野ざらし紀行
(貞亨元年8月~貞亨24月)
 江戸時代の俳人・松尾芭蕉(1644-94)の最初の紀行文である「野ざらし紀行」の自筆図巻が半世紀ぶりに再発見された。「野ざらし紀行」は芭蕉最初の紀行文であるとともに、蕉風と呼ばれる芭蕉の俳風が完成する契機になったと考えられています。              野ざらし紀行図巻(松尾芭蕉自筆図巻)
※本画像ならびに文中の一部の句碑はネットより拝借させて頂きました。お許しをお願い申し上げます。
 芭蕉は、門人の千里ちりを伴い貞享元年8月(1684)から翌年4月にかけて故郷の伊賀上野に旅をしました。芭蕉41歳の時で、「奥の細道」への旅の5年前のことです。この旅路で記録した俳諧紀行文が「野ざらし紀行」で、題名は本文中の最初の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」から来ています。
 芭蕉は深川の芭蕉庵を立ち、東海道から伊勢路に入り、まず伊勢神宮に詣でました。その後、故郷伊賀上野に行き、兄と会い、母の墓参をしてから、同行の千里の故郷である大和竹の内を訪れ、一人で吉野に行ってから古の郷愁に浸っています。その後、大垣、桑名、熱田、名古屋に行ってから、再び伊賀上野に戻り越年します。故郷で年を越した後、奈良東大寺を見てから京に行き友人と旧交を暖めて、その後に、大津、水口、熱田と東海道を下り、途中で甲斐の谷村に立ち寄って一路江戸に向かいました。
野ざらし紀行(末尾部分) (年の暮部分) (二月堂部分)
  野ざらし紀行(序) 深川芭蕉庵;東京都江東区・・・・・貞享元年(16848月中旬
千里に旅立て路糧をつゝまず、三更月下無何入といひけん、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、風の声そゞろさむげなり。
 野ざらしをこゝろに風のしむ身かな
 秋十とせ却て江戸を指ス古郷
  178 野ざらしを心に風のしむ身哉
旅の途中で行き倒れて野晒し(野ざらし)の白骨となる覚悟で、いざ出立しようとすると、たださえ肌寒く物悲しい秋風が、いっそう深く心にしみるわが身だ。
   ふるさと芭蕉の森公園;三重県伊賀市(芭蕉の出身地)
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  179 秋十(あきと)とせ却(かへつ)て江戸を指古鄕(こきやう)
これから故郷へ向けて江戸を旅立つ身だが、江戸で十回の秋を過ごした歳月を思うと、故郷は伊賀上野ではなくて、逆に江戸のような気がしてくるなあ。多摩川を渡り川崎宿に入り江戸を振り返り吟じたのだろう。
   稲毛神社;神奈川県川崎市
  野ざらし紀行(箱根越え) 箱根;神奈川県箱根町
関こえる日は、雨降て山みな雲にかくれけり。
 霧時雨不二を見ぬ日ぞおもしろき
何がしチリと云けるは、此たび道のたすけとなりて、万いたはり心をつくし侍る。常に莫逆のまじはり深く、朋友に信有哉此人。
 深川や芭蕉を不二にあづけゆく チリ
※「何がしチリ」とは、蕉門の一人である粕谷千里(粕谷甚四郎)、千里(ちり)は俳号、大和国竹内村(奈良県葛城市)の出身。
  180 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
箱根の関を越える日に霧雨が降り遠くの景色も深い霧に包まれ富士山は隠れている。例え見えなくても心にその姿を思い描きながら旅をすると、これまた富士の眺望を楽しむ一つかと面白い。
   冠峰楼と富士見台;神奈川県箱根町
  000 深川や芭蕉を不二にあづけゆく チリ
芭蕉の庵のある深川の地よ、彼の心がお前の方を向いていないからといって悪く思うなよ。彼の思いはこのわたしが、富士の方へと預けに行ってしまうのだ。
   綿弓塚;奈良県葛城市
貞亨元年頃。浅草に住んでいた門人千里を訪ねてもてなされた。千里については、芭蕉をして「朋友信有るかな此の人」と言わせる程に誠実な人だった。千里の心づくしで海苔の入った味噌汁を頂いた。その浅黄の椀の使い方もよく実によい手際である。謝礼を込めた挨拶吟。千里はこの後「野ざらし紀行」に同行する。
あさくさ千里がもとにて
168 海苔汁の手際見せけり浅黄椀(あさぎわん)
  野ざらし紀行(富士川の捨て子) 富士川(東海道);静岡県富士市
不尽川のほとりをゆくに、三ばかりなる捨子のあはれげに泣あり。此川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたえず、露ばかりの命まつ間と捨置けん、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂よりくひ物なげて通るに、
 猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に憎まれたるか、母にうとまれたるか、父は汝を憎むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ、只これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。
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  181 猿を聞人(きくひと)捨子(すてご)に秋の風いかに
富士川の畔で3歳位の捨て子が泣いている。我が子を川の早瀬に投げ入れるのは辛い。せめて誰かに拾われ生きて欲しい。芭蕉は親の心情をこう推察した。句の猿には、子を失った母猿の「断腸の思い」を重ねている。
   平垣公園;静岡県富士市
  野ざらし紀行(大井川) 大井川(東海道);静岡県島田市
大井川をこえる日は、終日雨ふりければ、
 秋の日の雨江戸にゆび折ん大井川 チリ
眼前(一本「馬上の吟」とあり)
 道の辺の木槿は馬に喰れけり
