|
|
|
砥石城全体の古地図掲示板があった。その掲示板に「福沢曲輪」(砥石城跡)の位置が示されていた。これを見たかったのである。「塩田福沢氏を見直す」(寺島隆史氏論文)では、以下のように説明されている。 |
砥石合戦は、天文19年の8月末から10月1日まで続いた。その間にも武田勢の刈田などによる村上方福沢氏領内の被害もかなり大きかった、ということだろう。砥石合戦による小県の村々の被害状況もうかがえる貴重史料、ということにもなる。
砥石城攻めにあたり武田勢は、依田川沿いに北進し砥石城の麓に至っている。福沢昌景寄進状(蓮華定院文書)で見た福沢氏領の内村・尾山(尾野山)はともに依田川流域の村でもあった。また、海野平合戦後のこの時期には、これら以外に砥石城近辺にも福沢氏領があった可能性もあるし、福沢氏の本拠地塩田平自体が砥石城から10kmほどの近距離でもあった。
この合戦は、城の攻略を断念した武田勢が、撤退時に背後から攻めかかられ、砥石崩れという大敗を喫した戦いとしてよく知られている。砥石城には「福沢曲輪」と呼ばれる一郭もある。小県郡における村上方の当時の勢力としては、福沢氏が図抜けた勢力であったことは間違いない。砥石攻防戦の最中は、義清自身が率いる村上勢の主力は北信濃にあったわけであり、砥石城に立て籠もっていた兵力の中心は、福沢勢であったと考えてよいかもしれない。
武田勢は、村上方の主力が砥石救援に駆け付けるとの報を受けて退去を開始したものであった。それにしても一か月余りにわたる砥石合戦は、武田対村上というより、武田対村上方福沢の戦いであったと見た方が、より実態に近いのでは、とも考えられる。
近世の話ではあるが、塩田平は「塩田三万石」と言われた上田藩領(小県郡)の穀倉地帯であった。福沢氏の主力が砥石に籠城していたとすると、福沢領などは敵地として武田勢により思うがままに蹂躙(じゅうりん;踏みにじって荒らす)され、その被害は甚大だったということにもなろう。 |
|
「砥石崩れ」の翌年、天文20年5月26日(1551)に真田幸隆、小県郡砥石城を陥る。更に翌々年、天文22年8月5日(1553)、武田晴信、小県郡塩田城を陥る。砥石合戦での痛手も残り万全の体勢ではなかったと思う。天文23年(1554)、小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に戦乱により賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す。 |