嵯峨日記
(元禄4418日~54日) 芭蕉48
芭蕉が嵯峨にあった去来の落柿舎に滞在した折の文芸性に富む日記
落柿舎;京都府京都市  
 「嵯峨日記」とは          
 元禄2年(1689)頃、去来が在庵中に、都から柿を扱う老商人が訪ねてきて、庭の柿を一貫文で売る約束をして代金を受け取りました。しかしその夜、嵐が吹き、一晩にして柿がすべて落ちてしまったのです。 翌朝来た老商人はその有様にびっくり、去来は不憫に思って代金を全額返しました。この老商人が帰る時に、去来は友人あての手紙を託し、自ら「落柿舎の去来」と称したと云う。  
 落柿舎は元禄の俳人向井去来の遺跡である。去来は芭蕉の門人にて師翁の言葉に、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えられた。落柿舎は元禄の俳人向井去来の遺跡である。去来は芭蕉の門人にて師翁の言葉に、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称えられた。去来が落柿舎を営んだのは、 貞享四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689 )、併せて三度来庵す。元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留し、その間に「嵯峨日記」を誌した。
 去来は蕉門第一の俳士にて、芭蕉の最も信頼した高弟であった。 向井家の先祖は南朝の征西将軍懐良親王に従って西下し、肥後国に菊池向井里に住したが、後肥前に転じ、祖父の時長崎に移った。去来は父元升の次男として長崎で出生した。(
1651-1704)元升は儒者で、長崎に聖堂を建て祭主となり、傍ら医を業としたが、天満神霊の夢の御告によって、京へ上り、名医の誉れを喧伝された。去来の青年時代は、武藝に専心し、その名声鎮西に知られたが、父の死後上京し、始め軍学、有職故実、神道を学んだ。去来が俳諧に入ったのは貞享初年と云う。蝶夢は去来発句集を編集し、その序で、「去来、丈艸は蕉翁の直指の旨をあやまらず、風雅の名利を深く厭ひて、ただただ拈華微笑のこゝろをよく伝へて、 一紙の伝書をも著さず、一人の門人をももとめざれば、ましてその発句の書集むべき人もなし。この寥々たるこそ、蕉翁の風雅の骨髄いたるべければ、予としごろ此二人の風雅をしたひ・・云々」と云っている。落柿舎の北、去来墓への道の傍の西行井戸は西行法師の出家当時の草庵の趾と古来より伝承されている。現在の落柿舎は、蝶夢門下の井上重厚が、明和七年(1770)に再建したものにて、当時すでに去来墓は現在地にあった。重厚は嵯峨の人にて向井家の支族と云う。
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寛永21(1644)
 芭蕉;伊賀上野に生れる
慶安
4(1651)
 去来;長崎の儒医向井元升の次男として生れる
萬治元年
(1658)
 向井家;京都に移り住む
貞享
2(1685)
 去来;この頃洛西嵯峨に別宅を構える
元禄
2(1689)
 芭蕉;「おくのほそ道」の旅に出る
 去来;秋頃からこの庵を「落柿舎」と称する
 芭蕉は去来;
1224日落柿舎で鉢叩きを聞く
元禄
3(1690)
 芭蕉;
46日-723日 国分山の幻住庵に滞在「幻住庵記」を草す 大津の義仲寺境内の無名庵に居住
元禄4(1691)
 芭蕉;
418日-54日まで再度落柿舎に滞在し「嵯峨日記」を草する
元禄4(1691)
 去来;この頃聖護院村からしばしば落柿舎に来庵蕉風俳諧の白眉 俳諧の古今集と言われた去来凡兆編「猿蓑」刊行
元禄
7(1694)
 芭蕉;閏
522日に落柿舎を訪れる 「落柿舎制札」はこの頃に書かれた 9月郷里を出立 大阪へ向う 910日容態悪化 1012日午後病死 享年5114日大津膳所の義仲寺境内に埋葬される
元禄
12(1699)
 去来;
3月「旅寝論」を書き終える
元禄
15(1702)
 芭蕉;春頃俳諧の真髄を伝える「去来抄」の草稿に着手
宝永元年
(1704)
 去来;
910日朝 洛東聖護院近くの寓居にて病没 享年54歳真如堂にて葬儀同寺内の向井家墓地に葬られる
  元禄四年卯月十八日1691.5.15
