family history Fukuzawa 福澤家の歴史考 |
【鎌倉時代】・・・・塩田北条氏 |
北条国時、北条俊時と3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘3年(1333)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際に、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。・・・・と、「福澤家の歴史」では、巻頭部の「塩田城」の始まりとして書き留めの程度で触れました。 |
立ち上がる北条氏残党(建武時代の地方の反乱) |
元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が帰京すると天皇による親政(建武の新政)が始まります。この親政は、建武3年(1336)10月に終焉しますが、その間平和ではありません。実際、建武2年(1335)8月に足利尊氏が政権から離脱して以降、南北朝時代の前哨戦ともいうべき内乱状態に陥ります。 |
北条氏残党の中では「足利尊氏こそ北条に対する最大の裏切り者」という認識があったのでしょう。本間・渋谷らが鎌倉を襲ったのも足利氏に対する復讐だったと言えます。のちに、北条氏残党は敵であるはずの南朝に属し、北朝の足利勢に徹底抗戦することからも、「足利への恨み」は相当なものだったのです。建武政権に不満を募らせる武士たちは足利尊氏に期待を寄せていきますが、北条氏残党はその尊氏への復讐と北条氏再興のために反乱を各地で引き起こしていたのでした。 |
建武2年(1335)の春には信濃でも反乱が起こりました。この信濃の反乱はやがて建武新政を瓦解に導く「中先代の乱」に発展します。 |
鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児時行を奉じ、「中先代の乱」を起こした。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季、岩松経家、今川範満、小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子・時継ら43人と勝長寿院で自刃した。「諏訪史料叢書」(巻27)に記載されている系図によると、北条時行を鎌倉から脱出させ信濃に連れ出した「諏訪盛高」は頼重と同一人物であるとされる。 |
信濃の反乱 建武2年(1335) | |
07.13 | 諏訪頼重、その子時継・滋野一族等と共に、北条時行を擁して兵を信濃に挙ぐ、 |
07.22 | 北条時行等の軍、信濃を進発して、武蔵に入る、足利直義、諸将を遣はして、武蔵府中等に之を拒がしめんとして利あらず、是日、直義、自ら、同国井出沢に邀撃せんとして敗退す、 |
08.01 | 後醍醐天皇、五壇法を宮中に修して、北条時行・諏訪頼重等の討滅を祈る、また、東大寺等諸寺をして、之を祈らしむ、 |
市河倫房・同助保、小笠原経氏の軍に属し、北条時行の党を、佐久郡望月城に攻めて、之を破る、 | |
08.09 | 是より先、足利尊氏、北条時行を討たんとして、京都を発す、是日、尊氏、時行の軍を遠江橋本に破る、安保光泰等、尊氏の軍に属して功を顕わす、 |
08.14 | 北条時行の将諏訪次郎・塩田陸奥八郎等、足利尊氏の軍と、駿河国府に戦ひて、虜らる、 |
08.18 | 足利尊氏、相模の相模川に北条時行の軍を破る、尊氏の将小笠原七郎父子並びに小笠原彦次郎父子等討死し、時行の将金刺頼秀もまた戦死す、 |
08.19 | 足利尊氏、北条時行の軍を相模辻堂・片瀬原に破り、鎌倉に入る、時行逃れ、諏訪頼重父子等、鎌倉勝長寿院に自害す、 諏訪頼重の孫頼経、諏訪郡原郷に匿れ、藤沢政頼、諏訪社上社大祝となる、 |
08.26 | 堀口貞政、北条時行の党追討の綸旨を、村山隆義に伝へ、一族を催すべきことを促す、 |
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09.03 | 市河倫房等・同助保、小笠原貞宗の軍に参ず、尋で安曇・筑摩・諏訪・小県・伊那の諸郡に北条時行の党を破る |
09.22 | 是より先、市河経助、村上信貞の軍に属して、北条時行の党薩摩刑部左衛門入道等を、埴科郡坂木北条城に攻む、是日、経助、軍忠状に証判を請ふ、 |
