編集旅行Ⅰ ;「奥の細道」(別離)直後の考察
「秋の風」考
 完全引退をしたので、月一の仙台出張がなくなり「旅の未知草」もなくなった。「奥の細道」(北陸補遺)を計画していたら、とんでもないと「妻ストップ」がかかってしまった。「別離遺構にみる曾良の足取り」を訪ねる企画だったので、「編集旅行」(Editorial trip)に切り替えることにした。※【目的地】は未訪問地
 【親不知】(四世代の夜明け) 所在地;新潟県糸魚川市
 第一世代目は波打ち際を歩く危険な道  第二世代目は断崖を切削等の市振-天嶮親不知線
 第三世代目は天険トンネルを通る国道8号線  第四世代目は海上に高架を通す等の北陸自動車道
 「奥の細道」碑撮り旅・・・・という紀行写真集をまとめた。巻頭文に「叶うことなら、北陸路・大垣の第3回目に“芭蕉終焉の地”まで足を伸ばしてみたいです。」と括っている。「大動脈乖離」を発症、運よく一命を取り留めるも後遺症の脳梗塞で左下1/4を視野欠損。そして「後期高齢者」の仲間入り。「旅立ち」に際し一抹の不安も無いと言ったら嘘になる。そんな状態での「妻ストップ」は「急ブレーキ」に他なりません。 
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 【編集旅行への旅立ち
 「おくのほそ道」(山中)で劇的な「別離」・・・・翁は以下のように綴られている
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行/\てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露

能順画像(小松天満宮蔵)
江戸前期の連歌師
小松桟天神社別当
 一方、曾良の「随行日記」・・・・以下のように(何も起こらなかったかの如く)書き留められている
・四日
 朝、雨止。巳ノ刻、又降 而止。夜ニ入、降ル。
・五日
 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷(那谷寺)へ趣。明日、於ニ小松(小松)ニ一、生駒万子(俳諧師)為出会也。従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍(大聖寺)ニ趣。全昌寺(全昌寺)へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。
 「おくのほそ道」(別離)以降にみる曾良の足取り;大凡の見当はついているが自らの足で辿りたい。
 【佐潟公園】(芭蕉句碑) 所在地;新潟県新潟市
 
 「あかあかと日はつれなくも秋の風」、「おくのほそ道」(金沢-小松)旅中「途中吟」とされているが異説あり。その一つ、句碑説明に「松尾芭蕉が赤塚の旅籠を訪れ俳句を詠んだと伝えられています。もとからここにあったものを、一度赤塚の集落外(北国街道赤塚宿)に置き、再びもとのこの場所に移しかえました。芭蕉が訪れた後も、美濃派の弟子が赤塚で俳句を詠んでいます。
  中央 「あかあかと日はつれなくも秋の風」 江戸末期 芭蕉の句
  右側 「夢の世や蝶にもならで身の終わり」 明治末期 飯田鶴友の辞世の句
  左側 「矢の如き月日の夢の昼寝かな」   昭和
8年 飯田誠雄の辞世の句
 「途中吟」を信ずれば、金沢・小松間ということになるが異説がある。一句は忍び寄る秋を「目にはさやかに見えねども」感じ取っている季節の変わり目を描く。背後に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今集)藤原敏行がある。「つれなくも」は、さりげなくとかそ知らぬさまの意。
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 【おくのほそ道】(金沢-全昌寺)
金沢
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有、それが旅宿を倶にす。一笑と云者は、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は
秋の風
   ある草庵にいざなはれて
  秋凉し手毎にむけや瓜茄子
   途中吟
  あかあかと日は難面も
あきの風
多太神社
   小松と云所にて
  しほらしき名や小松吹萩すゝき
此所、太田の神社に詣。実盛が甲、錦の切あり。住昔、源氏に属せしとき、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁紀にみえたり。
  むざんやな甲の下のきりぎりす
那谷
山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智、谷汲の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
  石山の石より白し
秋の風
山中
温泉に浴す。其功有明に次と云。
  山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
別離
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行/\てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露
全昌寺
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
  終宵秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞つゝ衆寮に臥ば、明ぼのの空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、
  庭掃て出ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。                            
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 【曾良随行日記】(金沢-全昌寺)
・七月十五日
 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。京や吉兵衛(浅野川中島大橋付近)ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