元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に 到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ歸る。予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる 處臥處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、并唐の蒔繪書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壷盃を添たり。夜るの衾・調菜の物共、京より持来りて乏しからず。我貧賎をわすれて清閑ニ樂。
元禄四年辛未四月十八日、嵯峨に遊んで去来の落柿舎に到る。凡兆が一緒に来て暮まで滞在して京に帰る。私はなおしばらく滞在することになっていて、(去来が私のために)障子の破れを張り替えたり、庭の雑草をむしったりしておいてくれて、建物の片隅の一間を寝床と定めてあった。部屋には、机一つ・硯・文庫・白氏文集・本朝一人一首・大鏡・源氏物語・土佐日記・松葉集を置いてある。ならびに中国風の蒔絵を描いた五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一本に盃を添えてある。夜寝る布団・副食物などは京から持ってきているので、貧しい感じではない。わが身の貧しく賤しいことを忘れて、清らかで落ち着いた気持ちを楽しむ。
芭蕉は、この庵を3度訪れている。元禄4年(1691)には、418日から54日まで滞在し、その間に「嵯峨日記」を書き残した。「障子つヾくり、葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる處臥處ト定ム」(418日の日記より)。障子の破れをつくろい、庭の草引きをし、部屋の片隅になんとか寝床を確保した、といったところだろうか。更に420日の日記には、「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ・・・・」など、荒れてる風情もなかなかいい、とあばら家の様子などが書かれている。
落柿舎の名の由来として、去来の「落柿舎記」には、庭に柿の木が40本あったのだが、その柿の実が一夜の内にほとんど落ちてしまった。そのことから落柿舎の名が付いたと書かれている。「ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるる声、よすがら落ちもやまず」だったという。
落柿舎制札という、面白いものが壁に掲げてあった。
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一、我家の俳諧に遊ぶべし 世の理屈を謂ふべからず
一、雑魚寝には心得あるべし 大鼾をかくべからず
一、朝夕かたく精進を思ふべし 魚鳥を忌むにはあらず
一、速に灰吹を棄つべし 煙草を嫌ふにはあらず
一、隣の据膳をまつべし 火の用心にはあらず  右條々俳諧奉行 向井去来
  元禄四年卯月十九日1691.5.16
十九日 午半、臨川寺ニ詣。大井川前に流て、嵐山右ニ高く、松の尾里につヾけり。虚空蔵に詣ル人往かひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云有。都て上下の嵯峨ニ三所有、いづれか慥ならむ。彼仲国ガ駒をとめたる處とて、駒留の橋と云、此あたりに侍れば、暫是によるべきにや。墓ハ三間屋の隣、薮の内にあり。しるしニ桜を植たり。かしこくも錦繍綾羅の上に起臥して、終藪中に塵あくたとなれり。昭君村の柳、普女廟の花の昔もおもひやらる。
 うきふしや竹の子となる人の果 
(うきふしや たけのことなる ひとのはて)
 嵐山藪の茂りや風の筋     
(あらしやま やぶのしげりや かぜのすじ)
斜日に及て落柿舎 ニ歸ル。凡兆京より來。去來京ニ歸る。宵より伏。
十九日昼過ぎ、臨川寺に参詣した。大井川が前に流れて嵐山が右に高く、松の尾の里に続いている。法輪寺に参詣する人の往来が多い。松の尾の竹やぶの中に小督屋敷というものがある。上嵯峨・下嵯峨あわせて全部で三つある。どれが本物なんだろうか。例の「平家物語」にある、源仲国が小督のつまびく琴の音を聴いて馬を留めた所という駒留の橋というのがこのあたりにあるので、ひとまずこの竹林の小督屋敷を本物とすべきだろうか。墓は三軒茶屋の隣の藪の中にある。しるしに桜を植えてある。畏れ多くも高貴な方々と一度は寝床を共にした小督だが、ついには草叢の中の塵あくたとなってしまった。王昭君の出身の村の柳、巫山の神女の花の昔も思いやられる。
692 うきふしや竹の子となる人の果
