family history Fukuzawa
福澤家の歴史(初書)
20230421日 (金)
 ルーツ探索の旅マップ (南北朝時代は北朝で記す) 新たに繰出位牌より見付けた先祖  最古の何某 生誕
鎌倉 1299 4 正安 1350 3 観応 1452 4 享徳 桃山 1593 5 文禄 1744 5 延享
1302 2 乾元 1352 5 文和 1455 3 康正 1596 20 慶長 1748 4 寛延
1303 4 嘉元 1356 6 延文 1457 4 長禄 江戸 1615 10 元和 1751 14 宝暦
1307 3 徳治 1361 2 康安 1461 7 寛正 1624 21 寛永 1764 9 明和
1308 4 延慶 1362 7 貞治 1466 2 文正 1645 5 正保 1772 10 安永
1311 2 応長 1368 8 応安 1467 3 応仁 1648 5 慶安 1781 9 天明
1312 6 正和 1375 5 永和 1469 19 文明 1652 4 承応 1789 13 寛政
1317 3 文保 1379 3 康暦 1487 3 長享 1655 4 明暦 1801 4 享和
1319 3 元応 1381 4 永徳 戦国 1489 4 延徳 1658 4 万治 1804 15 文化
1321 4 元亨 1384 4 至徳 1492 10 明応 1661 13 寛文 1818 13 文政
1324 3 正中 1387 3 嘉慶 1501 4 文亀 1673 9 延宝 1831 15 天保
1326 4 嘉暦 1389 2 康応 1504 18 永正 1681 4 天和 1845 5 弘化
1329 4 元徳 南北 1390 5 明徳 1521 8 大永 1684 5 貞享 1848 7 嘉永
1331 4 元弘 戦国 1394 35 応永 1528 5 享禄 1688 17 元禄 1855 7 安政
1332 2 正慶 1428 2 正長 1532 24 天文 1704 8 宝永 1860 2 万延
室町 1334 5 建武 1429 13 永享 1555 4 弘治 1711 6 正徳 1861 4 文久
南北 1338 5 暦応 1441 4 嘉吉 1558 13 永禄 1716 21 享保 1864 2 元治
1342 4 康永 1444 6 文安 1570 4 元亀 1736 6 元文 1865 4 慶応
1345 6 貞和 1449 4 宝徳 安土 1573 20 1741 4 寛保 明治 1868 45 明治
 元号左は明治より逆番、元年と元年の西暦、 赤文字は歴史記述記録年次、青文字は福澤家の歴史(家系図)
 現在の家系図での先祖は、「承応3年」(1654)である。時は「江戸時代」、第4代征夷大将軍徳川家家綱公の就任に伴う元号変更「承応」(じょうおう)3年目である。「戦国時代」(応仁-元亀、1469-1573)の104年を終え、「安土桃山時代」(天正-文禄-慶長、1593-161522年間を過ぎ江戸時代に入って61年。
 歴史に残る「塩田福沢氏」の最後は「天正年間」(
1573-1586)である。タイムスリップの目標を「天正」と置くならば「1654-1615=39」、現時点の家系図の「祖の父親世代」・・・・先ずは「一代の遡り」となる。
 昨年(2022)の48日、大動脈乖離を発症し救急車からドクターヘリと厚生連佐久医療センターに連携搬送、6時間を越える大手術を経て3週間の入院、49回目の結婚記念日の前日、428日に退院、大手術時の脳梗塞で左下1/4の視野欠損、普通に生活できる状態で満1年を迎えた。そこで、「我がルーツ」を極めたいとの気持ちが高まり今回の旅(タイムスリップ)を計画しました。
 さあ、旅に出よう。「旧家屋の写真」と「繰出位牌」を見に・・・・「旅マップ」持参で実家に向かう。
旅の土産→☆
1442=1492-50 、★繰出位牌を見付け後日記入
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 期待が膨らむ「繰出位牌」(過去帳)
 実家の仏壇に「繰出位牌」(薄板に毛筆書の位牌)がある。明治元年から承応元年まで216年、父から先祖まで11代平均119.6年、「繰出位牌」には10枚ぐらい入るだろう。そんな目分量で仏壇を・・・・「繰出位牌」は3基、一枚を両面書してあった。30人分、何代かは見当がつかないまでも予想外で「大興奮」・・・・
 歴史にみる「塩田福沢氏」の存在
