おくのほそ道   松尾芭蕉

(発端/序文)
 月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣を払ひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破れをつゞり笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

(旅立ち:元禄二年三月二十七日)
彌生(やよひ)も末(すえ)の七日(なぬか)、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峯幽(かす)かにみえて、上野(うへの)谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵(よひ)よりつどひて、舟に乗(のり)て送る。千じゆと云(いふ)所にて舟をあがれば、前途(ぜんと)三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)の巷(ちまた)に離別(りべつ)の泪(なみだ)をそゝぐ。

  行(ゆ)春や鳥(とり)啼(なき)魚(うを)の目(め)は泪(なみだ)

是(これ)を矢立(やたて)の初(はじめ)として、行道(ゆくみち)なをすまゝず。人々は途中(みちなか)に立ちならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと、見送(みおくる)なるべし。

(草加)
ことし元禄二(ふた)とせにや、奥羽(あうう)長途(ちやうど)の行脚(あんぎや)、只(たゞ)かりそめに思ひ立ちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うらみ)を重ぬといへ共(ども)、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生きて帰らばと定(さだめ)なき頼(たのみ)の末(すゑ)をかけ、其(その)日漸(やうやう)早加(さうか)と云(いふ)宿(しゅく)にたどり着(つき)にけり。痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物先(まづ)くるしむ。只(たゞ)身すがらにと出立(いでたち)侍(はべ)を、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、ゆかた雨具(あまぐ)墨筆(すみふで)のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路次(ろし)の煩(わづらひ)となれるこそわりなけれ。

(室の八島:元禄二年三月二十九日)
室(むろ)の八島(やしま)に詣(けい)す。同行(どうぎやう)曾良(そら)が曰(いはく)、此(この)神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申(まうし)て、富士一躰(ふじいつたい)なり。無戸室(うつむろ)に入て焼(やき)給ふ誓(ちかひ)のみ中に、火々出見(ほゝでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八島と申(まうす)。又煙を読習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)の旨(むね)世につたふ事も侍(はべり)し。

(日光:元禄二年三月三十日)
三十日(みそか)、日光山の麓(ふもと)に泊る。あるじの云(いひ)」けるやう、我名を仏五左衛門(ほとけござえもん)と云(いふ)。万(よろづ)正直を旨とする故(ゆえ)に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も打解(うちとけ)て休み給へと云(いふ)。いかなる仏の濁世塵土(ぢよくせぢんど)に示現(じげん)して、かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゆんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯(たゞ)無智無分別(むちむふんべつ)にして正直偏固(へんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質(せいひつ)、尤尊(もつともたふと)ぶべし。

卯月朔日(うづきついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)此(この)御山を二荒山(ふたらさん)と書(かき)しを、空海大師開基(かいき)の時、「日光」(につかわう)と改(あらため)給ふ。千歳未来(せんざいみらい)をさとり給ふにや、今此(この)御光(みひかり)一天にかゞやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵(あんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。

  あらたうと青葉(あをば)若葉(わかば)の日(ひ)の光(ひかり)

黒髮山(くろかみやま)は、霞かゝりて雪いまだ白し。

  剃捨(そりすて)て黒髮山に衣更(ころもがへ)  曾良

曾良は河合氏(かはいうじ)にして惣五郎(そうごろう)と云へり。芭蕉の下葉(しらば)に軒(のき)をならべて、予が薪水(しんすゐ)の労(らう)をたすく。このたび松しま・象潟(きさがた)の眺(ながめ)共にせんことを悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅(きりよ)の難(なん)をいたはらんと、旅立(たびだつ)暁(あかつき)髪を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五を改めて宗悟(そうご)とす。仍(より)て黒髪山の句有(あり)。衣更の二字、力ありてきこゆ。
二十余丁(にじふよちやう)山を登つて滝(たき)有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺(はくせき)千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入(いり)て滝の裏(うら)よりみれば、うらみの滝と申(まうし)伝え侍(はべ)る也。

  暫時(しばらく)は滝(たき)にこもるや夏(げ)の初(はじめ)

(那須野:元禄二年四月二日)
那須(なす)の黒ばね(黒羽)と云(いふ)所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごし)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村(いつそん)を見かけて行(ゆく)に、雨振(ふり)日暮(くる)る。農夫の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)れば又野中(のなか)を行(ゆく)。そこに野飼(のがひ)の馬あり。草刈(くさかる)をのこになげきよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。いかゞすべきや、されども此野(このの)は縱横(じやうわう)にわかれて、うゐひゐ敷(しき)旅人(たびびと)の道ふみたがえん。あやしう侍れば、此(この)馬のとゞまる処にて馬を返し給へと、貸し侍(はべり)ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひてはしる。独(ひとり)は小姫(こむすめ)にて、名を「かさね」と云(いふ)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名成(なる)べし  曾良

頓(やがて)人里に至れば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(ゆひつけ)て馬を返しぬ。

(黒羽:元禄二年四月四日)
黒羽(くろばね)の館代(くわんだい)、浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語(にちやかたり)つゞけて、其弟(そのおとふと)桃翠(たうすゐ)など云(いふ)が、朝夕勤(あさゆうつとめ)とぶらひ、自(みづか)らの家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外(かうぐわい)に逍遥(せうえう)して、犬追物(いぬおふもの)の跡(あと)を一見(いつけん)し、那須の篠原(しのはら)をわけて玉藻(たまも)の前の古墳(ふるづか)をとふ。それより八幡宮に詣(まうづ)。与市(よいち)扇(あふぎ)の的(まと)を射(い)し時、別しては我国氏神正八(わがくにのうぢしやうはち)まんとちかひしも、此(この)神社にて侍(はべる)と聞(きけ)ば、感応(かんおう)殊(ことに)しきりに覚えらる。暮(くる)れば桃翠宅に帰る。