(悲しいなあ。竹藪の中に葬られ、ついに竹の子になってしまった、小督の身の上を思うと。)
693 嵐山藪の茂りや風の筋
(ここ嵐山では藪が茂っているので風が吹くと木々がゆれて、風の通り道が目に見える。さーと風が吹いて、それでざわざわと竹藪の竹がゆれて、本来見えないはずの風が、視覚的に、目に見える。)
夕暮れになって落柿舎に帰る。凡兆が京から来た。去来は京に帰る。宵のうちから寝た。
小督局五輪石塔・宝篋印塔 692 うきふしや竹の子となる人の果(嵯峨日記)
 小督の墓は竹薮の中にあった。天皇の寵愛を一身に受けて華麗な生活をしていた美女ではあったが、終にこんな場所で筍になってしまったか。まことに人の生涯はむなしいもの。「節」は竹につながる縁語。平家物語に登場する小督(こごう)は「禁中一の美人、雙びなき琴の名手」であったという。
渡月橋左岸上流 高倉天皇陵近く
693 嵐山藪の茂りや風の筋(嵯峨日記)
 自然を大づかみに、しかも動的にとらえ、色彩的にも豊かな効果をあげた句である。「風の筋」は、風が吹き通る道筋。竹藪の穂のそよぎから、視覚的にとらえていったもの。嵐山の方を眺めやると、ずっと竹藪の茂りが連なっている。その藪の穂の上を風の吹き通ってゆくのが、一本の筋となって望まれることだ。夕暮れになって落柿舎に帰る。凡兆が京から来た。去来は京に帰る。宵のうちから寝た。
- 3 - 
  元禄四年卯月二十日1691.5.17
二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼来ル。去来京より来ル。途中の吟とて語る。
 つかみあふ子共の長や麥畠    
(つかみあう こどもたけやむぎばたけ)
落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、
竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、
 柚の花や昔しのばん料理の間   
(ゆのはなや むかししのばんりょうりのま)
 ほとゝぎす大竹藪をもる月夜   
(ほととぎす おおたけやぶをもるつきよ)
尼羽紅
 又や来ん覆盆子あからめさがの山 
(またやこん いちごあからめさがのやま)
去来兄の室より、菓子・調菜の物など送らる。
今宵は羽紅夫婦をとヾめて、蚊帳一はりに上下五人挙リ伏たれば、夜もいねがたうて、夜半過ぎよりをのをの起出て、昼の菓子・盃など取出て、暁 ちかきまではなし明ス。去年の夏、凡兆が宅に伏したるに、二疊の蚊帳に四國の人伏たり。「おもふ事よつにして夢もまた四種」と、書捨たる事共など、云出してわらひぬ。
明れば羽紅・凡兆京に歸る。去来猶とヾまる。
二十日、北嵯峨の愛宕山の愛宕権現の祭を見ようと、凡兆の妻・羽紅尼が来た。去来が京から来た。途中の吟だといって語る。
000 つかみあふ子共の長(たけ)や麦畠 羽紅尼
(子供たちが麦畑の中でつかみあって遊んでいる。その背丈と麦のたけが同じくらいだ。)
落柿舎は昔の持ち主が作ったままであり、所々大きく破損している。それが、かえって、きれいに磨かれた昔の様子よりも、今のあはれ深いさまの方が心惹かれるのだ。彫刻をした梁、絵を描いた壁も風に破れ雨に濡れて、変わった形の石、見事な松も葎の下に隠れているのだが、竹の縁の前に柚の木が一本あり、花がかぐわしいので、
694 柚の花や昔しのばん料理の間
(ここ落柿舎では、かつて何人も客を呼んで豪華に料理をふるまったりしたのだろう。今は荒れ果ててその名残とて無いが、わずかに柚の花にその栄えていた昔がしのばれる。)
695 ほとゝぎす大竹藪をもる月夜(嵯峨日記)
(うっそとした竹藪の葉の間から月の光が漏れている。その時ほととぎすが鳴いた。)
  695 ほとゝぎす大竹藪をもる月夜(嵯峨日記)
夜のしじまを破って時鳥が鋭い声を上げて鳴きわたっていく。黒々とした竹薮を破って月明かりが漏れている。スケールの大きな句。
うっそとした竹藪の葉の間から月の光が漏れている。その時ほととぎすが鳴いた。
  車折神社;京都府京都市
 又や来ん覆盆子あからめさがの山 尼羽紅
去来兄の室より菓子・調菜の物など送らる。今宵は羽紅夫婦(凡兆と妻の羽紅尼)をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙り臥たれば、夜もいねがたうて夜半過よりをのゝ起出て、昼の菓子・盃など取出て暁ちかきまではなし明す。去年の夏凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊屋に、四国の人臥したり。おもふ事よつにして夢もまた四種と書捨たる事共など、伝出してわらひぬ。明れば羽紅・凡兆京に帰る。去来猶とゞまる。