 塩田城は、建治3年(1277)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。その塩田流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の分流であり、北条重時を祖とする極楽寺流の一支流で、重時の五男・北条義政を祖とし、義政が居住した信濃国塩田荘は「信州の鎌倉」と呼ばれ中世文化が開かれたのである。→塩田平の歴史
 「塩田城」の歴史
【鎌倉時代】・・・・塩田北条氏
 北条国時、北条俊時と
3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘3年(1333)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際は、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。
【室町時代】・・・・坂木村上氏
 南北朝、室町時代を通して村上氏の支配となる。
【戦国時代】・・・・坂木村上氏(塩田福沢氏)
 武田信玄の信濃侵攻、長きに渡る激しい攻防、遂に武田氏の手に落ちるが、上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とする。しかし、数ヶ月後には武田氏に包囲され自落。
 天文22年(1553)に行われた第一次川中島の戦いの際には武田勢の本陣となった。以降、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦において、武田氏方の重要な出動拠点となった。武田氏滅亡後、この地域は真田氏の支配となるが、天正11年(1583)、上田城の完成により塩田城は廃城となったと伝えられている。
 「塩田福沢氏」の歴史
諏訪御符禮之古書(信濃史料)には
 文安
05年(1448)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道像(阿)何
 享徳03年(1454)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道儀(像阿)何
 長禄
03年(1459)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿
 寛正06年(1465)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿 14年間で3人の名が
 応仁03年(1469)、諏訪社上社御射山祭 福澤左馬助信胤
 応仁
03年(1469)、諏訪社上社御射山祭 福澤左馬助信胤、福澤信胤
 
文明
11年(1479)、諏訪社上社御射山祭 福澤五郎清胤
 文明
16年(1484)、諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥頭賢
 長享
03年(1489)、諏訪社上社御射山祭 福澤左館助政胤  20年間で4人の名が
とあり、福沢氏が塩田庄を代々相伝していることが知られる。頭役銭50貫から70貫の「御符礼銭」は伊賀良庄(飯田市)の小笠原に次ぐ高で、岩村田大井氏・佐久矢島氏・井上郷井上氏・須田郷須田氏・長沼島津氏・坂木村上氏・船山屋代氏と並ぶ。福沢氏の所領は塩田庄内12郷に及んでいたと見られる。
 塩田城は、弘法山全体を城郭とした戦国山城であり、中世城郭としては長野県で最大級と言われている。一般論として、中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。山上の城は、主に戦時の防御施設であって日常生活は、麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。戦国期には、山上の城にも恒久的な建物(中には礎石建ちの本格的なものもある)を建てて、長期の滞在ができるように備えたものも現れた。
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 「村上義清と福沢氏」の歴史
 村上氏は、平安時代の末ごろから千曲川左岸の村上郷を本拠地にしていた清和源氏の一族である。
 文亀元年 (
1501)、村上義清、顕国の子として葛尾城に生まれる
 永正
17年(1520)、村上義清、家督を相続し葛尾城の当主になる
 天文
13年(1544)、小県郡福沢顕昌、伊勢大神宮に同郡奈良本等の地を寄進す
 天文
