碑撮り旅 ; 「奥の細道」北陸路(第2日目) |
2015.06.02(火) 晴 |
【大木戸門址】石川県加賀市 | 句碑47 | 句碑48 | 句碑49 |
石柱「大木戸門址」の左面に句碑48、右面に句碑49が刻まれている。 |
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句碑47「今日よりや 書付消さん 笠の露」(きょうよりや かきつけけさん かさのつゆ)句碑48「や万なかや 菊はたおらじ ゆのにほい」、句碑49「漁り火に 河鹿や波の 下むせび」(いさりびに かじかやなみの したむせび) |
【芭蕉の館】石川県加賀市 | ||
「蕪村画」にある句碑50「行き行きて たおれ伏すとも 萩の原」(ゆきゆきて たおれふすとも はぎのつき)曽良、句51「今日よりや 書付消さん 笠の露」、「句碑右上部」に句52「やまなかや 菊はたおらじ ゆのにほい」、(奥の細道三百年祭記念碑)。 |
【あやとりはし】石川県加賀市 | ||
大聖寺川がつくりだした「鶴仙渓」、ここに架かる「あやとりはし」(いけばな草月流三代目家元勅使河原宏デザイン)、橋下の川床は「道明ガ淵」と称する景勝地。 |
【道明ガ淵】石川県加賀市 | ||
句碑55「やまなかや 菊はたおらじ 湯のにほい」(やまなかや きくはたおらじ ゆのにおい)、元禄2年7月27日-8月5日、「奥の細道」旅中「山中温泉」にて詠んだ句。 |
【黒谷橋】石川県加賀市 | ||
「鶴仙渓」(かくせんけい)の最下流で大きな淵をなす「黒谷峡谷」は絶景、そこに重厚なアーチ型の「黒谷橋」(白鷺大橋中央より撮影)が架かっている。芭蕉はここが気に入り(当時はどんな橋だったのだろう)「行脚の楽しみここにあり」と言わしめた。 |
【芭蕉堂】石川県加賀市 | ||
「山中温泉」最後の撮影地、「醫王寺」で撮影出来なかった「桃妖」の句碑があるので楽しみだった。句碑59「紙鳶きれて 白根ヶ嶽を 行方かな」(たこきれて しらねがたけを ゆくえかな)。(句部拡大) |
【永平寺】福井県永平寺町 |
芭蕉は「五十丁山に入て永平寺を礼す」と記している。今は何の痕跡も残っていないようだ。 |
何年前になるか、新婚当時に父を誘って「高山→東尋坊→永平寺」+「越前焼・九谷焼」の一泊二日の旅をした思い出がある。「山中温泉」で40分の余裕をつくりだしたので時間を気にせず拝観出来た。(永平寺全景図) | ||||
鐘楼堂 | 傘松閣絵天井(拡大可) | 中雀門 | ||
瑞雲閣(大庫院) | 仏殿 | 法堂 |
【天龍寺】福井県永平寺町 | ||
句碑60「物書て 扇引さく 余波哉」(ものかきて おうぎひきさく なごりかな)、元禄2年8月15日「奥の細道」旅中、福井の永平寺「天龍寺」にて「金沢」から見送りに同行した北枝との別れの吟。(句碑拡大)。 |
【左内公園】福井県福井市 | ||
句碑61「名月の 見所問ん 旅寝せむ」(めいげつの みどころとわん たびねせん)、元禄2年8月12-16日「奥の細道」旅中、「福井」の「等哉」を訪ねた折の作。「芭蕉翁月一夜十五句」の「其の壱」「其の弐」。 |
地域の史跡に感心を持ち後世に伝えて欲しい。これを「文化」という。まして、地域で商売をするなら「お蔭さまで」という「感謝」(義務)かも知れない。100m余りの場所、知っておいて欲しい。 | ||
【玉江二の橋】福井県福井市 | ||
句碑62「月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先」(つきみせよ たまえのあしを からぬさき)、元禄2年8月15日「奥の細道」旅中、敦賀での名月の晩「歌枕玉江の芦」を見ての作。諸説あるが花堂江端辺りになるようだ。(説明文) |
【朝六つの橋】福井県福井市 | ||
碑63「朝六つや 月見の旅の 明けはなれ」(あさむつや つきみのたびの あけばなれ)、元禄2年8月15日「奥の細道」旅中、「敦賀の阿曾武津の橋」は歌枕「あさむつ」で詠んだ句。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。 |
【南条SA(上)】福井県南越前町 | ||
新しい形のSAやPAが増えている。そんな一貫で「芭蕉句碑」が、業者口からも行ける。 「湯尾峠」に句碑があると後日知る。通り道なので行けたかも・・・・。 |
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句碑64「月に名を 包みかねてや いもの神」(つきになを つつみかねてや いものかみ)、元禄2年8月15日「奥の細道」旅中、「敦賀での名月の晩」(湯尾峠)での作。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。(説明文) |
【杉津SA(上)】福井県敦賀市 | ||
「北陸三県」は我が国有数の降雨地帯、中でも福井県の年間降雨量は2,700mm以上という多雨地域。加えて「仲秋の名月」の頃といえば秋雨前線が発達する頃だ。(説明文) | ||
句碑67「名月や 北國日和 定なき」(めいげつや ほくこくびより さだめなし)、元禄2年8月14-15日「奥の細道」旅中、「敦賀」での作。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。 |
【杉津SA(下)】福井県敦賀市 | ||