000 秋の日の雨江戸にゆび折ん大井川 チリ 句碑なし
秋の雨続きに江戸の人々は指折り数えて私たちのことを、そろそろ大井川にかかったかな、ひょっとして川で足止めを食っているかもと話し合っているかもしれない。
  182 道の辺の木槿(むくげ)は馬に喰れけり
馬に揺られながら道端の垣根に木槿の花が咲いているなと何気なく見ていると、その花が突然パクリと馬に食われて、気がついた時には木槿の花はもう影も形もなくなっていた。
   小夜の中山(路傍);静岡県掛川市 長光寺;静岡県島田市 
  野ざらし紀行(小夜中山) 小夜の中山;静岡県掛川市・・・・・貞享元年(1684820日過ぎ
廿日あまりの月のかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至て忽驚く。
 馬に寝て残夢月遠し茶の煙
「小夜の中山」(佐夜の中山)は、静岡県掛川市佐夜鹿に位置する峠。最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓の日坂宿の入口には事任八幡宮があり、多くの人々が旅の安全を願って立ち寄ったと伝わる。古くから、箱根峠や鈴鹿峠と列んで、東海道の三大難所として知られる。また歌枕として古今集などで歌われ、西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の歌碑などが存在する。
  183 馬に寝て残夢(ざんむ)月遠し茶のけぶり
廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。杜牧の詩に追加したものといえば、静岡名産「茶のけぶり」だけである。
   諏訪原城跡;静岡県島田市
  野ざらし紀行(伊勢往路)
松葉屋風瀑が伊勢にありけるを尋ねおとづれて、十日ばかり足をとゞむ。
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  野ざらし紀行(外宮) 伊勢神宮;三重県伊勢市・・・・・貞享元年(1684830
腰間に寸鉄を帯ず、襟に一嚢をかけて、手に十八の珠をたづさふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、鬢なきものは浮屠の属にたぐへて、神前に入ことをゆるさず。暮て外宮に詣侍りけるに、一の鳥居のかげほのくらく、御燈処〳〵に見えて、また上もなき峰の松風身にしむばかり、深き心をおこして、
 みそか月なし千とせの杉を抱あらし
184 みそか月なし千(ち)とせの杉を抱あらし 句碑なし
外宮の千年杉が、三十日の月の無い漆黒の闇の中に屹立している。その根方に立って見上げると、樹間を通る秋の強い風に黒々とした枝が揺れる。それは、この杉がまさに嵐に抱かれているといった威容である。
  野ざらし紀行(西行谷) 西行谷;三重県伊勢市
西行谷の麓にながれあり。女どものいも洗ふを見るに、
 芋あらふ女西行ならば歌よまん
※西行谷:宇治館町岩井田山麓(三重県宇治山田市)に西行が庵をむすんだと伝承。「西行と芭蕉」について記した記事を以下に記す。
芭蕉が西行に直接触れた記事としては、「野ざらし紀行」があげられる。これは貞享元年(1684)から翌年にかけて東海、伊勢、吉野、奈良、京都に旅した記録だが、伊勢と吉野にある西行ゆかりの場所をそれぞれ訪ねた記事がある。伊勢については、「暮れて外宮に詣でけるに、一の華表の陰ほのくらく、御燈処々に見えて、また上もなき峯の松風、身にしむ許、ふかき心を起して
 みそか月なし千とせの杉の抱くあらし
この句は西行の次の歌を踏まえている。
 深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峯の松風
神路山は伊勢神宮の背後にある山である。西行はその山の麓に庵を結んでいたと信じられていた。
平安時代末頃の歌人西行は、仏道修行とともに歌を詠み諸国を遍歴していたが、晩年になって伊勢に移住したと言われる。この伊勢での西行の住まいをめぐる推定地あるいは伝承地が「西行谷」で、大きく分けてi二ヶ所の説がある。一つは「二見の西行谷」であり、もう一つの説が「宇治の西行谷」と言われる。
  185 芋あらふ女西行ならば歌よまん
西行法師なら、彼女ら川で芋を洗う女達を見たら歌を詠んで語りかけたことであろうという意味か、自分が西行ならば、女達は私に歌を詠んでくるであろうに、という意味か?。
   医師会館(福島区);大阪府大阪市 
  野ざらし紀行(茶店にて)
其日の帰るさ、ある茶屋に立よりけるに、蝶と云ける女、あが名に発句せよといひて、しろき絹出しけるに書つけ侍る。
 蘭の香や蝶のつばさに薫す
186 蘭の香や蝶のつばさに薫す(句碑なし)
「吾が名(蝶)に発句せよ」という要望に応えた。「蘭」は「藤袴」、ならば古市の色茶店の女主人「てふ」は「浅葱斑」であろう。生涯学習講座「芭蕉を読む」で、少しばかり蝶狂人の本領を覘かせてしまった。
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  野ざらし紀行(茅舎)
閑人の茅舍を訪て
 蔦植て竹四五本の嵐かな
187蔦植て竹四五本の嵐かな(句碑なし)
廬牧は、実に小さな庵に閑居していたのであろう。誉めるものとて無い侘び住まいのなかに小さな庭とも言えない地続きの庭園があった。ここに生えている蔦もわざわざ植えたのかどうか怪しい。秋の風は
4-5本の竹薮を思う存分騒がせて通り抜けて過ぎ去っていく。世界を凝縮した廬牧の庵へのとっさの挨拶吟。芭蕉は「閑人の茅舎」(かんじんのぼうしゃ)時には「廬牧亭」とも呼んでいた。それが誰かは不詳、ここでは蔦の生えた隠遁の貧しい家(茅舍)。
  野ざらし紀行(伊賀上野) 伊賀上野;三重県伊賀市・・・・・貞享元年(16849初旬
