子さんは①曽良が晩年、幕府の諸国巡見使の随員として行動している②旅の俳諧師が上級武士のいる郭内に出入りすることは制約される―ことから、どうも曽良が単独で大野を訪ねたのではと推理する。歴史の底に沈んだ真実を知るすべはないが、これも「おくのほそ道」を彩るロマンだろう。(福島民友新聞より) 
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 須賀川(おくのほそ道)
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城、相馬、三春の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、けふは空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関いかに越えつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがにと語れば、脇第三とつゞけて三巻となしぬ。此宿の傍に、大きなる栗の木蔭をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと間に覚えられて、物に書付侍る。其詞、
 栗といふ文字は、西の木とかきて西方
 浄土に便ありと、行基菩薩の一生
 杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗
 曾良随行日記
・廿二日
 須か川、乍単斎宿、俳有。
・廿三日
 同所滞留。晩方へ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。

・廿四日
 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニ 而会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。
・廿五日
 主物忌、別火。
・廿六日
 小雨ス。
・廿七日
 曇。三つ物ども。芹沢ノ滝ヘ行。
・廿八日
 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来 而延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮。十念寺・諏訪明神 ヘ参詣。朝之内、曇。
 句碑  風流のはしめや奥の田うへ唄
 「おくのほそ道」(須賀川)元禄24月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。到着やすぐに等躬「覆盆子を折て我まうけ草」・曽良「水せきて昼寝の石やなをすらん」の三吟歌仙を開いた。
   507 風流の初やおくの田植うた   福島県白河市 境の明神玉津島神社
 句碑  世の人の見付ぬ花や軒の栗
 「おくのほそ道」(須賀川)元禄2422-29日、「須賀川」滞在中の作。初案「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」(曾良書留)。蕉門の僧侶「可伸」は、この木の下で世を捨てた生活をしていた。
   508 世の人の見付ぬ花や軒の栗   福島県須賀川市 可伸庵跡
 関連句碑  五月雨の瀧降うつむ水かさ哉
 「おくのほそ道」(須賀川)元禄2427日、「須賀川」滞在中の作。「乙字ヶ滝」は阿武隈川本流にある段差で、当時は「石河の滝」と言われていた。先代の句碑は須賀川市立博物館にある。
   510 五月雨の瀧降うつむ水かさ哉   福島県玉川村 乙字ヶ滝
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 参考句碑  風流のはしめや奥の田うへ唄
 「おくのほそ道」(須賀川)元禄24月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。到着やすぐに等躬「覆盆子を折て我まうけ草」・曽良「水せきて昼寝の石やなをすらん」の三吟歌仙を開いた。
 縦長画像は何処の句碑にしようかと迷うも、「空白の郡山編」(郡山参照)より「田村神社」の句碑を選びました。
   507 風流の初やおくの田植うた   福島県郡山市 田村神社
 参考句碑  風流のはしめや奥の田うへ唄
 住職様がくださった「俳諧田植塚(乾・坤)」(古文書の現代版)は、桑折の俳人「佐藤馬耳」(桑折本陣役人、佐藤佐五衛門宗明の俳号、奥州俳壇の実力第一人者、享保4/1719に芭蕉田植塚建立)し、記念に「田植塚」(乾・坤)2冊を編集。松尾芭蕉没年169425年後という大変貴重な資料。
   507 風流の初やおくの田植うた  福島県桑折町 法圓寺
 復刻版の製作時、原本よりのコピーが1頁漏れていた。再貸出しを依頼、既に原本が行方不明、よって欠如状態とのお話であった。旅より戻りネット検索、原本と同じものが某所にあることを突き止め住職様に連絡。喜んで頂けた。
 関連句碑  五月雨の瀧降うつむ水かさ哉
 「おくのほそ道」(須賀川)元禄2427日、「須賀川」滞在中の作。「乙字ヶ滝」は阿武隈川本流にある段差で、当時は「石河の滝」と言われていた。須賀川市立博物館にある先代の句碑「五月雨耳飛泉梨う川む水可佐哉」である。
   510 五月雨耳飛泉梨う川む水可佐哉   福島県玉川村 乙字ヶ滝
 須賀川付近
 旧陸羽街道松並木(踏瀬旧国道松並木/五本松の松並木)  かげ沼 芭蕉と曾良像
 可伸庵跡 句碑「世の人の」 & 文学碑「軒の栗・世の人の」
 軒の栗庭園 芭蕉と曾良の像 & 相良等躬の像  芹沢ノ滝
 十念寺 句碑「風流の」  神炊館神社 句碑「うら見せて」
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 石河の滝(乙字ヶ滝) 句碑「五月雨の」
