芭蕉の生涯
--- 「ウィキペディア」に載る「芭蕉の生涯」によると ---
 「芭蕉の生涯」(伊賀国の宗房) 寛文2年(1662)~延宝2年(1674
 芭蕉は、寛永21年・正保元年(1644)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが、詳しい出生の月日は伝わっておらず、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。
 明暦
2年(1656)、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年(1662)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句が以下。
001 春や来し年や行けん小晦日   (はるやこし としやゆきけん こつごもり)(千宣理記)
作成年次の判っている中では最も古いものであり、
19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664)には松江重頼撰「佐夜中山集」に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。
002 姥櫻さくや老後の思ひ出    (うばざくらさくやろうごの おもいいで) (佐夜中山集)
003 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど) (佐夜中山集)
伊賀在郷時代の宗房は、貞門風俳諧(松永貞徳を中心とする江戸時代前期の俳諧の一流派の句風)の影響を受けていたとされている。
春や来し年や行けん小晦日
「立春が年内の29日に来てしまったが、これは新しい年が来たと言うのか、旧い年が過ぎ去ったと言うのか分からない」と言った意味。
 前田教育会館;三重県伊賀市
 姥櫻さくや老後の思ひ出
あまり感じの良い句ではない。貞門俳諧の軽口風の作だが品位に乏しい。 姥桜は、八重桜、避寒桜の一種。開花期に葉が無いことから「歯無し」の老婆のようであるというのでこう呼ぶ。八重でなまめかしい色っぽさから年増女にも喩えられる。句意は、老後に一花咲かせようと、姥桜が咲いているなぁといった意味。門風俳諧は、滑稽や駄洒落に代表される言葉遊び的な傾向の強い句風。
月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿
「明るい月は道標であり道案内だ。さあ旅の方こちらの旅宿へいらっしゃい」といった意味。謡曲「鞍馬天狗」に「奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる此方へ入らせ給へや」とあるを採った。花を月に、此方を旅の宿に換えただけのもの。
 JR関西本線伊賀上野駅;三重県伊賀市
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 寛文6年(1666)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。「初折り」のみ以下に掲載する。
初表
 野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉   蝉吟
  鷹の餌ごひに音おばなき跡    季吟
 飼狗のごとく手馴し年を経て    正好
  兀たはりこも捨ぬわらはべ    一笑
 けうあるともてはやしけり雛迄   一以
  月のくれまで汲むももの酒    宗房
 長閑なる仙の遊にしくはあらじ   執筆
  景よき方にのぶる絵むしろ    蝉吟
初裏
 道すじを登りて峰にさか向     一笑
  案内しりつつ責る山城      正好
 あれこそは鬼の崖と目を付て    宗房
  我大君の国とよむ哥       一以
 祝ひとおぼす御賀の催しに     蝉吟
  きけば四十にはやならせらる   一笑
 まどはれな実の道や恋の道     正好
  ならで通へば無性闇世      宗房
 切指の一寸さきも惜しからず    一以
  おれにすすきのいとしいぞのふ  蝉吟
 七夕は夕邊の雨にあはぬかも    宗房
  鞠場にうすき月のかたはれ    正好
 東山の色よき花にやれ車      一笑
  春もしたえる茸狩の跡      一以
 この巻は芭蕉がまだ伊賀の宗房だった頃の唯一現存している俳諧一巻でもある。寛文5年(1665)霜月13日の興行になる。発句は伊賀藤堂藩の藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇の季吟は京都在住、当時主流の貞門俳諧の大家で、後に「源氏物語湖月抄」など古典の注釈書の出版などでも活躍した。季吟は脇だけの参加なので、書簡による参加と思われる。しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667)刊の「続山井」(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。
 その後、萩野安静撰「如意宝珠」(寛永9年)に6句、岡村正辰撰「大和巡礼」(寛永10年)に2句、吉田友次撰「俳諧藪香物」(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。
 寛文
