笠島:元禄二年五月四日(おくのほそ道)
鐙摺、白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくの程ならんと、人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云。道祖神の社、かた見の薄、今にありと教ふ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、
  笠島はいづこさ月のぬかり道
岩沼に宿る。
 曾良随行日記
・四日
 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折々日ノ光見ル。 岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
 ○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不レ見 。
 ○名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋二ツ有。左ヨリ右ヘ流也。
 ○若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門。
 句碑  笠島はいつこ皐月のぬかり道
 「おくのほそ道」(笠島)元禄254日、「竹駒寺」近くの「武隈の松」を見て「笠島の実方中将」の墓参りと思うも「いささか遠い」との事で立ち寄らず仙台へ。
   514 笠島はいづこさ月のぬかり道   宮城県名取市 道祖神路
 鐙摺坂(宮城県白石市)  斎川宿(宮城県白石市) 検断屋敷跡(明治天皇御休所)
 田村神社(宮城県白石市) 甲冑堂・二人の嫁(若桜・楓)・天野桃隣句碑「戦いめく二人の嫁や花あやめ」・文学碑
 祭神は坂上田村麿と鈴鹿神女。田村将軍が東征の際に、悪路王や赤頭という荒土や丹砂を塗って化けた妖魁を鈴鹿御前の援助で討伐したので、この地に2人を祭祀した。田村神社の由緒を考えると、本来は田村麻呂と鈴鹿神女の像が祭られていた可能性があるが、江戸時代にはすでに佐藤兄弟の妻の像という説が定着していた。元禄2年、松尾芭蕉に随行してこの地を訪れた河合曾良の「曾良旅日記」に「継信と忠信兄弟の嫁の御影堂なり」と記されている。佐藤庄司が旧跡(飯坂)でなく田村神社(白石)なのか・・・・疑問が少し薄らいだ。
 天野桃隣(芭蕉の縁者で蕉門、元禄9年奥の細道をなぞって「陸奥衛」を著した伊賀国の俳人)の句碑「戦めく二人の嫁や花あやめ」があった。
 佐倍乃神社/笠島道祖神社(宮城県名取市)
 藤原実方が出羽国阿古屋の松(山形市の南西にある千歳山の名木)を訪ねた帰り、佐具叡神社(道祖神社の本殿左)前を通る際に、村人より「霊験あらたかな神様なので馬から下りて通るように」と言われたが、それを無視し馬に乗りながら過ぎようとしたため神罰が下って落馬、その怪我がもとでこの地で亡くなったと伝えられている。
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 藤原実方中将の墓(宮城県名取市) 西行歌碑 & 実方歌碑  句碑「笠島は」  かたみの薄
 「かたみの薄」は、西行が奥州平泉に向かう際にこの地で平安中期の宮廷の花形歌人であった藤原実方中将の墓を見つけ、感慨深げに詠んだ歌の一節から名付けられた実方の墓の呼称。西行歌碑「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄形見にぞ見る」、実方歌碑「桜刈り雨はふりきぬおなじくは濡るとも花の陰に隠れむ」。
 武隈の松(おくのほそ道)
武隈の松にこそ目覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずと知らる。先能因法師思ひ出。往昔、陸奥の守にて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此たび跡もなしとは詠たり。代々あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白と云ものゝ餞別したりければ、
  桜より松は二木を三月ごし
 
 句碑  佐くらより松盤二木を三月越し
 「おくのほそ道」(武隈の松)元禄254日、「武隈の松」を見ての作。挙白の餞別句「武隈の松見せ申せ遅桜」への答礼句。初案は「散うせぬ松や二木を三月ごし」。
 芭蕉翁の百回忌の寛政
5年(1793)に建てられた句碑で、左側が芭蕉句碑、右側は「朧よ里松は二夜の月丹こ楚」(謙阿/蕉門、句碑建立者)。
   513 櫻より松は二木三月越シ   宮城県岩沼市 竹駒神社
 竹駒神社 句碑「佐くらより」  二木の松 句碑「櫻より」  岩沼駅 句碑「桜より」
 岩沼駅周辺の整備事業は在住時から知っていた。平成25年(2013)の完了を待っていたように駅前ロータリーに芭蕉像と句碑「桜より」が建立されたと風の便りに聞き及び出張時に立ち寄ってみた。
 おくのほそ道の風景地 No.07(武隈の松)宮城県岩沼市
 平安時代の歌人「能因」の古歌に詠まれた「武隈の松」(二木の松)を訪れた芭蕉は「桜より松は二木を三月越し」と詠み、その素晴らしさを称賛した。余談になるが「武隈の松」がある岩沼市は、2004年迄の17年間住んだ第二の故郷です。
 宮城野(おくのほそ道)
