塩田平の歴史 |
- 塩田荘と塩田城(北条氏・福沢氏)・小泉荘と福澤家 - |
日本の荘園 |
古代から中世(8-16世紀)にかけて日本全国(沖縄県・北海道は除く)に点在した「権門」(中央の貴族・公家・武家の棟梁)や「大寺社」等が収入を得るために領有支配した農地とその周辺の山野を含む土地のこと。 |
信濃国の荘園(小県の荘園) |
信濃国の小県郡は、①「浦野荘」(日吉社領、上田市浦野と小県郡青木村全域)、②「塩田荘」(最勝光院領、上田市西南部の塩田平一帯)、③「小泉荘」(一条大納言領 上田市西北部の千曲川左岸一帯)、④「常田荘」(八条院領、上田市中央部)、⑤「海野荘」(殿下御領、上田市東部の神川以東と東御市の一帯)、⑥「依田荘」(前斎院御領、上田市上田市の丸子・武石両地域(同市塩川を除く)と小県郡長和町全域)、⑦「上田荘(上田市国分・神科台地一帯)であった。 |
塩田荘 |
平安時代に国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され承安4年(1174)に最勝光院領塩田荘が成立した。治承寿永の乱(源平合戦)における横田河原の戦いでは荘官の塩田八郎高光(中塩田)が木曾義仲に参陣した。最勝光院が焼失すると嘉禄2年(1226)に教王護国寺(東寺)領となる。『東寺最勝光院領目録』によれば、当荘からは年貢白布1060段、公事として年中行事の3月御月忌と7月御八講の際の綾被物各一重、11月の兵士役10人が規定であった。 鎌倉時代には、幕府により文治2年(1186)に島津忠久が地頭に補任されるが、比企能員の変に連座し、北条氏の所領となった。北条義政に始まる塩田流北条氏が塩田城を居城とし、鎌倉仏教や禅宗文化が栄えたことで「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と呼ばれようになった。正中2年(1325)には北条国時が地頭となっている(『守矢文書』)。 室町時代には、足利尊氏に属して新田義貞と交戦した村上信貞に安堵されたが、天文22年(1553)、村上義清を破った武田氏の支配地となった(『高白斎記』)。その後は天正壬午の乱後の天正11年(1583)に小県郡を統一した真田昌幸の所領となり、江戸時代には「塩田三万石」と称される上田藩の穀倉地帯となった。 |
塩田荘12郷 (舞田は塩田荘でない) |
荘域は上田市の南西、通称塩田平全域。南に独鈷山塊、西に夫神岳・女神岳、東に東山、北に横山丘陵に囲まれた東西2km、南北1kmにわたる平坦部に立地し、産川・湯川・尾根川などの千曲川支流が北東へ流れる。 塩田庄の初見は「吉記」承安4年8月16日(1174)条の「別当申信濃国塩田郷年貢、可進千段事、仰、可進寄文」である。その頃の範囲は必ずしも明確とはいいがたいが、塩田平のほぼ全域にわたることは疑いない。 建武2年(1335)足利氏が村上信貞に「塩田庄十二郷」を与えたと記され(太平記)、天正6年(1578)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「三之御柱小県郡拾二郷」として西松本・東松本・手塚・別所・魔(前)山・五家(加)・柳沢・小島・中野の各郷と下之郷・本郷が列記されているのをみれば、この12郷は、塩田平のうちのこれらの12集落であったと推定される(ただし11郷しかないのは、山田郷が抜けているからである)。 |
明治22年4月1日(1889)町村制施行の村構成と相関 | |
中塩田村;五加村・本郷・中野村・小島村・保野村・舞田村・八木沢村 東塩田村;下之郷・古安曽村 西塩田村;山田村・野倉村・手塚村・十人村・新町・前山村 別所村;近世以来の別所村(単独で自治体を形成) |
西松本・東松本・手塚・別所・魔(前)山・五家(加) 柳沢・小島・中野・下之郷・本郷・山田 |
柳沢=古安曽 | |
保野・舞田・八木沢・古安曽・野倉・十人村・新町 | |
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東塩田村の村史 |
明治7年(1874)、 奈良尾村・町屋村が合併して富士山村 明治22年4月1日(1889)、富士山村が単独で自治体を形成 昭和24年9月1日(1949)、東塩田村・富士山村が合併し改めて東塩田村が発足 |
東松本村は、奈良尾・町屋・中村・源方等の集落に分れ、西松本村は、平井寺村と西松本村を前身とする。 |
