編集旅行Ⅲ ;「奥の細道」木ノ芽峠越え
2022.12.31
 「編集旅行」(Editorial trip)第3弾は「2015.6.1-3」「2016.7.28-29」の補遺編、「おくのほそ道」(山中・別離-全昌寺-汐越の松-天龍寺・永平寺-福井-敦賀-種の浜)を再編集してみましょう。なお、「未踏の地」(目的地)は公共性の高い画像をネットより拝借しました。
 【桃妖との出逢い】(山中温泉) 所在地;石川県加賀市
 芭蕉は久米之助に「桃の木の其葉ちらすな秋の風」と「桃青」の一字を与え「桃妖」の号を贈る。桃妖の句碑「紙鳶きれて白根ヶ嶽を行方かな」「旅人を迎に出れはほたるかな」「山人の昼寝をしはれ蔦かつら」。
※「おくのほそ道」(山中)は省略します。
 【別離(おくのほそ道) 所在地;石川県加賀市(2015.6.2
【おくのほそ道】
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行/\てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露
【曾良日記】
元禄二年八月五日 山中を出立
 ・芭蕉は那谷寺(小松市)を参拝し生駒万子に会う為に小松宿泊
 ・曾良は大聖寺の全昌寺(加賀市大聖寺)に宿泊
那谷寺(石川県小松市)と全昌寺(石川県加賀市)の隔たりは三里余り 
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 【小松天満宮】 所在地;石川県小松市
   
小松天満宮(石川県小松市)   この間の隔たりは五里足らず  菅生石天神(石川県加賀市)
【曾良日記】
元禄二年八月六日
 ・芭蕉は小松天満宮(小松市)の宮司能順を訪ねる
 ・曾良は菅生石天神(加賀市大聖寺)を参拝
 【小松補遺】 所在地;石川県小松市
 何故か「小松天満宮」には行っていない。ここには、芭蕉句碑「あかあかと」がある。後の調べでは「いわくつきの句碑」なので要チェックだ。「菅生石天神」(現菅生石部神社)もしかり・・・・
 【小松天満宮】 所在地;石川県小松市 芭蕉句碑「あかあかと」
 【歓生邸跡】 所在地;石川県小松市 芭蕉句碑「ぬれてゆく」  【葭島神社】 所在地;小松市
 【梯大橋南詰】(北枝句碑) 所在地;石川県小松市
 「おくのほそ道」(小松)、「歓水亭」の句会、曾良俳諧書留「廿六日歓水亭会雨中也」。
「ぬれて行や人もおかしき雨の萩」(翁)、「心せよ下駄のひゞきも萩露」(ソラ)に続く「かまきりや引きこぼしたる萩露」(北枝)。なお、北枝は研屋小路(小松市大川町
3-75)松任町北信号付近で生まれている。
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【曾良日記】
・八月七日
 快晴。辰ノ中刻、全昌寺(全昌寺)ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレより右ヘ吉崎(加賀市吉崎町)へ半道計。一村分テ、加賀・越前領有。カヾノ方よりハ舟不レ出。越前領ニテ舟カリ、向へ渡ル。水、五六丁向、越前也。(海部二リ計ニ三国見ユル)。下リニハ手形ナクテハ吉崎へ不レ越。コレヨリ塩越(汐越の松)、半道計。又、此村ハヅレ迄帰テ、北潟ト云所ヘ出。壱リ計也。北潟より渡シ越テ壱リ余、金津(福井県金津町、現あわら市)ニ至ル。三国へ二リ余。申ノ下刻、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。
 【全昌寺(おくのほそ道) 所在地;石川県加賀市
【おくのほそ道】
聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
  終宵秋風聞やうらの山
と残す。一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞つゝ衆寮に臥ば、明ぼのの空近う読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、
  庭掃て出ばや寺に散柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
 【旧北陸道/旧北国街道】(大聖寺→橘宿) 所在地;石川県加賀市 大聖寺宿-橘宿-加賀越前国境一里塚跡
①大聖寺の時鐘堂 ②大聖寺藩関所移築関所門 ③大聖寺藩関所跡碑 ④大坂一里塚跡
⑤旧北陸道下橘 ⑥旧北陸道茶屋跡 ⑦旧北陸道橘の宿趾 ⑧旧北陸道国境一里塚跡