・十六日
 快晴。巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀(片町で旅籠宮竹屋を営む俳人)ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方(犀川大橋付近)へ移ル。段々各来ル。謁ス。
・十七日
 快晴。翁、源意庵(北枝宅)へ遊。予、病気故、不レ随。今夜、丑ノ比ヨリ雨強降テ、暁止。
・十八日
 快晴。
・十九日
 快晴。各来。
・廿日
 快晴。庵ニテ一泉饗(犀川岸辺にある斉藤一泉の松幻庵にて句会)。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。
・廿一日
 快晴。高徹(医者)ニ逢、薬ヲ乞。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。十徳二ツ。十六四。
・廿二日
 快晴。高徹見廻。亦、薬請。此日、一笑追善会(願念寺)、於寺興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達 而帰。亭主丿松。
・廿三日
 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、不レ行。江戸へノ状認。鯉市・田平・川源等へ也。徹ヨリ薬請。以上六貼也。今宵、牧童・紅爾等願滞留。
・廿四日
 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上尅、小松ニ着。竹意同道故、近江やト云ニ宿ス。北枝随レ之。夜中、雨降ル。
・廿五日
 快晴。欲ニ小松立一、所衆聞而以ニ北枝一留。立枩寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デヽ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有レ会。終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。
・廿六日
 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生へ方へ被レ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終 而帰ル。庚申也。
・廿七日
 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予・北枝随レ之。
 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
・廿八日
 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜ニ入、雨降ル。
・廿九日
 快晴。道明淵、予、不レ往。                                  
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・晦日
 快晴。道明が淵。
・八月朔日
 快晴。黒谷橋へ行。
・二日
 快晴。
・三日
 雨折々降。及レ暮、晴。山中故、月不レ得ニ見一。夜中、降ル。
・四日
 朝、雨止。巳ノ刻、又降 而止。夜ニ入、降ル。
・五日
 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷(
那谷寺)へ趣。明日、於ニ小松ニ一、生駒万子(俳諧師)為出会也。 従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍(大聖寺)ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。
・六日
 雨降。滞留。未ノ刻、止。菅生石(敷地ト云)天神(菅生石部神社)拝。将監湛照、了山。
・七日
 快晴。辰ノ中刻、全昌寺(
全昌寺)ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレより右ヘ吉崎(加賀市吉崎町)へ半道計。一村分テ、加賀・越前領有。カヾノ方よりハ舟不レ出。越前領ニテ舟カリ、向へ渡ル。水、五六丁向、越前也。(海部二リ計ニ三国見ユル)。下リニハ手形ナクテハ吉崎へ不レ越。コレヨリ塩越(汐越の松)、半道計。又、此村ハヅレ迄帰テ、北潟(北潟湖)ト云所ヘ出。壱リ計也。北潟より渡シ越テ壱リ余、金津ニ至ル。三国へ二リ余。申ノ下刻、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。
・八日
 快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村(
福井市灯明寺)有。少南ニ三国海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田塚(新田義貞公墓所、坂井市丸岡町)、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸(福井市黒丸町)見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。 苻(府)中ニ至ルトキ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄(南越前町今庄町)ニ着、宿。
・九日
 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠(
木ノ芽峠)ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城(燧が城跡)、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガ(敦賀市)ニ着。先、気比(気比神宮)へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎(金ヶ崎町)へ至ル。山上(金崎宮)迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜(敦賀市色浜)へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺(色浜の本隆寺)へ行テ宿。