23年(1554)、小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に戦乱により賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す
 元亀
04年(1573)、村上義清、越後「根知城」にて病死(享年73
 塩田庄は、文安5年(1448)、村上氏の代官福沢入道像阿が諏訪大社上社の重要祭事の頭役を務めるなどして、戦国時代の天文年間(1550前後)まで福沢氏が塩田荘を支配していた。当時、鎌倉時代の所領相続が庶子を含む分割伝領から嫡子惣領の一括相続となり、本拠地以外は代官支配へ移行し、それが福沢氏の塩田入りの時代背景であった。その福沢氏、上室賀から室賀峠を越え更科郷へ下ると福沢氏の館址に出る。塩田城跡から徒歩でルートを引くと「半過岩鼻」経由で14.1kmなるも、「舞田峠・室賀峠」経由だと18.9km4割増、塩田庄の舞田峠口に実家がある。塩田⇔坂城、密かに往来するには遠回りでも後者が格段に良い。
「塩田城跡」 長野県上田市前山
 独鈷山の北麓、塩田平を見渡す弘法山に塩田城跡が残る。左画像手前の駐車場から城跡遺構の中を山頂に向かい25分程登ると、右画像の「北条国時の墓」がある。
 「坂木福沢氏」への定説
 塩田地方は、鎌倉幕府が滅亡するとともに北条氏にかわって村上氏の勢力下におかれた。村上氏はいまの坂城町を本據とした豪族であるが、塩田地方の支配権を握ると、重臣福沢氏を代官として塩田城に置き前進基地とした。坂城町網掛に「福泉寺」という曹洞宗のお寺があり、天正年間(1573-1586)に福沢薩摩守政隆(戒名 福泉院殿佛光法隆大禅定門)が天台宗福泉寺を開き、寛永七年(1630)に室賀前松寺二世住職玄国了頓和尚が隠居し当寺に入り曹洞宗に改めたという。「小県郡福沢昌景」(1484)から89年後、両者の関係は不詳。村上義清の記述、その補足として塩田福沢氏が簡単に記述されている。どういった経緯で塩田城を任されたのか、家臣団の名前の筆頭に記されるならまだしも・・・・本記目的より「福沢氏」を中心に話を進めて行きます。
「坂木福沢氏館跡」
 坂城町網掛(びんぐしの里公園付近)に、「福沢氏の館」があったと言うも遺構はなく、地名等(福沢川、福沢橋)が残るのみ、小高い丘陵を挟み「福泉寺」(福沢薩摩守政隆創建の寺)がある。
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 江戸時代からの家屋(取壊直前;昭和42年(1967
 ○○橋西詰から〇〇川に沿って南へ、門までの「蹴出し」は70m余りと奥まった造りになっている。蓮池の反対側は果樹園だったが、「下屋敷」と呼んでいたので古くは屋敷があったかも知れない。
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 母家の西2/3が写っている。上画像の右奥は蔵で、並び手前は離れの奥座敷で母家と橋でつながっている。右下の屋根は門である。門の土台部は石垣になっていて、門の右下は古の馬屋跡である。右上は土蔵であり養蚕具が入っていた。中央の暗部は裏庭になっている。懐かしい想い出が込み上げてきた。間取りについて記憶を辿ってみよう。
 門をくぐると表庭、母家の前庭を西に進むと離れの奥座敷前の築山がある庭園になる。母屋は藁葺屋根、奥座敷は瓦葺である。奥座敷は
2部屋で唐紙で仕切られている。南側は畳敷き廊下になっている。上田城のお姫様ご一行が別所温泉にご入湯にお出でくださった際のご休憩処としてご利用されたと聞いている。
 母家は南北に
2-3列の部屋が並び、南側の西側より座敷・茶の間・台所(土間)、座敷と茶の間の南側は板の間の縁側になっている。離れとは屋根付き橋でつながっている。縁側の東側に浴室、昔は機織り場であり母が繭からの紡ぎ(製糸)機織り(反物作り)をしていた。出来た反物を染めていた記憶も残る。母家の北側西より中の間・北の間・勝手と続き、勝手より2階への階段があった。2階には部屋はひとつ。中の間の北に八畳間があり蔵に続く渡り部屋もあった。台所の南側は水場、土間には地下倉庫があった。土間の北、東側に細長い味噌部屋があった。勝手口から裏庭に出ると土蔵があり、母家と土蔵の間から蔵の北側へと裏庭が続き、大きな栗の木と大きな欅の木、井戸もあった。裏庭の戸を開けると峠道に出る。裏庭はカラタチの垣根で囲まれている。母家南側、奥庭の西側は瓦屋根の土塀、南側は板塀・垣根で囲まれてる。渡り廊下の北側は囲まれた露地になっている。新館の「やがため披露」は昭和43212日(1968)に行われた。私が家を出て2年後になる。