 【旧北陸道/旧北国街道】(細呂木宿) 所在地;福井県あわら市 細呂木宿-嫁威谷
⑨お国境名号塔 ⑩往来安全の名号塔 ⑪吉崎道鴫谷山の切通し ⑫細呂木関所跡
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 【北潟湖】 所在地;福井県あわら市  【吉崎御坊願慶寺】 所在地;福井県あわら市
吉崎御坊跡碑 蓮如上人銅像 本堂跡の石碑
お腰掛け石 蓮如上人記念館 越前加賀県境の館
 「奥の細道」より218年前の文明3年(1471)、本願寺第8代法主で真宗中興の祖といわれる蓮如上人が57歳の時に北陸布教の拠点に選んだ金津町吉崎山に造られた坊舎跡が吉崎御坊跡。本願寺の隆盛を妬む比叡山僧などの迫害を受けて京から北陸へと逃れた場所で、布教拠点とした約1万坪の御坊跡は国の史跡になっている。
 全昌寺を発ち北に500m余進むと国道305号(芦原街道)に出る。左折左手に「大聖寺鴻玉荘」。その先に「大聖寺藩関所跡碑」。右手に木々が茂る小高い丘が「大聖寺城跡」。更に進むと北陸自動車道高架、大聖寺川左岸沿いに進む。全昌寺より2.5km、「立花十町程過テ茶や有」(加賀市三木町)辺り。道なりに進むと「吉崎」信号、「名願寺」前が国道上での「越前加賀県境」となる。この先200mで「吉崎御坊」中心。
 【汐越の松(おくのほそ道) 所在地;福井県あわら市
【おくのほそ道】
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。
  終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松  西行
此一首にて、数景尽たり。もし一辨を加るものは、無用の指を立るがごとし。
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 【越前での伝承】 「金津」(あわら市)から「丸岡」の足跡
 総持寺 所在地;福井県あわら市  称念寺 所在地;福井県あわら市
 俳聖芭蕉が「奥の細道」俳句行脚の途すがら、吉崎から汐越の松をたずねて金津へ着いたのは、元禄二年八月十日(1689)であった。折しも俄か雨に逢って、総持寺の門前で雨宿りをした。同志が集って旅情を慰めたが、句会を開く間もなく晴れ間を待って松岡へと向かった。当寺の境内にある雨夜塚「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」は、「奥の細道」より60年後の寛延二年九月(1749)に、金津の俳人坂野我六が芭蕉翁の遺徳を慕って、美濃(岐阜県)の田中五竹坊が越後行脚の折に建てたものである。
 元禄二年八月十一日(1689)、芭蕉は称念寺に立ち寄り、「月さびよ明智が妻のはなしせむ」を詠んだと伝承。伊勢の神職で蕉門の又幻は、神職間の勢力争いに敗れ、この頃、貧窮のどん底にあった。芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折り、又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受け芭蕉は感激して、後にこれを贈る。芭蕉全句集には「おくのほそ道」の「蛤の」(589)の後、「594」に記載されている。
 【天龍寺・永平寺(おくのほそ道) 所在地;福井県永平寺町
丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、
  物書て扇引さく余波哉
五十丁山に入て永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴き故有とかや。
 【永平寺】 所在地;福井県永平寺町
 永平寺龍門  鐘楼堂  傘松閣絵天井
 「天龍寺」を出て間もなく左へと折れ「永平寺」に向かう。ここより「二里バカリ」、全く同じ道を往復した芭蕉の「独り旅」の心中は如何ほどのものであったろうか・・・・。
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 【福井】(おくのほそ道)
