尾花沢(おくのほそ道)
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富る者なれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
  凉しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひ屋が下の蟾の声
  眉掃を俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良
 曾良随行日記
・十七日
 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ肴シ置也。サヽ森 、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野 ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風へ着、一宿ス。
・十八日
 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。
・十九日
 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。
・廿日
 小雨。
・廿一日
 朝、小三良へ 被レ招。同晩、沼沢所左衛門へ被レ招。此ノ夜、清風ニ宿。
・廿二日
 晩、素英へ被レ招。
・廿三日ノ夜
 秋調へ被レ招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。
・廿四日之晩
 一橋、寺ニテ持賞ス。十七日 より終日晴明ノ日ナシ。
 ○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良、遊川 沼沢所左衛門、東陽 歌川平蔵。大石田 一栄 高野平右衛門。○川水 高桑加助。上京 ○鈴木宋専。俳名似林、息小三良。新庄 渋谷甚兵へ風流。
・廿五日
 折々小雨ス。大石田 より川水入来、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被レ招。
・廿六日
 昼ヨリ於レ遊川 ニ東陽持賞ス。此日も小雨ス。
 
 句碑  凉しさを我か宿にしてねまる也
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、国境の峠越えが予定通りだったら「蚤虱」の名句や「山刀伐峠」の労も無かっただろう。
   521 涼しさを我宿にしてねまる也   山形県尾花沢市 養泉寺
 句碑  まゆはきを俤にして紅粉の花
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、「尾花沢/六田」での作。                
   523 まゆはきを俤にして紅粉の花   山形県東根市 斎藤本店焼麩工場
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 句碑  這出よかひ屋か下の蟇の聲
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日。文学碑には、芭蕉の「尾花沢三句」も刻まれている。
   522 這出よかひかや下のひきの聲   群馬県高崎市 館公民館
 句碑  蚕飼する人は古代の姿かな
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、曽良の作。文学碑には、芭蕉の「尾花沢三句」も刻まれている。文学碑
  涼しさを我が宿にして寝まるなり 芭蕉
  
這い出でよ飼屋したのひきの声  芭蕉
  まゆはきを俤にして紅粉の花   芭蕉
  
蚕飼する人は古代の姿かな    曽良
 *** 蚕飼する人は古代の姿かな 曾良  山形県尾花沢市 みちのく風土記の里
 関連句碑  鹿子立をのへのし水田にかけて
 「おくのほそ道」(尾花沢)元禄2517-27日、尾花沢滞在中の興行。養泉寺の北側は尾花沢館跡(現尾花沢小学校)であり、芭蕉来訪時は幕府の尾花沢代官所があった。栄枯盛衰の跡に感慨が深い。それだけに地元の俳人素英の付句には歴史的懐古の情がこめられている。
   すゞしさを我やどにしてねまる也 芭蕉  鹿子立をのへのし水田にかけて  曾良
   つねのかやりに草の葉を焼    清風  ゆふづきまるし二の丸の跡    素英
 *** 鹿子立をのへのし水田にかけて 曾良  山形県尾花沢市 養泉寺
 関連句碑  行すゑは誰肌ふれむ紅の花
 元禄25月、「奥の細道」旅中「尾花沢」での作とするも、「此句はいかなるときの作にかあらん・・・・」と付されている。
   524 行すゑは誰肌ふれむ紅の花   山形県天童市 念仏寺跡
 「おくのほそ道」の旅の中で、芭蕉と曾良は土地の人びとと歌仙を一三巻、そのうち七巻を山形県内で巻いています。すなわち、尾花沢で「すゞしさを」と「おきふしの」二巻、大石田で「さみだれを」、新庄で「御尋に」、羽黒山で「有難や」、鶴岡で「めづらしや」、酒田で「温海山や」の七巻です。
歌仙「すゞしさを」の巻 (「繋橋」)所収 歌仙「おきふしの」の巻 (「繋橋」所収)
 すゞしさを我やどにしてねまる也 芭蕉
 つねのかやりに草の葉を燒    清風
 鹿子立をのへのし水田にかけて  曾良
 ゆふづきまるし二の丸の跡    素英
 おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
 狗ほえかゝるゆふたちの簑    芭蕉
 ゆく翅いくたび罠のにくからん  素英
 石ふみかへす飛こえの月     曾良