(修験光明寺:元禄二年四月九日)
修験(しゆげん)光明寺と云(いふ)有(あり)。そこにまねかれて、行者堂(ぎやうじやだう)を拝す。

  夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途(かどで)哉(かな)

(雲巌寺:元禄二年四月五日)
当国雲岸寺(うんがんじ)のおくに、仏頂和尚山居跡(ぶつちやうをしやうさんきよのあと)あり。

  竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
  むすぶもくやし雨なかりせば

と、松の炭(すみ)して岩に書付(かきつけ)侍(はべ)りと、いつぞや聞え給ふ。其(その)跡見んと雲岸寺に杖(つゑ)を曳(ひけ)ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼麓(かのふもと)に到(いた)る。山はおくあるけしきにて、谷道遥(たにみちはるか)に松杉(まつすぎ)黒く苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天(てん)今猶(いまなほ)寒し。十景尽(つく)る所、橋をわたつて山門に入(いる)。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきしよう)の小庵(せいあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関(しくわん)、法雲法師(ほふうんほうし)の石室(せきひつ)を見るがごとし。

  木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらす夏木立(なつこだち)

と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し。

(殺生石・遊行柳:元禄二年四月十九日)
是より殺生石(せつしやうせき)に行(ゆく)。館代(くわんだい)より馬にて送らる。此(この)口付(くちつき)のをのこ短冊(たんざく)得させよと乞(こふ)。やさしき事を望(のぞみ)侍(はべ)るものかなと、

  野(の)を横(よこ)に馬(うま)引(ひ)きむけよほとゝぎす

殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰(やまかげ)にあり。石の毒気(どくき)いまだほろびず、蜂(はち)蝶(てふ)のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。
又、清水(しみづ)ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(くろ)にのこる。此(この)所の郡守(ぐんしゆ)戸部某(こほうなにがし)の、此(この)柳みせばやなど、折((おり)をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日(けふ)此(この)柳のかげにこそ立ちより侍(はべり)つれ。

  田(た)一枚(いちまい)植(うゑ)て立(たち)去る柳(やなぎ)かな

(白河の関:元禄二年四月二十一日)
心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに、白川(白河:しらかは)の関(せき)にかゝりて旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。いかで都へと便(たより)求(もとめ)しも段(ことわり)也。中にも此(この)関は三関(さんくわん)の一(いつ)にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずゑ)猶(なほ)あはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。古人(こじん)冠(かんむり)を正(たゞ)し衣裳(いしやう)を改(あらため)し事など、清輔(きよすけ)の筆にとゞめ置かれしとぞ。

  卯(う)の花(はな)をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな)  曾良

(須賀川:元禄二年四月二十二日から二十九日)
とかくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川(阿武隈川)を渡る。左に会津根(あひづね)高く、右に岩城(いはき)、相馬(さうま)、三春(みはる)の庄(しやう)、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の地をさかひて山つらなる。かげ沼(影沼)と云(いふ)所を行(ゆく)に、けふは空曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。すか川(須賀川:すかがは)の駅に等窮(とうきう)といふものを尋(たづね)て、四、五日とゞめらる。先(まづ)白河の関いかに越えつるやと問(とふ)。長途(ちやうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、且(かつ)は風景に魂(たましひ)うばはれ、懐旧(くわいきう)に腸(はらわた)を断(たち)て、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流(ふうりう)の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた

無下(むげ)にこえんもさすがにと語れば、脇(わき)第三(だいさん)とつゞけて三巻(みまき)となしぬ。
此(この)宿の傍(かたはら)に、大きなる栗の木蔭(こかげ)をたのみて、世をいとふ僧有(あり)。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(しづか)に覚えられて、物に書付(かきつけ)侍(はべ)る。其詞(そのことば)、

     栗といふ文字は、西の木とかきて西方
     浄土(さいほうじやうど)に便(たより)ありと、行基菩薩の一生
     杖にも柱にも此(この)木を用(もちひ)給(たま)ふとかや。

  世(よ)の人(ひと)の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗(くり)

(浅香山・信夫の里:元禄二年四月二十九日)
等窮(とうきゆう)が宅(たく)を出(いで)て五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿(しゆく)を離れてあさか山(安積山)有(あり)。路(みち)より近し。此(この)のあたり沼多し。かつみ刈(かる)比(ころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云(いふ)ぞと、人々に尋(たづね)侍(はべ)れども、更(さらに)知(しる)人なし。沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみ/\と尋(たづね)ありきて、日は山の端(は)にかゝりぬ。二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見し、福島に宿(やど)る。明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋(たづね)て忍ぶの里に行(ゆく)。遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に、石半(なかば)土に埋(うづもれ)てあり。里の童部(わらべ)の来りて教(をしへ)ける、昔は此山(このやま)の上に侍(はべり)しを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)をあらして此(この)石を試(こころみ)侍(はべる)をにくみて、此(この)谷につき落せば、石の面(おもて)下(しも)ざまに伏(ふ)したりと云(いふ)。さもあるべき事にや。

  早苗(さなへ)とる手(て)もとや昔(むかし)しのぶ摺(ずり)

(飯塚の里:元禄二年五月二日)
月の輪の渡(わたし)を越(こえ)て、瀬(せ)の上と云(いふ)宿(しゆく)に出(い)づ。佐藤庄司(さとうしやうじ)が旧跡は、左の山際(やまぎは)一里半計(ばかり)に有(あり)。飯塚(いひづか)の里、鯖野(さばの)と聞(きき)て、尋/\(たづねたづね)行(ゆく)に、丸山と云(いふ)に尋(たづね)あたる。是(これ)庄司が旧館(きうくわん)也。麓(ふもと)に大手(おほて)の跡など、人の教(をし)ふるに任(まか)せて泪(なみだ)を落(おと)し、又かたはらの古寺(ふるでら)に一家(いつけ)の石碑(せきひ)を残す。中にも二人の嫁(よめ)がしるし、先(まづ)哀(あはれ)也(なり)。女なれどもかひがひしき名の世に聞(きこ)えつる物(もの)かなと袂(たもと)をぬらしぬ。堕涙(だるゐ)の石碑も遠きにあらず。寺に入(いり)て茶を乞へば、爰(ここ)に義経(よしつね)の太刀(たち)、弁慶(べんけい)が笈(おひ)をとゞめて什物(じふもつ)とす。

  笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)

五月朔日(ついたち)の事(こと)なり。
其夜(そのよ)飯塚(いひづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯(ゆ)に入(いり)て宿をかるに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷(しき)てあやしき貧家(ひんか)也(なり)。灯(ともしび)もなければ囲炉裏(ゐろり)の火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。夜に入(いり)て、雷鳴(かみなり)雨しきりに降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤蚊(のみか)にせゝられて眠らず。持病(ぢびやう)さへおこりて、消入(きえいる)計(ばかり)になん。短夜(みじかよ)の空もやうやう明(あく)れば、又旅立(たびだち)ぬ。猶夜(なほよる)の余波(なごり)、心(こころ)進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出(いづ)る。遥(はるか)なる行末(ゆくすえ)をかゝへて、斯(かか)る病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の観念(くわんねん)、道路に死なん、是(これ)天の命(めい)なりと、気力(きりよく)聊(いささか)とり直し、路(みち)縱横(じうわう)に踏(ふん)で、伊達(だて)の大木戸(おほきど)をこす。

(笠島:元禄二年五月四日)
鐙摺(あぶみずり)、白石(しらいし)の城を過(すぎ)、笠島(かさしま)の郡(こほり)に入れば、藤中将実方(とうのちやうじやうさねかた)の塚はいづくの程(ほど)ならんと、人にとへば、是(これ)より遥(はるか)右に見ゆる山際(やまぎは)の里を蓑輪(みのわ)・笠島(かさじま)と云(いふ)。道祖神(だうそじん)の社(やしろ)、かた見の薄(すゝき)、今にありと教ふ。此比(このごろ)の五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身つかれ侍(はべ)れば、よそながら眺(なが)めやりて過(すぐ)るに、蓑輪(みのわ)・笠島(かさじま)も五月雨の折にふれたりと、

  笠島(かさじま)はいづこさ月のぬかり道(みち)

岩沼(いはぬま)に宿る。

(武隈の松:元禄二年五月四日)
武隈(たけくま)の松にこそ目覚(さむ)る心地はすれ。根は土際(つちぎは)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずと知らる。先(まづ)能因法師(のういんほうし)思ひ出(いづ)。往昔(そのむかし)、陸奥(むつ)の守(かみ)にて下りし人、此(この)木を伐(きり)て名取川(なとりがは)の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、松は此(この)たび跡もなしとは詠(よみ)たり。代々(よゝ)あるは伐(きり)、あるひは植継(うゑつぎ)などせしと聞(きく)に、今将(いまはた)千歳(ちとせ)のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍(はべり)し。
「武隈(たけくま)の松(まつ)みせ申(まう)せ遅桜(おそざくら)」と、挙白(きよはく)と云(いふ)ものゝ餞別(せんべつ)したりければ、

  桜(さくら)より松(まつ)は二木(ふたき)を三月(みつき)ごし

(宮城野:元禄二年五月四日から八日)
名取川(なとりがわ)を渡(わたり)て仙台に入(いる)。あやめふく日也(なり)。旅宿を求めて四、五日逗留(とうりう)す。爰(ここ)に画工(ぐわこう)加右衛門(かゑもん)と云(いふ)ものあり。聊(いさゝか)心あるものと聞(きき)て、知る人になる。此(この)者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置(かんがへおき)侍(はべ)ればとて、一日(ひとひ)案内(あない)す。宮城野(みやぎの)の萩(はぎ)茂りあひて、秋のけしき思ひやらるゝ。玉田・横野・躑躅(つゝじ)が岡はあせび咲(さく)ころ也(なり)。日影(ひかげ)ももらぬ松の林に入(いり)て、爰(ここ)を木の下と云(いふ)とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝(をがみ)て、其日(そのひ)はくれぬ。猶(なほ)松島・塩竈(しほがま)の所々画(ゑ)にかきて送る。且(かつ)紺(こん)の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらぢ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰(ここ)に至りて其(その)実(じつ)を顕(あらは)す。

  あやめ草(ぐさ)足(あし)に結(むす)ばん草鞋(わらぢ)の緒(を)

かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。

(壺の碑:元禄二年五月八日)
壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余(ろくしやくあまり)、横三尺計(ばかり)か。苔(こけ)を穿(うがち)て文字幽(かすか)なり。四維国界数里(しゆいこくかいのすうり)をしるす。此城(このしろ)、神亀(じんき)元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置(あぜちんじゆふしようぐんのあそんあづまひとのおくところ)也(なり)。天平宝字(てんぴようほうじ)六年、参議東海東山節度使(さんぎとうかいとうざんせつどし)、同将軍恵美朝臣(おなじくしようぐんえみのあそん)朝(あさ)かり修造(しゆざう)。而十二月朔日(ついたち) と有(あり)。聖武皇帝の御時(おんとき)に当れり。むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。

(末の松山・塩竈:元禄二年五月八日)
それより野田の玉川、沖の石を尋(たづ)ぬ。末(すゑ)の松山(まつやま)は、寺を造(つくり)て末松山(まつしようざん)といふ。松のあひ/\みな墓原(はかはら)にて、羽(はね)をかはし枝を連(つら)ぬる契(ちぎり)の末も、終(ついに)はかくのごときと悲しさも増(まさ)りて、塩竈(しほがま)の浦に入相(いりあひ)のかねを聞(きく)。五月雨の空聊(いささか)晴れて、夕月夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、籬(まがき)が島(しま)もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴(さかな)分つ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也(あはれなり)。
其夜(そのよ)目盲(めくら)法師(ほふし)の琵琶(びは)をならして奥浄瑠璃(おくじやうるり)と云(いふ)ものをかたる。平家にもあらず舞(まひ)にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うち上(あげ)て、枕近うかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゆしよう)に覚えらる。

