島津忠久の履歴書 塩田庄(東塩田安宗郷
北条義政の前に島津忠久が・・・・
 島津忠久の履歴書
 「北条義政塩田に遁世」より91年前に「塩田庄の地頭」に任命されている
 文治二年一月八日(1186) 頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す、
                 (頼朝花押)
 下  信濃國塩田庄
   補任 地頭職事
    左兵衛尉惟宗忠久
 右人為地頭職、従行庄務、御年貢以下、任先例可致其勤之状如件、以下、
 文治二年正月八日
 下す 信濃國塩田庄 地頭職に補任するの事 左兵衛尉惟宗忠久 右の人地頭職として、庄務を従行し、御年貢以下、先例に任せ其の勤を致すべきの状件の如し。以て下す
 島津氏(信濃史料1221-1277の間50件程/島津家文書より抜粋)
元暦02 1185 嶋津忠久、比企能員の手勢として平家追討に加わる
恩賞として頼朝より伊勢国波出御厨・須可荘地頭職に任命される
文治01 1185 頼朝の推挙で摂関家領島津荘下司職に任命される(南九州との関係の始まり)
文治02 1186 頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す
文治05 1189 奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣
建久09 1198 小県郡塩田庄地頭島津忠久、左衛門尉(律令制下の六位相当の官職、判官)に任ぜらる
建仁03 1203 比企能員の変 縁者として連座し大隅・薩摩・日向の守護職を没収されるが鎌倉には不在であり翌月に復職
承久03 1221 幕府、嶋津忠久を水内郡太田庄地頭職に補す
また、信濃国の御家人(忠久・忠時、他一門)に諏訪大社五月会・御射山の祭祀の頭役を輪番で勤めさせる
嘉禄01 1225 嶋津忠義、水内郡太田庄津野郷地頭代職に補せらる
安貞01 1227 水内郡太田庄地頭嶋津忠久卒し、子忠時嗣ぐ
安貞01 1227 幕府、島津忠時をして水内郡太田庄小嶋・神代・石村南・津野四箇郷地頭職等を安堵せしむ
文永04 1267 嶋津忠時、水内郡太田庄等の所領を妻子等に譲る
建治03 1277 北条義政、連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
弘安04 1281 嶋津久経(忠久の孫)、子久長に水内郡太田庄神代・津野両郷地頭職等を譲る
弘安07 1284 嶋津何某、水内郡太田庄内大倉・石村両郷の検注居合請料及び除田の勘料銭を請取る        
弘安08 1285 幕府、島津久長をして水内郡太田庄内神代・津野両郷等の地頭職を安堵せしむ
正応03 1290 是より先、嶋津久長、越後彦三郎政国と水内郡太田庄内神代郷地頭職を争ふ、
是日幕府、之を裁し政国の訴を斥け久長をして之を安堵せしむ
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 島津忠久について
 元暦23月(1185)、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとされ、恩賞として元暦26月(1185)に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。文治元年817日(1185)付で、源頼朝の推挙により摂関家領島津荘下司職に任命される。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。その後まもなく島津荘の惣地頭に任じられている。
 また、同じ年に信濃国塩田荘地頭職にも任命される。文治
5年(1189)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190)の頼朝の上洛の際にも行列に供奉している。建久812月(1197)、大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。建久9年(1198)、左衛門尉に任官される。諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、これ以降、忠久は最も広大な島津荘を本貫にしようと、その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称する。ただしこれらについて『吾妻鏡』において言及はされていない。『吾妻鏡』に忠久が記載されるのは、正治2226日(1200)、源頼家の鶴岡八幡宮社参記事が最初であり、忠久は20人の御後衆の一人として登場している。