 芭蕉と曾良が須賀川を立ってから、尾花沢に着くまでは、さしたる知り合いもなく、俳諧の興行もありませんでした。尾花沢には、旧知の鈴木清風がおり、清風をとりまく地元の俳人たちの歓待をうけて、二巻の歌仙をまいています。尾花沢での歌仙で目立つことは、芭蕉と曾良の地元の風物伝説などに寄せる関心の深さです。地元の俳人も含めて自己の生活体験や知識がふんだんに取入れられているのです。
 養泉寺(山形県尾花沢市)
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 清風歴史資料館(尾花沢市)  みちのく風土記の里(尾花沢市)
 念仏寺跡(天童市)行すゑは  旧山寺街道(天童市) 句碑「眉はきを」  六田宿(東根市) 文学碑「行末は」
 立石寺(おくのほそ道)
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々の勧むるに依て、尾花沢より取つてかへし、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず、麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみ覚ゆ。
  閑さや岩にしみ入蝉の声 
 曾良随行日記
・廿七日
 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ 、立石寺へ趣。清風より馬ニテ館岡迄 被レ送ル。尾花沢。二リ、元飯田。一リ、館岡。一リ、六田 (山形へ三リ半、馬次間ニ内蔵ニ逢)。二リよ、天童。一リ半ニ近シ、山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル)。未ノ下尅ニ着。是ヨリ山形ヘ三リ。山形へ趣カンシテ止ム。是より仙台へ趣路有。関東道、九十里余。 
 句碑  閑さや巌にしみ入蝉の聲
 「おくのほそ道」(立石寺)元禄2527日、初案「山寺や石にしみつく蝉の声」。尾花沢を発ち16時頃に山寺に到着、従って夕方の山内拝観と何とも忙しない旅だ。
   525 閑さや岩にしみ入蝉野聲   山形県山形市 立石寺
 関連句碑  閑かさや岩にしみ入蝉の聲
 芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石の塚をたてたもので、せみ塚といわれている。
尚、曾良は「山寺や岩にしみつく蝉の聲」と記している。他に「さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ」(初蝉)、「淋しさの岩にしみ込せみの聲」(こがらし)がある。
   *** 閑かさや岩にしみ入蝉の聲   山形県山形市 立石寺
 立石寺根本中堂/本堂(山形市) 句碑「閑さや」  仁王門下のせみ塚 句碑「閑かさや」
 秘蔵館前にある文学碑(句碑) 芭蕉と曾良像  奥之院への山門
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 仁王門の先にある性蔵院  奥之院  開山堂と納経堂(右)  納経堂と眼下山寺の街
 「奥の細道と立石寺」(山形市内の芭蕉句碑めぐり)にて、「眉はきを俤にして紅の花」(千歳山公園、専称寺)、「朝よさを誰まつしまそ片心」(大龍寺)、そして全国最古の芭蕉句碑「雲をりをり人をやすむる月見かな」(山形美術館)も撮っている。ちなみに、全国にある芭蕉句碑(塚を含む)のベスト4は、長野県(227)・群馬県(221)・埼玉県(116)・山形県(104)となっている。
 最上川(おくのほそ道)
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角一声の心をやはらげ、此道にさぐり足して、新古ふた道にふみ迷ふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。この度の風流、爰に至れり。
最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。碁点・隼など云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸の滝は青葉の隙/\に落て、仙人堂、岸に臨て立。水漲つて舟あやふし。
  五月雨をあつめて早し最上川
 曾良随行日記
・廿八日
 馬借テ天道ニ趣。六田ニテ、又内蔵ニ逢。立寄ば持賞ス。 未ノ中尅、大石田一英(栄)宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降 。上飯田より壱リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳。休ス。
・廿九日
 夜ニ入小雨ス。発一巡終テ、翁 、両人誘テ黒滝へ被レ参詣。予所労故、止。未尅被レ帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入、帰。
・晦日
  朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺へ被レ遊、帰、物ども被レ書。
 句碑  五月雨をあつめて早し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。句碑は新庄市の「芭蕉乗船の地」と、庄内町の「芭蕉上陸の地」にある。
   526 五月雨をあつめて早し最上川   山形県新庄市 芭蕉乗船の地
 関連句碑  さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。大石田は、当時の最上川舟下りの起点、前句「あつめて早し」の初案。
   *** 五月雨を集て涼し最上川   山形県大石田町 高野一榮邸跡
 関連句碑  水の奥氷室尋る柳哉
 「おくのほそ道」(最上川)元禄261日、「大石田から羽黒山」道中(新庄)の「風流亭」(澁谷甚兵衛宅)で詠んだ句。曽良は「風渡る的の変矢に鳩鳴て」を詠む。
