笈の小文
(貞亨41025日~貞亨5423日) 芭蕉44-45
「奥の細道」は碑撮り旅、「野ざらし紀行」は仮想の旅、さて「笈の小文」は創作の旅とでも・・・・
笈の小文(巻尾部)         連句碑(表) 常光院;埼玉県熊谷市     笈の小文(巻頭部)
 「野ざらし紀行」「奥の細道」と異なり、芭蕉自ら編じた俳文ではないことから、句に主体を置き「芭蕉俳句集」(中村俊定校注岩波文庫)の前書・前文を印すと共に句形も準じて改めた。また、自ら撮影した句碑を優先し、未撮影句碑についてはネット検索で拝借させて頂き編集してみました。
  「笈の小文」とは          
 「貞門」「談林」を経験した松尾芭蕉は、貞享元年(1684)、41歳で「蕉風」に開眼し、以後は旅を続けながら句境を深めてゆき、「笈の小文」「おくのほそ道」などを残しています。
  これまでの常識に従えば、「笈の小文」は貞享五年(
1688)冬に始まる吉野行脚の道中で書いた備忘メモを下敷きとし、元禄四年(16913月から9月の京都滞在中に現在の形に整理されたものと考えられている。この時期の「笈の小文」の山場は「吉野巡礼」でありその実態は同行者坪井杜国の死を悼む追悼文である。
 この「吉野巡礼」に改編の手が加えられ、現状の「笈の小文」に再編成されるきっかけは、元禄六年
7月に始まる芭蕉の病臥と閉門にある。当時、江戸の芭蕉庵では結核を患う養子桃印が臨終を迎え、看病・治療費・薬代とそれらを賄うための宗匠家業の繁忙が芭蕉の健康を虫食んでいた。そこに折り良く、前年、京都御所の与力を辞職していた医師中村史邦が京都から下ってくる。結核の感染を恐れて暮らしていた芭蕉は、殊の外喜んで中村史邦を庵室に迎え入れる。さっそく芭蕉の治療に当たった中村史邦の尽力により、芭蕉は同年十一月にかろうじて本復し執筆活動を再開する。松尾芭蕉には、この医師史邦への報謝の気持ちが強く残った。
 この時「笈の小文」の第二次編成期が始動する。坪井杜国の追福を主題とし、吉野巡礼を山場とする原「笈の小文」に「風羅坊の所思」「吉野三滝」「和歌浦句稿」「須磨明石紀行」が挿入されて、史邦への「笈の小文」授与を前提とした主題・構成の改編が始まる。主人公の風羅坊と万菊丸とがさらに経験豊かな廻国修行者に変貌すると同時に、「風羅坊かく語りき」とでも呼ぶべき、「狂句の聖」の巡礼記が出現する。そこで示された巡礼記は聖者による所感や観想の形を取らず、直感像叙述による啓示のかたちで示されている。その動きのある表象は、これを読む者に向かって、生存・文芸・巡礼の本質に関する妥協のない自問自答を喚起する力を秘めていた。もとは松尾忠右衛門宗房(芭蕉の本名)、そして今、風羅坊(数多くある芭蕉の俳号のひとつ)と呼ぶお前(自問自答)はいかなる者か。お前の生存の拠点たる「狂句」は何処よりきたか。お前の狂句巡礼は、そも何に辿着く旅か。答えよ。というわけである。
 ところがその肝心かなめの問い掛けが喚起される表象部を芭蕉の遺言執行人の各務支考はバッサリと切り捨て、その改訂に対する自負心を語るのである。
笈の小文・・・・「虚」に満ちた楽しみを求める旅・・・・奥の細道の良さを改めて見直す旅に
旅人と我名よばれん初しぐれ
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  はじめに
 芭蕉の俳諧紀行。貞享410月(1687)江戸をたち、鳴海(名古屋市緑区)、保美(愛知県田原市)を経て郷里伊賀上野(三重県伊賀市)で越年2月には伊勢参宮、3月には坪井杜国との二人旅で吉野の花見をし、高野山、和歌浦を経て48日奈良に到着、さらに大坂から須磨、明石まで漂泊した際の紀行文で、成立年時は元禄3年(1690)晩秋から翌年夏ごろまでの間と推定される。宝永6年(1709)に河合乙州が「笈の小文」の書名で出版して世に知られた。冒頭の風雅論のほか、紀行文論、旅行論などに芭蕉の芸術観をうかがうことのできる重要な作品である。本書は内容的に必ずしもまとまった作品とは言い難い点があるので、未定稿説や、旅中の草稿類の乙州編集説などもある。
  笈の小文(序文)
 百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。
しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
  笈の小文(其角亭餞別会)
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
 旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉 
(たびびとと わがなよばれん はつしぐれ)
 又山茶花を宿々にして    由之 
(またさざんかを やどやどにして)
岩城の住、長太郎と云もの、 此脇を付て其角亭におゐて関送リせんともてなす。
※長太郎は、岩城の国小奈浜の井出氏、内藤家の家臣で俳号「由之」(ゆうし)。「関送り」とは、旅立ちの人を見送ること。
  315 旅人と我名よばれん初しぐれ(笈の小文)
 初しぐれが近づくこの時期、私は旅に出発する。行く先々で旅人と呼ばれようよ。尊敬する旅人達(西行・宗祇・雪舟等)と自分との対比を意識するぐらいの心境ではないだろうか。
   常光院;埼玉県熊谷市 第26回「碑撮り旅」(2015.10.16
 芭蕉が本当に芭蕉らしい句を作るようになつたのは、旅に出るようになってから、すなわち晩年の10年である。全てを捨てて旅に身を投じ、芭蕉は開眼し、真の俳諧師になりえたのである。「旅人さん」と呼ばれる喜びを歌った名句に「旅人とわが名よばれん初時雨」(笈の小文)、「野垂れ死」覚悟の悲愴さを詠んだ名句に「野ざらしを心に風のしむ身かな」(野ざらし紀行)、旅の途上の元禄7109日客死。大坂の御堂筋での「病中吟」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(笈日記)がある。
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  笈の小文(露沾亭餞別会
 時は冬よしのをこめん旅のつと 露沾 (ときはふゆ よしのをこめん たびのつと)
この句は、露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等、あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て志を見す。かの三月の糧を集に力を入ず。紙布・綿小などいふもの帽子したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅にまうけし、草庵に酒肴携来たりて行衛を祝し、名残をおしみなどするこそ、ゆへある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ。
露沾が発句を詠み、芭蕉が脇をつけた歌仙があり、冒頭の二句は次のようなものだった。
 時は秋吉野をこめし旅のつと 露沾
 鴈をともねに雲風の月    翁
雁と一緒に旅寝を重ねながら、雲の月や風の月を眺めて過ごすつもりですといった意味になる。
この露沾の句をはじめとして、旧友や門人、親疎こもごもの人々から詩歌や文章を持参して訪ねられたり、草鞋代だと金子を包んで餞別の志を示されたりしたとある。
※露沾は磐城平藩の藩主である内藤義概の息子、義英の俳号だ。風虎の号を持つ父親は、寛文期のころから重頼、季吟、宗因らと親しく交わり、談林全盛の延宝時代、風虎の江戸藩邸は一種の俳諧サロン的な役割を果たしていた。貞享・元禄期には、これと代わるように露沾の屋敷が俳諧交流の場となっていた。
