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被災地へ(宮城県仙南地域) ; 激甚災害地と化す第2の故郷 |
− 2011.04.05(火)〜06(水) 快晴 − |
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3月11日に発生した東日本大震災から25日が経過するも東北新幹線の復旧は先になる。そこで、給油事情が平常近くに戻ったので仙台の顧問先に車でお見舞いと様子を見に行ってきた。 |
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草木ダム(5:35)周辺の山並みに朝日が射す |
5日の午前3時に家を出る。R18を南下し安中市から前橋に向かう。R50を左折し大間々に向かう。銅山街道で日光経由で日光北街道で矢板に抜けるコースだ。 |
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産業遺産の鉱都 足尾の迎賓館“古河掛水倶楽部”(6:08) |
途中休憩は草木ダムと足尾銅山、白河で最初の給油(8:35 255km 半分消費)をする。朝食と昼食は妻が作ってくれた稲荷寿司を走りながら食べた。 |
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竹駒神社(岩沼市)で被災者に黙祷を(12:00) |
須賀川辺りから道路に段差が生じ応急修理の痕があった。宮城県の白石に入ると屋根瓦の損傷が見受けられた。傷跡は築新旧にあまり関係ないようだ。 |
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岩沼での住処の被災状況を車中から確認、古い建物だが外傷はなさそうだ。近くの竹駒神社で被災者に黙祷・・・・自分のためでなく参拝するのは初めて?。 |
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予定より1時間以上早く到着、昼食時なので立ち寄りにしようと友人のAさんに電話する。被災見舞いをし珈琲を頂きながら発生時の状況を伺う。 |
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岩沼から仙台までのR4は渋滞していた。仙台港近くの顧問先に14:30に着く。手際良く後片付けが進み新規発注品の入荷も始まり得意先が入れ替わり立ち代り引き取りに来ていた。予想より速い立上をみて一安心した。 |
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これより6枚は仙台市若林区(数km離れた場所)の被災地 彼方に蔵王連峰が見える(右上) |
被災地にお見舞いに行くのだからご迷惑を掛けてはならない。当然、車中泊の予定で寝袋やら食器・食材等自給自足体制でのことだった。 |
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テレビで放映された野菜畑を津波が襲った被災地 海岸公園近くの蒲生地区 |
事前に復旧・復興戦略の骨子をメール添付で送っておいたので、お見舞いと社長様の心積もりを伺うのが中心話題であった。 |
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海岸線沿いの塩釜亘理線 仙台市若林区蒲生地区 大東岳と泉ケ岳が見える(右上) |
被災状況は夕立のように道路一つで天地の差がある。地震より津波の被災が如何に大きかったかを物語っている。同じ仙台市宮城野区でも、車で5分程度海岸から離れると飲食店が営業していて満席状態まで戻っていた。 |
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食事後に、創業当時からのレストランで子供の頃によく連れて来てもらったという元レストランの建物が完全崩壊しているというので立ち寄ってみた。探すほどに震災破壊による建物被害は少ないようだ。 |
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会社の2階にある畳敷きの休憩室で泊めて頂けることになった。暖房も入るし布団もあるので車中泊に比べれば申し分ない。よって、先に記した自給自足の物資は紐解くこともなく車に積んだままだ。社長様との話が終わり21時過ぎに床に付いた。 |
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朝方の冷え込みで目が覚める。エアコンのスイッチがなかなか入らない。諦めて着替えを済ますと暖かい風が吹き出した。もういいよとスイッチを切り外に出る。 |
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七北田川の高砂橋(左岸) |
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仙台臨海鉄道 仙台港夢メッセ付近 |
1階の流しで洗顔を済ませ気になっている被災地の様子を見に行く。七北田川に架かる高砂橋から南に数km走ってみた。塩釜亘理線はガレキが取り除かれ通行可能、ただし名取川に架かる閖上大橋は通行止である。 |
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仙台港フェリーターミナル |
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産業道路沿いのジャスコ多賀城店 |
引き返し仙台港と多賀城方面に向かう。津波はR45を乗り越えたとのこと。かつての顧問先の被災状況(帰宅後に東京本社に電話、人的被害はなかったが再起出来るか?とのこと)が気になり見に行く。 |
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ジャスコ多賀城店北側 かつての顧問先の向側 |
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中央公園高台より仙台港を一望する |
左上写真が顧問先の道路向かい(陸側)の住宅です。顧問先の状況写真は掲載しませんので想像してください。この状況から被災地域に入っている(過去の)顧問先はどうなっているか容易に想像出来るので道路状況も悪いので様子を見に行くのは取り止めた。 |
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目を覆いたくなる光景、強い異臭で呼吸が困難になる被災地、まばらな人影が確認できる程度でゴーストタウン化した東北の中心都市“仙台市若林区”、三陸リアス式海岸と異なりこれ程の津波被害になろうとはどれ程の人が認識できていたか? |
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仙台港の奥地にある中央公園の高台から仙台港の真上に昇った朝日を見ながら今回の激甚災害の爪痕をプレビューし長期化が考えられる復興活動に思いを馳せる。 |
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宮城を離れて7年になる。17年間生活した第二の故郷、顧問先の再建を通じ微力ながら東北の復興に尽くしたいと朝日に向かって誓う。時刻は7時、仙台東部道路の海側は津波の被災地。その境界線から1.5km内陸側の顧問先に戻る。 |
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これより6枚は岩沼・亘理地区の被災地 二の倉工業団地〜臨空工業団地付近 |
営業部長様に伺うと、被災地の取引先の殆どは同地から離れたいという。テレビ報道は「皆で頑張って復興しよう」というものばかり。だが“当てはないが離れたい”というのが本音のようだ。 |
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阿武隈川河口左岸 早股地区 テレビ報道された南浜中央病院(左上) |
13時に顧問先を後に岩沼・亘理方面の被災地を見て回った。仙台湾の海岸線は遠浅、防波堤や防風林は津波対策が目的ではない。簡単に乗り越えた巨大津波は貞山堀を埋め、仙台平野仙南部の水田地帯を一舐にした。 |
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阿武隈川河口に架かる亘理大橋の右岸 亘理逢隈高屋地区 |
14:45、亘理を最後に被災地を後にする。来た道を戻り日か変って0:32に帰宅した。日光から妻に帰宅時刻(心配するといけないので13時前後)を告げた。時間読みしたのは0:40なので8分早かったが正確な読みに自己満足して床に着いた。 |
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追伸、帰宅した7日の深夜に宮城沖でM7.1の余震があった。23時間の差、地球の歴史からすれば1秒にもならない。今回の震災での生死の分かれ目は、そんな一瞬のことであったのだろう。大きな地震が発生したら、沿岸で生活される皆様は“躊躇うことなく”高台に非難して頂きたいものです。 |
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Midi 祈り |
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