・十日 朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。
 快晴 巳刻、便船有テ、上宮(
常宮神社)趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺(西福寺)へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガ(敦賀市)ヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や(芭蕉翁逗留出雲屋跡)弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。
・十一日
 快晴。天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。五郎右衛門ニハ不レ逢。巳ノ上尅、ツルガ立。午ノ刻ヨリ曇、涼シ。申ノ中刻、木ノ本へ着。
・十二日
 少曇。木ノ下(本)ヲ立。午ノ尅、長浜ニ至ル。便船シテ、彦根ニ至ル。城下ヲ過テ平田ニ行。禅桃留主故、鳥本ニ趣テ宿ス。宿カシカネシ。夜ニ入、雨降。                        
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 【水橋神社】 所在地;富山県富山市 小矢部川SA上り】 所在地;富山県小矢部市
【水橋神社】(芭蕉句碑)
 「あかあかと陽は難面くも秋の風」、「おくの細道」(金沢-小松)旅中「途中吟」とされているが異説あり。その一つ、この句が水橋浦で詠まれたとされ、水橋神社に句碑が建立された。天保
11年(1840)、芭蕉百五十回忌に桜井定爾が建立。台座に「青桃祠」と刻まれている。
【小矢部川SA】(芭蕉句碑)
 「あかヽヽと日ハつれなくも秋の風」、「奥の細道」途次、北陸路「卯の花山、くりからが谷」(当
SA北西約7km)をこえて金沢に向い加賀平野で、残暑の厳しい中にも秋風の気配を感じ、長途の旅愁のおもいを詠んだといわれている。芭蕉の奥州・北陸の旅から300年を迎える今夏、北陸自動車道の全通記念として建立。
 【倶利伽羅峠・栃波山】(芭蕉文学碑) 所在地;富山県小矢部市
 
 「あかあかと日は難面もあきの風」、「おくのほそ道」途次、越後路から越中・金沢にいたる旅の途中で得た旅情を、金沢で一句に結晶させ七月十七日、北枝亭で発表されたものという。(昭和61925日小矢部市教育委員会)
 【兼六園・山崎山】(芭蕉句碑) 所在地;石川県金沢市
 「あかあかと日は難面も秋の風」、「おくのほそ道」途次、金沢で作ったものである。江戸後期金沢の俳人梅室(天保10年義仲寺の芭蕉150回忌引上会式に招かれたのを機に放浪を再開)の筆。句碑は、兼六パーキング(金沢市東兼六町1)に駐車し、上坂料金所より兼六園に入園し徒歩250m、山崎山登口にある。  -6- 
 【長久寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県金沢市 犀川大橋】(芭蕉句碑) 所在地;石川県金沢市
【長久寺】(芭蕉句碑)
 「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」、「おくのほそ道」(金沢)旅中「松玄庵」(閑会即興)に招かれて出された料理に感謝を込めて詠んだ句(初案)。句碑の建立は新しく昭和
63年(1988)。前田利家の妹「津世姫」のために、約400年前に創建した曹洞宗の寺。
【犀川大橋南詰】(芭蕉句碑)
 「あか/\と日はつれなくも秋の風」、「おくのほそ道」(金沢-小松)旅中「途中吟」。句碑の建立は新しく昭和三十三年(
1985)四月。
 【成学寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県金沢市 宝泉寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県金沢市
【成学寺】(芭蕉句碑)
 「あかあかと日はつれなくも秋の風」、「おくのほそ道」(金沢-小松)旅中「途中吟」とされているが異説あり。宝暦五年(
1755)芭蕉翁追悼のため堀麦水と門人が「秋日塚」を建立した。金沢で最も古い芭蕉句碑、正面に「蕉翁墳」と彫られ右側面に句が刻まれている。
【宝泉寺】(芭蕉句碑)
 「ちる柳あるじも我も鐘をきく」(柳隠軒址碑)、金沢に旅宿した芭蕉は、鶴屋句空の草庵「柳隠軒」に一泊したと伝えられている。
 【願念寺】(芭蕉句碑・小杉一笑ゆかりの寺) 所在地;石川県金沢市
芭蕉句碑
 「つかもうこけ我泣く声は秋の風」、「おくのほそ道」(金沢)旅中「一笑の追悼会」に出席し、その死を悼み詠んだ追善句。曾良は「玉よそふ墓のかざしや竹露」を詠む。
一笑句碑
 「心から雪うつくしや西の雲」、金沢の蕉門の独り「小杉一笑」の辞世の句。
一笑ゆかりの寺「願念寺」は、金沢の寺町寺院群にある真宗大谷派のお寺で小杉家の菩提寺でもある。  -7-
 【立花北枝宅跡】(新町・鏡花通り) 所在地;石川県金沢市
   
 芭蕉の「あかあかと」の句は、元禄2713日越中滑川辺りの磯伝いで夕日に照りつける道で考案され、同717日に金沢の新町立花北枝(土井次郎右衛門)の源意庵(久保市乙剣宮神社;金沢市下新町6-21 鳥居右側、画像はネット検索で適画借用)で人々に示されたと伝えられている。
 金沢で「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句を得た芭蕉が、「秋の風」を「秋の山」として北枝に示したところ、「山といふ字すはり過て、けしきの広からねば」と批判したため、「さればこそ金城に北枝ありと名たゝるもうべなれ」と称賛したという逸話はよく知られている。
 元禄271689)、「おくのほそ道」の旅で金沢を訪れた松尾芭蕉に兄牧童とともに入門。金沢より山中温泉を経て、越前国松岡まで、25日間にわたり芭蕉に随行。山中温泉で催した、北枝の「馬かりて燕追ひ行く別れかな」に始まる歌仙は、「山中三吟」と呼ばれる。同地での芭蕉の教えを書き留めたとされるのが、「山中問答」(芭蕉・曾良・北枝)であり、「やまなかしう」は芭蕉による山中三吟の添削と評などを伝える。松岡での芭蕉との別れに際しては、芭蕉より「物書いて扇引きさく別れかな」の句を贈られている。