福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。遥十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ふ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕貌へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝきゞに戸ぼそを隠す。さては、此内にこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものの方に行ぬ。もし用あらば尋給へ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。
 【左内公園】(等栽宅跡) 所在地;福井県福井市
芭蕉と等栽の妻(蕪村画)  芭蕉句碑①「名月の」 芭蕉翁月一夜十五句
 芭蕉は、天龍寺で金沢から見送り・同行してきた北枝と別れ、福井から等哉と共に旅に出、敦賀まで旅寝を共にしたのである。天龍寺から左内公園(等哉宅跡)まで弐里半(芭蕉は三里計という)、「曾良」「北枝」と立て続けに別れた直後の独り歩き、何を考えていたのでしょう。等栽を訪ね2泊した芭蕉は、福井洞哉子(等哉)を①「名月の見所問ん旅寝せむ」と詠み敦賀までの同行を誘うのであった。
 【曾良日記
・八日
 快晴。森岡(
坂井市丸岡町)ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋(北陸街道の宿駅)ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村(福井市灯明寺、燈明寺有り)有。少南ニ三国海道(福井-三国間の街道)有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田塚(新田義貞公墓所、坂井市丸岡町)、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸(福井市黒丸町)見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。 苻中(武生市府中)ニ至ルトキ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄(南越前町今庄町)ニ着、宿。
→曾良は、「丸岡」から「舟橋」そして「符中」までは平坦な道、「符中」より「今庄」まではやや上り坂になるものの、ほぼ直線的にひたすら南下したようだ。
 【敦賀】(おくのほそ道)
漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆は穂に出にけり。鴬の関を過て、湯尾峠を超れば、燧が城・帰山に初雁を聞て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るが如し。往昔遊行二世の上人、大願發起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩なし。古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍る」と、亭主のかたりける。
  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
  名月や北国日和定なき
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「芭蕉翁月一夜十五句」(荊口句帳) 大垣藩士宮崎荊口とその子を中心とする発句・連句の書留
福井洞哉子をさそふ はせを
 ①名月の見所問ん旅寝せむ
阿曽武津の橋
 ②あさむづを月見の旅の明離
玉江
 ③月見せよ玉江の芦をからぬ先
ひなが嶽
 ④あすの月雨占なハんひなが嶽
木の目峠いもの神也と札有
 ⑤月に名をつゝミ兼てやいもの神
燧が城
 ⑥義仲の寝覚の山か月かなし
越の中山
 ⑦山中や越路も月ハまた命
気比の海
 ⑧国々の八景更に気比の月
同明神
 ⑨月清し遊行のもてる砂の上
種の浜
 ⑩衣着て小貝拾ハんいろの月
近が崎雨
 ⑪月いつく鐘ハ沈める海の底
はま
 ⑫月のミか雨に相撲もなかりけり
ミなと
 ⑬ふるき名の角鹿や恋し秋の月
うミ
 ⑭名月や北国日和定なき
いま一句きれて見えず
 
 【玉江の橋】 所在地;福井市花堂町2-3-2  【朝六つの橋】 所在地;福井市浅水二日町14-32
【玉江の橋】③「月見せよ玉江の芦をからぬ先」
 玉江の葦に穂が出ている。この穂波に映る月はさぞや美しいことであろう。この葦が刈り取られないうちにしっかり月見をしておこう。
【朝六つの橋】②「あさむづを月見の旅の明離」
 あさむつ(阿曽武津)は、「明け六ツ(午前
