熊野神社 芭蕉供養碑 山形県鶴岡市
 案内板によると「元禄二年(1689)門人曽良を連れて奥の細道の旅に出た芭蕉は6月の半ば象潟から酒田を経て26日温海に一泊、翌日曽良と分かれて温海を発ち、弁天島を右手に鼠ヶ関を通過しました。芭蕉を偲んで建立されました。」(温海町企画観光商工課)とあります。芭蕉は温海温泉を訪れず直接馬で鼠ヶ関に向かい、曽良は単独で温海温泉を見学しています。この様に二人が別々の行動とるのは奥の細道では無かった事で謎の一つです。
 近世念珠関址(山形県鶴岡市)  古代鼠ヶ関址  弁天島(義経旧跡)
 越後路(おくのほそ道)
酒田の余波日をか重て、北陸道の雲に望。遥々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天河
 芭蕉は、北陸道を「此間九日」と筆していが、実際には16日かかって越後路を通過している。「曾良随行日記」要注視。
 曾良随行日記
・廿五日
 吉。酒田立。船橋迄被レ送。袖ノ浦 、向也。不玉父子・徳左・四良右・不白・近江や三郎兵・かゞや藤右・宮部弥三郎等也。未ノ尅、大山ニ着。状添而丸や義左衛門方ニ宿。夜雨降。
・廿六日
 晴。大山ヲ立。酒田より浜中へ五リ近し。浜中ヨリ大山へ三リ近し。大山 より三瀬へ三里十六丁、難所也。三瀬より温海へ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有。未ノ尅、温海ニ着。鈴木所左衛門宅ニ宿。弥三良添レ状有。少手前 より小雨ス。及レ暮、大雨。夜中、不レ止。
・廿七日
 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ関 被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿ス。
・廿八日
 朝晴。中村ヲ立、到蒲・(名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。
・廿九日
 天気吉。昼時(帯刀公ヨリ百疋給)喜兵・友兵来テ、光栄寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。帰、冷麦持賞。未ノ下尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。帰、喜兵御隠居より被レ下物、山野等より之奇物持参。又御隠居より重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内より干菓子等贈。
・七月朔日
 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。 喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺へ同道、帰 而つゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙宝寺参詣前大雨ス。即刻止。申ノ上尅、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。
・二日
 辰ノ刻、立。喜兵方より大庄や七良兵へ方ヘ之状は愚状に入、返ス。昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻、着。一宿ト云、追込宿之外ハ不レ借。大工源七母、有レ情、借。甚持賞ス。
・三日
 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニ 而歩行ス。申ノ下刻、弥彦ニ着ス。宿取テ、明神へ参詣。
・四日
 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。弘智法印像為レ拝。峠より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ 、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
- 60 - 
・五日
 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎一ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎。宿たわらや六郎兵衛。
・六日
 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。忌中ノ由ニテ強 而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不レ帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。
・七日
 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招 ニク(クニ)及暮。昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。
・八日
 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
・九日
 折々小雨ス。俳、歌仙終。
・十日
 折々小雨。中桐甚四良へ被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方より晴。
・十一日
 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。
・十二日
 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。
