芭蕉雑記 --- 芥川龍之介著に学ぶ ---
芭蕉は一巻の書も著はしたことはない
 芥川龍之介は、「続芭蕉雑記」の中で、芭蕉を「日本の生んだ三百年前の大山師」(「山師」とは「詐欺師」のこと)と評しています。先ず「ウィキペディア」で「芭蕉の生涯」についておさらい。その後で「芥川龍之介」の「芭蕉雑記」について句碑を添えながら研究・考察をしたい。その過程で「ネット検索」をお許し頂きまとめます。当ホームページをご覧になられた皆様、そのへんをご理解戴きたくお願い致します。
芭蕉の伝記は細部に亘ば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけは下に尽きてゐると信じてゐる。彼は不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚さへ恐れさせた西行ほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産」にある蕩児(たうじ)の一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、彼の「一生の道の草」を残した。
最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合(かうがふ)に図々しくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りに貶(けな)す言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に
日本の生んだ三百年前の大山師だつた。しかし、彼は芭蕉を全面否定しているのではなく、彼が天才であることを認めつつ、「現実には名声を求めているのに、名聞を求めていないという姿勢」を皮肉っているようです。また、「芭蕉の句」というだけで「優れている」と思い込み、有難がることは、文芸の衰弱につながると考えたようです。
「芭蕉雑記」(著書) 芥川龍之介
芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉(ことごとく)門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞を好まぬ為だつたらしい。「曲翠(きよくすゐ)問、発句を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心なるべきや。翁曰、これ卑しき心より我上手なるを知られんと我を忘れたる名聞より出る事也。」かう云つたのも一応は尤(ゆふ)もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。「集とは其風体の句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし。しかしながら貞徳以来其人々の風体ありて、宗因まで俳諧を唱来れり。然ども我云所の俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水等に後見して「冬の日」「春の日」「あら野」等あり。」
芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう?且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!しかし又芭蕉はかう云つてゐる。「我俳諧撰集の心なし」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空」と考へはしなかつたであらうか?同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転に任せたのではなかつたであらうか?少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?
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(芥川は芭蕉の思いを)また芭蕉の俳諧の特色として「目に訴える美しさと耳に訴える美しさ」の微妙に融け合った美しさであって、後の与謝蕪村もついに追従できなかったものでした。芥川は蕪村の「春雨」の十二句すべて取り上げて芭蕉の二句と比べています。
 春雨やものかたりゆく蓑と笠     春雨や暮れなんとしてけふもあり
 芝漬や沈みもやらで春の雨      春雨やいざよふ月の海半ば
 春雨や綱が袂に小提灯        春雨や人住みて煙壁を洩る
 物種の袋濡らしつ春の雨       春雨や身にふる頭巾着たりけり
 春雨や小磯の小貝濡るるほど     滝口に灯を呼ぶ声や春の雨
 ぬなは生ふ池の水かさや春の雨    春雨やもの書かぬ身のあはれなる
これら十二句は大和絵のように目に訴える美しさを備えていますが、耳に訴えてくるものがさほどないというのです。そして芭蕉の二句を対比させています。
 
480 春雨や蓬をのばす草の道    (はるさめや よもぎをのばす くさのみち)
 
683 不性さやかき起されし春の雨  (ぶしょうさや かきおこされし はるのあめ)
たしかに情景の他に音が聞こえてくるようです。これは芥川自身、俳句を嗜んでいてその手法に苦慮していたためでしょう。芭蕉のように視覚聴覚に優れたものを著わすにはやはり目と耳を研ぎ澄まさねばならぬことに意でしょう。「俳諧は生涯の道の草」といった芭蕉の覚悟を読み間違えてはいけないと思います。芥川が芭蕉に惹かれたのは俳句がただ優れただけでなく彼の生き方に憧れていたからでしょう。そしてその憧れが芥川の作品に生きているのではないかと改めて思います。「十七文字のなかの自由」は制約されたなかであるからこそあるのでしょう。それは韻文に限らず散文になかにもいえることです。いかに芥川がそれを取得したか、あるいは習得しようとしたか、彼の残した俳句集で探ることはできないでしょうか。
「芭蕉雑記」(装幀) 芥川龍之介
芭蕉は俳書を上梓(出版)する上にも、いろいろ註文を持つてゐたらしい。たとへば本文の書きざまにはかう云ふ言葉を洩らしてゐる。「書やうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。「猿簔」能筆なり。されども今少し大なり。作者の名大にていやしく見え侍る。」又、勝峯晉風氏の教へによれば、俳書の装幀も芭蕉以前は華美を好んだのにも関らず、芭蕉以後は簡素の中に寂びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日に生れたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布は木綿にするとか、考案を凝らしたことであらう。
「芭蕉雑記」(自釈) 芥川龍之介
芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌さへあげぬことはない。「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店。此句、翁曰、心づかひせずと句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生て出でけん初松魚と云ふこそ心の骨折人の知らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角なり。塩鯛の歯ぐきは我老吟なり。下を魚の店と唯いひたるもおのづから句なりと宣へり。」まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何びとにもはつきりわかるものではない。
「芭蕉雑記」(詩人) 芥川龍之介
「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を軽んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ当然の言葉である。しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど真剣になつた人は滅多にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
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「土芳云、翁曰、学ぶ事は常にあり。席に臨んで文台と我と間に髪を入れず。思ふこと速に云出て、爰に至てまよふ念なし。文台引おろせば即反故なりときびしく示さるる詞もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子くふ口つき、三十六句みなやり句などといろいろにせめられ侍るも、みな巧者の私意を思ひ破らせんの詞なり。」
この芭蕉の言葉の気ぐみは殆ど剣術でも教へるやうである。到底俳諧を遊戯にした世捨人などの言葉ではない。更に又芭蕉その人の句作に臨んだ態度を見れば、愈情熱に燃え立つてゐる。
「許六云、一とせ江戸にて何がしが歳旦びらきとて翁を招きたることあり。予が宅に四五日逗留の後にて侍る。其日雪降て暮にまゐられたり。其俳諧に、
 人声の沖にて何を呼やらん   桃鄰
 鼠は舟をきしる暁       翁
予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句をかたり出し給ふに、予が云、さてさて此暁の一字ありがたき事、あだに聞かんは無念の次第也。動かざること、大山のごとしと申せば師起き上りて曰、此暁の一字聞きとどけ侍りて、愚老が満足かぎりなし。此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に声の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは気を廻し侍れども、一句連続せざると宣へり。予が云、是須磨の鼠よりはるかにまされり。
(中略)暁の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん、これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のみにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるごとし、其夜此句したる時、一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども、此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る。」
 知己に対する感激、流俗に対する軽蔑、芸術に対する情熱、――詩人たる芭蕉の面目はありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に「この句にて腹を医せよ」と大気焔を挙げた勢ひには、――世捨人は少時問はぬ。敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。「翁凡兆に告て曰、一世のうち秀逸三五あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の説によれば、つまりは「生涯の道の草」である!
「十一日。朝またまた時雨す。思ひがけなく東武の其角来る。(中略)すぐに病床にまゐりて、皮骨連立したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ涙ぐみたまふ。(中略)
 鬮とりて菜飯たたかす夜伽かな 木節
 皆子なり蓑虫寒く鳴きつくす  乙州
 うづくまる薬のもとの寒さかな 丈艸
 吹井より鶴をまねかん初時雨  其角
一々惟然吟声しければ、師丈艸が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄れし声もて讃めたまひにけり。」
これは芭蕉の示寂前一日に起つた出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚の僧に地獄の苦艱を訴へる後ジテの役を与へられたであらう。
かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか?ゲエテは詩作をしてゐる時には
Daemon(守護神) に憑かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄を蒙つてゐたのではないであらうか?つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草の元政などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。
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「芭蕉雑記」(未来) 芥川龍之介
「翁遷化の年深川を出給ふ時、野坡問て云、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七年も過なば一変あらんとなり。」「翁曰、俳諧世に三合は出たり。七合は残たりと申されけり。」
かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵へるものは自分の外にないと己惚れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄に街頭の売卜先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。僕はかう信じて疑つたことはない。
「芭蕉雑記」(俗語) 芥川龍之介
芭蕉はその俳諧の中に屡俗語を用ひてゐる。たとへば下の句に徴するが好い。
洗馬にて
 梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ 存疑の部
「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しみに溢れてゐる。(成程かう書いて見ると、不世出の天才を褒め揚げるほど手数のかからぬ仕事はない。殊に何びとも異論を唱へぬ古典的天才を褒め揚げるのは!)かう云ふ例は芭蕉の句中、枚挙に堪へぬと云つても好い。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。「じだらくに居れば涼しき夕かな。宗次。猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取べき句なし。一夕、翁の側に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥なんと宣ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作て入集せさせ給ひけり。」この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。
佐夜の中山にて
 