   527 水の奥氷室尋る柳哉   山形県新庄市 柳の清水跡
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 関連句碑  風の香も南に近し最上川
 「おくのほそ道」(最上川)元禄261日、「大石田から羽黒山」道中(新庄)の「盛信亭」で盛信へ「薫風は南より至る」(白楽天の詩)を引用した挨拶吟。
   528 風の香も南に近し最上川  山形県舟形町 猿羽根山地蔵堂
 高野一榮邸跡(山形県大石田町)
   初折の表六句
 さみたれをあつめてすゝしもかミ川   芭蕉
 岸にほたるを繋ぐ舟杭         一栄
 瓜はたけいさよふ空に影まちて     曾良
 里をむかひに桑のほそミち       川水
 うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ  一栄
 水雲重しふところの吟         芭蕉
   名残りの裏六句
 雪みそれ師走の市の名残とて  曾良
 煤掃の日を草庵の客      芭蕉
 無人を古き懐帋にかそへられ  一栄
 やもめからすのまよふ入逢   川水
 平包あすもこゆへき峯の花   芭蕉
 山田の種をいはふむらさめ   曾良
 西光寺(山形県大石田町)
 「おくのほそ道」(最上川)元禄2528-29日、「大石田」での作。大石田は、当時の最上川舟下りの起点、「あつめて早し」の初案。原碑は風化が進み、保存のために碑を小さなお堂に収めガラス窓で仕切ってある。
さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川
 塔婆坂・芭蕉翁五月雨塚(山形県酒田市) 句碑「五月雨を」  称念寺(山形県大江町) 句碑「五月雨を」
 最上川舟役所跡/大門・堀蔵(山形県大石田町)  向川寺(山形県大石田町) 黒滝へ被レ参詣
 曾良随行日記
・六月朔
 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐疋、舟形迄送ル。二リ。一リ半、舟形。大石田より出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。 新庄より出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共ニ入ニハ不レ構。二リ八丁新庄、風流ニ宿ス。
・二日
 昼過より九郎兵衛へ被レ招。彼是、歌仙一巻有。盛信。息、塘夕、渋谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵へ 。
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 猿羽根山峠跡・猿羽根山地蔵堂(山形県舟形町) 句碑「風の香も」
 柳の清水跡(山形県新庄市) 句碑「水の奥」  市民プラザ(山形県新庄市) 句碑「風の香も」
 元禄261日、大石田を出た芭蕉と曾良は,猿羽根峠を越えて鳥越の一里塚、柳の清水を経て、尾花沢で知り合いとなった豪商の渋谷風流(甚兵衛)宅に着きました。当時の新庄藩は二代藩主戸沢正誠の代で、この頃までに初代藩主政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政、文化両面において全盛の時代を迎えていた。
 澁谷風流亭跡
 風流宅に着いた芭蕉は、そこで三つ物の発句「水の奥氷室尋る柳哉」を詠みました。折りしも、旧暦
61日は、暑気払いや夏の厄除けをした「氷室の節句」に当たっていたので、「氷室」という言葉を入れ、風流への接待に感謝の気持ちを表したものです。
  水の奥氷室尋る柳哉     翁(松尾芭蕉)
  ひるがほかゝる橋のふせ芝  風流(渋谷甚兵衛)
  風渡る的の變矢に鳩鳴て   ソラ(河合曾良)
 翌日、芭蕉主従は、風流の兄(本家)盛信宅に招かれ、ここでも「風の香も南に近し最上川」という三つ物の発句を詠みました。またそこで、地元の俳人たちと、風流の発句「御尋に」で始まる歌仙を巻きました。
 澁谷盛信亭跡
 風の香も南に近し最上川  翁
 小家の軒を洗ふ夕立    柳風
 物もなく麓は霧に埋て   木端

 御尋に我宿せばし破れ蚊や   風流(渋谷甚兵衛)
 はじめてかほる風の薫物    芭蕉(松尾芭蕉)
 菊作り鍬に薄を折添て     孤松(加藤四良兵衛)
 霧立かくす虹のもとすゑ    ソラ(河合曾良)
 そゞろ成月に二里隔けり    柳風(澁谷仁兵衛)
 馬市くれて駒むかへせん    筆
 すゝけたる父が弓矢をとり傅  芭蕉(松尾芭蕉)
 おくのほそ道の風景地 No.17(本合海)山形県新庄市
 日本三大急流の一つ「最上川」は、「本合海」で新田川を併合し南北から東西へと90度流れを変える。白い断崖(八向山の八向楯)下に流れが激突して大きな渦が巻き舟人にとってこの上ない難所であった。芭蕉は、最上川の流れに身を委ね「五月雨をあつめて早し最上川」を詠んだ。
 最上川舟番所(山形県戸沢村) 売店シャッターに「五月雨を」「暑き日を」が  白糸の滝
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 芭蕉上陸の地・清川関所(川口番所) 山形県庄内町 句碑「五月雨を」
 芭蕉一行は、新庄の本合海から舟で最上川を下り、現在の庄内町の清川に上陸し狩川を経由して羽黒山に向かった。
 歴史の道(前山の赤坂) 山形県鶴岡市  これより「出羽三山神社」(羽黒山・月山・湯殿山)
 関川から狩川・添津・山崎・三ヶ沢・添川と登って来た羽黒参道、今やその面影も消え、ここ「前山の赤坂」に昔の道が180mほど残っている。元禄二年、曾良と共に羽黒山に登った芭蕉もこの道を通ったであろう。「街道一の難所」と言われたとか・・・・?