 【ひがし茶屋街】 所在地;石川県金沢市東山  【長町武家屋敷城跡】 所在地;石川県金沢市長町
 
 「ひがし茶屋街」「長町武家屋敷城跡」も観ておきたい場所のひとつ。→Google Map(ストリートビュー) でバーチャル観光(画像クリック)
 【小坂神社】 所在地;石川県金沢市 蛤坂】 所在地;石川県金沢市
【小坂神社】(芭蕉翁巡錫地と北枝句碑)
 「おくのほそ道」(金沢)旅中「小坂神社」を参拝し句会を開いたと伝承。参道石段脇に「芭蕉翁巡錫地」の碑があり、側面に北枝の「此の山の神にしあれは鹿に花」(北枝發句集に“此神の山なればこそ花に鹿”とある)が刻まれている。
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松玄庵/少玄庵】 所在地;石川県金沢市寺町5-1-33 附近
 加賀藩前期に妙慶坂といったが、享保18年の火災後、蛤が口を開いたようになったことから「蛤坂」の名がついた。犀川大橋南詰から犀川沿いの「犀星のみち」(文豪が愛した道、室生犀星より名付ける)を180m行くと芭蕉句碑「あかあかと」がある。句碑を撮り120m戻り左後方に折れると「蛤坂」、右手に「妙慶寺」があり、その先が「成学寺」である。「蛤坂」信号を直進するとお寺ばかりが続き「願念寺」に着く。この道は「旧鶴来街道」というらしい。「ある草庵」(斉藤一泉の松玄庵)は、蛤坂道標より76m先左側、(株)村井向い。
犀川左岸(南側)川上方向(右手)を眺める
「残暑しばし手毎に料れ瓜茄子」(成案;秋涼し手ごとにむけや瓜茄子) 半歌仙(表六句裏十二句)
初折六句 裏一二句
残暑暫手毎にれうれ瓜茄子 芭蕉
 みじかさまたで秋の日の影 一泉
七より生長しも姨のおん 雲口
 とり放やるにしの栗原 乙州
ふたつ屋はわりなき中と縁組て 一泉
 さざめ聞ゆる國の境目 芭蕉
月よりも行野の末に馬次て 左任
 透間きびしき村の生垣 丿松
読習ふ歌に道ある心地して 如柳
 ともし消れば雲に出る月 北枝
糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも 北枝
 あしたふむべき遠山の雲 雲口
鍬鍛冶の門をならべて槌の音 竹意
 小桶の清水むすぶ明くれ 語子
肌寒咳きしたる渡し守 曾良
 をのが立木にほし残る稲 流志
草の戸の花にもうつす野老にて 浪生
 はたうつ事も知らで幾はる 曾良
 【あやめ坂】 所在地;金沢市守山1-6-13  【芭蕉と金沢】メモ
①「覚源寺」(芭蕉句碑)金沢市菊川2-8-18
「あかあかと日はつれなくも秋の風」 
②「心蓮會(北枝句碑と墓)金沢市山の上町4-11
「しぐれねば又松風の只おかず」 
③「芭蕉の辻」(石標)金沢市片町2-2-15辺り
【あやめ坂】(芭蕉句碑)
 飴買い幽霊伝説の光覚寺前の坂は昔から“あめや坂”といわれてきた。芭蕉等は
715日、この坂を下り小橋辺りに宿を取ります。曾良の随行日記には“京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死亡ノ由“とあります。
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 【関連句碑】(新町・鏡花通り) 所在地;石川県金沢市
芭蕉の渡し 所在地;石川県川北町 小舞子公園 所在地;石川県白山市 小舞子海岸 所在地;石川県白山市
【芭蕉の渡し】(芭蕉句碑)
 「あか/\と日は難面も秋の風」、「おくのほそ道」(加賀路行脚)旅中に立ち寄り、一句を残したのち、手取川の渡し場「木呂場」から対岸の「粟生」に歩を進めた。手取川は白山に源流を持つ総延長
72kmの一級河川、日本有数の急流河川ゆえ暴れ川とも称される。川名は、倶利伽羅峠の戦いの後、平家軍を追う木曾義仲軍が篠原の戦いを前に、増水して濁流の川を渡るとき、多くの兵士が互いに手に手を取って流されないようにして渡ったことに由来する。
【不動寺PA上り】(芭蕉句碑)
 「おくのほそ道」(金沢)旅中「一笑の追悼会」に出席し、その死を悼み詠んだ追善句。
「つかもうこけ我泣く声は秋の風」
【白山美川小舞子公園】(芭蕉句碑)
 「おくのほそ道」(小松)元禄
2726日、「小松」の「歓生亭」での五十韻発句での挨拶吟「ぬれて行や人もおかしき雨の萩」。曽良は「心せよ下駄のひゞきも萩露」を詠む。
 【白山比咩神社】 所在地;石川県白山市 野々市宿】(北国街道) 所在地;石川県野々市市
【白山比咩神社】(芭蕉句碑)
 「風かをる越の白嶺を国の華」、この俳句は元禄二年七月俳聖芭蕉翁が「奥の細道」の途次、北陸の中天に麗しく聳える白山の姿を讃えて詠んだもので、元禄五年の中秋翁生存中に出版された柞原集(白山比咩神社奉納句集)の巻頭に記載されている。(神社説明)
 芭蕉俳句集(中村俊定校注岩波文庫)に、
544「風かほるこしの白根を國の花」(柞原)として541「初真桑」と545「文月や」の間に記載されている。
 「金沢」から「小松」何かないかと・・・・曾良随行日記は以下
・廿四日
 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上尅、小松ニ着。竹意同道故、近江やト云ニ宿ス。北枝随レ之。夜中、雨降ル。
 平安時代から室町時代にかけて加賀の中心地だった野々市は、当時の守護、富樫氏の館のあったところ。江戸時代になると金沢から「北国街道」第1番目の宿場町「野々市宿」として栄えました。
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 「曾良随行日記」を現代語でレビュー
金沢
 7.15 
高岡から倶利伽羅峠を経て金沢の京屋吉兵衛方宿泊
 7.16 
京屋吉兵衛方から宮竹屋喜左衛門(竹雀)方に宿所変更
 7.17 芭蕉は源意庵で句会、曾良(病気)は宿所で休息 (7.18 特記なし)
 7.19 
宮竹屋喜左衛門(竹雀)方に金沢の俳人達が集まる
 7.20 松玄庵(斉藤一泉の犀川畔の庵)で接待・半歌仙、野田山へ
 7.21 
曾良(病気)は宿所で休息、芭蕉は金沢の門人達と寺廻り
 7.22 
曾良(病気)は宿所で休息、芭蕉は願念寺の一笑追善会出席
 7.23 
曾良(病気)は宿所で休息、芭蕉は雲口達と宮の越へ
小松
 7.24 
金沢出立、門人達に見送られ、小松の近江屋宿泊
