塩田福沢氏 室町・戦国時代 上田市誌歴史編
 Ⅰ、歴史の振り返り
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1073 延久05 白河天皇即位、この頃から武士たちは自分の支配する土地の地名を名字として名乗りはじめた
1174 承安04 国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され最勝光院領塩田荘が成立
1094 嘉保01 惟清;白河上皇を呪咀するに依り参河守源朝臣惟清及び父子兄弟を配流に処す
盛清;惟清の弟盛清信濃に流さる
1186 文治01 源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す
1203 建仁03 比企能員の変
1217 建保05 小泉庄関連、泉親衡の乱
1221 承久03 幕府、島津忠久を水内郡太田庄地頭に補す
1226 嘉禄02 最勝光院が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
1227 嘉禄03 北条重時(2代執権義時の子)、信濃守護を施行す →福澤家が代官になったと推察可能
1247 建長01 福澤家の源は「建長年間」(1249-1256)辺りと推察(北条義政、塩田荘に遁世する前)
→史学者の中では、塩田福沢氏は南北朝(1337-1392)末期以前(北条氏の代官)には塩田に入っていたとしている
1273 文永10 義政;叔父政村の死去を受け連署に就任
1277 建治03 義政;連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
1281 弘安04 義政;塩田荘にて死去
1325 正中02 幕府;山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す 小県郡塩田庄東寺被物月宛を課せらる
1328 嘉暦03 小泉庄関連、小泉庄(泉親衡の乱後)の分断知行
1329 元徳01 国時;諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す
1330 元徳02 国時;諏訪社上社七月頭役勤仕のため所領小県郡塩田庄に赴くにあたり金沢貞顕を訪ふ
1331 元弘01 義光;元弘の乱・討幕運動で村上義光(義日)等之に供奉す
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞軍に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
1335 建武02 北条氏残党狩り
信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1387 嘉慶01 頼国;小笠原長基・高梨朝高等 信濃守護斯波義種に叛し兵を善光寺に挙ぐ
1400 応永07 満信;大塔合戦(大文字一揆)
1433 永享05 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1439 永享09 村上安芸守某(満信)、幕府に「降参」、これをもって信濃の国人すべて小笠原氏に服従
1441 嘉吉01 嘉吉の徳政一揆、農民にも名字を与える武士がでてくる
1448
1454
1459
1465
文安05
享徳03
長禄03
寛正06
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
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西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1469
1474
応仁03
文明06
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479
1484
文明11
文明16
五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭
1485 文明14 福沢殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(この年を最後に記録途切れる)
1493 明応02 龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501
1520
文亀01
永世17
義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
小泉庄関連、小泉氏に所領安堵
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
1561 永禄04 川中島の戦い(第四次合戦/大激戦)
1578-1603 舞田村は小泉庄から塩田庄に移っている
1583 天正11 上田城完成に伴い塩田城廃城(真田昌幸)
天正年間;福沢薩摩守政隆 福泉寺(坂城町)塩田福沢氏菩提寺として建立(福澤家先祖五・六・七世の世代
1588 天正16 豊臣秀吉の「兵農分離」 庶民は次第に苗字を公称することを自粛するようになった
1627
1654
1686
寛永04
承応03
貞享03
成圓院願誉宗本居士(福澤家七世)
福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士(福澤家八世)
福澤福松(廣時の妻)/自性院空誉理貞大姉
 
 
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 Ⅱ、京と鎌倉のはざまで 室町・戦国時代の争乱 (上田市誌⑧)
 上田市誌第8巻「室町・戦国時代の争乱」(室町時代から戦国時代まで)と、第7巻「上田の荘園と武士」を購入した。これらを参考に研究・考察としてまとめた。
 大塔合戦(大文字一揆)
 応永7年(1400)、信濃國の守護(幕府から任命される武士を取締る最高責任者)となった小笠原長秀の軍勢と反守護陣営(村上満信・海野幸義・高梨朝高・大文字一揆等、東北信の国人層の連合軍)との間で、篠ノ井の大当(大塔)を中心に激しい合戦が起きた。この合戦を「大塔合戦」という。
 小笠原長秀の信濃国入り
 長秀は室町幕府から応永6年(1399)に信濃國の守護に任じられた。ところが、北信濃の島津国忠・高梨朝高ら国人が新守護長秀に反対する動きをみせたり、また長秀が大内義弘征伐(応永の乱)のため和泉の堺(大阪府堺市)に出陣したりで、信濃へ正式に入ったのは翌応永7年(1400)になった。
 関係者のプロフィール
●小笠原長秀
 信濃小笠原氏・小笠原貞宗(曾祖父)-政長(祖父)-長基(父)-次男長秀、鎌倉時代後期より代々信濃守護を務めてきた一族である。曽祖父貞宗は弓矢の名手であり小笠原流弓術の中興の祖であった。
●村上満信

 信濃村上氏の系譜は不明確な点が多い。村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながる。師国-満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず。守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになった。応永23年(1416)「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康(長基の長男)が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康(長秀の兄)は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。
●海野幸義
 海野氏は滋野氏の後裔で根津氏・望月氏と共に「滋野三家」と呼ばれた氏族。幸義は海野棟綱の嫡男として誕生。天文
10年(1541)、甲斐国の武田信虎・信濃小県郡の村上義清・信濃諏訪郡の諏訪頼重連合軍が滋野領に侵攻(海野平の戦い)において海野方は敗退、幸義は村上方との神川の戦いで戦死し、棟綱は上野国に敗退し関東管領の上杉憲政を頼った。
●高梨朝高
 高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、井上家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。明徳
3年(1392)、当時の惣領である高梨朝高が室町幕府に対して10名の一族や被官の所領の安堵を求めて言上状を出しているが、その中には東条荘をはじめ、高井郡北部から水内郡にかけての惣領の所領9ヶ所を含む30ヶ所の所領を書き上げられている。なお、既に高梨氏の本領として安堵されている土地は記載されていないと考えられるため、実際にはより広い所領を有していたと考えられる。また、所領の中には須田氏・井上氏・村上氏の勢力圏と近接する地域もあった。それだけに惣領の権力や求心力の維持や他の国人との関係が課題としてあったことが知られる。さらに応永7年(1400)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。この戦いで高梨朝高の名が見える。
福沢入道像阿(1448-1400=48)誕生直前、像阿の父世代(村上満信の子と像阿は同世代)と推察する
村上信貞の頃から代官を務めていたなら、村上初代代官は像阿の高祖父(5代前)になる
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 故敵当敵(古くからの敵)
 小笠原氏と関係のある国人(香坂・窪寺・仁科・西牧・春日・祢津・小田切・落合・宮高など)たちは、長秀が将軍の御教書(三位以上の貴人の意向を伝える奉書)を奉じているから協力もしかたないとするも、大文字一揆と呼ばれる「大」の旗印が意味する「相互に助け合う契約」を交わしていたので評議した結果、「故敵当敵」であるから絶対承服しないとして「別の守護」を幕府に申請することにした。
 「ばさら大名」(善光寺入りする長秀の呼称)
 善光寺は、三国一の霊場であるうえ、ひざ元は後庁が置かれた場所、さらに北信地方の土地所有は国人にとって父祖伝来の領地であると受け止めている神聖な場所。それを幕府方が公領を押領し守護の支配下であると権力をかざして善光寺に乗り込んできた守護長秀の方針であるとして受け止め反発したのである。
 まして、長秀一行の行列は、花を折って身を飾った者、紅葉の枝を挟む者、童子や諸芸にたくみな連歌師などまで引き連れ、長秀は力者の担ぐ塵取に乗るなど、華やかで奇抜で、見物した人々の目には、ただただ異様なものとして映ったのであろう。これをして、長秀は「ばさら大名」であると称されたのである。「ばさら」は「跋折羅・婆娑羅」などと書き室町時代の流行語で「遠慮なく勝手に振る舞ったり、派手に見栄を張ったりする」ことを意味する。長秀一行の行列は、まさに「ばさら」であり国人たちにとって反発はさけれないものであった。
 「傍若無人」な振る舞い
 善光寺入りした長秀は、まず奉行人を定め禁令事項を書いた制札(立札)を立てて政務を執り始めた。長秀は、願い事や訴え事のためにやって来る国人と対面するとき、扇も持たず紐も結ばず、まして一献の用意をすることもなく、非礼不遜な振る舞いで国人たちの不興をますます高めてしまった。その上、時期は収穫期を迎えていた。事もろうに国人たちの知行地に守護使を入れ、これは不法の押領地であるとか、守護の課役であるとか言って強引な年貢・課役の徴収を始めた。特に、村上満信の知行地に対しては、押領地であると言いがかりをつけ返還を求めるだけでなく、使者を遣わして収穫物(稲)を取り上げたりした。
 立ち上がる国人
 長秀の行いに対し、「信濃武士の雄」である村上満信や大文字一揆をはじめ東北信濃の国人たちの不信と敵対心は一気に爆発し、諸所で守護使を追い立てたり打ち殺したりし、ついに守護小笠原長秀と信濃の国人の間に一大決戦を迎えることになった。
 戦況(省略)・・・・参戦者に塩田福沢氏の名はなし(像阿の高祖父の頃)
 幕府による国人の制圧
 室町幕府は、信濃の国人の統制に失敗した信濃守護小笠原長秀にかえて、長年にわたり義詮(2代)・義満(3代)・義持(4代)と三代(1359-1423)の足利将軍に仕え、管領(将軍を補佐し幕府の政務をまとめる役職)として幕府内では最重要人物と言われた斯波義将を再び信濃守護に任命したことは、信濃の国人層の守護への強硬な反抗をどうしても黙視することができなかったからにほかなりません。義将は早速島田常栄を守護代として、応永8年(1401)に信濃へ下向させ合戦跡の混乱した信濃の荘園や公領の支配と治安の回復に当らせました。
 しかし、代官による信濃統治についても国人層による反発が根強く守護の思い通りに運ばなかったため、幕府は合戦から2年後の応永9年(1402)に信濃国を幕府直轄の料国にした。先ず支配を任されたのは、飯尾氏・依田氏そして細川慈忠であった。ところが、幕府直轄の料国になっても、信濃の国人層は従わず、翌応永10年(1403)、村上満信・大井光矩・伴野・井上・須田らは檀原・生仁城・塩崎新城等で細川方と戦いました。この辺り一帯は村上氏の勢力範囲だったので、佐久・高井まで広範囲に反乱は広がるも中心になったのは村上氏であった。応永11年(1404)、将軍の命令を受けた細川慈忠は、幕府の方針に従わぬ国人層の制圧に乗り出したことで、国人の反抗ももようやく終息に向かった。
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 鎌倉公方(別途まとめておいたものを転記)
 室町幕府は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府ともいう。義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。
 関東で鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発し享徳の乱(1455-1483;関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている)が勃発すると、義政は成氏への対抗策として前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。しかし政知は鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に留まりそこに堀越御所を築いた。一方で成氏の方は今川範忠に鎌倉を占拠されたため、下総の古河を新たな本拠とした。これにより、「堀越公方」と「古河公方」という「二つの鎌倉公方」が並立することになった。
 「鎌倉公方」は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は鎌倉御所ないし鎌倉殿と呼ばれていた。(茨城県古河市;古河公方公園/鎌倉殿館跡/古河総合公園)
 「堀越公方」は、室町幕府の出先機関で関東と周辺国の12か国を統治する鎌倉府の長官鎌倉公方の後身のひとつ。享徳の乱で鎌倉公方と室町幕府が支持する関東管領が対立すると、鎌倉公方足利成氏は利根川・渡良瀬川沿いで当時北関東の交通の要衝として栄えていた下総国古河へ逃走し古河公方として関東を統治する意思を見せた。幕府はそれを認めず、新たな鎌倉公方として足利政知を関東に送り込んだが政知は幕府から実権を与えられておらず、関東の諸侯に命令を出せない状態で安全に鎌倉に入ることが出来なく、その勢力はほぼ伊豆国のみに限定され伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市;伝堀越御所跡)を本拠地としたことで堀越公方と呼ばれる。
 「古河公方」は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市;古河公方公園/古河総合公園)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった(享徳の乱1455-1483)。その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。
 義政は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者に指名したが、正室の日野富子に息子・義尚が生まれると、将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。文正元年(1466)、貞親は斯波氏の家督争い(武衛騒動1465)に介入し斯波義敏に家督を与えるよう義政に求め、義政もこれに応じた。しかし有力大名の山名宗全は斯波義廉を支持し、これに反発した。貞親は義敏に加え、日明貿易の利権をめぐって細川勝元と対立していた大内政弘も抱き込み一大派閥を結成した上で、義視に謀反の疑いありと義政に讒言し義視の排除を図った。しかし義視が勝元邸に駆け込み救援を求めると、勝元と宗全は結託して義政に抗議し、これにより貞親は失脚し京を去った(文正の政変1466)。側近である貞親の失脚により義政は将軍親政を行うことが不可能となり、義政の権威は失墜した。
 結城合戦(結城合戦は永享の乱の第2ラウンド的な位置付け)
 1438年に起こった永享の乱(室町幕府vs鎌倉公方)で鎌倉公方の足利持氏が敗死すると、勝者の足利義教は次の鎌倉公方に自らの息子を送り込むことにします。永享の乱は、見方を変えると足利一族内における宗家(将軍家)vs分家の争いとも見ることができます。
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 従って、自分の息子を送り込んでおけば、とりあえず争いは治まるだろうと考えたのです。しかし、永享の乱の際に足利持氏に味方していた人々の中には、室町幕府が関東統治に介入してくることに強い拒否反応を示す者もいました。その一人が、結城氏朝という人物でした。持氏が亡くなった一年後の14403月、結城氏朝は、生き残っていた足利持氏の遺児春王丸・安王丸を次期鎌倉公方に擁立して幕府に対して挙兵することになります。これが「結城合戦」の名前の由来です。
 結城氏朝の本拠地は結城城。今でいう茨城県結城市にありました。ここを攻め落とせば幕府側の勝利ですが、一族のお家争いと結びついてしまったことで戦火が広範囲に渡り、幕府軍は戦力を分散しなければならず、苦戦を強いられます。そのため、幕府側の兵力が多かったにも関わらず、結城城を攻め落とすのに一年もの月日を要し、14414月、ようやく乱を鎮圧することができました。
 結城氏朝は敗死し、持氏の遺児である春王丸と安王丸も命を奪われます。しかし、もう一人の遺児だった永寿王丸は奇跡的に一命を取り留め、後に足利成氏として関東の戦乱において主人公の一人となります。城合戦の平定によって、ようやく関東地方の情勢が落ち着くかと思った矢先、衝撃的な事件が起こります。将軍の足利義教が闇討ちされてしまいました。時は1441624日、赤松満祐の家で開かれた酒宴の場で足利義教は斬られます。首謀者は家の主人である赤松満祐です。
 参考に室町時代中期に起こっていた関東の戦乱を時系列で整理すると・・・・
 