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  元禄四年卯月二十一日1691.5.18
二十一日 昨夜いねざれりければ、心むつかしく、空のけしきも きのふに似ズ、朝より打曇り、雨折々音信れば、終日ねむり伏たり。暮ニ及て去来京ニ歸る。今宵は人もなく、昼伏たれば、夜も寝られぬまゝに、幻住庵にて書捨たる反古を 尋出して清書。
 昨夜寝なかったので気分がすぐれず、空の気色も昨日のように晴れていない。朝から曇り、雨が時々降るので、一日中眠り臥していた。暮になって去来が京に帰る。今宵は人もなく、昼寝ていたので、夜も眠れないままに、昨年幻住庵で書き捨てた草稿を清書する。
 芭蕉は、「奥の細道」を終えるとそのまま上方にとどまった。この期間は、芭蕉一世一代の充実期であった。「幻住庵の記」、「嵯峨日記」、そして「猿蓑」である。
 「猿蓑」は、凡兆と去来の編集ということになっているが、芭蕉自身、元禄
4418日から54日まで京都嵯峨野の去来の別邸落柿舎に滞在して編集の指揮を執り、その後、居を凡兆宅に移して5月末まで継続し、その頃までにほゞ完成を見たもののようである。出版は、同年73日であった。
 全体は二冊からなり、乾(巻一~四)、および坤(巻五~六)からなり、乾については、巻頭に芭蕉句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を、巻末に同じく「行春を近江の人とおしみける」を置き、しかも収録作品すべてが純粋に芭蕉一門でできている。圧倒的な蕉門俳諧をここに展覧して見せているのである。芭蕉にとって、なみなみならぬ自信をこめた作品ということができる。また、坤は「四歌仙」と「幻住庵記」とからなり、これも身内で固めた作品集である。
 古来「猿蓑」は、俳句の「古今集」と言われるように、我が国俳諧文学の中に燦然と輝く不朽の金字塔なのである。(猿蓑解説より)
  元禄四年卯月二十二日1691.5.19
二十二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる
「山里にこは又誰をよぶこ鳥獨すまむとおもひしものを」
獨住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を うしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ。
予も 又、
 うき我をさびしがらせよかんこ鳥 
(うきわれを さびしがらせよ かんこどり)
とは、ある寺に独居て云し句なり。
暮方去来より消息ス。
乙州ガ武江より歸り侍るとて、旧友・門人の消息共あまた届。其内曲水状ニ、予 ガ住捨し芭蕉庵の旧き跡尋て、宗波に逢由。
 昔誰小鍋洗ひしすみれ艸     
(むかしたれ こなべあらいし すみれぐさ)
又いふ、
「我が住所、弓杖二長計にして、楓一本より外は青き色を見ず」と書て、
 若楓茶色になるも一盛      
(わかかえで ちゃいろになるも ひとさかり)
嵐雪が文ニ
 狗背の塵にえらるゝ蕨哉     
(ぜんまいの ちりにえらるる わらびかな)
 出替りや稚ごゝろに物哀     
(でがわりや おさなごころに ものあわれ)
其外の文共、哀なる事、なつかしき事のみ多し。
 
- 5 - 
二十二日、朝の間雨降る。今日は訪ねてくる人もないままにむだ書きして遊ぶ。その言葉、「喪中にある者悲しみをあるじとし、酒を飲むものは楽しみをあるじとする」「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし」・・・・訪ねる人もいない山里で、この寂しさがなければ、住むのがつらいだろう。寂しさがあるからこそ、住んでいられるのだ。西行上人がそう詠みましたのは、さびしさをあるじにしているからだろう。又、西行上人はこうも詠んだ。
 「山里にこは又誰をよぶこ鳥独すまむとおもひしものを」 西行
  
(山里でこれはいったい誰を呼んで鳥が鳴くのか。独り住みたいと思っていたのに)
独り住むほど面白いものは無い。木下長嘯が曰く、「客が半日の静かさを得れば、主人は半日の静かさを失う」と。友人の山口素堂は常にこの言葉をあはれがっていた。
予も又、
696 うき我をさびしがらせよかんこどり
  
(心憂い私を、さらに寂しがらせてくれ。閑古鳥よ)
とは、ある寺に独りでいた時に詠んだ句である。