長月のはじめ、故郷に帰て、北堂の萱草も霜がれ果て、跡だになし。何事もむかしにかはりて、はらからの鬢白く眉皺よりて、只命有てとのみいひて、ことの葉もなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髮おがめよ、浦島が子の玉手箱、汝が眉もやゝ老たりとしばらく泣て、
 手にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜
  188 手にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜
亡くなった母の白髪を手にしたら、「浦島の子」のように長い間故郷を留守にしていた自分の人情の無さを思い知り、熱い涙があふれた。この私の涙に秋の霜も消えてしまうことだろう。
   JR関西本線柘植駅前;三重県伊賀市
北堂の萱草(ほくどうのかんぞう)、古代中国では母は北の離れに住み、そこを「北堂」と呼んだ。「萱草」はユリ科の花。「はらからの鬢」(同胞の鬢/はらからのびん)とは兄弟姉妹、「兄」(このかみ)は松尾半左衛門。芭蕉は6人兄妹の第三子であった。
  芭蕉翁と生家 史跡芭蕉翁生家;三重県伊賀市
 芭蕉翁は寛永21年(1644)、現伊賀市で生まれました。両親と6人の兄弟の中で育ちました。大きくなった芭蕉は、藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に奉公に出て嫡男の良忠に仕えました。俳号を蝉吟(せんぎん)といった良忠の縁で、京都の北村季吟に俳諧を学ぶ機会を得たと思われます。良忠の死後、芭蕉は趣味としていた俳諧を職業とし、俳諧師として生きるために江戸へ出ます。父の死後、当主は兄となっていましたが、江戸へ出た後も法事などで家へ戻り、故郷の人々と交流を持っていました。
  野ざらし紀行(竹の内) 竹の内(竹内街道);三重県葛城市
大和国に行脚して、葛下郡竹の内と云所に至る。此所は例のちりが旧里なれば、日頃とゞまりて足を休む。藪より奥に家有、
 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥
  189 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥
西行法師なら、彼女ら川で芋を洗う女達を見たら歌を詠んで語りかけたことであろうという意味か、自分が西行ならば、女達は私に歌を詠んでくるであろうに、という意味か?。
   綿弓塚(句は側面);奈良県葛城市
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  野ざらし紀行(當麻寺) 当麻寺;三重県葛城市
二上山当麻寺に詣て、庭上の松を見るに、およそ千とせも経たるならん、大さ牛を隠すとも云べけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて斧斤の罪をまぬかれたるぞ、幸にして尊し。
 僧朝顔幾死かへる法の松
  191 僧朝顔幾死(いくしに)かへる法の松
  たまたま仏縁に恵まれた老千年の松からみれば、この寺の僧侶の命は朝顔の花のような短さに違いない 。それなのに、この長い年月変わらず伽藍が保たれていることこそ代々の僧の信仰の証しと実に尊いことだ。
  奈良県立図書情報館所蔵大和圖會より    當麻寺(たいまでら);奈良県葛城市
  野ざらし紀行(奥吉野) 奥吉野;奈良県吉野町
ひとり芳野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋て、山賤の家処〴〵にちひさく、西に木を伐音東にひゞき、院〳〵の鐘の声は心の底にこたふ。昔より此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや唐土の廬山といはんもまたむべならずや。
ある坊に一夜をかりて
 碪打て我に聞せよや坊が妻
  129 碪(きぬた)打て我に聞せよや坊が妻
吉野の秋の夜、砧の音を聞いて古歌の情趣を偲び山里の寂しさをも身に染みこませたかったのでしょう。
   吉野金峯山東南院;奈良県吉野町
※右画像;砧打ちは汚れを落とす洗濯の後で皺を伸ばし艶を出すことである。砧(きぬた)は、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、皺をのばすための道具。また、この道具を用いた布打ちの作業を指す。古代から伝承された民具であり、古くは夜になるとあちこちの家で砧の音がした。その印象的な音は多くの和歌にも詠まれ[2]また数多くの浮世絵の題材とされてきた。日本の家庭では、炭を使うアイロンが普及した明治時代には廃れた。和語の語源は「キヌイタ(衣板)」に由来するといわれる。衣を打つのに用いた石の台。または草を打って柔らかくするのに用いる石のこと。台のほうが「きぬた」であり棒の方ではない。
  世界遺産 金峯山修験本宗総本山 金峯山寺;奈良県吉野町
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。
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  野ざらし紀行(とくとくの泉) 西行庵;奈良県吉野町
西上人の草の庵の跡は、おくの院より右の方二丁ばかりわけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづかにありて、さかしき谷を隔たる、いと尊し。かのとく〳〵の清水はむかしにかはらずと見えて、今もとく〳〵と雫落ける。
 露とく〳〵こゝろみに浮世すゝがばや
もしこれ扶桑に伯夷あらば、必口をすゝがん。もし是非許由に告ば、耳を洗ん。
  193 露とく〳〵こゝろみに浮世すゝがばや