早朝、塩竈(しほがま)の明神に詣(まうづ)。国守(こくしゆ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重(かさな)り、朝日朱(あけ)の玉垣(たまがき)を輝かす。かゝる道の果(はて)、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。神前に古き宝燈(はうとう)有(あり)。かねの戸びらの面に、文治三年和泉(いづみの)三郎(さぶらう)奇進(きしん)と有(あり)。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍(めづら)し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也(なり)。佳命(かめい)今に至りて、慕はずといふ事なし。誠(まことに)人能(よく)道を勤(つと)め、義を守るべし、名もまた是(これ)にしたがふと云(いへ)り。
日既(すでに)午(ご)にちかし。舟をかりて松島にわたる。其(その)間二里余(あまり)、雄嶋(をじま)の磯(いそ)につく。

(松島:元禄二年五月九日・十日)
抑(そもそ)もことふりにたれど、松島は扶桑(ふそう)第一の好風(かうふう)にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥(はぢ)ず。東南より海を入(いれ)て、江(え)の中(うち)三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)を湛(たゝ)ふ。島々の数を尽(つく)して、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさし)、伏すものは波に匍匐(はらばふ)。あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳(たた)みて、左にわかれ右に連(つらな)る。負(おへ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑(みどり)こまやかに、枝葉(しえふ)汐風(しほかぜ)に吹(ふき)たわめて、屈曲(くつきよく)おのづから矯(た)めたるが如し。其の気色(けしき)窅然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。ちはや振(ぶる)神の昔、大山祇(おほやまずみ)のなせるわざにや。造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞(ことば)を尽さむ。
雄島(をじま)が磯(いそ)は地つゞきて、海に出(いで)たる島也(なり)。雲居禅師(うんこぜんじ)の別室の跡(あと)、坐禅石(ざぜんせき)など有(あり)。将(はた)、松の木陰(かげ)に世を厭(いと)ふ人も稀(まれ)々見え侍(はべ)りて、落穗(おちぼ)・松笠(まつかさ)など打烟(うちけふ)りたる草の庵(いほり)閑(しづか)に住(すみ)なし、いかなる人とは知られずながら、先(まづ)懐かしく立寄(たちよる)ほどに、月海(つきうみ)にうつりて、昼のながめ又改(あらた)む。江上(かうしやう)に帰りて宿を求(もよむ)れば、窓をひらき二階を作(つくり)て、風雲の中に旅寝(たびね)するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地(こゝち)はせらるれ。

  松島(まつしま)や鶴(つる)に身(み)をかれほとゝぎす(時鳥) 曾良

予は口を閉ぢて、眠(ねむ)らんとしていねられず。旧庵(きうあん)をわかるゝ時、素堂(そどう)、松島の詩あり、原安適(はらあんてき)、松が浦島(うらしま)の和歌を贈らる。袋(ふくろ)を解(とき)て、こよひの友とす。且(かつ)、杉風(さんぷう)・濁子(じよくし)が発句(ほつく)あり。

(瑞巌寺石巻:元禄二年五月十一日)
十一日、瑞岩寺(ずゐがんじ)に詣(まうづ)。当寺三十二世の昔(むかし)、真壁(まかべ)の平四郎(へいしらう)出家して、入唐(につたう)、帰朝の後(のち)開山す。其後(そののち)に、雲居禅師(うんこざんじ)の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、金壁(こんぺき)荘厳(しやうごん)光を輝(かがやかし)、仏土成就(ぶつどじやうじゆ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。彼(かの)見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。

(石の巻:元禄二年五月十日・十一日)
十二日、平泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松(まつ)、緒(お)だえの橋など聞伝(ききつたへ)て、人跡(じんせき)稀(まれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかふ道そこともわかず、終(ゆひ)に路(みち)ふみたがへて、石(いし)の巻(まき)といふ湊(みなと)に出(いづ)。こがね花咲(さく)と詠みて、奉(たてまつり)たる金花山(きんくわざん)海上に見渡し、数百の廻船(くわいせん)入江(いりえ)につどひ、人家地をあらそひて、竃(かまど)の煙立(たち)つゞけたり。思ひかけず斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、宿(やど)からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)まどしき小家に一夜(いちや)をあかして、明(あく)れば又知らぬ道まよひ(行ゆく)。袖(そで)の渡り、尾ぶちの牧(まき)、真野(まの)の萱(かや)はらなどよそ目に見て、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆく)。心細き長沼にそうて、戸伊摩(といま)と云(いふ)所に一宿して、平泉に到(いた)る。其間(そのかん)二十余里ほどとおぼゆ。

(平泉:元禄二年五月十三日)
三代の栄耀(えいえう)一睡(いつすゐ)の中(うち)にして、大門のあとは一里こなたに有(あり)。秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野(でんや)に成(なり)て、金鷄山(きんけいざん)のみ形を残す。先(まづ)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部(なんぶ)より流るゝ大河也(なり)。衣川(ころもがは)は和泉(いづみ)が城(じやう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。康衡(やすひら)等(ら)が旧跡(きうせき)は、衣(ころも)が関(せき)を隔(へだて)て南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城(このしろ)にこもり、功名(こうみやう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。国破れて山河(さんが)あり、城春にして草青(くさあお)みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。

  夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)