12年(1672)、29歳の宗房は処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書「俳諧埋木」の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。
 延宝2年(1674)迄の芭蕉俳句集に登録されている句は48句。この中に2句碑がある
036 宇知山や外様しらずの花盛り(うちやまや とざましらずの はなざかり)
037 五月雨も瀬踏み尋ねぬ見馴河(さみだれも せぶみたずねぬ みなれがわ)
宇知山や外様しらずの花盛り

広大な内山永久寺の山内の花盛りのさまは、その真言密教の行法と同様に、寺外の者には窺い知ることができない。

 内山永久寺跡;奈良県天理市
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五月雨も瀬踏み尋ねぬ見馴河
五月雨が、川の増水で分らなくなった瀬を探ろうと、脚を踏み入れて瀬踏みしているわい。ふだん見馴れて知ってるはずの見馴河なのに。
 岩倉峡;三重県伊賀市
 「芭蕉の生涯」(江戸日本橋の桃青) 延宝3年(1675)~延宝5年(1677
 延宝3年(1675)初頭(諸説あり)に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、*日本橋の小沢卜尺の貸家、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった。延宝35月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。
458 発句也松尾桃青宿の春」の碑撮りで「日本橋鮒佐」(東京都中央区)を訪れた。句碑の脇にあった説明板に上記文中「*」に関する記述があった。→28回(2015.12.18)碑撮り旅
深川に移り住んだ芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、臨川寺に参禅に通ったと伝えられている。芭蕉が「桃青」と名乗ったのは禅師によるものという。
 延宝3年(1675)から延宝5年(1677)迄の芭蕉俳句集に登録されている句は39句。この中に3句碑がある。
056 此梅に牛も初音と鳴きつべし(このうめに うしもはつねと なきつべし)
061 夏の月御油より出でて赤坂や(なつのつき ごゆよりいでて あかさかや)
082 一時雨礫や降って小石川(ひとしぐれ つぶてやふって こいしかわ)
此梅に牛も初音と鳴きつべし
天満宮の美しい梅の花なら、鶯でなくたって初音を上げたくなるであろう。天神様ゆかりの牛でさえもが「ホーホケキョ」に替わって「モー」と「初音」を上げるかもしれない。句碑は「鹿島神宮」でも撮っていた。
 配志和神社;岩手県一関市 23回(2015.07.17)碑撮り旅
夏の月御油より出でて赤坂や

東海道の御油宿と赤坂宿との間は2km足らず。宿場の間隔は最も短く、夏の夜の短さに例えている。東海道膝栗毛で弥次さんが茶店のおばさんに距離を尋ねたところ、「お~い」と叫んだら聞こえるほどで客の奪い合いが凄まじかったようだ。

 関川神社;愛知県豊川市
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一時雨礫や降って小石川
時雨がさっときて石つぶてが川となったから小石川だというのか、面白味のない句。小石川は、小石の多い小さな川だったのでこう呼んだとされている。芭蕉はこの頃、神田上水浚渫工事の管理業務を請け負い、小石川一帯を歩いていた。
 慈眼寺;東京都文京区 第28回(2015.12.18)碑撮り旅
 「芭蕉の生涯」(関口芭蕉庵) 延宝5年(1677)~延宝8年(1680
 延宝5年(1677)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。
 延宝
6年(1678)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、俳諧宗匠として独立した。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧は、「玉手箱」(神田蝶々子編、延宝79月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、「富士石」(調和編、延宝74月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、何らかの形で行われたと考えられる。「桃青伝」(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。
 宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、
*「桃青三百韻」が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた。また批評を依頼される事もあり、「俳諧関相撲」(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない。
関口芭蕉庵;東京都文京区 第28回(2015.12.18)碑撮り旅
 芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の延宝5年(1677)から延宝8年(1680)迄の4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだ。その地が関口芭蕉庵の始まり。後の享保11年(1726)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、寛延3年(1750)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。「竜隠庵」は「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。延宝8年(1680)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある。俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天に倣う中で安らぎを得ようとの考えがあった。
 延宝5年(1677)から延宝8年(1680)迄の芭蕉俳句集に登録されている句は36句。この中に3句碑がある。
115 花木槿裸童のかざし哉(はなむくげ はだかわらべの かざしかな)
118 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮(かれえだに からすのとまりたるや あきのくれ)
121 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな(しばのとに ちゃをこのはかく あらしかな)
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花木槿裸童のかざし哉
この裸童子が花木槿を持った図は、そのひなびた取り合わせがしっくりしていて、古人が桜をかざしとしたのに対して、花木槿は、里童のかざしにまことにふさわしい感じだ。
 城山公園木槿塚;富山県小矢部市
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
枯れ枝に烏が止まったことで、冬の訪れを予感させているような仕掛けが感じられる。初冬の夕暮の風景。水墨画の世界をうつしだしたと評価されている。談林俳諧から脱し、蕉風俳諧への転換期の作品の一つといわれ初期の秀句の一つである。
 長興寺;宮城県加美町 第7回(2014.04.18)碑撮り旅
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな
柴の戸に吹きすさぶ風が松葉を吹き寄せる」という意味。「芭蕉の葉に松の葉が落ちて穴をあけてしまう」という謡曲「芭蕉」や「山家集」にある西行の「風吹けばあだにやれゆく芭蕉葉のあればと身をも頼むべきかは」という歌を念頭に置いたもののようです。
 隅田川テラス;東京都江東区 旅の未知草(スケッチ旅行)
 「芭蕉の生涯」(江戸深川の芭蕉) 延宝9年・天和元年(1681)~天和4年・貞享元年(1684
 深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、「むさしぶり」(望月千春編、天和3年刊)に収められた。
136 侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥
は、侘びへの共感が詠まれている。この「むさしぶり」では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた深川の居を「芭蕉庵」へ変えた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
137 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
 しかし天和
21228日(1682)、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称伝右衝門)に招かれ流寓した。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。
一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和
3年の夏のしばらくの間とする説もある。
 その間「みなしぐり」(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調」と呼ばれる。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる。
 
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 延宝9年・天和元年(1681)から天和元年・貞享元年1684)「野ざらし紀行」前迄の芭蕉俳句集に登録されている句は54句。この中で「碑撮り旅」で撮影した5句碑は以下である。
131 郭公招くか麦のむら尾花(ほととぎす まねくかむぎの むらおばな)
137 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉(ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)
172 世にさかる花にも念佛申しけり(よにさかる はなにもねぶつ もうしけり)
176 松風の落葉か水の音涼し(まつかぜの おちばかみずの おとすずし)
182 道ばたのむくげは馬に喰われけり(みちばたの むくげはうまに くわれけり)
上記を除き、「ざっと検索」すると以下7句碑がヒットした。
