東京へ ;兄の葬儀 |
2022.12.22 |
12月16日21時、88歳で人生の幕を閉じた兄(茶壱庵)の葬儀(12月22日)に車(単独)で行ってきた。コロナ過、この日の感染者数は全国で184,375人(東京都18,820人、長野県2,948人)と一時と比べ桁違いに多い。政府の施策「Withコロナ」・・・・相変わらず死者数も多く自己責任の時代になっている。12月10日に第5回目のワクチン接種を澄ませている。 |
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青春真っ只中を突っ走る 想い出通り「青梅街道」 |
予定コースは、「佐久北IC」(中部横断自動車道)より「佐久小諸JCT」(上信越自動車道)で「藤岡JCT」(関越自動車道)で終点の「練馬IC」で目白通り「豊玉陸橋」で右折し環状七号へ、「大原」を左折し「青山三丁目」直近の「梅窓院」。家を5時30分に出れば9時30分には到着するだろう。そう踏んでいたが姉から7時に出るとの連絡を受けた。乗せていってもらう身なので「ふ-ん、これじゃ斎場直行だな」(兄の長女とは事前の了解事項で問題なし)と事前の話通り。姉の具合も良くないので「無理しないで」と「単独行」を決断した。視野欠損、真っ暗なうちに出掛ける。それも都会の道・・・・一抹の不安もあった。叔母と伯父、どちらかでも葬儀の初めから出てあげたいという気持ちもあったので「単独行」も最初から心の内にはあったことである。 | |||||
夜中の激しい雨音、天気予報では雪になるとも・・・・ちなみに日本海沿岸地域では記録的大雪、余り良い気分ではなかった。携帯バッテリーに電気ひざ掛け、チェーンも昨日のうちにトランクに積んであるが・・・・ | |||||
家を5時15分に出る。霙でも雪が目立つ、台地上の道路で一瞬スリップした。「佐久北IC」から乗り「寄居PA」で朝食タイム、昨日の朝食で入歯を破損したので柔らかいものした食べられない。「練馬IC」での渋滞は5kmとの表示が出ていた。 | |||||
「新座料金所」を通過し間もなく渋滞、ここから「練馬IC」までは約10km、渋滞は少し伸びていた。ナビが「迂回路の提案」をしてきた。いつもは無視しているが、今回は提案を受け入れ「新ルート」をクリックした。「新ルート」は目白通り「谷原」右折というものだ。事前のルート研究で、「梅窓院」直行ルートより「代々幡斎場」近く経由で向う方が数km遠いが20分強早く着くことを知っていた。「はは-ん」、このルートか、「賢い!」とニンマリした。しばらくしてナビが「再提案」をしてきた。「事前検討」のルートから外れる。「よっしゃ-」任せようと・・・・。 | |||||
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ナビからのプレゼント(悲しみを懐かしへ) | |||
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結論を先に言おう。ナビは「環八」を少し走ったところで「再提案」をしてきたのである。こうなったら素直に受け入れよう。「練馬IC」を出て一般道「目白通り」を1.6kmを徒歩ペース並みの刻みで進んだ「谷原」交差点を「環八」右に折れ渋滞と戦いながら4km程進むと、この先側道に逸れ「四面道」を左折し「青梅街道」を「高円寺」方面に外れよというものであった。「青梅街道」「高円寺」という名前で「古き想い出」(半世紀前の青春時代)が鮮明に浮かび上がってきた。 |
「古き想い出」 | ||
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「青梅街道」を3.9km走り「高円寺陸橋下」を左折し「環七」へ、この間に「吉祥寺」「荻窪」「阿佐ヶ谷」「高円寺」「中野」と・・・・「総武線」(中央線)の駅名が続く。上京(片岡電気の社風が色濃いアルプス電気に就職)し1年間は研修生活でもあり脇目をくれず仕事を覚えた。そして2年目、「グラフィックデザイナー」への夢も捨てきれず吉祥寺の「武蔵野美術短期大学」(通信制)に通い始めたのである。イラストに自信がなく六本木のデッサンスクールにも通い帰宅は23時を越える日々でした。 |
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中学生の頃、母が定期購読をしてくれた雑誌「中学生」の文通覧で知り合った同年の「秋田美人」(鷹巣美人)、確か高校時代の交流は途絶えていたと思う。就職して2-3年目頃に連絡をとったら何と競合メーカー(調布)に入社していた。田園調布の駅で待ち合わせ日原鍾乳洞へ、初対面デイトの記憶は甘酸っぱい想い出である。この後、さほどしないうちに体調を崩し帰郷してしまった。(帰郷の事実を知った時期は不詳) | ||
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担当していた「東芝」のテレビ工場が深谷に移り、「日本ビクター」も岩井工場へと、テレビ・オーディオ各社の地方移転が本格化。これに併せ私の職種も「品質管理部門」から「営業技術部門」へと移籍し顧客の移転終了に併せ熊谷営業所へと転勤した。「秋田美人」とはお友達でのお別れ、新たな彼女は4つ年上の「武蔵美の芸能コース」(私はグラフィックデザインコース)、授業が終わるまで教室でだべり待機、21時近くから新宿デイト、家は大井町だったので近くまで送る。熊谷転勤まで続くも、4つ上の壁で彼女(銀座の生保OL美人)は頑なに求婚を拒みお別れ(信州の高原ドライブ旅行)となった。そんな想い出が詰まる街を抜け表参道(仙台転居直前の癒しスポット)に・・・・ | ||
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「古き想い出」(続編) | ||
熊谷に転勤し何ヶ月か経った頃・・・・中途半端な形で「別離」を迎えた「秋田美人」、どんな方法で連絡をとったか記憶にないが「再上京」し歯科技工士として働いているという。住んでいる街は「高円寺」・・・・。 | ||
関係は途絶えていなかった。超特急での再開・・・・、本社と熊谷の情報交換を元上司に提案し承諾を頂いた。ミーティングは月に2-3回、週末日に行うことで決まった。勿論、目的のミーティングは「元上司たち」ではなく「秋田美人」とのデイトである。元上司は私のことをとても良く知っていて、このことは口にしなくてもバレバレだった。 | ||
彼女との仲は急速に深まり、葬儀に出向く「亡き兄」にも逢って(婚約)もらっていた。そんな彼女とも突然の別れ、今考えるに原因はどうみても私にある。今、通ってきた街は彼女との想い出の街である。何と気遣いの出来る素晴らしい「ナビ」だこと・・・・その時も「ナビ」してくれていたら私の人生は大きく変わっていただろう。そして、現在の最愛の妻との出逢いもなかったかと思うと・・・・我が人生の旅も芭蕉が言うところの「邂逅と別離」そのものかと思う。 合掌 |
こよなく愛した「千曲川」の畔で 千曲川の流砂に帰して旅寝せん |
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