  卯(う)の花(はな)に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)哉(かな) 曾良

兼(かね)て耳驚(みみおどろか)したる二堂開帳(かいちやう)す。経堂(きやうだう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりだう)は三代の棺(くわん)を納め、三尊(さんぞん)の仏(ほとけ)を安置す。七宝(しつぱう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)と成(なる)べきを、四面新(あらた)に囲(かこみ)て甍(いらか)を覆(おほひ)て風雨を凌(しのぐ)。暫時(しばらく)千歳(ちとせ)の記念(かたみ)とはなれり。

  五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)

(尿前の関:元禄二年五月十七日)
南部(なんぶ)道遥(はるか)に見やりて、岩手(いはて)の里に泊る。小黒崎(をぐろさき)、みづの小島(をじま)を過(すぎ)て、鳴子(なるご)の湯(ゆ)より尿前(しとまへ)の関(せき)にかゝりて、出羽(では)の国に越(こえ)んとす。此(この)道旅人稀(まれ)なる所なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(やうやう)として関を越す。大山(おほやま)をのぼつて日既(すでに)暮(くれ)ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留(とうりう)す。

  蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(しと・バリ)する枕(まくら)もと

主(あるじ)の云(いふ)、是(これ)より出羽(では)の国に大山を隔(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越(こゆ)べきよしを申(まうす)。さらばと云(いふ)て、人を頼(たのみ)侍(はべ)れば、究竟(くつきやう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫(かし)の杖(つゑ)を携(たづさへ)て、我々が先に立(たち)て行(ゆく)。けふこそ必(かならず)あやうき目(め)にもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(あと)について行(ゆく)。主(あるじ)の云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)として一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下(した)闇(やみ)茂りあひて、夜(よ)る行(ゆく)がごとし、雲端(うんたん)に土(つち)ふる心地して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)/\、水をわたり岩に蹶(つまづき)て、肌(はだ)につめたき汗を流して、最上(もがみ)の庄(しやう)に出づ。かの案内(あない)せしをのこの云(いふ)やう、此(この)道必(かならず)不用(ふよう)の事有(あり)。恙(つつが)なう送りまゐらせて仕合(しあはせ)したりと、よろこびてわかれぬ。跡(あと)に聞(きき)てさへ胸とゞろくのみ也(なり)。

(尾花沢:元禄二年五月十七日から二十七日)
尾花沢(をばなざは)にて清風(せいふう)と云者(いふもの)を尋(たづ)ぬ。かれは富(とめ)る者なれども、志(こころざし)いやしからず。都にも折々(をり/\)かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知(しり)たれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途(ちようど)のいたはり、さま/゛\にもてなし侍(はべ)る。

  凉(すゞ)しさを我(わが)宿(やど)にしてねまる也(なり)

  這出(はひいで)よかひ屋(や)が下(した)の蟾(ひき)の声(こゑ)

  眉(まゆ)掃(はき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花(はな)

  蚕飼(こがひ)する人(ひと)は古代(こだい)のすがた哉(かな) 曾良

(立石寺:元禄二年五月二十七日)
山形領に立石寺(りふしやくじ)と云(いふ)山寺(やまでら)あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、殊(ことに)清閑(せいかん)の地也(なり)。一見すべきよし、人々の勧(すす)むるに依(より)て、尾花沢より取つてかへし、其間(そのかん)七里ばかり也(なり)。日いまだ暮(くれ)ず、麓(ふもと)の坊(ぼう)に宿かり置(おき)て、山上(さんじやう)の堂にのぼる。岩(いは)に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石(どせき)老(おひ)て苔(こけ)滑(なめらか)に、岩上(がんしやう)の院々(ゐんゐん)扉(とびら)を閉(とぢ)て、物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這(はひ)て、仏閣(ぶつかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(せきばく)として心すみ行(ゆく)のみ覚(おぼ)ゆ。

  閑(しづか)さや岩(いは)にしみ入(いる)蝉(せみ)の声(こゑ)

(最上川:元禄二年五月二十八日・二十九日)
最上川(もがみがは)のらんと、大石田(おほいしだ)と云(いふ)所に日和(ひより)を待(まつ)。爰(ここ)に古き俳諧(はいかい)の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角(ろかく)一声(いつせい)の心をやはらげ、此道(このみち)にさぐり足(あし)して、新古(しんこ)ふた道にふみ迷ふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻(ひとまき)残(のこ)しぬ。この度の風流、爰(ここ)に至れり。
最上川は、みちのくより出(いで)て、山形を水上(みなかみ)とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)など云(いふ)おそろしき難所(なんじよ)有(あり)。板敷山(いたじきやま)の北を流(ながれ)て、果(はて)は酒田(さかた)の海に入(いる)。左右(さゆう)山(やま)覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。是(これ)に稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸(しらいと)の滝は青葉(あをば)の隙(ひま)/\に落(おち)て、仙人堂(せんにんどう)、岸(きし)に臨(のぞみ)て立(たつ)。水漲(みずみなぎ)つて舟あやふし。

  五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがは)

(出羽三山:元禄二年六月三日から十日)
六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。図司左吉(づしさきち)と云(いふ)者を尋(たづね)て、別当代会(べつとうだいゑ)永覚阿闍梨(ゑかくあじやり)に謁(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情(じやう)こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧(はいかい)興行(こうぎやう)。

  有難(ありがた)や雪(ゆき)をかほらす南谷(みなみだに)