148 花にうき世我が酒白く飯黒し(はなにうきよ わがさけしろく めしくろし)
152 朝顔に我は飯食う男哉(あさがおに われはめしくう おとこかな)
157 世にふるも更に宋祇のやどりかな(よにふるも さらにそうぎの やどりかな)
161 鶯を魂にねむるか矯柳(うぐいすを たまにねむるか たおやなぎ)
163 清く聞かん耳に香焼いて郭公(きよくきかん みみにこうたいて ほととぎす)
166 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな(うまぼくぼく われをえにみる なつのかな)
171 奈良七重七堂伽藍八重ざくら(ならななえ しちどうがらん やえざくら)
 月を侘び、身を侘び、つたなきを侘びて、侘ぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほ侘び侘びて、
136 侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌 芭蕉 (句碑なし)
 「古今和歌集」在原行平の歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ」から引用。支考の「俳諧十論」によれば、芭蕉は「奈良茶三石喰ふて後、初めて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。奈良茶とは、奈良の東大寺などで食する茶粥のことで粥の中に煎った大豆や小豆などを入れた質素な食事。奈良茶歌とは、奈良茶を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味であろう。
郭公招くか麦のむら尾花
ススキ(尾花)は人を呼ぶためにそよぐと言い伝えられている。それならススキによく似た麦のむら尾花は何を招くのか?季節からしてホトトギスを招くのではないか。「麦のむら尾花」とは、群がり咲くススキの花の穂のように見える。
 若宮八幡宮;茨城県常陸太田市 第41回碑撮り旅(2016.11.18
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
門人李下が芭蕉の苗木を植えてくれた。わび住まいの柴の戸に秋の雨が降り此処彼処から雨漏り。外の芭蕉葉にうちつける雨音と、盥に落ちる雨水の音が一層侘び住まいを引き立てる。この境涯が尊敬してやまない杜甫の境涯と似ている。
 善重寺;茨城県水戸市 第41回碑撮り旅(2016.11.18
花にうき世我が酒白く飯黒し
世間は花に浮かれているが、私の酒は白く、米は黒い。酒が白いのは濁酒だからであり、米が黒いのは玄米だからである。こうして初めて、酒の聖を知り、銭の神について覚るというものである。
 奥の細道むすびの地;岐阜県大垣市
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朝顔に我は飯食う男哉
其角の「草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」(虚栗)句に対して、師の芭蕉は、「私は朝早く起きて朝顔の花を眺めるような普通の生活をして、「蓼」など食わずにちゃんとご飯を頂いていますよ」と言って、反省を促したのである。
 文京自治会館;群馬県前橋市
世にふるも更に宋祇のやどりかな
芭蕉が尊敬してやまない宋祇の句「世にふるも更に時雨のやどりかな」から「時雨を宋祇」と置き換えただけ。「時雨」という定型の見事な換骨奪胎を成し遂げている。まさに俳諧の極意でありながら俗に落ちてないところが芭蕉のすごさと言えるかもしれない。
 長慶寺;東京都台東区
鶯を魂にねむるか矯柳
柳の枝が眠っている。柳は春の鶯に自分が変化した夢を見ているのであろう。矯柳はしなやかな柳の意。
 在原神社;奈良県天理市
清く聞かん耳に香焼いて郭公
ホトトギスの声を聞くのには、耳に香を焚いて聴こうというのである。香もまた「嗅ぐ」といわずに「聞く」というので「聞く」が掛詞になっている。掛詞を使うために無理して作った談林風。
 観音院;埼玉県小鹿野町
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
冬の寒さとはうってかわって夏の暑さは相当なもの。その暑さの中をぐったりしたように馬が歩く。それに乗っている半僧半俗の坊主姿の馬上の男。いかにも危なっかしい姿で馬上にいる。その馬上の男こそ、作者自身だ。
 藤崎地籍;山梨県猿橋町
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
奈良の都は約70年間、天皇7代(元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁)続いた後、遷都された。七重の意味70代を指す。七堂は、金堂・講堂などを指すが必ずしも固定された概念ではなく完備された堂宇の意という。全部名詞で固めた珍しさが特徴。
若草山山麓北ゲート;奈良県奈良市
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世に盛る花にも念仏申しけり
今を盛りと咲いている桜の花に向かって念仏を唱えている人がいる。多分お年寄りなのだろうが、作者も心のどこかでこの人の気分に共感しているのである。ただ、世を去るものではなくて、今を盛りの花だからやっぱりおかしいのでもある。