1416年:上杉禅秀の乱 関東管領の上杉禅秀と鎌倉公方の足利持氏が争い。上杉禅秀の敗死。
 
1438年:永享の乱 上杉禅秀の乱に勝った足利持氏が室町幕府と戦争。持氏敗死する。
 
1440年:結城合戦 持氏の残党が室町幕府に反発する。室町幕府の勝利。一応、関東が平定される。
 
1441年:嘉吉の変 将軍が暗殺される。結城合戦がパーに。再び関東は戦乱の世へ。
 
1455年:享徳の乱 関東版・応仁の乱。28年続く乱が終わると戦国時代。関東地方は北条早雲が支配する。
 結城陣番帳(本題にもどりましょう)
 永享11年(1439)には関東公方足利持氏(第4代鎌倉公方;1409-1439)は捕えられ翌年自刃させられ鎌倉公方は一時断絶する。第5代足利成氏(1449-1455)は下総国古河へ移り古河公方となる。
 持氏の死後、その遺児の春王丸・安王丸は日光山中に逃げ込み隠れるも、幕府の追求が厳しく、永享12年に下総の結城氏朝を頼って救いを求めた。氏朝は両人を結城城に迎え入れ鎌倉府の再建を目指し挙兵する。この時の氏朝方には宇都宮・小山・那須・岩松・佐久の大井氏等が加担した。幕府は関東管領執事の上杉清方に、諸軍勢を引き連れ追討するよう命じた。この時、信濃守護小笠原政康は陣中奉公を命じられ「信濃の軍勢を30組に分け」、一日一夜の分担で陣中の警護や結城城内の様子を伺うため高井櫓を汲みました。この陣番を定めたものを「結城陣番帳」と呼んでいる。
 結城陣番帳(抜粋)
  壱番 小笠原五郎殿
  二番 高梨殿
  三番 須田殿
  (中略)
  八番 村上殿代屋代殿
  九番 栗田殿代井上孫四郎殿
  十番 海野殿
  (中略)
 十七番 赤沢殿・和田殿・同名但馬守殿・山家殿・武石殿
 十八番 永山殿・二木殿・竹田殿・熊蔵殿・西牧殿
  (中略)
 廿七番 大井三河守殿・同名河内守殿・同名対馬守殿
     祢津遠江守殿・生田殿・関屋殿
 廿八番 保科殿・寺尾殿・西条殿・同名越前守殿
 廿九番 小田切越後守殿・同名遠江守殿・仙仁殿・今井殿
     屋代大蔵丞殿・多久間殿・立屋殿
 三十番 桐原殿・市村殿・同名阿波守殿・同名小次郎殿
     雁箱殿・長嶋殿
 右一日一夜当番被勤候者也
 
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 前記のように信濃の国人層の名が109名記入されています。この合戦(結城合戦)に参加した信濃勢は三千余騎と言われていますで一番あたり百騎前後となります。
 また、小笠原・高梨・須田氏のような大きな武士団は単独で、小さな武士団は数氏で編成されていることが分ります。ところが、陣番帳に記載された名を見ると、小県関係と思われる武士のうち確実なのは、十番海野氏・廿七番祢津遠江守・十七番武石などです。そのほか廿七番生田氏・廿九番立屋氏なども小県の武士と推定されますが明らかではありません。
 なお大塔合戦(1400)の時、祢津氏や海野氏に従った武士についてふれたとき、千曲川左岸の小牧・諏訪形から室賀・小泉・塩田平・依田窪などの地域の武士の参加が見えなかったことについて記しましたが、陣番帳を見ると、依田窪地区の武士と思われる武石氏・立屋氏・生田氏などを除くと、現在上田市域となっている地域の武士の名が、大塔合戦のときと同様見えていません。このことは塩田平など、村上氏の代官福沢氏の配下にあったため、八番村上殿代屋代殿などの中に含められているものか、あるいはほかに何か訳があって参加しなかったものか、その理由は明らかではありません。
 大塔合戦(小県関係の参加者)追記
 国人勢の布陣;応永793日(1400)村上満信は、千田・雨宮・麻績・浦野氏など五百余騎を従え、屋代城を打ち立ち篠ノ井の岡に陣をとった。これに続いて伴野・平賀・望月・桜井氏など佐久勢七百余騎は、上島に陣を張った。さらに、海野幸義の率いる小県勢三百余騎は山王堂に、高梨朝高以下高梨勢五百余騎は二ツ柳に、井上・須田・島津勢五百余騎は千曲川の川端に、香坂・窪寺・仁科・祢津など大文字一揆の人々八百余騎は芳田崎の石川に陣をとった。このような布陣のうち「大塔物語」によって、小県に関係のある祢津氏と海野氏に従った人々を挙げてみると以下のようになる。
 祢津氏
  祢津越後守遠光   桜井
  同淡路守貞幸    別府
  同右京亮宗直    小田中
  同上総守貞信    実田(真田)
  三村孫三郎種貞   横尾
            曲尾の人々
 海野氏
  海野宮内少輔幸義  田沢
  舎弟中村弥平四郎  塔原
  会田岩下      深井
  大葦        土肥
  飛賀留       矢島 以下三百騎
 
 このうち田沢・塔原・飛賀留の三氏は筑摩郡、大葦氏の本拠は不明です。
 このように参加武士の地域を見ると、東部町や真田町等いずれも千曲川東岸です。千曲川西岸の小牧・諏訪形から室賀・小泉・塩田平・依田窪など広範囲にわたる地域の武士の参加が見えません。これは、「大塔物語」の筆者が書き落としてしまったものか、あるいは塩田平などは、村上氏の代官福沢氏の配下にあったため、村上満信五百余騎の中に含められてしまったのか、あるいはほかに何か理由があって参加しなかったものか明らかではありませんが、、問題として残ります。なお佐久岩村田の大井光矩の率いる五百余騎は、どうしたことか途中の丸子まで出向くも、丸子で控えたまま動きませんでした。
 塩田流福沢氏について(筆者の独り言)
 「大塔合戦」(1400)、「結城合戦」(1440)、これらの時代を振り返ってみましょう。「塩田流福沢氏」は、「御苻礼之古書」、「諏訪社上社御射山祭」における頭役として名が現れた「塩田流福沢氏」(前期)、「福澤家初代先祖」(流光院殿山洞源(玄)清大禅定門)の時代です。「塩田流福沢氏」(後期)の最盛期ほどの領地は無かったにせよ祭事上納金の多さではトップクラスの富豪でした。今迄、いろいろと調べてきた中で、不思議に感じていたことがありました。「砥石城」に「福沢出丸」という名が残る以外、「塩田城自落」を含め「戦国時代前期」にありながら「多くの争乱」で「福沢氏」の名は全く記されていません。
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 あるいは塩田平などは、村上氏の代官福沢氏の配下にあったため、村上満信五百余騎の中に含められてしまったのか、あるいはほかに何か理由があって参加しなかったものか明らかではありませんが、問題として残ります。
 「福澤家の歴史」、アレコレと調べまくっている中で、私の脳裏から離れられなくなった「塩田福沢氏は武士でなく文官ではないか」という推論が色濃くなるばかり。そして、「塩田福沢氏」の忠誠の対象は「城主」(坂木村上氏)ではなく「塩田庄とその地に生きる民」(その象徴なる塩田城代官の職責)ではないかと・・・・。
 「福澤家の源」は、「鎌倉時代」初期における「一滴」が、「比企能因の乱」「北条氏残党狩り」等々を経て「生き残る術」を身に付けた「唯一無二の一族」(
1249-2024775年間)に違いないと思うのであるが・・・・。
福沢入道像阿(1448-1400=48)誕生直前、像阿の父世代(村上満信の子と像阿は同世代)と推察する
村上信貞の頃から代官を務めていたなら、村上初代代官は像阿の高祖父(5代前)になる
 Ⅲ、「御苻礼之古書」と神使御頭の記録
 「御苻礼之古書」について、上田市誌歴史編「上田の荘園と武士」に詳しく記されているとのことで、[⑧室町・戦国時代の争乱]の前編[上田の荘園と武士]を新たに買い求めた。諏訪上社の神長官守矢家に伝えられた「御苻礼之古書」の内容は、文安3年(1446)から延徳元年(1489)迄の44年間の上社の祭り(御射山祭)の頭役について記したものである。
 諏訪の神と信濃武士のかかわり (第二章 鎌倉時代の上田 第四節 鎌倉時代の文化)
 10世紀初頭の頃、いずれの神社へも国司が幣帛を用意して供え、社の造営や修理も国の税物を割いてあててきました。その出所は公領や荘園に課した税としての貢納物でした。しかし、このような神社の造営や維持の仕方が、何百年も同じであるはずはありません。武士が地頭になり、荘園や公領の年貢徴収権を持つようになった鎌倉時代に入ると、神社の維持も造営も、おのずと地頭の手が必要になってきます。
 延応元年(1239)、幕府に次のような訴えが出ました。新しい信濃国司が任命された最初の年には、どの所領もみな検注(年貢を取るための田や畑の検査)が行われていました。けれども、その年に諏訪上社の五月会と御射山の祭りの当番に当った地頭の所領だけは検注をしないという慣例があるので、今年もその免除を認めて欲しいというものでした。幕府は事実かどうかを諏訪上社の大祝信重に尋ね、その返答書をえて、その年ばかりでなく、その国司の任期中の検注を免除するようにしました。鎌倉時代の前期から信濃国内の武士が、祭りの当番を勤めていたこと、その当番に当った地頭は検注を免除されるという優遇をうけていたことが分ります。
 五月会 52日から4日までの3日間
 八ヶ岳山麓で狩りをして神に捧げる贄を得、55日の朝と夕べの二度、饗膳が設けられます。朝の頭役が左頭、夕べの頭役が右頭です。6日には社頭で流鏑馬が行われ、饗膳も用意されます。この頭役が流鏑馬頭です。
 御射山(上社) 726日から30日までの5日間
 御社山社を中心に、茅野市・原村・富士見町が境を接する八ヶ岳山麓の高原一帯が御社山広場(下社の場合は霧ヶ峰高原の元御社山が広場)でした。御社山とは、本来は諏訪の神に捧げる鹿や猪や兎等の贄を得るための神の狩場を指しますが、転じて祭りのことも御射山祭というようになりました。祭りは、26日に上社を出発し、八ヶ岳山麓の御射山の原に着き祭りを行い、27日から3日間、山宮への参拝・饗膳・狩り、山宮の社前に戻って相撲・小笠懸等が競われる。30日は神事・饗膳の後、山を降ります。5日間の祭りには僧俗貴賎を問わず乞食や非人まで大変な数の群集が見物に集まったといわれています。この大騒ぎの祭りを設営するのが左頭と右頭でした。御射山祭の饗応は、神前に供えて神事を行い、それが終わってから参加者が口にするという一般的なやり方ではなく、相嘗といって、神も俗人も同座して区別なく飲み食いする祭りだったようです。