東松本郷(のちの東松本村→町屋村と奈良尾村→富士山村、現在の富士山)、西松本村は戦国時代に見える「西松本郷」を前身とし、東松本郷とは元々「松本郷」という一つの郷であった。 |
西松本村は戦国時代に見える「西松本郷」を前身とし、東松本郷とは元々「松本郷」という一つの郷であった。 江戸時代、寛永2年に西松本村が鈴子村・石神村・柳沢村の3村に分割された。 明治8年(1875)、 石神村・鈴子村・平井寺村・柳沢村が合併して古安曽村となる。 明治22年4月1日(1889)、町村制の施行により、下之郷・古安曽村の区域をもって東塩田村が発足。旧村域は東塩田村大字古安曽となる。 昭和24年9月1日(1949)、東塩田村・富士山村が合併し、改めて東塩田村が発足。 昭和31年5月1日 (1956)、東塩田村が西塩田村・別所村・中塩田村と合併して塩田町が発足。塩田町大字古安曽となる。 昭和45年4月1日 (1970)、塩田町が上田市に編入。上田市大字古安曽となる。 平成18年3月6日 (2006)、上田市・真田町・武石村と合併し、上田市古安曽となる。 |
安宗郷 |
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「安宗」と記し、高山寺本に「阿曾」、流布本は「安曾」と訓じている。「あそ」と称したことは疑いない。「信濃地名考」は「安曾郷廃して今本郷上下下郷三村あり、是れ則ち其地成べし、かの南にあそ岡の地あれば也」とし、「日本地理志料」はこの説を受けて「按図亘五加・十人・小島・保野・舞田・中野・八木沢・別所・山田・手塚・新町ノ諸邑、蓋其地也」とし、「大日本地名辞書」は「今、東塩田村・西塩田村・別所村、及び富士山村等」に当る。(日本地理志料≠大日本地名辞書、小泉荘が入り理解に苦しむ) 塩田の地は大和朝廷時代から平安時代は「安宗郷」と呼ばれていました。信濃国の国造に任命された阿蘇の国からやってきた阿蘇氏一族がこの地に住んだからついた名とも言われています。 |
小泉荘 (舞田は小泉荘である) |
古代東山道の通過点にある、『和名類聚抄』(承平年間/931-938)の「福田郷」にほぼ一致する。『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では一条大納言領、領家はその子である法勝寺執行尊長であった。 地頭の泉親衡は建暦3年(1213)、泉親衡の乱を起こして執権北条氏に反旗を翻したが鎮圧され小泉荘は北条泰時が没収した。『吾妻鏡』延応元年7月15日(1239)条で、泰時は荘内の室賀郷の水田6町6段を不断念仏料所として善光寺に寄進した。念仏衆12人も定め、6町は念仏僧侶の給免、6段は仏性灯油の料田である。 嘉暦4年(1328)の「諏訪大社造営目録案」では、荘内の前田(舞田)、岡を泉小二郎、加畠(神畑)、室賀、神子田(仁古田)を海野信濃権守(海野氏)、上田原、津井地(築地)、保野を工藤薩摩守(薩摩氏)が分割知行し、諏訪大社への神役を勤仕している。南北朝時代初期には足利尊氏の所領となり(『比志島文書』)、元弘3年(1333)家臣の安保光泰(武蔵安保氏)に室賀郷が安堵されている。戦国時代以降は武田氏の支配地となり<荘園は解体され天文22年(1553)小泉氏に所領が安堵されるも居城の小泉城は破却されている。 |
※「中塩田村」で検索;現在の上田市舞田、北は仁古田・保野、東は中野、南は手塚、西は八木沢に接する。川西丘陵の南麓、湯川左岸の河岸段丘上に集落が形成。小県郡舞田村を前身とし、古くは小泉郷の前田。江戸時代は上田藩領で、明治維新後、上田県を経て長野県に所属。中塩田村・塩田村を経て上田市の大字となる。 |
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信濃国小県郡福田郷 |
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「福田」と記し、訓を欠くが「ふくた」と称していたものであろう。現上田市の西南部、浦野川と湯川の合流点流域の平坦地に福田という集落がある。「日本地理志料」ではこの福田を中心とし、神畑・吉田・小泉・上田原・築地・中之条・下之条・御所・諏訪形・小牧の諸邑(いろいろな集住地)をその地とする。「大日本地名辞書」は「今福田あり、小泉と併せ泉田村と云う此歟。されば、往昔浦野・室賀をも此郷内と見るべきごとし」と記す。「小県郡年表」は「東は上田原・保野よりして西は殿戸に至り、南は別所・野倉より塩田川を限りしなるべし」と述べ、「小県郡史」は、「福田を本拠として地勢上浦野川流域地方に当り、現今の川辺の西部、泉田・浦野・青木に及べるものの如し」という。 |