西行の歌「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」に因んで「とくとくの清水」が西行庵の近くにあった。ここに浮世は、たんに一般論としての汚辱にまみれた俗世間ではなく、芭蕉自身の名利願望といった世俗的欲望を指しているのであろう。
   苔清水(西行庵);奈良県吉野町
  野ざらし紀行(後醍醐陵) 後醍醐天皇陵;奈良県吉野町
山をのぼり坂を下るに、秋の日既になゝめになれば、名ある処〴〵見残して、先後醍醐帝の御陵を拝む。
 御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草
  194 御廟(ごびょう)年を経てしのぶは何をしのぶ草
後醍醐天皇の墓は、吉野で年を経て、軒には忍草が生えている。そのしのぶは、いったい何を思い出として偲んでいるのか。芭蕉は吉野へ来て、南朝の流寓の天子への懐古に胸の高鳴りを覚えています。
   如意輪寺;奈良県吉野町
  野ざらし紀行(常盤塚) 常盤塚;岐阜県関ケ原町
大和より山城を経て、近江路に入て、美濃に至る。います山中を過て、いにしへ常盤の墳あり。伊勢の守武が云ける、義朝殿に似たる秋風とは、いづれの処か似たりけむ。我もまた
 義朝のこゝろに似たりあきの風
  196 義朝のこゝろに似たりあきの風
を覚えています。
   常盤塚;岐阜県関ケ原町
※います山中→今須・山中、ともに岐阜県関ケ原町の地名。伝説では、奥州平泉にいる息子の義経を追って中山道の山中宿まで来た時に盗賊に遭って殺害されている。哀れに思った里人が塚を築いたという。現在でも、関ケ原の山中に常盤御前の墓がある。
※室町時代の連歌師である伊勢の荒木田守武の「守武千句」に残っている「月見てや常盤の里へかへるらん義朝殿ににたる秋風」が参考にされています。「月見てや常盤の里へかへるらん」の前句に対し、付句の「義朝殿に似たる秋風」に「の心」と入れただけで本句を完成させました。
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  野ざらし紀行(不破の関) 不破の関;奈良県吉野町
不破
 秋風や藪もはたけも不破の関
  197 秋風や藪もはたけも不破の関
伊吹おろしの不破の関はすでに晩秋の気をたっぷり漂わせていたに相違ない。それゆえ、藤原良経の歌「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」(新古今和歌集)をふまえて作ったが、その俳諧化は見事と言うほかない。
   美濃不破関跡;岐阜県関ヶ原町
不破関は、古代東山道の関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった。「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673)に関所として設置された。
  野ざらし紀行(大垣) 不破の関;奈良県吉野町・・・・・貞享元年(16849月下旬
大垣に泊りける夜は、木因が家を主とす。むさし野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、
 死もせぬ旅ねのはてよ秋のくれ
198 死もせぬ旅ねのはてよ秋のくれ
 本紀行の旅のはじまりの気負いたつ気分「野ざらしを心に風のしむ身かな」も、旅の後半ともなってくると、その折の心情を振り返る精神的ゆとりもでてきた。同時に、この時期から芭蕉俳諧に微妙な変化が現れてくる。この後、木因は芭蕉を送って桑名・熱田まで行く。
壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子が天武天皇となり不破道に関所を設置。西国と東国の要衝である不破を抑え、戦況を有利に進められたことで、不破道の重要性や危険性を感じ関を置いたと伝承。東山道の「美濃不破関」は、東海道の「伊勢鈴鹿関」、北陸道の「越前愛発関」とともに大宝令(701年制定)に定められた「三関」のひとつ。不破関には美濃国府に勤務する関司(城主)が兵士とともに常駐し国家の非常事態に備える一方、通行する人々の検査をする警察的機能も果たしていた。789年、三関は突如として廃止、その維持費が大きくかさみ停廃せざるを得なかった。
  芭蕉にとって「野ざらし紀行」とはどんな位置付けだったのか・・・・
 「野ざらし紀行」の旅は、貞享18月江戸深川出発から、翌年4月江戸に戻るまでの往路東海道、復路中山道・甲州街道経由江戸帰着までの2,000kmの大旅行であった。その中には、先年身罷った母の墓参も含まれてはいたが、俳人芭蕉にとってもっともっと大きな心中期すものがある旅であった。芭蕉は、延宝9年、江戸の繁華街日本橋から、未だ辺地であった深川に隠棲し、途中甲斐の谷村への疎開などもあったが、総じて深川で詩人としての基礎体力を養成し、この頃までにすでに高い新規性をも蓄積していた。それが、後世「蕉風」という名で称される芭蕉俳諧の源泉であった。その成果を問う旅が、この「野ざらし」なのである。それゆえに、出発に当たっては相当に高くテンションを上げていたのであって、それが冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」に結実しているのであろう。
 しかし、その成果は、すぐに現れた。名古屋蕉門の創設とその果実として「冬の日」が編纂されるという想定外の成果が出現したことである。その後は、もはや芭蕉の行くところ歓迎の声一色。蕉風確立の大成功の旅であった。芭蕉真蹟本として、「藤田本」と「天理本」があるが、ここは前者による。なお、「野ざらし・・」の板本は死後元禄
11年に「濁子本」として出版されたものが最初で、芭蕉はこれを知らない。「野ざらし紀行」は、芭蕉の本格的文芸作品だが、命名は自身ではない。他に「甲子吟行」「芭蕉翁道乃紀」などの呼称も用いられている。