 羽黒山大鳥居 山形県鶴岡市
 出羽三山(おくのほそ道)
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会永覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧興行。 
  有難や雪をかほらす南谷
五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人と云事を知らず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合せて三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明かに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏て登る事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて、頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打。終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ、道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春をわすれぬ遅桜の花の心わりなし、炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
  凉しさやほの三か月の羽黒山
  雲の峰幾つ崩て月の山
  語られぬ湯殿にぬらす袂かな
  湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良
 曾良随行日記
・三日
 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方より状添ル。大石田平右衛門方よりも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海より禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有)。一リ半古口へ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵ヘより状添。関所、出手形、新庄より持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。平七より状添方ノ名忘タリ。状不レ添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門より状レ添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺よりクラク成。本坊ノ院居所也。
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 曾良随行日記
・四日
 天気吉。昼時、本坊へ蕎麦切ニテ 被レ招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、稀有観修坊釣雪逢、互ニ泣第(涕泣)ス。
・五日
 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。
・六日
 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原(中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。こや有)御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
・七日
 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。本道寺へも岩根沢へも行也。 牛首コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前よりスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡へ出ル道有)。是 より奥へ持タル金銀銭持テ不レ帰。惣而取落モノ取上ル事不レ成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊より弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。
 △ハラヂヌギカヘ場よりシヅト云所ヘ出テ、モガミへ行也。
 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不レ余。
・八日
 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院御入、申ノ刻ニ至ル。
・九日
 天気吉、折々曇。断食。及昼テシメアグル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル 。
・十日
 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々(道々)小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
 句碑  有難や雪をかほらす南谷
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、芭蕉は、羽黒山の「南谷別院」に舎す。本坊で巻いた八人歌仙での発句。曽良は「川船のつなに螢を引立て」を詠む。文化週五年四月二十一日(1818)建立。
   529 有難や雪をかほらす南谷   山形県鶴岡市 南谷別院跡
 句碑  凉しさやほの三日月の羽黒山
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「涼しさや」「雲の峰」「語られぬ」の三句を刻んだもので「三山句碑」という。
 荒沢寺から月山へ登る旧月山参道野口(特定出来なかったが荒沢寺からさほど離れていない)にあった文政八年四月(
1825)建立の句碑(芭蕉翁三山順禮三句御染筆)を昭和四十年七月十二日(1965)に移建された。
   530 涼しさやほの三か月の羽黒山   山形県鶴岡市 出羽神社山頂
 関連句碑  涼風やほの三か月の羽黒山
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「羽黒山」を詠む。「涼しさや」ではなく「涼風や」になっている。「涼しさや」の初案が刻まれている。
   530 掠風やほの三ヶ月の羽黒山   山形県鶴岡市羽黒山 三山大愛教会