 頼朝死後の建仁39月(1203)、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で島津忠久は北条時政によって滅ぼされた比企能員の縁者として連座し、大隅、薩摩、日向の守護職を没収された。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。
 比企の乱後は在京していたとみられ、建暦32月(1213)に3代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰がみられる。同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡の古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。
 忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、2代目島津忠時も同様に鎌倉で没している。3代目島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、4代目島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。 島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは5代目島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。
 「地頭」は元来、現地という意味を持ち、在地で荘園・公領の管理・治安維持に当たることを任務としていた。多くの地頭は任務地に在住し在地管理を行っていた。しかし、有力御家人などは、幕府の役職を持ち将軍へ伺候しなければならず鎌倉に居住する者が多かった。
 忠久が塩田庄の地頭職を補したのは文治
2年(1186)、太田庄の地頭職を補したのは承久3年(1221)、この間35年、塩田庄における館跡は何処にあるのだろう。それは塩田城跡付近かと思われていた「信濃守護所跡」と関連があるのだろうか・・・・。信濃国守護は、建武元年(1334)小笠原貞宗が就任し伊那郡松尾(飯田市)から信濃府中(松本市)に館(井川城/小笠原氏城跡)を移している。
 島津氏系譜(信濃史料登場人物)

 島津忠久-忠時-久経-忠宗-貞久-宗久*
                 ∟師久-伊久
           ∟久長-宗久
 
忠時;2代当主 1202-1272
久経;
3代当主 1225-1284
忠宗;
4代当主 1251-1325
貞久;5代当主 1269-1363
師久;
6代当主 1325-1375
伊久;7代当主 1347-1407
宗久*;貞久二男1322-1340
分家(伊作氏)
久長;初代当主
?-1341
宗久;
2代当主?-1354
 塩田庄ならびに太田庄、島津忠久を始め上記に記す子孫を含め、地頭職を補すも在地管理をしていたと思える史料は見つからなかった。島津家で薩摩に入国したのは3代久経、薩摩・大隅・日向守護を回復したのは5代貞久である。塩田荘・太田庄の代官名は不詳であった。
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 塩田庄(塩田城)の代官探し
延喜02 0902 「延喜の荘園整理令」で新たな租税制度下で「国衙領」となる
承安04 1174 平安時代に国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され最勝光院領塩田荘が成立
文治02 1186 源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す
承久03 1221 幕府、嶋津忠久を水内郡太田庄地頭職に補す
嘉禄02 1226 最勝光院が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
建治03 1277 北条義政、連署を辞し塩田荘に遁世する
正中02 1325 北条国時が地頭になる
元弘03 1333 塩田北条氏の滅亡
建武02 1335 村上信貞、新田義貞軍との戦いの戦功として室町幕府・足利直義(北朝/尊氏・弟)より塩田荘が与えられる
文安05 1448 塩田城代官福澤入道像阿、諏訪社上社御射山祭りの頭役
天文22 1553 福沢昌景守る塩田城の自落
 16代執権・北条守時(1326-1333)の死を受け、鎌倉幕府陥落の幕引きを任じられた17代執権北条貞将の任期はたったの1日であった。