露沾公は芭蕉の「奥の細道」旅立ちにあたり餞別の句を詠んでいる。
 月花を両の袂の色香哉 露沾
 蛙のからに身を入る声 翁
  笈の小文(旅の譜)
抑(そもそも)、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覺侍れども、黄哥(奇)蘇新のたぐひにあらずば云事なかれ。されども其所そのところの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所々跡や先やと書集侍るぞ、猶酔ル者の猛語にひとしく、いねる人の讒言するたぐひに見なして、人又妄聽せよ。
 「笈の小文」は、芭蕉の遺稿集である。貞享410月(1687)に江戸を出発し、翌年の4月まで、尾張・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て、須磨・明石を旅した時の紀行を、句に詠み文章に著わしたもの。芭蕉は、この「笈の小文」とメモした草稿を弟子の河合乙州に預けた。芭蕉の死後(元禄7年/1694)、乙州は芭蕉から預かった稿本を編集し、宝永6年(1709)に出版。旅の順路を追って句や文章が並んでいるような編集になっているが、実際の順路は前後している箇所もあると言われている。
 蕉門における乙州の立場は今で言う事務局長的役割を勤め、芭蕉からは厚い信頼を得、芭蕉の「自画像」や「笈の小文」関係の草稿が贈られた。元禄
71012日(1694)に芭蕉逝去に際しては看取り、葬儀万端の準備を行い、姉智月と乙州の妻荷月が芭蕉の浄着を縫った。
 芭蕉死去後、芭蕉の意を汲み宝永
6年(1709)「笈の小文」を刊行し、正徳5年(1715)に随筆「それぞれ草」を刊行した。
※河合乙州(おとくに)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。近江国の人。蕉門きっての女流俳人河合智月(智月尼)の弟で姉(膳所滞在の芭蕉の面倒をみた、「幻住庵の記」でも登場する)の養子となった。芭蕉の経済面で生活をも支えた。
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  笈の小文(鳴海)
鳴海にとまりて
 星崎の闇を見よとや啼千鳥 
(ほしざきの やみをみよとや なくちどり)
飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」と詠じ給ひけるを、自かゝせたまひて、たまはりけるよしをかたるに、
 京まではまだ半空や雪の雲 
(きょうまでは まだなかぞらや ゆきのくも)
  318 星崎の闇を見よとや啼千鳥(笈の小文)
名古屋の鳴海は古来千鳥の名所で歌枕。この夜は月が無いのが残念だと恐縮する知足を慰めるように歌った句。
   千鳥塚(千句塚公園);愛知県名古屋市
 この千鳥塚(右画像)は、貞享411月(1687)、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼千鳥」の巻が満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆、裏面には連中の名、側面に興行の年月が刻んである。芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡。公園入口の石段右正面(左画像)にも句が刻まれている。
  317 京まではまだ半空や雪の雲(笈の小文)
飛鳥井雅章公が、京を離れて江戸へ下向するについて、ここ鳴海で「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」と、京を懐かしんで詠んだ歌(雅章卿詠草)がある。この句は、逆方向に旅を続けている芭蕉のいわば返歌となっている。
   天神社(鳴海神社旧社地);愛知県名古屋市
鳴海宿は、東海道五十三次の40番目の宿場である。中世の東海道では、熱田神宮から鳴海までの間は干潟(歌枕の地)を通っており、潮が満ちているときは「潮待ち」をしたり、大周りの陸路を通って行ったりしていた。芭蕉は、門弟の鳴海の豪商下郷家(知足)に招き入れられ、幾度も鳴海宿に立ち寄っています。
そう言えば、「野ざらし紀行」で「熱田神宮」「蕉風発祥の地」等、芭蕉ゆかりの地が近くにあります。芭蕉ファンとしては行ってみたい場所のひとつです。
  笈の小文(豊橋)
三川の國保美といふ處に、杜國がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より 跡ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。
 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 
(さむけれど ふたりねるよぞ たのもしき)
  319 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき(笈の小文)
目的は最愛の弟子で流罪中(温海町)の杜国に会うため名古屋から豊橋に戻る。杜国の後見役を果たしていた越人と行を共にした。この夜、豊橋の宿で、越人としみじみ杜国の暮しぶりについて語り明かしたのであろう。
   湊明神社;愛知県豊橋市
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   杜国屋敷址
杜国は、芭蕉の愛弟子として知られ、罪により郷里(名古屋)を追われ、保美の里に隠れ住みました。ここには、「杜国屋敷址」の標柱と句碑があり、杜国をしのんで訪れる人々の憩いの場所となっています。
 春ながら名古屋にも似ぬ空の色 杜国
   杜国公園;愛知県田原市
  笈の小文(渥美半島)
あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。
 冬の日や馬上に凍る影法師
 (ふゆのひや ばじょうにこおる かげぼうし)
  321 冬の日や馬上に凍る影法師(笈の小文)
冬の薄い日ざしのもと、北から吹き付ける空っ風は冷たく、馬上で行く自分の姿は、寒さに氷ってまるで影法師のようである。
   宝林寺;愛知県豊橋市
天津縄手。豊橋から天津までは約12kmぐらい、天津から田原町までの4kmほどの間は、渥美湾に沿う縄手道、これが天津縄手。ここは海上から吹いてくる季節風が田面を通ってきて冬は極めて寒い。この地方では、「養子に行くか天津の縄手を裸で飛ぶ」かといわれ、共に辛いことの代名詞として使われたという。
  笈の小文(伊良湖崎)
保美村より伊良古崎へ 壱里計も有べし。三河の國の地つヾきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入れられたり。此渕(州)崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし
 鷹一つ見付てうれしいらご崎 
(たかひとつ みつけてうれし いらござき)
  323 鷹一つ見付てうれしいらご崎(笈の小文)
伊良湖岬の遠州灘に面した海岸が恋路ヶ浜、芭蕉・杜国・越人の3人は伊良湖岬へ足を伸ばし、芭蕉は「鷹一つ見付てうれしいらご崎」(気持ちよく海の広がる伊良湖岬で鷹を一羽見つけた何と嬉しいことだ)と詠んだ。
   恋路ヶ浜(伊良子岬);愛知県田原市