 関連句碑  さわらねは汲まれぬ月の清水かな
 「おくのほそ道」(越後路)、「北中に宿をとり、きれいな清水に感動し、本句を残し旅立っていった」ということで「奥の細道三百年記念事業」(平成元年)で建立。中村宿(北中宿)の秋田屋佐治右衛門宅に宿泊したとされ、そこで本句を残したと伝承されるも確たる証はない。
   *** さわらねは汲まれぬ月の清水かな   新潟県村上市 北中芭蕉公園
 関連句碑  小鯛さす柳涼しや海士かつま
 諸説あるが「曽良書留」によれば、「おくのほそ道」(越後路)元禄2712日、「越後西頸城郡の浜辺」辺りでの作になっている。
   543 小鯛さす柳涼しや海士かつま   新潟県糸魚川市 室川医院
 関連句碑  稲つまや顔のところか薄の穂
 「奥の細道」旅中「林徳寺」に立ち寄った際の作と伝承(句碑説明)。文学史的には元禄76月の作とされている。
   *** 稲つまや顔のところか薄の穂   新潟県新潟市 林徳寺
 関連句碑  文月や加羅さけ拝む乃寿三山
 「おくのほそ道」(越後路)元禄2年(1689)、「西生寺」の即身仏「弘智法印」(入廷1363と最古)を参詣した折りに詠んだと西生寺に伝承、後に「松尾芭蕉参詣の碑」として建立との説明を受けた。
   *** 文月や加羅さけ拝む乃寿三山 不詳 新潟県長岡市 西生寺
- 61 - 
 関連句碑  海に降る雨や悲しきうき身宿
 元禄年間北越路へ旅行せられ「新潟」(出雲崎)に於いて詠われし松尾芭蕉の「泊船集付録」に納められた名句(合祀船江神社の説明)。かつては存疑の部。
   *** 海に降る雨や悲しきうき身宿 存疑 新潟県新潟市 合祀船江神社
 句碑  文月や六日も常の夜には似す
 「おくのほそ道」(越後路)元禄276日、「直江津」での作。曽良は「朝霧に食焼烟立分て」を詠む。この時代、江戸から遠く離れた地、芭蕉はここでも「切れた」ようだ。
   545 文月や六日も常の夜には似す   新潟県上越市 琴平神社
 句碑  荒海や佐渡に横たふ天の川
 「おくのほそ道」(越後路)元禄2625日-712日、「越後路」での作。「俳諧伝灯塚」として「支考」(五月雨の夕日や見せて出雲崎)と「盧元坊」(雪に波の花やさそうて出雲崎)の句が並刻。
   546 荒海や佐渡によこたふ天河   新潟県出雲崎町 妙福寺
 関連句碑  薬欄にいつれの花を艸まくら
 「おくのほそ道」(越後路)元禄278日、「越後高田」の医師「細川春庵亭に一泊した折りに詠んだ句。裏庭の薬草を案内されての挨拶吟。曽良は「馬乗ぬけし高藪の下」を詠む。
   547 薬欄にいつれの花を艸まくら   新潟県上越市 金谷山対米館
 関連句碑  曙や霧にうつまくかねの聲
 「おくのほそ道」(越後路)元禄2711日、「能生」の「玉や五郎兵衛」(玉屋)に泊まった芭蕉は名鐘「汐路の鐘」のことを聞き詠んだ句といわれている。かつては存疑の部。
   *** 曙や霧にうつまく鐘の聲 存疑 新潟県糸魚川市 白山神社
 北中芭蕉公園 句碑「さわらねは」  北中宿(中村宿) 芭蕉の宿泊地標
 井筒屋(久佐衛門家)  村上城追手門跡  瀬波海岸  安善小路(黒塀通り)
- 62 - 
 安善寺  浄念寺(泰叟院)  割烹吉源(登録有形文化財)  石船神社 & 俳諧山 句碑
 石船神社(村上市)の句碑は「文月や六日も常の夜には似す」。俳諧山(胎内市)の句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」は、「金沢途中吟」とされているものの、後述にもあるが「赤塚宿」(佐潟公園)での発句説も捨てがたい。
 乙宝寺 面影ナシ 句碑「うらやまし」(760)、不玉句碑等 
 芭蕉・空良は、村上(井筒屋)に2泊し、翌71日に「乙宝寺」に立ち寄り、2日に築地村(胎内市)を出立して船にて新潟湊に到着。その日は新潟で宿泊。新潟湊は阿賀野川と信濃川舟運の拠点、北前船の寄港地として繁盛した。阿賀野川と信濃川を結ぶ「通船川」(8.5km)なる運河がある。
 林徳寺 新潟市 句碑「稲妻や」(新旧句碑)  佐潟公園 新潟市 句碑「あかあかと」
 「奥の細道」旅中、「林徳寺」に立ち寄った際の作と伝承、文学史的には元禄76月の作とされる。芭蕉が北国街道「赤塚宿」の旅籠を訪れ俳句を詠んだとの伝承。
 護国神社 新潟市 句碑「海に降る」  合祀船江神社 新潟市 句碑「海に降る」
 「海に降る」は、元禄2年、北越路旅中の作との伝承されるも「存疑の部」として扱われている。時期的には「奥の細道」旅中と合う。
 宝光院 弥彦村 句碑「荒海や」  弥彦山スカイライン
 新潟湊を出立、弥彦大明神に参拝、門前町で宿泊。弥彦神社は越後国一宮で国司や守護・大名から崇敬され門前町は繁盛。
 西生寺 句碑「文月や加羅さけおがむ乃寿三山」
 弥彦を出立して西生寺を参拝。野積を経由して出雲崎で宿泊。西生寺は奈良時代に行基菩薩により創建された古刹で、親鸞上人が修行、日本最古の即身仏「弘智法印即身仏」(約640年前)で知られる。現存する即身仏は17体、うち東北には9体ある。即身仏の聖地とされている「注連寺」(山形県鶴岡市)の「鉄門海上人」の拝顔、遠目での拝顔「本明海上人」(本明寺、山形県鶴岡市)、それ以外の真如海上人(大日坊)、忠海上人・円明海上人(海向寺)、光明海上人(蔵高院)、鉄竜海上人(南岳寺)、仏海上人(観音寺)は参拝に留めました。
- 63 - 
 出雲崎宿  出雲崎宿の妻入り開館
 出雲崎宿に見られる「妻入り木造家屋」が立ち並ぶ、情緒ある街並みを後世に伝える中心的役割を担う「妻入り会館」。出雲崎を出立、米山峠を経由して鉢崎に至り、鉢崎で宿泊しています。
 妙福寺 出雲崎 句碑「荒海や」/俳諧伝灯塚