 7.25 
住民懇願で滞在、立枩寺(建聖寺)に宿移し、多田八幡(多太神社)参拝
    山王神社(本折日吉神社)・藤井(村)伊豆宅で山王句会・泊

 7.26 
歓生邸で(ぬれて行や)句会
山中

 7.27 
諏訪神社(菟橋神社)祭礼を見学、多田八幡参拝、小松出立、山中の久米之助方(和泉屋)で宿泊
 7.28 薬師堂(医王寺)を参拝、温泉街見学
 7.29 
道明が淵(鶴仙渓)見学
 7.30 
道明が淵(鶴仙渓)見学
 8.01 
黒谷橋を見学 (8.02-04 特記なし)
小松
 8.05 
山中を出立、芭蕉は那谷寺を参拝、生駒万子に会う為に小松宿泊、曾良は大聖寺の全昌寺宿泊
 8.06 
芭蕉は小松天満宮の宮司能順を訪ね、曾良は菅生石天神(菅生石部神社)参拝
大聖寺
 8.07 
芭蕉は小松を出立、大聖寺の全昌寺宿泊、曾良は全昌寺から出立
 8.08 
芭蕉は大聖寺を出立、越前国へ
 加賀は、上方や江戸の文化とは異なった独得の文化を生み出し、中でも連歌から俳諧に至る俳文学は、元禄2年の芭蕉の来遊により、俳諧史上、重大な展開がなされた。
 連歌は、和歌の五・七・五(長句)に、ある人が七・七(短句)を付け、さらにある人が五・七・五を付け加えるというように、百句になるまで長句・短句を交互に連ねていきます。これを「百韻連歌」と言い、鎌倉時代~江戸時代の連歌の基本形となりました。また、江戸時代中期以降の連歌は三十六句を詠み継いでいくもので、これを「歌仙連歌」と言い、現在の連歌の基になっています。短歌の一首を五・七・五と七・七の二句に分け、複数の作者によって連ねられた歌の形をとっている詩で最も古いものは、「万葉集」巻八に収録された尼と大伴家持の唱和です。故に、万葉集が連歌の起源と言われています。鎌倉時代から江戸時代中期にかけて連歌は、和歌をも凌ぐ勢いで人々の間で流行しました。
 そして、江戸時代中期以降は、それまでの連歌にユーモアや風刺を取り入れた「俳諧の連歌」が盛んになります。 自由なテーマで、一般庶民にわかりやすい言葉(口語)が用いられ、庶民の間で広く人気を集めました。この頃から、連歌は百句を詠み継いでいくものから、三十六句を詠み継いでいく「歌仙連歌」に変化していきました。現代連歌の基本型式は、この歌仙連歌に基づいています。松尾芭蕉らの登場により俳諧の芸術性が高まり、「俳諧の句」が独立し、「俳句」へと発展。明治に入り、連歌は次第に俳句の出現によって少しずつ衰退していきました。                                   
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 【北国街道小松宿】 所在地;石川県小松市
 【建聖寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
芭蕉句碑
 「志ほらしき名や小松ふく萩すゝき」、「おくのほそ道」(小松)旅中「鼓蠣の館」で催された「山王句会」(芭蕉・曽良・北枝・鼓蠣等
10人)で詠まれた発句。変則「七・五・五」。当時の寺名は「立枩寺」。北枝作の「芭蕉木像」と「芭蕉が背負ったつづら」を拝見。「はせを留杖ノ地」碑。
 【多太神社】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
 「おくのほそ道」(小松)旅中、芭蕉一行は「多太神社」に725日に参拝し実盛着用の兜や袖を拝観、「あなむさん甲の下のきりきりす」を詠んでいる。境内「松尾神社」前に初案の句碑がある。
 小松出立の727日、再び「多太神社」を参拝し句を奉納した。
 「むざんやな甲の下のきりぎりす」 芭蕉
 「幾秋か甲にきえぬ鬢の霜」    曾良 「くさずりのうら珍しや秋の風」  北枝     
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 【本折日吉神社】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
 北国街道筋にあたる小松の本折町は、江戸時代の文化5年(1808)に、本折日吉神社の向かい側に本光寺が移転してから発展した門前町。それから明治維新までの50年間は「出町」と呼ばれて賑わい、明治初年に本折町と改められた。町の中心にある、破風付の朱色の鳥居が印象的な山王宮・本折日吉神社は、昔から「山王さん」「日吉さん」と呼ばれ親しまれている。
 「おくのほそ道」(小松)元禄
2724-26日、「小松」の「鼓蠣の館」で催された「山王句会」(芭蕉・曽良・北枝・鼓蠣等10人)での発句と脇。
 「しほらしき名や小松吹萩すゝき」 芭蕉
 「露を見しりて影うつす月」    鼓蠣
 【菟橋神社】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
   
 芭蕉句碑
 「志をらしき名や小松ふく萩すゝき」
 創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第
42代文武天皇延長5年(697)と伝えられ、醍醐天皇延長5年(927)には早くも延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座並小莵橋神社」として登載されている古社である。
 秋季例大祭(水火まつり)があるというので訪れている。水と火の大いなる恵みに感謝し、大自然に畏敬の心を表すとともに、風水害・大火除けを祈願するものである。御祭神に因み、古来より力比べの神事で子供相撲と盤持神事が行われる。水と火の神事が行われ、御神火で清められた御神水が参拝者に振る舞われ、この水を飲むと一年間、無病息災で過ごせるという。
 【小松中央緑地】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
 「小松市役所」の並びにある「中央緑地」(工場跡地)に、「奥の細道三百年記念」(市制50周年)で、「奥の細道」途次、「小松」で詠まれた4句が建てられていた。
 「しをらしき名や小松吹く萩すゝき」  「ぬれてゆく人もをかしや雨の萩」
 「むざんやな甲の下のきりぎりす」   「石山の石より白し秋の風」             
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 【山中温泉街】 所在地;石川県加賀市