 
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 塩田の上社御射山祭頭役
 塩田は、鎌倉時代、塩田北条氏によって上社の頭役を勤めた所です。室町時代も上社の頭役を勤仕しているので、「御苻礼之古書」の記事から室町期の塩田の様子を垣間見ることができる。「御苻礼之古書」(塩田)を以下に抜粋。
文安5
1448
御社山左頭 福沢入道像阿(これ以前より在城とあるも未詳)
 御苻礼五貫六百六十六文、頭役五拾六貫文、神鷹、神馬、この年は、福沢殿代官贄田道義勤仕候
享徳3
1454
御射山 代官福沢入道像阿
 御苻礼三貫三百文、頭役六拾貫文、神鷹、神馬、御苻の時、次年入道死去の後、葦毛馬一疋進上
長禄3
1459
御射山左頭 福沢入道沙彌像阿
 御苻礼三貫三百文、頭役五拾貫文、神鷹神馬は代一貫文
寛正6
1465
御射山左頭 福沢入道沙彌像阿
 御苻礼五貫六百文、頭役五拾貫文、神鷹、神馬 御教書礼五貫六百文、代官、贄田胤長
文明1
1469
御射山左頭 代官福沢左馬助信胤代初而
 御苻礼五貫六百文、頭役五拾貫 神馬代一貫五百文、御教書礼五貫六百文
応仁2
1468
諏訪社上社花会御堂坂木 村上兵部少輔政清
 御苻礼五貫六百文、使曾次次郎、海野、千葉城ノツメ口ヲ取被座候、自甚中返事候、頭役五拾貫、御教書礼五貫六百
文明6
1474
御射山上増 村上知行代官福沢左馬助信胤
 御苻礼五貫六百六十六文、頭役五拾貫 神鷹、神馬栗毛、御教書礼五貫六百六十六文
文明11
1479
御射山左頭 村上兵部少輔政清御知行 代官福沢五郎淸胤
 御苻礼五貫六百六十六文、頭役五拾貫 神鷹、神馬、御教書礼五貫六百六十六文
文明16
1484
御射山左頭 村上福沢入道沙彌頭賢
 御苻礼五貫六百六十六文、頭役五拾貫 神鷹、神馬、御教書礼五貫五百六十六文
文明17
1485
(御射山の項)
 御教書役錢五貫六百六十六文、神鷹弟高サシマ神馬代一貫 福沢殿、善光寺へ仏詣でに候。
 代官贄田弾正行き候間、
 中村胤廣返事
延徳1
1489
御射山右頭 村上福沢左馬助政胤
 御苻礼五貫六百六十六文、頭役七拾貫 神鷹、神馬、御教書祝五貫六百六十六文
 10回にわたる沢山の記録がある。この記録の中で取り上げたいことが幾つかあります。
村上政清(村上兵部少輔政清に関係したこと
②福沢氏が塩田に関係するようになった時代やその地位のこと
③塩田の頭役の増加のこと
④室町時代の塩田のこと
 Ⅳ、信濃村上氏 塩田の領主が変った
 村上氏が塩田荘を手に入れることになったきっかけをレビューします。「村上信貞、戦功で塩田荘を領有」・・・・建武2年(1335)の箱根竹下の合戦で足利直義から畳紙に書いて塩田荘を宛て行われたという「太平記」の記事を紹介しています。(上田の荘園と武士;上田市誌第7巻)その後、実際に村上氏が領有しているので「太平記」の記述は間違っていません。
 
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 村上氏の系図
 村上信貞以降の系図を「系図纂要」(村上安信系系図)と「応仁武鑑」を並べてみましょう。
 系図纂要
  信貞-師貞
    ∟師国-満信-植清----成清----信清
 応仁武鑑
  信貞-師国-満信-直清-持清-成清-信澄-信清
 「系図纂要」の方は「持清」と「信済」が落ちていて精粗の差があるも「御苻礼之古書」に記されている塩田の領主村上兵部少輔政清の名が出てこない。更に名称「村上義清」も載っていない。どういうことでしょう。そこで、「村上政清」の名が出てくる系図を探してみました。同じ「系図纂要」(村上安信系系図)ともう一つは「更級郡埴科郡人名辞書」の「清和源氏信濃村上氏系図」です。同様に並べてみましょう。
 系図纂要
  安信-
2代略-信泰----義国-頼国-国衛-国清-満清----政国-顕国-------義清
 更級郡埴科郡人名辞書系図
  安信2代略-信泰-国信----------国清-頼清-国衛-政清-顕国-頼衛----義清
 「系図纂要」系図では政国となっているが、「更級郡埴科郡人名辞書」系図には寛正年代(1460-1466)以後の人として「兵部大輔政清」の名があり、その3代後に「村上義清」も記され、この系図こそ、塩田も治め、この地方の人々が村上氏として親しんできた系統と言えよう。・・・・とすれば、どこかで異変が起きている。塩田荘は、拝領した「村上信貞」の系図とは別の「兵部大輔政清・義清」の系図に移ってしまったことになります。さて、どうしましょう。
 「頼清、関東公方に属して没落」
 その原因を追究するために、村上氏の系図を丹念に見て行く中で「あること」が分りました。「尊卑分脈」の系図で「兵部大輔政清」の祖先「安信」以降を抜書きしてみました。
 尊卑分脈(村上屋代部分)
  安信-信村-胤信-信泰-信貞-師国----満信
                ∟師貞
             ∟義日----朝日
             ∟国信
 「尊卑分脈」系図は以上ですが、「兵部大輔政清」や「義清」の系図は「信泰・国信・義国」と続いた方の系統であり、国信は村上信貞の兄弟にあたるわけです。
 大塔合戦のとき、信濃の国人領主の先頭に立って守護小笠原長秀に反抗したのは村上満信でした。この時点(1400)までは村上氏惣領信貞の系統の満信が、埴科郡坂城も、更級郡の村上も、小県郡の塩田もみな領有していたに違いありません。それが、応仁2年(1468)の坂城郷の諏訪上社花会頭役は、村上兵部少輔政清が勤めています。
 よって、坂木や塩田の領主が変ったのは、応永7年から応仁2年(1400-1468)までの約70年の間、村上氏の名でいうと次の3代の間の出来事になります。
 信貞の系 満信-植清-成清  国信の系 頼清-国衡-
政清
福沢入道像阿(1448-1400=48)誕生直前、像阿の父世代(村上満信の子・頼清と像阿は同世代)と推察する
村上信貞の頃から代官を務めていたなら、村上初代代官は像阿の高祖父(5代前)になる
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 「系図纂要」(信貞系)をみると、村上惣領の家に異変が起きたことを推定させることが書かれている。満信の後の植清と成清の項です。
●満信-中務大輔
●植清-中務大輔、入道覚玄。
 世々信濃に住す。持氏卿に属し、卿生害(自害)の後信濃国を去り、他邦に走り、後、上総久留里に居す。
●成清-信濃守、法名一岳。
 成氏朝臣に属し、成の字を賜り父祖の旧領信濃国に帰居す。而して勢い微かにして保邑する能わず。小弓御所義明に属し、久留里城を守る。北条氏康来攻、粮尽きて自殺
 満信の子植清は、関東公方足利持氏に属すも事がうまく運ばず。信濃の所領を去って上総の久留里に移り持氏亡きあとは成氏に仕えた。成清は一度信州の所領に戻ってみたが以前のように領主に戻れる余地がなかった。
 源経基(経基流清和源氏の初代)・・源頼信(968-1048)-村上頼清(995-1073)-村上為邦-村上安信
  村上安信-信村-胤信-
信泰信貞師国満信植清-持清-成清-信清-清政
               ∟義国-頼国-国衡-国清-満清-政国-顕国-義清
 信濃村上氏、幕府に降参
 大塔合戦のあと、小笠原長秀が信濃守護の職を失ってから再び小笠原氏が任じられるようになったのは、小笠原政康(長秀の弟)、応永32年(1425)の頃でした。この間、政康は幕府の命令を受け信濃の内外の合戦に手足のようになり働きました。幕府は、幕府の料国になった時代から大塔合戦で反抗した国人領主を、応永10年(1403)以降34年間をかけ個別に攻め、井上・大井・伴野・須田・高梨・海野・祢津・依田の各氏を服従させてきた。
 永享8年(1436)、小笠原政康は芦田下野守を降伏させ、守護に逆らい思い通りにならない国人領主は、いよいよ「村上氏」のみになりました。周辺に応援してくれる国人領主が居なくなった村上氏は存亡の瀬戸際に立たされ、幕府や守護小笠原とは対立関係にある関東公方の持氏に支援を頼み込んだ。これは大変な規則破りの悪手である。関東公方の権限は、安房・上総・下野・常陸・下野・上野・武蔵・相模の関東八ヶ国に伊豆・甲斐を入れた十ヶ国の範囲内であり、信濃は室町幕府の管轄である。その信濃のことに持氏が口をはさみ兵を出すということになれば、室町幕府の領域に手を出し攻め込むことになる。
 持氏の執事上杉憲実は必死で信濃に援兵を出すことの非を諌めた。これにより、援軍の来なくなった村上氏は一族挙げて戦う以外には道はなく、室町幕府を後ろ盾にした小笠原氏に対し力尽きた村上氏は、永享9818日(1439)、京に出向いて将軍義教に対面し「降参」を申し入れた。
→「十八日、丙子、雨降、早旦相府に参る。年来攻めらるる所の信濃国住人村上安芸守某降参、今日相府の見参に入る。乃ち、人々賀し申す。
 幕府側からみると、これで信濃の情勢は落ち着きました。しかし、この後、大変だったのは関東の情勢です。
 持氏が村上氏への援兵を思い留まるように諫言した上杉憲実を討とうとしているとの「噂」から、「憲実と持氏」、更に「持氏と幕府」が対立、永享112月(1439)、持氏は小笠原政康や上杉憲実に攻められ鎌倉の永安寺で自刃して果てた。
 村上満信の次の代の村上氏当主は、系図や史料によって様々な説が・・・・
 植清・直清・頼清の実名と、安芸守・中務大輔等の官途名とがあります。実名と官途名の両方を書いてある文書史料は見当りません。ただ「越前勝山小笠原家譜」に村上中務大輔が頼清であり、永享8年(1436)に小笠原政康と村上頼清と確執があったことが記録に残っている。中途での名前変更は良くあること、植清や直清を否定することはできないものの、これによって満信1360-1420の次は頼清(福沢像阿と同世代)であったとみて良いと考えられる。
 