 「うれし」には最愛の弟子杜国に出会えたこと、翌年二人での旅が約束出来たこと、また西行が詠んだ鷹に会えたことなどの喜びが背景にあると思われる。
天武朝の皇族であった麻続王の歌碑
「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す」麻続王は遠く都を追われ、伊良湖の浜に身を寄せていた。それを憐れむ里人の思いやりに応えた歌で、潮騒の浜にふさわしい万葉の名歌といわれている。
等々があり、続く砂浜の美しさもあり「恋人の聖地」にもなっている。
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  笈の小文(熱田神社)
熱田御修覆
 磨なをす鏡も清し雪の花 
(とぎなおす かがみもきよし ゆきのはな)
熟(熱)田に詣
 社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をす(ゑ)えて其神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのままに生たるぞ、中なかにめでたきよりも心とヾまりける。
 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉  
(しのぶさえ かれてもちかう やどりかな)
※「野ざらし紀行」(1684/8-1685/4)、「笈の小文」(1687/10-1688/4)。3年前とは見違えるほど修復された熱田神宮の境内で、神々しいものがもたらす清らかな「安堵」が・・・・
 331 磨なをす鏡も清し雪の花
  笈の小文(蓬左)
蓬左の人々にむかひとられて、しばらく休息する程、
 箱根こす人も有らし今朝の雪 
(はこねこす ひともあるらし けさのゆき)
  335 箱根こす人も有らし今朝の雪(笈の小文)
124日、蓬左の門人聴雪の亭に招かれての半歌仙の発句。ここ名古屋でも雪が降って寒い。されば雪の箱根を難渋しながら越えている人もいるというのに、わたしは温かいもてなしを受けている。
   鴫立庵;神奈川県大磯町
※蓬左は熱田神宮の西隣の地域、その昔「熱田神宮」を「蓬莱宮」といっていたので、その「左側」との意から。
  笈の小文(友人の會)
 ためつけて雪見にまかるかみこ哉 (ためつけて ゆきみにまかるかみこかな)
 いざ行む雪見にころぶ所まで   
(いざゆかん ゆきみにころぶ ところまで)
332 ためつけて雪見にまかるかみこ哉(笈の小文)
 「ためつける」とは、着物の折り目を正しく折ることを言う。雪の宴に招かれて旅の薄汚い紙子のせめて折り目だけでも正していこうかと詠んでいる。
  334 いざ行む雪見にころぶ所まで (笈の小文)
334 いざさらば雪みにころぶ所まで (花摘)
さあ雪見の宴に出かけましょう。雪に足を取られてすってんころりんと転ぶかもしれないけど。心浮き立つ雪の宴への期待感を楽しく詠いあげた。
   大須観音;愛知県名古屋市 句碑「いさゝらは」
芭蕉翁は、貞享4年(1687)に再度名古屋を訪れた際、123 日の夜、原町筋の書林風月堂にて、如行、夕道、荷兮、野水らと俳諧を催し、折からの雪にこの句を得て、堂主有道に書き与えたと云う。
 いざさらば雪みにころぶ所まで (いざさらば ゆきみにころぶ ところまで)(花摘)
 
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  笈の小文(ある人興行)
ある人興行
 香を探る梅に蔵見る軒端哉 
(かをさぐる うめにくらみる のきばかな)
此間、美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは一折など度々に及。
337 香を探る梅に蔵見る軒端哉(笈の小文)
(ある人)防川の富裕さを梅の香に託して誉めた挨拶吟。どこからともなく梅の香りが匂ってくる。どこに梅ノ木があるのだろうと探していると、大きな蔵の軒端に視線が突き当たったというのである。
  笈の小文(伊賀上野)
師走十日餘、名ごやを出て、旧里に入んとす。
 旅寝してみしやうき世の煤はらひ 
(たびねして みしやうきよの すすはらい)
「桑名より食はで来ぬれば」と 云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
 歩行ならば杖つき坂を落馬哉   
(かちならば つえつきさかを らくばかな)
と、物うさのあまり云出侍れ共、終に季のことば いらず。
 旧里や臍の緒に泣くとしの暮   
(ふるさとや ほぞのおになく としのくれ)
339 旅寝してみしやうき世の煤はらひ
あちこちで旅寝を重ねてきたが、ふと見ると今日は煤払いの日で、どの家でも忙しく掃除をしている。こんな浮世離れした生活をしているが、昔は煤払いをやったなあ。故郷のこと家族のことしみじみ思い出される。
  340 歩行ならば杖つき坂を落馬哉(笈の小文)
徒歩ならばその名のとおり杖をついて上るのに。よりにもよって杖つき坂で落馬してしまうとは。
   杖突坂;三重県四日市市
  341 旧里や臍の緒に泣くとしの暮(笈の小文)
芭蕉が手にしている臍の緒は勿論ん自身のもの。我が子の無事な人生を願って大切に保管していた母の想いであり、そこから改めて発する母への思慕の情。煤払いをしている時見つけ出した弟の臍の緒を、兄半左衛門が改めて取り出して見せたのであろう。
   芭蕉生家;三重県上野市
  笈の小文(新春) 貞享五年・元禄元年
宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、
 二日にもぬかりはせじな花の春 
(ふつかにも ぬかりはせじな はなのはる)
初春
 春たちてまだ九日の野山哉   
(はるたちて まだここのかの のやまかな)
 枯芝ややゝかげろふの一二寸  
(かれしばや ややかげろうの いちにすん)
342 二日にもぬかりはせじな花の春
 久々の故郷伊賀上野で迎える年越し。臍の緒に感動したり、甥や姪たちの話にうち興じたかもしれない。世を捨てた旅ではあったが、郷里の暖かさに触れてみると緊張も緩んでしまう。忘年のために旧友達がやってきて呑みすぎた朝寝坊の元日の朝。貞亨
5年元旦の句。
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343 春たちてまだ九日の野山哉
 伊賀上野は盆地。立春を過ぎて、春の気はあるものの未だ底冷えの昨日今日。貞亨
5113日作。「初蝉」「泊船集」などには「風麦亭にて」と前書のあるところから,この句は、小川風麦亭での挨拶吟であることが分る。
  346 枯芝ややゝかげろふの一二寸
冬枯れの景色の中に、それでもよく見ればかげろうがうっすらと立ち上っている。
   植木神社;三重県伊賀市
  笈の小文(新大仏寺)
伊賀の國阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全おはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ所なく、泪こぼるゝ計也。石の連(蓮 )台・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覺えられけれ。
 丈六にかげろふ高し石の上  
(じょうろくに かげろうたかし いしのうえ)
 さまざまのこと思ひ出す櫻哉 
(さまざまのこと おもいだす さくらかな)
  361 丈六にかげろふ高し石の上(笈の小文)