 八流の滝  芭蕉の辻
 結の辻 芭蕉・曾良像  須賀川市立博物館 句碑「五月雨耳」  芭蕉記念館 拓本「世の人の」
 長松院(相楽等躬の墓)  二階堂神社(須賀川城址)
 浅香山・信夫の里(おくのほそ道)
等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみ/\と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶの里に行。遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまに伏したりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 曾良随行日記
・廿九日
 快晴。巳中尅、発足。石河滝見ニ行(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハゞ百二、三十間も有レ之。滝ハ筋かヘニ百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニより壱丈計ノ所も有レ之。それより川ヲ左ニナシ、壱里計下リテ、向小作田村と云馬次有。ソレより弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ方(手代湯原半太夫)へ幽碩ヨリ状被レ添故、殊之外取持。又、本実坊・善法寺へ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門より本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村レ雪(雪村)哥仙絵・讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒、五ふく、智證大し并金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍単ヨリ馬ニテ被レ送。昼飯調テ被レ添。守山より善兵へ馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。
 須賀川宿―郡山宿間は、奥州街道を北上すれば十数キロ。比較的平らな道だが、芭蕉たちはわざわざ山道を迂回している。目的は大元明王をまつる守山の寺「泰平寺」(現田村神社)の宝物だった。須賀川俳壇の面々が拝観を勧めたこと、更に彼らの書いた寺などへの紹介状もあった。これら「曽良随行日記」の記述から分かる。郡山宿に着いた芭蕉たちは同地で一泊した。その感想が曽良の「日記」に一言だけある。「宿ムサカリシ」、つまり「宿が汚い」。結構きつい言われ方である。そのせいか、郡山宿があった郡山市中町周辺に芭蕉の句碑はない。悪口は残しても、句は一つも残してないのか・・・・。郡山を詠んだ芭蕉の句が。さらに芭蕉の句碑も過去にはあった。「淺香山帷子ほして通りけり」(存疑の部)、歌枕「安積山」(浅香山)を詠み込んだ句。(福島民友新聞より)
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 石河ノ滝から守山(回り道)
 和田大仏(小作田村付近)  八流の滝(網ノ輪滝)  芭蕉の辻  守山八幡宮(守山城跡)
 守山問屋(善兵衛)跡  守山陣屋跡  田村神社(大元明王・本実坊・善法寺跡)
 田村神社(大元明王・本実坊・善法寺跡)
 田村神社には、芭蕉句碑「風流の」があるので何度も訪ねている。「福島民友新聞」の記事を眼にし、この旅の訪問で「奥の細道」の奥の深さを改めて感じた。
 守山から郡山(回り道)
 三日月湖(カナヤト云村へかゝり)  日ノ出橋(アブクマ川ヲ舟ニテ越)
曽良は次のように記している。
・五月朔日
 天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出。壱里半来テヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣而ソノ辺山ゟ水出ル故、いずれの谷ニも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハ、コレゟ(道ゟ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、
帷子ト云村(高倉ト云宿ゟ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。
 江戸時代の俳人・松尾芭蕉(1644-94)が、俳諧紀行文「奥の細道」の旅の途中、郡山で詠んだと伝えられる句だ。奥の細道に未収録で由来を疑問視する研究者もいるが、福島県郡山市清水台の安積国造神社で1年半前、言い伝えを補強する江戸後期の文書が見つかった。それを受けて昨年、市内で相次いで句碑が建てられた。
  安積山かたびらほして通りけり
 同神社
64代目宮司の安藤智重さんによると、この句は安積山(郡山市日和田町)を夏の暑い日、かたびらという衣服をまるで干すようにして歩いたという意。芭蕉没後約130年の1827年、俳人・茂呂何丸が記した芭蕉全集「芭蕉翁句解くげ参考」には「浅香山帷子ほして通里介李」と掲載され、奥の細道の選からは漏れたと記されている。後世の全集で、芭蕉自身が記したものではないため、研究者の間では「芭蕉が詠んだ句かどうかは確実ではない」と評価されてきた。しかし、安藤さんがある文書を神社の資料室で発見し、風向きが変わりつつある。1831年に55代目宮司が書いた「安藤親重覚書」だ。覚書の余白には「神社近くの善導寺には芭蕉の百回忌に合わせてこの句碑が建てられたが、1807年の大火で紛失してしまった」という意味の記述があった。安藤さんは「当時、郡山俳諧の中心人物らが、句碑を善導寺に建てて供養し、芭蕉の作品だという共通認識を持っていたことがうかがわれる。句解参考とともに二つの方向から史料が出てきて、芭蕉の句という信頼性が高まった」と説明する。新史料発見を受け、同神社は20194月、境内にこの句を刻んだ石碑を建てた。善導寺にも同12月、同様の石碑が建てられた。同寺では、江戸時代の郡山俳諧の中心的存在で、檀信徒でもあった佐々木露秀の句碑なども併せて設けた。(福島民友新聞より)