山中温泉南町より本町方向を眺める 
山中
 7.27 
諏訪神社(菟橋神社)祭礼を見学、多田八幡参拝、小松出立、山中の久米之助方(和泉屋)で宿泊
 7.28 薬師堂(医王寺)を参拝、温泉街見学
 7.29 
道明が淵(鶴仙渓)見学
 7.30 
道明が淵(鶴仙渓)見学
 8.01 
黒谷橋を見学 (8.02-04 特記なし)

小松
 7.26 歓生邸で(ぬれて行や)句会

小松
 8.05 
山中を出立、芭蕉は那谷寺を参拝、生駒万子に会う為に小松宿泊、曾良は大聖寺の全昌寺宿泊
 8.06 
芭蕉は小松天満宮の宮司能順を訪ね、曾良は菅生石天神(菅生石部神社)参拝
※「山中」は、「句碑」と「別離」に「山中三吟両吟歌仙」を加えた内容に圧縮します。
 芭蕉句碑
芭蕉句碑
 「山中や菊は手折らし湯の匂ひ」  「いさり火にかしかや浪の下むせひ」
 「かゝり火に河鹿や波の下むせひ」 「湯の名残今宵ハ肌の寒からむ」 「今日よりや書付消さん笠の露」
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 芭蕉句碑  桃妖句碑  北枝句碑
芭蕉句碑
 「桃の木の其葉ちらすな秋の風」
桃妖句碑
 「紙鳶きれて白根ヶ嶽を行方かな」 「旅人を迎に出れはほたるかな」 「山人の昼寝をしはれ鳶かつら」
北枝句碑
 「子を抱いて湯の月のそく猿かな」(奥の細道と無関係)
中山三吟 「馬かりて」の巻
 一 馬かりて燕追行わかれかな   北枝
 二 花野みだるゝ山の曲め     曾良
 三 月よしと相撲に袴踏ぬぎて   翁
 四 鞘ばしりしをやがてとめけり  北枝
 五 青淵に獺の飛込水の音     曾良
 六 柴かりこかす峯の笹道     翁
 七 霙降左の山は菅の寺      北枝
 八 遊女四五人田舎わたらひ    曾良
 九 落書に恋しき君が名も有て   翁
一〇 髪はそらねど魚くはぬ也    北枝
一一 蓮の糸とるも中/\罪ふかき  曾良
一二 先祖の貧をつたへたる門    翁
一三 有明の祭の上座かたくなし   北枝
一四 露まづ拂ふ猟の弓竹      曾良
一五 秋風は物いはぬ子も涙にて   翁
一六 白きたもとの續く葬禮     北枝
一七 花の香は古き都の町作り    曾良
一八 春を残せる玄じようの箱    翁
一九 長閑さやしらゝ難波の貝づくし  北枝
二〇 銀の小鍋に出す芹焼       曾良
二一 手枕にしとねのほこり打拂    翁
二二 うつくしかれとのぞく覆面    北枝
二三 つぎ小袖薫賣の古風なり     翁
二四 非藏人なるひとの菊畑      同
二五 鴫ふたつ臺にすへても淋しさよ  北枝
二六 あはれに作る三ヶ月の脇     同
二七 初発心草の枕に修行して     翁
二八 小畑も近く伊勢の神風      同
二九 疱瘡は桑名日長もはやり過    北枝
三〇 雨晴くもり枇杷つはる也     同
三一 細長き仙女の姿たをやかに    翁
三二 あかねをしぼる水のしら浪    同
三三 仲綱が宇治の網代と打詠     北枝
三四 寺に使を立る口上        同
三五 鐘ついて遊ん花のちりかゝる   翁
三六 酔狂人と弥生暮行        筆
曾良は二〇をもって退席 三吟→両吟
 文学碑(曾良句碑)
別離
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行/\てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露             
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 小松補遺
 【歓生邸跡】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市 葭島神社】 所在地;小松市
【歓生邸跡】
 小松天満宮の南側を流れる梯川に架かる大川大橋南詰に芭蕉句碑「ぬれてゆく人もをかしや雨の萩」がある。この付近に越前屋歓生邸(葭島神社の前通りの角家で句碑の斜め向かい)があった。
【葭島神社】小松天満宮の南側を流れる梯川の対岸に位置する
 天保元年(
1644)の創建と非常に古く、小松桟天神社別当能順の頃から文化の中心地的地域でもあり様々なものが残されている。歴史が深く宝物も豊富にあるだけにミステリアスな部分は多い。最近解読された石碑は100年以上前の「句会の記念碑」だそうで、葭島神社界隈には句人のグル-プがあり100人近い文化人が住む文化ゾーンとか。このような地域は珍しく、またこのことから、松尾芭蕉がここに立ち寄っていたかもしれず、当時の人々は芭蕉に影響を受けて文化活動が活発になったのかもしれない、という説も出てきている。
「編集旅行」(Editorial trip)への誘い・・・・「奥の細道、空白の一日」
小松天満宮梯川改修から重文を守った記録「奥の細道、空白の一日」 製作責任者 宮誠而氏の記事を転載
●奥の細道、空白(六日)の一日
 松尾芭蕉の奥の細道はあまりにも有名で、その句碑たるや全国に無数といってよい程存在する。写真家として、この中の句に惹かれるものが多く、いずれは歩いて芭蕉の後を辿って撮影したいものだと考えていた。そのための準備を早くからしていて、曽良日記にもとずいて、奥の細道の日程表を製作していた。ところが、芭蕉が山中温泉に滞在し、そこで曽良と別れて小松に戻るところまでははっきりしているのだが、なぜか小松での一日行動が不明なのである。
 小松天満宮の移転問題に関わるようになつて、まず依頼された小松天満宮誌製作の仕事の中で、小松天満宮と松尾芭蕉に関わる古文書の存在を知る。この内容はあまり信用性は高くないと感じたが、火の無い所のたとえで、何かあったという直感はした。そのことがきっかけで、長年の疑問を解くことに熱中することとなった。 その成果は「奥の細道、空白の一日」として発行され、現在売り切れ絶版で、図書館で閲覧できる。以下はその抜粋だが、結論からいって、連歌の天才能順と俳諧の天才芭蕉がこの小松天満宮で会ったことは確実で、その記念すべき場所が無くなることは、文学史上の重要遺跡を消し去ることであり、許されるべきではない。後に能順の日記が発見された。同日に芭蕉の記載はない。不愉快な出来事をわざわざ記載するとは考えられない。
●なぜ小松に戻ったか?