060 命なりわづかの笠の下涼み   (いのちなり わずかのかさの したすずみ)
杜牧が早行の残夢、小夜の中山にいたりて忽ち驚く
 
183 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり (うまにねて ざんむつきとおし ちゃのけぶり)
芭蕉の語彙はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉の大力量も窺はれることは事実である。成程談林の諸俳人は、いや、伊丹の鬼貫さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施したのは正に芭蕉の大手柄である。しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕したのは、そんなことは今更弁ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雑談」の中に子規居士も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帯びてゐたことだけは今日もなほ力説せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に数へ上げることを憚らぬであらう。
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「芭蕉雑記」(耳) 芥川龍之介
芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
 
061 夏の月御油より出でて赤坂や  (なつのつきごゆよりいでてあかさかや)
これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套の譏りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
 
278 年の市線香買ひに出でばやな  (としのいち せんこうかいに いでばやな)
仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年の市に線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懐しい気もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍りを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気にとられてしまふ外はない。
 
925 秋ふかき隣は何をする人ぞ   
(あきふかき となりはなにを するひとぞ)
かう云ふ荘重の「調べ」を捉へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である。
「芭蕉雑記」(同上) 芥川龍之介 句は「著書」の項で掲示
芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element と Musical element との融合の上に独特の妙のあることである。これだけは蕪村の大手腕も畢に追随出来なかつたらしい。下に挙げるのは几董の編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。  春雨やものかたりゆく蓑と笠
 春雨や暮れなんとしてけふもあり
 柴漬や沈みもやらで春の雨
 春雨やいざよふ月の海半ば
 春雨や綱が袂に小提灯
 春雨や人住みて煙壁を洩る
 物種の袋濡らしつ春の雨
 春雨や身にふる頭巾着たりけり
 春雨や小磯の小貝濡るるほど
 滝口に灯を呼ぶ声や春の雨
 ぬなは生ふ池の水かさや春の雨
 春雨やもの書かぬ身のあはれなる
この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずる憾みさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも渋滞を感じてゐない。
 
480 春雨や蓬をのばす草の道    (はるさめやよもぎをのばすくそのみち)
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赤坂にて
 
683 無性さやかき起されし春の雨  (ぶしょうさや かきおこされし はるのあめ)
僕はこの芭蕉の二句の中に百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。「無性さや」に起り、「かき起されし」とたゆたつた「調べ」にも柔媚に近い懶さを表はしてゐる。所詮蕪村の十二句もこの芭蕉の二句の前には如何とも出来ぬと評する外はない。兎に角芭蕉の芸術的感覚は近代人などと称するものよりも、数等の洗練を受けてゐたのである。
「芭蕉雑記」(画) 芥川龍之介
東洋の詩歌は和漢を問はず、屡画趣を命にしてゐる。エポスに詩を発した西洋人はこの「有声の画」の上にも邪道の貼り札をするかも知れぬ。しかし「遙知郡斎夜(ハルカニシルグンサイノヨ)、凍雪封松竹(トウセツシヨウチクヲフウズ)、時有山僧来(トキニサンソウノキタルアリ)、懸燈独自宿(トウヲカケテドクジシユクス)」は宛然たる一幀の南画である。又「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」もおのづから浮世絵の一枚らしい。この画趣を表はすのに自在の手腕を持つてゐたのもやはり芭蕉の俳諧に見のがされぬ特色の一つである。
 