五日、権現(ごんげん)に詣(まうづ)。当山開闢(かいびやく)能除大師(のうぢよだいし)は、いづれの代(よ)の人と云(いふ)事を知らず。延喜式(えんぎしき)に羽州里山(うしうさとやま)の神社と有(あり)。書写(しよしや)、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云(いふ)にや。出羽といへるは、鳥の毛羽(もうう)を此国(このくに)の貢(みつぎ)に献(たてまつ)ると風土記(ふどき)に侍(はべる)とやらん。月山(ぐわつさん)、湯殿(ゆどの)を合せて三山とす。当寺武江東叡(ぶかうとうえい)に属して、天台止観(てんだいしくわん)の月明かに、円頓融通(ゑんとんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゆげんぎやうほふ)を励(はげま)し、霊山霊地の験効(げんかう)、人貴(たふたと)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなへ)にして、めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(がうりき)と云(いふ)ものに導(みちび)かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひようせつ)を踏(ふみ)て登る事(こと)八里、更に日月行道(にちぐわつぎやうだう)の雲関(いんくわん)に入(いる)かとあやしまれ、息絶(いきたえ)身こゞえて、頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。笹を鋪(しき)篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あか)るを待(まつ)。日出(いで)て雲(くも)消(きゆ)れば、湯殿に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛冶小屋(かぢごや)と云(いふ)有(あり)。此国(このくに)の鍛冶(たんや)霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て、爰(ここ)に潔斎(けつさい)して剣(つるぎ)を打(うつ)。終(ついに)月山と銘(めい)を切(きつ)て世に賞(しやう)せらる。彼(かの)龍泉(りうせん)に剣(けん)を淬(にらぐ)とかや。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ、道に堪能(かんのう)の執(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾(つぼみ)半ばひらけるあり。ふり積(つむ)雪の下に埋(うづもれ)て、春をわすれぬ遅桜(おそざくら)の花の心わりなし、炎天(えんてん)の梅花(ばいか)爰(ここ)にかほるがごとし。行尊僧正(ぎやうそんそうじやう)の歌の哀(あはれ)も爰(ここ)に思ひ出(いで)て、猶まさりて覚(おぼ)ゆ。惣(そうじ)て、此(この)山中(さんちう)の微細(みさい)、行者の法式(ほふしき)として他言(たごん)する事を禁ず。仍(より)て筆をとゞめて記(しる)さず。坊に帰(かへ)れば、阿闍梨(あじやり)の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼(さんざんじゆんれい)の句々短冊(たんざく)に書(かく)。

  凉(すゞ)しさやほの三か月(みかづき)の羽黒山(はぐろやま)

  雲(くも)の峰(みね)幾(いく)つ崩(くづれ)て月(つき)の山(やま)

  語(かた)られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂(たもと)かな

  湯殿山(ゆどのやま)銭(ぜに)ふむ道(みち)の泪(なみだ)かな 曾良

(酒田:元禄二年六月十日から十五日/十八日から二十五日) 
羽黒を立(たち)て、鶴が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢしげゆき)と云(いふ)物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻有(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(えんあんふぎよく)と云(いふ)医師(くすし)の許(もと)を宿(やど)とす。

  あつみ山(やま)や吹浦(ふくうら)かけて夕(ゆふ)すゞみ

  暑(あつ)き日(ひ)を海(うみ)にいれたり最上川(もがみがは)

(象潟:元禄二年六月十五日から十八日) 
江山水陸(かうざんすいりく)の風光(ふうくわう)数(かず)を尽(つく)して、今象潟(きさがた)に方寸(はうすん)を責(せむ)。酒田の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を越(こえ)磯(いそ)を伝(つた)ひ、いさご(砂子)をふみて、其の際十里、日影(ひかげ)やゝ傾(かたぶ)く比(こと)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ひきあげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(てうかい)の山かくる。闇中(あんちゆう)に莫作(もさく)して、雨も又奇(き)なりとせば、雨後の晴色(せいしよく)又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝(ひざ)を入れて、雨の晴(はるる)を待(まつ)。其朝(そのあした)、天能霽(てんよくはれ)て、朝日(あさひ)はなやかにさし出(いづ)る程(ほど)に、象潟(きさがた)に舟をうかぶ。先(まづ)能因島(のういんじま)に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕(こ)ぐとよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(かうしよう)に御陵(みささぎ)あり、神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)と云(いふ)。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)と云(いふ)。此処(このところ)に行幸(ぎやうかう)ありし事いまだ聞(きか)ず。いかなる事にや。此寺(このてら)の方丈(はうぢやう)に坐(ざ)して簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景(ふうけい)一眼(いちがん)の中(うち)に尽(つき)て、南に鳥海、天をさゝえ、其影(そのかげ)うつりて江(え)にあり。西はむや/\の関、路(みち)をかぎり、東に堤(つゝみ)を築(きづき)て、秋田にかよふ道遥(はるか)に、海(うみ)北にかまえて、浪打入(なみうちい)るゝ所を汐(しほ)こしと云(いふ)。江の縱横(じうわう)一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異(こと)なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢(ちせい)魂(たましひ)をなやますに似たり。

  象潟(きさがた)や雨(あめ)に西施(せいし)がねぶの花(はな)

  汐越(しほこし)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海(うみ)涼(すゞ)し

   祭礼
  象潟(きさがた)や料理(れうり)何(なに)くふ神祭(かみまつり) 曾良

  蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷(しき)て夕涼(ゆふすゞみ) みの(美濃)の国の商人 低耳(ていじ)

   岩上に雎鳩(みさご)の巣(す)を見る
  浪(なみ)こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣(す) 曾良

(越後路:元禄二年六月二十五日から七月十二日)
酒田の余波(なごり)日をか重(かさね)て、北陸道(ほくろくだう)の雲に望(のぞむ)。遥々(えうえう)のおもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶり(市振:いちぶり)の関(せき)に到(いた)る。此間(このかん)九日、暑湿(しよしつ)の労(らう)に神(しん)をなやまし、病(やまひ)おこりて事をしるさず。

  文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜(よ)には似(に)ず

  荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこ(横)たふ天河(あまのがは)