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿を求めて四、五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心あるものと聞て、知る人になる。此者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋のけしき思ひやらるゝ。玉田・横野・躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶松島・塩竈の所々画にかきて送る。且紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。
  あやめ草足に結ばん草鞋の緒
かの画図に任せてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。 
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 曾良随行日記
・五日
 橋本善衛門殿ヘ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニ 而宿ヘ断有。須か川吾妻五良七より之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵へ内、甚兵衛方へ届 。甚兵衛留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不レ知。其後、北野や加衛門(国分町ヨリ立町ヘ入、左ノ角ノ家の内)ニ逢、委知ル。
・六日
 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手より入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
・七日
 快晴 。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵へ入来 。冊(短)尺并横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。
 句碑  あやめ草足に結ん屮鞋の緒
 「おくのほそ道」(宮城野)元禄254-8日、「仙台」での作。出立の前夜に「北野屋加衛門」が干し飯や草鞋等を持ってきてくれた。
   515 あやめ草足にむすはん草鞋の緒   宮城県仙台市 陸奥国分寺薬師堂
 おくのほそ道の風景地 No.08(つゝじが岡・天神の御社)宮城県仙台市
 榴岡天満宮  大鳥居  本殿  境内参道  筆塚  芭蕉他の句碑が並ぶ
 仙台を訪れた芭蕉は、画工北野屋加右衛門の案内で、「義経記」の歌枕「つゝじが岡」(榴岡公園)や、その一画にある「天神の御社」(榴岡天満宮)に詣でた。蛇足になるが「義経記」(ぎけいき)と音読み、中世・近世期には個人に対する敬意を表す意味で人名(訓読み;よしつね)を「音読み」する習慣があった。
 おくのほそ道の風景地 No.09(木の下・薬師堂)宮城県仙台市
 準胝観音堂と芭蕉句碑  準胝観音堂  薬師堂・陸奥国分寺跡  鐘楼  仁王門
 東歌「みさぶらひ御笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」(古今集)で著名な歌枕「木の下」や、陸奥国分寺跡に伊達正宗が再興した薬師堂を巡る。仙台を後にする際「あやめ草」を詠んでいる。(加右衛門に対する感謝の吟)
 壺の碑(おくのほそ道)
壺碑市川村多賀城に有。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計か。苔を穿て文字幽なり。四維国界数里をしるす。此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝かり修造。而十二月朔日と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、多く語伝ふといへども、山崩川流て道改まり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳存命の悦び、羇旅の労を忘れて泪も落つるばかり也。
 曾良随行日記
・八日
 朝之内小雨ス。巳ノ尅 より晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。
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 東光寺(宮城県仙台市) 「奥の細道」名付けの地
 宮城に居た頃、何度となく東光寺前の道が「それ」(奥の細道)と知らずに通り過ぎていた。芭蕉句碑は無いが、どうしても寄りたい理由があった。実は「おくのほそ道」という名前は「門前の細道」からとられたのだ。碑文抜粋「かの画図にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に十符の菅有」。「かの画図」とは「画工加右衛門」が描き渡してくれた絵地図である。個人的には「十符の菅」より「奥の細道」の方が幾倍も興味がある。何故なら「菅」なる歌枕は全国に何ヶ所もある。しかし、「芭蕉の辻」あっても、元祖「奥の細道」は唯一である。
 おくのほそ道の風景地 No.10(壺碑)宮城県多賀城市