 塩田平(塩田城)、代官が命じられる「機会」は少なくとも、福沢氏までに「6回」あったと考えられる。その7回目が福沢氏(1448-1551103年間)であり、それより前は「誰」が代官を務めたかが今回のテーマである。それが福沢氏の先祖である可能性を探ると、文安5年(1448)より227年前の島津忠久が太田庄地頭に転ずる承久3年(1221)ではなかろうかと考察する。仮にそうであれば、江戸幕府徳川家15代(1603-1868265年間)を遥かに超える332年間となる。ちなみに、福澤家の歴史(1433-2024591年間、直系・甥の子24代)は、それよりも長く「年数だけ」でも大したもんだと史学者の先生がおっしゃられたことを思い出す。
 塩田庄について
 「塩田荘」・・・・現在で言うならは「上田市」(合併前の塩田町)である。「塩田町」は、昭和3151日、「西塩田村」「別所村」「東塩田村」「中塩田村」が合併して発足。町役場は旧中塩田役場に置かれる。歴史を振り返ると、最も古くから全国レベルに知られたのは「東塩田村」の「阿曾」であり、次に知られたのが「西塩田村」の「塩田城」である。また、今日において各村内の「村」レベルが「Wikipedia」に掲載されているのは以下のとおりである。
〇西塩田村;山田・野倉・手塚・十人・新町・前山
〇別所村 ;別所温泉
〇東塩田村;下之郷・古安曽・富士山
〇中塩田村;五加村・本郷・中野村・小島村・保屋村・舞田村・八木沢村
「村」の有無が気になる他、私の認識にある村名で無いものが幾つかある。この点は別途明らかにしたい。
〇東塩田村は町村制の施行(1889)で下之郷村・古安曽村で発足、その後(1956)に富士山村が合併した。富士山村は1874に奈良尾村・町屋村の合併で富士山村になっていた。私が知っていた平井寺・鈴子・石神・柳沢はどうなっているか調べてみると。平井寺村1600に記録あり、更に1608「大井文書」東松本西松本石神下之郷の他に平井寺が表れる。
1625東松本村分かれて町屋奈良尾に、西松本村分かれて鈴子石神柳沢になる。1680この年塩田町古安曽村春原政次寺子屋を始める。
〇検索過程で面白い史料が・・・・
 
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 塩田組22ヶ村組中家数人別調 弘化3年(1846)(北沢文書)東塩田村平井寺歴史に掲載
村名 家数 男数 女数 村名 家数 男数 女数
八木沢 60 184 186 370 11 別所 111 279 302 581 5
山田 53 149 145 294 17 東前山 73 178 178 356 13
西前山 302 16 十人 21 71 60 131 22
新町 42 97 98 195 21 小嶋 43 192 186 378 10
鈴子 47 156 136 292 18 平井寺 56 115 113 228 20
石神 91 223 223 446 8 手塚 114 331 312 643 4
中野 46 162 145 307 15 野倉 97 170 167 337 14
奈良尾 84 363 356 717 3 町屋 57 193 230 423 9
五加 120 372 364 736 1 柳沢 54 190 174 364 12
下之郷 723 2 本郷 83 268 238 506 6
保野 59 259 241 460 7 舞田 46 130 118 253 19
 新行政区画家数人調 明治12年(1879) 群区町村編成法に基づき大小区制から群区町村(行政区画)へ
村名 家数 人数 村名 家数 人数 村名 家数 人数
富士山 331 1,372 保野 139 605 新町手塚 240 1,006
古安曽 367 1,547 舞田 84 355 山田 73 319
下之郷 195 782 八木沢 111 414 野倉 97 378
五加 179 736 中野 100 410 別所 207 779
本郷 十人 39 175
小嶋 116 519 東西前山 189 796
 国勢調査
1回 大正91920 2回 大正141925 3回 昭和51930 4回 昭和101935
戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口
東塩田 644 3,023 604 2,882 598 2,8878 580 2,890
中塩田 970 4,758 945 4,648 966 4,853 947 4,723
西塩田 733 3,462 722 3,496 732 3,566 740 3,564