「和名抄」(和名類聚抄) 郷名一覧 |
「和名類聚抄」は、平安時代の承平年間(931-938)頃に作成された百科事典兼国語辞典。物事を表す漢字とその説明・読みが併記されているため、10世紀ごろの和訓を知るのに重要な資料となっている。巻数が十巻のものと二十巻のものがあり、構成が大きく異なっている。特に二十巻本には9世紀頃の律令制における国・郡・郷が網羅的に記載されており、地名学における基本史料となっている。信濃国(10郡)小県郡には7郷があった。童女(海野庄の前身)・山家(真田辺り)・須波(上田市西部の諏訪・常盤城辺り)・跡部(東部町田中・祢津・福田郷・川西・青木辺り)・安宗(塩田)・福田(小泉庄の前身)・海部(依田・丸子の辺り)・余戸(和田・長門・武・長久保辺り)は海部郷の一部であった。 |
古代、九州阿蘇山麓にいた人々が、大和平野(奈良県)に移住し、大和朝廷をつくるため、大きな力となった。この人たちは多氏と呼ばれ、その系統が信濃国造として古代の信濃国に赴任してきたと考えられている。(小県郡という名も、その系統の人の名からつけられたものである)信濃国造といえば現代の県知事に当る職だが、その人たちが信濃に落ち着いた場所が小県郡塩田地方であった。そこで九州の故郷の名をつけて、この地方を「あその郷」といったと推論される。この多氏(日本最古の皇別氏族)たちは、九州からやってきて、まず大和平野の中心部に落ちつき、そこに多(日本古代に活躍した氏族)という集落をつくった。ここには今も多神社というりっぱなお宮が残っている。いわば塩田や小県にとっては、祖先の地ともいうべき社である。 |
元徳元年三月(1329)幕府、諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め、併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す |
是月、幕府、諏訪社上社五月会御射山頭役等ノ結番ヲ定メ、併セテ同社造営所役ヲ信濃諸郷ニ課ス、 御射山左頭、小県郡塩田庄半分陸奥入道(北條國時)、 番五月会分 左頭、小県郡小泉庄半分内上田原・津井地・穂屋薩摩守知行分、 □十番五月会分 右頭、小県郡、下同ジ山家郷地頭等、付小泉庄内加畠・御子田・室賀海野信濃權守知行分、 二之御柱 小県小泉庄六十五斛 三之御柱 小県塩田庄五十五斛 |
また暦応3年8月22日(1340)安保光泰が子泰規に当荘室賀郷(但庶子分あり)を譲り、それに対し高師冬が証判を与えている。なお,年月日未詳の足利尊氏・同直義所領目録には足利尊氏の所領として「信乃国小泉庄」が見える。下って、「高白斎記」によれば、天文22年8月5日(1553)、塩田城をおとした武田晴信は「十一日、室賀・同小泉ノ所帯ノ御判形被下候、小泉ノ城破却御祝着ノ由被仰出候」と小泉氏に所領を安堵している。 |
天正6年(1578)の上諏訪造宮清書帳には「二之御柱、小県之郡」として「小泉郷四貫五百文代官二惣左衛門」を筆頭に13ヶ郷が並記されているが、そのうち室賀之郷・岡村之郷・仁古田之郷・上田原之郷・上畠之郷などはかつて当荘内の一郷であり、戦国末期には当荘は実態を失っていた。 |
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天正7年12月26日(1579)の小泉昌宗契状によれば、「小泉之庄内」の住民の宿坊を高野山蓮華定院としている。天正七年一二月二六日(1579)小県郡小泉昌宗、紀伊高野山蓮華定院を、同郡小泉庄内住民の宿坊と定む、 武田氏によって破却された小泉城は、小泉字城山の上の城とその尾根突端800mの字朝日山と西の入沢境の下の城とから成る山城と、またその居館については正徳5年(1715)の町小泉村貫高帳に見える「古屋敷」辺りと推定されている。 |
その後「舞田」について検索結果 |
・天平13年(741)この頃小県郡との名前があり、8つの郷で八木沢・舞田・保野等は福田郷の仲間であった。 |
・文治2年頃(1186)に、福田郷は小泉庄といわれ、八木沢郷もその中にあったと思われる。 |