昔、この石の台座に立たせ給うた丈六の尊像は跡形もない。ただ空しい台座の上に丈六仏の背丈ほども高く燃え立つ陽炎が、いまはなき尊像の面影を幻のように偲ばせるばかりである。
   新大仏寺;三重県伊賀市
  362 左末ゝ乃事於もひた太す桜哉(笈の小文)
伊賀上野を訪れ、かつて仕えた藤堂家の庭での一句。満開の桜を愛でながら、亡き主人を想い出している。喜びも悲しみもすべて包み込んで、桜は日本人の心の中に棲んでいる。
   上野公園;三重県伊賀市
  笈の小文(伊勢山田)
伊勢山田
 何の木の花とはしらず匂哉 
(なにのきの はなとはしらずにおいかな)
 裸にはまだ衣更着の嵐哉  
(はだかには まだきさらぎのあらしかな)
※伊勢山田 (=伊勢市)、山田(やまだ)は三重県伊勢市の地名である。伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した。
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  348 何の木の花とはしらず匂哉(笈の小文)
西行の歌「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(山家集)を花に託して詠んだ句。西行の歌を俳諧化することにのみ主眼が置かれている。
   霊祭講社;三重県伊勢市
349 裸にはまだ衣更着の嵐哉(笈の小文)
神路山は三重県伊勢市宇治にある山域で、五十鈴川上流域の流域の総称。「撰集抄」には、増賀上人は、伊勢神宮を参拝した折、私欲を捨てろという示現を得て、着ていたものを全部脱いで門前の乞食に与えてしまったという話が載っている。この句はこの故事をもとに作られている。増賀上人のように裸になるには未だ二月の寒風の中じゃ無理だ。
  笈の小文(菩提山)
菩提山
 此山のかなしさ告よ野老掘 
(このやまの かなしさつげよ ところほり)
伊勢の菩提山神宮寺は、行基の開基の寺と言い伝えられていたが芭蕉が訪れたこの時代すでに荒れ果て山野に変わっていた。見る影もない悲しい状態が一句の動機。ところで野老芋はとろろ芋でもあり、芭蕉は、山野に自生している自然薯の意で用いているらしい。しかし、自然薯と山芋は、植物分類学上はまったく異なるもの。野老掘の村人はやはり老人と見るのが自然のようだ。
 なお、「真蹟懐紙」には、菩提山即事
 山寺のかなしさつげよ薢ほり 
(やまでらの かなしさつげよ ところほり)(笈日記)とある。
  350 此山のかなしさ告よ野老掘(笈の小文)
旅の途中で行き倒れて野晒し(野ざらし)の白骨となる覚悟で、いざ出立しようとすると、たださえ肌寒く物悲しい秋風が、いっそう深く心にしみるわが身だ。
   観音院菩提寺;岐阜県垂井町
  350 山寺の悲しさ告げよ野老掘り(笈日記)
山寺のさひしさつけよ野老ほり
芭蕉は「このあたりのことが詳しい山菜採りに、かつては立派だった菩提山神宮寺が廃墟になってしまった訳を知っているなら私に伝えておくれ」というような呼びかけを詠んだのであろう。
   米山薬師尊;群馬県太田市
  笈の小文(竜尚舎山)
竜尚舎
 物の名を先づとふ芦のわか葉哉 (もののなを まずとうあしの わかばかな)
351 物の名を先づとふ芦のわか葉哉
龍尚舎は伊勢神宮外宮の年寄り職の龍伝左衛門の号。彼は伊勢俳諧の重鎮で博学で知られていた。一句は、蘆の名はここではなんと言うのか尋ねてみようという碩学礼賛の挨拶吟。
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  笈の小文(網代民部雪堂)
 梅の木に猶やどり木や梅の花 (うめのきに なおやどりぎや うめのはな)
352 梅の木に猶やどり木や梅の花(笈の小文)
網代民部雪堂は弘員、外宮の三方家師職。龍尚とならんで伊勢の俳壇の重鎮であった。とくに彼の父弘氏は神風館と号し談林派の俳人として当地に名を馳せた。梅の木は梅の老木で父神風館を指し、咲いた梅の花は息子雪堂を指して挨拶吟とした。
  笈の小文(草庵の會)
草庵會
二乗軒といふ草庵の会
 芋植ゑて門は葎の若葉かな 
(いもうえて かどはむぐらのわかばかな)
草庵會
353 いも植て門は葎のわか葉哉  (いもうえて かどはむぐらの わかばかな) (笈の小文)
二乗軒
  藪椿門はむぐらの若葉哉   
(やぶつばき かどはむぐらの わかばかな) (笈日記)
二乗軒と云草庵會
  やぶ椿かどは葎のわかばかな 
(やぶつばき かどはむぐらの わかばかな) (真蹟詠草)
353 いも植て門は葎のわか葉哉
この句を作った句会は大江寺で催された。周りには里芋畑が青々と茂っていて、寺の山門付近は葎がうっそうと繁っていたのであろう。初案「藪椿門はむぐらの若葉哉」の句碑が以下の
2ヶ所に建立されていた。
  353 藪椿門はむぐらの若葉哉(笈の小文)
藪には赤い椿がたくさん咲いている。一方、門には葎が生い茂り、緑の若葉が鮮やかだ。赤と緑との取り合わせは見事に美しい。
   瑞泉韻(左画像);三重県伊勢市
 くれは水辺公園(右画像);三重県伊勢市
  笈の小文(伊勢神宮)
神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと、神司などに尋ね侍ば、只何とはなし、をのづから梅一もともなくて、子良の館のうしろに一もと侍るよしをかたりつたふ。
 御子良子の一もとゆかし梅の花 
(おこらごの いっぽんゆかし うめのはな)
 神垣や思ひもかけずねはんぞう 
(かみがきや おもいもかけず ねはんぞう)
子良の館(こらのたち)、「物忌みの子良」の略。神官の娘で巫女として儀式に参加するものたちの詰め所。なぜか広い神宮の中でここに梅の木が一本だけしか無かったという話。
354 御子良子の一もとゆかし梅の花(笈離小文)
子らの館の裏にひっそりと一本だけ梅の木がある。なお、「真蹟懐紙」・「蕉翁全伝附録」では、「梅稀に一もとゆかし子良の舘」とあり、こらが初案。
  御子良子の一もとゆかし梅の花(猿蓑)
  梅稀に一もとゆかし子良の舘(真蹟詠草)
御子良子のいる館の裏の梅ノ木は、神宮の境内に一本だけある梅の木であると聞き、その梅の花にことのほか心ゆかしい思いがするものだ。
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  355 神垣や思ひもかけずねはんぞう(笈の小文)
伊勢神宮は当時仏教との混交を忌み嫌っていた。かつて「野ざらし紀行」でも半僧半俗の芭蕉は神域に入れてもらえなかった。それなのになんとこんな所に佛の涅槃像があるとは。この日、215日は涅槃会で、釈迦入滅の日とされる。
   金剛証寺奥の院;三重県伊勢市
  笈の小文(吉野へ)
彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の 、いせにて出むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便リにもならんと、自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス。
  乾坤無住同行二人
 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠       
(よしのにて さくらみしょうぞ ひのきがさ)
 よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠 万菊丸
 (よしのにて われもみしょうぞ ひのきがさ)