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Wikipediaより引用
 村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながり、師国・満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになる。・・・・満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある。・・・・村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源頼清と同じ名を持った村上頼清で永享
9年(1437)に自ら将軍足利義教に出仕した記録がある。
 村上信泰 - 信貞 - 師国 -
満信 - 中務大輔(≒持清)→ 村上頼清 - 国衛 → 政清
 小笠原氏の内紛と村上氏の再興
 実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れて討ち死にしてしまった。持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。 その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。
 この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。政清は享徳の乱の際には反幕的態度を取り、寛正4年(1463)に幕命により越後から侵入した上杉右馬頭が足利成氏に通じる高梨政高を攻撃し、政高がこれを中野付近で討ち取った際には高梨氏を支援している。応仁元年(1467)、海野氏が領していた小県郡塩田荘を奪い、応仁2年(1468)には海野荘に攻め入り千葉城(長野県上田市洗馬)の詰口を奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社に送っている。文明2年(1470)海野氏の一族が支配する矢沢(上田市)でも戦っており村上郷から坂木郷に本拠を移したことで海野氏と境を接し摩擦を増し続いていたものと考えられる。一方善光寺平の高井郡や水内郡にも進出し文正元年(1466)高井郡山田郷で井上満貞と戦い、同年の満貞死去はこの合戦との関係や高梨氏との挟撃にさらされたことが考えられる。
 村上氏(政清)の所領 幕府に降参(1439)→39年後(1478
坂木代官 重富高信
飯野信宗・清宗
吉益清忠・信経・清経・清長
中之条代官 寺尾泰閑・政幸・政業・政宗
東条遠江守
高田知行 吉益氏と横田氏
市村知行 西条経春
春国光
吉益清忠・清経・清長
塩田代官 福沢像阿・他
 
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 Ⅴ、村上氏と福沢氏 村上氏の復興と福沢氏(300年余りの歴史)
 村上氏が塩田荘を与えられ(信貞)、最盛期を迎えたのは大塔合戦(満信)、幕府が乗り出し滅亡(満信)、この間104年(1335-1439)、そして62年が経ち義清が生まれ、更に19年が経ち家督相続・葛尾城主となり村上義清の時代になる。一方、福澤家の歴史より、初代先龍光院殿山洞源清大禅定門卒(1493)、仮に享年60歳とすれば1433年生、塩田福沢氏の名が初めて史料に出たのは1448年、初代先祖卒の45年前、12歳の少年の頃と推定する。初代先祖の父(1413-1473)、祖父(1393-1453)、曾祖父(1343-1403)、高祖父(1323-1383)/村上信貞と同年代になる。福澤家の高祖父が生まれた1323年は明白な「福澤家の源」と言えよう。
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1217 建保05 小泉庄関連;泉親衡の乱
1221 承久03 島津忠久を水内郡太田庄地頭に補す
1247 建長01 福澤家の源は「建長年間」(1249-1256)辺りか
1277 建治03 義政;連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
1328 嘉暦03 小泉庄関連;小泉庄(泉親衡の乱後)の分断知行
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞軍に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
1335 建武02 信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1400 応永07 満信;大塔合戦(大文字一揆)
1433 永享09 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1439 永享09 村上安芸守某(満信);幕府に降参、これをもって信濃の国人すべて小笠原氏に服従
1448 文安05 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1493 明応02 龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501 文亀01 義清;顕国の子として葛尾城にて誕生
1520 永世17 義清;家督相続し葛尾城主になる
1553 天文22 義清;葛尾城落城
昌景;塩田城自落
四世;光現院覺忠誓本居士・清光員壽妙相大姉
 村上義清と代官福沢氏そして福澤家の関係
 村上氏は更級郡村上郷、福沢氏は小県郡塩田荘(村上郷出身とされるが・・・・)、福澤家は小県郡小泉荘と隣接している。塩田荘(最勝光院領 上田市西南部の塩田平一帯)と小泉荘(一条大納言領 上田市西北部の千曲川左岸一帯、古くは東山道福田郷)は歴史の古い地である。
 村上満信・福沢入道像阿・福澤家初代先祖、この三家は同じ時代(多分年齢順であろう)に生きていた。村上満信は信濃国外へと落ち延び、福沢像阿は後継者を育て塩田荘代官一族の棟梁として全うし、福澤家初代先祖は小泉庄で北条流福澤家廿四代の系譜を重ねる長として本家筋を守ったのであろう。
 坂木村上氏と塩田流福沢氏(北条流福澤家)の出逢いは、「建武2年(1335村上信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる」・・・・この時期ではなかろうかと筆者は考える。福澤家初代先祖(龍光院殿山洞源清大禅定門)の誕生より98年前、5代前といえば「初代先祖の高祖父の父」にあたる。福沢入道像阿の高祖父でもある。福沢入道像阿の一族には「時」が付く子孫はいない。従って、この時期に坂木福沢氏は、北条流福澤家の庶流となり北条氏の流れを伏したのではなかろうかと考える。
- 13- 
 福沢氏 西暦1400年代 塩田福沢氏(前期)
48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89



















































 





























 















 中世に入ると一度世俗で活動した後に出家(世俗を離れる)する人々が増加し、武家として活動した後に出家の姿になった者も「入道」と呼ばれるようになった。
 福沢氏は、文安5年(1448)から延徳元年(1489)の凡そ40年間に4代も替っている。また、福澤氏の代官も替っている。福沢像阿は、文安5年(1448)以前から寛正6年(1465)までの20年以上(17年)の長い間代替りがなかったのに、左馬助信胤から五郎清胤への代替りと清胤から左馬助政胤への代替りはちょうど10年です。理由が何かは分りませんが、一般的な目でみると短すぎるので何かがあったかもしれないと考えさせられます。
 前述の考察について(筆者の見解/異論)
 この間の代替りが世襲と仮定すれば、「入道像阿」から「左馬助政胤」まで24年あり親子とみて間違いない。「左馬助信胤」「四郎」「五郎清胤」「入道沙弥頭賢」「左馬助政胤」と5人の名がある。「入道沙弥頭賢」を俗名と見るか入道名と見るか、「左馬」と付く2人と付かない3人を兄弟とは見ないかは別において、「10年任期」を短く何かあったのではと見るのは偏見かと思う。
 ここで筆者に一つの考え方が生れた。「四郎」「五郎」は、福沢入道像阿の子ではなく本家・福澤家の者ではなかったかと、福澤家初代先祖「龍光院殿山洞源
大禅定門」=「福澤五郎胤」との説が蘇る。「清胤」は、塩田城代官になることでの追名前ではなかろうか、兄の四郎は代官になっていないので四郎のままかと考えられる。
 建武2年(1335)、村上信貞、新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる。信貞が塩田城に入城したという記録はない。誰かが代官として、しかるべき務めをしていたはずである。更にさかのぼれば、塩田流北条氏の時代にも、誰かが代官として務めをしていたはずである。もっと遡れば、島津忠久が「比企能因の変」で塩田庄地頭を免職(1221)し北条重時が信濃守護を施行(1227)した時にも塩田庄の代官が居たはずである。塩田流福沢氏の源は何処に・・・・研究課題として提案させて頂きたい。
 ちなみに、福澤家の初代先祖「龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門」(明応2年/1493卒)、享年60歳とすれば誕生は永享5年(1433)になる。20歳で長男誕生とすれば、系譜の名称は「玄孫←曾孫←孫←子←自分←父→祖父→曽祖父→高祖父」、「玄孫から高祖父」まで8代、「20×8=160年」、初代先祖から「1433-160=1273」、北条義政が塩田荘に遁世(1277)、従って「塩田流北条氏」の代官であっても不思議ではない。
 
- 14- 
 福沢氏は村上氏の庶流であるか
 福沢氏は、どのような由緒の武士なのか、手がかりを与えてくれるような福沢氏の系図も知られていない。(中略)坂木の村上氏は、「更級郡埴科郡人名辞書」「清和源氏信濃村上氏系図」によると、村上政清の後は「政清-顕国/頼衛-義清」となっている。(義清以外は未詳)福沢清胤が村上政清の清の字を、次の代の福沢政胤が政清の政の字をもらって名乗ったと推定されるように、村上顕国の顕の字をもらって上の文字に使い、下の文字は福沢氏代々の通字の胤を用いて顕胤と称したと考えられます。等々より、福沢氏は村上氏の庶流ではないかとする推定の根拠を幾つもあげてきました。
 福沢氏が、村上氏の代官として塩田に派遣され、塩田の支配を任されたのは、文安
5年(1448)をさかのぼること、どれほど以前だったかについては推定の材料がありません。福沢五郎清胤(1479)が村上政清の清の字を、次の代の福沢政胤(1489)が政清の政の字をもらって名乗ったと推定される。と記載される。
 
 筆者の見解/異論
 福沢氏は、文安5年(1448)から延徳元年(1489)の凡そ40年間に4代も替っている。また、福澤氏の代官も替っている。福沢像阿は、文安5年(1448)以前から寛正6年(1465)までの20年以上(17年)の長い間代替りがなかったのに、左馬助信胤から五郎清胤への代替りと清胤から左馬助政胤への代替りはちょうど10年です。理由が何かは分りませんが、一般的な目でみると短すぎるので何かがあったかもしれないと考えさせられます。
 福沢氏系譜(初期推察) 室町時代から戦国時代(六世代120年強の一族) 私考
像阿

沙弥像阿・左馬助信胤

五郎清胤・沙弥頭賢・左館助政胤・四郎

不詳

五郎顕胤・顕昌

昌景
像阿(1448、1454、1455没)
 
沙弥像阿(
1459、1465)・左馬助信胤(1469
  左馬助信胤代理・四郎(1459、1474
五郎清胤(
1479)・沙弥頭賢(1484)・左館助政胤(1489

不詳
41年の空白)・・前;御射山祭 後;村上義清・蓮華定院
・・・・当期間の信濃史料に「御苻礼之古書」なし
五郎顕胤(
1530、1543没)-顕昌(1544
 
昌景(
1551、1554
 福沢氏系譜(考察後の推察) 室町時代から戦国時代(六世代120年強の一族)
入道像阿

入道沙弥像阿・左馬助信胤

五郎清胤・入道沙弥頭賢・左館助政胤・四郎

     不詳 (自論)

五郎顕胤・顕昌

昌景
入道像阿(1448、1454、1455没)

入道沙弥像阿(
1459、1465)・左馬助信胤(1469
  左馬助信胤代理・四郎(1459、1474
五郎清胤(
1479)・入道沙弥頭賢(1484)・左館助政胤(1489