 「壺碑」(多賀城碑)は、陸奥国の国府(奈良時代)があった多賀城の入口に立ち724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から「那須国造碑」(栃木県大田原市)、「多胡碑」(群馬県高崎市)と並ぶ日本三大古碑の一つとされ、近年では「宇治橋断碑」も含め「日本三古碑」と言われている。  多賀城碑  那須国造碑   多胡碑  宇治橋断碑
 多賀城政庁跡(宮城県多賀城市)
 多賀城廃寺跡(宮城県多賀城市)
 野田の玉川(多賀城市)  野田の玉川の碑(塩釜市)
 末の松山・塩竈(おくのほそ道)
それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひ/\みな墓原にて、羽をかはし枝を連ぬる契の末も、終はかくのごときと悲しさも増りて、塩竈の浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊晴れて、夕月夜幽に、籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴分つ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。
其夜目盲法師の琵琶をならして奥浄瑠璃と云ものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず、鄙びたる調子うち上て、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。
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 おくのほそ道の風景地 No.11(末の松山)宮城県多賀城市
 「末の松山」を訪ねた芭蕉は、「松の間々皆墓原」という光景を目の当たりにして、恋を詠んだ歌枕の地が墓原と化している現状に無常を感じたという。三十六歌仙の一人「藤原元輔」が詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌碑が「末の松山」の手前に建てられている。
 おくのほそ道の風景地 No.12興井)宮城県多賀城市
 「興井」(おきのい)は、「わが袖はしほひにみえぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき」(二条院隠岐)など多くの歌に詠まれ、歌枕として有名であった。江戸時代に仙台藩は当地を整備し手厚く保護、現在は住宅に囲まれているが「池中に奇石磊々とする佳状愛す可し」(奥羽観蹟聞老志)と記された情景は今も残っている。
 浮島神社(多賀城市)
 平安時代に歌枕として詠まれた「浮島」の地と伝承、多賀城の在った頃は栄えたと考えられている。「おくのほそ道」に記載ないが、「曾良随行日記」には、「八日・・・・仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。末ノ剋、塩竈ニ着。湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。」と記載あり。境内に「歌枕浮島参道」なるものがあり、参道沿いにパネルで掲示されていた。
  浮島の花見るほどは陸奥に沈める事も忘られにけり        橘為仲(橘為仲朝臣集)
  塩竈の浦の干潟のあけぼのに霞に残る浮島の松          後鳥羽院(続古今和歌集)
  世のなかはなほ浮島のあだ浪に昔をかけてぬるる袖かな      飛鳥井雅経(明日香井集)
  わたつみの浪にも濡れぬ浮島の松に心を寄せて頼まん       大中臣能宣(拾遺和歌集)
  たのまれぬ心からにや浮島に立ち寄る浪のとまらざるらん     中務(中務集)
  定めなき波にただよう浮島はいづれの方をよるべかとみる     藤原公重(風情集)
  いづくなるところをかみしわが身よりまた浮島はあらじとぞ思ふ  和泉式部(和泉式部集)
  定めなき人の心にくらふればただ浮島は名のみなりけり      源順(拾遺和歌集)
  浮島の松の緑を見渡せばちとせの春ぞ霞そめける         清原元輔(元輔集)
  陸奥は世を浮島もありと云ふ関こゆるぎの急がざらなん      小野小町(小町集)
  塩竈の前に浮きたる浮島の憂きて思ひのある世なりけり      山口女王(新古今和歌集)
 多賀城政庁のお膝元なる歌枕と代表歌(重複掲載あり)
  浮島     しほがまの前にうきたる浮島の浮きて思ひのある世なりけり     山口女王(新古今和歌集)
  沖の井    わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなく      二条院讃岐(小倉百人一首)
  野田の玉川  ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり     能因法師(新古今和歌集)
  おもわくの橋 ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよわぬおもはくのはし  西行(山家集)
  末の松山   ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは  清原元輔(後拾遺和歌集)
  壺碑     むつのくの奥ゆかしくぞ思ほゆる壺のいしぶみ外の浜風       西行(山家集)