6時)」とかけている。月見をして一晩中歩いていたら朝になって白々してきた、という酔狂を描いている。
 【高瀬公園】 所在地;越前町高瀬1-27十字路  【南条SA(下)】 所在地;越前町上野78-7
【ひなが嶽】④「あすの月雨占なハんひなが嶽」
 明日の晩は、雨になるのか、月は見えるのか。比那が嶽(日野山・越前富士)の晴れ具合でそれを予想してみよう。なにしろ、「北国日和定めなき」で北陸地方の秋の天気の変りやすさは油断ならないのである。
 【鶯の関跡】 所在地;南越前町関ヶ鼻10-18付近  【初音の小坂】 所在地;南越前町湯尾90-36付近
 元禄2年、「奥の細道」旅中「鶯の関」では、鶯の声が聞かれず失望しながら北陸路を歩み、湯尾のこの坂にきて初めて鶯の声に心をうばわれ詠んだとか・・・・。(存疑の部)
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 【湯尾峠頂上】 所在地;南越前町湯尾90-36附近  【南条SA(上)】 所在地;南越前町牧谷39
【ひなが嶽】⑤「月に名をつゝミ兼てやいもの神」
 湯尾峠では疱瘡予防の神様がいる。今宵は八月の十五夜の月、ちょうど里芋が収穫の時期でもあるから古来芋を食う風習があって、別名「芋の月」などとも言う。疱瘡は和語で「いも」という。
 【湯尾峠】(おくのほそ道の風景地) 所在地;福井県南越前町
 名勝「おくのほそ道の風景地」は2014年から指定が始まり、湯尾峠(2021.6)を含めて12県の26ヶ所になる。「湯尾峠」は、南越前町の湯尾地区と今庄地区の間にある標高約200mの尾根約16,300㎡。北ノ庄城主だった柴田勝家が天正6年(1578)に整備したとされる旧北陸道の要地で、今も斜面を固めた石垣や石段、茶屋4軒があった山頂の平場が残る。芭蕉が湯尾峠を詠んだ句、⑤「月に名をつゝミ兼てやいもの神」が、「蕉翁月一夜十五句」に残る。「いもの神」は疱瘡(天然痘)の神のことで、疱瘡よけの札を配っていた峠の孫嫡子神社と中秋の名月に芋を食べる習慣をかけて、同地で見た月の美しさを詠んだとされる。
旧北陸古道湯尾側上口 血頭池入口 急坂13分で峠頂に ご膳井跡(明治天皇水飲)
 血頭池は上野ヶ原の合戦(南北朝時代)で討ち取った高師泰方の大将首を洗った場所
峠道保護の石垣 湯尾峠頂広場 孫嫡子神社
湯尾地区側 芭蕉句碑⑤「月に名を」 峠頂に4軒の茶屋があった 今庄地区側
旧北陸古道「湯尾峠」での記念撮影と説明板 旧北陸線湯尾隧道(この辺りに今庄側上口がある)
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 【今庄宿】 所在地;福井県南越前町
今庄宿の街並み(借用画像6枚) 文政の未知しるべ碑(自前画像)
芭蕉句碑 ⑥「義仲の」 燧が城跡(愛宕山)
【燧が城】⑥「義仲の寝覚めの山か月悲し」
 燧が山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。燧が城を見ていると、あの木曽義仲もこの景色を見ていたかと思うと感慨一入であるというのである。芭蕉は木曽義仲には一種の想い入れがあることを受け「倶利伽羅峠」にも本句の碑がある。
※「奥の細道」碑撮り旅は2度行っている。ここでは、最初の碑撮り旅の「今庄」から「杉津SA」で編集した。2度目の「板取宿」と「木ノ目峠」(編集旅行)はこの項の後にする。
 【杉津PA(上)】 所在地;福井県敦賀市
 杉津PA(上)は福井県敦賀市(旧越前国敦賀郡)に位置し、「古事記」に「角鹿」(つぬが)と記され古代より港湾を中心に栄え北陸と幾内を結ぶ位置から近代以降は鉄道や道路の要地となっていた。当PAは、北陸本線旧線の杉津駅の跡地を利用して建設された。北陸自動車道のPAに設置された「芭蕉の句碑めぐり」はここで終わりになります。
【うミ】 ⑭「名月や北国日和定なき」
そもそも、福井県など北陸三県はわが国有数の降雨地帯。中でも福井は多雨地域である。加えて、仲秋の名月の頃といえば、秋雨前線の発達する時期。この頃ともなると北陸越前では主人に聞かずとも、いたって変わり易い天候になるのだ。
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 【杉津PA(下)】 所在地;福井県敦賀市
【ミなと】⑬「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」
 元禄