不詳
41年の空白)・・前;塩田流福澤氏 後;坂木流福澤氏
・・・・当期間の信濃史料に「御苻礼之古書」なし
五郎顕胤(
1530、1543没)-顕昌(1544

昌景(
1551、1554
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 「像阿」は「塩田流福澤氏」(本家)、その子(信胤、四郎、清胤、頭賢、政胤)の誰か(信胤、清胤、政胤)が何らかの事由で塩田庄から出たのではなかろうか、その際に末っ子(五郎清胤)は坂木でなく小泉庄前田(福澤家/龍光院殿山洞源清大禅定門)におき、戦国を意識し「塩田流福澤氏」の血統を途絶えさせないために、5人兄弟を「塩田」「小泉」「坂木」に配流(像阿の遺言)したのではなかろうかと推考する。
 「小泉」(前田)は東山道(福田郷)の頃からの要所、また「塩田」と「小泉」の接続地域にもあり、「前田」は「塩田」と「坂木」の裏街道かつ塩田城も指呼できる「他の庄」である。
歴史には載らないが、日本一の長期氏族(福澤氏)だからこそ、将来を見据えての「戦略的分家」を図ったのではなかろうかと推察する。
 福沢氏空白の41年(1489-1530)における日本史
 室町幕府、第10代将軍足利義材(1490-1493、3年)、空位(1493-1495、15ヶ月)第11代将軍足利義澄(1495-1508、134ヶ月)、再10代将軍足利義稙(1508-1522、136ヶ月)、第12代将軍足利義稙(1522-1547、25年)41年といえば家督相続2人で計算するのに延べ4人の将軍とは、福沢氏と余り変りません。
 Ⅵ、当時の室町幕府
 福澤家の初期先祖
和暦 西暦 出来事 福澤家先祖
永享09 1433 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
文明09 1477 応仁の乱が終結する
延徳01 1489 9代将軍 足利義尚が死去 足利義視の子・義材が10代将軍に就任する
明応02 1493 明応の政変 幕府は中央政権としての力を失う
      龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
永正04 1507 細川政元が養子・澄之に討たれる 細川氏が2派に分裂し混乱が深まる
永正05 1508 足利義尹(義材)が将軍に返り咲く
大永01 1521 管領細川高国が義稙(義尹)を廃して義晴を将軍に擁立
天文20 1551 清光院壽覺妙相大姉(覺忠誓本の妻)卒
弘治03 1557 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
天正01 1573 15代将軍 利義昭が織田信長に京都を追放され室町幕府が滅亡する
 「公方」とは・・・・「公方」号の発生
 公は中国において私を内包する観念であり、日本で言うところの民と国家を総合する意味があった。日本語ではこの意が変化し、「公」は「私」を含まない観念で国家の取り扱う領分を意味する語となり、私の対義語となった。このような観念は「滅私奉公」「五公五民」「公私混同」といった用い方にあらわれている。このような感覚から、古代には日本という国家を一身で体現する存在である天皇を指し示す表現として「おおやけ」という言葉が使われ、天皇やその家、朝廷を「公家」あるいは「公方」と呼称する慣習が生まれた。特に荘園などの私的な所領が広がりを見せた平安時代後期以後には、国家的な統治権を強調するためにも用いられた。相対的な朝廷権力の低下した鎌倉時代以後には、荘園・公領の一円支配を実現させた本所(寺社・公家)や武家などが、その土地の統治権の保持者として「公方」と名乗る例も登場した。さらに鎌倉幕府においても弘安6年(1283)頃より、執権北条氏の得宗・御内人・御内御領に対抗して、皇族将軍を「公方」・御家人を「公方人々」・関東御領を「公方御領」と呼称する規定が成立する。これは、皇族将軍と執権北条時宗を擁して幕政改革に乗り出した安達泰盛が、北条氏の私的権力の幕政への介入を抑制するために、幕府の主権が征夷大将軍とその主従関係下にある御家人にあることを示すために採用したといわれている。
- 16- 
 室町幕府の「公方」
 南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏が朝廷より公方号を許されたことが、室町幕府政所執事伊勢氏の末裔で江戸幕府旗本の伊勢貞丈の「貞丈雑記」に記されている。しかし、尊氏は多分に朝廷や公家の称としての意味合いが強かった公方号を素直には喜ばなかった。尊氏は公方の号を賜ると甲冑をまとうことができないと述べ辞退するが、朝廷も一旦授けたものを撤回できず尊氏が預かる形となった。以降、2代将軍となった義詮の時代になっても用いられることはなく、3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称するようになると鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。
 足利一族の公方
・鎌倉公方(関東公方)
 室町時代に東国統治のために設置された鎌倉府(神奈川県鎌倉市)の長。初代は足利基氏。第
2代は足利氏満、第3代は足利満兼、第4代は足利持氏である。永享の乱で持氏が室町幕府に反抗して敗死したため、一旦滅びた。のちに持氏の子の足利成氏を第5代として再興したが、成氏は享徳の乱の際に古河に移ったため、これを古河公方と呼ぶ。
・篠川公方(篠川御所)
 第
3代鎌倉公方足利満兼が奥州統治のため弟の足利満直を陸奥国安積郡の篠川(福島県郡山市)に派遣して成立。上杉禅秀の乱以降反鎌倉府の立場をとるが、永享12年(1440)の結城合戦で滅亡した。
・稲村公方(稲村御所)
 第
3代鎌倉公方足利満兼が奥州統治のため弟の足利満貞を陸奥国岩瀬郡の稲村(福島県須賀川市)に派遣して成立。永享10年(1438)に永享の乱で満貞が自害したため滅亡した。
・堀越公方
 長禄
2年/長禄元年(1458)、室町幕府第8代将軍足利義政は、享徳の乱で幕府と対立した足利成氏に代わり、新たな鎌倉公方として弟の足利政知を関東に派遣したが、箱根を越えられず伊豆国田方郡の堀越(静岡県伊豆の国市)を居所としたもの。2代目の足利茶々丸が北条早雲に討たれて滅亡した。
・古河公方
 享徳の乱の際に、享徳
4年(1455)、鎌倉から下総国古河(茨城県古河市)に移った関東公方で、初代は足利成氏。第2代は足利政氏、第3代は足利高基、第4代は足利晴氏、第5代は足利義氏である。晴氏が河越夜戦で敗れたことから後北条氏の影響力を強く受けるようになり、晴氏と義氏は古河を離れて、後北条氏の勢力範囲各地を居所とする時期が長かった。天正10年(1582)、義氏が死去した後は後継者が立たず消滅した。後裔は喜連川氏となった。
・小弓公方(小弓御所)
 永正
14年(1517)、第3代古河公方足利高基の弟足利義明が上総国真里谷城主の上総武田氏に擁立されて、下総国の小弓城(千葉県千葉市)を居所としたもの。自らを第2代古河公方政氏の正当な後継者であると主張し、高基に対抗した。天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため滅亡した。後裔が古河公方系と合一して喜連川氏となった。
・鞍谷公方(鞍谷御所)
 越前守護代朝倉氏が越前守護斯波氏から越前国の支配を奪い、斯波一族のうちから名目上の国主として擁し、後には客将として遇したもの。越前鞍谷(福井県越前市)を所領としたことから鞍谷御所などと呼ばれる。
 
- 17- 
・堺公方
 大永
7年(1527)から享禄5年(1532)にかけて、阿波細川氏・三好氏らが擁する足利義維が和泉国堺に進出し、近江国に逃れた室町幕府12代将軍足利義晴と対峙して畿内の支配を争った。その間、義維は「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などと称されたが、堺を追われ阿波に下った後は阿波公方と呼ばれた。
・平島公方(平島御所・阿波公方・阿波御所)
 四国の阿波国平島(徳島県阿南市)に本拠を置いた足利義維の系統。義維の子足利義栄は
14代将軍となる。
・越中公方
 
1493年に明応の政変に遭った室町幕府10代将軍足利義材が越中国射水郡放生津(富山県射水市)で樹立した政権。
 対象年代の足利将軍
 第10代将軍;足利義材(義材-義尹)1490-1493、3年)
 鎌倉、室町、江戸と続いた幕府において唯一、2度征夷大将軍に任ぜられた人物がいます。室町幕府10代将軍の足利義材です。8代将軍足利義政の甥にあたり、9代将軍足利義尚が死去した後、10代将軍として就任したのが最初の在任時代となります。
 父である足利義視の後見を受けていましたが、足利義視が死去すると、擁立に関わった幕府の実力者日野富子や管領細川政元とは対立関係となってしまいます。求心力を高めようとした足利義材は、足利義尚(9代将軍)が成し遂げられなかった近江の六角氏征伐を果たし、前管領の畠山政長を率いて、畠山政長と対立していた畠山義就を追放するために河内へ向かいますが、いずれも細川政元の反対を押し切って実行されたものでした。そういったことが引鉄となり、足利義材が京都を留守にしている間、日野富子や細川政元らによって、足利義材の従兄弟足利義澄が擁立されてしまいます。これが「明応の政変」(明応2年/1493.4.22)といわれる出来事です。
 足利義材は京都に連れ戻されて幽閉されていましたが、京都を脱出し、越中の放生津(放生津城跡;富山県射水市、放生津小学校校内)へ向かいます。越中は畠山政長の領国だったため、畠山政長の家臣神保長誠の支援を受けることができたからです。足利義材は孤独に亡命したわけではなく、奉行人や奉公衆(将軍の警備隊)、北陸の大名らが足利義材に同行したため、放生津ではそれなりに布陣の整った政権を樹立し、小さな幕府と言っても差しつかえない体制だったようです。足利義材はここで側近らや現地の勢力に支えられて、再上洛の機会をうかがうこととなりました。ちなみに、この亡命時代は「義尹」と名乗っています。結局、義材が放生津に滞在していたのは6年間のみ。明応7年(1498)には越前の朝倉氏を頼って一乗谷(福井市)へ移り、上洛を試みますが失敗。続いて、周防に逃れて大内氏の庇護を受けました。
 再任 第10代将軍;足利義稙(義材-義尹-義稙)1508-1522、136ヶ月)
 永正4年(1507)、足利義材を廃した首謀者である細川政元が暗殺され、細川政元の養子である細川澄元と細川高国が当主の座を巡って争う混乱にまで発展します。この状況を好機ととらえた足利義材は翌年に再度上洛。細川高国に迎えられ、京都から足利義澄を追放し、将軍に復帰。この2度目の将軍時代には再度改名し、足利義稙と名乗りました。越中、越前、周防と諸国を渡り歩いた経歴から、足利義材は「島公方・流れ公方」とも称されました。流れ流れていた彼の勢力は安定感に欠けており、将軍に復帰した後も細川高国や周防の大内氏ありきの立場となっていましたが、やがてその細川高国や大内氏との関係も悪化し、淡路、阿波と再び流れた末に死没しました。
 これだけ各地を転々として、幕府が成立したのは越中のみ。この期間、足利義材のもとには連歌師の宗祇や、飛鳥井雅康など、当時の京文化を代表する文化人たちや武将、僧侶らが足しげく往来しました。放生津の幕府は6年間のみという短いものだったかもしれませんが、政治や文化の中心地として越中が華やかに賑わったことはまぎれもない事実です。
- 18- 
 放生津城が建てられたのは、現在放生津小学校がある場所。グラウンドの北側に放生津城跡の石碑が設置されています。放生津城は、越中の守護所として建てられた館で、守護の名越時有という人物が築いたといわれています。室町時代には、畠山氏直属の官吏神保氏が守護代として入城しており、足利義材を支援した長誠は神保氏の2代目にあたります。
 第11代将軍;足利義澄(1495-1508、134ヶ月)
 幼少期
 文明1212月(1481)、堀越公方足利政知の次男として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者とされていたため、文明1712月(1486)、叔父義政の意向で父政知が還俗する前に院主をしていた天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明196月(1487)、上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。
 長享
33月(1489)、従兄の9代将軍足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人日野富子の推挙で叔父足利義視の子である足利義材(義稙)が10代将軍に迎えられた。富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにする。延徳24月(1490)にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆくことになる。なお、この年の828日に義稙と清晃が対面して和解しているが、これは細川政元や彼の意を受けた葦洲等縁の奔走によるものであった。
 明応の政変と将軍就任・・・・この年に福澤家初代先祖が卒
 明応24月(1493)、清晃は明応の政変で義材を追放した管領細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。明応31227日(1494)、将軍宣下に先立って元服の儀が行われるが、一連の儀式は足利義政の先例に従って行われたが、会場は当時義澄の居住していた細川政元の邸宅、加冠が政元・理髪が尚経・打乱が政賢・泔坏が尚春と、元服の諸役が全て細川氏一門が占め、烏帽子を被せる政元が儀式で(政元本人が)烏帽子を被るのを嫌って当初予定の20日から延期されて列席予定者から政元が非難されるなど、政元の独擅場であった。また、政所執事の役についても義政の元服の儀の際に先例とされた足利義満の元服時の先例が持ち出されて伊勢氏ではなく二階堂氏が務めるべきとして、伊勢貞陸は1日限定で二階堂尚行に執事の地位を譲っている。
 ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀
22月(1502)には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め政元もこれを認めた。だが、義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。 また、永正元年(1504)に細川氏家臣である摂津守護代薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には、義澄が政元に解任の中止を命じている。
 永正の錯乱と凋落
 永正4年(1507)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正54月(1508)、前将軍義尹(義材)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。
 