871 涼しさやすぐに野松の枝のなり (すずしさや すぐにのまつの えだのなり)
 
801 夕顔や酔て顔出す窓の穴    (ゆうがおや よおてかおだす まどのあな)
 
249 山賤のおとがひ閉づる葎かな  (やまがつの おとがいとずる むぐらかな)
第一は純然たる風景画である。第二は点景人物を加へた風景画である。第三は純然たる人物画である。この芭蕉の三様の画趣はいづれも気品の低いものではない。殊に「山賤の」は「おとがひ閉づる」に気味の悪い大きさを表はしてゐる。かう云ふ画趣を表現することは蕪村さへ数歩を遜らなければならぬ。(度たび引合ひに出されるのは蕪村の為に気の毒である。が、これも芭蕉以後の巨匠だつた因果と思はなければならぬ。)のみならず最も蕪村らしい大和画の趣を表はす時にも、芭蕉はやはり楽々と蕪村に負けぬ効果を収めてゐる。
 
702 粽ゆふ片手にはさむひたひ髪  (ちまきゆう かたてにはさむ ひたいがみ)
芭蕉自身はこの句のことを「物語の体」と称したさうである。
「芭蕉雑記」(衆道) 芥川龍之介
芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道を好んだと云はれてゐる。この談は必しも架空ではない。元禄は井原西鶴の大鑑を生んだ時代である。芭蕉も亦或は時代と共に分桃の契りを愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。その他芭蕉の作品の中には「前髪もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌つたものもない訳ではない。
しかし芭蕉の性慾を倒錯してゐたと考へるのは依然として僕には不可能である。成程芭蕉は明らかに「我も昔は衆道好き」と云つた。が、第一にこの言葉は巧みに諧謔の筆を弄した「貝おほひ」の判詞の一節である。するとこれをものものしい告白のやうに取り扱ふのは多少の早計ではないであらうか?第二によし又告白だつたにせよ、案外昔の衆道好きは今の衆道好きではなかつたかも知れない。いや、今も衆道好きだつたとすれば、何も特に「昔は」と断る必要もない筈である。しかも芭蕉は「貝おほひ」を出した寛文十一年の正月にもやつと二十九歳だつたのを思ふと、昔と云ふのも「春の目ざめ」以後数年の間を指してゐるであらう。かう云ふ年頃の
Homo-Sexuality は格別珍らしいことではない。二十世紀に生れた我々さへ、少時の性慾生活をふり返つて見れば、大抵一度は美少年に恍惚とした記憶を蓄へてゐる。況や門人の杜国との間に同性愛のあつたなどと云ふ説は畢竟小説と云ふ外はない。
「芭蕉雑記」(海彼岸の文学) 芥川龍之介
或禅僧、詩の事を尋ねられしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人の名を知れるなり。かれ常に云ふ、詩は隠者の詩、風雅にてよろし。正秀問、古今集に空に知られぬ雪ぞ降りける、人に知られぬ花や咲くらん、春に知られぬ花ぞ咲くなる、一集にこの三首を撰す。一集一作者にかやうの事例あるにや。翁曰、貫之の好める言葉と見えたり。かやうの事は今の人の嫌ふべきを、昔は嫌はずと見えたり。
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もろこしの詩にも左様の例あるにや。いつぞや丈艸の物語に杜子美に専ら其事あり。近き詩人に于鱗とやらんの詩に多く有る事とて、其詩も、聞きつれど忘れたり。」于鱗は嘉靖七子の一人李攀竜のことであらう。古文辞を唱へた李攀竜の芭蕉の話中に挙げられてゐるのは杜甫に対する芭蕉の尊敬に一道の光明を与へるものである。しかしそれはまづ問はないでも好い。差当り此処に考へたいのは海彼岸の文学に対する芭蕉その人の態度である。是等の逸話に窺はれる芭蕉には少しも学者らしい面影は見えない。今仮に是等の逸話を当代の新聞記事に改めるとすれば、質問を受けた芭蕉の態度はこの位淡泊を極めてゐるのである。「某新聞記者の西洋の詩のことを尋ねた時、芭蕉はその記者にかう答へた。西洋の詩に詳しいのは京都の上田敏である。彼の常に云ふ所によれば、象徴派の詩人の作品は甚だ幽幻を極めてゐる。」「芭蕉はかう答へた。さう云ふことは西洋の詩にもあるのかも知れない。この間森鴎外と話したら、ゲエテにはそれも多いさうである。又近頃の詩人の何とかイツヒの作品にも多い。実はその詩も聞かせて貰つたのだが、生憎すつかり忘れてしまつた。」これだけでも返答の出来るのは当時の俳人には稀だつたかも知れない。が、兎に角海彼岸の文学に疎かつた事だけは確である。のみならず芭蕉は言詮を絶した芸術上の醍醐味をも嘗めずに、徒らに万巻の書を読んでゐる文人墨客の徒を嫌つてゐたらしい。少くとも学者らしい顔をする者には忽ち癇癪を起したと見え、常に諷刺的天才を示した独特の皮肉を浴びせかけてゐる。「山里は万歳遅し梅の花。翁去来へ此句を贈られし返辞に、この句二義に解すべく候。山里は風寒く梅の盛に万歳来らん。どちらも遅しとや承らん。又山里の梅さへ過ぐるに万歳殿の来ぬ事よと京なつかしき詠や侍らん。翁此返辞に其事とはなくて、去年の水無月五条あたりを通り候に、あやしの軒に看板を懸けて、はくらんの妙薬ありと記す。伴ふどち可笑しがりて、くわくらん(霍乱)の薬なるべしと嘲笑ひ候まま、それがし答へ候ははくらん(博覧)病が買ひ候はんと申しき。」これは一門皆学者だつた博覧多識の去来には徳山の棒よりも手痛かつたであらう。(去来は儒医二道に通じた上、「乾坤弁説」の翻訳さへ出した向井霊蘭を父に持ち、名医元端や大儒元成を兄弟に持つてゐた人である。)なほ又次手に一言すれば、芭蕉は一面理智の鋭い、悪辣を極めた諷刺家である。「はくらん病が買ひ候はん」も手厳しいには違ひない。が、「東武の会に盆を釈教とせず、嵐雪是を難ず。翁曰、盆を釈教とせば正月は神祇なるかとなり。」かう云ふ逸話も残つてゐる。兎に角芭蕉の口の悪いのには屡門人たちも悩まされたらしい。唯幸ひにこの諷刺家は今を距ること二百年ばかり前に腸加答児か何かの為に往生した。さもなければ僕の「芭蕉雑記」なども定めし得意の毒舌の先にさんざん飜弄されたことであらう。芭蕉の海彼岸の文学に余り通じてゐなかつたことは上に述べた通りである。では海彼岸の文学に全然冷淡だつたかと云ふと、これは中々冷淡所ではない。寧ろ頗る熱心に海彼岸の文学の表現法などを自家の薬籠中に収めてゐる。たとへば支考の伝へてゐる下の逸話に徴するが好い。
「ある時翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯と云、病蚕といへる言葉のおもしろければ、
 