 俳諧伝灯塚の中央に「荒海や佐渡によこたふ天河」(芭蕉)、右に「雪に波の花やさそうて出雲崎」(盧元坊)、左に「五月雨の夕日や見せて出雲崎」(東華坊/支考)。新・旧碑が並んで建てられています。新・旧碑では順番が異なっています。
 芭蕉園 出雲崎 文学碑「銀河の序」 句「荒海や」
 出雲崎で一泊した旅人宿「大崎屋」は、芭蕉園の真向かいにあり民家になっている。この夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた俳聖芭蕉は天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たと伝承。
 銀河の序
 ゑちごの驛 出雲崎といふ處より佐渡がしまは海上十八里とかや谷嶺のけんそくまなく東西三十余里によこをれふしてまだ初秋の薄霧立ちもあへす波の音さすかにたかゝらすたゝ手のとゝく計になむ見わたさるげにや此しまはこかねあまたわき出て世にめてたき嶋になむ侍るをむかし今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして物うきしまの名に立侍れはいと冷しき心地せらるゝに宵の月入かゝる比うみのおもてほのくらく山のかたち雲透にみへて波の音いとゝかなしく聞え侍るに
  荒海や佐渡によこたふ天の河 芭蕉
 たわら屋跡 柏崎市  鉢崎関所跡 柏崎市  柏崎で撮り鉄
 「たわら屋跡」は、元禄275日「奥の細道」(越後路)、「柏崎、米山峠を経て鉢崎着、泊」とある「芭蕉逗留の地」(たわらや六良兵衛すなわち代々庄屋の旧家)である。「たわら屋跡」が街中にある「鉢崎宿」と「鉢崎関所跡」。「たわら屋」は代々庄屋で、三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で宿屋を業としていました。大正のころまで、高浜町の椎谷(現柏崎市)に51日(旧暦)に馬市があり、その前夜はこの町も馬の往来が激しく、たわら屋は馬宿でもありました。
 名立浜SA 句碑「文月や」  五智国分寺 上越市 句碑「薬欄に」  居多神社 上越市
 直江津で二泊、高田で三泊した芭蕉・曾良は「五智如来」(五智国分寺)・「居多」に参拝して市振へと旅立っている。曽良は20代の頃、神官になるために国学を学び、また地理学も習得したと伝えられています。五智国分寺と居多神社を訪れたのは曽良の勧めによるものだと考えられます。
- 64 - 
 琴平神社 上越市 句碑「文月や」  安寿姫と厨子王丸の供養塔  聴信寺 上越市
 金谷山対米館 上越市 句碑「薬欄に」  北城明神宮 上越市 句碑「薬欄に」  旅館玉屋 糸魚川市
 白山神社 糸魚川市 句碑「曙や」   室川医院 糸魚川市 句碑「小鯛さす」
 市振(おくのほそ道)
今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返詩など云北国一の難所を超て、つかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計と聞ゆ。年老たるをのこの声も交て物語するを聞けば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までをのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白波のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛知らぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方おほし、只人の行に任せて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
  一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。
 句碑  一つ家に遊女もねたり萩と月
 「おくのほそ道」(市振)元禄2712日、「市振の宿」(桔梗屋)に泊まり妙趣に香る遊女の句を詠んだ。「文月や」「荒海や」「一家に」を連ねて読むと面白い。
   548 一家に遊女もねたり萩と月   新潟県糸魚川市 長円寺
 長円寺 糸魚川市 句碑「一つ家に」  越中境PA 下り&上り 富山県朝日町 句碑「一つ家に」
 海道の松  桔梗屋跡  弘法の井戸  市振関所跡
 昔の北陸道は、「海道の松」から海岸へ降りて西からの旅人は寄せ来る波に怯えながら「天下の剣・親不知子不知」を東へ越え、また西へ上る旅人は弐里半余の波間を命がけでかいくぐり「海道の松」に辿り着いてようやくホッとし市振の宿に入る。
- 65 - 
 おくのほそ道の風景地 No.20(親しらず)新潟県糸魚川市
 北陸道最大の難所として知られる「天下の剣」、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから「親不知」(親不知駅-市振駅)、「子不知」(親不知駅-青海駅)と呼ばれるようになった。芭蕉は、市振宿でのことを「一つ家に遊女もねたり萩と月」と詠んでいる。
 「親不知コミュニティーロード」(補遺)
 国道8号「天嶮トンネル」は、1966年に完成した「親不知天嶮区間のパイパス」(親不知コミュニティーロード)入口に親不知観光ホテルがあり、その前にある駐車場の糸魚川側から海岸まで降りられる「東側遊歩道」がある。その途中に「旧北陸本線」の「親不知レンガトンネル」を見学し、その後海岸まで降りてみた。海岸から振り返り「東側遊歩道」を見上げた画像の左側が「市振方向」の海岸線、右側が「親不知駅」方向の海岸線、芭蕉・曾良はこの海岸線(親不知子不知)を通過した。海岸線に降り立ち、どうして磯伝いに渡ることが出来るのだろうか・・・・?