・天正6年(1578)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)の塩田12郷には舞田はみえないが、 |
・慶長9年(1604)真田氏の「大鋒院殿御事蹟稿」には塩田18ヶ村の末尾に舞田があり、 |
・また同13年(1608)の上田領最初の貫高帳に「七〇貫文、舞田」とある。 |
従って、天正6年(1578)から慶長9年(1604)の26年の間で舞田は小泉荘から塩田荘に移されたことになる。 |
塩田平の歴史 |
「塩田」という名が、初めて史料の上に出てくるのは、平安時代の末期、承安4年(1174)だから、今から、850年前のこととなる。そのころ朝廷〈高倉天皇/平清盛〉の重臣の一人に、藤原経房〈1142-1200〉という人がいた。この人は、おわりには大納言という高い位につくほどの人であったが、生前こまめに日記をつけていた。その日記のうち一部分(約18年分)が残っていて、『吉記』と呼ばれ、日本史研究の上からは、大へん重要な史料となっている。 |
その『吉記』の承安四年のところをみると、大略次のような記事が書かれている。 |
八月十三日に、後白河院(後白河法皇の御所、当時は院政時代で後白河法皇が実権を握っていた)に参り、東寺の最勝光院から依頼されていた信濃の庄園のことについて言上した。そして院の思召しによって十六日にもう一度参上し、『東寺が、信濃国塩田庄の年貢を布で千反進上したい』といっていると申上げたところ、その趣きを実現するように、というお言葉を載いた。 |
この記録によって、塩田庄は当時最勝光院という院の領地で、東寺(真言宗の総本山)の勢力下にあったことがわかる。最勝光院というのは、後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺である。そのとき後白河法皇はじめ多くの貴族が、この寺のため三十数ヶ所もの荘園を寄進したが、その中に信濃塩田庄があった。そして最勝光院の別当(世話役)は、東寺が当っていたから、塩田庄は実際には東寺の支配下になっていたわけだ。 |
最勝光院は、時の最高権力者である後白河法皇や平清盛をバックとして創立されたものだけに、「その結構宏麗をきわめ、落成の慶讃会には、天皇・法皇の行幸啓があった」といわれるくらいの寺であったから、ここに寄進された荘園も全国的にみて、富裕で由緒あるところが多かった。塩田庄は、信濃からえらばれたただ一つの荘園であったことをみても、当時中央にあっては、かなり高く評価される土地柄であったと考えねばならない。そのためか塩田庄は年貢千段を貢進することとなっていた。かりにこの1段=1反を、奈良時代にきめられた調布1反とすれば、長さ8.5m、巾57cmの麻布を1,000反という莫大な量に調製して貢納していたわけである。 塩田庄がなぜこのように高く評価されたかというと、実はこの地域が古くから信濃にとっては、政治的にも経済的にも極めて重要な場所であったからにほかならない。塩田庄は、その昔、少なくとも今から一千年前は、安宗郷(阿曽郷)といっていたことが、『和名抄』という朝廷が編纂した書物に載っている。この「安宗」という名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(東前山・柳沢両区)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名であることも考証されているのである。 |
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今から1300-1400年の昔、日本という国の骨組みがやっと出来上がりつつある頃、当時文化の先進地であった九州から沢山の氏族が大和平野に移り住み、大和朝廷の国造りに参画し功績をあげた。その中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がある。この氏族は『古事記』によると神八井耳命を始祖とし、意富臣・小子部連・阿蘇君などと分れ、科野国(信濃国の古名)の他数ヶ国の国造(=県知事)に任命されたと記されている。 信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したのだろう。信濃古代史の研究家の説で、その根拠は塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などの「アソ」と称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存すること、(国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例)一族の小子部氏の名が小県(小子部の県)として残っていること等による。旧安宗郷内には科野国造が勧請したものと推察される「生島足島神社」(上田市下之郷)付近が科野国造の治所に比定されている。 |