2815日。「奥の細道」旅中、敦賀での名月の晩。敦賀はその昔、朝鮮からの渡来人「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)に因んで角鹿(つのが・つぬが)と命名されたという。その後、字のみ改めて敦賀としたといわれている。そこで、古い「角鹿」という地名がこんな秋の月の夜には相応しい感じがする。
 夕日が美しく「恋人の聖地」とされ、眼下に上りPAが見える。右端画像は「何処?」・・・・保存画像で次に、「杉津PA」から下ると「杉津海岸」国道8号、Google Mapで探すと「敦賀市江良」界隈と判明した。
 【板取宿】 所在地;福井県南越前町
 越前への陸路は、戦国時代までは「山中峠」(万葉道)を越える古道と「木の芽峠」を越える「北陸道」(西近江路)だけであった。天正六年(1578)「栃ノ木峠」の大改修を行ってからは陣場の往来は頻繁となり「板取宿」が置かれた。「板取宿」は北国街道(東近江路)の玄関口として近江・越前を結ぶ要の宿として発達した。幕末の頃、戸数53のうち問屋3・旅籠7・茶屋3等が立ち並び賑わっていたという。
 「今庄宿本陣跡」から国道365号で8.5km・約12分で着く。「板取宿」は約350m、その先にも駐車場がある。「板取宿」を抜けると「今庄365スキー場」に行く道路に出る。その道路を横切ると「木ノ芽峠」に行く旧北陸道(旧北国街道)がある。
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 【文政の道しるべ碑】 所在地;福井県南越前町
 古代の北陸道を基にした西近江路は、「今庄宿」(文政の道しるべ;北陸道と北国街道の追分で右京つるが・王可佐道、左京いせ・江戸道)で「木ノ芽峠を越える東近江路」(左京)と袖を分かち、芭蕉は「栃ノ木峠を越える西近江路」(右京)に逸れ「木ノ芽峠」-敦賀へと向った。→Google Map(芭蕉の今庄-敦賀)
 二ツ屋宿は越前から近江へ向う最後の宿場町として関所が設けられた。明治26年の大火で20数戸が焼失し、明治29年に北陸線が開通した為、全戸が移転し現在は一棟も無く建物の基礎の石垣が残るのみです。
1 文政の道しるべ碑 2 木ノ芽古道 3 鹿蒜一里塚 4 往還一里塚跡
5 二ツ屋集落 6 二ツ屋宿場跡 7 二ツ屋制札場跡 8 御膳水問屋跡
9 二ツ屋関所跡 10 笠取峠 11 言奈地蔵 12 峠茶屋跡(現トイレ)
13 木ノ芽峠(前川家は江戸時代から茶屋番や山回役の任に当たってこられた) 明治天皇御膳水
14 武田耕雲斎本陣跡 15 新保集落 16 少彦名神社 17 旧北陸道分岐点
 「12 峠茶屋跡」(現トイレ)まで車で行けるようだが、令和48月(2022)の大雨災害の影響で通行止になっている。Google Mapでも土砂崩れの痕跡が確認出来る。復旧の見通しはたっていないという。徒歩では「板取宿」から片道3.4km1時間の道のりである。一方、「二ツ屋集落改善センター」(南越前町二ツ屋36-29)からだと片道、徒歩5.9km1時間40分程(Google Map)の道のりである。
Google Map 文政の道しるべ旧北陸道分岐点  No.3以降はネットよりの借用画像
 
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 曾良日記(記録)
・九日
 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠(
木ノ芽峠)ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城(燧が城跡)、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガ(敦賀市)ニ着。先、気比(気比神宮)へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎(金ヶ崎町)へ至ル。山上(金崎宮)迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜(敦賀市色浜)へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺(色浜の本隆寺)へ行テ宿。
・十日 朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。
 快晴 巳刻、便船有テ、上宮(