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 善導寺 句碑「浅香山帷子ほして通里介李」
 安積国造神社 句碑「浅香山帷子ほして通里介李」
 郡山宿 一宿の地跡(斎藤洞水の宿跡) & 芭蕉通り・芭蕉小路
 芭蕉小路にある唯一の飲食店で妻が用意してくれた弁当に加え二度目の昼食、この歳になって初めて食べる「スプーンで食べる親子丼」(比内地鶏)を頂く。「宿ムサカリシ」と言わずに「その土地、その土地」の良さを探す風流さも欲しいものだ。
 浅香山・信夫の里(おくのほそ道)・・・・芭蕉の「おくのほそ道」再掲載
等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみ/\と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。明くれば、しのぶもぢ摺の石を尋て忍ぶの里に行。遥山陰の小里に、石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまに伏したりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 句碑  早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「福島」での「陸奥の田植風景」を詠んだ句。最初に撮影した時は「除染作業中」で立入禁止だった。
   511 早苗とる手もとや昔しのぶ摺   福島県福島市 文知摺観音堂
 関連句碑  早乙女にしかた望まむ信夫摺
 「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「陸奥の田植風景」を詠んだ、「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の初案。
   511 早乙女にしかた望んしのぶ摺   福島県福島市 市立第一小隣接公園
 句碑  浅香山帷子ほして通里介李
 「おくのほそ道」(郡山)元禄251日、「郡山」を発ち「安積郡片平」付近での作。久しく存疑の部に掲載されるも、古文書「安藤親重覚書」が発見(2019)された芭蕉作と裏付け。
   *** 浅香山帷子ほして通里介李   福島県郡山市 善導寺
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 安積山  文学碑「あさか山」  山ノ井  安積山歌碑
 曾良随行日記
・五月朔日(続き)
 古ノにや、ふしん也。二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒト云町有。ソレ より右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。ソノ向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タゝミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右の杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らん、ト別当申ス。天台宗也。それ より又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸より細道ヲつたひ、村之内へかゝり、福岡村ト云所より二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。二本松より八町ノめヘハ二リ余。黒塚へかゝりテハ三里余有べし。八町ノめよりシノブ郡ニテ福嶋領也。福嶋町より五六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋。三月廿九日、江戸ヘ被レ参由ニテ、御内・御袋ヘ逢。すぐニ福嶋ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。宿キレイ也。
 芭蕉・曾良は、随分と先を急いだようだが・・・・
 芭蕉たちは、福島城下に入る手前で、郷ノ目村(現福島市郷野目)に住む「神尾」という人物を訪ねたとある。しかし、神尾氏は江戸へ出掛けていて留守。そのため、芭蕉たちは神尾氏の妻と母に会うと、すぐに福島城下へ向かい宿に入った―と「日記」は続く。突然出てくる「神尾氏」とは一体何者で、芭蕉たちは何のために立ち寄ったのか。素朴な疑問が湧くが、日記には何も書かれていない。
 おくのほそ道の風景地 No.06(黒塚の岩屋)福島県二本松市
 謡曲・歌舞伎で知られる安達ヶ原(観世寺)には、鬼婆の住家であった岩屋(笠岩)、出刃包丁を洗った地の池等が残っている。また、近くの老杉の根元には鬼婆の墓「黒塚」がある。「平兼盛」が詠んだ鬼婆の物語「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」・・・・曽良は「古の黒塚はこれならん」と感慨深く記す。
 福島付近
 文知摺橋(岡部の渡し跡) 句碑「早苗とる」 歌碑「陸奥の」(河原左大臣源融)
 文知摺観音(普門院) 句碑「早苗とる」&芭蕉像(台座は文学碑)