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  野ざらし紀行(桑名) 本願寺別院(本統寺);三重県桑名市・・・・・貞享元年(168410
桑名本当寺にて、
 冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
  201 冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
暦がひっくり返った関係になっている句。郭公は、牡丹の咲く頃の鳥で、夏の季題。今は冬。なのに夏咲くべき牡丹が咲いている。そこへ千鳥が来て囀っているので、千鳥は雪の郭公だというのである。
   本統寺;三重県桑名市
本統寺を尋ねた。住職琢恵(俳号古益)は北村季吟門下の俳人でもあった。つまり芭蕉や同行の木因とは同門ということになる。この時、木因は「釜たぎる夜半や折々浦千鳥」と詠んでいる。
  野ざらし紀行(桑名浜辺) 浜の地蔵(龍福寺);三重県桑名市
草の枕に寝倦て、まだほのぐらき中に浜の方へ出て、
 あけぼのやしら魚白き事一寸
  202 あけぼのやしら魚白き事一寸
初案は「雪薄し白魚しろきこと一寸」。推敲で本句になった。作品の季題は冬から春のあけぼのに変った。10月桑名での作だから、初案であるが、詩的価値ではこちらの方が数倍上がっている。
   龍福寺;三重県桑名市
左の句碑は「あけぼのや」、右の句碑は「雪薄し」と木因の「白うおに身を驚な若翁」
  野ざらし紀行(熱田神宮) 熱田神宮;愛知県名古屋市
熱田に詣
社頭大に破れ、築地はたふれて草むらにかくる。かしこに縄を張て小社の跡をしるし、こゝに石をすゑて其神と名のる。蓬しのぶ心のまゝに生たるぞ、なか〳〵にめで度よりも心止りける。
 しのぶさへ枯て餅かふやどりかな
206 しのぶさへ枯て餅かふやどりかな
「しのぶ」は、掛詞となっていて、枯れた「忍ぶ草」が風にゆれている廃虚の熱田神宮と、「昔を偲ぶ」縁の無い荒廃ぶりの神社の姿である。その熱田神宮を茶店の縁台で餅を食いながら見ているというのである。
それほどに荒廃していたが由緒ある神社である。
 三種の神器の一つである草薙剣を祀る神社として知られる。この剣は、鎮座の後も盗難に遭ったり、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇
43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)、「伊勢神宮に亞ぐ御由緒の尊い大社」)とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る。建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、明治26年(1893)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった。
しかし、
2年後の「笈の小文」の旅では綺麗に改修されている。
 
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また、熱田神宮は源頼朝との縁も深い。
 熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前は、源義朝に嫁ぎ、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝を産んだ。頼朝は熱田神宮を尊崇し、鎌倉の鶴岡八幡宮に熱田社を勧請したという。熱田神宮の西側、伏見通沿いにある誓願寺は、大宮司藤原季範の別邸があった所とされ、由良御前は頼朝をここで生んだと伝えられている。また、瑞穂区にある龍泉寺の門前には、頼朝の産湯の井と伝えられる「亀井水」が残されている。
 源頼朝の異母弟の義経は、預けられていた京都の鞍馬寺を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ向かう途中で、熱田神宮大宮司を烏帽子親として元服したと伝えられている。
  野ざらし紀行(名古屋) 熱田神宮;愛知県名古屋市
名護屋に入道のほど諷吟す。
 狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉
 草枕犬もしぐるゝかよるの声
雪見にありきて
 市人よこの笠売う雪の笠
旅人を見る
 馬をさへながむる雪のあしたかな
海辺に日をくらして
 海暮て鴨の声ほのかに白し
209 狂句木がらしの身は竹斎に似たる哉
 竹斎は江戸時代初期の仮名草子「竹斎」の主人公、藪医者で頓智で病を治し狂歌で名声を博したという。その格好は乞食同然ださうだ。芭蕉はその竹斎を「侘びつくしたるわび人」 としている。「侘び」はむずかしい。「飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい」とされるが、こころざしが破れたわびしさを受け止め、その人の心中に時代や社会的名声や地位を超えた価値を見出そうとする境地という意味があるようだ。極限まで削ぎ落とされた世界から無限を感じる美意識、物が無いことは「貧しい」状態ではなく「美しい」という高い次元の精神のあり方。芭蕉は竹斎に、時流の社会の価値観に囚われることない竹斎的世界をみているのだろうか。
 木枯らしが吹きすさぶなか、笠は長旅の雨で朽ち、外套もぼろぼろの姿で竹斎がやってきた。いやそれは私の姿なのだと、芭蕉はいう。「 侘びつくしたるわび人」、それは狂句、風狂に生きる芭蕉の心意気である。
「冬の日」(歌仙)
笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまり、とまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る。    芭蕉