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 関連句碑  五月雨やほの三か月の羽黒山
 羽黒山参道二の坂御坊平若王寺跡前に「芭蕉翁三日月塚」があり「涼しさや」→「五月雨や」の句碑があった。碑撮り旅で出遭った超レアな句碑。ここの石燈籠(右)に「雲の峯幾つ崩れて月の山」、同(左)に「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」、明和六年(1769)刻と古い句碑がある。
   *** 五月雨やほの三か月の羽黒山   山形県鶴岡市 芭蕉翁三日月塚
 句碑  雲の峯いくつ崩れて月の山
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「月山」を詠む。                   
   531 雲の峰幾つ崩て月の山   山形県鶴岡市 月山山頂
 句碑  語られぬ湯殿にぬらす袂哉
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「湯殿山」を詠む。6月中旬の撮影、同年5月に撮影に臨むも、句碑の上部が数cm見えるほどの残雪であった。
   532 語られぬ湯殿にぬらす袂かな   山形県鶴岡市 湯殿山神社
 句碑  湯殿山銭ふむ道の泪かな
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「湯殿山」を詠む曽良の句。芭蕉「湯殿山」句碑の前に建つ。
   *** 湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良  山形県鶴岡市 湯殿山神社
 関連句碑  其玉や羽黒にかへす法の月
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「羽黒山」での作。伊豆大島に流罪となり果てた羽黒山第50代別当「天宥法院」を偲んで詠んだ追悼句(背面天宥法院追悼文)。
   533 其玉や羽黒にかへす法の月   山形県鶴岡市 三山大愛教会
 関連句碑  月か花かとへど四睡の鼾哉
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄263-10日、「羽黒山」での作。「天宥法院」筆による「四唾図」(豊干禅師・寒山・拾得・虎の4人が眠る図)への画賛句。句碑なし。
→掲載は菱川師宣画(
1701
   534 月か花かとへど四睡の鼾哉   句碑なし
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 関連句碑  めつらしや山をいて羽の初なすひ
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄2610日、「出羽三山」参詣を終え「鶴岡」に出て鶴岡藩士「長山重行邸」へ。ご馳走になった珍しい長茄子を褒めることで挨拶吟とした。
 芭蕉は呂丸に送られ羽黒山から鶴岡城下の長山重行宅へ、芭蕉「めずらしや山をいで羽の初茄子」、重行「蝉に車の音添る井戸」、曽良「絹機の暮閙しう梭打て」、露丸「閏弥生もすゑの三ケ月」と歌仙を巻く。
   535 めづらしや山を出羽の初茄子   山形県鶴岡市 長山重行邸跡
 手向宿坊街 山形県鶴岡市  手向地区の宿坊は現在34
 図司呂丸屋敷跡  島崎稲荷神社 呂丸辞世の句と芭蕉の追悼句 
 羽黒山を訪れた芭蕉一行を案内してくれたのが呂丸(露丸)こと近藤左吉(図司左吉)。手向村の人。羽黒山伏の法衣を染める染色業を営む。元禄622日、旅の空、京都で客死。芭蕉は追悼句「当帰よりあはれは塚の菫草」を贈る。呂丸宛書簡が2通残る。一通目は「奥の細道」の旅で呂丸と初めて会って世話をしてもらったことへの謝意。二通目は元禄528日。呂丸は、元禄59月に芭蕉庵を訪問し、このとき芭蕉から「三日月日記」の稿本を譲り受けている。芭蕉は呂丸に対して好感を持っていたようだ。呂丸は「聞書七日草」という書物を残すが、これは羽黒山での芭蕉の教えを記述した書。 芭蕉の俳論「不易流行」が最初に着眼されたのはこの時の呂丸との対話の中と伝承。(伊藤洋「芭蕉全句集」Hp参照)
 大進坊(宿坊) 句碑「凉しさや」「加多羅禮努」「雲の峰」(出羽三山句、羽黒山頂の句碑模刻)
 三山大愛教会(宿坊) 句碑「無玉や」(背面天宥法院追悼文)と「凉風や」「雲の峯」「かたられぬ」
 寛文8年(1668)新島で最初の流人(天宥法院75歳)として流され、芭蕉の「奥の細道」の旅より15年前の延宝元年(1674)病没した出羽国羽黒山第50代別当天宥法院(享年81際)の墓は東京都新島村新原にあり、句碑「無玉や」がある。少し脱線するが、「岩根沢三山神社」(山形県西川町)に行ったとき、岩根沢旧日月寺歴代墓所で偶然にも「天宥法印御両親供養塔」(老後を岩根沢で過ごした)を眼にした。興味を持ち調べたところ、天宥は7歳のとき、師の宥俊が日月寺にいたとき弟子となり仏門に入った。岩根沢のある西川町の「安仲坊」(寒河江市の慈恩寺に属した)の出身であるとする説が有力。と云うことから「天宥ゆかりの地」の追跡が始まった。
 芭蕉翁三日月塚 二の坂御坊平若王寺跡前 句碑「五月雨やほの三か月の羽黒山」
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 南谷別院跡 句碑「有難や」 環境省の「かおり風景100選」に選ばれた羽黒山南谷
 南谷は、天宥別当が山頂の寺々を火災による本社への延焼を防ぐために移築した場所である。寛文5年(1665)に天宥別当が南谷に建てた住まいでもある別当寺は、長屋門が60m、建坪が700坪もあったという。芭蕉が南谷を訪れた際、天宥別当が建てた別当寺は火災により既に無く、寺院を廻らして造られた泉や庭に芭蕉は感嘆し、天宥別当の業績を偲んで追悼の句を詠んだ。
歌仙「有難や」の巻 (曾良書留)
 有難や雪をかほらす風の音 翁
 住程人のむすぶ夏草    露丸
 川船のつなに螢を引立て  曽良
 鵜の飛跡に見ゆる三ケ月  釣雪
 澄水に天の浮べる秋の風  珠妙
 北も南も碪打けり     梨水
 「霊地に妙香あり」という。南谷別院は羽黒山の霊気が漲っていて雪渓を渡る風が良い香りを運んできてくれることだ。羽黒山本坊において露丸・釣雪・珠妙・梨水・円入・會覚・曾良を入れて八人歌仙を巻いた。會覚や土地の人々への挨拶吟。
 出羽三山神社(羽黒山)
 随身門  天地金神社  祓川と須賀の滝  五重塔
 三神合祭殿  鐘楼と建治の大鐘  斎館(旧華蔵院)  羽黒古道霊祭殿下り口
 蜂子神社  三神合祭殿左後方の開山廟  皇野にある開山塚  蜂子皇子御墓
 芭蕉句碑 出羽三山句(月山参道野口より移動)    吹越神社  峰中籠堂