 母が中心になり、私が中学生の頃まで養蚕をしていた。春蚕・夏蚕・秋蚕・番秋蚕という詞が脳裏に残る。養蚕の時期になると茶の間・座敷の畳が剥がされ「ねこ・ござ」を敷き蚕棚を組み立て蚕籠で繭づくりをした。この間の生活は北の間になる。小学生の頃、商家の友達はテトロンシャツ、私は母が作った絹シャツ、友達が羨ましかったことを思い出す。今や絹のシャツなんぞ希少・高級品だ。母が嫁いだ頃から私が大きくなるまで、祖父の浪費遊びで身上を無くし貧乏暮らしだった。それでも、学費は文句なしで工面してくれたし上田の街まで時々連れていってくれた。厳しくも優しい母を思い出す。
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 福澤家の菩提寺・墓地・繰出位牌(過去帳)
菩提寺(法樹院) 福澤家の墓地 福澤家先祖の墓
福澤家の墓(新築) 福澤家の家紋 福澤家の繰出位牌3
 繰出位牌・菩提寺
①繰出位牌に貴重な記録が
 家系図の祖、「福澤市兵衛廣時(承応
3年/1654);妻 福松(貞享3年)下之郷 横関佐衛門 次女」である。目標の「天文23年(1554)小県郡福沢昌景」まで、100年線引きが伸びればと儚い期待で繰出位牌を探る。繰出位牌は薄板に毛筆書、位牌箱仕様のケースに入っているとの記憶であった。1ケースと記憶していたが3ケースもあり、何と両面使いと予想外、古いものなので判読不能は想定内。そこから思いがけない宝物、何と「天文」の後「弘治3年」(1557)が1枚、「天文20年」(1551)が1枚、「天文」より5代先の「明應2年」(1493)が1枚確認できた。俗名は知る術なし。
 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應二年五月二十日 「大禅定門」は「居士」の上位と初見の位号。
②現在の菩提寺は「法樹院」
 法樹院さんに行けば何か判るかも知れないと姪を促す。姪は「あれっ、知らなかったの?」と即答。「法樹院」は明治以降の菩提寺。廃仏毀釈で旧菩提寺は廃寺になったので古い記録はないという。下之郷に由緒ある「生島足島神社」がある。「長福寺」(康保
2年創建と古い)と「神宮寺」(明治の廃仏毀釈で廃寺)の2寺だった。実家の菩提寺は、廃寺になった「神宮寺」であるとか・・・・
 繰出位牌より探し出した三枚の位牌
明應2年(1493 天文20年(1551  弘治3年(1557
左端は最も古く先祖より161年前、「明應2520日 龍光院殿山洞源清大禅定門」。中央は、「天文2044日 清光院壽覺妙相大姉」何某の妻であろう。右端は、「弘治365日 光現院覺忠誓本居士」。享年に6年の差、夫婦かと思われる。
 家系図で、先祖一代目は「福澤市兵衛廣時(承応3年/1654)であった。判読不能の中から貴重な3枚を見付け出すことが出来た。左端の繰出位牌にある「龍光院」とは「塩田北条氏の菩提寺」と同名だが意味は不詳。
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 福澤家の家系図(令和5420日/2023 ○印追加)・・・・年表(福沢氏他関連史との対比) 家系図
○不詳 明應2 1493 龍光院殿山洞源清大禅定門 繰出位牌で判読出来た最古
妻 不詳 不詳  - - -
○不詳 弘治3 1557 光現院覺忠誓本居士
妻 不詳 天文20 1551 清光院壽覺妙相大姉 光現院の妻と推定
 不詳 寛永4 1627 成圓院願譽宗本居士
妻 不詳
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俗名の前に符ってある番号は家系図の先祖からの連番(ほぼ同年代にある意味は不詳)
①福澤市兵衛廣時 承応3 1654 福澤院月居宗泉居士(福澤家先祖の墓 左端)今迄の祖
妻 福松 貞享3 1686 自性院空譽理貞大姉
○不詳 延寶元 1673 月西宗入禅定門   夫婦だろうか「禅定門」「禅定尼」
○不詳 寛文2 1662 □□源誉□□禅定尼  どのような方であろうか
○不詳 延宝2 1674 横関院理覚源智居士 推測 ①妻 福松さんの実家は横関家
○不詳 宝永3 1706 冬雲□岩禅定門   気になる繰出位牌
○不詳 享保3 1718 福受院□傳源□□□福澤家先祖の墓 右端
②福澤勘兵衛好時 元禄10 1697 家系図
妻 不名 元禄14 1701 家系図
○不詳 元禄11 1698 受徳院覚應玅正大姉福澤家先祖の墓 中央好時の妻?