  志引石    君が代は千びきの石をくだきつつよろづ世ごとにとれどつきせじ   源顕仲(堀河院百首聞書)
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 末の松山・塩竈(おくのほそ道)
早朝、塩竈の明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日朱の玉垣を輝かす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎奇進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、慕はずといふ事なし。誠人能道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふと云り。
日既午にちかし。舟をかりて松島にわたる。其間二里余、雄嶋の磯につく。
 曾良随行日記
・九日
 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰而出船。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物 。開山、法身和尚(真壁兵四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被レ宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄嶋(所ニハ御嶋ト書)所々ヲ見ル(とみ山モ見ユル)。御嶋、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰而後、八幡社・五太堂ヲ見。慈覚ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
 煙波亭/愛宕神社(宮城県塩釜市)
 「愛宕神社」境内に「煙波亭」(えんぱてい)がある。そこに「芭蕉翁晩鐘の碑」がある。
 芭蕉翁晩鐘 塩竈の浦に入相の鐘を聞 (おくのほそ道、末の松山・塩竃) 
五月雨の空聊かはれて夕月夜幽に籬か島もほと近く蜑の小舟こきつれて肴わかつ聲々つなてかなしもとよみけむ心もしられていと哀也其夜目盲法師の琵琶をならして奧上るりと云ものをかたる平家にもあらす舞にもあらすひなひたる調子うち上て枕ちかうかしましけれとさすかに辺土の遺風忘れさるものから殊勝に覺えらる早朝塩竈明・に詣國守再興せられて宮柱ふとしく彩椽きらひやかに石の階九仭に重り朝日あけの玉かきをかかやかすかかる道の果塵土の境まて・靈あらたにましますこそ吾國の風俗なれと貴けれ・前に古き寶燈在かねの戸ひらの面に文治三年和泉三郎寄進と有五百年來の俤今目の前にうかひてそそろに珍しかれは勇義忠孝の士也佳名今に至りてしたはすといふ事なし誠に人の道を勤義を守へし名もまた是に隨ふと云り。
 塩竈神社(宮城県塩釜市)
 左上は塩竈神社から眺める「千賀ノ浦」(塩釜港)である。
 おくのほそ道の風景地 No.13(籬が島)宮城県塩釜市
 「籬が島」は、塩釜港内にある小島で歌枕として有名であった。島内に鹽竈神社の末社「曲木神社」がある。芭蕉は「五月雨の空いささか晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もほど近し」と記して、塩竈の浦の夜の風情の感傷に浸っている。島に渡れるのは「例祭」や「月次例祭」(毎月1日)のみ。
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 松島(おくのほそ道)
抑もことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を尽して、欹つものは天を指、伏すものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右に連る。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たわめて、屈曲おのづから矯めたるが如し。其の気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮ひ詞を尽さむ。
雄島が磯は地つゞきて、海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世を厭ふ人も稀々見え侍りて、落穗・松笠など打烟りたる草の庵閑に住なし、いかなる人とは知られずながら、先懐かしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又改む。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
  松島や鶴に身をかれほとゝぎす  曾良
予は口を閉ぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり、原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
 曾良の友人である「原安適」が贈ってくれた「松が浦島の和歌」とは何か、俗説(松が浦島=松島)とは異なり松が浦島(七ヶ浜町)に島でなく岩礁という「歌枕」地がある。そして、次なる和歌がある。
  音に聞く松が浦島今日ぞみるむべも心ある海人は住みけり  素性法師(後撰和歌集)