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 永正7年(1510)、義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。永正88月(1511)、義澄は義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前、水茎岡山城で病死(享年32)した。義澄の死から9日後に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。
 第12代将軍;足利義晴(1522-1547、25年)
 細川や三好に翻弄され続け、何度も都落ちを経験した12代将軍の義晴。将軍でありながら多くの合戦も経験しており、その中で巧みな外交家としての顔ものぞかせている。
 政権の混乱期に誕生 11歳で将軍職へ
 足利義晴は永正83月(1511)に近江国で生まれた。父親は室町幕府の第11代将軍足利義澄で、母親は日野富子の姪とされる。幼名は亀王丸。将軍の長男である義晴が京ではなく、近江で生まれたのにはワケがあった。義晴誕生の4年前、管領の細川政元が暗殺されると、管領細川氏(細川京兆家)の家督争いが勃発。これに乗じて前将軍足利義尹(足利義稙)を擁立した大内氏の上洛軍が押し寄せ、このとき父義澄は京から近江へ逃れていた。つまり義晴誕生当時、父義澄は既に将軍職を義尹に奪われて近江で再起を図っていたのである。
 しかし彼の将軍復帰はかなわず、義晴誕生からわずか5ヶ月ほどで病没。義尹が室町幕府将軍として京都の支配を強めていく一方で、赤ん坊の義晴は播磨守護の赤松義村の庇護下で養育されていくことになる。一説に将軍義尹(義稙)の養子になったともいわれている。永正15年(1518)に義村は家臣の浦上村宗と対立するようになり、永正18年(1521)には村宗に捕縛されて、最終的に殺害されてしまう。このため、義晴は浦上氏の手に渡るのだが、そのわずか2ヶ月後、管領の細川高国と対立した将軍義稙が対立して京都を出奔したことから、今度は高国に招かれ、第12代将軍として擁立されるのである。
 高国政権は崩壊 義晴も都落ち
 義稙は再起を図るもかなわず、大永3年(1523)に没した。ようやく政権も安定期に入るかと思いきや、大永6年(1526)に高国が家臣の香西元盛を謀殺したことで、政権内部で内訌が勃発することに。そこに高国と対立関係にあった細川晴元が三好元長に擁立されて挙兵。翌大永72月(1527)の桂川原の戦いで高国は大敗を喫し、晴元らと彼らに担ぎ出された義晴の弟・足利義維が代わりに畿内を支配することになった。足利義維は次期将軍に認められて「堺公方」と称されている。
 将軍義晴は高国とともに近江国へと落ち延びることになった。その後、義晴は晴元との交渉で一時的に京へ帰還しているが、翌享禄元年(1528)には状況が悪化し、結局は朽木稙綱の元に身を寄せて堺公方勢力と対立した。権威が失墜した高国は再起を図り、備前の守護代である浦上村宗とともに反撃にでるが、享禄4年(1531)に赤松政祐の裏切りに遭って自害となった。(大物崩れ) その後も支持勢力を転々…
 天文10年(1541)には晴元と木沢長政が対立した際は、晴元方として近江坂本に逃れているし、天文12年(1543)に細川氏綱が晴元打倒のために挙兵したときも、晴元を支持している。しかし、畠山政国や遊佐長教の支援を受けた細川氏綱が天文158月(1546)に挙兵し、晴元が丹波国へ落ち延びると、まもなくして義晴は氏綱支持に転じた。しかし、晴元の重臣の三好長慶の弟たち、すなわち三好実休や安宅冬康、十河一存ら四国の軍勢が上洛すると、徐々に形成が苦しくなっていく。こうした中、11歳となった嫡子の菊童丸(足利義輝)に将軍職を譲っている。これは義晴自身も11歳で将軍となったことが影響しているものとみられる。以後は大御所として菊童丸の後見人となった。巻き返しを図る晴元・長慶軍は天文164月(1547)には近江守護の六角定頼からも援軍を得て勢いを増し、同7月には舎利寺の戦いでついに氏綱軍が敗退。氏綱に加担した義晴も近江坂本に落ち延びた。ただし、義晴はその後まもなく晴元と和睦して義輝とともに京に戻っている。
- 20- 
 天文18年(1549)には、今度は晴元と三好長慶が対立関係となり、義晴は晴元を支持した。しかし晴元が江口の戦いでで長慶に敗れたため、義晴・義輝父子は晴元とともに近江朽木谷に逃れた。義晴は京都を奪還するために銀閣寺の裏山に中尾城を建築し始めるが、この頃から病が重くなっていき、天文19年(1550)に近江国穴太で病没となった。享年40、死因は悪性の水腫とされる。
 福沢氏空白の41年(1489-1530は室町幕府の衰退期(戦国時代の幕開け)
 応仁の乱(1467-1477)が終結した15世紀末、畿内から北国にかけて数多くの一揆が起こり守護大名と一揆勢力との衝突も相次いだ。こうした中で、駿河に伊勢新九郎(北条早雲)が歴史の表舞台に現れる事で一気に戦国時代が本格化していく事になる。北条早雲は、室町幕府の名門伊勢氏の出身といわれている。応仁の乱の最中、早雲は駿河の守護大名今川義忠に嫁いだ妹を頼って駿府に下った。1476年に義忠が戦死すると、今川家に家督争いが勃発する。早雲は妹の生んだ氏親を奉じて対立候補を討ち、その功によって興国寺城(沼津市)を与えられた。1493年、駿河の北条早雲は隣国・伊豆の堀越に攻め込み足利氏の所領を武力で奪った。中央では管領の細川政元がクーデーターを起こし、将軍を追放し実権が細川氏に奪われてしまう。室町幕府の中央政権としての力が消失し戦国時代の本格的な幕開けとなった
 Ⅶ、塩田流福沢氏(塩田城代官・城主)に関する推考
 福澤家の源
 福澤家の先祖は、是まで「福澤市兵衛廣時」(福澤院月居宗泉居士)承応345日(1654)卒、その妻「福松」(自性院空誉理貞大姉)貞享346日(1686)卒、6日が判読難、塩田庄下之郷・横関佐衛門二女であった。此の度の「福澤家の歴史調査」で、「市兵衛廣時」より以前の繰出位牌が4枚判読出来た。その卒年並びに20-25年/代を基に先祖代々の並びを求め先祖世代をふってみた。残念なことに繰出位牌の1/3強が判読不能であった。
 龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門 明応2年(1493)卒
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不詳(二世)

不詳(三世)

光現院覺忠誉本居士 弘治
3年(1557)卒
清光院壽覺妙相大姉 天文
20年(1551)卒

不詳(五世)

不詳(六世)

成圓院願誉宗本居士 寛永
4年(1627)卒
不詳(七世 妻)

福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士 承応
3年(1654)卒
妻 福松 自性院空誉理貞大姉 貞享
3年(1686)卒
 初代
  八世
 筆者(私)は「廿二世」、兄の孫は「廿四世」、「八世」から17代、俗名が判明しているのは14代、その内通字「時」が付くのは9代、「十八世」から明治以降で「時」が付くのは「兄」2人と「甥」1人である。
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 物証が残る「福澤家の源」(其の壱)
 龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門 明応2年(1493)卒、仮に享年60歳としよう。その誕生は1433年(永享5年)になる。時は室町幕府6代将軍足利義教(1429-1441)、信濃守護小笠原政康、上洛の途次、近江草津に馬借土一揆に要撃せられ、森山に退く(信濃史料)。当時の村上氏は、村上頼清で永享9年(1439)に自ら将軍足利義教に出仕した記録が残る。塩田福沢氏、最初に名が出る福沢像阿は文安5年(1448)なので、15年後になる。像阿の名が最後になるのは寛正6年(1465)、初代福澤家先祖の卒年は明応2年(1493)、卒年では28年早い、初代福澤家先祖の父と同世代かと推定できる。まんざら知らない間柄ではなさそうだ。
 物証が残る「福澤家の源」(其の弐)
 従来の家系図の祖であった八世先祖「福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士」の墓石、法名の右側に卒年、左側に卒月日が刻字されている。卒年の下に「平氏」、月日の下に「廣時」と刻字されている。「平氏」(鎌倉幕府の実権を握った北条氏は平氏直方の末裔である)・・・・子供の頃、父から説明があったことを記憶している。
 鎌倉幕府の実権を握った北条氏や御家人の熊谷氏は、貞盛の曾孫である直方の末裔と称している。鎌倉北條氏の通字である「時」は、平直方の庶孫で、京より下向して伊豆国田方郡北條(伊豆の国市)に居住した平時方より受け継いでいるものです。
・祖先 桓武平氏国香流
  桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-
平直方
・子孫
 鎌倉幕府の執権などを歴任した北条氏が平直方の子孫を称している。また『平家物語』などで平敦盛を討ち、後に後悔して出家した熊谷直実も直方の子孫を称している。
・通説 平直方-平維方-平盛方(北条盛方)-熊谷直貞-熊谷直実
 塩田流北条氏の代官は福澤家
 史学者の中では、「塩田福沢氏は南北朝(1337-1392)末期以前には塩田に入っていた」としている考え方が通説化されている。言い換えれば「北条氏の代官」であると間接的(裏付に欠くゆえ)に示している。→「福澤家の源」考察でより明確になってきた。では、その代官(家臣)に取り上げてくれたのは「誰」か・・・・北条義政か国時・俊時か、塩田流北条氏の家臣になったのは義政時代、代官になったのは国時時代であろう。
 福澤家が北条氏との関わりを持ったのは・・・・嘉禄3年(1227)、北条重時
 北条義政は、六波羅探題北方、連署を務めた北条重時の五男である。その重時(2代執権義時の子)は、嘉禄3年(1227)に「信濃守護を施行す」との記録が残っている。信濃国でただひとつの荘園であった頃(承安3年/1173)、それは塩田庄である。平安時代(794-1185)末期、平氏政権(1167-1185)ど真ん中である。私が「福澤家の源」を建長年間(1249-1256)と置いたが、更に76年(3/4世紀)、私の年齢分遡ることになる。まあ、これは別として、北条重時の信濃守護施行(1227)は22年・1世代遡るだけなので充分(福澤家の源/北条重時の代官)に考えられる。
 北条重時(極楽寺流の祖、塩田流北条氏・義政の父)
 北条重時は、鎌倉時代前期の武士。北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘姫の前。極楽寺流の祖。第8代執権北条時宗の母方の外祖父。六波羅探題北方鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄北条泰時から娘婿の第5代執権北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。極楽寺流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の分流。「極楽寺殿」と称された北条重時の子孫を極楽寺流と称する。北条氏内部で家格は高く、得宗家に次いでおり、その子孫は執権・連署・六波羅探題をはじめとする幕府重職に就き、また得宗家正室にも入っている。重時から伝わる「六波羅殿御家訓」と「極楽寺殿御消息」の2つの家訓があった。
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 少年期
 建久966日(1198)、源頼朝死去の前年に北条義時の三男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった「姫の前」で、父義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄泰時は16歳の時である。建仁3年(1203)、6歳の時に「比企能員の変」が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、源具親と再婚した3年後、重時が10歳の時に京都で死去している。『吾妻鏡』には、兄泰時・朝時、異母弟政村・実泰の元服記事があるが、重時の元服の記録はなく、元服した頃と思われる時期には母が京で亡くなっており、あまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。建暦2年(1212)、15歳の時に義時の嫡男であった同母兄の朝時が父の勘気を被って義絶されている。
 六波羅探題
 承久元年(1219)に22歳で小侍所別当就任、貞応2年(1223)には26歳で駿河守となり、同母兄の朝時の官位を超越している。元仁元年613日(1224)、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜23月(1230)、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して泰時から重時にあてた書状はよく知られている。
 仁治
3年(1242)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権泰時が重病となると、鎌倉帰還を命じられて急ぎ鎌倉へ下った。泰時は六波羅探題北方である重時のみの鎌倉帰還を命じたにもかかわらず、南方の従弟時盛も無断で鎌倉に帰還し探題を解任されたため、泰時が没すると重時は六波羅に帰任し、最後の5年間は重時単独で任に当たった。
 泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。
 寛元
4年(1246)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。91日、時頼は三浦泰村に対し、自分の相談相手にするために重時を京都から呼び戻したいと打診したが、泰村は頑なにこれを拒んだ。
 連署就任と晩年
 宝治元年(1247)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。建長8年(1256)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年執権時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している。
 最期
 弘長元年61日(1261)、重時は病に倒れた。『吾妻鏡』では厠で「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病」のような症状となったという。鶴岡八幡宮別当の隆弁に611日に加持してもらったところ、隆弁は622日に症状が回復すると告げた。その予言通り、22日に重時は病気から回復し、625日に喜んだ重時や一族は隆弁に馬・南庭(銀)・剣などを贈った。それから5か月後の113日、極楽寺別業で病死した。享年64。死因は不明だが、6月の病が再発したともいわれる。『吾妻鏡』では「発病の始めより万事を擲ち一心に念仏す。正念に住し、終を取ると云々」と記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最期であったという。
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 Ⅷ、塩田流福沢氏を考察する
 「像阿」と「以降」の代(沙弥像阿を除く)で、「通字」をみると、明らかに名前で2つに分けられる。「入道像阿と沙弥像阿は兄弟」、その兄弟の子(個々の親子関係は未詳)「左馬助信胤・五郎清胤・左館助政胤」と「四郎・沙弥頭「福澤家」は、それ以前の塩田流の「嫡流」であり、「福沢像阿」の次の代(子、通字より兄弟とは考えにくい)に「坂木福沢氏」(村上氏家臣、出仕)が「庶流」となったと考えられよう。
 北条流福澤氏に何が起きたか・・・・ここで若干見方が異なる箇所あり
 ①北条流福澤氏-②入道像阿(1448、1454、1455卒)
              ∟③沙弥像阿(1459、1465・・・・・・・・宗家・嫡流(塩田庄前山、小泉庄前田)
                     