12.11 | 村上信貞、足利直義の軍に属して、新田義貞の軍を相模竹の下に破る、直義、その功を賞して小県郡塩田庄を信貞に与ふと伝ふ、 |
北条氏残党狩りは執拗に行われたようだ。もし、「北条流福沢氏」なる一族が存在したならば「どんな形で生き延びた」であろうか。北条流福沢氏の名を隠し、「塩田庄」で生き延びた一族(塩田福沢氏)、室賀峠北鹿に逃げ「坂木」(福沢の地)で生き延びた一族(坂木福沢氏)が居たとしても不思議ではない。(仮説①) 「塩田福沢氏の系譜」をまとめていて「ふと気づいた」ことがある。記録に「不詳」なる期間(41年間)がある。その「不詳」を挟んだ前者を「塩田福沢氏」、後者を「坂木福沢氏」との説はどうだろうか。時が経ち後者「坂木福沢氏」が再起、「村上福沢氏」として「塩田代官」(城主)になった。との考え方である。(仮説②) 「塩田福沢氏」と「福澤家」は同じ時代に存在していたのは事実。福澤家は「本家」、坂木福沢氏は分家であったかも知れない。(仮説③) |
福沢氏の系譜(世代区分に多少無理があるかも) | |
福沢氏系譜(推察) | 室町時代から戦国時代(六世代120年強の一族) |
入道像阿 | 入道沙弥像阿・左馬助信胤 | 五郎清胤・入道沙弥頭賢・左館助政胤・四郎 | 不詳 (自論) | 五郎顕胤・顕昌 | 昌景 |
入道像阿(1448、1454、1455没) 入道沙弥像阿(1459、1465)・左馬助信胤(1469) 左馬助信胤代理・四郎(1459、1474) 五郎清胤(1479)・入道沙弥頭賢(1484)・左館助政胤(1489) 不詳(41年の空白)・・前;塩田流福澤氏 後;坂木流福澤氏 五郎顕胤(1530、1543没)-顕昌(1544) 昌景(1551、1554) |
塩田城関連の年表 | ||||
1277 | 建治03 | 北条義政 塩田荘(塩田城)に館を構える | ||
1333 | 元弘03 | 塩田北条氏の滅亡 | ||
1335 | 建武02 | 村上信貞に塩田荘12郷が与えられる | ||
南北朝時代(1337-1392)末期以前には福沢氏は塩田城に入っていたと考えられる | ||||
1433 | 永享05 | 01 龍光院殿山洞源清大禅定門 享年60なら誕生 | ||
1437 | 永享09 | 村上頼清、幕府ニ降リ、是日、上洛シテ将軍足利義教ニ謁ス、 | ||
1446 | 文安03 | 諏訪社上社御射山祭が始まる | ||
1448 | 文安05 | ① | 諏訪社上社御射山祭頭役 福澤入道像阿 | |
1454 | 享徳03 | ② | 諏訪社上社御射山祭頭役 福澤入道像阿 | |
1455 | 享徳04 | 福澤入道像阿死去 | ||
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1459 | 長禄03 | ③ | 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿 | |
1462 | 寛正03 | ④ | 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿 | |
1465 | 寛正06 | ⑤ | 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿 | |
1468 | 応仁02 | 村上顕国 坂木に移り葛尾城を拠点とする | ||
1469 | 文明01 | ⑥ | 諏訪社上社御射山祭 代官福澤左馬助信胤 | |
1474 | 文明06 | ⑦ | 諏訪社上社御射山祭 村上知行代官福澤左馬助信胤 | |
1474 | 文明06 | 村上政清 塩田庄を領有下(実質福澤氏)に置かれていたことが上記記事より伺える | ||
1479 | 文明11 | ⑧ | 諏訪社上社御射山祭 福澤五郎清胤 | |
1484 | 文明16 | ⑨ | 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥頭賢 | |
1489 | 長享03 | ⑩ | 諏訪社上社御射山祭 村上福澤左馬助政胤 | |
1493 | 明応02 | 01 福澤何某/龍光院殿山洞源清大禅定門(没) | ||
1501 | 文亀01 | 村上義清 村上顕国の子として葛尾城で誕生 | ||
1520 | 永正17 | 村上義清 家督相続し葛尾城の当主になる | ||