夕暮れ方、去来から手紙を送ってきた。
大津の門人乙州が江戸から帰ってきたということで、旧友・門人の手紙がたくさん届く。そのうち、膳所の菅沼曲水の手紙に、私が住み捨ててきた深川芭蕉庵の古き跡を尋ねて、宗派に会ったことが書いてあった。
000 昔誰小鍋洗しすみれ艸 曲水
   
(昔、誰がこのあたりで小鍋を洗ったりしたのだろう。今では昔のおもかげはなく、ただ菫草が生えているだけだ)
また言う。
「私の住みかは弓二張程度の広さで、楓一本より外は青い色を見ません」と書いて、
000 若楓茶色になるも一盛 曲水
  
(初夏の頃、楓の若葉が茶色く色づいて、まさに盛りの感がある。しかしそれも一時のことだが)
服部嵐雪の手紙に、
000 狗脊の塵にえらるゝ蕨哉 嵐雪
  (ぜんまいが、蕨の中から選別されて塵のように捨てられている)
000出替りや稚ごゝろに物哀 嵐雪
  (なじんだ奉公人が任期切れで別の人に交代するのは、幼心にもなんとなく寂しいよ)その外の手紙もたくさんあったが、哀れな事、なつかしい事がとても多かった。
  696 うき我をさびしがらせよかんこどり
松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵があり、背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。
  金福寺;京都府京都市
  元禄四年卯月二十三日1691.5.20
 手をうてば木魂に明る夏の月    (てをうてば こだまにあくる なつのつき)
 竹や稚時の繪のすさみ       
(たけのこや おさなきときの てのすさみ)
 麦の穂や泪に染て啼雲雀      
(むぎのほや なみだにそめて なくひばり)
 一日一日麦あからみて啼(雲雀)  
(ひとひひとひ むぎあからみて なくひばり)
 能なしの眠たし我をぎやうぎやうし 
(のうなしの ねむたしわれを ぎょうぎょうし)
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  題落柿舎    凡兆
 豆植うる畑も木部屋も名所かな   
(まめううる はたけもきべやも めいしょかな)
暮に及て去来京より来ル。膳所昌房ヨリ消息。大津尚白より消息有。凡兆来ル。堅田本福寺*訪テ其(夜)泊。凡兆京に帰ル。
697 手をうてば木霊に明る夏の月
 二十三夜の月待ち行事で一晩中起きていると、どこからか月に柏手を打つ音が響く。そろそろ夜が明けて、夏の月も隠れてしまう。ここは最初に「夏の夜や木魂に明る下駄の音」と書き、それを消して今の形にしている。
698 竹(の子)稚時の絵のすさみ
 →たけのこや稚き時の絵のすさび(猿蓑)
 竹の子を見ると、手習いでまず竹の子を描いた子供時代が思い出される。
699 一日ゝ麦あからみて啼雲雀
 一日一日、麦が熟して赤らんでいく。空には雲雀が鳴いている。
初案は「麦の穂や泪に染て啼雲雀」(嵯峨日記)
700 能なしの寝たし我をぎやうゝし
 何の能も無い私はただ眠っていたいのだが、ぎょうぎょうしが鳴いて眠らせてくれない。私など起こしたところで、何の働きもないのに・・・・。
  697 手をうてば木霊に明る夏の月
二十三夜の月は、もう夜明け前。柏手打って月の出を讃美すれば、其の木魂が響き終える頃には朝が来てしまう。
  観音寺;福島県福島市 第30回「碑撮り旅」(2016.03.18
  699 麦の穂や泪に染て啼雲雀
一日一日、麦が熟して赤らんでいく。空には雲雀が鳴いている。「一日ゝ麦あからみて啼雲雀」の初案。
  正光観音御堂;宮崎県宮崎市
落柿舎に題す 凡兆
000 豆植る畑も木部屋も名所哉 凡兆
 なんの変哲もない豆畑も薪部屋も、ここが歌枕・嵯峨の地であることを思えば、由緒ある場所に思えてくる。
 野沢凡兆は、江戸時代前期から中期の俳諧師。加賀国金沢の人。京に出て医を業とした。在京の松尾芭蕉に師事。凡兆と芭蕉との対面は、芭蕉が「笈の小文」の旅の後、京にあった元禄元年(1688)初夏のころと推定されている。芭蕉より抜擢され、向井去来と「猿蓑」の共撰を命じられた。主観的な句風の俳人が多い元禄にあって、「猿蓑」時代の凡兆は、際立って客観的、印象鮮明な句風であったとして注目された。元禄47月(1691)刊の「猿蓑」には、芭 蕉をも超え作者中最多となる発句41句が入集している。
 越智越人が「洛の凡兆は剛毅なれば」(猪の早太])というように、自我意識の強い人物で、師の芭蕉にすらたびたび批判的な態度を示す面があった。そのようなこともあり、芭蕉の不興を買いやがて芭蕉から離れていった。その後、凡兆は罪に問われて投獄されたとされる。