 越後路における句会 ・七月七日 佐藤元仙宅(右雪)で「星今宵」俳諧
  星今宵師に駒ひいてとゞめたし  右雪
  色香バしき初苅の米       曾良
  瀑水躍に急ぐ布つぎて      翁
・七月八日 細川春庵亭で「薬欄に」
  藥欄にいづれの花をくさ枕    翁
  荻のすだれをあげかける月    棟雪
  爐けぶりの夕を秋のいぶせくて  鈴木與兵へ更也
  馬乘ぬけし高藪の下       曾良
・七月九日・十日 歌仙(記録なし)
・七月六日 古川屋市左衛門(直江津)「文月や」の句会
 石塚喜右衛門(左栗)・石塚善四郎(此竹)・石塚源助(布嚢)・眠鷗( 聴信寺 住職)等今町の俳人
  文月や六日も常の夜には似ず  ばせを
  露をのせたる桐の一葉     石塚喜衞門左栗
  朝霧に食燒烟立分て      曾良
  蜑の小舟をはせ上る磯     聽信寺眠鴎
  烏啼むかふに山を見ざりけり  石塚善四郎此竹
  松の木間より續く供やり    同源助布嚢
 越中路(おくのほそ道)
くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、磯伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かがの国に入。
  わせの香や分入右は有磯海
 曾良随行日記
・十三日
 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ 堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑 河ニ着。暑気甚シ。
・十四日
 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不快同然。
- 66 - 
 句碑  早稲の香や分け入る右は有磯海
「おくのほそ道」(越中路)元禄2713-14日、「那古の浦」での作。                     
   549 わせの香や分入る右は有磯海   富山県射水市 放生津八幡宮
 元屋敷 富山県朝日町 句碑「わせの香や」  くろべ四十八ヶ瀬 富山県入善市
 黒部川は国内屈指の急流河川であることから豪雨のたびに暴れ川と化し、平均勾配1/40の扇状地における川筋は幾筋にも分かれて流れ、その多さから「四十八ヶ瀬」または四十八文字にちなんで「いろは川」と呼ばれ、人々から恐れられていました。氾濫を繰り返し、人々を苦しめた黒部川は、治水工事が進み河道も安定した明治期に現在の形になりました。
 有磯海SA下り(魚津市) 句碑「早稲の香や」  有磯海SA上り(滑川市) 句碑「早稲の香や」
 徳城寺(滑川市) 「早稲の香や」(新旧句碑)  水橋神社(富山市) 句碑「あかあかと」
 放生津八幡宮(射水市) 句碑「早稲の香や」  放生津八幡宮裏手に「奈呉之浦碑」(越中満葉名勝地)
 荒屋神社(射水市) 句碑「早稲の香やわけ入類右はあ里磯海」
 都に遠き名所は世に忘らるるものそかし越の国奈呉は萬葉にも見えたる名所なり翁が書けるおくの細道にも此所にてよめる一句ありそを後のしるしにせむと南呉州が乞ふによりて筆をとる(呉洲南伊佐衛門建立)
 おくのほそ道の風景地 No.21(有磯海/女岩・義経岩)富山県高岡市
 女岩  浅瀬 氷見線の線路  義経岩  有磯海  「渋谿の崎」渋谿の磯廻
 「渋谿の崎」(当時の海岸線は現在より1-2km先)とも言われ、現在の雨晴海岸辺りになる。現在も奇岩の見られる景勝地であるが、その昔は「崎」と呼ばれた如き海に突き出た形状は失われている。芭蕉は「わせの香や分入右は有磯海」を詠んだ。
- 67 - 
 倶利伽羅峠 富山県小矢部市
 句碑「義仲の寝覚の山か月悲し」  句碑「あかあかと」
 句碑「あかあかと」の説明パネルに「この句は、越後路から越中金沢にいたる旅の途中で得た旅情を、金沢で一句に結晶させ七月十七日、北枝亭で発表されたものとの書き添えあり。
 小矢部川SA下り(小矢部市) 句碑「義仲の」   小矢部川SA上り(小矢部市) 句碑「あかあかと」
 金沢(おくのほそ道)
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有、それが旅宿を倶にす。一笑と云者は、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は秋の風
   ある草庵にいざなはれて
  秋凉し手毎にむけや瓜茄子
   途中吟
  あかあかと日は難面もあきの風
 曾良随行日記
・十五日
 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
・十六日
 快晴。巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方へ移ル。段々各来ル。謁ス。
