その時 昌景 ・・・・
- 塩田福沢氏の去就 -
 鎌倉時代、北条氏三代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一として記録されている。
 「海野平の戦い」での戦勝により支配領域を大きく拡大した天文
10年(1541)より「塩田城自落」までの12年間をレビュー、深堀をしてみよう。
 「海野平の戦い」-「塩田城自落」 12年の極盛期
天文10.05 1541 海野平の戦い(奈良本・内村が村上方支配領域)
天文11 1542 蓮華定院過去帳日杯;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
天文11 1542 蓮華定院過去帳日杯;妙純禅定尼(塩田備前守殿家中/福沢氏重臣、一族)
天文12.09.19 1543 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門(塩田福澤五郎殿)
天文13.06 1544 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
天文14 1545 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
天文16.10.21 1547 塩田以心軒真興(蓮華定院過去帳日杯);母儀/玅善禅定尼(出家前は塩田備前守)
天文17.02.14 1548 上田原の戦い
天文18.07.13 1549 蓮華定院過去帳日杯;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
天文19.09 1550 砥石崩れ
天文19.07.16 1550 蓮華定院過去帳日杯;塩田与助殿母儀
天文19 1550 神使御頭之日記;浦野三頭分(塩原・田沢・奈良本)「是三頭福沢方知行以来不被勤候」(福沢領)とあり
天文20.03.20 1551 福沢昌景;蓮華定院宛書状
天文20.05.26 1551 砥石城落城 武田家臣真田幸綱の攻略(弟矢沢綱頼の裏切り)
天文21 1552 常田の戦い(真実性に疑義)
天文22.02.02 1553 蓮華定院過去帳月杯;妙貞大姉逆修(塩田前山福沢殿局)
天文22 1553 村上義清;葛尾城放棄し越後長尾景虎の許に奔る
天文22.08.05 1553 福沢昌景;塩田城自落(当日、義清在城) 晴信;飯富虎昌をして同城を守らしむ
天文22.03.03 1553 蓮華定院過去帳日杯;塩田福澤大万殿(昌景の母、顕昌の妻) 塩田福沢氏最後の記事
天文22 1553 第一次川中島の戦い(布施の戦い)
天文24 1555 第二次川中島の戦い(犀川の戦い)
弘治03 1557 第三次川中島の戦い(上野原の戦い)
永禄04 1561 第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)
永禄07 1564 第五次川中島の戦い(塩崎の戦い)
元亀01.06.21 1569 権大僧都法印秀海逆修(塩田松本西光寺)/真興大徳逆修(塩田以心)
元亀04 1573 村上義清 卒
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 海野平の戦い 天文10年(1541
 村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡や佐久郡では滋野三家を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領・山内上杉氏を後ろ盾としていまだ一定の勢力を保持していた。翌年の天文105月、甲斐の武田信虎は諏訪頼重・村上義清と同盟を結び、佐久郡・小県郡侵攻を行う。武田氏は佐久郡へ、諏訪・村上氏は小県郡へ侵攻する。海野棟綱ら滋野一族は抵抗するが尾野山城(上田城)が落城し、海野平・矢沢などにおいて三氏の連合軍に敗退し、棟綱の嫡男・海野幸義は513・14日にかけての葛尾進撃の際の戦いで討死している。滋野一族は525日に総崩れとなると、海野棟綱・真田幸綱・根津政直ら滋野一族は関東管領の上杉憲政を頼り上野国へ亡命する。
 戦後に武田・諏訪・村上氏は滋野領の分割を行う。「神使御頭之日記」によれば、海野平合戦で降伏した人物に「矢沢殿」がおり、これは真田幸綱の弟とされる矢沢綱頼(頼綱)にあたると考えられている。綱頼は武田・諏訪・村上氏に帰参し、本領へ帰還している。綱頼は武田氏と敵対した村上義清に帰属するが、幸綱が武田氏に属すると村上方を離反した。
 砥石城 海野平の戦果として村上領になる