 荒澤寺  常火堂と蜂子皇子碑  野口道(旧月山参道)
 月山の八方七口の一つ「荒澤口/羽黒口」(荒澤寺)、旧月山参道の野口道、芭蕉の「三山句碑」(羽黒山頂)が元々あった場所である。旧参道(羽黒修験道のみち)は荒れていたが、「荒澤寺口」と「半合目傘骨」の標柱は確認出来た。
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 いでは文化記念館 句碑「出羽三山句」  羽黒古道(皇野・元羽黒)
 湯殿山神社/出羽三山奥の院(湯殿山) 山形県鶴岡市
 「語られぬ」「湯殿山」の句碑、先月の参詣時は「句碑は雪の中」だった。今にも泣き出しそうな空模様、何とか持ちこたえて欲しい天気、湯殿山に到着し1分後のバスに飛び乗り、句碑のみ撮影して蜻蛉返り。
 月山神社本宮(月山) 山形県鶴岡市
 「奥の細道」(羽黒山・月山・湯殿山)「碑撮り旅」のみならず「出羽三山」は、「ゆどの道」「廃仏毀釈」「即身仏」で訪れている。唯一、「月山」が未踏の地として残ってしまい。気の晴れない日々を送ってきた。ふとしたことで「姥沢口」(登り2時間、下り1時間50分、初心者日帰りコース)の存在を知った。すぐに計画書を作り、824日から散歩を始め95日まで13日休まず続けた。溜まった疲れを取るため912日まで休み、後は「天気予報」と睨めっこ。前日時点で「午前曇、午後晴」、前後を含め最良の日和、予定より30分早めて2030分に家を出た。「越後路」経由で2030分の休憩を取り「姥沢駐車場」(434km)に522分に到着。
 ペアリフトの運行開始は8時より、山支度を整え態勢を整え仮眠を、7時雨が・・・・それも本降り、9時まで様子をみようと決めるも、なかなか止みそうにない。8時に「中止」を決断し、芭蕉句碑がある「五色沼」へと移動する。
「五色沼」を後にする際(諦めがつかず)、「月山」の方向に目を、なにやら「雲行き」(霧)の流れに変化が・・・・「行けるかも」と「姥沢駐車場」に向かうエンジン音も快適に聞こえる。
     ひさかたの月の山にも雨雲が晴れてくればや峯に立つらむ
     月の山芭蕉の句碑に膝折りて奥の細道を思ほゆるかも
 月一度の仙台出張、会議の前日は「旅の未知草」として「○○撮り」に嵌り込んでいった。その中での「芭蕉の句碑」(碑撮り旅)から「奥の細道」に特化した「旅の未知草」が始まった。その第1話は平成25614日(2013)、満66歳と3日(三雄の名に相応しい)であった。「おくのほそ道」は、俳句に無関心な人に対しても魅了する何かが潜んでいる。
 陸奥仙台とは正反対の北陸以西の旅へと「碑撮り旅」の完結に向け、第一回目(
2015.6.1-3)、第二回目の補遺(2016.7.28-29)、そしてこの「月山登山」で「碑撮り旅」を完結させた。
 一方、「即身仏」「神仏習合・廃仏毀釈」「ゆどのみち」(月山登山)「蜂子皇子」「出羽三山・八方七口」へと興味は広く深く広がっていった。この中での「芭蕉句碑」を拾い出してみよう。
 大井沢湯殿山神社(旧大日寺跡) 山形県西川町 句碑「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」
 芭蕉が平泉で「杜甫の春望の詩」を引用しての「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」との文言が脳裏をよぎり、哀しさ(寺破れて山河あり、社夏にして草青みたり)が込み上げてきた。神仏分離令で廃仏毀釈が行われ、出羽三山は神道化された。
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 口之宮湯殿山神社(旧本道寺跡) 山形県西川町 句碑「語られぬ湯殿にぬらす袂哉」
 本道寺地区の右奥に「月山湖」を堰き止める寒河江ダムがある。この前に立ち寄った大井沢集落を始めに月山沢・四ツ谷・砂子関・二ツ掛の93戸がダム湖に沈んだ。「神仏分離令」の果ては寺社ともに朽ちへと導き往時の繁栄は哀しみへとかわっている。照りつける太陽に「六十里越街道」(ゆどのみち)は、ゆらめき、あたかも炎を上げているようにも思え芭蕉句碑を前に詠む。
 当地で集められた石碑文化、最初に参詣した頃は無造作に置かれたままであった。整理整頓された折りに芭蕉句碑が移動され探すのに一苦労・・・・「碑撮り旅」も年季が入ると意に反し動転することも起こり得るものだ。
 岩根沢三神社(旧日月寺跡) 山形県西川町 句碑なし
 天宥と岩根沢日月寺の密接な関係は以前から指摘されており、近年になって岩根沢旧日月寺の世代墓地に天宥の両親の墓石が発見。天宥の両親は老後を岩根沢ですごし、そこで亡くなったものとみられる。天宥は岩根沢の出身であると見做しうるが、岩根沢がある西川町の安中坊(寒河江市の慈恩寺に属した)の出身であるとする説が有力。
 安仲坊無量寿院跡&安仲坊代々の墓(大江一族)西川町  常念寺・庫裡(旧庵仲坊無量寿院) 山形市
 大江氏の居所であったとされる吉川地区の「安仲坊別当屋敷跡」の発掘で、中世末のものと考えられる土塁状遺構や柵列遺構などが出土、全体的には近世以降に作られたものが大半であった。その中でも阿弥陀堂別当が居住した安仲坊の寺や、大江広元・親広親子と多田仁綱を祀った無量寿院の跡地は、安仲坊の歴史を考える上で重要な発見になった。
 常念寺の客殿は、山形県西川町(川土居村)にあった旧真言宗安仲坊の本堂でした。この安仲坊が明治維新後に廃寺となった際、本堂を譲り受け当山へ移築したものが客殿として現存。安仲坊とは、鎌倉時代の武将大江親広ゆかりの寺院であり、また親広の父・広元の位牌を祀る朱印寺でもあった。
 志津御番所跡(月山・湯殿山の玄関口) 山形県西川町 句碑「雲の峰幾つ崩れて月の山」
 「旧六十里街道碑」、少し足を踏み入れれば「石塔坂」で「志津口留番所跡」「常夜燈石碑」がある。大井沢からも、その灯が見えたという志津御番所跡の常夜灯。大井沢大日寺は湯殿山別当四ケ寺の一つ。江戸時代中期以後最も繁栄し、「湯殿まで笠の波うつ大井沢」と歌にまで詠まれた。志津の入口には口留番所があった。文化6年(1809)の「印鑑張」他、数冊の文献に番所の存在を裏づけた文章が残っている。志津に入る手前に御番所跡とされる小高い林があり、そこには文化4年(1807)信夫郡飯坂の行者によって湯殿山に奉納された常夜灯がある。志津の集落は内陸と庄内の接点に位置し、湯殿山行者の宿場と、加えて庄内往還六十里越の村継場として発達した。ここには、本道寺・大日寺の賄小屋があり、行者に食事を出した。大日寺から村の北端を通り抜け、大越川の橋を渡って八幡坂を上り、弓張平に出て北進し、志津に入る。そこから六十里越街道と合流し、湯殿山神社には大岫峠を上って行った。この参道は応永24年(1418)大日寺中興の祖といわれた道智上人が、自ら峠の道路改修に当たったと伝えられ、関東一円と米沢・長井方面からの利用者が多かった。(道智上人が開いた大井沢・志津参道)