常宮神社)趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺(西福寺)へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガ(敦賀市)ヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や(芭蕉翁逗留出雲屋跡)弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。 
 【敦賀】(遊行上人のお砂持ち像) 所在地;福井県敦賀市
 遊行の砂持ちは、鎌倉時代の正安3年(1301)に、時宗の遊行上人二世の他阿が越前国に遊行(布教)した際、氣比社(氣比神宮)の参道がぬかるみ民衆が難渋しているのを見て、自ら砂を運び修繕したという故事。この故事にちなみ、現在でも遊行上人の交代時にはお砂持ちの神事が行われている。
 他阿は建治3年(1277)に豊後国において、時宗の始祖である一遍上人の門下となり、遊行をおこなった。正応2年(1289)に一遍が亡くなると、他阿はその跡を継ぎ、北陸・関東を中心に遊行した。越前国における時宗の本格的な布教は、この他阿に始まり、越前国の時宗寺院のほとんどを開創したと伝えられる。他阿は正安3年(1301)に敦賀で遊行し、真言宗より時宗に改宗した西方寺に入り、ここから氣比社に参詣した。その当時、西方寺から氣比社へ向かう参道には沼地があり、ぬかるんで参詣の妨げとなっており、他阿は宗徒・氣比の神官・民衆とともに、もっこを担いで海岸から砂を運び、沼地を埋め立て参道を整備したという。これ以降、現在でも神奈川県藤沢市の時宗総本山清浄光寺(通称遊行寺)の法主(遊行上人)が代わると、福井県敦賀市の氣比神宮でお砂持ちの神事が行なわれている。最近では、平成175152005)に「遊行の砂持ち」が11年ぶりに行われた。
 他阿らにより整備された参道は三丁縄手と呼ばれ、氣比社の門前町として賑わうようになった。他阿はまた、氣比社前の護持を願い、自らの彫像を西方寺の堂に安置した。同堂は「御影堂」と呼ばれていたが、昭和20年(1945)に戦災により焼失した。戦後、参道は道を挟んで両側にアーケードのある神楽町一丁目商店街となっている。
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 元禄2814日(1689)、松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の旅で敦賀を訪れ、宿泊した出雲屋の亭主から「遊行の砂持ち」の故事を聞き、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。ちょうど芭蕉が訪れた年にもお砂持ちが行われていたという。この日、晴れた月夜のもと芭蕉は氣比社を参拝している。十五夜の月を楽しみにしていた芭蕉であるが、翌日は雨となった。なお「月清し」の初句とされる「なみだしくや遊行のもてる砂の露」の芭蕉真筆の短冊も残されている。御砂持ち神事旧跡碑は明治32年(1899)に建立。「氣比神宮御砂持神事二代眞教上人御舊跡 「月清し遊行の持てる砂の上」の碑文を刻む。もとは神楽町の西方寺にあったが、昭和20年(1945)敦賀空襲により寺院が焼失、昭和28年(1953)に現在地の松島町来迎寺近くに移転し石碑も移設された。
 「氣比神宮と敦賀の街」(芭蕉句碑)
 金前寺 所在地;敦賀市  氣比神宮 所在地;敦賀市
【近が崎雨】
 ⑪「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」
【同明神】
 ⑨「なみたしくや遊行のもてる砂の露」(初案)
 氣比神宮 「芭蕉翁月五句」  氣比神宮 「芭蕉と敦賀の月」 
【気比の海】
 ⑧「国々の八景更に気比の月」
【同明神】
 ⑨「月清し遊行のもてる砂の上」
【ミなと】
 ⑬「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」
【近が崎雨】
 ⑪「月いつこ鐘は沈るうみのそこ」
【うミ】
 ⑭「名月や北国日和定なき」
【越の中山】
 ⑦「山中や越路も月ハまた命」
【はま】
 ⑫「月のミか雨に相撲もなかりけり」
【 種の浜】
 ⑩「衣着て小貝拾ハんいろの月」



 
越の中山 ⑦「山中や越路も月ハまた命」
 越の中山(木目峠)で、小夜の中山を思い出して、西行の「命なりけり」を連想する。ここを越えると福井市に入る。その昔、佐夜の中山で西行は「命なりけり」と詠ったが、いま私もこの美しい越の中山の月を見ていると、思わず「命なりけり」の感慨をもよおすことだ。