 東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ千曲川と合流。上州街道を真田郷を経て鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。南西部には上田原が広がり、千曲川沿いに下ると埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡ると佐久郡を経て上野国や甲斐国に至る。また上田原を更に西に進み和田峠を超えると筑摩郡へと至る。本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城、南の戸石城などを含めた複合城郭。
 築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている。『神使御頭之日記』によれば、天文105月(1541)に海野氏の一族は海野平の戦いにおいて甲斐の武田信虎、信濃埴科郡の村上義清、信濃諏訪郡の諏訪頼重らの連合軍に敗退し、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らは上野国へ逃れる。砥石城は村上義清が小県郡・佐久郡方面の拠点として大改築した。
 砥石城は村上氏の本拠地埴科郡と上田平との境目に位置し、塩田荘など小県郡の村上領と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。
 砥石崩れ 天文19年(1550
 砥石崩れとは、天文199月(1550)に信濃国小県郡(上田市)の砥石城において、甲斐国の戦国大名・武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清との間で行われた合戦。砥石城の戦いは武田信玄の生涯において、上田原の戦いに次ぐ二度目の敗戦として知られる。
 砥石城は小城ではあったが、東西は崖に囲まれ攻める箇所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城であった。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は
7,000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547)に晴信によって攻められ、乱妨取りも行われた志賀城の残党(城主笠原清繁)であり士気はすこぶる高かった。『甲陽軍鑑』によれば、砥石城に籠城する村上方には小県郡の国衆である楽巌寺雅方(釈尊寺城主)・布下仁兵衛(堀ノ内城城主)がいる。また、『村上家伝』では真田幸綱の弟である矢沢綱頼(薩摩守のち頼綱)も村上方に属していたとしている。
 『高白斎記』によれば、
99日、武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退した。兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清は対立していた高梨氏と和睦を結び、自らが2,000人の本隊を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1,000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、晴信自身も影武者を身代わりにして窮地を脱する有様であったと伝わる。
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 砥石城落城 天文20年(1551) 真田氏の旧領取戻し
 天文20526日(1551)には武田家臣・信濃先方衆の真田幸綱(幸隆)により砥石城は攻略される。真田幸綱は信濃小県郡真田郷(上田市)を本拠とする国衆で、『甲陽軍鑑』によれば、海野平合戦において海野棟綱とともに上野へ亡命すると、甲斐において晴信への家督交代後に出仕し、天文16年(1547)の山内上杉氏との小田井原の戦いにおいて活躍している。『高白斎記』によれば、天文19年の砥石城攻めでは、幸綱は村上方の埴科郡の国衆である清野氏・寺尾氏に対する調略を行っていたという。
 天文
20年の幸綱による砥石城攻略を「砥石ノ城真田乗取」と記しており、調略が用いられたと考えられている。後世の軍記物によれば真田一族・矢沢氏が幸綱に内通していたとされ、幸綱の弟にあたる矢沢綱頼が内通者であったとも考えられている。天文221月に、晴信は砥石城に在城する小山田虎満に対して戸石再興のために出陣すると伝えており、幸綱の「乗取」(取り戻し)に際しては修築を必要とする火災など城郭に対する被害もあったと考えられている。
 葛尾城陥落再奪取(坂城町紹介文より)