  365 よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠(笈の小文)
 よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
檜笠よ、これより吉野に旅立って、その名高い桜の花を心ゆくまで見せてやろう。

 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸(杜国)
檜笠よ、吉野で私も同じく桜を見せてやるぞ。
   吉野嵐山;奈良県吉野町
流刑中の杜国と示し合わせて、ここで合流。 杜國の刑は領国追放だから吉野に来ることがすなわち禁を破ることにはならないものの、多少の後ろめたさがありそうなものだが、ここではなんとも心浮き立つものがある。檜笠に語ったふりをして杜国に喜びを打ち明け、杜国もぴったり息の合った返しをしている。こういうのが男色説を強化することにもなるのだろう。
  笈の小文(道中)
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれども、夜の料にと 、かみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て、後に背負たれば、いとヾすねよはく、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて 、道猶すゝまず、たヾ物うき事のみ多し。
 草臥て宿かる比や藤の花 
(くたぶれて やどかるころやふじのはな)
  386 草臥れて宿かるころや藤の花(笈の小文)
貞亭5411日、八木での吟。この記述は時間的異動があって、この条は時間的には吉野よりもっと後になる。であれば藤の花は春の季題で季節的に合わなくなる。そこでここへ持ってきたのであろう。杜国と会って元気になった気分がここで萎えているのも附合しない。
   札の辻(八木地区公民館);奈良県橿原市
八木は、奈良盆地の南部に位置し市域の殆どは平坦地であるが、畝傍山・天香具山・耳成山の大和三山が優美な姿を見せる。
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  笈の小文(初瀬)
初瀬
 春の夜や籠リ人ゆかし堂の隅     
(はるのよや こもりどゆかし どうのすみ)
 足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊  
(あしだはく そうもみえたり はなのあめ)
  366 春の夜や籠リ人ゆかし堂の隅(笈の小文)
初瀬観音は恋の願いを聞いてくれる菩薩として古来有名。この籠り人は男か女か、想いは恋に違いない。堂の隅で祈るのが、何よりの証拠。時は値千金の春の宵。実際に籠り人がいたかどうか、芭蕉の瞼の裏に王朝の女人達が幻想として映っていたかも。
   札の辻(八木地区公民館);奈良県橿原市
 足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊
桜の花をぬらして雨がしとしとと降っている。境内には人がちらほら行き来しているが、その中に足駄を履いた僧の姿も見える。芭蕉に従って吉野の花見へ行く途次、大和の長谷寺での吟。雨の長谷寺の落ち着いた感じがよく出ている。初案「木履はく僧もありけり雨の花」。
  笈の小文(葛城山)
葛城山
 猶見たし花に明行神の顔 
(なおみたし はなにあけゆく かみのかお)
  381 猶見たし花に明行神の顔(笈の小文)
恥ずかしがらずに顔を見せてください、一言主神さま。この山の桜は全山満開、その美しいこと。あなたもきっと美しいに違いありません。
   葛城一言主神社;奈良県御所市
葛城山の祭神は一言主神。この神様は、大変醜い顔立ちの神。その昔、役の行者が葛城山から金峰山に橋を作っていた時、この神は容貌を恥ずかしがって夜間だけ手伝ってくれたという伝説を踏まえる。
  笈の小文(多武峰)
臍峠 多武峠より龍門へ越道 也
 雲雀より空にやすらふ峠哉 
(ひばりより そらにやすろう とうげかな)
  367 雲雀より空にやすらふ峠哉(笈の小文)
321日頃の作と推定される。ここを通って吉野に出る。峠から見れば雲雀が下に舞っている。「上に」と言わずに「空に」と言っているのが峠の高さを誇張している。
   吉野細峠;奈良県御所市
竜門川を遡り多武峰・桜井方面に通ずる古い街道筋の集落。芭蕉もこの峠を越え「雲雀より」と詠んだ。明治初期には20戸もあった人家も昭和27年(1952)に3戸、その後いずれも転出して姿を消した。集落まで自動車で行けるも要確認・注意。当時の細峠村は龍門寺や吉野・山上参りの客で賑わい三十戸ほど有ったが今は廃村。
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  笈の小文(竜門)
龍門
 龍門の花や上戸の土産にせん 
(りゅうもんの はなやじょうごの つとにせん)
 酒のみに語らんかゝる瀧の花 
(さけのみに かたらんかかるたきのはな)
368 龍門の花や上戸の土産にせん(笈の小文)
369 酒のみに語らんかゝる瀧の花(笈の小文)
吉野と言えば桜だが、この花は桜か、山吹か不明。色彩としては後者の方が鮮やかな感じがするが如何?何れにしろ、この花を酒飲みの土産にしたら喜ばれることであろう。両者、同じ動機で詠まれた。
   左画像 龍門瀧;奈良県吉野町 右画像 浄閑寺;奈良県東吉野村
龍門瀧の句碑には「龍門の」「酒のみに」が刻まれ、浄閑寺の句碑拡大部には「酒のみに」が刻まれている。
  笈の小文(西河)
西河
 ほろほろと山吹ちるか瀧の音 
(ほろほろと やまぶきちるか たきのおと)
蜻螐が瀧 布留の瀧は布留の宮より二十五丁山の奥也。
津の国幾田の川上に有 大和
布引の瀧 箕面の瀧
勝尾寺へ越る道に有
  371 ほろほろと山吹ちるか瀧の音(笈の小文)
西河の滝が岩間に激して轟々と鳴りわたり、岸辺をいろどる黄金色の山吹の花が、風も持たずにほろほろと散る。吉野川の上流にある西河の滝で休み詠む。
   西河の滝;奈良県川上村
  笈の小文(櫻)

 櫻狩りきどくや日々に五里六里  
(さくらがり きどくやひびに ごりろくり)
 日は花に暮てさびしやあすならふ 
(ひははなに くれてさびしや あすなろう)
 扇にて酒くむかげやちる櫻    
(おおぎにて さけくむかげや ちるさくら)
  372 櫻狩りきどくや日々に五里六里(笈の小文)
西行への想いと分別しがたい桜見物であり、しかも最愛の弟子杜国も一緒となれば日に5里や6里は何のその。とはいえよくよく物好きなことではある。紀伊半島一帯は上下・南北に地形が入り組んで、おまけに豊富な樹種もあいまって桜の季節が長い。思う存分の桜見物であった。
   桜井寺;奈良県五條市
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373 日は花に暮れてさびしやあすならう
「あすなろう」は言うまでもなく翌檜のこと。明日は桧になろうと来る日も来る日も思いつづけて終に桧になれないというあの翌檜。こういう言い伝えは古く、すでに平安中期にも知られていたらしく、清少納言は、「枕草子」に「・・・・・なにの心ありてあすはひの木とつけけむ、あぢきなきかねごとなりや」と記している。
春の陽の下で爛漫と咲き誇り、人々に賞賛される桜。この季節世界は桜を中心に回る。かたやその華の影で薄暗く佇む翌檜。桜に浮かれている芭蕉の心に、ふとよぎった世捨て人たる自分に引き写した翌檜の悲しい想いではないか。