 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
 たそやとばしる笠の山茶花    野水
有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮
 かしらの露をふるふあかむま   重五
鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国
 日のちりぢりに野に米を刈る   正平
   蕉風発祥の地碑(野水旧居跡);愛知県名古屋市
この歌仙は、貞享元年10-11月(1684)、「野ざらし紀行」中の芭蕉を迎えて名古屋で興行された「冬の日-尾張五歌仙」所収の最初の巻である。
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  210 草枕犬もしぐるゝかよるの声
人間世界に紛れ込んで住んでいる共同生活者ではあるが、人間とは棲み分けて生きている動物であり、いわゆる野良犬なのである。芭蕉も、もとより帰る家はない草枕である。我もまた草枕、旅にしあれば、そぼ降る雨の中の犬の気持ちがよく分かる。
   先手観音堂(鹿嶋山観水寺跡);宮城県大崎市
  211 市人よこの笠売う雪の笠
使い古した傘、それも雪の付いた傘を売ろうというのは「竹斎」級の風狂である。俳諧に開眼した芭蕉の自信とゆとりと心の軽やかさを感じさせる。
   水除神社;岐阜県羽島市
  205 馬をさへながむる雪の朝哉
句の配列順序とは違って、この句の方が「狂句木枯し…」より先に、熱田で作られたらしい。嘱目吟。予期せぬ雪の朝、一面の白銀の世界では、いつもは見慣れた馬の過ぎ行く姿も新鮮なものとして目に入ってくる。
   馬頭観音;愛知県豊田市
  213 海くれて鴨のこゑほのかに白し
熱田で夕闇に舟を浮かべての作。海暮れてというから既に視界は失われている。夕闇につつまれて見えない空間から伝搬してくる鴨の声を、「白し」と色で表現した感覚はさすが。「ほのかな」とは暮れなずむ暮色の表現でもあるのだろう。
   尾張三杜;愛知県半田市
  野ざらし紀行(年の暮) 史跡芭蕉翁生家;三重県伊賀市
こゝに草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、
 年くれぬ笠きて草鞋はきながら
といひ〳〵も山家に年をこえて、
 誰聟ぞ歯朶に餅おふ丑のとし
  214 年くれぬ笠きて草鞋はきながら
吉野の秋の夜、砧の音を聞いて古歌の情趣を偲び山里の寂しさをも身に染みこませたかったのでしょう。
 JR新堂駅前;三重県伊賀市 中山道今須宿;岐阜県関ケ原町
「尾張伊勢路を経て、末廿五日又いか(伊賀)にあり」とある。山家(故郷の伊賀を指す)に年を越て、貞亨元年1225日、芭蕉は郷里伊賀上野の兄松尾半左衛門宅に帰りここで越年。
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224 誰(た)が聟(むこ=婿)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年
この地方では、年始に新妻の実家に羊歯を添えた鏡餅を贈る風習があった。丑年の春、牛の背中にその鏡餅を載せて、牛を追いたてて行く若い婿の姿は、芭蕉にとって久しぶりに見る懐かしい光景だったのであろう。どこの家の婿だろうか、牛の背に羊歯と餅を乗せて妻の実家に餅を持っていくのは・・・・と。
  野ざらし紀行(二月堂お水取り) 東大寺二月堂;奈良県奈良市
奈良に出る道のほど、
 春なれや名もなき山の朝がすみ
二月堂に籠て、
 水取や氷の僧の沓のおと
  227 春なれや名もなき山の朝がすみ
二月堂参篭のために伊賀を発って奈良へ向かう、その途中吟。伊賀は盆地ゆえ、何処へ行くにも峠を越えなければならない。冬だ冬だと思っていたのにお水取りの頃ともなると春の気が立ってくる。
   くれは水辺公園;三重県伊賀市
  228 水取や氷の僧の沓のおと
厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。
   東大寺二月堂;奈良県奈良市
  野ざらし紀行(鳴滝) 鳴滝;京都府京都市
京に上りて三井秋風が鳴滝の山家を訪。
梅林
 うめ白しきのふや鶴をぬすまれし
 樫の木の花にかまはぬすがたかな
  231 うめ白しきのふや鶴をぬすまれし
梅林の白梅が見事です。この梅を愛して山荘に籠る亭主は、孤山に隠れて梅と鶴を無上に愛した林和靖を偲ばせるが、和靖なら飼っているはずの鶴が見えぬのは、昨日あたり盗まれでもしたのですか。
   鳴滝;京都府京都市
貞享22月(1685)、芭蕉は「野ざらし紀行」の途中、奈良のお水取りを見物して、その後この鳴滝村を訪ねた。芭蕉門下で俳人の三井秋風の山荘「花村園」を訪ねてきて、ここで半月ばかり逗留していた。
 「うめ白しきのふや鶴をぬすまれし」(芭蕉)の返句として「杉采に身擦る牛二つ馬一つ」(秋風)
として、芭蕉が詠んだ句のような鶴はいないが、杉采に体を擦り付ける牛が
2頭、馬が1頭いますよ、と詠んでいる。なぜ芭蕉はこの山荘の庭に鶴の姿を想像したのだろう。
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前詞に「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家をとふ」とある。京都府上京区鳴滝の梅林を訪ねて。三井秋風は後の三井財閥を形成する越後屋一門の長者(富豪)。鳴滝に別荘「花林園」を持ち、関西文壇のサロンとなっていた。
  232 樫の木の花にかまはぬすがたかな
春の百花は美しさを競っているが、その中であたりにかまわず高く黒々とそびえる樫の木は、あでやかに咲く花よりもかえって風情に富む枝ぶりであることだ。