 天文2246日(1553)、武田軍の先陣が村上義清の本拠地葛尾城の攻略に向かいました。村上家の重臣屋代政国や塩崎氏が信玄に寝返るなか、49日、葛尾城は戦わずして陥落し、千曲川対岸に築かれた狐落城も落城しました。武田軍の攻勢により本拠地を落ち延びた義清でしたが、422日には義清を中心とする五千の軍勢で武田軍と八幡(千曲市)で戦い、翌日には葛尾城に在城していた武田方の於曽源八郎を倒して、義清は更級・埴科地方および塩田平(上田市)の旧領を回復し、塩田城で再起をはかりました。
 尾根上の狐落城(村上城)、その背後の頂き(789.6m)に三水城(別称福沢城)があります。三水城についての紹介文は次のようです。三水城は村上義清によって築かれた支城のひとつで、おそらく尾根上にある狐落城とともに築城されたと思われる。村上氏発祥の地とされ、天文22年(1553)に武田信玄が侵攻した際、武田氏に内通した大須賀久兵衛尉によって攻められ狐落城ともども落城しました。
 調略戦法
 「調略戦法」は一見「卑劣」と思えるが、「戦国時代」の戦いの目的は「領民を食わせる」ことであり、「領土」を勝ち取っても「耕作」する農民が居なくては「無意味な戦い」となる。「人を殺さず、されど奴隷として連れ去る」、「破壊・殺戮無き」戦法はある意味で理解できる。
 矢沢綱頼
 天文105月(1541)の海野平の戦いで兄の真田幸隆とともに惣領家の海野氏に与して敗北し、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従った。この頃は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として甲斐武田家に従っていた。天文20年(1551)に、幸隆の援助を受け荒砥城を攻撃し、村上氏一族の山田国政(荒砥城の城主)と吾妻清綱を攻め滅ぼした。
 福沢出丸 砥石城
 「出丸」とは、本城から張り出して設けられた「曲輪」のことである。砥石城跡の散策ハイキングを行った際に「福沢出丸」なるものがあったと知った。金剛寺集落を抜ける「松代道」の監視が目的のようだ。砥石城跡には多くの段状曲輪がある。しかし、ただ一つ名が残っているのが「福沢出丸」である。その「福沢出丸」、間違いなく「塩田城」関係者の詰所であるはず。ならば「誰」であろう。村上方の軍勢に「福沢」なる者は他の合戦でも全く見られない。「福沢氏一族」では無いことは明白である。「砥石城落城」から「塩田城自落」へとつながる。

 「塩田城自落」以降「塩田城」関係者で名が出ている者が
1名いる。それも「塩田城下」で生き残っている。
 
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 塩田以心軒真興とは 寺島隆史先生の論文より
 天文14年(1545)に登牌の「妙善」については、塩田以心軒真興書状で触れた通り、真興(塩田肥前守)の老母と見られる。ここで一番注目されるのは、最後に掲げたその真興(真興大徳)自身の元亀元年(1570)の登牌記録だろう。「塩田以心」ともあり、福沢氏の重臣であった塩田以心軒真興に相違ない。その塩田真興が、塩田松本郷の西光寺住職と元亀元年の同日に逆修の登牌している。
 真興は天文
22年(1553)の塩田落城後も、武田氏支配下になった塩田に居住していた事実が判明するのである。西光寺に僧侶としていたものだろうか。天文224月、本拠葛尾城が武田氏に落とされ、その後、塩田城に入ったという村上義清については、同年8月の塩田落城後は越後の上杉氏のもとへ逃げ、その庇護を受けていたという事実はよく知られている。その一方で福沢昌景については全く消息不明となる。武田氏支配時代以降の塩田には、国衆級の有力領主はいなかった。また「福沢」あるいは「塩田」という苗字を名乗る武士も見られない。福沢氏一族は領主としては完全に没落と見られるわけである。真興は元々は福沢氏重臣だったのだが、塩田落城以前に武田方に通じていたものだろうか。いずれにしても、塩田城もあっけなく落ちてはいる。
 塩田真興は、あるいは出家の身ゆえに旧領内での居住を許されたものかもしれない。この関連では、「妙法寺記(勝山記)」に見える塩田落城に際しての「足弱イケ取ニ取申候事、後代ニ有間敷候」という良く知られた記述が気になる。塩田城は最後まで武田氏に抵抗したので、このように徹底的に掃討されたとも言われるわけである。
 しかし、右の塩田真興のように、落城後も城主の重臣だった者が、新領主に仕えたわけでもない中で、つつがなく旧領にとどまっていたらしい事実からは・・・・。
 大須賀久兵衛尉
 村上義清に従って武田晴信の信濃侵攻に抵抗していたが武田方に内通し、天文22年(1553)には武田方に内応して狐落城(坂城町網掛)を陥落させ、城将の小島兵庫助らを討ち取って村上方の混乱を誘い武田家に帰順した。