  波間より見へし景色ぞかはりぬる雪降りにけり松が浦島   顕昭(千載和歌集)
  さかしがる人もなければ行く末の契りに来つる松が浦島   藤原公任(公任集)
  心あらば海人もいかにか思ふらん紅葉散りしく松が浦島   堀川局(待賢門院堀川集)
  思ひわび松が浦島たずねみん心ある海人やなぐさむるとて  藤原家隆(壬二集)
  春霞たてるやいずこ朝日かげさしゆくふねを松が浦島    後鳥羽院(後鳥羽院集)
  心ある海人や植ゑけむ春ごとに藤咲きかかる松が浦島    後嵯峨天皇
 句碑  松島や鶴に身をかれほとゝきす
 「おくのほそ道」(松島)元禄259-10日、曽良の作。左側の句碑は芭蕉の「朝よさを」の句碑。芭蕉は「島々や千々にくだきて夏の海」を詠むも句碑はなし。
   *** 松島や鶴に身をかれほとゝきす 曾良  宮城県松島町 雄島
 松島四大観
扇谷からの「幽観」 富山からの「麗観 大高森からの壮観 多聞山からの偉観
 島巡り奥の細道遊覧コース
鐘島 仁王島 夫婦島 馬放島
 雄島(松島町)  句碑「あさよさを」「松島や」(曾良) 文学碑「松島の段、あさよさを」
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 曾良随行日記
・十日
 快晴。松島立(馬次ニ 而ナシ。間廿丁計)。馬次、高城村、小野(是より桃生郡。弐里半)、石巻(四里余)、仙台より十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニ 而咽乾、家毎ニ湯乞共不レ与。刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方へ壱町程立帰、同道シテ湯を可レ与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町四兵へと尋、宿可レ借之由云テ去ル。名ヲ問、ねこ村(小野ノ近ク)、コンノ源太左衛門殿。如レ教、四兵へ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓而止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
 瑞巌寺(おくのほそ道)
十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。
 曾良随行日記
・十一日
 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵へ、今一人、気仙へ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻二リ 、鹿ノ股。飯野川(一リ余渡有。三リニ遠し。 此間、山ノアイ、長キ沼有)。矢内津(一リ半、此間ニ渡し二ツ有)。曇。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。
 五大堂  瑞巌寺(下欄瑞巌寺境内)
 文学碑  芭蕉碑  円通寺  観瀾亭  比翼塚(紅蓮尼)
 石の巻(おくのほそ道)
十二日、平泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に、雉兎蒭蕘の行きかふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。こがね花咲と詠みて、奉たる金花山海上に見渡し、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の煙立つゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又知らぬ道まよひ。袖の渡り、尾ぶちの牧、真野の萱はらなどよそ目に見て、遥なる堤を行。心細き長沼にそうて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間二十余里ほどとおぼゆ。
 曾良随行日記
・十二日
 曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、 安久津(松嶋より此処迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)。一リ、加沢。三リ、一ノ関(皆山坂也)。黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
 ゆかりの地(松島から平泉)
 「道踏みたがへて石の巻」とあるが、実は「予定のコース」である。「高城宿」を立ち直進すれば「緒絶えの橋」(古川)、右に曲がれば「石巻・金華山道」だ。当時の古川古道は確かに「雉莵芻蕘」であったかも知れない。「奥の細道」以降、そう経たなく街道整備がなされている。幻想の旅と題して“石の巻”を訪ねた。
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 高城宿(松島町)  小野の追分(石巻街道と浜街道の分岐点)  金華山道碑  宿四兵(石巻一宿の地)