「杉津PA(下)」は「杉津PA(上)」より更に高い場所にある。眼下には「敦賀湾」(越前加賀海岸国定公園)が広がる。眺望の良さに加え「夕日の名所」として「恋人の聖地」になっている。 | ||
句碑68「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」(ふるきなの つぬがやこいし あきのつき)、元禄2年8月15日「奥の細道」旅中、「敦賀での名月の晩」(湊)での作。「説明碑」。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。(説明文)。「角鹿」(つぬが)は「敦賀」(つるが)の元の名前。 |
【金前寺】福井県敦賀市 | ||
「金前寺」(こんぜんじ)は、一旦は駐車場まで行ったが・・・・ここで良いのか不安になり大通りまで戻った。自販機の充填をしている店主の方に尋ねると「それが金前寺で芭蕉の句碑がある」と答えられた。 | ||
句碑69「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」(つきいずく かねはしずめる うみのそこ)、元禄2年8月15日、「奥の細道」旅中、「敦賀金ヶ崎」での作。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。(刻字部拡大)(芭蕉翁鐘塚石柱) | ||
「金前寺」前の大駐車場は「金ヶ崎城跡」(敦賀城)があるからだ。戦国の世、信長・秀吉・家康・利家等々が勢揃いした地でもある。また、「金前寺」は金ヶ城落城一大決戦(織田信長と城主朝倉義景)の本営になりました。 |
【氣比神宮】福井県敦賀市 | ||
「氣比神宮」は、官幣大社かつ北陸道総鎮守、その大鳥居(日本三大鳥居)はかつて「国宝」だった。 昭和20年、第二次世界大戦下、「敦賀空襲」で多くを消失した。 |
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「大鳥居」前の交差点先に、何やら「石碑と像」が見えたので行って見た。新内節(浄瑠璃の流派)の祖(初代は敦賀出身)「鶴賀若狭掾顕彰碑」(つるがわかさのじょう)があった。現11代家元は人間国宝になっている。 |
【氣比神宮】「芭蕉像」 | ||
中央奥の木の下にある句碑が上の説明。右に芭蕉像があり台座に句73「月清し 遊行のもてる 砂の上」(つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)。「芭蕉翁月一夜十五句」のひとつ。 |
【西福寺】福井県敦賀市 | ||
山中温泉で芭蕉と別れた「曾良」は、芭蕉より先に「西福寺」に立ち寄ったらしい。通り道とはいえ「全昌寺」そして「西福寺」、同じ寺に芭蕉も追うように泊まるとは・・・・。 | ||
句碑はないが「河合曾良文学碑」があるので立ち寄ってみた。「文学碑右側」と「文学碑左側」。大改修中で「立入禁止」になっていた。和尚さんにお願いし撮影許可を頂いた。 |
【敦賀半島(立石半島)】予定外の立石海岸ドライブ | |||
県道141号鷲崎(手)付近 | 立石漁港付近の海岸線 | ||
「本龍寺」の電話番号と住所、交互にカーナビ設定したのに「何処まで連れて行くの」、30分弱の予定外の「道草」をした。古いカーナビゆえ「本龍寺」と「本龍寺開山堂」の区別がつかない。その上「立石漁港」まで案内されてしまった。(おかしいと思うも敦賀原電を見たかったので引き返さなかった) | |||
解せないので、旅から戻ってグーグル・ストリートビューで確認、撮影した「鷲崎」付近から「本龍寺」(色浜)までは3km・・・・「ム・ㇺㇺㇺ」 | |||
【本隆寺開山堂】福井県敦賀市 | ||
句碑84「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」(さみしさや すまにかちたる はまのあき)、元禄2年8月16日「奥の細道」旅中、「敦賀」(種の浜)にて詠まれた句。芭蕉曰く「種の浜は日本一の寂しさ」。(句碑脇の石柱) | ||
あるはずの3句碑、「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」「衣着て 小貝拾はん いろの月」「浪の間や 小貝にまじる 萩の塵」がない。案内表示しておいてもいいじゃん。「色浜」を訪ねる人の殆どは「芭蕉句碑めぐり」の旅人だよ! | ||
ちなみに本龍寺開山堂」は「民宿竹越前」、「本龍寺」は「豊漁丸渡船」前、この間100m余り。 |
【観音寺】滋賀県米原市 | ||
「観音寺」(かんのんじ)は、長浜城主「羽柴秀吉」と観音寺童子「佐吉」(石田三成)の出逢いの寺「三碗の才」として知られる寺です。 | ||
【観音寺】滋賀県米原市 | ||
句碑85「其のままに 月もたのまじ 伊吹山」(そのままに つきもたのまじ いぶきやま)、元禄2年8月下旬「奥の細道」旅中、「大垣藩士高岡三郎亭」(斜嶺)に招かれての挨拶吟。「其のままに・・・・」の前段に、「花にもよらず 雪にもよらず ただこれ孤山の徳あり」と附られている。 |
2日目の撮影も無事終え「観音寺」を後にしたのは17時45分(予定18:40)と一時間早い。一般道を走り「海津温泉」(岐阜県海津市)に向かう。汗を流し、大駐車場での車中泊だ。(同様の車が10台ほど駐車していた)。間もなく天気予報通り雨が降りだした。明日は雨か・・・・気が重いなぁ。 |