861 鶯や竹の子藪に老を啼     (うぐいすや たけのこやぶに おいをなく)
 
863 さみだれや飼蚕煩ふ桑の畑   (さみだれや かいこわずらう くわのはた)
斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪といひて老若の余情もいみじく籠り侍らん。蚕は熟語をしらぬ人は心のはこびをえこそ聞くまじけれ。是は筵の一字を入れて家に飼ひたるさまあらんとなり。」白楽天の長慶集は「嵯峨日記」にも掲げられた芭蕉の愛読書の一つである。かう云ふ詩集などの表現法を換骨奪胎することは必しも稀ではなかつたらしい。たとへば芭蕉の俳諧はその動詞の用法に独特の技巧を弄してゐる。
 
797 一声の江に横たふや時鳥    (ひとこえの えによことうや ほととぎす)→郭公声横たふや水の上
立石寺(前書略)
 
525 閑さや岩にしみ入る蝉の声   (しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
鳳来寺に参籠して
 
743 木枯に岩吹とがる杉間かな   (こがらしに いわふきとがる すぎまかな)
是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼から学んだのではないであらうか? 字眼とは一字の工の為に一句を穎異ならしめるものである。
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例へば下に引用する岑参の一聯に徴するがよい。
 孤燈燃客夢 寒杵搗郷愁
けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
 
632 鐘消えて花の香は撞く夕べかな 
(かねきえて はなのかはつく ゆうべかな)
僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山の所謂倒装法を俳諧に用ひたものである。
 紅稲啄残鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰枝
上に挙げたのは倒装法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡啄残紅稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」と名詞の位置を顛倒しなければならぬ。芭蕉の句も尋常に云ひ下せば、「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」と動詞の位置の顛倒する筈である。すると一は名詞であり、一は又動詞であるにもせよ、これを俳諧に試みた倒装法と考へるのは必しも独断とは称し難いであらう。蕪村の海彼岸の文学に学ぶ所の多かつたことは前人も屡云ひ及んでゐる。が、芭蕉のはどう云ふものか、余り考へる人もゐなかつたらしい。(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に気づいてゐた筈である。)しかし延宝天和の間の芭蕉は誰でも知つてゐるやうに、「憶老杜、髭風ヲ吹テ暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ」「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」以下、多数に海彼岸の文学を飜案した作品を残してゐる。いや、そればかりではない。芭蕉は「虚栗」(天和三年上梓)の跋の後に「芭蕉洞桃青」と署名してゐる。「芭蕉庵桃青」は必しも海彼岸の文学を聯想せしめる雅号ではない。しかし「芭蕉洞桃青」は「凝烟肌帯緑映日瞼粧紅」の詩中の趣を具へてゐる。これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「洞の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。すると芭蕉は少くとも延宝天和の間の芭蕉は、海彼岸の文学に少なからず心酔してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危険さへ冒せば、談林風の鬼窟裡に堕在してゐた芭蕉の天才を開眼したものは、海彼岸の文学であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文学の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには当らない筈である。偶「芭蕉俳句定本」を読んでゐるうちに、海彼岸の文学の影響を考へたから、「芭蕉雑記」の後に加へることにした。附記。芭蕉は夙に伊藤坦庵、田中桐江などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。しかし芭蕉の蒙つた海彼岸の文学の影響は寧ろ好んで詩を作つた山口素堂に発するのかも知れない。
「芭蕉雑記」(詩人) 芥川龍之介
蕉風の付け合に関する議論は樋口功氏の「芭蕉研究」に頗る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、発句は蕉門の竜象を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今独歩の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖を破り、発句を自他無差別の大千世界へ解放した。「お手打の夫婦なりしを衣更」「負けまじき相撲を寝物語かな」等はこの解放の生んだ作品である。芭蕉は許六の「名将の橋の反見る扇かな」にさへ、「此句は名将の作にして、句主の手柄は少しも無し」と云ふ評語を下した。もし「お手打の夫婦」以下蕪村の作品を見たとすれば、後代の豎子の悪作劇に定めし苦い顔をしたことであらう。勿論蕪村の試みた発句解放の善悪はおのづから問題を異にしなければならぬ。しかし芭蕉の付け合を見ずに、蕪村の小説的構想などを前人未発のやうに賞揚するのは甚だしい片手落ちの批判である。念の為にもう一度繰り返せば、芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。最も切実に時代を捉へ、最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人である。この事実を知る為には芭蕉の付け合を一瞥すれば好い。芭蕉は茶漬を愛したなどと云ふのも嘘ではないかと思はれるほど、近松を生み、西鶴を生み、更に又師宣を生んだ元禄の人情を曲尽してゐる。殊に恋愛を歌つたものを見れば、其角さへ木強漢に見えぬことはない。況や後代の才人などは空也の痩せか、乾鮭か、或は腎気を失つた若隠居かと疑はれる位である。
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  狩衣を砧の主にうちくれて      路通
 わが稚名を君はおぼゆや        芭蕉