・十七日
 快晴。翁、源意庵へ遊。予、病気故、不レ随。今夜、丑ノ比ヨリ雨強降テ、暁止。
・十八日
 快晴。
・十九日
 快晴。各来。
・廿日
 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。
・廿一日
 快晴。高徹ニ逢、薬ヲ乞。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。十徳二ツ。十六四。
・廿二日
 快晴。高徹見廻。亦、薬請。此日、一笑追善会、於寺興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達 而帰。亭主丿松。
・廿三日
 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、不レ行。江戸へノ状認。鯉市・田平・川源等へ也。徹ヨリ薬請。以上六貼也。今宵、牧童・紅爾等願滞留。
- 68 - 
 句碑  あかあかと日はつれなくも秋の風
 「おくのほそ道」(金沢)元禄2715-23日。旧北国街道沿いの「佐潟公園」(新潟市)に同句碑があり「赤塚宿で詠んだ」との異説あり。越後路での心境を詠んだとなれば赤塚は有力かと。
   550 あかゝゝと日は難面もあきの風   石川県金沢市 成学寺
 句碑なし  熊坂かゆかりやいつの玉まつり
 「おくのほそ道」(金沢)元禄2715日、「加賀の国」(越中から加賀の国境)で詠んだらしい。石川県国江沼郡三木村生まれの盗賊「熊坂長範」を思い出しての一句。(句碑なし)
   551 熊坂が其名やいつの玉祭り 
 「玉祭」、魂祭は盂蘭盆会(715日を中心に13日から16日の仏教行事)。人はみな死んでも盆にはゆかりの者達に迎えられて魂が慰められるというのに、大盗賊の汚名を恐れて誰も長範の魂を慰めてやるものとて無いことだろう。一体何時になったら長範ゆかりの人々に盆火で暖かく迎えられることだろう。
 
715日、高岡を出立。牧童(金沢で入門し同行した北枝の兄)らがやってきて初めて一笑の死を知る。
 
722日、一笑の兄俗称ノ松主催の一笑追善句会を願念寺で、相変わらず曽良は体調悪く句会には遅れて参加・早退する。
やはり芭蕉は、長旅の疲れ・一笑の死・曽良の体調不良等で気弱になり本句を詠んだのかと私は思う。そうでなければ、「熊坂長範」が出てくるのは唐突過ぎる。
 句碑  秋涼し手毎にむけや瓜茄子
 「おくのほそ道」(金沢)元禄2715-23日、「松玄庵」(斎藤一泉)に招かれて出された料理に感謝を込めて詠んだ即興の句。
   552 秋涼し手毎にむけや瓜茄子   石川県金沢市 長久寺
 関連句碑  ちる柳あるしも我も鐘をきく
 「おくのほそ道」(金沢)元禄2721日、「金沢」で加賀の蕉門「鶴屋句空」の草庵「柳陰軒」(宝泉寺境内)に一泊した際に詠んだ句。かつては存疑の部。
 *** ちる柳あるしも我も鐘をきく   石川県金沢市 宝泉寺
 鶴屋句空は俳人、加賀芭門の逸材。京都で仏門に入り、句空坊または句空法師と名乗る。宝泉寺境内に草庵をつくり柳陰軒と名付けた。元禄2年金沢へ来た芭蕉が立ち寄り、鶴屋句空の草庵「柳陰軒」をしのんで句を残したと伝承。
 関連句碑  心から雪うつくしや西の雲
 金沢の蕉門の一人「小杉一笑」の「辞世の句」。芭蕉は、金沢で会えると楽しみに旅を重ねて来たが・・・・。加賀金沢の人。小杉味頼、通称茶屋新七。貞門から貞亨4年ごろより蕉門に入門した。
   *** 心から雪うつくしや西の雲   石川県金沢市 念願寺
 加刕金沢の一笑は、ことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程、お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに、年有て重労の床にうち臥シければ、命のきはもおもひとりたるに、 父の十三回にあたりて、哥仙の俳諧を十三巻、孝養にとて思ひ立けるを、人々とゞめて、息もさだまらず、此願のみちぬべき程には、其身いかゞあらんなど気づかひけるに、死スとも悔なかるべしとて、五哥仙出来ぬれば、早筆とるもかなはず成にけるを、呼(かたいき)に成ても猶やまず、八巻ことなく満ン足して、これを我肌にかけてこそ、さらに思ひ残せることなしと、悦びの眉重くふさがりて、
  心から雪うつくしや西の雲  一笑
※レイアウト上、本句と次頁トップの「つかもうこけ」の順を入れ替えました。
- 69 - 
 句碑  つかもうこけ我泣聲は秋の風
 「おくのほそ道」(金沢)元禄2715-23日、高く評価しつつも会うことなく他界した「小杉一笑」への追善句。曽良は「玉よそふ墓のかざしや竹露」を詠む。
   553 塚も動け我泣聲は秋の風   石川県金沢市 願念寺