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気比の海 ⑧「国々の八景更に気比の月」
 近江八景などというように美しい景色を愛でる名所は山ほどもあるが、ここ気比の月もこれに加えなくてはいけない。ハッケイとケヒを掛詞としたがために軽っぽくなってしまった一句。
同明神 ⑨「月清し遊行のもてる砂の上」
 芭蕉は等哉を同道して、
814日木の芽峠から敦賀に入り出雲屋という旅宿に泊まった 。「おくのほそ道」に十分解説されている。
種の浜 ⑩「衣着て小貝拾ハんいろの月」
 元禄
2815日。「奥の細道」旅中、敦賀種の浜での名月の晩。西行の歌「潮染むるますほの小貝ひろふとて色の浜とはいふにやあらむ」(山家集)に触発されて作られている。ここ種の浜には、尊敬する西行法師も訪れているという。私もいま墨染めの衣を着てこの浜に立っている。さあ、ますほの小貝を拾おう。丁度今宵は名月の夜、種の浜の種の月だ。
近が崎雨 ⑪「月いつく鐘ハ沈める海の底」
 雨の十五夜の晩。天屋五郎右衛門の案内で金前寺に参詣して詠んだ句。ところでこの鐘ヶ崎城は、新田義貞が足利尊氏と争った場所。建武
436日(1337)、新田軍はここにろう城するも武運つたなく敗戦し、その息新田義顕や尊良親王(後醍醐天皇の息)らがここで自害して果てた。その折に、義貞は軍鐘をこの浜に沈めたというのである。後にこの鐘を引き上げようとしたが、さかさまに沈んで海底の砂に埋まっていて引き上げることができなかったと言い伝えられている。なお、新田義貞は同年72日、福井市の北方の燈明寺畷にて戦死した。
はま ⑫「月のミか雨に相撲もなかりけり」
 元禄
2815日。「奥の細道」旅中、敦賀での名月の晩。この夜、雨。勧進相撲も予定されていたが雨のため中止。北国の秋は天気が変わり易い。案の定雨。名月が見えないだけじゃない、浜で予定されていた相撲大会もこれでできなくなってしまった。踏んだりけったり。残念無念。
 【市民文化センター】(芭蕉句碑)所在地;敦賀市  【出雲屋跡】 所在地;敦賀市
 【気比の海】 ⑧「国々の八景更に気比の月」  芭蕉翁逗留出雲屋跡
 【来迎寺】(敦賀城中門移築) 所在地;敦賀市
 時宗の寺院。元中4年(1387)、国阿上人により開創。16世紀末には敦賀城主、大谷吉継の帰依を受け、戦の前に大谷吉継が預けたとされる加飾腰高障子が残る。また、山門は敦賀城の中門を移築されたもの。
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 【西方寺】(お砂持ち) 所在地;敦賀市
 「氣比神宮御砂持神事」二代真教上人御舊跡や「月清し遊行のもてる砂の上」が刻まれた「芭蕉翁と遊行の砂持ち神事碑」がある。翁とゆかりの深い時宗遊行派の西方寺は昭和207月(1945)戦火をこうむり神楽町からこの地に移った。「来迎寺」の境内に移築され、現在は「来迎寺」の住職が兼務されている。右端画像は「西方寺跡」標
 【天屋玄龍旧居跡】(芭蕉ゆかりの地) 所在地;敦賀市
 芭蕉を色の浜に案内した人物が「おくのほそ道」に「天屋何某」と記された室五郎右衛門です。五郎右衛門は玄流の他に点屋水魚とも号し、当時の敦賀の俳壇では中心的な存在であったと考えられます。天屋は代々俳人を輩出しながら、明治期まで北前船主として活躍し、この地には平成14年(2002)まで煉瓦造の洋館が残されていた。
 【けいの明神】(おくのほそ道の風景地) 所在地;福井県敦賀市
 平成28103日(2016)、氣比神宮境内地のほぼ全域が、名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されました。「おくのほそ道」本文に「けいの明神に夜参す」とあることから、「けいの明神」(氣比神宮境内)が指定名称とされています。芭蕉は「おくのほそ道」の旅の終わりに敦賀を訪れました。
 福井で、旧知の等栽と再会し、「名月はつるがのみなと」で見ましょうと、敦賀を目指しました。仲秋の名月前夜の814日に敦賀に到着した芭蕉の様子は、「おくのほそ道」の中で次のように記されています。
 その夜、月殊に晴たり。「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷けるがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈り、土石を担ひ、泥亭をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主のかたりける。