元禄二年126日江戸「衣装して」歌仙 曾良・前川・路通・芭蕉の三六歌仙 この日、芭蕉は江戸に来た「とう山」の旅宿を訪問している。その「嗒山」とは、木因らと並んで美濃の大垣の最古の門人の一人。「津田前川」という大垣藩士かと思われる。「狩衣をきぬたのぬしに打くれて我おさな名を君はしらずや」ある程度の年になってから妻を貰うと、妻は幼名を知らなかったりしたのだろう。砧打つ姿に母のことを思い出し、幼名で呼ばれてたことを懐かしく思い出す。
 発句 衣装して梅改むる匂ひかな    曾良

 脇  蝶めづらしき入口の松      前川
  宮に召されしうき名はづかし     曾良
 手枕に細きかひなをさし入て      芭蕉
元禄二年四月二十三日、「奥の細道」須賀川等躬宅「風流の」興行 芭蕉・等躬・曾良の三六歌仙
二十五句目
「手枕にほそき肱をさし入て宮にめされしうき名はづかし」これは、「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそおしけれ」(周防内侍)を本歌にした逃げ句。
 発句 風流の初めやおくの田植歌    芭蕉
 脇  覆盆子を折て我まうけ草     等躬
  殿守がねぶたがりつる朝ぼらけ    千里
 兀げたる眉を隠すきぬぎぬ       芭蕉
貞享三丙寅年正月、「日の春を」の歌仙
二十六句目
「殿守がねぶたがりつるあさぼらけはげたる眉をかくすきぬぎぬ」。「初懐紙評注」には、「朝ぼらけといふより、きぬぎぬ常の事なり。はげたる眉といふは寝過して、しどけなき体也。伊勢物語に夙に殿守づかさの見るになどいへるも、此句の余情ならん。」とある。「朝ぼらけ」といえば後朝ということで、激しい夜を過ごした後はきっと書いた眉などハゲているだろうなと付ける。
 発句 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角
 脇  砌に高き去年の桐の実      文鱗
  足駄はかせぬ雨のあけぼの      越人
 きぬぎぬやあまりか細くあでやかに   芭蕉
貞享五年九月中旬、芭蕉庵にて「雁がねも」の巻
十三句目
「きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに足駄はかせぬ雨のあけぼの」。足駄を履いて去ってゆこうとする男も、女のあまりにか細く艶やかな姿にためらう。
  深川の夜
 発句 雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人
 脇  酒しゐならふこの比の月     芭蕉
  上置の干葉きざむもうはの空     野坡
 馬に出ぬ日は内で恋する        芭蕉
俳諧炭俵集(下巻)神無月廿日ふか川にて即興
 発句 振賣の鴈あはれ也ゑびす講    芭蕉
 脇  降てはやすみ時雨する軒     野坡
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十三句目
 上をきの干葉刻むもうはの空      野坡
「上おき」とは、飯、雑煮の餅、うどん・そばなど、主食となるものの上にのせる肉・魚・野菜などであろう。上置きに干した大根の葉を乗せるのであろうが、下の料理が分からない。この調理を上の空でやっている。なにせ、肩の筋肉が引きつって痛んで仕方が無いのだ。
 馬に出ぬ日は内で恋する        芭蕉
前句の主人公は女性らしい。恋に身を焦がして料理も手につかない。恋の相手はどうやら馬方。彼が馬稼業に出ない日はやって来てくれる。それでますます家事に手がつかないらしい。
  やさしき色に咲るなでしこ      嵐蘭
 よつ折の蒲団に君が丸くねて      芭蕉
元禄
6年秋。「初茸や」の巻
 発句 初茸やまだ日数経ぬ秋の露    芭蕉
 脇  青き薄ににごる谷川       岱水
十句目
  弁当の菜を只置く石の上       半落
 やさしき色に咲るなでしこ       嵐蘭
「弁当の菜を只置く石の上やさしき色に咲るなでしこ」。弁当の菜を置いた石の脇には撫子が咲いている。
十一句目
  やさしき色に咲るなでしこ      嵐蘭
 四ツ折の蒲団に君が丸く寐て      芭蕉
「四ツ折の蒲団に君が丸く寐てやさしき色に咲るなでしこ」。撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。
十二句目
  四ツ折の蒲団に君が丸く寐て     芭蕉
 物書く内につらき足音         岱水
「四ツ折の蒲団に君が丸く寐て物書く内につらき足音」。母親であろう。つらい恋の思いを手紙に書いていると、その憎き男の足音がする。是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とは聊か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川の浮世絵に髣髴たる女や若衆の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元禄びとの作品である。「元禄びとの」、僕は敢て「元禄びとの」と言つた。是等の作品の抒情詩的甘露味はかの化政度の通人などの夢寐にも到り得る境地ではない。彼等は年代を数へれば、「わが稚名を君はおぼゆや」と歌つた芭蕉と、僅か百年を隔つるのに過ぎぬ。が、実は千年の昔に「常陸少女を忘れたまふな」と歌つた万葉集中の女人よりも遙かに縁の遠い俗人だつたではないか。  
「芭蕉雑記」(鬼趣) 芥川龍之介
芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の好尚を反映してゐることは上に挙げた通りである。その著しい例の一つは芭蕉の俳諧にある鬼趣であらう。「剪燈新話」を飜案した浅井了意の「御伽婢子」は寛文六年の上梓である。爾来かう云ふ怪談小説は寛政頃まで流行してゐた。たとへば西鶴の「大下馬」などもこの流行の生んだ作品である。正保元年に生れた芭蕉は寛文、延宝・天和・貞享を経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談小説の流行の中に終始したものと云はなければならぬ。この為に芭蕉の俳諧も殊にまだ怪談小説に対する一代の興味の新鮮だつた「虚栗」以前の俳諧は時々鬼趣を弄んだ巧妙な作品を残してゐる。
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「芭蕉の生涯」(関口芭蕉庵) 延宝5年(1677)~延宝8年(1680p4記載事項の補足
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、*「桃青三百韻」が刊行された。との記載に関し以下の補足をする。
「桃青三百韻」
寛文十二年の春、宗房は故郷伊賀を離れてやってきた花のお江戸に。当時も世界に誇る大都会の、刺激に満ちた日々にいくつもの出会い。なかでも延宝三年の夏、本所大徳院での宗因と同座した俳諧。桃青と名前を変えての談林俳諧の洗礼を受け、新風を世に。延宝四年春の信章(後の素堂)との両吟二百韻、そして延宝五年、六年には京の信徳を迎えての三吟三百韻。新たな飛躍へ。延宝五年冬 二字返音之百韻三吟「あら何共なや」の巻。延宝六之春 三字中略之百韻三吟「さぞな都」の巻。延宝六年之春 飯何之百韻三吟「物の名も」の巻。
両吟二百韻
 延宝四年春、奉納貳百韻うちの第一百韻「此梅に」の巻
 延宝四年春、奉納貳百韻うちの第二百韻「梅の風」の巻
 小夜嵐とぼそ落ちては堂の月      信徳
  古入道は失せにけり露        桃青
延宝五年冬、二字返音之百韻三吟「あら何共なや」の巻
 発句 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青
 脇  寒さしさつて足の先迄      信章
五十七句目
  これなる朽木の横にねさうな     信章
「掛乞も小町がかたへと急候これなる朽木の横にねさうな」
 小夜嵐扉落ては堂の月         信徳
「小夜嵐扉落ては堂の月これなる朽木の横にねさうな」。堂に泊まろうと思ってたら嵐で扉が壊れていたので朽木の横に寝る。
五十八句目
  小夜嵐扉落ては堂の月        信徳
 ふる入道は失にけり露         桃青
「小夜嵐扉落ては堂の月ふる入道は失にけり露」。昔ここにいた老いた入道はいなくなっていた。涙の露。こうした露の放り込みはこれ以降の俳諧にしばしば見られる。ほぼ涙の意味で用いられる。
  から尻沈む淵はありけり       信徳
 小蒲団に大蛇の恨み鱗形        桃青
延宝五年冬、二字返音之百韻三吟「あら何共なや」の巻
三十句目
  目の前に嶋田金谷の三瀬川      信章
 から尻沈む淵はありけり        信徳
「目の前に嶋田金谷の三瀬川から尻沈む淵はありけり」。
三十一句目
  から尻沈む淵はありけり       信徳
 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形       桃青
「小蒲団に大蛇のうらみ鱗形から尻沈む淵はありけり」。から尻の馬が沈むのは鱗形模様の座布団を敷いたりしたから、大蛇の怒りに触れたからだとする。
 気違を月のさそへば忽に        桃青
  尾を引ずりて森の下草        似春
                        - 11 - 
 夫は山伏あまの呼び声         信徳
  一念のうなぎとなつて七まとひ    桃青
延宝
5年、芭蕉34歳の時の作。「俳諧江戸三吟」は、芭蕉、伊藤信徳、山口信章(素堂)で巻いた三百韻。
「江戸三吟」の巻頭の
3
 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁   桃青
 寒さしまって足の先まで        信章
 居合抜きあられの玉や乱すらん     信徳
河豚汁は河豚の味噌汁のこと。冬に食す。河豚を食うというからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。
其の一(巻頭)
 物の名も蛸や古郷のいかのぼり     信徳
  あふくの空は百余里の春       桃青
 嶺に雪かねの草軽解そめて       信章
  千人カの東風わたる也        信徳
 熊つかひむかへぽ月の薄星       桃青
  水右衛をわらふ初かりの聲      信章
 墨の髭萩の下葉のうつろひて      信徳
  尾花か袖に鏡かさうか        桃青
 判はんじいか在る風の閑にふく     信章
  おつとは山伏海士の坪聲       信徳
 一念の鰻となつて七まとひ       桃青