 飯塚の里(おくのほそ道)
月の輪の渡を越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里、鯖野と聞て、尋/\行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ふるに任せて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔日の事なり。
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 月の輪大橋(月ノ輪の渡し跡) 句碑「早苗とる」 文学碑
 月の輪の渡し碑  瀬上の渡し記念碑
 曾良随行日記
・二日
 快晴。福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七八丁行テ、アブクマ川ヲ舟ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福 嶋ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云。ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不レ入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。 堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバ、はた出シト云竹有。毎年、弐本ヅゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福島ヨリ弐里。こほり(桑折)よりモ弐里。瀬ノウヱヨリ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。 村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可レ行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。昼より曇、夕方より雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。
 句碑  笈も太刀も五月にかざれ紙幟
 「おくのほそ道」(飯塚の里)元禄252日、「飯坂の鯖野」にある「佐藤庄司旧館跡」を尋ね、近くの古寺(菩提寺の医王寺)で墓参りをして詠んだ句。他に「弁慶が笈をもかざれ紙幟」。
   512 笈も太刀も五月にかざれ紙幟   福島県福島市 医王寺
 飯塚の里/飯坂温泉付近
 県庁前公園 句碑「早乙女に」   福島駅東口 芭蕉と曾良像&文学碑  郷ノ目村界隈
 「東日本大震災」、その後の顧問先(経営相談訪問・経営セミナー・管理者研修等を含む)周辺の復旧・復興状況を自分の目で確認したく月一度の仙台出張に併せ観て回っていた。その際に「帰宅困難地域」を抜ける国道6号を通過する際、タイムプラス機能でドライブレコーダーのように撮っていた。今回の「郷ノ目村界隈」をタイムプラス撮影したものを上右端に一枚掲載した。
 大鳥城跡(佐藤庄司が旧跡)
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 医王寺(福島県福島市)
 佐藤一族の菩提寺、境内に「佐藤忠信・源義経・佐藤継信」の像と「歌碑」があり、句「笈も太刀も」も刻印。  参道・境内にある大きな石灯篭等が6日前(21.2.13)に起きた「福島沖地震」(M7.3、震度6強)による倒壊状態。
 飯坂温泉駅 芭蕉像と飯坂の里説明碑(「笈も太刀も」)  鯖湖湯(佐波来湯/当座湯) 芭蕉と曾良入浴の地
 滝の湯(瀑布湯)跡 俳聖松尾芭蕉ゆかりの地
 飯塚の里(おくのほそ道)
其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土座に莚を敷てあやしき貧家也。灯もなければ囲炉裏の火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波、心進まず。馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縱横に踏で、伊達の大木戸をこす。
 曾良随行日記
・三日
 雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。 折々小雨降ル。
桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸 (国見峠ト云山有)ノ場所有。コスゴウ(越河)トかいたトノ間ニ 福嶋領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。左ノ方、石ヲ重而有。大仏石ト云由。さい川ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコ ブ(ワ)シト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次(継)信・忠信ガ妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。一二三五。
 伊達の大木戸周辺
 旧伊達郡役所 文学碑  法圓寺 句碑「風流の」  旧奥州街道中国見峠長坂跡
 「伊達の大木戸」は国見町北東部に「大木戸村」として存在。昭和29年(1954)に合併し「国見町」が発足。国見町大木戸の中心地から500mほど丘陵を登った所に「長坂跡」(国見峠の難所跡)、文学碑「気力聊とり直し」がある。
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