なお、この句は「笈日記」では、
373 さびしさや華のあたりのあすならふ
となっている。句としては推敲したこちらに軍配は上がるものの、感動を受けた直後の句に生生しさは横溢しているように思われる。
  373 さびしさや華のあたりのあすならふ(笈日記)
句碑の説明)黒井宿の旅籠屋伝兵衛での休憩を記念し地元俳人らが建立し笈日記に掲載されている句です。
   本敬寺;新潟県上越市 第6回「碑撮り旅」(2014.04.12
  374 扇にて酒くむかげやちる櫻(笈の小文)
爛漫の桜の木の下で、興のおもむくままに謡曲の一節を舞ってみた。扇子を大杯に見立ててグイッと飲み干してみれば、そこへ一陣の風に舞う花びらが散り込んで、なみなみ注いだ酒杯に浮ぶ。
   西宮神社;兵庫県西宮市
  笈の小文(苔清水櫻)
苔清水
 春雨のこしたにつたふ清水哉 
(はるさめの こしたにつたう しみずかな)
  375 春雨のこしたにつたふ清水哉(笈の小文)
桜の季節といえば雨。垂れ込めて花の行方を不安がらせる春の雨だが、幹を通じて地面に吸い取られていくそれは、地中で浄化され、やがて「とくとくの清水」となって再び地上に帰ってくる。この湧き水こそ吉野の花の雫なのだ。
   苔清水;奈良県吉野町
よしのゝ花に三日とヾまりて、曙 、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂章公のながめにうばゝれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が是はこれはと打なぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし。おもひ立たる風流、いかめしく侍れども、爰に至りて無興の 事なり。
「野ざらし紀行」では「露とくとく心みに浮世すゝがばや」と詠んでいる。
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  笈の小文(高野山)
高野
 ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲    
(ちちははの しきりにこいし きじのこえ)
 ちる花にたぶさはづかし奥の院 万菊 
(ちるはなに たぶさはずかし おくのいん)
  379 ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲(笈の小文)
行基の吉野山における詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(玉葉和歌集)をふまえている。芭蕉自身の両親への追慕と読む。
   高野山奥の院;和歌山県高野町
高野山にあって雉子の声を聞いていると、今は亡き父母を恋う気持ちがつのるばかりである。芭蕉は「此の処は多くの人のかたみの集まれる所にして、我が先祖の鬢髪をはじめ、したしくなつかしきかぎりの白骨も、このうちにこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝなみだをとゞめかねて」(柏青舎聞書)と、その際の心情を吐露する。
 高野山真田坊 蓮華定院
 故郷を想う兄の「千曲川」の撮影を長年同行してきた。何年か前に博物館館長の講演「塩田の〇氏を見直す」を拝聴。後日高野山蓮華定院の拝観に誘ったが、「もう歩くことは困難だ」と悲しいことを。そして昨年末に逝去した。拝観目的は、私たちのルーツ(村上氏末期の重鎮)探しであった。当の私も昨年春に大動脈乖離を発症し、左下1/4の視野欠損の後遺症を持つ身になった。
  笈の小文(和歌の浦)
和歌
 行春にわかの浦にて追付たり 
(ゆくはるに わかのうらにて おいつきたり)
  380 行春にわかの浦にて追付たり(笈の小文)
「行く春」は永遠の別離を象徴する。もう再び今年の春に会えないかと思っていたら、なんと和歌の浦に来てみれば晩春の景色が残っていて再会できた。春という季節であり時間を、去っていく旅人として擬人化し彼に再会したとする時間観念が面白い。
   和歌の浦三断橋あしべ茶屋跡;和歌山県和歌山市
  笈の小文(紀三井寺)
跪はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海濱の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の實をうかがふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の 愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉より甘し。とまるべき道にかぎりなく、立つべき朝に時なし。ただ一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと斗は、いさゝかのおもひなり。時々気を轉じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかしく、かたくなゝりと悪み捨たる程の人も、邊土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又此旅のひとつなりかし。
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何故か、「笈の小文」の「紀三井寺」は、本文のみで句を載せない。その本文にしたところで、肝心の紀三井寺に関する記述が皆無である。この文であるなら、何も紀三井寺である必要は何もないわけである。この文が呼応するのは、「笈の小文」の序文であり、「芳野紀行」の門出の文であろう。旅の喜びと苦しみは畢竟、人生の喜びであり苦しみでもある。そういう中で感じられる風雅を楽しみ、句を発しようとするのが芭蕉の旅の意図するところである。
松尾芭蕉が紀三井寺で詠んだとする句が紀三井寺には伝えられている。
 みあぐれば桜しもうて紀三井寺
存疑の部
437 見あぐればさくらしまふて紀三井寺(菊苗集)
底本に「紀三井寺なる翁塚にまうでゝ高唫に二三をそふ」と前書。茗荷図会にも「櫻塚、紀州三井寺ニ在」と見える。句解参考・苔の花は「紀三井寺」と前書。
 松尾芭蕉の「笈の小文」の「芳野紀行」は、奈良での別れの話で目出度くお仕舞いとなる。芭蕉は、別に「野ざらし紀行」で吉野を訪れている。貞享元年(1684)葉月に江戸を出立、あちらこちらに立ち寄り、長月になってようやく故郷伊賀上野に到着している。さらにその後、芭蕉は吉野山へ向かっている。「笈の小文」「芳野紀行」より4年前の話である。芭蕉の吉野山を明確にするためにも、ここで「野ざらし紀行」に於ける吉野山に関する部分を紹介したおきたい。
 野ざらし紀行(奥吉野)
独よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り、烟雨谷を埋ンで、山賎*の家處々にちいさく、西に木を伐音東にひヾき、院々の鐘の聲は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる*。いでや唐土の廬山*といはむもまたむべならずや。
ある坊に一夜を借りて
192 碪打て我にきかせよや坊が妻 (きぬたうちて われにきかせよ ぼうがつま)
この美文調の文体は和漢混淆文と呼ばれ、芭蕉の最も得意とするところである。中でもこの文は特に秀逸の評価が高い。俳文は感性だけで無く、知性が要求される文体である。芭蕉は吉野山が伝える歴史と漢籍などの知識をフル動員してこの文体を創作することを図る。読者も相当用心しながら読解に心掛ける必要がある。
