中山道塩名田宿 ;千曲川の川畔に栄えた花街 |
2022. 11-12 |
妻をクリニックに送り届け、待合時間に「塩名田宿」の撮影に行って来た。片道30分の距離、2時間で行って来れると思ったが、診察が思いの外早く長時間待たせてしまった。 |
【浅科バス停】(浅科会館) 所在地;長野県佐久市塩名田1338 ☎ 0267-58-3957 |
中山道は江戸街道、しかし「塩名田宿」が活気を帯びてくるのは明治の半ばと歴史は浅い。それでは、信濃の「花街塩名田」をご案内しましょう。「浅科バス停」に駐車し「千曲川の舟つなぎ石」に行き往路を戻り「本陣跡」(大黒屋)で折り返す約40分(約1km)の徒歩コース。→Google Map |
【高札場跡】 | 【佐藤半左衛門家住宅】(店舗併設住宅) | |
現在も公用掲示板として利用されている。→説明板 | 塩名田宿で最も古式の町屋。→説明板 | |
明治30年代、八幡宿から料理業二人が移転営業、新角屋は上等の芸奴屋で塩名田一流の料亭として開業(11年後新築)名声が挙がる。花街として形成された要因は北佐久郡の中央、千曲川の川畔にあり交通の要所でもあった。→説明板 |
【浅科郵便役所】(浅科郵便局) | ||||
日本の郵便が明治4年3月1日(1871)に東京大阪間で始まった。創業時点で設置されたのは3つの郵便役所と62の郵便取扱所で、全国各地にあった郵便取扱所がすべて郵便役所となったのは、明治7年1月(1874)のことであり、郵便事業を担う駅逓寮が内務省に移管されたのと同時期。全国的に「郵便局」となったのは明治8年1月1日(1875)、日米間の外国郵便が開始された日と同じなのは偶然ではない。明治6年8月6日にワシントンで調印された日米郵便交換条約の日本語版にある名称「郵便局」(Post Office)に合わせた。 |
【お滝・十九夜塔・道祖神・水準点】(塩名田宿お滝通り) | ||||
元瀧大明神社の境内で、大きな欅の根元から清水が湧き出ていた。中山道を往来する旅人の喉を潤した。また、茶屋・湯屋の水源や佐久鯉の飼育にも使われていた。昭和中期には川原宿の各戸へも給水されていた。 | ||||
江戸より43里13町(170km)、23番目の宿場(東から下宿・中宿・川原宿)。千曲川は頻繁に氾濫していたが、川渡しを確保するため、近くの、岩下、白合、町田の地域に住んでいた人々を移り住まわせ、四十数軒で新しく設けられた宿場である。天保14年(1843)の「中山道宿場大概帳」によれば、総家数116軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠7軒、総人口574人であった。 |
「十九夜塔」は、(花街の)女性が集まり(講)十九夜念仏を唱和し、健康の増進や出産の無事を祈念したようだ。碑の裏面に「天保十年乙亥四月穀雨講中」とある。この穀雨の日を女性の「遊び日」(休日)と決め、年に一日の楽しみを確保したのであろう。「道祖神石像」に芸奴屋七軒の名が染め抜かれている。水準点は標高622.7m。→説明板 |
【三階建て住宅群】 | ||||
塩名田の川原宿には所々に情緒豊かな三階建て住居がある。左2枚は「料亭角屋」、右端は「茶屋亀屋」。話しは変わるが、既に商いはしていないが「屋号」を掲げられ古の風情を醸し出している。→説明板 |
【竹廼家】(川魚料理専門店) | ||||
千曲川に面した川原宿の西端に「竹廼家」がある。創業100年の川魚料理専門店だ。新婚気分が抜けない20代後半30歳に満たない頃だったと記憶する。今は亡き隣人、すぐ上の姉の連れ合いに招待され東京の兄と共に当店で川魚フルコースを頂いた。半世紀近い昔のことだ。現在も営業している。 |
【千曲川の舟つなぎ石】 | ||
江戸時代、塩名田宿付近の千曲川は流れも急で洪水のたびに橋が流されていた。橋の架けなおしには負担も大きく、一時舟渡しも行われたが不都合も多く、橋を架ける方式がとられ幕府は橋を維持するため、佐久・小県郡内の村々で組合を組織させこれにあたらせた。 明治に入り組合での維持管理ができなくなり、新たに船橋会社がつくられ明治6年(1873)に千曲川に九艘そうの船をつないで、その上に板を架けて橋とする「船橋」方式により渡川を確保しました。その際、船をつなぎとめるために使われたのが、上部に穴を開けた大きな岩石で「舟つなぎ石」を呼ばれている。 その後、明治25年(1892)に木橋が架けられ、船橋とともに舟つなぎ石はその役割を終え、船橋時代の苦労を物語る歴史遺産として千曲川の流れを静かに見つめている。→説明板 |
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【川原宿】 |
山川 | 旅籠 大丸屋助右衛門 |
讃岐屋 | 旅籠 蔦屋 | 茶屋 亀屋 |
【塩名田宿】(中宿) |
「お滝通り」(旧中山道)から丘陵上に上り50m足らずで「浅科郵便役所」、少し手前から眺める「中山道」は緩いカーブ、それでも塩名田宿の「上宿」まで見通せる。塩名田宿は四町二十八間、小さな宿場といえる。再度「Google Map」(鳥瞰図)で日本一の大河、佐久平を流れる千曲川の暴れ振りを観てみよう。右下に塩名田宿、ちなみに左上(♥)が我が家の位置である。 |
【問屋・本陣跡】(丸山新左衛門家) |
「問屋・本陣跡」は、ほぼ宿場の中央にある。車を停めた「浅科会館」の真向かいである。→説明板 |
浅科会館の両隣(丸山新左衛門家) | ||||
佐藤半左衛門家住宅(西隣) | 藤屋・乾物(東隣) | 同左 | ||
問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門、丸山氏の同族が本陣2軒、脇 本陣1軒を勤めた。 | ||||
【中仙堂】(骨董品店) | ||||
【塩名田宿】(中宿) | ||||
大井家(本陣・丸山善兵衛) | 佐野屋(房之助) | 丸山煙草屋 |
【上宿方角の街並み】 |