 芭蕉の行動の変化を知る手がかりは、
29日と2日の手紙から知る事ができる。すなわち、29日の大垣の近藤如行に宛てた手紙では、84,5日頃山中を立って、仲秋の名月(815日)は、琵琶湖で見たいと考えていた。ところが、2日の早馬での手紙で予定が変わる。芭蕉の返書の内容は、小松天満宮へ発句奉納の件を承知したというものであった。2日雨で山中に滞在、3日目に小松戻る。ところが翌86日、この段取りをした生駒万子や塵生、曽良、芭蕉自身までもこの日の事を何一つ書き残すとはなかった。いったい、この日小松で何が起こったのであろうか。86日は奥の細道の空白の一日なのである。
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 補足ではあるが、724日、芭蕉が小松に入った頃、加賀藩の重臣で芭蕉の門下であった生駒万子は災害復旧のため、小松天満宮の発句奉納依頼を段取りできなかった。生駒万子は連歌の手ほどきを小松天満宮の連歌の天才能順に受けている間柄であった。人を介さなければ小松天満宮に奉納できない程で、当時の天満宮の格式の高さが伺える。
 現在連歌はほとんど知られていない存在になったが、高度の文学、歴史の知識を必要とされ、その約束事の複雑さから、知識階級の芸能として栄えた。北野天満宮では、天神は連歌を好むとされ、盛んに連歌奉納が行われ、祈願も連歌によって行われていた。北野天満宮に仕えていた能順は、連歌の才能を発揮し、朝廷に認められた連歌の天才であった。小松天満宮を造営した前田利常の招きで、小松天満宮の別当に着任していた。
●後の世の憶測
 能順と芭蕉が会見したのかしなかったのか、天満宮へ発句奉納があったのかなかったのか。この問題に関して、後になっていろいろな憶測が記されることとなった。その一つが、私が最初に出会った「とはじぐさ」という文書だった。この話は、後に能順の孫から聞いた話として、建部綾足が書き残した。「加能俳諧史」など、後のこの件に関する資料は、ほとんど「とはじぐさ」を元に考えられたようだ。
 「とはじぐさ」によれば、能順と芭蕉との会見は行われたが、芭蕉が能順の発句として記憶していた「秋風にすすきうち散るゆうべかな」を能順が聞き、腹を立てて退席。芭蕉が不信に思い若法師になぜだかをたずねると、「秋風は」の間違いだと指摘されたという。この話はつじつまがあっているようにみえるが、芭蕉の資質を問う話の筋書きが見える。人気者の芭蕉も間違いをする。連歌の心を知らない芭蕉は、恥をかいた。そんな、芭蕉人気に快く思わない人の創作の匂いがする。
 おそらく、芭蕉の奉納発句は「秋風」を詠んだものと推測する。「に」であったか「は」であったかというよりは、蕉風と呼ばれる独立し、数々の連歌の制作過程における束縛から逃れた、個人思想で完結型に確立された発句の意味するところを知り、天満宮への奉納にそぐわないとのレベルの高い判断であったと私は考える。権威をふりかざして、最初から俳諧を低俗なものしとて拒絶しているならば、発句奉納事態が成立しないことになる。能順はそれ程官僚的な物の考え方ではかったから、奉納の申込を一旦は承諾したと私は考えている。この考えに至ったいきさつは、奥の細道を読み返す内にある重要な事実に気が付いたことに端を発する。これ程芭蕉が重要視した件が、芭蕉自身全く語らないとは不自然だと思い、奥の細道の中にヒントがあるはずだと考えていたからだ。
 【小松天満宮】 所在地;石川県小松市
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【小松天満宮】
 加賀藩三代藩主・前田利常は、隠居後小松城を隠居城とし、小松城の鬼門に当たる位置に「小松天満宮」を建立。当社創建にあたり利常公は、初代宮司・別当として北野天満宮より、近世最後の連歌名人といわれた能順を招請する。
 梯川が氾濫を起こす危険な川であるため、上流から下流まで堤防の幅を広げる工事が行われ、梯川に隣接する小松天満宮も例外ではなく、堤防の幅を広げる計画の範囲内となった。小松天満宮の移転も検討されたが、国の重要文化財である小松天満宮の移転に反対の声もあり、全国では初めてのケースとなる、分水路を建設し、小松天満宮を輪中堤で囲む「浮島化工事」が行われ、
1974年に改修計画が決まってから実に43年、201813日に完成した。
【芭蕉句碑】
 能順は晩年まで小松天満宮と北野天満宮の別当を兼務し、京都と小松を往来していた。芭蕉が小松に来た当時、能順も小松に来ていた。芭蕉は俳諧を通して面識がある俳人、生駒万子の仲介で「小松天満宮」で句を奉納したいと能順に依頼していたらしい。しかし、初面談で能順の句を褒めた芭蕉の言辞に齟齬が生じ、芭蕉がわざわざ山中温泉から立ち戻ってまで望んだ、”小松天満宮”での連歌の会での句の奉納は成し遂げられなかった。能順の古い伝統の権威と、芭蕉の新しい波の力のぶつかり合いは、古今東西、変わることが無かったということか、境内に建つ芭蕉の句碑は、小松天満宮での句ではなく、源意庵で芭蕉が始めて披露した句が刻まれている。
 「あかあかと日は難面も秋の風」
 
●芭蕉がこだわった「秋風」
 奥の細道は、実によく計算され尽くして作られている。その掲載発句は全部で
50句あり、内容から起承転結に分類されるように並べられている。
 ・起の部)五月雨の句まで
17句・・・・・・歌枕を訪ねての歴史回顧
 ・承の部)早稲の香の句まで
18句・・・・素朴な風土を「かるみ」をおびてのびやかに詠む
 ・転の部)物書いての句まで
10句・・・・人々とのかかわりや、自分自身の感情を直接読込む
 ・結の部)蛤のの句まで
5句・・・・・・・・・旅の印象を余韻をもって終わる
 さて、このように分類すると、明らかに加賀の地に入った転の部が、奥の細道のクライマックスであることがわかる。その部分には、あまりにも難解な句が連なっていて、後世の解釈が様々出現することとなる。その中に、なぜか「秋の風」を詠んだ句が
3つも並んでいることに気が付いたのである。
  塚も動け我が泣く声は秋の風
  あかあかと日はつれなくも秋の風
  石山の石より白し秋の風
 奥の細道中最も優れた
3つの句が、なぜ全て「秋の風」をテーマにしているのだろうか。これは、ひつこいと言わざるを得ない。ここまで計算され尽くした中で、この重複に芭蕉の隠された意図があり、奥の細道の中でのメインテーマと考えれば、納得がいくのではなかろうか。
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 「おくのほそ道」(頴原退蔵・尾形仂訳注による評釈
 「塚も動け我が泣く声は秋の風」
 君の死をいたみ悲しむわたしの慟哭(悲しみを我慢できず、大声をあげて泣き叫ぶこと )の、地中の君が霊に届き、動くべくもない塚も動けよかし。わが慟哭の声は、蕭殺(もの寂しい)たる秋風に和し、秋風はわが傷心を運んで、君の塚の上を吹きめぐる。
 「あかあかと日はつれなくも秋の風」
 もう秋が立っているというに、夕日はそれもそ知らぬげに旅行くわたしの上に無情にも赤々と照りつけ、残暑はなおきびしいが、しかし、さすがに目に見えぬ風のおとずれには、やはり秋の風だなあと感ぜしめるものがある。
 「石山の石より白し秋の風」
 古来秋風の色を白に配するが、この那谷寺の建っている石の山に吹きつける秋の風は、石の肌よりも、もっと白く冷徹な感じがする。境内には、おぼえずえりを正すような森厳(きわめて厳粛でおごそか)の気がたちこめている。
3つの「秋の風」の意味は?