 関連句碑  小鯛さす柳すゝしや海士の軒
 元禄2723日、「奥の細道」旅中「金沢」で連句指導で「金石」に立ち寄った際に詠まれたとの説明あり。「曽良書留」によれば、「越後西頸城郡の浜辺」とあるが・・・・。
   543 小鯛さす柳涼しや海士が家   石川県金沢市 本龍寺
 不動寺PA上り(金沢市) 句碑「つかもうこけ」  宝泉寺・柳陰軒址(金沢市)句碑「ちる柳」
 兼六園(金沢市)
 兼六園 句碑「あかあかと」  花見橋と鶺鴒島  梅林  
 兼六園菊桜  七福神山  霞ヶ池と唐崎松  雁行橋
 長久寺(金沢市) 句碑「秋涼し」  犀川大橋南詰(金沢市) 句碑「あかあかと」
 成学寺(金沢市) 蕉翁墳と句碑「あかあかと」  願念寺(金沢市) 句碑「塚もうこけ」と一笑「辞世の句」
 「願念寺」は、元禄期の加賀藩を代表する俳人「小杉一笑」の菩提寺、境内には一笑辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」がある。芭蕉は、一笑の才能に高く評価しつつも会うこともなく他界(36歳)され、さぞかし空しい思いであったろう。
 
- 70 - 
 本龍寺(金沢市) 句碑「小鯛さす」
 芭蕉が「奥の細道」の途中、元禄二年旧七月二十三日連句指導のために、金石に立ち寄った際の連句の発句である。
 以下に興味深いネット資料を参考掲載
 元禄二年 「小鯛さす」表六句(芭蕉・小春・雲江・北枝・牧童)
 「奥細道菅菰抄附録」に載るもので他に初見がない。「西濱にて」と前書する「小鯛さす柳すゞしや海士が妻」の芭蕉発句は、「曾良俳諧書留」には「荒海や」の句と、「早稲の香や」の句の間に記録されている。「西濱」については、底本では金沢の西海辺、宮の腰附近をさすものかと言い、さすれば「随行日記」の七月二十三日の条にあたる。しかしこれには別に、直江津以西の越後の海岸と見る説もある。なお、底本には「按ずるに翁の北国行脚、加州より末は皆秋なり。さるを此発句脇は夏季なり。是は連衆の望などにて此季を用申されしにや。」と注記しているので、或は前に出来た作を金沢付近で披露して、第三以下を試みたとも考えられる。他の俳書に初見なく、いま暫くここに入れて置く。更に底本には附設として次ぎのごとくある。此発句は北国の海辺にていさりの魚を葉付の木の枝竹などの枝をもて鰓よりさし入れ口へ出して其枝を持ありく事也加州金澤の西海邊に宮の腰といふ所有そこを西浜と云此六句翁の真蹟今加州にあるよし一説に翁真蹟の短冊を伝然ども此巻に載る小春・北枝・牧童など皆加州金沢の俳士共なれば宮の腰とするものをは是なる歟云々。
 「小鯛さす」表六句 西濱にて
 一 小鯛さす柳すゞしや海士が妻  翁     四 いそげと菊の下葉摘ぬる    雲江
 二 北にかたよる沖の夕立     名なし   五 ぬぎ置し羽織にのぼる草の露  北枝
 三 三日月のまだ落つかぬ秋の来て 小春    六 柱の四方をめぐる遠山     牧童
 白山は古くから霊山信仰の聖地として仰がれ、麓に暮らす人々や遥かに秀麗な山容を望む平野部の人々にとって白山は聖域であり、生活に不可欠な“命の水”を供給してくれる神々の座でした。やがて山への信仰は、登拝という形に変化し、山頂に至る登山道が開かれました。加賀の登拝の拠点として御鎮座二千百年を越える当社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮です。
 関連句碑  風かをる越しの白嶺を国の華
 元禄27月、「奥の細道」旅中「北陸の中天」に麗しく聳える白山の姿を讃えて詠んだ句。元禄5年の中秋翁生存中に出版された「柞原集」(白山比咩神社奉納句集)の巻頭に記載。
 底本巻頭に「春なれやこしの白根を國の花、此句芭蕉翁一とせの夏、越路行脚の時、五文字風かほると置いてひそかに聞え侍るをおもひ出て、卒尓に五もじをあらたむ」と編者付記。蕉句後拾遺には「加賀へ文通に」と前書。
   544 風かをるこしの白根を國の華 白山市 白山比咩神社
 多太神社(おくのほそ道)
   小松と云所にて
  しほらしき名や小松吹萩すゝき
此所、太田の神社に詣。実盛が甲、錦の切あり。住昔、源氏に属せしとき、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁紀にみえたり。
  むざんやな甲の下のきりぎりす
 曾良随行日記
・廿四日
 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上尅、小松ニ着。竹意同道故、近江やト云ニ宿ス。北枝随レ之。夜中、雨降ル。
・廿五日
 快晴。欲ニ小松立一、所衆聞而以ニ北枝一留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デヽ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有レ会。終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。