③福澤平治右衛秀時 不詳  - - - 冬雲□岩禅定門 宝永3年(1706)繰出位牌で没年が近い  
○不詳 正徳2 1712 桂香院松誉芳室大姉  秀時の妻
○不詳 延享3 1746 無翁宗智居士    気になる繰出位牌
④福澤源左衛門頼時 明和5 1768
妻 不名 不詳  - - -
○不詳 明和3 1766 受法院智光讃大姉 頼時の妻?
⑤福澤勇蔵時澄 安永8 1779 芳譽道照居士 安永81779)  繰出位牌
妻 のぶ 享和4 1804 照譽壽榮大姉 享和41804)  繰出位牌
⑥福澤時慎 天保8 1837 龍便淵山居士 天保81837)  繰出位牌
妻 不名 弘化4 1847 虎月嘯月大姉 弘化41847)  繰出位牌
⑦福澤勇治宥時 慶応4 1868 賢林院秀福澤道居士(74)号;若水
妻 志げ子 明治4 1871 徳壽院諦山喜淳大姉(68
⑧福澤源左衛門時粛 慶応2 1866 福植院田譽澤聖賢薫居士(42
妻 だゑ 明治40 1907 福壽院澤譽潤室智薫大姉(80
⑨福澤謙左衛門知義 明治43 1910 曾祖父 福田院生誉澤善潤戒居士(66
妻 政子 明治15 1882 曾祖母 温譲院恭誉柔順智貞大姉
後妻 てる 大正5 1916     智福院徳譽惠淳貞瑞大姉(68
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 是より祖父母、祖母とは同じ部屋で過した時期もある。祖母は高校受験時に亡くなった。
⑩福澤司      昭和12 1937 祖父 福徳院還誉浄國直道居士(61)           
妻 たけじ 昭和38 1963 祖母 澤祥院順譽浄刹寿香大姉(87)坂城町 小宮山家
⑪福澤深見 平成3 1991 父 徳厚院深誉福翁寿仙居士(92
妻 多美 昭和59 1984 母 智照院薫譽徳香栄鏡大姉(83)東部町 竹内家
⑫福澤謙時 平成22 2010 兄 福報院謙誉田豊勤行居士(80
 「龍光院殿山洞源清大禅定門」(福澤何某としよう)、明應2年 (1493)。これより26年遡ると「応仁元年」で「戦国時代」が始まった最初の元号である。福澤何某の寿命は26年とは思えない。仮に享年60才としてみよう。1433年、室町時代のど真ん中、かつ「塩田福沢氏」の時代に合致する。
 「塩田福沢氏」には、福沢入道像何(文安・享徳)、福沢入道沙弥像阿(長禄-寛正)、福沢左馬助信胤(応仁・)福沢左馬助信胤(文明)、福沢五郎清胤(文明)、福沢入道沙弥頭賢(文明)、福沢左馬助政胤(長享)と名を連ねている。歴史書では「福沢」表示なるも、信濃史料の古文書では「福澤」と実家の戸籍謄本と同じである。
 塩田城自落後の福沢氏の去就
 武田軍に再度敗れた村上義清は再び越後へ逃れ、上杉謙信より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。
 「保元の乱」(
1156)・「平治の乱」(1160)に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にあり、年中行事を本家へ報告し、お伺いを立てた記録が残っていると伝えられる。福沢氏はこの縁を頼って伊予(愛媛県)へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩(大分県中津市)奥平家(未詳)への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢氏、その子孫は無事に幕末(1853-1868)を迎えた。
 塩田城が自落した頃、塩田福沢氏(誰なのか特定されていない)には幾人も居たはず。福沢氏の中で「坂木の福沢の里」「塩田平」で身を潜め生き延びた者等が居ても不思議でない。
 「福泉寺」(坂城町)に「福沢薩摩守政隆公」の位牌(戒名;福泉院殿仏光法隆大禅定門)が残り、福泉寺を創建したのは「天正年間」(1573-1592)。実家の先祖「福澤市兵衛廣時」(戒名でない)、享年「承応3年」(1654)。「薩摩守」、いかにも偉そうな名前だ。「市兵衛」、なんと庶民的な名前だろう。「薩摩守」と「市兵衛」の生存年次は重複する。