                                 (古代文化研究所記事より抜粋)
  笈の小文(四月朔日)
衣更
 一つぬいで後に負ぬ衣がへ    
(ひとつぬいで うしろにおいぬ ころもがえ)
 吉野出て布子賣たし衣がへ 万菊 
(よしのいでて ぬのこうりたし ころもがえ)
  382 一つぬいで後に負ぬ衣がへ(笈の小文)
四月朔日は冬から夏への衣更え。家に居れば箪笥から夏物の着物を出して儀式ばった衣更えをするのだが、旅にしあれば上着を一枚脱いで背中に担げば衣更えになる。すべてを捨てた旅人なればこそ気軽に過ごせる衣更えの行事である。
   粉河寺;和歌山県紀の川市
この時代貴族や武家はもちろんのこと、民間でも衣更えの行事を、夏は四月朔日、冬は十拾月朔日に盛大にやっていた。
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  笈の小文(灌仏会)
 灌佛の日は、奈良にて爰かしこ詣侍るに、鹿の子を産を見て、此日におゐてをかしければ、
 灌仏の日に生れあふ鹿の子哉 
(かんぶつのひに うまれあう かのこかな)

383 灌仏の日に生れあふ鹿の子哉(笈の小文) 句碑なし
今日は
48日、釈迦の誕生日である。仏教の中心奈良の寺々ではこの日「潅仏会」。折しも春日山の鹿が子供を産んだ。お釈迦様と同日に生まれてくる鹿の子の結縁の深さ。
  笈の小文(唐招提寺)
招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
 若葉して御めの雫ぬぐはヾや 
(わかばして おんめのしずく ぬぐわばや)
  384 若葉して御めの雫ぬぐはヾや(笈の小文)
唐招提寺は天平勝宝6年鑑真和上建立の寺。国宝鑑真和上像を見て詠んだ句。この柔らかい若葉で鑑真上人の見えなくなった目の涙を拭ってあげたい。「若葉して」という日本語は珍しい。
   唐招提寺;奈良県奈良市
  笈の小文(別れ)
旧友に奈良にてわかる。
 鹿の角先一節のわかれかな 
(しかのつの まずひとふしのわかれかな)
385 鹿の角先一節のわかれかな(笈の小文)
   二股にわかれ初けり鹿の角(韻塞)

鹿角の第
1の節、そこから角は二股に分かれていく。奈良であった弟子たちと鹿の角のように二股に分かれていくことだ。弟子たちへの別離の挨拶吟。ただ、角はこれからも次々と分岐していくので、別れはいくつもある。ということはまた会えるのだということを言外に込めている。
鹿の角がいまちょうど一節目で枝分かれしはじめたように、われらもまずここらで一区切りつけてお別れすることにしよう。芭蕉と万菊丸は奈良で数日を過ごしたらしい。名目は寺詣でとなっているが、実際は俳諧連歌を催すことが目的であった。寺参りもその下準備ではなかったか。
  笈の小文(大坂)
大坂にて、ある人のもとにて
 杜若語るも旅のひとつ哉 
(かきつばた かたるもたびのひとつかな)
  387 杜若語るも旅のひとつ哉(笈の小文)
「かきつばた」といえば「からころも着つつなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」(伊勢物語)とことは決まっている。一笑(伊賀の蕉門保川一笑)の屋敷には杜若が咲いて、はるばる来た旅の話にどうしたってなってしまう。
   了徳院;大阪府大阪市
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  笈の小文(須磨)
 月はあれど留守のやう也須磨の夏 (つきはあれど るすのようなりすまのなつ)
 月見ても物たらはずや須磨の夏  
(つきみても ものたらわずやすまのなつ)
卯月中比の空も朧に殘りて、はかなき みじか夜の月もいとヾ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴出づべきしのゝめも、海のかたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂浪あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花のたえだえに見渡さる。
 海士の顔先見らるゝやけしの花  
(あまのかお まずみらるるやけしのはな)
東須磨・西須磨・濱須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも みえず。「藻塩たれつゝ」など歌にもきこへ侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。きすごといふうをゝ網して、眞砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。若古戦場の名殘をとヾめて、かかる事をなすにやと、いとど罪ふかく、猶むかしの戀しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、「麓の茶店にて物をくらはすべき」など 云て、わりなき躰に見えたり。かれは十六と云けん里の童子よりは、四つばかりもをとうとなるべきを、数百丈の先達として、羊腸險岨の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべき事あまたゝびなりけるを、つゝじ・根ざゝにとりつき、息をきらし、汗をひたして、漸雲門に入こそ、心もとなき導師のちからなりけらし。
 須磨のあまの矢先に鳴か郭公   
(すまのあまの やさきになくかほととぎす)
 ほとゝぎす消え行く方や嶋一ツ 
 (ほととぎす きえゆくかたやしまひとつ)
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 
 (すまでらや ふかぬふえきくこしたやみ)
388 月はあれど留守のやう也須磨の夏(笈の小文)
須磨は秋が一番情緒があると言われている。月は出ているものの夏の須磨は旅人の姿もなく閑散としている。
389 月見ても物たらはずや須磨の夏(笈の小文)
月を見ていても、何か物足りない感じだよ。やはり須磨は秋が一番ということか。
須磨は歌枕。光源氏が政敵右大臣の娘との密会がばれて失脚し流されたこと、在原行平が流され「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答えへよ」と詠んだ。その行平を慕った海人の姉妹松風・村雨の話などで有名。古来寂しい場所の代名詞で、特に秋の寂しさは格別とされる。
390 海士の顔先見らるゝやけしの花(笈の小文)
短い夏の夜が明け初める頃、浜の海人たちが起きてくる。そんな時刻には芥子の花が浜一円に咲いている。

391 須磨のあまの矢先に鳴か郭公(笈の小文)
干し魚を盗んでいく取りを追い払うために矢を番えて番をしている須磨の海人たち。なんとも風情が無い。一羽の時鳥が大きな声を上げて飛んでいく。ちょうど海人の矢先の空の果てを。

392 ほとゝぎす消え行く方や嶋一ツ(笈の小文)
その時鳥の飛んでいくのを眼で追っていったら、ほととぎすが視界から消えかかった先に島が一つ浮んで見えた。言うまでもなくこの島は淡路島である。
  393 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ(笈の小文)
ここ須磨で青葉の笛を吹いた若き公達敦盛が死んでいったのは、はるか昔のこと。であれば笛の音が聞えてくるわけも無い。しかし、その笛の音が聞えてくるような幻想に襲われる、須磨の木下闇に佇んでいると。
