-細道を訪ね描くや古希の旅/細道や一碑一会の旅日記-
雨の細道 奥の細道“栃木・福島”描き
(栃木県佐野市・岩舟町/福島県郡山市・福島市・桑折町)
2017.08.018(金) 終日雨
 今回の「旅の未知草」の前に「三茶庵の一碑一会や旅日記」と詠んでみた。実際の旅程に合せ「旅日記」の部分に季語を入れようと考えた。したがって、今回は「三茶庵の一碑一会や秋日記」になる。そもそも「何を」画したかとなれば・・・・一日のうち一つだけでも「邂逅と別離」があればと期待した訳だ。
 そんな「新たな決意の旅」だが、今回ばかりは「寺社仏閣の参詣」の御利益もなく「終日雨」の中での碑撮り旅になった。全体的に出不足の画像、またピンも甘く使える画像はなさそうだ。(雨でなければ「越後路/上越・新潟」を計画していた)
 種徳院;栃木県佐野市
 家を2:30に出て6:00着の予定。前日に「種徳院」様に早朝の句碑撮影のお許しを頂きたく電話を差し上げた。奥様らしき方がお出になられご了解を頂いた。目覚まし時計が鳴らず(妻の設定忘れ)古時計が3:00を告げたので飛び起き3:10にと40分遅れ・・・・天気予報が雨なので3:00でも構わないと内心思っていなかったので、妻には別段小言は言わずに家を後にした。
 
 スタート時刻は、必ず「ゆとり」を持たせることにしているので「種徳院」着は5:55、閉じていたフェンスを開けさせて頂き境内に入り一礼、二度目なので句碑へ直行。本堂左手に石段があり、上り詰めると「道了宮」(御神体の天狗様は私たちの願い事を叶えるために東奔西走して下さる。願いが叶ったらお礼参りに来て下さい。とても喜ばれて再び新たな力を頂けるでしょうと書かれていた。早速、お参りに参りました。
 
 「道了宮」の左手に芭蕉句碑がある。句碑01「鐘つかぬさとは何をか春の暮」(かねつかぬ さとはなにをか はるのくれ)。(建立;1792.5)。元禄2329日、「奥の細道」旅中、「鹿沼」での作。句面拡大 
 同趣旨で詠まれた「入逢の鐘もきこえず春の暮」という句あり。(句碑は、鹿沼市掬翠園)
 岩船山高勝寺(日本三大霊山の一つ);栃木県栃木市(旧岩舟町)
岩船山遠景(岩船山付近略図と同方向)
 
岩船山中段駐車場・・・・広場左手奥に表参道の石段がある
 
霊場   本堂(右後方石段より)
 「本堂」への廊下が絵になるので、いろんな角度から撮影した。最も気に入ったのが後方の石段、句碑の脇から撮影したものである。
仁王門 三重の塔 大仏
 「大仏」横の石段を上り始めた時、参拝に来られた地元の人に声を掛けられ「カメラ」(デジカメと銀塩)についてしばし話しを交わした。
 
 「仁王門」前に芭蕉句碑がある。句碑02「野を横に馬ひきむけよほとゝぎす」(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)、(建立;1861)。元禄2416日、「奥の細道」旅中、「那須の原」での作。
 
 「本堂」右後方の石段右側に芭蕉句碑がある。句碑03父母のしきりにこひし雉子の聲」(ちちははの しきりにこいし きじのこえ)(建立;1861)。「笈の小文」旅中、「高野山」での作。
 三島神社;福島県郡山市
 国道4号での「栃木市(7:32-12:27)郡山市」は、日中の雨降りに通勤時間帯で1時間も余分に費やした。

 
 句碑03「風流のはしめや奥の田植唄」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、(建立;1873.10)。元禄24月「奥の細道」旅中、「須賀川」での「等窮」への挨拶吟。
 この後の「田村神社」(田村町)は、同名の異なる神社(阿久津町)をナビ設定・・・・初の大違い!。
 安積山公園;福島県郡山市
 
 
 「奥の細道文学碑;あさかの沼」 等窮が宅を出て五里斗檜皮の宿を離れて安積山有路より近し此あたり沼多しかつみ刈る比もやゝ近うなればいづれの草をはなかつみと云ぞと人々に尋ね侍れども更に知人なし沼を尋人にとひかつみかつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ 奥の細道より
 福島県庁前公園;福島県福島市
 