(市振:元禄二年七月十二日)
今日(けふ)は親(おや)し(知)らず子し(知)らず・犬もどり・駒返(こまがへ)詩など云(いふ)北国(ほつこく)一の難所(なんじよ)を超(こえ)て、つか(疲)れ侍(はべ)れば、枕(まくら)引(ひき)よせて寝たるに、一間(ひとま)隔(へだ)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)と聞(きこ)ゆ。年(とし)老(おひ)たるをのこ(男)の声も交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後の国新潟(にひがた)と云(いふ)所の遊女(いうぢよ)成(なり)し。伊勢参宮するとて、此(この)関までをのこ(男)の送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)。白波(しらなみ)のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下(くだ)りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物云(いふ)をきくきく寝入(ねいり)て、あした旅立(たびたつ)に、我々にむかひて、「行衛(行方:ゆくえ)知らぬ旅路(たびぢ)のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍(はべ)れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍(はべら)ん。衣(ころも)の上(うへ)の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給(たま)へ」と泪(なみだ)を落(おと)す。不便(ふびん)の事には侍(はべ)れども、「我々は所々(しよ/\)にてとゞまる方(かた)おほ(多)し、只(ただ)人の行(ゆく)に任(まか)せて行(ゆく)べし。神明(しんめい)の加護(かご)、かならず恙(つゝが)なかるべし」と、云(いひ)捨(すて)て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし。

  一家(ひとつや)に遊女(いうぢよ)もねたり萩(はぎ)と月(つき)

曾良にかたれば、書きとゞめ侍(はべ)る。

(越中路:元禄二年七月十三日から十四日)
くろべ(黒部)四十八か瀬(せ)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(なご)と云(いふ)浦に出(いづ)。担籠(たこ)の藤浪(ふぢなみ)は、春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あはれ)とふべきものをと、人に尋(たづぬ)れば、「是(これ)より五里、磯伝(いそづた)ひして、むかふの山陰にい(入)り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かが(加賀)の国に入(いる)。

  わせ(早稲)の香(か)や分入(わけいる)右(みぎ)は有磯海(ありそうみ)

(金沢:元禄二年七月十五日から二十三日)
卯(う)の花山(はなやま)・くりからが谷をこ(越)えて、金沢は七月中(なか)の五日(いつか)也(なり)。爰(ここ)に大坂(おほざか)よりかよふ商人(あきびと)何処(かしょ)と云(いふ)者有(あり)、それが旅宿(りよしゆく)を倶(とも)にす。一笑(いつせう)と云(いふ)者は、此道(このみち)にすける名のほのぼの聞(きこ)えて、世に知人(しるひと)も侍(はべり)しに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)したりとて、其(その)兄追善(つゐぜん)を催(もよほ)すに、

  塚(つか)も動(うご)け我泣声(わがなくこゑ)は秋の風

   ある草庵にいざなはれて
  秋(あき)凉(すゞ)し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)

   途中唫(ぎん)
  あかあかと日(ひ)は難面(つれなく)もあき(秋)の風

   小松と云(いふ)所にて
  しほらしき名(な)や小松(こまつ)吹(ふく)萩(はぎ)すゝき(薄)

(多太神社:元禄二年七月二十四日から二十六日)
此(この)所、太田(ただ)の神社に詣(まうづ)。実盛(さねもり)が甲(かぶと)、錦(にしき)の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属(ぞく)せしとき、義朝(よしとも)公より給(たま)はらせ給(たまふ)とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきがへ)しまで、菊(きく)から(唐)草の彫(ほ)りもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(うつ)たり。実盛(さねもり)討死の後(のち)、木曾義仲(きそよしなか)願状(ぐわんじやう)にそへて、此社(このやしろ)にこめられ侍(はべる)よし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり縁紀(えんぎ)にみ(見)えたり。

  むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす

(那谷:元禄二年)
山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行(ゆく)ほど、白根(しらね)が嶽(たけ)跡(あと)にみ(見)なしてあゆ(歩)む。左の山際(やまぎは)に観音堂あり。花山(くわざん)の法皇、三十三所の順礼(じゆんれい)とげさせ給(たま)ひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置(あんち)し給(たま)ひて、那谷(なた)と名付(なづけ)給(たま)ふとや。那智(なち)、谷汲(たにぐみ)の二字をわか(分)ち侍(はべ)りしとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしやう)植(うゑ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(しやうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝(しゆしよう)の土地也(なり)。

  石山(いしやま)の石より白し秋の風

(山中:元禄二年七月二十七日から八月五日)
温泉(いでゆ)に浴(よく)す。其(その)功(かう)有明(ありあけ)に次(つぐ)と云(いふ)。

  山中(やまなか)や菊(きく)はたお(手折)らぬ湯の匂(にほひ)

あるじとする物(もの)は、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(せうどう)也(なり)。かれ(彼)が父俳諧(はいかい)を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ)、若輩(じやくはい)のむかし、爰(ここ)に来(きた)りし比(ころ)、風雅(ふうが)に辱(はづか)しめられて、洛(らく)に帰(かへり)て貞徳(ていとく)の門人となつて世にし(知)らる。功名(こうめい)の後(のち)、此(この)一村判詞(はんじ)の料(れう)を請(うけ)ずと云(いふ)。今更(いまさら)むかし語(がたり)とはなりぬ。

(別離:元禄二年八月五日・六日)
曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島(ながしま)と云(いふ)所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆく)に、

  行/\(ゆきゆき)てたふ(倒)れ伏(ふす)とも萩の原 曾良

と書置(かきおき)たり。行(ゆく)ものゝ悲しみ、残(のこ)るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわか(別)れて雲(くも)にまよ(迷)ふがごとし。予も又(また)、

  今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消(け)さん笠(かさ)の露

(全昌寺:元禄二年)
大聖持(ざいしやうじ)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺にとま(泊)る。猶(なほ)加賀の地也(なり)。曾良も前の夜、此(この)寺に泊(とまり)て、