 現家系図の先祖(先代)より161年前、「明應2520日 龍光院殿山洞源清大禅定門」、他の過去帳にない特別な意味に興味が更に深まった。「神宮寺」は祈祷寺、菩提寺は「龍光院」であったとすれば、正に「塩田北条氏」の菩提寺と同一となる。明治の廃仏毀釈により「神宮寺」は廃寺となり、仏、仏具等は一部は長福寺に預けられ、他は各寺院に配られたようです。
 「生島大神」は万物を生み育て生命力を与える神、「足島大神」は国中を満ち足らしめる神という。延長5年(927)成立の「延喜式」神名帳では、信濃国小県郡に「生島足島神社二座 並名神大」と記載され、名神大社に列し、宮中の神祇官西院で祀られる神々23座のうちに「生島神・足島神」の記載があり朝廷とつながりの深い神々であることが知られる。生島足島神社には皇室や武将の崇敬が篤く、北条国時が社殿を営繕、真田昌幸・信之らの武将が神領を寄進し社殿を再建するなどの崇敬を表している。また、武田信玄が上杉謙信との戦いに際し奉じた直筆の願文等が現在も「生島足島神社文書」(国の重要文化財)として残されている。
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 取り壊された「実家」(古い家屋)から歴史的背景を考察したい
元和08 1622 上田藩主、真田信之松代へ移封。上田へは小諸より仙石忠正入部。
大湯玄斉湯の名があり、お茶屋敷があって領主湯治の旅舎として利用された。
宝永03 1706 上田藩主、仙石政明但馬出石(兵庫県)に移封松平忠周出石より上田へ。
宝永指出帳できる(松平氏が上田領全村に命じ一足の形式で作らせた各村の村勢要覧)
・湯五ヶ所 大湯、大師湯、長命湯、石湯、こが湯旅舎院内四軒大湯十六軒
・お茶屋(上田藩主の保養所)一軒 ・御用所一軒
 江戸時代は上田城のお姫様などが別所温泉へ入湯に行く際の御休憩所として使われていた。その時代の家屋に私自身も暮らしていた。父から聞いた記憶が残る。
 考察(福沢氏と実家福澤家とに関係はあるのか・・・・
 福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城しており、天文22年(1553)、武田信玄に攻められて落城するまで少くも百数十年間、村上氏の代官として塩田城を管理していた。
 福沢入道像何(文安)・福沢入道儀何(享徳)・福沢入道沙弥像阿(寛正)は同一人物と仮定、福沢左馬助信胤(応仁)・福沢左馬助信胤(文明)、福沢五郎清胤(文明)、福沢入道沙弥頭賢(文明)、福沢左馬助政胤(長享)。文安5年(1448)から長享3年(1489)の41年間に少なくても5名で9回登場している。その間隔は31回・55回・61回・71回と短期間での登場である。「近年の経営者1.4人に相当する」(ひとつの企業の寿命は概ね30年)、この時代の福沢氏は名前を変えない限り5名(親子・兄弟・親族かは不詳)の城代が存在したと推察する。この時代に生きた「福澤家」の先祖「龍光院殿山洞源清大禅定門」(明應2年、1493)は「何者」であったか・・・・
 長享3年(1489)福沢左館助政胤より天文13年(1544)福沢顕昌まで55年間、塩田城は福沢氏が管理していたが、この間の「福沢氏」の名前は不詳である。天文22年(1553)に塩田城自落し、天文23年(1554)に福沢昌景の名前が出るも、天正11年(1583)上田城の完成により廃城になった。
 村上氏とは別行動で、福沢氏(一族全員ではない)は伊予へと落ち延び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めたという。福沢昌景が去り、福沢薩摩守政隆公が「福泉寺」(坂城町)を創建した「天正年間」(
1573-1592)まで、少なくとも20年間の福沢氏の去就は未詳。福沢顕昌と福沢薩摩守政隆の関係は・・・・
「福沢薩摩守政隆公」が創建した「福泉寺」(坂城町)とお位牌「福泉院殿仏光法隆大禅定門」