 骨刀土器鍔のもろきなり        其角
  痩せたる馬の影に鞭うつ       桃青
延宝
9年秋、「世に有て」の巻。
 世に有て家立は秋の野中哉       才丸
  詠置月にかぶ萩を買         揚水
十五句目
  卒塔婆の男ゆかた凋レる       才丸
 骨刀土器鍔のもろきなり        其角
「骨刀土器鍔のもろきなり卒塔婆の男ゆかた凋レる」。骨の刀に素焼き土器の鍔というと、ゲームか何かのアンデッド系の戦士みたいだが、多分ここでもそういう怪異をイメージしたのだろう。
十六句目
 骨刀土器鍔のもろきなり        其角
  痩たる馬の影に鞭うつ        桃青
「骨刀土器鍔のもろきなり痩たる馬の影に鞭うつ」。武将の幽霊なら馬も幽霊で、さながらアンデッド・ナイトだ。
 山彦嫁をだいてうせけり        其角
  忍びふす人は地蔵にて明過し     桃青
「春澄にとへ」百韻、延宝
7年 五九
 発句 春澄はるずみにとへ稲負鳥といへるあり 其角
 脇   ことし此秋京を寝覚て     才丸
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五四句目 山彦嫁をだいてうせけり     其角
五五句目 忍びふす人は地蔵にて明過あけすごし 桃青
 釜かぶる人は忍びて別るなり      其角
  槌を子に抱くまぼろしの君      桃青
延宝
9年秋、「世に有て」の巻。
発句 世に有て家立は秋の野中哉     才丸
脇  詠置月にかぶ萩を買        揚水
三十九句目
  水くみ起て帚尋ぬる         才丸
 釜かぶる人は忍びて別るなり      其角
「釜かぶる人は忍びて別るなり水くみ起て帚尋ぬる」。水汲みが起きる頃、夜這いに来ていた男がお釜被って帰って行く。近代の童謡「花いちもんめ」でも「お釜被ってちょっときておくれ」と歌っていたが、地方によって違うかもしれない。
四十句目
  釜かぶる人は忍びて別るなり     其角
 槌を子にだくまぼろしの君       桃青
「釜かぶる人は忍びて別るなり槌を子にだくまぼろしの君」。槌の日(庚午より十五日の間)に生まれた子は災があるという。釜を被ってやってきた男は、大虬(みづち)の子を産ませては消えていったということか。百韻とはいえ、基本的には信徳編「七百五十韻」を引き継いで千句を仕上げるということだから、「七百五十韻」は八つの発句と被らないような題材を選ばなくてはならない。其角の「春澄にとへ」で「七百五十韻」の発句はやってしまったので、最後を締めくくる発句として無難な精神性の高い発句となっている。十句の発句を並べておこう。
一、江戸桜志賀の都はあれにけり     信徳
二、浦嶋が上髭化して白魚成べし     正長
三、竹の精翁姿や皮の面         如風
四、海鬼燈乙姫舌をふりたてたり     政定
五、鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり  春澄
六、風蘭や橘の軒もふるかりき     仙菴
七、夕されば深草火鉢ともよめり    常之
八、八人や俳諧うたふ里神楽      如泉
九、春澄にとへ稲負鳥といへるあり   其角
十、世に有て家立は秋の野中哉     才丸
九十九句目
  古沓をとつて野辺に枕ス       才丸
 行くれて花に夜着かる芝筵       其角
「行くれて花に夜着かる芝筵古沓をとつて野辺に枕ス」。ここは吉野に逃れた義経のように、しばし戦いを忘れて花の下に休む。
挙句
  行くれて花に夜着かる芝筵      其角
 狐は酔て酴醿に入ル          桃青
「行くれて花に夜着かる芝筵狐は酔て酴醿に入ル」。「酴醿」はここでは山吹と読む。賈至の「春思二首 其二」に、「金花臘酒解酴醿(金花の臘酒、酴醿を解く)」の詩句がある。単なる山吹ではなく山吹の酒に酔って山吹の黄金の世界に入って行くという、まさに貧しくても花に夜着を借りて芝の筵の上に横たわれば、俳諧の夢幻郷にいざなわれる、我々は世俗を化かすそんな狐たちだ、ということで一巻は目出度く終わる。主催は秋元但馬守(老中)家老 高山伝右衛門 麋塒 武蔵曲「錦とる」百韻
 今其とかげ金色の王          峡水
  袖に入螭夢を契りけむ        桃青
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是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは当時の怪談小説よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断つてしまつた。しかし無常の意を寓した作品はたとひ鬼趣ではないにもせよ、常に云ふ可らざる鬼気を帯びてゐる。
  骸骨の画に
 夕風や盆挑灯も糊ばなれ(存疑の部)
本間主馬が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて能する所を画きて、壁に掛けたり(下略)
 