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  元禄四年卯月二十五日1691.5.22
 二十四日の記述はなく、二十五日に飛ぶ。欠落があるのか。「千那大津ニ帰」とあるから、前日に千那が来たのか。入れ替わりに史邦と丈草が尋ねて来る。
 その丈草が漢詩を二首残してゆく。一つは、
 題落柿舎 丈艸
 深對峨峯伴鳥魚(よく見れば峨峯には鳥や魚がいて)
 就荒喜似野人居(荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ)
 枝頭今欠赤虬卵(枝の先には今は赤い龍の卵はなく)
 靑葉分題堪學書(青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ)
もう一首の漢詩は「尋小督墳(こがうのつかをたづぬ)」だ。
 小督(こがう)の塚については四月十九日の所でも書いたが、今は渡月橋の北岸を西に行ったところにあるが、かつては臨川寺の近く、松尾の竹の中にあったという。
さて、その詩を見てみよう。
  尋小督墳  丈艸
 強撹怨情出深宮(強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て)
 一輪秋月野村風(一輪の秋の月に田舎の村の風)
 昔年僅得求琴韻(昔僅かに得た琴の音を探す)
 何処孤墳竹樹中(一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに)
次の史邦の発句、
芽出しより二葉に茂る柿の実   史邦
芽吹いてきた柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生えてくる。この芽吹いた二枚葉の付け根のところに蕾ができ、花が咲く。折から柿の若葉がまぶしい季節。二枚づつ次々に出てくる葉っぱに、柿の実への期待も高まるが、なにぶん「落柿舎」なので、果して落ちずに残ってくれるか。
  途中吟
 杜宇啼や榎も梅櫻 丈艸
ホトトギスが啼く頃には梅や桜は終っているが、榎の立派に枝を広げた姿は梅や桜にも劣らない。榎は一里塚に植えられたりする。途中吟ということで、街道をイメージさせる。
 最後の、黄山谷之感句
 杜門覔句陳無己 對客揮毫秦少游
というのは、芭蕉が目を留めた黄山谷(黄庭堅)の詩句という意味か。
 病起荊江亭即事 黃庭堅
 翰墨場中老伏波(筆と墨のある所には老いた伏波将軍がいる)
 菩提坊裏病維摩(釈迦入滅した坊の裏には病んだ維摩居士がいる)
 近人積水無鷗鹭(最近の人が集めた水には鷗や鷺は居ず)
 時有歸牛浮鼻過(時々帰る牛の浮かんだ鼻先が行く)
 閉門覓句陳無己(門を閉ざし良い句をひねる陳無己に)
 對客揮毫秦少遊(客を前にして筆を揮う秦少游)
 正字不知溫飽未(正しい字も知らずにぬくぬくとしているうちに)
 西風吹淚古藤州(涙に秋風が吹くいにしえの藤州)
陳師道が名利を求めずに門を閉ざしひたすら詩作に没頭、秦少遊は客の求めに応じて気軽に筆を揮った。どちらの生き方にも惹かれるものがある。「正字不知」はそれに引き換え我が身はという黄庭堅の謙遜だろうか。
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芭蕉もまた、一人庵に籠って発句を練ることもあっただろうし、連句は連衆の前で即興で句を繋いでゆく。芭蕉はこの二年後の元禄六年の七月、病気療養のため「閉関之説」を書き、一ヶ月ほど閉門する。その時の句は、
805あさがほや昼は鎖おろす門の垣 芭蕉
だった。
 四月廿五の条は更に続く。
半俗の膏薬入は懐に
000 臼井の峠馬ぞかしこき     其角
これは連句なので、「半俗」は前句との係りで、多分これは無視してもいいのだろう。膏薬をすぐに取り出せるように懐に入れておくというところから、中山道の難所である碓氷峠を越える時は馬に乗るのが賢明だが、落馬の心配があるので、と付けたのだろう。
まあ確かに、「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)という半俗の芭蕉さんも杖突坂で落馬している。
340 歩行ならば杖つき坂を落馬かな 芭蕉
の句は貞享四年(
1687)なので、その時のことを思いだしたのかもしれない。
腰の簣に狂はする月
000 野分より流人に渡ス小屋一   其角