1530 | 享禄03 | ⑪ | 蓮華定院宛契状 福澤五郎顕胤契状 | |
1541 | 天文10 | 村上義清 海野平合戦で小県郡掌握 |
1543 | 天文12 | 福澤五郎顕胤死去 | ||
1544 | 天文13 | ⑫ | 福澤顕昌(修理亮)伊勢大神宮宛寄進状 | |
1547 | 天文16 | 蓮華定院宛書状 塩田以心軒真興書状 | ||
1548 | 天文17 | 村上義清 上田原の戦い | ||
1549 | 天文18 | 蓮華定院過去帳日坏 預修前匠作舜曳源勝禅定門 | ||
1550 | 天文19 | 村上義清 砥石崩れ(砥石城落城) | ||
1551 | 天文20 | ⑬ | 福澤昌景書状 | |
1551 | 天文20 | 村上義清 砥石城落城 | ||
1553 | 天文22 | 村上義清 葛尾城自落、塩田城自落 | ||
1561 | 永禄04 | 川中島の戦い(第四回大激戦)天文22年の第一回~永禄07年の第五回 | ||
1573 | 元亀04 | 村上義清 越後で病死 | ||
1583 | 天正11 | 上田城完成に伴い廃城(真田昌幸/幸村の父) |
村上氏の歴史 参照記事;戦国大名探究(http://www2.harimaya.com/) |
頼清は永享9年(1437)、自ら足利将軍義教のもとに出仕している。おそらく、濃村上氏は信貞系から信貞の弟の義国系に交替したものとみられる。それを裏付けるかのように、この時期における村上氏の系譜はかなりの混乱を見せている。しかも、「尊卑分脈」(日本初期の系図集)の村上氏系図には義国が記載されず、村上氏の世系をたどる上で相当の困難さを残している。 |
信貞は信濃国にあって、建武2年(1335)諏訪氏の支援を得て蜂起した北条高時の遺児時行に呼応する信濃の北条党鎮圧のために、「信濃惣大将」として信濃各地に出兵して活躍そたことが「市河文書」などから知られる。信貞が戦功の賞として宛行われた塩田荘が、文明6年(1474)ころには頼清の孫と推定される政清の領有下に置かれていたことが「諏訪御符礼之古書」に記されており、これからも信濃村上氏の嫡流の系譜、所領領有関係が、信貞系から義国系に移っていたことは確かなようだ。 |
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加えて、応仁2年(1468)、政清は平安時代末期の村上盛清以来、村上氏発祥の地としてきた更級郡村上郷から、千曲川東岸の埴科郡坂木郷に居を移して本拠としているのである。こうして、坂木郷を本拠とした村上氏は、同郷に近接した小県郡海野荘の海野氏を攻めてその所領を奪うなど、戦国乱世を目前に控えて武力による領域支配を押し進めていった。 |
政清の跡継ぎは政国、父が海野領に侵攻した際、政国も軍に加わり海野氏幸を敗死させたと「諏訪御符礼之古書」などに記されている。政国の子顕国の事蹟については史料を欠き不明な点が多い。坂木郷を根拠地として埴科郡制圧を進めるとともに、村上氏勢力の整備と拡充を図ったであろう。 |
戦国村上氏の家督を継承したのは義清。義清は坂木郡内の葛尾城を居城にして領土拡大を画策し、天文10年(1541)、甲斐の武田信虎と謀って海野棟綱を攻め、海野一族を上州に追い払った。義清の代で村上氏は、北信濃四郡の強豪としてその武威をおおいに高めた。その後、甲斐の信虎はクーデターによって駿河に逐われ、武田氏の家督を晴信が継ぐと、村上氏は小笠原・諏訪氏と結んで武田晴信に先制攻撃をかけたが武田勢の攻勢によって退けられた。以後、晴信は信濃侵攻を急ピッチに推進、信濃の諸豪は晴信の攻勢にさらされる。 |
村上氏の簡略系譜 |
信泰-義日 ∟国信 ∟信貞 ∟義国-頼国-国衛-国清-満清-政国-顕国-義清 | 国信-国清-頼清-国衛----政清- |
「村上氏の歴史」に名を連ねる信貞(建武2年/1335)/塩田北条氏滅亡から義清(天文10年/1541)海野平合戦で小県掌握までの系譜(200年余)を抜き出してみた。 |
諏訪御符禮之古書(信濃史料)・・・・文字変換、読み易さより必要以外代字にしてある |
諏訪御符禮之古書(信濃史料)に、「諏訪社上社御射山祭」の最初の記事は「文安4年」(1447)で、「塩田郷」「坂木郷」ともに登場するのは「文安5年」(1448)からであり、祭事は毎年行われている。 |