 「新富山の麓を通る松島宿の旧道」を抜けた芭蕉・曽良は、一歩進むたびに景観が変る「見返りの松島」に後ろ髪を引かれたであろう。石巻街道「高城宿」を抜け「迷い道」という虚構の旅、ここ「一里塚」の前を予定通り通り抜けた。「やうやうまどしき小家に一夜を明かして」、⇔「十日 快晴。松嶋立。馬次、高城村、小野、石巻。仙台ゟ十三里余。小野ト石ノ間、矢本新田ト云町ニ而咽乾、家毎ニ湯乞共不与。通行人、年十七八、此躰を憐テ、知人ノ方へ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町四兵へと尋、宿可借之由云テ去ル。
 袖の渡り(歌枕)
 明耕院  芭蕉翁一宿之跡(検断庄左衛門、大庄屋)  
 「明耕院の黒門」で芭蕉・曽良はこの前の道を右手から左手方向に通過したようだ。国道45号に出た所に「おくの細道の碑」がある。「心細き長沼に添うて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る」。
 芭蕉翁一宿之跡  弥勒寺
 姉葉の松(歌枕)  緒絶橋(歌枕)
 平泉(おくのほそ道)
三代の栄耀一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鷄山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。康衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐと見えたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡
  卯の花に兼房みゆる白毛哉  曾良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
  五月雨の降のこしてや光堂
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 曾良随行日記
・十三日
 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉 (伊沢八幡壱リ余リ奥也)ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・ 光堂(金色寺、別当案内)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩ヤへ不レ行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金雞山見ル。シミン(新御)堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待 。宿ス。
 句碑 旧碑  新碑  夏草や兵共か夢の跡
 「おくのほそ道」(平泉)元禄2513日、「平泉」での作。一関に宿し、平泉(高館・衣川・衣の関・中尊寺・光堂・泉城・桜川・桜山・秀衛屋敷)を数時間で見物するとは。左旧碑・右新碑が並んでいる。
   517 夏草や兵共がゆめの跡 岩手県平泉町 毛越寺
 句碑  卯の花の兼房見ゆる白髪かな
 「おくのほそ道」(平泉)、元禄2513日、曽良の作。「おくのほそ道」「平泉」編、芭蕉と曽良の詠み合いに独特観を感じる。
   *** 卯の花の兼房見ゆる白髪かな 曾良 岩手県平泉町 卯の花清水
 句碑  五月雨の降残してや光堂
 「おくのほそ道」(平泉)元禄2513日、「五月雨や年々降りて(るも)五百たび」、初案ならびに推敲過程の句もある。
   518 五月雨の降のこしてや光堂 岩手県平泉町 中尊寺
 関連句碑  螢火の昼は消つゝ柱かな
 「おくのほそ道」(平泉)元禄2513日、中尊寺で詠んだ「五月雨の」は「想像の金色堂」、実際に見た「現実の金色堂」が本句。初案とか何かでなく対で読みたい句だ。(句碑なし)
   519 螢火の昼は消えつゝ柱かな 句碑なし
 おくのほそ道の風景地 No.14(高館)岩手県平泉町
 「高館」は、頼朝に追われた義経が妻子とともに自害した居館があった場所。丘の頂上には義経堂(伊達綱村建立)がある。眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様子を眺めた芭蕉は、奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い「夏草や兵どもが夢の跡」と名句を詠み、いつまでも懐旧の涙にくれた。

 
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 おくのほそ道の風景地 No.15(金鶏山)岩手県平泉町
 「金鶏山」は、中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する信仰の山。奥州藤原氏3代秀衡が宇治の平等院を模して建立した無量光院の西側に一晩で築かせたとの伝説が残る。芭蕉は「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す」と紹介。
 おくのほそ道の風景地 No.16(さくら山)岩手県平泉町
 「さくら山」は、藤原清衡の祖父安倍頼時が駒形峰を中心に1万本の桜を植えたと伝えられる場所。その「さくら山」は、どうやら「束稲山」のことらしい。北上川畔の高館から「さくら山」を望み、悠久の時の流れの中に置かれた人の営みの儚さを想い不易流行の考えを深めた。
 毛越寺 句碑「夏草や」
 英文の句碑を見たのは毛越寺のみ、「夏草や」→「The summer grass 'Tis all that's left Of ancient warriors' dreams.