ここでは天秤棒で吊り下げる「もっこ」ではなく腰に下げるタイプのもので、漁師の用いる籠であろう。月に狂うならその漁師は只者ではない。都から流れてきた高貴な人物であろう。
宇津の山女に夜着を借て寝る
000 偽せめてゆるす精進      其角
これは旅の僧の一夜の迷いか。府中宿の西側の安倍川町には遊女がたくさんいたという。
宇津の山というと「伊勢物語」に、
 駿河なる宇津の山べの現にも夢にも人にあはぬなりけり 在原業平
の歌がある。
 この日は雷が鳴り雹が降る。申の刻は夏至も近い頃なので、今でいえば四時は過ぎている。「三分匁」は一匁が約
2.4cm(寛永通宝の直径)としてその十分の三だから7.2mmというところか。「龍空を過る時」は竜巻が起きたのか。幸い落柿舎に被害はなかったようだが、この時には唐桃大の雹が降ったという。当時の唐桃(杏)は杏仁を取るための薬用だったから今よりは小さかっただろう。梅よりやや大きいくらいか。「柴栗」は自生する栗で2cmくらいか。竜巻も発生したとあっては、かなりの被害があったあったのではないかと思う。

 
本稿は「芭蕉俳諧集」(鈴呂屋書庫)様より転載 
  元禄四年卯月二十六日1691.5.23
五吟連句
 芽出しより二葉に茂る柿ノ實
(めだしより ふたばにしげる かきのさね)  史邦
 畠の塵にかゝる卯の花
(はたけのちりに かかるうのはな)        
 蝸牛頼母しげなき角振て
(かたつむり たのもしげなきつのふりて)    
 人の汲間を釣瓶待也
(ひとのくむまを つるべまつなり)         
 有明に三度飛脚の行哉らん
(ありあけに さんどびきゃくの いくやらん) 
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 芽出しより二葉に茂る柿の実 史邦
ここ落柿舎では、その名の通り柿が豊かに実る。柿の実から出た芽は、もう勢いよく二葉に茂っている。
 畠の塵にかゝる卯の花    蕉
黒い畠には塵のように白い卯の花が散りかかっている。
 蝸牛頼母しげなき角振て   去
卯の花の咲いているあたりでは、カタツムリが頼もしげもない角を振っている。
 人の汲間を釣瓶待也     丈
釣瓶井戸では前の人が汲み終わるのを待っている人がある。
 有明に三度飛脚の行哉らん  乙
有明の月がまだ空に残る明け方、三度飛脚とおぼしき者が駆けて行く。
  元禄四年卯月二十七日1691.5.24
二十七日
 人不来、終日得閑。
二十七日。誰も来ないので一日のんびりできた。
  元禄四年卯月二十八日1691.5.25
二十八日
夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム。
心神相交時は夢をなす。陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。 睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆其理有テ妙をつくさず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。
 杜國はこの前年の元禄3220日、配流の地渥美半島保美の里で34歳の若さで死去。杜國は、一年後にもこうして芭蕉の夢に出てきたのである。芭蕉と杜国の関係が師弟以上のもであったとする俗説はここに由来する。
  元禄四年卯月二十九日1691.5.26
二十九日
「一人一首」奥州高館の詩を見る。
晦日 高館聳天星似冑、衣川通海月弓如。其地風景聊以不叶。古人とイへ共、不至其地時は、不叶其景。
晦日(つごもり)高館聳天星似冑(たかだちはてんにそびえて ほし かぶとににたり)。衣川通海月如弓(ころもがわはうみにつうじて つき ゆみのごとし)。其地風景聊以不叶(そのちのふうけい いささかもってかなわず)。古人といへ共、不至其地時(そのちにいたらざるとき)は不叶其景(そのけいにかなわず)。
  元禄四年五月朔日1691.5.27

江州平田明照寺李由被問。尚白・千那、消息有。
 竹ノ子や喰残されし後の露
(たけのこや くいのこされし あとのつゆ)   李由
 頃日の肌着身に付く卯月哉
(このごろの はだぎみにつく うづきかな)   尚白
□岐 (欠落)
 またたれつる五月もとかし聟粽
(またれつる さつきもちかし むこちまき) 同
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  元禄四年五月二日1691.5.28