大和政権は、日本全土を支配下に固めて行く時点で各国に国府をおき、そこに今迄の国造にかわって国守(信濃守・越後守等)を任命して中央集権の実をあげた。信濃国の国府は、今の上田市内に置かれていた事はまず疑う余地がない。信濃国分寺が現に此処に所在しているからである。国府の所在地を上田市内に定めたことは、その前代の科野(信濃)の国造所在地が塩田平にあったことと深い関係があると想定される。古代のこのような歴史的背景を考えると、平安末期に成立した「塩田庄」という荘園は、政治的にも経済的にも信濃では極めて重い意味をもつことになってくる。それが、信濃でただ一カ所最勝光院領として撰ばれた光栄を担うことになった理由の一つであろう。平安終期、中央政権を支えていた平家の勢力を打倒しようと先ず旗を上げたのが源頼朝と源義仲の二人であった。従兄弟であるこの二人は、ほとんど同時(治承4年/1180)に挙兵したが、頼朝は流所であった伊豆を根拠としたのに対し、義仲は隠れていた木曽谷を出て遥か東信濃の地を根拠地としている。そしてその地は塩田平の東境に当る依田城であったということも、塩田平に大きな意味を見出してのことと考えられる。義仲は木曽で育っていたため木曽義仲と名乗っていたが、彼が集めた兵力は東信濃と西上州の武士を中心とするのは多くの史書が立証するところである。彼はこの兵力を精鋭な軍団に組織し、千曲川筋を下り北陸道を通って京都に向った。途中必死になって阻止しようとする多数の平家軍を幾度かにわたって撃破し、怒濤のように進撃する軍勢をみて、人は「旭将軍」の名を奉って畏敬した。この戦列に塩田平をはじめ、東信濃の多くの地域の武人が加わっていたことを忘れてはならない。義仲は、上京して平家撃退の志は達したが、頼朝や後白河法皇に排除されて、形勢日日に非となり、結局栗津ガ原で戦死してしまう。そのあとをうけた頼朝は、弟の義経・範頼とともに平家を滅亡させ、幕府を鎌倉に創めて、武家政治を開始した。これからが所謂「鎌倉時代」である。 |
頼朝が第一に着手したのは、全国枢要の地に腹心の地頭をおき、幕府の直接の指揮が及ぶようにすることであった。その枢要の地として信濃で、まず撰ばれた土地の一つが、この塩田平である。文治元年12月(1185)、彼は全国惣地頭に補せられると、直ちに翌文治2年の正月、信濃国小県郡塩田庄に地頭を任命している。任命されたのは、彼の信頼が最もあつかった惟宗忠久(島津忠久)であった。このときの地頭補任状は、信濃における確実な地頭補任状としては、最初のものであり、全国的にみても最も早いものであり、塩田地方をいかに頼朝が重視していたか想像できよう。鎌倉幕府における源氏の政権は三代にして終った。これにかわったのが北条氏である。北条氏も頼朝と同じように信濃国をたいへん重要視したことは、信濃国守護として、北条氏で宗家につぐくらいの家柄である北条重時およびその家流をもつことより想察できる。その北条重時が信濃国の守護に任命されたころから、この塩田平は、「信州の学海」という名によって信州一円に鳴り渡るようになる。信州の生んだ鎌倉時代の名僧無関普門という人の行跡の記録をみると、この方が幼時塩田平に学んだことを記して、「塩田は信州の学海といわれているところで、勉強に志すものは、みなここにやってきた」(嘉禄元年/1225)。また、これから25年位経ったと推定される頃、別所に安楽寺(禅宗)が創建された。開山は樵谷惟仙という高僧で、鎌倉の建長寺(鎌倉第一の名刹)の開山であった蘭渓道隆という名僧と中国で一緒に学んだ親友の間柄であった。この高僧が別所安楽寺の開山となったことより、塩田の存在が高く評価されたと物語っている。この安楽寺が信州では飛びぬけて早く出来た禅宗寺院で、当時塩田平が文字通り信州教学の殿堂であったことを示唆する。 |