   香集寺;群馬県前橋市
秋風の堂々たる態度を誉めそやした挨拶吟。この句の脇は「家する土を運ぶ燕」(秋風)。
  野ざらし紀行(京都再会)
伏見西岸寺任口上人に逢て
 我衣に伏見の桃の雫せよ
大津に出る道、山路をこえて、
 山路来て何やらゆかしすみれ草
湖水眺望
 からさきの松は花より朧にて
水口にて、二十年を經て故人に逢ふ
 命二つの中に生きたる櫻哉
  233 我衣に伏見の桃の雫せよ 伏見西岸寺
芭蕉が伏見に任口上人を訪ねたのは桃の花咲く頃、西岸寺の境内にも桃の花が咲いていたかもしれない。芭蕉と任口は任口の磊落な人柄もあって十分に親しかったようだ。久々の邂逅に任口に対する宗教的尊崇の念を保ちながら詠んでいる。
   伏見西岸寺;京都府京都市
  234 山路来て何やらゆかしすみれ草 大津への道
初案は「何とはなしに」であった。菫の花びらはよくよく見ると何やら人面のような模様がある。落ち葉散り敷く山路に一株咲いている紫の可憐な花びらをしげしげと見て、思い出す人に似て「何やらゆかし」となったのであろうか。
 ほほえみの水辺公園;滋賀県湖南市
  235 唐崎の松は花より朧にて 大津の本福寺別院
初案は「辛崎の松は小町が身の朧」、故に近江八景唐崎の松と小町が詠い込まれたのであろう。芭蕉は「深い意味は無い。ただ花より松の方が朧で面白かっただけだ」と言ったという。
 唐崎神社;滋賀県大津市
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  238 命二つの中に生たる櫻哉 甲賀の水口

芭蕉が江戸に出奔したとき土芳は10歳の少年、いまや立派に成人した土芳との19年ぶりの再会は「命なりけり」の感慨を大いに感じたであろう。息せき切って跡を追ってきた土芳の心根を知ればその想いは昂ぶったことであろう。

 大岡寺;滋賀県水口町
  野ざらし紀行(吟行)
貞亨2年、42歳。「野ざらし紀行」の旅の折、伊賀上野界隈にて。土芳との吟行とされている。
 菜ばたけに花見がほなるすゞめかな
  238 命二つの中に生たる櫻哉 甲賀の水口
一面の菜の花畠に雀が群がっている。かれらも花見をしているのであろう。
 岩根小学校;滋賀県湖南市
土芳(服部半座衛門保英)、伊賀藩藤堂家の武士。「野ざらし紀行」の旅のおり、東上の途についた芭蕉を追って水口まできて再会を果たし、蕉門に入る。この時、芭蕉は「命二つの中にいきたる桜かな」と感動的に詠んだ。芭蕉をひたすら慕い、元禄元年3月には、伊賀上野の南郊に草庵「蓑虫庵」をひらいた。30歳の若さで藤堂藩士引退し、以後俳諧一途の生涯を送った。享保15年、享年74歳を一期として没。「三冊子」「蕉翁文集」「蕉翁句集」などの著者として、師の記録を後世に残すなど芭蕉亡き後、伊賀蕉門の第一人者になる。
  野ざらし紀行(訃報
伊豆国蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張国まで跡をしたひ来りければ、
 いざともに穂麦くらはん草枕
此僧我に告て云、円覚寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ遷化し給ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、まづ道より其角が方へ申つかはしける。
 梅恋て卯の花をがむなみだかな
  242 いざともに穂麦くらはん草枕 尾張への道中
正念寺に近い農家に泊めてもらったそうです。空腹の芭蕉に農家の老婆が大麦を青刈りし、餅のようにした「青ざし」を精一杯の志として振舞ったそうです。芭蕉はそれに喜び、詠んだ句が刻まれています。
 正念寺;愛知県春日井市
「野ざらし紀行」帰路、尾張の熱田。 この僧の情熱に応えて、旅を共にする提案受諾の吟。伊豆国蛭が小島(その昔源頼朝が島流しにあった場所)の桑門(誰かは不詳)、これも去年の秋より行脚しけるに、我名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張国まで跡をしたひ来りければ・・・・、
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  243 梅恋て卯の花をがむなみだかな 大顛和尚の訃報
大顛和尚の訃報に触れての鎮魂歌。和尚は梅をこよなく愛しておられた。遷化されたのはその梅の季節という。今は卯の花の真っ盛りなので梅に代わって卯の花を拝みながら涙している。
 浄因寺;愛知県沼津市
大顛和尚は、鎌倉円覚寺の第163世住職。貞亨213日遷化。蕉門の俳人で、幻吁が俳号。 其角の参禅の師でもあった。
  野ざらし紀行(杜国との別れ )
杜国におくる
 白げしに羽もぐ蝶のかたみ哉
245 白げしにはねもぐ蝶の形見哉
名古屋の米商人であったが、空売の罪で渥美半島南端の保美へ流罪となっていた坪井杜国へ贈るに。この地を離れてはまた逢えなくなるあなたとの別れは、白げしの花から離れる蝶が、白げしを慕うあまりに、みずからの羽根を切り取って、形見として残していくような辛さがあるのです。
 杜国は、通称を坪井庄兵衛といい、名古屋の御園町で壺屋という米穀商を手広く営む傍ら、町総代をも勤める豪商であった。貞享元年(1684)芭蕉の「野ざらし紀行」の帰途、名古屋で作られた連句集「冬の日五歌仙」作者の一人として加わった杜国は、尾張俳諧の重鎮としてその名を馳せていたが、貞享2年、ご法度とされていた米延商の科により、家財没収のうえ所払いとなつてこの地、畠村に移り住み、程なく保美の里に隠棲することになった。
 夢にまで杜国を見て泣いたというほど杜国の天分を愛した芭蕉は貞享
410月、「笈の小文」の途中、鳴海より門弟越人を伴い、愛弟子の悲境を慰めようと二十五里の道を引き返し、保美の閑居に杜国を尋ね得た。
 杜国墓碑と三吟句碑