また布施(現在の長野市)における戦いでも功績があり、弘治
3年(1557)には狐落城攻略とあわせて晴信から褒章されている。北信地域において武田勢と越後の長尾景虎の勢力が対峙していた弘治元年911日(1555)には、旭山城と見られる某城内に長尾方に内通したものが小屋に放火する事件が起こり、久兵衛はこの者を捕縛し晴信から褒章されている。以後も信玄・勝頼に仕えて戦功を挙げている。天正3521日(1575)の「長篠の戦い」で、子の杢太郎とともに討死した。
NHK大河ドラマ「武田信玄」での登場人物、村上家で「大須賀久兵衛」「小島兵庫助」の名が出ている。何故か「福沢」の名が見つからない。TVドラマは、「面白み」が視聴率を稼ぐことが出来る。ここて、塩田福沢氏を登場させたら、流れが途切れてしまうだろう。
 塩田城自落 天文2285日(1553
 葛尾城の自落を知った武田晴信は、511日に一旦、甲府へ帰陣していた。そして、休む間もなく621日には、次の目的地を村上福沢昌景が守る小県郡の塩田城に定めていた。塩田城は、独鋸山を背にした弘法山の北斜面に築かれ、広大な山腹一帯に多数の郭を備えた文字とおりの要害である。しかし周辺の諸将は度重なる武田方の攻撃で追い払われたり武田方に出仕したりで、頼るべき武将もみあたらない状況であった。
 
725日、晴信は甲府を出発し[若神子(山梨県)-佐久海ノ口(南佐久郡南牧村)-28日内山城-30日望月城]と進軍し、81日には長窪城で陣を整えた後、和田城(長和町和田)を落として城主以下を討ち取り、4日には高鳥屋(上田市武石と丸子境)を攻撃、これも全員討ち死にさせ、続いて内村の城(上田市内村)も落城させ、塩田城の後背部を攻略した。塩田城は5日に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は、越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。
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 その時(塩田城自落) 天文2285日(1553) タイムスリップで見たものは・・・・
村上義清 塩田城 福澤家
村上義清(52 義清家臣 福沢昌景(50 塩田真興(?) 福澤何某(56
 義清以外の年齢は推定、この場に塩田真興や福澤家四世が居たかは不確か・・・・筆者の夢物語と聞いて欲しい。
 義清の心中を察すると、葛尾城を始め支城の落城・家臣の離脱、迫り来る武田勢等々で「北信の雄」の面影も薄くなっていた。「忠誠」を貫いた「唯一無二」の家臣、「塩田福沢氏」の顔を一目見て越後へと逃げ延びる決断をしたかったのであろう。昌景から呼ばれ小泉庄から駆け付けた福澤家四世・福澤何某(光現院覺忠誉本居士)も席に着いていた。
義清;福澤家には、村上信貞知行(建武2年/1335)以来200年余り塩田城の代官を務めて貰った。礼を言うぞ、拙者これより越後へ下る。
福澤何某;もったいないお言葉、つつがなく・・・・と旅具一式を差し出す。
義清;昌景よ、お主は策士、真興もなかなかな役者、矢沢の裏をかくとは・・・・
昌景;有難き御言葉、真興はお咎めなしとのことで・・・・
真興;お許し頂いた命、出家し塩田福沢氏一族を弔ってまいります。
昌景;武田勢が迫っています。一刻も早くご出立を、国境までお伴を致します。
義清;昌景、お主も下るか・・・・
福澤何某;つつがなく、峠口までが最も危険ゆえ先を務めさせて戴きます。
交わす言葉は少なくも・・・・阿吽の関係が成り立っているかもしれない。
 小泉庄 福澤家は「蚊帳(塩田庄)の外」ではなかった
 福澤家は舞田にある。この度、「小県郡舞田村を前身とし、古くは小泉郷の前田。」との史料が目に入り始めて知るという郷土史音痴の我に呆れた。いろいろ調べると、天正6年(1578)の塩田12郷にはみえないが、慶長9年(1604)の塩田18ヶ村の末尾に舞田があり、1578-160426年間)で小泉庄から塩田庄に区割り変更があったとみられる。よって、本題当時は「小泉庄」であった。これは、「残念なこと」ではなく、むしろ「福沢氏の生き残り戦略」として「本家は小泉庄、管轄外で隠棲には好都合」と評価出来よう。
 「塩田城」と「葛尾城」の通い道は二つ、直線に近い「山道」、二等辺三角形の長辺に近い「里道」、その里道は「塩田庄」と「坂木」の間に位置する。福澤家は、小泉庄(より古い東山道福田郷と重なる)の端でありながら庄内隅々まで自由に動けるし人脈もしっかりしている。小泉庄ゆえ生島足島神社の別当寺(神宮寺)を菩提寺にしている。戦略的ネットワークが出来ている氏族、初めから塩田庄であったより付加価値の高い氏族であったと思えば誇らしい。