 この頃に福澤家には「清光院壽覺妙相大姉」(天文201551)、「光現院覺忠誓本居士」(弘治31557)、「成圓院願譽宗本居士」(寛永41627)、3名の過去帳がある。この方々と、更に27年後に現れる今迄の先祖「福澤市兵衛廣時」(福澤院月居宗泉居士り位牌)は、「塩田福沢氏」との関係は・・・・

毎日の校正で遂に夢を
話し掛けてきたのは父かと・・・・いや見知らぬ入道(龍光院殿山洞源清大禅定門)が何やら・・・・
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 ファミリーヒストリーの結論(私は福澤深見の末っ子 三雄/昭和22年生 本記事筆者である)
 これまでの定説は「塩田福沢氏=坂木福沢氏=村上福沢氏」であった。福澤家の先祖(家系図)筆頭は「福澤市兵衛廣時」(承応3年/1654)。今回の3枚の過去帳と菩提寺変更から新たな考え方が生まれた。
 「塩田福沢氏」には「北条福沢氏」と「村上福沢氏」が存在したのでは・・・・。それが学術的に認められれば、実家「福澤家」は「北条福沢氏」であろうと想う。なれば、「塩田福沢氏」は「村上義清)以前に「塩田」から「坂木」へ「北条氏→村上氏」家臣へとなったのではという説も考えられる。父の話しにあった名前に付された「平」は「時」の記憶違いかも知れない。名にある「時」は「塩田北条氏」で多用されている。
 その3名の先祖は村上義清が生まれる以前に生きた先人たちである。先に記述した「塩田福沢氏」の福沢入道像何(文安・享徳)、福沢入道沙弥像阿(長禄-寛正)、福沢左馬助信胤代(応仁・)福沢左馬助信胤(文明)、福沢五郎胤(文明1479)、福沢入道沙弥頭賢(文明)、福沢左馬助政胤(長享)・・・・この人達、信濃史料古文書に記された年次は1448-1489である。
 我想うに、この方々のどなたかの戒名が「龍光院殿山洞源大禅定門」(享年1493)であったとしても不思議ではない。龍光院殿山=北条氏の塩田城=弘法山、洞源=起源が同一、胤=子孫。そう考え福沢氏の連名に目を向ける。何故か「福沢五郎胤」の「」に目が止まる。「生前年次は見事に重なり」「共通文字と位置」が語る関連性。参考に、「福沢薩摩守政」とその戒名「福泉院殿仏光法大禅定門」を比べてみましょう。共通点が2つも!
 福澤家の先祖考・・・・「塩田福沢氏」の世に生きた先祖に合掌
名前が出てくる福沢氏は(福沢入道儀阿から福沢薩摩守政隆まで)一人ではない。
 塩田城と実家の距離は現在の道路(徒歩)で一里未満(
3.5km、徒歩48分)、馬でなら常歩で35分・速歩で14分・駈歩なら8分、充分なる通勤圏内、兵士・職人・下働き等々であっても構いません。ただ、親分さんと同じ「福澤」を名乗って許されるとは思いません。苗字は平安時代の終盤から付けられ始めたようです。
歴史上の人物
(歴史上の福沢氏と先祖の対比)
光現院覺忠誓本居士
弘治
3年/1557
龍光院殿山洞源清大禅定門
明應
2年/1493
 福沢入道儀阿 享徳3年/1454 103年後 39年後
 福沢五郎清胤 文明11年/1479 78年後 14年後
 福沢左館助政胤 長享3年/1489 68年後 4年後
  村上義清誕生 文亀元年/1501 56年後 8年前
  村上義清葛尾城主 永正17年/1520 37年後 27年前
 福沢顕昌 天文13年/1544 13年後 51年前
 福沢昌景 天文23年/1554 3年後 61年前
 福沢氏塩田荘支配 天文年間/1550 7年後 57年前
 福沢薩摩守政隆 天正年間/1592 35年前 廣時の親世代 99年前
 塩田城跡から眺める実家周辺、橙色の屋根が菩提寺(法樹院)、その左手に福澤家の墓が指呼できる。福澤家の先祖は一日も欠くことなく530年、これからも塩田城跡(塩田福沢氏)を見守っていくことでしょう。
 「塩田福沢氏」が活躍した時代に、福澤家の先祖(先代)の「龍光院殿山洞源清大禅定門」が同じ塩田庄に身を置いていた。この事実確認が得られたことで大満足です。・・・・「繰出位牌に明應の人花御堂」合掌
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