 潮音寺;愛知県田原市
 再会した師弟がそのとき詠みあったのが、この三吟の句である。
326 麦生えて能隠れ家や畑村   芭蕉
   冬をさかりに椿咲く也    越人
   昼の空蚤かむ犬の寝かへりて 野仁(杜国)
翌日杜国の案内で同行三人は、伊良湖崎に吟行の杖をはこんだ。
 芭蕉の名句
323 鷹ひとつ見つけてうれし伊良湖崎 笈の小文(伊良子崎 貞享41112日)
は、このとき詠まれたものである。
翌年、二月、杜国は伊勢に渡り芭蕉と落ち合い、吉野の花を愛でた後、各地を吟行し五月にこの地に戻ったが、二年後の元禄三年三月(
1690)、望郷の念と吉野の思い出を胸に寂しくこの世を去り、潮音寺原に葬られた。行年三十余歳であった。
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  野ざらし紀行(帰路)
こたび桐葉子が許にありて、今や東に下らんとするに、
 牡丹蕊深くわけ出る蜂の名残哉
246 牡丹蕊深くわけ出る蜂の名残哉
「牡丹蘂深く」の巻
貞享二年四月上旬、熱田にて
初表
ふたたび熱田に草鞋を解きて、林氏桐葉子の家をあるじとせしに、また東に思ひ立ちて
 牡丹蘂深く這出る蝶の別れ哉   芭蕉
  朝月凉し露の玉ぼこ     桐葉
 哥袋望なき身に打かけて     叩端
  たまたま膳について箸とる
 新屋根になじまぬ板の雨雫
  貳百ちがひに馬の落札
貞亨元年、41歳。「野ざらし紀行」の復路、名古屋熱田の桐葉亭に草鞋を脱ぐ。
 この海に草鞋捨てん笠時雨 熱田皺筥物語
ここ桐葉亭は海に近い。野ざらしを覚悟の旅も大詰めを迎えた。ここでしばらく休んでいこう。旅の命綱であった草鞋も笠もこの海に捨てて。桐葉の手厚いもてなしに安堵した気持ちがにじみ出ている。
  204 この海に草鞋捨てん笠時雨 野ざらし紀行には載っていない
桐葉亭は海に近い。野ざらしを覚悟の旅も大詰めを迎えた。しばらく休んでいこう。旅の命綱であった草鞋も笠もこの海に捨て、桐葉の手厚い持て成しに安堵した気持ちが滲み出ている。
 妙心寺;愛知県名古屋市
  野ざらし紀行(甲斐の国)
甲斐の山中に立よりて、
 ゆく駒の麦になぐさむ舎りかな
  248 ゆく駒の麦になぐさむ舎りかな
折しも陰暦4月の麦秋の季節は、寒からず暑からず、ゆったりとした時間の流れの中で駒の足取りも軽やかに、間もなく知人の家に辿り着く。
 城南公園(富士急大月線谷村町駅前);山梨県都留市
甲斐の黒駒というように古来甲斐の国は馬の産地であった。野ざらしを覚悟の決死の旅も、その前年芭蕉庵焼失で疎開し住み慣れた甲斐の国までくれば江戸は指呼の間、何となく一息ついた気分にもなろう。芭蕉が歩いた「甲斐の山中」は、通称「富士道」と呼ばれ「城南公園」付近であると思われる。大月市から富士吉田市まで延びる古道は「谷村路」とも呼ばれている。富士山の清らかな伏流水が流れ、適度な湿気があることから、上質な絹織物の産地として栄え、江戸への流通網としても活用された。富士山信仰の道でもあった。
天和二年(1682)の江戸の大火事で家を焼きだされた松尾芭蕉は、翌天和三年(1683)に秋元家家臣・高山伝右衛門繁文(俳号麋塒)の招きにより、谷村(山梨県都留市)にしばらく滞在した。その後も谷村を訪れたいと弟子の手紙に記しており、芭蕉にとって谷村が特別な意味を持つところであった。自然と霊峰富士を間近に見る感動が芭蕉に大きな心境の変化を与え、その後の蕉風俳句に大きな影響を与えたと考えられます。
176 松風の落ち葉か水の音涼し 芭蕉
  人は寝て心ぞ夜を秋の昏  麋塒  「師弟信愛の碑」 東漸寺;山梨県都留市
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  野ざらし紀行(おわり) 深川芭蕉庵
卯月の末庵に帰り、旅の労をはらすほどに、
 夏衣いまだしらみを取尽さず
貞亨24月下旬、「野ざらしをこゝろに風のしむ身かな」と野ざらし覚悟の決死の旅もようやく終わった。・・・・何もする気がしない。旅衣さえ洗濯もせずにそのまま放置しているのである。芭蕉にとって収穫の多かった最高に満足のいく旅であった。それだけに快い虚脱感に包まれていたのである。
250 夏衣いまだしらみを取尽さず
付けていた衣はそのまま、シラミを取り尽くす元気もない。やれやれである。
 芭蕉42歳の俳諧紀行。貞享2年(1685)成立。書名は冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉」による。16848月門人千里を伴い、芭蕉は深川の草庵を出発し、東海道を上り伊勢、伊賀、大和、吉野を経て、山城、近江に出、美濃大垣に木因を訪問。ここで「死もせぬ旅寝の果よ秋の暮」の句を詠む。さらに桑名、熱田を経て名古屋に至り、この地で荷兮らと「冬の日」五歌仙を興行。この年は郷里伊賀上野で越年し、翌1685年奈良、京都、伏見、大津を経て、ふたたび尾張に至り、さらに甲斐を経て初夏江戸に帰着。以上のほぼ9か月の紀行を、発句を中心に述べたものが本書である。木因訪問までの前半は緊迫した感情がみられ、句文ともに誇張した佶屈な表現が顕著だが、後半ではそれが風狂を主としながらもしだいにくつろいだものに変化している。芭蕉最初の紀行文であり、かつ蕉風開眼の過程が如実に示されており注目に値する。
芭蕉42歳。同じ歳の私は「人生最大の転機」、サラリーマン人生に終止符を打ち「希望に満ち」反面「茨の人生」かも、しかし一点の迷いもなく脱サラし「経営コンサルタント」事務所を脱サラの地に設立し歩み出していた。数えてみれば34年前、早いもので今や後期高齢者2年目になる。
望月の牧なる原の深山辺に吾とたはぶる百種の蝶     2023.2.4 蝶棲庵
Mp3 志は死なない
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