∟④信胤代理・四郎1474
                     ∟④五郎清胤(1479
                     
∟④沙弥頭賢
1484
              ∟③左馬助信胤(
1469・・・・・・・・・・・・・庶流(村上郷・坂木郷)
 
                    ∟⑤左館助政胤(1489)・・・・・→五郎顕胤-顕昌-昌景
        ∟②祖父・・・・-③父・・・・・・・・-④龍光院殿山洞源清大禅定門・・宗家・嫡流(小泉庄前田)
 「塩田庄前山」(塩田城)と「小泉庄前田」(福澤家)の距離は、現在の道路(徒歩)で一里未満(3.5km)、徒歩なら45分、馬なら常歩で35分、速歩14分、駈歩8分、緊急車両での駆け付け距離に等しい、更に双方からの眺望はバツグンで今日でも遮るものはなく指呼できる。村上領を含め地理的戦略性(必要に合わせ駆け付け・逃げ隠れが出来るし小泉庄は東山道福田郷で上方・地方の情報もいち早く得られる)が極めて高い。地名も「前山」「前田」と塩田盆地にしてみれば地形・地名的にも対象(山vs田)で意味深い。
 「塩田流福澤氏」の前期(1448-1489に名を連ねた面々を「通字」に着眼し年代の相関を計り系譜化した。
 仮説であるが、通字「時」を持つ「福澤家」は塩田流北条義政の家臣として、義政の死後、国時・俊時時代に代官を務めた「北条流福澤氏の宗家」であり、その経歴を買われ「村上信貞」(1335)から代官を任された一族であろうと推察する。福沢入道像阿は、おそらく5-6代後の北条流福澤家の惣領(宗家)であったと思われる。その入道像阿には「沙弥像阿と左馬助信胤」という息子があり、「沙弥像阿は敵流塩田福澤氏」、「左馬助信胤は庶流村上福澤氏」として新たな家督相続され、それぞれにも2人の後継者が居たと推察する。一方、入道像阿には福澤何某(福澤家初代先祖の祖父)という兄がいて、敵流宗家を引き継ぎ塩田城北条とは一線を引き影ながら見守っていたのではなかろうかと推察する。これだと、「福沢五郎清胤≒龍光院殿山洞源清大禅定門」という考え方は成り立たなくなるが・・・・。
 史学者が「塩田福沢氏」(前期)の代替わりにおいて「何かあった」のではなかろうかと記されていた。筆者も「引っかかる何かある」のかなと感じてはいた。それを明らかにする「キッカケ」になれば幸いと思う。
 「入道像阿」は1455年卒、享年60歳とすれば、「1395-1455」の歴史に何か手掛かりはないか・・・・
和暦 西暦  出来事
応永07 1400 大文字一揆(村上満信が反小笠原のリーダー)
永享09 1439 村上安芸守某(満信)、幕府に「降参」、これを持って信濃の国人すべて小笠原氏に服従
嘉吉01 1441 嘉吉の徳政一揆(徳政令を求めて京都及び近江など周辺地域で発生した土一揆)
永享11 1439 足利持氏と幕府が対立、持氏は小笠原政康や上杉憲実に攻められ鎌倉の永安寺で自刃して果てる
応仁01 1467 村上氏(政清/頼清)、海野氏(持幸/氏幸)が領していた塩田荘を奪い取り復活し海野氏は衰退へ向う
 村上氏の浮き沈みが激しい、塩田荘は海野氏から村上氏に、この頃の福沢氏に関する記録は見当たらない。誰か「村上氏」に、「我こそ」と手を挙げる者は・・・・と、話し合いを持ったのではなかろうかと考える。
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 Ⅸ、塩田庄と小泉庄
 小泉庄
 小泉荘は、信濃国小県郡にあった荘園。現在の川西地区一帯にあたる。古代東山道の通過点にある「福田郷」にほぼ一致する。文治2312日(1186)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では一条大納言領、領家はその子である法勝寺執行尊長であった。地頭の泉親衡は建暦3年(1213)、泉親衡の乱を起こして執権北条氏に反旗を翻したが鎮圧され小泉荘は北条泰時が没収した。延応元年715日(1239)条で、泰時は荘内の室賀郷の水田66段を不断念仏料所として善光寺に寄進した。念仏衆12人も定め、6町は念仏僧侶の給免、6段は仏性灯油の料田である。嘉暦4年(1328)の「諏訪大社造営目録案」では、荘内の前田(舞田)、岡を泉小二郎、加畠(神畑)、室賀、神子田(仁古田)を海野信濃権守(海野氏)、上田原、津井地(築地)、保野を工藤薩摩守(薩摩氏)が分割知行し、諏訪大社への神役を勤仕している。南北朝時代初期には足利尊氏の所領となっており、元弘3年(1333)家臣の安保光泰(武蔵安保氏)に室賀郷が安堵されている。戦国時代以降は武田氏の支配地となり、荘園は解体され、天文22年(1553)小泉氏に所領が安堵されているが、居城の小泉城は破却されている。
 塩田庄12(八木沢・前田/舞田・保野は塩田荘でない)
 荘域は上田市の南西、通称塩田平全域。南に独鈷山塊、西に夫神岳・女神岳、東に東山、北に横山丘陵に囲まれた東西2km、南北1kmにわたる平坦部に立地し、産川・湯川・尾根川などの千曲川支流が北東へ流れる。塩田庄の初見は「吉記」承安4816日(1174)条の「別当申信濃国塩田郷年貢、可進千段事、仰、可進寄文」である。その頃の範囲は必ずしも明確とはいいがたいが、塩田平のほぼ全域にわたることは疑いない。 建武2年(1335)足利氏が村上信貞に「塩田庄十二郷」を与えたと記され(太平記)、天正6年(1578)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「三之御柱小県郡拾二郷」として西松本・東松本・手塚・別所・魔(前)山・五家(加)・柳沢・小島・中野の各郷と下之郷・本郷が列記されているのをみれば、この12は、塩田平のうちのこれらの12集落であったと推定される(ただし11郷しかないのは、山田郷が抜けているからである)。
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 明治2241日(1889)町村制施行の村構成と相関
中塩田村;五加村・本郷・中野村・小島村・保野村・舞田村・八木沢村
東塩田村;下之郷・古安曽村
西塩田村;山田村・野倉村・手塚村・十人村・新町・前山村
別所村;近世以来の別所村(単独で自治体を形成)
西松本・東松本・手塚・別所・魔(前)山・五家(加)
柳沢・小島・中野・下之郷・本郷・山田
柳沢=古安曽
保野・舞田・八木沢・古安曽・野倉・十人村・新町
 塩田庄は、地形的に「塩田盆地」、別称「塩田平」、地元民から見れば「塩田盆地」の北縁、別所温泉・八木沢・舞田・保野まで夫神岳からの裾野・丘陵が塩田と青木を隔てている。そのため、当地に生まれ育った私でさえ、今迄「八木沢・舞田・保野は塩田である」と思っていた。「塩田であって塩田でない」「小泉であってトカゲの尻尾のように西に延びる先端部」、そこに「前田」(舞田)という塩田流福澤氏の「隠れ場」(逃げ場)が「前田」という「戦略的本籍地」なのだ。しかるに、「北条残党狩り」「武田の皆殺し」を逃れ「令和の時代」まで福澤家は存続してこられた。
 上田市誌「室町・戦国時代の争乱」を参考に「塩田福沢氏と福澤家」について考察を深めてきた。上田市誌には前編に「上田の荘園と武士」がある。近々に入手してみよう。
 福沢昌景の「伊予落ち延び説」に・・・・「重要事項」を当てはめる
 福沢氏(昌景)は、この縁(伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係)を頼って伊予へ落ち延びる(塩田城自落は1553)道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉(1536誕生、この時17)に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩奥平家(1570年からのお家に、17年も前に仕官とは)への仕官を仲介した。時系列にしてみると「疑問」を感じる。仕官をしたのは、昌景でなく、その子であれば納得できるが・・・・
 