別 所 345 1,504 348 1,485 376 1,594 374 1,691
合計 3,110 14,762 3,008 14,404 3,052 14,831 3,021 14,799
回 昭和221947 7回 昭和251950 回 昭和301955  昭和22は臨時国勢調査が行われる。また、この歳は筆者の誕生で「団塊の世代」(前回人口比129.9%)真っ只中の頃である。
戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口
東塩田 728 3,785 1,172 6,218 1,118 5,833
中塩田 1,181 6,202 1,151 5,970 1,119 5,702
西塩田 826 4,372 824 4,425 815 4,237
別 所 501 2,371 483 2,268 494 2,219
合計 3,709 19,218 3,630 18,881 3,546 17,991
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 東塩田地区郷村名の呼称変遷
 現在の上田市の範囲内で、同じ場所でありながら時代によって村名を何と呼んできたか、またその村名はどの範囲を含んだのかという点で、この村名と範囲の移り変わりが東塩田地区ほど錯綜しているところは珍しい。
延長05 0927 「延喜式」の安宗郷が塩田平にあった郷だとされている
承安04 1174 8/16までは塩田郷、9/16京都の最勝光院に寄進、公領から荘園塩田庄となった
文治02 1186 島津忠久、正月八日に塩田庄地頭職に補せられた
建治03 1277 島津氏失脚後、塩田庄の地頭に北条義政が東前山に隠居、松本・古安曽の尾根川水系も塩田庄と呼ばれたと推定
 義政は、所領を分割して子供の国時と時治に譲与したと推定される。古安曽の中の鈴子に字「御所畑」や「節月」があって、ここにいた中世領主は、義政庶流の時治(義政の次男)が想定される。
天文22 1553 当地が松本ノ郷と下之郷の名で表されている
 武田晴信は天文2285日に塩田城を陥れ、その9日後現生島足島神社を安堵しているが、その安堵状には「下之郷上下宮」とあるから「下之郷」に諏訪上社・同下社が祀られていたことが知られる。この安堵状から1ヶ月余りたった同年98日に、傍陽曲尾郷の曲尾越前守は「松本ノ郷二百貫」、さらにまた1ヶ月ほどたった106日、曲尾越前守の被官や水出治郎左衛門ら6人は合わせて松本ノ郷の内五十貫文を宛がわれている。奈良尾の砂原池の西の上手が字水出だから、ここが水出治郎左衛門の給地になった可能性が高い。
天正06 1578 松本郷が西松本郷と東松本郷に分れ、当地で初の地名になる
慶長13 1608 東松本・西松本・下之郷のほかに「平井寺」があらわれる(4ヶ村)
 寛永4年(1628)仙石氏から松平氏に交替、「上田藩村明細帳」も郷村別に一帳を作製、帳の数では四帳と慶長年代と同数であるが、中の記載よりかなり変化が見られる。下之郷と平井寺は別段の変化は無いが、東・西の松本郷は郷の中に幾つもの村が出来ている様子を伝えている。
 宝永031706町屋村・奈良尾村・平井寺村・鈴子村・石神村・柳沢村・下之郷村の七ヶ村に分れ170年続いた。西松本村(鈴子村・石神村・柳沢村)、東松本村(町屋村・奈良尾村)。東松本郷の町屋村と奈良尾村は、一般の村のように堺界線があって両村がわけられていたという形態の属地主義ではない。町屋と呼ばれた場所に住む家々とそこの家々が所有する土地が町屋村、奈良尾に住む家々の所有地が奈良尾村で二色のモザイク模様のような、いわば属人主義により村が構成されていたことである。
明治07 1874 富士山村(町屋村・奈良尾村)+古安曽村(平井寺村・鈴子村・石神村・柳沢村)+下之郷村の合併構成であった。
昭和24 1949 幕府、嶋津忠久を水内郡太田庄地頭職に補す
嘉禄02 1226 最勝光院が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
建治03 1277 北条義政、連署を辞し塩田荘に遁世する
 西塩田発祥の塩田庄(塩田城)とは別の東塩田の阿曾の歴史も面白い。延長5年(927)、「延喜式」の安宗郷が塩田平にあった郷だとされている。そして「古安曽」は、旧西松本郷と平井寺村が合併して明治7年に誕生した村名である。柳沢の手洗池の東を南の方に上がった山麓に暖傾斜の丘がある。ここに「東安曽岡」「西安曽岡」と呼ぶ地名がある。畑の畔の一角に、安曽甚太夫の五輪塔と呼ばれている五輪塔が立っている。この項の初めに、平安時代の郷名「安宗郷」が、塩田の地の郷名と考えられているとの説がある。