・廿六日
 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生 へ方へ被レ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終 而帰ル。庚申也。
- 71 - 
 関連句碑  しほらしき名や小松吹萩すゝき
 「おくのほそ道」(小松)元禄2724-26日、「小松」の「鼓蠣の館」で催された「山王句会」(芭蕉・曽良・北枝・鼓蠣等10人)で詠まれた発句。変則「七・五・五」。以下初表
 しほらしき名や小松ふく萩芒  芭蕉  露を見しりて影うつす月   皷蟾
 躍のおとさびしき秋の数ならん 北枝  葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ 斧卜
 しら雪やあしだながらもまだ深 塵生  あらしに乗し烏一むれ    志格
 浪あらき磯にあげたる矢を拾  夕市  雨に洲崎の嵒をうしなふ   致益
曾良は初裏より「乞食おこして物くはせける」
     554 しほらしき名や小松吹萩すゝき   石川県小松市 建聖寺
 関連句碑  露を見しりて影うつす月
 「おくのほそ道」(小松)元禄2724-26日、「小松」の「鼓蠣の館」で催された「山王句会」(芭蕉・曽良・北枝・鼓蠣等10人)での「鼓蠣」の句。
   *** 露を見しのて影うつす月 鼓蠣  石川県小松市 本折日吉神社
 関連句碑  濡れて行くや人もをかしき雨の萩
 「おくのほそ道」(小松)元禄2726日、「小松」の「歓生亭」での五十韻発句での挨拶吟。曽良は「心せよ下駄のひゞきも萩露」を詠む。
   555 ぬれて行や人もをかしき雨の萩   石川県白山市 小舞子児童公園
 関連句碑  あなむさん甲の下のきりきりす
 「おくのほそ道」(小松)元禄2724-26日 
此所、太田の神社に詣。実盛が甲、錦の切あり。住昔、源氏に属せしとき、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁紀にみえたり。  あなむさん甲の下のきりきりす
   556 あなむさん甲の下のきりきりす   石川県小松市 多太神社
 句碑  むさんやな甲の下のきりきりす
 芭蕉秀句中の一句。斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。なお、この句も言わば決定稿で、これよりさき初案は次のようであった。おなじところ、多田の神社に実盛の甲がありけるを
  あなむざんや甲の下のきりぎりす(真蹟懐紙)
 「猿蓑巻の三」では、前詞は、「加賀の小松と云處、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」となっている。
   *** むさんやな甲の下のきりきりす   石川県小松市 多太神社
 関連句碑  幾秋か甲にきえぬ鬢の霜
 元禄2725日に参拝し、斎藤実盛の兜を拝観。さらに727日に山中温泉に向かう際に再び多太神社に詣で、芭蕉・曾良・北枝は次の句を奉納している。
 むざんやな甲の下のきりぎりす 芭蕉
 幾秋か甲にきえぬ鬢の霜    曽良
 くさずりのうら珍しや秋の風  北枝
   *** 幾秋か甲にきえぬきりきりす 曾良  石川県白山市 小舞子児童公園
- 72 - 
 小舞子海岸(白山市) 句碑「ぬれて行や」  芭蕉の渡し(川北町) 句碑「あかあかと」
 多太神社(小松市) 句碑「あなむざんや」「むざんやな」(芭蕉)、「幾秋か」(曾良)、「くさずりの」(北枝)
 本折日吉神社(小松市)   菟橋神社(小松市)
 句碑は、本折日吉神社は「しほらしき名や」と「露を見しりて」(鼓蠣)、菟橋神社は「志をらしき名や」。
 建聖寺(小松市) 句碑「しほらしき名や」
 「建聖寺」は、芭蕉が訪れた頃は「立松寺」といっていた。芭蕉十哲の一人「立花北枝作」といわれる「芭蕉木像」と「芭蕉が背負ったつづら」を拝見することが出来た。
 北枝と芭蕉 逸話と北枝の辞世の句
①金沢で「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句を、芭蕉が「秋の風」を「秋の山」として北枝に示したところ、「山といふ字すはり過て、けしきの広からねば」とり評に、「さればこそ金城に北枝ありと名たゝるもうべなれ」と称賛したという。
②元禄
33月の金沢大火で類焼した北枝は、「焼けにけりされども花は散りすまし」の句を詠むと、「焼けにけりの御秀作、かゝる時にのぞみ、大丈夫感心。去来、丈草も御作驚申計に御座候。」と芭蕉らの称賛を得たという。