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 長山邸跡 山形県鶴岡市 句碑「めづらしや」  内川乗舟地跡(大泉橋袂) 山形県鶴岡市
 右端の句碑「珍しや」は山王日枝神社(鶴岡市)  内川・赤川・最上川と下り酒田へ
 酒田(おくのほそ道)
羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。
  あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
  暑き日を海にいれたり最上川
 曾良随行日記
・十一日
 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
・十二日
 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。○羽黒山南谷方(近藤左吉・観修坊、南谷方也)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊・息平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門・大河八十良・梨水・新宰相。△花蔵院△正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可レ尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内淨教院珠妙。△鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
・十三日
 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒 より飛脚、旅行ノ帳面 被レ調、被レ遣。又、ゆかた二ツ被レ贈。亦、発句共も被レ為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。
・十四日
 寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
 句碑  暑き日を海に入れたりもかみ川
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄2614日、「鶴岡」での作。「曽良書留」では「寺島彦助亭にて」(酒田)とある。
 いままさに真っ赤な太陽が日本海に沈んで行く。この暑い日を海に納めた最上川は再び涼しさを招いてくれることだ。急流最上川が大量の水を海に入れて、その水量に流されて暑い太陽は沈んで行くのである。
   536 暑き日を海にいれたり最上川   山形県酒田市 日和山公園
 ※象潟から戻っての酒田(第二部)は、象潟の前で同時掲載します。
 句碑  あつみ山や吹浦かけてゆふ凉み
 「おくのほそ道」(酒田)元禄2618-25日、「象潟から酒田に戻る帰路」での作。酒田に戻り門人達への挨拶吟。寺島彦助亭に招かれての句会か?                   
   540 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ   山形県鶴岡市 塩俵岩
 関連句碑  初眞桑四にや斷ン輪に切ン
「おくのほそ道」(酒田)元禄2623日、象潟から再度酒田に戻り、「酒田」の「あふみや玉志亭」での即興発句会で詠んだ句。「玉志=鎧屋」との説もある。
   541 初眞桑四にや斷ン輪に切ン   山形県酒田市 日和山公園
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 句碑なし  花と実と一度に瓜のさかりかな
 貞享元年頃から死の元禄7年までの発句とされているが、参考にしている「芭蕉俳句集」(中村俊定校注)では元禄2年「初眞桑」の次に掲載されている。(句碑なし)
 誰か分からないが、知人の親子を誉めた句とされるが・・・・瓜は花と実が同時にある。花の盛りが実の盛りでもあるということ。
   542 花と実と一度に瓜のさかりかな   句碑無し
 立岩・塩俵岩 山形県鶴岡市  日和山公園 山形県酒田市  出羽二見・十六羅漢岩 山形県遊佐町
 吹浦は酒田海岸(遊佐町)の地名、あつみ山は温海岳(温海町/鶴岡市)のこと。雄大な景色の中で温海山が夕涼みをしているという擬人化。酒田の門人たちへの挨拶吟(酒田市)である。
 日和山公園(山形県酒田市)には他に句碑・文学碑がある  宝昌院 山形県鶴岡市民田(長山邸から直線距離で3.5km
 初真桑四にや断ン輪に切ン    芭蕉
 初瓜やかぶり廻しをおもひ出ヅ  曾良
 三人の中に翁や初真桑      不玉
 興にめでゝこゝろもとなし瓜の味 玉志
 
 
 めづらしや山をいで羽の初茄子 翁
 蝉に車の音添る井戸      重行
 絹機の暮閙しう梭打て     曾良
 閏彌生もすゑの三ヶ月     露丸
 吾顔に散かゝりたる梨の花   重行
 銘を胡蝶と付しさかづき    翁
  めつらしや山を出羽の初なすひ
 「おくのほそ道」(出羽三山)元禄
2610日、「出羽三山」参詣を終え「鶴岡」に出て鶴岡藩士「長山重行邸」へ。ご馳走になった珍しい長茄子を褒めることで挨拶吟とした。
 この句に詠まれた「なすび」は民田周辺(宝昌院周辺)で栽培されている「民田なす」という小ぶりの茄子のこと。
 不玉邸跡  玉志近江屋三郎兵衛宅跡  安種亭令道(寺島彦助)宅跡  兵衛邸跡(近江屋=鐙屋)
歌仙 「温海山や」(曾良俳諧書留) 酒田 不玉亭
象潟より戻り、酒田の不玉亭で六月十九日から二十一日までかかり完了。出羽酒田 伊東玄順亭ニ而
  温海山や吹浦かけて夕涼  翁
  みるかる磯にたゝむ帆莚  不玉
  月出ば関やをからん酒持て 曽良
  土もの竈の煙る秋風    芭蕉
 象潟(おくのほそ道)
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越磯を伝ひ、いさごをふみて、其の際十里、日影やゝ傾く比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して、雨も又奇なりとせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の笘屋に膝を入れて、雨の晴を待。其朝、天能霽て、朝日はなやかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕ぐとよまれし桜の老木、西はむや/\の関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪打入るゝ所を汐こしと云。