   須磨寺;兵庫県神戸市
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 「旅の未知草」(須磨での寄り道)
 芭蕉が旅した最北端は「奥の細道」の象潟。最西端はどこかといえば、「笈の小文」の須磨、明石。その「須磨」と言えば、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「おくのほそ道」(種の浜)を思い出す。「笈の小文」の旅も残すところ「大団円」、ともかく「須磨」とは「どんな寂しい地」であろうと、未踏の地「神戸の街」を「須磨で詠んだ芭蕉の3句碑」がある禅昌寺さんに行ってみよう。
句碑① 393 須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇(すまでらや ふかぬふえきく こしたやみ)前句の再掲載
16884月、松尾芭蕉が源平古戦場を訪ねて平敦盛を偲んで詠んだ句。
須磨寺の木下闇にとどまっていると、吹いてもいないのに笛の音が聞こえるかのような錯覚に囚われる。吹かぬ笛というのは須磨で有名な「敦盛」の愛品である青葉の笛だと言われています。「敦盛」の名残を多く残す須磨寺で芭蕉は敦盛が吹く笛の音を聞いたのかもしれません。須磨寺の背山の緑は深い。日差し強ければ強いだけ木陰も濃い。目くらみするほどの木下闇。その深き翳に入ると、いずこからか、哀しい「笛の音」が聞こえてくる。敦盛が吹く笛の音だろうか?・・・・いや、木の葉が風に揺れているだけかもしれない。中七の「吹かぬ笛聞く」が絶妙の名句です。
句碑② 394 蝸牛角ふりわけよ須磨明石(かたつぶり つのふりわけよ すまあかし)須磨浦公園
  此境はひわたるほどゝいへるも、こゝの事にや
 かたつぶり角ふりわけよ須磨明石(猿蓑)
この句は、須磨境川を詠んだ句として有名ですが、芭蕉にしては珍しく知的遊戯に走り過ぎているかもしれません。ただ、何度も読みかえしていると、ふたつの角を打ち振るかたつぶりの姿が目の前に浮かんでくる不思議なリアリティもった句です。
俳句の天才は、知的遊戯に走っても、やはり どこか違うようです。
句碑③ 98 見渡せばながむれば見れば須磨の秋(みわたせば ながむればみれば すまのあき) 現光寺
  この句を発句として四友・似春との三吟百韻が一葉にあるが、延宝六年の部に収める。
 見渡せば詠れば見れば須磨の秋(芝希)
延宝6年(1678)松尾芭蕉35才の作。芭蕉が「源氏物語」須磨の巻の舞台を訪ねたのは春で、名月を見るべくもなく、その無念さを詠んだ句で、「三段切れ」の名句といわれています。
・・・・が、ただ、中七が字余りなので、作者が芭蕉ではなくて、たとえば小生が詠んだとすれば、「ながむれば見れば」は「ながむれ見れば」と添削されるところでしょう。
 芭蕉が須磨の地を訪れたのは、「源氏物語」の主人公光源氏がこの地に侘び住まいしたことによる。わびしい漁村に身を潜め再起を果たさんとする光源氏。「源氏物語」はこの「須磨の巻」から書き始まる。芭蕉は光源氏が見たであろう須磨の名月を見たかった。名月を見るなら須磨現光寺。光源氏は「源氏物語」の中のみに在りて実在しない人物で、原作者紫式部も須磨を訪ねたことはない。紫式部は、その約100年前に「在原行平が須磨に3年間侘び住まいをし、都の月を偲びながら須磨の名月を愛でた」とされるのをヒントに須磨の巻を書いた。安和の変(969)で左遷されて須磨に流された左大臣源高明がモデルという異説もある。いずれにしても芭蕉は有りもしない「光源氏の月」を求めたことになる。人はいろいろな欲望に突き動かされいろいろに行動する。芭蕉は日本文化に造詣が深く、「源氏物語」に憧れ様々な旅をしました。まさに「源氏物語」700年後の「虚」に満ちた楽しみを求める旅でしょう。
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  笈の小文(明石大団円)
明石夜泊
 蛸壺やはかなき夢を夏の月 
(たこつぼや はかなきゆめをなつのつき)
かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。
又後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風・村雨のふるさとゝいへり。尾上つヾき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ殘て、鐘懸松より見下に、一ノ谷内裏やしき、めの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位のあま君、皇子を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひ、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね・ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり、櫛笥はみだれて、あまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび此浦にとヾまり、素波の音にさへ愁多く侍るぞや。
  395 蛸壺やはかなき夢を夏の月(笈の小文)
蛸壺と、はかなき夢と、夏の月が混然として意味不明に陥っている。特にはかなき夢「を」が何を指しているのか言語としてみた時には何ともまとまりに欠ける句である。一の谷の合戦の平家一門の哀れを背景にしてはじめて意味が浮かび上がってくる。
   柿本神社;兵庫県明石市
それでいて芭蕉秀句の一句であろう。平家物語や行平伝説の哀愁と、蛸といういささか尊重されない動物とのおよそ似つかわしくない組み合わせこそが俳味を強調して哀愁を作り出しているからであろう。蛸が、日本文学の中で最も名誉な位置を占めた唯一の例ではないか。
柿本神社は通称人丸神社とも呼ばれ、万葉の代表的歌人である柿本人麻呂を祭神とする神社です。祭神は万葉集第一の歌人として知られる柿本人麻呂。人麻呂を崇敬していた初代明石城主小笠原忠政が1620年の明石城築城に合わせて祭ったとされる。楼門の前では、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」の句碑を見る事が出来ます。この地が芭蕉の旅の西の果てだったそうです。
  「笈の小文」の「笈」って何・・・・
「笈の小文」とは、文字どおり、旅中の「笈」の中の「小記」の意味で、芭蕉は自身や門人の秀作を書き記した「笈の小文」を作って持ち歩いていたという。
「笈」は「負い」と同義。書籍、経巻、仏具、衣服、食器などを入れて背負って歩く道具。現在の背嚢、ランドセル、リュックサックのようなもの。笈の字が竹冠であることや平安時代の「倭名類聚抄」で笈を「ふみはこ」と読ませることなどから、古くは書籍を納める竹製の道具であったことが推察される。すでに「源氏物語」や「うつほ物語」などにも盛んにみられるところから、平安時代には使用されていたことが知られる。現存する笈は、そのほとんどが行脚僧、修験者などが旅をするときに用いたもので、竹製のものや木製のものが多い。その形はつづらに似て四隅に脚のある箱形で、開閉用の戸をつけ、綱で背負うようにしたものである。なお、笈を背負うときに着る衣を笈摺という。
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