 極楽寺;山形県山形市 第11回碑撮り旅(2014.07.18
松風の落葉か水の音涼し
サラサラと涼しげな音がしているが、あれば松風の音か小川のせせらぎの音か。松のような常緑樹は初夏の新緑の頃に落葉する。
 出羽国分寺薬師堂;山形県山形市 第11回碑撮り旅(2014.07.18
 「芭蕉の生涯」(蕉風の高まりと紀行) 貞享元年(1684)~元禄2年(1689
 5つの俳諧紀行は「紀行」ごとにまとめたので省略する。「野ざらし紀行」は、蕉風樹立への意欲がみられ俳諧修業の旅であった。「鹿島紀行」は短編であるが風月の趣に溢れ、本格的な紀行文の出発となった重要な作品である。「笈の小文」は風雅論・紀行論・旅論等が収載され、短編紀行文的な発想や発句を一まとめにして発表されたことが注目される。「おくのほそ道」は永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成し、生涯の総決算的な意義をもつ。
 「芭蕉の生涯」(「幻住庵の記」「嵯峨日記」「猿蓑」) 元禄3年(1690)~元禄7年(1694
 元禄296日、伊勢神宮遷宮式奉拝のため大垣の如行宅を出発。「奥の細道」終り。曽良・路通・李下同道して揖斐川経由で伊勢長島大智院へ。9月末まで二見浦など見物して伊賀上野へ帰郷。その後、江戸深川に向かい1113日着。
 元禄
3年(1690)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、46日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に723日まで滞在した。(「幻住庵の記」;元禄346日~723日)この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た。
 元禄
4年(16914月から京都嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、54日には京都の野沢凡兆宅に移った。(「嵯峨日記」;元禄4418日~54日)ここで芭蕉は去来や凡兆らと「猿蓑」の編纂に取り組み始めた。「猿蓑」とは、元禄29月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾る
 
602 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)
に由来する。73日に刊行された「猿蓑」には、幻住庵滞在時の記録「幻住庵記」が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。芭蕉は1029日に江戸に戻った。
 元禄
5年(16925月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。
 元禄
6年(1693)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと「すみだはら」を編集した。
 元禄
7年(16946月に刊行されたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた「おくのほそ道」を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。
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これより句碑の検索に入るが、芭蕉俳句集(中村俊定校注)元禄2589「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」を区切りとすべきであるが、次の590「うきわれをさびしがらせよ秋の寺」(大智院;三重県桑名市)を「おくのほそ道」で掲載してあるので、591「たふとさにみなおしあひぬ御遷宮」以降の句を対象とし、「幻住庵の記」「嵯峨日記」も俳諧紀行同様個別に研究済みのため除外した。
「おくのほそ道」以降元禄2年内に23句、うち3句碑は「碑撮り旅」より、5句碑はネット検索より拝借した。
593 秋の風伊勢の墓原なほ凄し(あきのかぜ いせのはかはら なおすごし)
594 月さびよ明智が妻の話せむ(つきさびよ あけちがつまの はなしせん)
595 門に入れば蘇鉄に蘭のにほひ哉(もんにいれば そてつにらんの においかな)
598 蜻蜒や取りつきかねし草の上(とんぼうや とりつきかねし くさのうえ)
600 蔦の葉は昔めきたる紅葉哉(つたのはは むかしめきたる もみじかな)
602 初時雨猿も小蓑を欲しげなり(はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)
611 霰せば網代の氷魚を煮て出さん(あられせば あじろのひおを にてださん)
613 何にこの師走の市にゆく烏(なににこの しはすのいちに いくからす)
秋の風伊勢の墓原なほ凄し
西行の歌「吹きわたす風にあはれをひとしめていづくもすごき秋の夕暮」(吹き渡る風は何処もかしこも同じようにあわれをもよおす秋の夕暮だ)がある。これを典拠として、伊勢の墓原はなお一段ともののあわれが「すごい」というのである。
 常明寺;三重県伊勢市
月さびよ明智が妻の話せむ
伊勢の神職で蕉門の又幻は神職間の勢力争いに敗れこの頃貧窮のどん底にあった。芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折り又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受け芭蕉は感激して後に本句を贈る。