 40分程の遅れ調整の為「安達ヶ原黒塚」(二本松市)をパスさせた。「県庁前公園」に芭蕉句碑がある。句碑04「早乙女にしかた望まむ信夫摺」(さおとめに しかたのぞまん しのぶすり)、元禄252日「奥の細道」旅中「信夫の里」で「陸奥の田植風景」を詠んだ「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の初案。(建立;1879.5
 文知摺観音(普門院)/安洞院(別当);福島県福島市
 
 「文知摺観音」(普門院)の入口(橋)の右側に芭蕉像が建っている。その台座に「奥の細道文学碑」が刻まれている。「月日は百代の過客にして 行かふ年も又旅人也・・・・ 二本松より右に切れて 黒塚の岩屋一見し福島に宿る あくれば しのぶもち摺の石を尋て 忍ぶのさとに行 遥山陰の小里に 石半土に埋てあり 里の童部の来りて教ける 「昔は此山の上に侍しを 往来の人の麦草をあらして 此石を試侍をにくみて 此谷につき落せは 石の面下さまにふしたり」と云 さもあるべきにや 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 元禄二年五月二日」
 句碑
05「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶすり)、元禄252日「奥の細道」旅中「信夫の里」で「陸奥の田植風景」を詠んだ句。(芭蕉像文学碑文知摺観音説明
 境内正面に芭蕉句碑がある。句碑06「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶすり)、元禄252日「奥の細道」旅中「信夫の里」で「陸奥の田植風景」を詠んだ句。
 
 月の輪大橋(親柱/控柱);福島県福島市
 
 阿武隈川に架かる「月の輪大橋」の「親柱」が芭蕉句碑になっている。句碑06「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶすり)、元禄252日「奥の細道」旅中「信夫の里」で「陸奥の田植風景」を詠んだ句。(橋名の由来、付近にある月の輪の渡し碑
 法圓寺 ;福島県桑折町
 
 本日の旅の大団円は、桑折町の「法圓寺」である。呼鈴を鳴らし、住職様に句碑の撮影目的を告げる。


 →碑面の拡大

俳諧 田植塚記 芭蕉 田植塚(建立;1719.5 句碑(建立;2003.5
 句碑07「風流の初やおくの田植うた」(ふうりゅうの はつやおくの たうえうた)、元禄24「奥の細道」旅中「須賀川」での「等窮」への挨拶吟。芭蕉 田植塚は、東北最古のもの。
 住職様がくださった「俳諧田植塚(乾・坤)」(古文書の現代版)は、桑折の俳人「佐藤馬耳」(桑折本陣役人、佐藤佐五衛門宗明の俳号、奥州俳壇の実力第一人者、享保4/1719に芭蕉田植塚建立)し、記念に「田植塚」(乾・坤)2冊を編集。松尾芭蕉没年169425年後という大変貴重な資料。(今回の旅日記の“一碑一会”です)
秋ついり嬉々や桑折の田植塚 38.2017.aut
芭蕉の田植塚(説明板) 平成296月発行の「俳諧田植塚」(住職様から頂戴致しました)
 「俳諧田植塚」2冊(乾・坤)と「田植塚記」の一部を紹介させて頂きます。拡大画像へリンクを張っています。(全文は中村俊定文庫のウエブページ(俳諧田植塚)を参照下さい←後日、この存在について法圓寺の住職様にお問い合わせしたところ、ご存じでなかったようで折返し情報提供のお礼の電話を戴いた。→掲載
俳諧田植塚 乾(けん)
田植塚記 芭蕉翁墳記
俳諧田植塚 坤(こん)
 二巻で一組となっている書物の、上巻と下巻。その上巻を「乾」、下巻を「坤」というようです。
 終日雨という天気の中、「越後路」(上越-新潟)を取り止め、抑えの「栃木・福島」で異なる「田村神社」に向かったり、計画した「安達ヶ原黒塚」「長谷寺」(旅に病んで)を取り止めたりした「旅日記」。往路499km+復路422km、全921km・・・・「故郷納税」もなく無事行ってきました。