二日
曾良来リてよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人の はな(し)、彼是取まぜて談ズ。
 くま路や分つゝ入ば夏の海
(くまのじや わけつついればなつのうみ)   曾良
 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果
(おおみねや よしののおくをはなのはて)
夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮 ニ及て歸る。
河合曾良は、元禄4年(1691)、近畿を巡る旅をしました。その折、熊野三山も巡拝し、その後、京都嵯峨野の落柿舎に芭蕉を訪ね、旅の模様を語り、作句を披露します。このときの曾良の句が芭蕉の「嵯峨日記」に記されています。   くま路や分つゝ入ば夏の海
熊野路に分け入っていくと、峠でぱーーっと視界が開けて、向こうに夏の海が見える。
 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果

吉野は桜の花ざかり。その花をめでつつ来た。気がつけば、新緑の大峯山が目と鼻の先。嶺々の上には、おおきな青空が広がっている。やがて、花にも散る時がやってくる。
  元禄四年五月三・四日1691.5.29-30
三日
昨夜の雨降つヾきて、終日終夜やまず。猶其武江の事共問語。既に夜明。
前日以来、曾良はまだ落柿舎に居る。誰彼の消息など話題は尽きない。

四日
宵に寝ざりける草臥に終日臥。昼より雨降止ム。
明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間一間を見廻りて、
 五月雨や色帋へぎたる壁の跡
(さみだれや しきしへぎたるかべのあと)
「嵯峨日記」了  
  701 五月雨や色帋へぎたる壁の跡
梅雨時のじめじめとした空気の漂う部屋の壁に貼った色紙の剥がされた跡がふと目について、何故かそれがもの悲しさをそそる。嵯峨日記を書き終えて落柿舎を明日は出て行くという日に詠んだもの。
  落柿舎;京都府京都市
「嵯峨日記」は、「野ざらし紀行」や「笈の小文」、「おくのほそ道」の宣言調の書き出しと違ってのんびりとおだやかな語り口で始まった。そして、芭蕉は、「落柿舎」でゆったりとした日々を過ごしたようである。滞在期間中は、凡兆・羽紅夫妻をはじめとして、関西の門人たちや曾良が訪れ、芭蕉は親しく歓談している。そんな充足した時を過ごしたが、やがて「落柿舎」を去るときがきた。
 五月雨や色帋へぎたる壁の跡 松尾芭蕉
元禄四年五月四日、夕暮れに作った句と思われる。
句の前の、「嵯峨日記」の〆の文が以下である。
「明日は落柿舎を出んと名残をしかりければ、奥・口の一間ゝを見廻りて、」
夕刻まで居た曾良が「落柿舎」を去り、ひとりになった芭蕉は、この十七日間過ごした家の中を見て回る。掲句は、翌日(五日)に「落柿舎」を去るにあたっての挨拶の句であり感傷の句でもある。たった十七日間ではあっても、慣れ親しんだ「宿」なら、離れがたい愛惜の念がわく。
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外は五月雨。雨の音が、壁の内側へ伝わってくる。壁には、色紙を剥ぎ取ったらしい跡があった。跡の色は、周囲の壁の色とくらべると少し汚れが少ない。まるでそこだけ時間の経過が遅れている感じである。その印象が、五月雨のように、名残惜しい気分に染み込んでくる。去年亡くなった杜国のことなど、様々な過去の思い出が、芭蕉の脳裏をよぎっていく。「それにしても」と芭蕉は思う。「私が来るというので、去来は壁の色紙を外したのだろうか」と。「障子も貼り替えてあったし、庭の草むしりもしてあったし」「その色紙には、いったいどんな句が書かれていたことだろう。」と、芭蕉が思ったかどうか。
五月五日、芭蕉は「落柿舎」を出、洛中小川椹木町上ルの野沢凡兆宅に移る。
向井去来の墓 俳人塔
柿舎の裏、弘源寺墓地内に遺髪を納めたという去来唯一の記念の墓がある。「去来」と刻まれている。
俳人塔は昭和四十五年、落柿舎十一世庵主の工藤芝蘭子が過去・現在・未来をも含めた俳人供養の為に建立された。
完 






芭蕉は一巻の書も著はしたことはないという

興味深い一説を眼にした この辺りの背景を調べてみたい


2023.2.17













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