塩田福沢氏 上田の荘園と武士 上田市誌歴史編
 上田市誌「室町・戦国時代の争乱」を参考に「塩田福沢氏と福澤家」について考察を深めてきた。上田市誌には、その前編に「上田の荘園と武士」がある。購入したので引き続き考察を進めよう。
 小泉庄
 鎌倉時代の荘園で、荘園内にどんな村があったか解る荘園は多くない。上小地方の荘園では、小泉庄だけが郷村を知ることが出来る。鎌倉時代も終りに近い嘉暦4年(1329)、信濃国内の御家人が、諏訪上社の五月会と御射山祭の当番(頭役)をどのように勤めるか記した史料がある。鎌倉幕府の下知によるもので、「信濃史料」第五巻に収録されている「小泉荘」の郷村は、上田原・津井地(築地)・穂屋(保野)・前田(舞田)・岡村(岡)・加畠(神畑)・御子田(仁古田)・室賀の八ヶ所である。現在の集落を()に示し対比出来るようにした。
 元徳元年三月(1329)幕府、諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め、併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す
二番五月會分(抜粋)
 御射山左頭、(小縣郡)塩田庄半分(北條國時)陸奥入道
四番五月會分(抜粋)
 左頭、(小縣郡)小泉庄半分内上田原・津井地・穂屋 薩摩守知行分
十番五月會分(抜粋)
 間郷地頭等、(小縣郡)小泉庄内前田・岡村 泉小二郎知行分
十三番五月會分(抜粋)
右頭、(小縣郡、下同ジ)山家郷地頭等、付小泉庄内加畠・御子田・室賀 海野信濃権守知行分
※薩摩守は姓も名もなく官名だけ、北条氏のひとりかと考えられるも誰かは不詳。
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 小泉庄への理解(其の壱;泉親衡)
 伊那源氏の一族に生まれ、一介の地方豪族から鎌倉幕府の御家人に上り詰めた男がいる。その名は、のちに鎌倉を揺るがす乱(泉親衡の乱)の首謀者(泉親衡)である。
 泉氏は早くから源義朝(源頼朝・範頼・義経の父)と関わり配下として活動していた。しかし平治の乱(1160、平氏政権樹立)で義朝は敗死。泉氏は雌伏の時を経て、源平合戦(1180-1185、平氏の滅亡)が始まると再び源氏に与して戦っています。鎌倉幕府成立(1192)後、親衡は御家人として政権を支えていました。ところが頼朝死後(1199)は権力闘争が激化。北条氏が幕府の権力中枢を掌握(時政、1203-1205)していきます。不満を持った親衡は北条義時(2代執権、1205-1224)を倒すべく挙兵を計画。和田義盛や八田知家の一族からも関与者を出すほどの事件(泉親衡の乱、1213)に発展した。治承2年(1178)、泉親衡は信濃国に本拠を置く武士泉公衡の子として生を受け、幼名あるいは通称は小次郎と称している。泉氏は信濃国の小県郡にある小泉庄を本願地とする一族で、清和源氏の初代棟梁源経基(経基王)の五男満快の曾孫源為公が信濃国伊那郡に土着し伊那源氏の祖となる。その伊奈氏の一族からの分派。泉氏が歴史の表舞台と関わりを持ったのは、河内源氏との出会いによる。親衡の祖父泉快衡は、正室に横山党の小山経隆の娘を迎えている。横山党は、武蔵国多摩郡横山荘を中心に発展した武士団で、源義朝(頼朝の父)の配下になっているので、河内源氏との繋がりがあっても不思議ではない。保元・平治の乱を足がかりに平氏が台頭すると、源氏やその麾下にあった坂東武士団も平家に圧迫され雌伏の時を強いられることになる。しかし、治承4年(1180)、後白河法皇の第三皇子以仁王の挙兵をきっかけに、源頼朝が伊豆国で兵を挙げる。一方、信濃国でも木曽義仲が打倒平家を掲げて立ち上がり、泉氏は同族の井上氏などと共に源氏方として参戦した。地理的状況から、泉氏は当初、木曾義仲に従ったものと考えられるが、寿永2年(1183)には頼朝と義仲の間で対立が勃発。泉氏が頼朝に接近したのは、この前後だと推察される。この後、寿永4紋(1185)の壇ノ浦で、頼朝は平家を滅ぼし、源氏の世が到来。親衡ら泉氏も大きく政治と関わりを持つことになる。
 武家政権が形作られていく過程で、鎌倉の内部対立は深刻になっていきました。平家滅亡後まもなく頼朝と義経の兄弟が対立。頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけて義経を殺させます。さらに弟の範頼に疑いをかけて流罪に処し、のちに誅殺するなど源氏の身内に対して厳しく臨みます。泉氏も源氏出身の武家ですが、頼朝からは決して粗略には扱われていません。建久元年11月(1190)、頼朝の上洛に、付き従った兵には泉親衡の同族と思われる泉八郎が加わっていました。鎌倉殿(鎌倉の支配者)に従う御家人の中で、泉氏は源氏出身ということもあって信頼を得ていたようです。建久3年(1192)、頼朝は征夷大将軍に就任。公的に鎌倉に幕府を開くことが許され、泉氏も頼朝の下で幕府御家人として源氏の血筋から幕府の中枢近くで活躍したことでしょう。しかし、建久10年(1199)に頼朝は突如病没してしまいます。まだ若い源頼家が第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承したことで、これを補佐すべく北条氏ら宿老たちによる十三人の合議制で運営されることになるのです。
 宿老たちによる鎌倉幕府の内部の主導権争いが始まり鎌倉殿をも巻き込んでいきます。正治2年(1200)には、御家人66名が宿老の梶原景時を訴追。失脚した梶原は京を目指すも、途中で一族もろとも討たれてしまいます。さらに建仁3年(1203)には、宿老比企能員(比企能員の変、1203)が北条時政らに殺害されています。このとき頼家の子一幡も巻き添えになって死亡したため、頼家は激怒して御家人たちに北条氏討伐を命じますが、応じる人間はおらず。逆に翌元久元年(1204)に伊豆国修善寺に追放され、ほどなくして北条氏の放った刺客によって命を奪われています。新体制は源実朝が三代鎌倉殿となり、北条時政が執権として政権の中枢を掌握。しかし、今後は北条氏の内部でも軋轢が生じていきます。元久2年(1205)、北条時政の娘婿平賀朝雅が畠山重保(重忠の子、時政の外孫)を讒訴。これを受けた時政は畠山重忠ら一族を滅ぼすと、さらに源氏の血筋である平賀朝雅を新しい鎌倉殿として擁立しようと画策します。しかし時政の子北条義時と政子がこれに反対して時政を伊豆国へ追放しました。ところがまだ政治闘争は終わりません。泉親衡は現状に不満を持ち、新しい局面を描いていました。
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 ところで泉親衡は鎌倉において、どんな立ち位置にあったのでしょうか。親衡は相模国に広大な居館(中和田城)を持っていました。敷地は南北400m、東西200mに及びます。居館では戦における守りも考慮され、土塁や空堀も構築されたつくりになっていました。泉氏の本貫地は信濃国小県郡です。居館は鎌倉に出仕するために建築されたと考えられます。周辺地域には、京都祇園社から牛頭天王を勧請して須賀神社を建立。信仰していた長福寺も建てられていました。雨乞いに使った池も現在に残っており、親衡が生活の拠点として暮らしていたことを窺わせます。居館の存在から、親衡らが豊富な財力を持っていたことが確実です。鎌倉幕府からも広大な居館を建築する許可を得ていたでしょうから、厚遇されていたことがわかります。
 泉親衡は北条氏による権力掌握を苦々しく思っていたのでしょう。北条義時打倒を計画していました。建暦3年(1213)、僧侶阿静坊安念が御家人千葉成胤に北条義時らの殺害打倒計画を打ち明けます。安念の兄は、泉親衡の郎党青栗七郎でした。千葉成胤は安念を捕縛して身柄を義時に引き渡します。そこで安念の口から語られたのは、恐るべき計画でした。泉親衡は源頼家の遺児・千寿丸を旗頭に掲げて挙兵、北条義時を打倒することを考えており、協力者は300人以上に上っていたのです。計画には宿老・和田義盛の息子や八田知家の甥も関与していました。いずれも北条氏によって捕縛されます。後々、この事件が和田義盛が挙兵に追い込まれる和田合戦の遠因になるなど与えた影響は甚大でした。親衡は鎌倉の違橋に潜伏していたものの発覚。追捕の兵と戦闘を繰り広げてそのまま逃走、行方不明となりました。この一連の出来事が「泉親衡の乱」(建暦3年/1213)です。このとき、鎌倉幕府内部では源氏の血筋が脅かされていました。北条氏による政権掌握が続くことで、泉氏ら源氏の一族が排斥されるという危機感もあったものと考えられます。乱後、親衡は武蔵国に千寿丸と共に落ち延びたようです。程なく静海と名乗って余生を過ごしたと伝わります。文永2年(1265)に同地で病没。享年八十八。墓所は瑤光山最明寺にあります。泉親衡の末裔を名乗る泉氏は信濃国で存続していました。戦国時代、泉弥七郎こと尾崎重歳(水内郡飯山城主;1494-1572)の娘蘭子は樋口兼豊(直江兼続の父)に嫁ぎ、一説には直江兼続の母とされています。
 塩田から鎌倉への道
 NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役である北条義時(2代執権、1205-1224)、その孫である「北条義政」が政界を引退して塩田に移住した。北条義政は引退したものの、鎌倉との縁が切れたわけではなく、その子の国時、孫の俊時は、幕府の今でいう裁判官や大臣を務めていました。幕府でのお勤めで塩田にいる時間はあまりなかったのでしょう。それに代わる「代官」などが地元での仕事をしていたようです。いずれにしても、塩田と鎌倉の行き来は頻繁にあったと考えられます。また、塩田には安楽寺や前山寺など全国から僧が集まる「信州の学海」と呼ばれるようなところだったので、首都の鎌倉からお坊さんたちもたくさん塩田に来ていたでしょう。
 東塩田の東前山に「竹之内」という地籍があって、どうもそのあたりに塩田北条氏の館があったと想定されています。そこから東の方に、鎌倉に通う道「鎌倉道」があったようです。竹之内から東の方に道はのびて、今の手洗池の中を通り、というと池の中に道があったと思われそうなので注釈しておくと、塩田のため池の多くは江戸時代に築造されたり増築されたので、それ以前は、鎌倉時代にあったとしても小さなものだったのです。で、手洗池を通り、安曽神社や来光寺池、砂原池のあたりを経て「丸子」との境にある砂原峠に至ります。
 そこから先鎌倉までは、丸子から碓井峠(茂田井宿旧中山道)を越え、関東に出て上野・武蔵と南下する道と、もう一つ(旧中山道和田宿経由)、諏訪と甲斐経由(武田氏の信濃侵攻、信玄道)で鎌倉に行く道も考えられるようです。北条義政が塩田に来たのが1277年。その後、3代にわたり鎌倉と行き来したのですが、足利高氏(尊氏)などと呼応して兵を挙げた新田義貞に鎌倉の北条氏は敗れてしまいます。国時、俊時一族も同様で、鎌倉において討ち死。それが「東勝寺合戦」(1333)なので、塩田北条氏が塩田を治めていたのは60年弱。国時が開いた龍光院や西光寺、安楽寺の八角三重塔もそうかもしれませんし、前山寺の開山にも関わったかもしれない。今も残る文化財をいくつも残してくれた一族だったのです。
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 塩田城の城下町(上田市前山)
 塩田城の城下町は東前山の集落にあり、文化・経済等の中心地となり大変栄えていた。城下町は塩田北条氏がこの地を去った後、塩田城とともに村上氏や、その代官であった福沢氏などにより、次第に形づくられていったと考えられる。この城下町は塩田城の北側の緩斜面一帯に広がっていて、南北700m、東西210mに及ぶ古い町割りをもつ、上町・本町・立町・横町などには、侍屋敷が立ち並んだり市場の賑わう規模の広い城下町であったことが調査・研究によっても明らかにされている。城下町に侍屋敷があったと推定される場所は、城跡の北側に造られた内堀(あじさい広場から龍光院山門へと抜ける道路の南側)の北側から下木戸(黄色に塗られた道路、県道82別所-丸子線と交わる地点)に城下町中央を一直線に下る道路沿い上町・本町・立町であろうと考えられる。上町は220mほどで、道の左右に井戸を持つ広い削平地が幾つも残っている。家臣たちの住居であろうと推定される。それより下る本町・立町は合せて240間(430m)は、凡そ60間(108m)毎に地割りをし東西に小路を通し、その60間をさらに30間毎に小割をする珍しい姿が推考(立町の道筋では城下町の面影を残す)できる。これより推定すると、上町・本町・立町には少なくとも100戸を超える侍屋敷あったであろう。
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