888 稲妻やかほのところが薄の穂  (いかづまや かおのところが すすきのほ)
本間主馬が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを描きて、舞台の壁に掛けたり。まことに生前のたはぶれ、などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢うつつを分かたざるも、ただこの生前を示さるるものなり。
 稲妻や顔のところが薄の穂
元禄
7年夏、膳所の義仲寺在住中、大津の能大夫本間主馬の宅に招かれて、能舞台の壁に張ってあった骸骨の能を演じている画に画賛を入れた。「續猿蓑」にも所収。一句には、言うまでもなく、謡曲「通小町」の中の一首「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ小野とは言はじ薄生ひたり」が引用されている。定型ではあるが、芭蕉晩年の鬱屈した死生観も伺われる。               (大正十二年―十三年)
「芭蕉雑記」 芥川龍之介  掲載句の句碑
 「碑撮り旅」意外の多くの句碑、ネット検索での借用画像、ありがたく使わせて頂きます。
  480 春雨や蓬をのばす草の道
「草の道」に春雨がしとしとと降っている。その「草の道」には蓬が芽を出して春の到来を告げている。
  宝川温泉「汪泉閣」;群馬県みなかみ町
 683不性さやかき起されし春の雨(猿蓑) 句碑なし
「不性さや抱起さるゝ春の雨」(芭蕉書簡)。「無性さやかき起されし春の雨」(芥川著)で、「無性さや」に起り、「かき起されし」と揺蕩った「調べ」にも柔媚じうびに近い懶ものうさを表はしてゐる。と評価。
  060 命なりわづかの笠の下涼み
延宝4年夏、33歳。芭蕉二度目の帰郷の折、小夜の中山での作。ここは西行にゆかりの歌枕であってみれば、芭蕉としては必ず一句詠まなくてはならないらしい。
  涼み松公園;静岡県掛川市
西行の「命なりけり」ではないが、佐夜の中山を通過している。ここには木陰が全くない。喉は渇き猛暑は容赦ない。まさに「命なりけり」だが、その命ときたら傘の下の日陰の中にかすかにあるというだけの塩梅だ。
  183 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり(野ざらし紀行)
廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。杜牧の詩に追加したものといえば、静岡名産「茶のけぶり」だけである。
  諏訪原城跡;静岡県島田市            - 14 - 
061 夏の月御油より出でて赤坂や