 これまでの注釈書などでは、「秋の風」を、現実に爽やかに吹いている風としてとらえたものが多い。しかし、
3つの句を並べて読み返すと、はたして単に涼しく吹く秋の風だろうかという疑問が浮かぶ。それでは、いったいどの様な風を意味しているのだろうか。それを理解するためには、能順との会見で「秋風」に対する見解の相違を前提にすることによって、見えてくるものがある。
 会えると思っていた人が亡くなっていた。そのやるせない思いを直接的に動け! とか、我が泣くといった表現をしているのに、その現場に爽やかな風が吹いているとはあまりにも不自然ではないか。
 あかあかと・・・・この直接的な太陽の表現は、いったい何を意味しているのか。そして、ここでも秋の風が爽やかに吹いているのか。
 石山の石より白しと、単に秋の風の白さを表現したものならば、
3つもの秋の風をここにきてダブらせなければならない理由にはならない。ここまでくると、やはり芭蕉の秋の風は他に理由があると理解しなければならないだろう。
 私は、奥の細道を旅してきた芭蕉が、加賀の地に来てようやく解放された自分を意識できるようになったのではないかと思っている。なんの束縛も受けず、自然体の自分を見つけた喜びを「秋の風」と詠んだのだと私は理解している。
 人の死に対して素直に泣き崩れる素直な自分があり、さんさんと照りつける絶対的な存在の太陽にも、自然に身を任せられる自然体の自分があり、自分の心が石のように白く澄んだ、自信に満ちた爽やかな自分があった。そのような境地を「秋の風」と表現したと私は理解する。そうすると、能順との会見は見事に理解できるのだ。
 芭蕉がどのような句を奉納しようと思ったかはわからないが、おそらく「秋の風」の句であったことは間違いないと思う。なぜなら、奥の細道を通して、ようやくたどり着いた境地であったからで、その理解を尊敬する能順に求めたのではなかろうか。しかし、俳諧を低俗として、連歌の世界では受け入れなかった時代の背景や、当時の物の考え方を考えると、芭蕉の境地は到底受け入れられるものではなかったと思う。文学観や見解の相違と言えば単純だが、当時一般にはこの事実を理解できるレベルは無なかったと思う。そこで、話を面白く、誰にでも理解できる「記憶違いをしたとか、芭蕉は連歌の心を知らない」と、書かれたのではなかろうか。
 最近発表された説に「俳諧そのものを低俗なものとして考えていた支配階級の連歌の世界は、発句を独立させた文学に押し上げたとはいえ、とうてい天神奉納を許されない・・・・」などとこの会見を解釈しているが、もしそうならば、発句奉納申込段階で拒否され、もちろん芭蕉は小松へ戻ることはなかった。   
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 能順も芭蕉の存在は認めていた。奉納発句の内容によっては許すつもりであったと思う。しかし、「秋の風」の当時では理解できないあまりに人間臭いとも言える進んだ考え方に、能順は奉納の許可をためらったと理解するべきだろう。
 秋の風は、そのまま能順の秋風とすりかわり、連歌師のスター能順の威信を使って、人気の高い蕉風に不利な物語がでっちあげられたと考える方が自然だろう。
 ところで、芭蕉が発句奉納を願い出た肝心の発句とは、何であったのだろう。私は、あかあかと・・・・の句がもっとも有力であると思っている。
 偶然にも私が初老を迎えた
1989年、芭蕉が小松天満宮を訪れて丁度200年がたっていた。これを記念する意味と、芭蕉が果たせなかった発句奉納を不祥私が変わって果たそうという意味とで、境内参道に「あかあかと・・・・」の句碑を建てさせていただいた。記念式典は1989113日である。
 日本文学史上、空前絶後の紀行文「奥の細道」のクライマックスの地である小松天満宮を移転させることは、その歴史文学の地を消し去ることに他ならない。これは、日本のおおいなる損失と認識すべきである。
 【那谷寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県小松市
【那谷寺】
 この地は弥生時代より管玉の材料である碧玉の産地でした。財部一族が住んでいて、洞窟は祭祀場でした。
1300年の歴史を遡れば、養老元年(717)に泰澄が那谷寺を創建したと伝承。加賀には古くから白山信仰が根付き、自然の神を崇めてきました。境内にそばだつ岩山の多くの洞窟は、魂がよみがえり、白く清められる聖地です。
【芭蕉句碑】「石山の石より白し秋の風」
 「おくのほそ道」(那谷)元禄
285日。山中温泉で曽良と別れた芭蕉は、金沢から見送りで伴に加わった北枝と小松に戻る途中に「那谷寺」に参詣し本句を詠んだ。                  -20- 
 【全昌寺】(芭蕉句碑) 所在地;石川県加賀市
 元禄285日「奥の細道」旅中、「山中温泉」で別れた曽良が前の夜に泊まった。そして今夜は芭蕉が泊まる。たった一晩の隔たりに過ぎないのに・・・・「一夜の隔て千里に同じ」と曽良のいない寂しさを表している。
【芭蕉句碑】全昌寺の庭は正に句碑庭園
 芭蕉真蹟を文学碑「大聖持の城外・・・・草鞋ながら書捨つ。」
 「よもすがら秋風聞くや裏の山」 曾良
 「庭掃きて井でばや寺に散る柳」 芭蕉
「編集旅行」(Editorial trip)第1話は此処まで・・・・2022.11.29
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Mp3 時の散歩道(75歳の生まれ変わり)