 西教寺;滋賀県大津市
門に入れば蘇鉄に蘭のにほひ哉
元禄2年秋「奥の細道」を終えて伊勢神宮の遷宮参拝の折。伊勢の守栄院で、会うべき人がいてその人への挨拶吟。寺の門を入るとかぐわしい香が匂ってきた。見れば大きな蘇鉄がある。きっとあのソテツの香であろう。なんとまるで蘭のような匂いがする。
 法傳院;三重県伊勢市
蜻蜒や取りつきかねし草の上
カゲロウが薄い草の葉に止まろうとしている、微風が吹いて葉が揺れる、葉に止まろうとしていた蜻蛉は何度も何度も失敗する。 嘱目吟だろうが、芭蕉が唱導する「軽み」に失敗する門弟達を見ての印象かもしれない。
 千曲橋右岸公園;長野県千曲市 第16回碑撮り旅(2014.12.12
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蔦の葉は昔めきたる紅葉哉
紅葉といえばカエデやウルシ。そういう中にあって、ツタの紅葉はひときわ紅い。その蔦紅葉を「昔めきたる」(昔風である)と言い放ったがなんとも根拠が薄弱である。そのことが言葉の遊びとなって訴求力を持たない句となってしまった。
 飯高寺;千葉県匝瑳市
初時雨猿も小蓑を欲しげなり
伊賀越えの山の中で初時雨に遭遇した。自分は早速蓑を腰に巻いたが、寒さの中で樹上の猿たちも小蓑をほしそうな気振りに見えることだ。芭蕉はこれを俳諧化して「小蓑を欲しげなり」としたのである。
 もてなし広場;群馬県高崎市 第14回碑撮り旅(2014.11.14
霰せば網代の氷魚を煮て出さん
霰が降ってきたなら、網代にかかった氷魚を料理して出しますよ。草庵に人が訪れてくれた喜びに弾む句。氷魚は透明な鮎の稚魚のこと。海に下っていく稚魚たちが網代に捕らえられ、それを醤油で煮付けて食したのである。
 南郷水産センター;滋賀県大津市
何にこの師走の市にゆく烏
烏が師走で賑わっている街中に行こうとしている。この烏、何のために人混みめがけて出かけて行くのだろうか。擬人化しやすい烏に仮託しながら作者自身の世俗行事への参加の意思が裏に働いているようでもあり単純でない心理が内包されている。
 治田公園;長野県千曲市 第16回碑撮り旅(2014.12.12
 「芭蕉の生涯」(蕉風の高まりと紀行) 元禄7年(1694
 元禄75月(1694)、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止め、528日には到着した。その後湖南や京都へ行き7月には伊賀上野へ戻った。
 
9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。105日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。
 
8日、「病中吟」と称して
926 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。
10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った。
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 享年50歳。遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸の筆といわれる。
 義仲寺;滋賀県大津市 第21回碑撮り旅(2015.06.03
元禄七年十月十二日申の刻、芭蕉は51年の生涯を大坂南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷にて終えた。門人支考の「追善日記」によれば、この日は、朝からよく晴れた小春日和であった。昼下がりの病室には、気温の高まりに元気づいたハエどもが多数集まってきた。看病の門弟達は、棒の先に鳥もちを塗って、これらを撃退しはじめた。段々蝿取りに夢中になって枕元が騒がしくなった。それに目覚めた芭蕉は、弟子達の、蝿取りにも個性のあることがおかしいと言って笑ったという。これが芭蕉最後の弟子達とのやり取りであった 。
926 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
「辞世の句」でなく「病中吟」との前置ゆえ、「病気になったが、まだ私の夢は枯野をかけ巡っている。早く治ってまた旅に出たいものだ。」と解釈したい。
 義仲寺;滋賀県大津市 第21回碑撮り旅(2015.06.03
木曽殿と背中合せの寒さかな 島崎又玄
芭蕉の生前に又玄が詠んだ、あまりに芭蕉の墓石と義仲の墓石の様子を言い当てている。本来、こういう「寒さ」を「木曽殿と背中合せ」で形容する芸当はなかなか誰にでも出来るものではない。おそらく、芭蕉も絶賛した句だったと思われる。
 義仲寺;滋賀県大津市 第21回碑撮り旅(2015.06.03
 義仲寺山門から向かって左手奥に無名庵がある。義仲公御墓は、無名庵の脇に位置して、西向きに存在する。だから、無名庵はちょうど義仲公御墓の真後ろに存在することになる。正確には、無名庵で、東向きに座れば、まさしく『木曽殿と背中合わせ』になる。多分、そのような位置に又玄は正座し、木曾公の御墓を意識したことに基づく句であろう。
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