 氣比神宮は越前国一宮で、鎌倉時代末期に遊行二世他阿上人が自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の逸話が伝わっている場所であり、芭蕉はこの「お砂持ち」の神事と月夜を「月清し遊行のもてる砂の上」と詠みました。
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 表参道大鳥居  本殿鳥居  外拝殿  本殿回廊門
 氣比神宮は、大宝二年(702)の創建と伝えられ、古代から中世にかけて越前国の一宮として勢力を誇りました。戦国時代末期、朝倉氏と命運を共にしたため兵火に遭うも江戸時代に再建された。昭和20年(1945)の空襲では、社殿ほか主要な建築を焼失するも大鳥居は残った。
 大神下前神社・角鹿神社  土公の参道・鳥居  土公・後方に天筒山  氣比宮古殿地の事
 戦後、境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の己む無きに至ったが、土公(氣比之大神降臨の地、傳教大師・弘法大師が祭壇を設け七日七夜の大業を修した所)と参道はかろうじて残された。
 お砂持ちの像  気比の松原  【はま】⑫「月のミか雨に相撲もなかりけり」
 種の浜(おくのほそ道)
十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時の間に吹着ぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。
 色の浜ともいい、種ノ浜とも記す。地名はすおう色のマスホ貝を産することによるという。当地は中古以来の歌枕で、特に西行法師の「汐そむる真蘇枋の小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらむ」(山家集)は有名。また当地の名が与える詩的イメージとして寂念法師の「山おろしに紅葉ちりしく色の浜冬はこしぢのとまり寂しな」があげられる(夫木抄)。「奥の細道」の旅の途中に、松尾芭蕉も西行に倣いマスホ貝を拾おうと敦賀から船で渡り、法花寺(法隆寺)に泊まって、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」などの発句を詠んでいる。                             -16- 
 空模様がおかしくなってきたうえ、「本龍寺」の電話番号と住所、交互にカーナビ設定したのに「何処まで連れて行くの」、30分弱の予定外の「道草」をした。古いカーナビゆえ「本龍寺」と「本龍寺開山堂」の区別がつかない。その上「立石漁港」まで案内されてしまった。
 「小萩ちれますほの小貝小盃」  「衣着て小貝拾わんいろの月」
 「波の間や小貝にましる萩の塵」  遠くに「水島」を望む
「小萩ちれますほの小貝小盃」、「波の間や小貝にましる萩の塵」
 波は引いて砂浜の砂が現れる。そのとき砂の中にますほの小貝に混じって色とりどりの萩の花びらが見える。波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている。
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 【西福寺】 所在地;福井県敦賀市
※曾良日記
・十日 朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。
 快晴 巳刻、便船有テ、上宮(
常宮神社)趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺(西福寺)へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガ(敦賀市)ヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や(芭蕉翁逗留出雲屋跡)弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。
 【孫兵衛茶屋】(西村家) 所在地;福井県敦賀市
 芭蕉の弟子「柏木素龍」が清書し芭蕉が所持していたといわれる「おくのほそ道」底本「素龍清書本」(西村本)が所蔵されている西村家が経営されている「孫兵衛茶屋」に寄らせて頂いた。
Mp3 時の散歩道(75歳の生まれ変わり)