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建治3年(1277)北条氏の一門で、時の幕府の連署(副総理)という重職にあった義政が、引退して信州に入り塩田に館を構えるのである。義政は、当時の信濃守護北条義宗の叔父であり、執権(総理)北条時宗を補佐して文永11年の蒙古襲来という「国難」を切り抜けた人だ。この重臣が何故このとき引退を決意したかについては諸説があって定かではない。かつては、流謫(島流し)されたといわれていたが、そうではなく進んでこの地に入ったと最近塩田北条氏についての研究で明らかにされてきた。しかし何故この地を永住の地として撰んだか未だ明確な答は出ていない。周知のように、北条氏はその一門から名越・赤橋・常葉・塩田・金沢・大仏などいくつかの支族が出て、それぞれ幕府に近い枢要の地を根拠としている。しかるに塩田北条氏のみが、遠く信濃塩田の地に根拠をもとめ、しかもこの地に3代60余年いて、幕府滅亡まで宗家に忠誠を尽しているのは何故か。 |
おそらくそれは塩田の地が幕府にとって極めて重要な意味を持つところであり、ここが「信州の学海」と言われるように、信濃における政治・文化・宗教の一大中心であったことが義政をしてここに本拠を定めさせた基本的な理由になったと言えよう。それならば、どうして塩田平がそのような土地になっていたかといえば、おそらく鎌倉時代に入って信濃の守護がまずこの地に置かれたからではとの推考が生まれる。確実な史料によれば、信濃守護ということばが最初に出てくるのは、嘉禄3年(1227)『明月記』の記事で、その時の守護は北条重時である。しかし重時の父義時が信濃守護となっていたことを証明する史料もあるので、おそらく北条氏は、信濃の重要性にかんがみ、はじめから宗家の義時およびその子孫に、直接守護の役に任せさせていたものであろう。 |
父重時(義時の子)が信濃守護となった頃、塩田は信濃の政治・文化の一大中心であったことは前に述べたが、それは北条義時(2代執権)の頃から既に塩田に守護所が置かれていたことによるものと推定される。そしてその場所は塩田地方の南に聳える独鈷山の山麓の東前山区にある塩田城辺りと同博士は指摘した。この地には東西3hr、南北2hrにわたる広大な城館跡があり、信濃最大の城館跡と考えられるところから、「おそらく鎌倉時代における信濃守護所跡で、南北朝以後ひきつづき村上氏の最も有力な前進基地として用いられたもの」と同氏は報告書に記している。 |
昭和43年から3年にわたってこの城跡の一部を発掘したが、そこからは主として南北朝以後の遣物が検出された。しかし、この地にはなお広大な地域にわたって中世館跡と覚しき地形、地名等が分布しかつ北条氏の祈願寺という前山寺、同じく北条氏の菩提寺という龍光院なども存在するので、守護所が設置された可能性は極めて大きいと考えられている。 |
北条氏→福沢氏 クローズアップされる福沢氏 |
塩田北条氏は、ここを本拠とすること3代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じた。その後この塩田地方は、東信の雄族村上氏(本拠地は埴科坂城の葛尾城にあった)の領有するところとなり、塩田城はその前進基地として、村上氏の代官福沢氏が守ったと考えられる。確かな史料としては、室町前期の文安5年(1448)から福沢氏がここに在城したことを示す文書(諏訪社上社御射山祭、小県郡塩田郷等、その頭役を勤む/福澤入道像何)があり、(「諏訪御符礼之古書」)以降天文22年(1553)武田信玄の攻撃をうけて落城するまで村上氏の有力な根拠地であった。信玄は天文10年(1541)小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのである。塩田城に拠った村上氏の抵抗がいかに大きかったかをよく物語るものであると同時に、塩田平の戦略的な重要性を如実に示すものといわねばならない。 鎌倉時代、北条氏3代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、「室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一」として記録されているのである。 |
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