  終宵(よもすがら)秋風(あきかぜ)聞(きく)やうら(裏)の山

と残す。一夜(いちや)の隔(へだて)千里に同じ。吾(われ)も秋風を聞(きき)つゝ衆寮(しゆれう)に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのの空近う読経(どきやう)声すむまゝに、鐘板(しようばん)鳴(なつ)て食堂(じきだう)に入(いる)。けふは越前の国へと、心(こころ)早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙・硯(すずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追(おひ)来(きた)る。折節(おりふし)庭中(ていちゆう)の柳散れば、

  庭(には)掃(はき)て出(いで)ばや寺(てら)に散(ちる)柳(やなぎ)

とりあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。

(汐越の松)
越前の境(さかひ)、吉崎(よしざき)の入江(いりえ)を舟に棹(さをさ)して、汐越(しほごし)の松を尋(たづ)ぬ。

  終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
  月をたれたる汐越(しほごし)の松 西行

此(この)一首にて、数景(すけい)尽(つき)たり。もし一辨(いちべん)を加(くわふ)るものは、無用(むよう)の指(し)を立(たつ)るがごとし。

(天龍寺・永平寺)
丸岡天龍寺の長老(ちやうらう)、古き因(ちなみ)あれば尋(たづ)ぬ。又、金沢(かなざは)の北枝(ほくし)といふもの(者)、かりそめに見送りて此処(このところ)までした(慕)ひ来る。所々(ところどころ)の風景過(すぐ)さず思ひつゞけて、折節(をりふし)あはれなる作意(さくい)など聞(きこ)ゆ。今既(すでに)別(わかれ)に望(のぞ)みて、

  物(もの)書(かき)て扇(あふぎ)引(ひき)さく余波(なごり)哉(かな)

五十丁山(やま)に入(いり)て永平寺を礼(らい)す。道元禅師(だうげんぜんじ)の御寺(みてら)也(なり)。邦機(はうき)千里(せんり)を避(さけ)て、かゝる山陰(やまかげ)に跡をのこし給(たま)ふも、貴(たうと)き故(ゆへ)有(あり)とかや。

(福井)
福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たどたどし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士(いんじ)有(あり)。いづれの年にか、江戸に来(きた)りて予を尋(たづぬ)。遥(はるか)十(と)とせ余(あま)り也(なり)。いかに老(おひ)さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命(ぞんめい)して、そこそこと教ふ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)に夕貌(夕顔:ゆふがほ)へちまのはえかゝりて、鶏頭(けいとう)はゝきゞ(箒木)に戸(と)ぼそを隠(かく)す。さては、此内(このうち)にこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(いで)て、「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊(ごばう)にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いふ)ものの方(かた)に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たずね)給(たま)へ」といふ。かれが妻なるべしとし(知)らる。むかし物がたり(物語)にこそ、かゝる風情(ふぜい)は侍(はべ)れと、やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とま(泊)りて、名月はつるが(敦賀)のみなと(湊)にとたび(旅)立(たつ)。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路(みち)の枝折(しをり)とうかれ立(たつ)。

(敦賀:元禄二年八月十四日・十五日)
漸(やうやう)白根(しらね)が嶽(たけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる。あさむづの橋を渡りて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(いで)にけり。鴬(うぐひす)の関(せき)を過(すぎ)て、湯尾峠(ゆのおたうげ)を超(こゆ)れば、燧が城(ひうちがじやう)・帰山(かへるやま)に初雁(はつかり)を聞(きき)て、十四日の夕ぐれ(暮)つるが(敦賀)の津(つ)に宿(やど)をもとむ。その夜、月殊(ことに)晴(はれ)たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしぢ)の習(なら)ひ、猶(なほ)明夜(めいや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けい(気比)の明神(みやうじん)に夜参(やざん)す。仲哀天皇(ちゆうあいてんのう)の御廟(ごべう)なり。社頭(しやとう)神(かむ)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(いり)たる、おまへの白砂(はくさ)霜(しも)を敷(しけ)るが如し。往昔(そのかみ)遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥濘(でいねい)をかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩(わづらひ)なし。古例(これい)今に絶えず。神前に真砂(まさご)を荷(にな)ひ給(たま)ふ。これを「遊行の砂持(すなもち)と申侍(まうしはべ)る」と、亭主(ていしゆ)のかたりける。

  月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上

十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。

  名月や北国日和(ほくこくびより)定(さだめ)なき

(種の浜:元禄二年八月十六日)
十六日、空(そら)霽(はれ)たれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、種(いろ)の浜(はま)に舟を走(はしら)す。海上(かいしやう)七里あり。天屋(てんや)何某(なにがし)と云(いふ)もの、破籠(わりご)小竹筒(ささへ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりの(乗)せて、追風時(おひかぜどき)の間に吹着(ふきつけ)ぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)にて、侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)あり。爰(ここ)に茶を飲(のみ)、酒をあたゝめて、夕ぐれ(暮)のさび(淋)しさ、感(かん)に堪(たへ)たり。

  寂しさや須磨(すま)にか(勝)ちたる浜の秋

  波の間や小貝(こがひ)にまじる萩の塵(ちり)

其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。

(大垣:元禄二年八月二十一日から九月六日)
露通(ろてう)も此(この)みなと(湊)まで出(いで)むかひて、みの(美濃)の国へと伴(ともな)ふ。駒(こま)にたすけられて、大垣(おほがき)の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より来(きた)り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入(いり)集(あつま)る。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子(ふし)、其外(そのほか)した(親)しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のもの(者)にあふがごとく、且(かつ)悦(よろこ)び、且(かつ)いたはる。旅の物うさもいまだや(止)まざるに、長月(ながつき)六日になれば、伊勢(いせ)の遷宮(せんぐう)おが(拝)まんと又舟にのりて、

  蛤(はまぐり)のふた見(み)にわかれ行(ゆく)秋ぞ