二度目の帰郷の際、愛知県豊川市(御油)と音羽町(赤坂)の間を舞台に詠む。東海道五十三次の中で 、駅間距離
16丁と最も距離の短い宿駅。

関川神社;愛知県豊川市
故に宿泊客争奪戦が激しく、御油に勝つために赤坂は当代随一の風俗営業の多かった地として有名。芥川龍之介は「芭蕉雑記」(耳)として、次のように書いている。「芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。
僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
  夏の月御油より出でて赤坂や
これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套の譏りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
278 年の市線香買ひに出でばやな(続虚栗) 句碑なし
せわしないが何となく希望をもって迎える年の瀬。人々は来るべき新年の祝い事にしめ飾り、羽子板などを買いに街に繰り出す。そこには年の瀬の市が立って一層喧騒を極める。芭蕉のような隠者にとってこういう晴れがましさは縁が無い。縁は無いのにやっぱり浮き立つものが無いわけではない。まさか隠者の庵に注連縄でもないから、いっそ線香でも買ってこようかというのである。線香は年の市には並んではいまいが。
  925 秋ふかき隣は何をする人ぞ
秋深く、身に迫る旅愁を懐いて都会の片隅に宿っていると、隣人は物音一つたてずひっそりと暮らしている。一体何を生業に世を渡っているのだろう。恐れ多くて、句碑建立が出来ない句だろうか、やっと探した1基である。
  コミュニティセンター大宝;滋賀県栗東市
元禄7928日作、51歳。この夜は芭蕉最後の俳席が畦止亭で開かれた。翌29日も、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていた。しかし芭蕉は体調悪く、参加できないと考えてこの句を芝柏亭に書き送った。芭蕉が起きて創作した最後の作品であり、29日から死の1012日までついに芭蕉は起きなかった。
871 涼しさやすぐに野松の枝のなり
雪芝亭ではこの松を植えたばかりだったようである。この家の庭の松は、無理に曲をつけたわけでもなく、枝ぶりはまっすぐに伸びた自然のままでなんとも好感が持てる。それがこの庭の涼しさを一層引き立てているようだ。
大日如来像;長野県佐久市 第15回(2014.12.09)碑撮り旅
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801 夕顔や酔て顔出す窓の穴(続猿蓑) 句碑なし
夏の宵、酔った勢いで小さな窓穴からひょいと顔を出したら、そこに夕顔がぱっちりと咲いてこちらを見ていた。この窓の穴は手洗いの窓などが考えられる。おかしさと美しさとが同居した名句。
  249 山賤のおとがひ閉づる葎かな
甲州の山は何処も急峻。夏草の茫々と生い茂る山路では、さすがに山人もおとがい(頤=下顎)を閉じて歩かねば口の中に夏草の穂先が入ってしまう。山道で会った木こりか猟師が無口で通り過ぎたのを、夏草が口を塞いで喋れないと興じたものであろう。
  山梨県立富士女性センター;山梨県都留市
702 粽ゆふ片手にはさむひたひ髪(猿蓑) 句碑なし
粽(ちまき)を笹の葉でくるんで紐で結ぶ。そんな作業に専念している女が前髪のずれてくるのを気にして耳の後ろに髪を差し挟んでいる。一心不乱に手作業に専心している女性の姿を切り取った芭蕉ならでは見事。
861 黄鳥や竹の子藪に老を啼/鶯や竹の子藪に老を鳴(別座鋪) 句碑なし
鶯が竹やぶで鳴いている。タケノコの季節とてすでに夏が来ている。鶯は梅にふさわしい。これが夏になって啼いていると、何となく老け込んだように感ずるというのである。こういう鶯のことを老鶯という。
863 さみだれや飼蚕煩ふ桑の畑(続猿蓑) 句碑なし
「蠶煩ふ」とは、病を患っている蚕のこと。白く硬化して死に絶える伝染病が深刻である。こういう病気を発見した養蚕農家では即座に病蚕を捨てる。五月雨の降りしきる桑畑に病蚕が捨てられいるのを見ての吟。この蚕たちは、まだ生きていたかもしれない。ただし、無造作に放棄すると伝染の危険性があるので、農家では穴を掘って捨てたはずで、それを芭蕉がどのように見たのかは想像する以外に無い。
  797 ほとゝきす聲横たふや水の上(藤の実)
小日向郵便局;長野県佐久穂町 第
15回(2014.12.09)碑撮り旅
  797 一聲は江に横たふやほとゝきす(芭蕉書簡)
大前神社;栃木県真岡市 第
10回(2014.06.20)碑撮り旅
宮崎荊口宛書簡(元禄6429日)
たびたび貴翰御細書かたじけなく、これよりもをりをり御案内と存じ候へども、閑窓とは人の言はせざるに紛れて、心外に移り行き、日かず三年、一別を隔て候。いよいよ御堅固に御座なされ候よし、珍重に存じ奉り候。御内室様・文鳥子、つつがなく御入りなされ候はんと存じ候。このはう御両息、御無事に首尾よく御勤めなされ候。をりをり御目にかかり、おうはさども申すことに御座候。
御発句など、たまたま仰せ聞けられ候。ことのほか感吟仕り候。此筋子へ申し、少々書きとめ置き申すべくと申すことに御座候。
如行、火事以後も相変らず風雅相勤められ候旨、厚志の逸物、殊勝の至りに存じ候。拙者、当春、楢子桃印と申す者、三十あまりまで苦労に致し候て病死致し、この病中神魂を悩ませ、死後断腸の思ひやみがたく候て、精情くたびれ、花のさかり、春の行くへも夢のやうにて暮し、句も申し出でず候。


 
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頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、
  ほととぎす声や横たふ水の上
と申し候に、また同じ心にて、
  一声の江に横たふやほととぎす
「水光天に接し、白露江に横たはる」の字、「横」句眼なるべしや。二つの作いづれにやと推敲定めがたきところ、水間氏沾徳というふ者とぶらひ来たれるに、かれ物定めの博士となれと、両句評を乞ふ。沾いはく、「江に横たふ」の句、文に対してこれを考ふる時は句量もつともいみじかるべければ、「江」の字抜きて「水の上」とくつろげたる句の、にほひよろしきかたに思ひ付くべき」の条、申し出で候。とかくするうち、山口素堂・原安適など、詩歌のすき物ども入り来たりて、「水の上」のきはめよろしきに定まりて事なみぬ。させること無き句ながら、「白露江に横たはる」という奇文を味はひ合せて御覧下さるべく候。これまた、御なつかしさのあまり、書き付け申すことに候。                           以上
卯月二十九日 荊口雅老人 なほなほ、当年は江戸につながれ候。再会ゆるゆると願ひ申し候。
  525 閑さや岩にしみ入る蝉の声
「奥の細道」集中もっとも優れた句の一つ。初案は、「山寺や石にしみつく蝉の聲」(俳諧書留;曾良)であり、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(初蝉・泊船集)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい。
  立石寺;山形県山形市 第11回(2014.07.18)碑撮り旅
  743 木枯に岩吹とがる杉間かな
冷たい木枯しが杉の木の間を吹き通ってゆく。樹間から見え隠れしている岩が尖って見える風の強さである。蓬莱寺山には岩場が多い。なお、ここでは「夜着ひとつ祈り出だして旅寝かな」がある。
  鳳来寺;愛知県新城市
632 鐘消えて花の香は撞く夕べかな
鐘を撞くのであって鼻を撞くわけはないが、一句はそういう転倒をあえて用いている。入相の鐘がなり終えて静まりかえった春の夕べ、改めて花の香が鐘の音の余韻のように匂い立ってくる。
  888 稲妻や顔のところが薄の穂
元禄7年夏、膳所の義仲寺在住中、大津の能大夫本間主馬の宅に招かれて、能舞台の壁に張ってあった骸骨の能を演じている画に画賛句。
  林徳寺;新潟県新潟市 第20回(2015.05.17)碑撮り旅
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