 西塩田(塩田城関連の項参照)
 西塩田村は、明治221889 )、町村制の施行により、山田村・野倉村・手塚村・十人村・新町・前山村の区域をもって発足。その中心となる前山村は、明治7年(1874 )、東前山村と西前山村が合併して出来た。鎌倉時代、北条義政によって塩田城が築かれ、その後、室町時代に信濃村上氏、戦国時代には武田氏が支配、武田氏滅亡後は上田城築城に伴い廃城となった。寛永15年に東前山村と西前山村に分割されるも郷帳上では一括りで扱われた。東の神戸川筋に「東前山」、西の塩野川筋に「西前山」の集落がある。東前山には三重塔で知られる前山寺があり、その奥の院である岩屋堂が神戸川の水源地に建立され信仰を集め塩田城の城下町として発展し、西前山は塩野神社・中禅寺の門前町(鳥居前町)として発展した。
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 別所村(別所温泉)=別所温泉財産区
 上田市別所温泉(小県郡別所村→小県郡塩田町別所)、「分去」(わかされ) 別所温泉駅・あいそめの湯周辺、「大湯」 共同浴場「大湯」周辺、「院内」北向観音・常楽寺・安楽寺周辺、「上手」温泉街を流れる湯川の上流部周辺。の4地区がある。
 別所温泉の源泉、共同浴場「大湯」「大師湯」「石湯」、足湯「ななくり」「大湯薬師の湯」及び13ヶ所の住民用洗い場(洗濯場)を所有・管理する「特別地方公共団体として別所温泉財産区」がある。別所温泉の所有者は「別所温泉財産区」であり、別所温泉の管理者は上田市長である。江戸時代、別所温泉の源泉は上田藩によって保有されていたが、明治4年(1871)の廃藩置県の後に源泉は国有となった。
 明治
22年(1889)には小県郡別所村に温泉や共同浴場の維持・管理に当たる鉱泉組合が作られたが、大正時代初期まで別所村が国に源泉の借料を支払って温泉を運営していた。
 大正
5年(1916)、源泉が国から別所村に払い下げられて以降、源泉は別所村の村有となった。
 昭和
3151日 (1956)、別所村と西塩田村・東塩田村・中塩田村が合併して塩田町が発足したが、同町設立に際し源泉や共同浴場など温泉財産については塩田町に移管せず、引き続き旧別所村をもって所有者とする旨合意された。
ここに地方自治法第三篇 第四章(
294条~297条)の規定に基づき、特別地方公共団体として別所温泉財産区が設立された。昭和4541日(1970)に塩田町が上田市に編入された際にも引き続きこの合意が維持され、別所温泉財産区が存続して現在に至っている。
 信州最古の温泉
 「別所温泉」は千曲川に沿った上田盆地の南西の夫神岳山麓の長野県上田市の塩田平の温泉地です。日本最古、信州最古の温泉ともいわれ、開湯は第12代景行天皇の時代に日本武尊が東征している際に発見したのがはじまりとされています。
 「別所温泉」は別名「七久里の湯」ともいわれており、これは日本武尊が別所温泉南西の保福寺峠にて仙人の化身とされる老人に、「山中に七つの湯が湧き出て、七つの苦を助ける」と聞いて七つの湯を見つけたのが「七苦離の湯(七久里の湯)」のはじまりともいわれています。夫神岳を源流とする愛染川が流れ、中心の北向観音を囲むように温泉街が広がっています。また、平安時代の清少納言の「枕草子」には「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」との記述があり、「七久里の湯」は「別所温泉」を指しているとされています。
 平安時代末期には平家討伐の為に挙兵した木曽義仲が行軍の途中で立ち寄り度々入浴したり、戦国時代には上田城城主の真田氏と家臣団が入浴したり、江戸時代には上田藩主と家臣団が入浴したとの伝承があります。
   「福澤家の歴史」に記述してありますが、私が生まれ育った実家は、「江戸時代には上田藩主と家臣団」が入浴に来られる途次のご休憩所とされた時代もありました。家の造りも、そのようになっていました。
          (取壊直前;昭和
42年(1967
 「別所温泉」の「別所」という地名は北条氏の別院(別荘)という意味から名づけられたといわれています。鎌倉時代に幕府執権の補佐役となる連署であった北条義政が信濃守護職として赴任し、塩田平の塩田荘に居を構えました。以後、塩田平は塩田北条氏が鎌倉幕府の滅亡まで三代に渡って治め、塩田平の発展に貢献しました。北条氏が鎌倉の文化を持ち込み別所の繁栄に貢献した事から、「別所温泉」は「信州の鎌倉」とも呼ばれる様になりました。
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