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江の縱横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や雨に西施がねぶの花
  汐越や鶴脛ぬれて海涼し
   祭礼
  象潟や料理何くふ神祭  曾良
  蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の商人  低耳
   岩上に雎鳩の巣を見る
  浪こえぬ契ありてやみさごの巣  曾良
 曾良随行日記   ※象潟から酒田までの曾良随行日記(十九日から廿四日)を掲載
・十五日
 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ゟ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。
・十六日
 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ゟ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是ゟ六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被レ訪。
・十七日
 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
・十八日
 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。
・十九日
 快晴。三吟始。明廿日、寺嶋彦助江戸へ被レ趣ニ因テ状認。翁より杉風、又鳴海寂照・越人へ被レ遣。予、杉風・深川長政へ遣ス。
・廿日
 快晴。三吟。
・廿一日
 快晴。夕方曇。夜ニ入、村雨シテ止。三吟終。
・廿二日
 曇。夕方晴。
・廿三日
 晴。近江や三良兵へへ被レ招。夜ニ入、即興ノ発句有。
・廿四日
 朝晴。夕ヨリ夜半迄雨降ル 。 
 句碑  象潟や雨に西施かねふの花
 「おくのほそ道」(象潟)元禄2615-18日(1689)、「象潟」での作。郵政省が芭蕉旅立300年を記念し「奥の細道記念切手」を発行、第7集にノミネートされ記念碑を建立。
 文化元年(1804)の象潟地震で海底が隆起し陸地化、松尾芭蕉の没年は1694110年後)。
   537 象潟や雨や西施がねむの花   秋田県にかほ市 象潟駅
 関連句碑  象潟の雨や西施かねふの花
 「おくのほそ道」(象潟)元禄2615-18日、当時の象潟は「蚶満寺」の周りまで海水が満ちていた。「象潟や」の初案が句碑になっている。
   *** 象潟の雨や西施かねふの花   秋田県にかほ市 蚶満寺
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 関連句碑  腰長や鶴脛ぬれて海涼し
 「おくのほそ道」(象潟)元禄2615-18日、象潟の句碑はいずれも「象潟自詠懐紙」の句形、「腰長や」は「汐越や鶴はきぬれて海涼し」の初案。象潟三句文学碑
  象潟の雨や西施かねふの花
  ゆふばれや櫻に涼む波の花
  腰長や鶴脛ぬれて海涼し
   538 ゆふばれや櫻に涼む波の花 539 腰長や鶴脛ぬれて海涼し   秋田県にかほ市 象潟駅
 句碑なし  象潟や料理何くふ神祭 波こえぬ契ありてやみさこの巣
 江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなますに似たり。
   祭礼
  象潟や料理何くふ神祭 曽良.
  蜑の家や戸板を敷て夕涼 美濃の国商人 低耳
   岩上にみさごの巣を見る
  波こえぬ契ありてやみさこの巣 曽良
 象潟一望(道の駅象潟ねむの丘) 秋田県にかほ市
 元禄二年芭蕉と曾良が観た象潟風景を想像すべく「代田の季節」に再訪。
 おくのほそ道の風景地 No.18(三崎/大師三崎)秋田県にかほ市・山形県遊佐町
 文学碑「吹浦を立つ」  三崎山遊歩道  不動崎・観音先見晴台  大師岬と噴火跡
 「三崎」(観音崎・大師崎・不動崎)は、鳥海山の噴火活動で溶岩が西に下り日本海に至った場所。鬱蒼としたタブ林を抜ける「三崎山旧街道」は、芭蕉らが訪ねた往時の面影を今に伝えている。「曽良随行日記」には「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降リ出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共々」とある。
 おくのほそ道の風景地 No.19(象潟・汐越・駒留島)秋田県にかほ市
 象潟  蚶満寺山門  九十九島碑  象潟  能因島
 芭蕉は、象潟を訪ねることができた感動を「江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責」と書きとどめている。象潟の愁いのある風景を中国の悲劇の美女西施と重ね、「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ。「東の松島、西の象潟」と評された景勝地も、芭蕉が訪ねてから120年余り後に象潟地震で隆起し陸地と化した。
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 奥の細道象潟滞在絵図(きさかたさんぽみち)  JR象潟駅 文学碑と記念切手(芭蕉句)
 蚶満寺 旧参道・旧参道から見える駒留島(手前は休耕地になっている)・九十九島の碑・山門
 芭蕉像と句碑 「象潟や」  西施像と芭蕉句 「象潟や」
 芭蕉が宿泊した向屋跡(能登屋満室で急遽変更)  芭蕉が翌日宿泊した能登屋(佐々木孫左衛門という旅人宿)
 熊野神社
 塔婆坂・芭蕉翁五月雨塚(山形県酒田市)
 芭蕉と曽良は、「象潟橋」(欄干橋)から「汐越」(象潟)を眺めたという。川の上流方向、青空の下に鳥海山が見える。すぐ近くなので、熊野神社境内から鳥海山を写し込む。右端画像は橋の袂にある「舟つなぎ石」である。
 汐越にある蕉風荘  道の駅象潟ねむの丘 西施像と文学碑
 県職員の保養所として建てられ、その後民間に売却されたホテル。立ち寄った当時も廃業状態、今日は閉館したようだ。芭蕉の象潟で詠んだ「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」という句がある。この句は蕉風荘辺りで詠んだという。道の駅象潟ねむの丘の海岸側に公園があり、西施の像と句「象潟や」を含む文学碑がある。
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