 中央緑地(小松市)
 「小松市役所」の並びにある「中央緑地」(工場跡地)に、「奥の細道三百年記念」(市制50周年)で、「奥の細道」途次、「小松」で詠まれた「芭蕉4句」が建てられていた。  しをらしき名や小松吹く萩すゝき
 ぬれてゆく人もをかしや雨の萩
 むざんやな甲の下のきりぎれす
 石山の石より白し秋の風
※小松市にある句碑、何かの折に訪ねたく追記 ①建聖寺「あなむさん」撮り落とし ②小松天満宮「あかあかと」 ③諏訪神社「しほらしき名や」 ④大川大橋南詰「濡れて行くや」
- 73 - 
 R8小松BP東山PA(小松市) 句碑「しおらしき名や」  尼御前SA下り(加賀市)  尼御前SA上り(加賀市)
 句碑は、東山PA「しほらしき名や」、尼御前SA下り「むざんやな」、上り「庭掃いて」。
 篠原古戦場跡(柴山町) 句碑「むざんやな」
 寿永2年(1183)倶利伽羅の戦で、木曽義仲に大敗した平家の軍勢は加賀平野を南下し、篠原の地で陣を立て直し義仲との決戦を計りました。このとき敗走する平家軍でただ一騎踏み留まって戦ったのが斎藤別当実盛でした。実盛は老武者とあなどられることを恥じとし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、源家の手塚太郎光盛の手に討たれて散りました。樋口次郎兼光が打ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。それはまちがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。
 実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝承されており、元禄二年芭蕉が「奥の細道」の行脚の途中に立ち寄り、この甲によせて「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んでいます。
 ※伝説の盗賊「熊坂長範」について
 「碑撮り旅」は、この後「山中温泉」に向かい宿している。途次2015年)「加賀IC」辺りを通過した際に「熊坂長範」の名を横眼にしている。編集中(2022年)、ふと記憶が鮮明に蘇り「Google Map」で確認、確か現在の「リサイクルセンター」辺り(熊坂長範屋敷)だったと思う。
 熊坂かゆかりやいつの玉まつり
 伝説によれば、熊坂長範は熊坂町字石坂に生まれ、最初は北陸通を往来する旅人を襲っていました。地元熊坂町では、熊坂長範は晩年ふるさとに戻り、宿駅のあった橘の里の山の上に住み心を改めて仏の道に入り、徳の厚いお坊さんになったと言い伝えられています。
 その後、「熊坂長範」とは分野が異なるが、「旅の発展」には起爆剤として大きなキッカケを与えることになったことがある。テレビ朝日「ドラマスペシャル陰陽師」を観て、「陰陽師;安倍清明伝説を訪ね」、犬吠埼(経由)で「平将門」のおまけ付での仙台出張(2022.9.18)、往路783km+帰路425km(総走行距離1,208km)で「23日の市振-長島-大垣の1,280km」と「鹿嶋紀行」(1,128km)に割り込む第2位の長旅をしたこともあった。
 事前の番組宣伝では「シリーズ最強の敵・平将門」(坤)が登場する長編作品「瀧夜叉姫」を初の映像化、佐々木蔵之介が陰陽師・安倍晴明、市原隼人が晴明の相棒・源博雅を熱演」というもの。「陰陽師」は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人・技官)として配置された者を指す。 中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。「安倍晴明」(921-1005)は、平安時代の高名な天文博士・陰陽師である。記録上には天徳4年(960)天文得業生として現れ、寛弘元年(1004)左京権太夫として名を連ねる。多くの事柄を予言するなど、その伝承は「今昔物語」「大鏡」などで流布され、「狐と人間の婚姻説話」で知られる。
 陰陽師は明治維新後に撤廃されてしまいますが、律令制の下で出来た、中務省陰陽寮陰陽師は、江戸時代まで健在でした。むしろ江戸時代には陰陽道信仰が盛り上がり、かなり多くの陰陽師が活躍したんですよ。
 最強の陰陽師として名高い安倍晴明の子孫・土御門家は、江戸幕府より陰陽道宗家として認められ隆盛を迎えました。また後に全国の陰陽師を統括する特権すら認められるようになり、各地の陰陽師に対する免状の独占発行権を得たのです。当時の陰陽師は、知識人を代表するような存在だっただろう。
  秋立つや何におどろく陰陽師  蕪村
藤原敏行「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を念頭にしての吟である。
- 74 -