 世界文化遺産“平泉”“中尊寺”
 武蔵坊弁慶大墓碑  中尊寺展望台より「藤原遺跡点在区」「衣川橋」「束稲山」(さくら山)を眺望
 金色堂 句碑「五月雨の」  旧覆堂 文学碑  弁慶堂  本堂
 峰薬師堂  弁財天堂  釈迦堂  能楽殿
 「世界遺産・平泉」の正式名称は「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」で、その構成資産は「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」の5つ、追加登録を目指している「柳之御所遺跡」「達谷窟」等がある。
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 無量光院跡    柳之御所跡
 鎌倉時代の書「吾妻鏡」にも記され、奥州藤原氏の政庁「平泉館」とされる「柳之御所遺跡」は平泉の中心地でした→曾良記録「秀平(衡)やしき」
 卯の花清水 句碑「卯の花の」  達谷西光寺窟毘沙門堂  厳美渓
 尿前の関(おくのほそ道)
南部道遥に見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎、みづの小島を過て、鳴子の湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関を越す。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
  蚤虱馬の尿する枕もと
主の云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうき目にもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。主の云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし、雲端に土ふる心地して、篠の中踏分/\、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしをのこの云やう、此道必不用の事有。恙なう送りまゐらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。
 曾良随行日記
・十四日
 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、岩崎(栗原郡也。一ノハザマ)、藻庭大隈。三リ、真坂(栗原郡也。三ノハザマ、此間ニ二ノハザマ有)。岩崎より金成へ行中程ニつくも橋有。岩崎 より壱リ半程、金成よりハ半道程也。岩崎より行ば道より右ノ方也。
[真坂] 四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山は正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前 より右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒埼可レ見トノ義也。二リ余、遠キ所也故、川ニ添廻テ、及レ暮岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓而又曇テ折々小雨スル也。
 中新田町-小野田(仙台ヨリ最上へノ道ニ出合)-原ノ町-門沢(関所有)-渫沢-軽井沢-上ノ畑-野辺沢-尾羽根沢-大石田船乗-岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。※
・十五日
 小雨ス。右ノ道遠ク、難所有レ之由故、道ヲ かヘテ、二リ、宮○壱リ半、かぢハ沢。此辺ハ真坂より小蔵ト云かヽりテ、此宿へ出タル、各(格)別近シ。
 ○此間、小黒埼・水ノ小島有。名生貞ト云村ヲ黒崎ト、所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩 嶋ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小嶋也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。
壱リ半尿前。シトマヘゝ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意可レ有レ之也。壱リ半 、中山。
 ○堺田(村山郡小田嶋庄小国之内)。出羽新庄領也。中山 より入口五六丁先ニ堺杭有。
・十六日
 堺田ニ滞留。大雨、宿(和泉庄や、新右衛門兄也)。
・十七日
 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ肴シ置也。サヽ森 、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野 ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風へ着、一宿ス。
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 句碑  蚤虱馬の尿する枕もと
 「おくのほそ道」(尿前の関)元禄2517日、予定では「鍋越峠」越えであったが、難所有りとの事で「尿前の関」越えに変更した。「蚤虱馬の尿(しと)する枕もと」(おくのほそ道)の初案か「・・・・尿(ばり)・・・・」(曾良本おくのほそ道)等あり。
   520 蚤虱馬の尿する枕もと 山形県最上町 封人の家
 関連句碑 裏(句) 文学碑(句)  蚤虱馬の尿する枕もと
 「尿前の関」は宮城県大崎市、「封人の家」は山形県最上町。句の内容は「宿泊地」なので後者となるが・・・・
   宮城県大崎市 尿前の関
 天王寺追分  芭蕉一宿の地(石崎屋)岩出山
 芭蕉と曽良は、「天王寺追分」より「小黒崎・みつの小嶋」に向かうも日暮れ時、引き返して岩出山で宿す。もし、そのまま向っていたら宿の主人から峠越えの変更の勧めも耳にしなかったかも・・・・そうなれば「蚤虱」の名句も「山刀伐」の峠越えもなく「おくのほそ道」は違う形になっていたかもしれません。
 小黒崎  美豆の小島
 歌枕「美豆の小島」の歌碑「をぐろ崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを」(古今和歌集)
 尿前の関(宮城県大崎市) 句碑「蚤虱」
 関所跡に句碑「蚤虱」と文学碑「蚤虱」、「奥の細道」旅中「尿前の関」の章。本句の句碑だが、写真集には「尿前の関」と「封人の家」、いずれの句碑を乗せるべきか悩んだ。句碑としては「尿前の関」だが、発句では「封人の家」になろう。
 封人の家(山形県最上町) 句碑「蚤虱」  山刀伐峠
 「すぐ道も有也」→大野東人の東征の際に開削された古道に由来し、中羽前街道、銀山街道(銀山越え)と呼ばれた。陸奥国府から出羽国へと向かう主要街道であった。「すぐ道」を行ったら、名句「蚤虱」や「山刀伐峠越え」はなかっただろう。
 
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