 その後 天文2287日(15537日戌刻(午後8時)
 天文228月の『高白斎記』に、「五日向塩田御動、地ノ城自落、本城ニ被立旗。七日戌刻飯富当塩田城主ノ御請被申、滅日。八日本城へ飯富被罷登候」とある。
 また、同年の『妙法寺記』に「八月信州村上殿塩田ノ要害ヲ引ノケ、行方不知ニ御ナリ候、一日ノ内ニ要害十六落申候、分レ捕リ高名足弱イケ取ニ取申候事、後代ニ有間敷候」と記している(『信濃史料叢書』)。
 この後、飯富氏が入城。全壊であれは入城は無理ゆえ、手心が加えられたと信じる。
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 福澤家の系譜(初代から八世まで)
世代 1500 1600 1700 1800
01 * * * * * * 不詳/龍光院殿山洞源清大禅定門
02 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索 享年不詳の場合
 暫定
60歳として表示
03 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索
福沢氏前期 福沢氏極盛期
04 * * * * * * 不詳/光現院覺忠誉本居士(廣時の高祖父)
* * * * * * 妻;不詳/清光院壽覺妙相大姉
05 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索(廣時の曾祖父)
06 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索(廣時の祖父)
07 * * * * * * 不詳/成圓院願誉宗本居士(廣時の父)
08 * * * * * * 福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士      
* * * * * * 妻 福松/自性院空誉理貞大姉
 塩田福沢氏 その忠誠心は・・・・
 塩田福沢氏(1335-1553218年)、徳川15代将軍(1603-1868265年)、福澤家の歴史(1433-2024591年)。塩田福沢氏は、それぞれの時代における主君への忠誠心ではなく、「塩田城」(領民含む)への忠誠心ではなかったのかと思う。このことを義清は知っていたのだろう。福澤家四世は、北信いや天下の雄に頭を下げ礼を述べられたのだろう。591年を経て先祖代々を誇りと思う。
 福沢昌景 何処へ・・・・
 天文22年の塩田落城後の福沢昌景の消息は、本書状(天文20年/1551蓮華定院文書)を最後に全く不明となる。武田軍に再度敗れた村上義清は再び越後へ逃れ、上杉謙信より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。
 塩田城自落時、福沢昌景の推定年齢は「父五郎顕胤、天文12年(1543)卒、仮享年60歳」より割り出すと50歳前後と推定できる。
 福沢昌影の去就 こんな説もある
 「保元の乱」(1156)・「平治の乱」(1160)に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にあり、年中行事を本家へ報告し、お伺いを立てた記録が残っていると伝えられる。福沢氏はこの縁を頼って伊予(愛媛県)へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩(大分県中津市)奥平家(未詳)への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢氏、その子孫は無事に幕末(1853-1868)を迎えた。
 豊前中津藩(大分県中津市)奥平家
 塩田城自落後、福沢昌景(50)はこの縁を頼って伊予へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉(天文5/1536-慶長9/1604)に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩奥平家(初代奥平定能/貞能;元亀年間(1570-1573)への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢昌景の子孫は無事に幕末を迎えた。とあるが、17年後に始まる中津藩主奥平家に「67歳の老人」が仕官出来ようか・・・・「妻子を伴い逃げ延び子が仕官した」とすれば筋は通る。
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