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①福沢入道像阿(文安5年/1448)を見てみよう □;変換文字ナシ |
七月廿七日、諏訪社上社御射山祭、小県郡塩田郷等、ソノ頭役ヲ勤ム、 塩田、御射山御苻礼五貫六百六十文、頭役五拾六貫文、福澤入道像何、次年御教書之礼如御苻之礼、神鷹・神馬、此年ハ福澤殿代官□田道義勤仕候、 |
・・・・とあり、ここで見逃していた「信濃史料」の前項を列記しておこう。 |
五月五日、諏訪社上社五月會、埴科郡坂木郷等、ソノ頭役ヲ勤ム、 坂木、五月會御苻礼三貫三百文、御鉾本一貫三百文、使一貫文、頭□百貫文、代官重富之高信、 |
・・とあり、この頃の坂木郷には「村上顕国」は未だ入郷していない。ここからは推察になるが、福沢氏は村上氏の家臣では有り得なく、仮に出身が坂木であったとしても、塩田荘に館を構える一族とするのが筋かと思う。(仮説②) 福澤家伝承の「龍光院殿山洞源清大禅定門」は、それ以前から住んでいるので「坂木福沢流」(村上)でなく「塩田福沢流」(北条)とする前述の考え方も出来よう。 |
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②福沢入道像阿(享徳3年/1454)を見てみよう |
七月廿九日、諏訪社上社、同社明年御射山祭ノ頭役ヲ、小県郡塩田郷等ニ充ツ、 塩田庄、代官福澤入道儀何、御苻之礼三貫三百文、御鉾本一貫三百文、使一貫文、頭□六拾貫文、神鷹・神馬御教書之礼如各、御苻之時、次年入道死去之後、葦毛馬一疋進上、 |
・・・・とあり、ここで見逃していた「入道死去」の項を朱記に表示しておこう。同じく、「信濃史料」同年に |
五月五日、諏訪社上社五月會、埴科郡坂木郷等、ソノ頭役ヲ勤ム、 坂木、五月會、代官飯野左京亮信宗、御苻礼三貫三百文、御鉾本一貫三百文、使一貫文、頭□百貫文、神鷹・神馬御教書之礼如各御苻、 |
・・・・とあり、同じく「村上顕国」は未だ移住していない。ただ、「代官福澤・・・・」とある。再び、推測であるが、「代官」の意味は「村上の代官」ではなく「坂木の代官」「塩田の代官」という「郷」の代官という意味ではなかろうか・・・・。明記すべきである |
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③福沢入道沙弥像阿(長禄3年/1459)を見てみよう |
七月廿九日、諏訪社上社、同社明年御射山祭ノ頭役ヲ、高井郡亘里郷等ニ充ツ、 右頭、塩田庄、福澤入道沙弥儀何、御苻之礼三貫三百文、御鉾本一貫三百文、使一貫文、御教書同前、神鷹・神馬ハ代一貫文、頭□五拾貫、 |
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④福沢入道沙弥像阿(寛正3年/1462)を見てみよう |
七月廿九日、諏訪社上社、同社明年御射山祭ノ頭役ヲ、筑摩郡會田郷等ニ充ツ、 右頭、塩田庄、福澤入道沙弥儀何、御苻之礼三貫三百文、御鉾本一貫三百文、使一貫文、御教書同前、神鷹・神馬ハ代一貫文、頭□五拾貫、 |
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⑤福沢入道沙弥像阿(寛正6年/1465)を見てみよう |
七月卅日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、埴科郡船山郷等ニ充ツ、 左頭、塩田庄、福澤入道沙弥像阿、御苻之礼五貫六百文、使御教書五貫六百文、神鷹・神馬、代官□田胤長、使孫六、 神馬代二貫文、福澤入道像阿、使孫六、頭□五拾貫、 |
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⑥代官福沢左馬助信胤代(文明1年/1469)を見てみよう |
七月廿九日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、伊那郡大崎・名子郷等ニ充ツ、 左頭、塩田庄、代官福澤左馬助信胤代、初而御苻礼合五貫六百頭□五拾貫、御教書札同前、神鷹・神馬ハ、御教書札、 福澤信胤五貫六百六十文、神馬代一貫五百文、四郎殿請取、 |
・・・・とあり、ここでは「四郎」は誰を指すかという文面解釈より、「四郎」の存在が気になる。次に出てくる福澤氏は「五郎」というので、「四郎」は城代として名の出てこない人物かと思う。 此処の「代官」は「郷」の代官であり、村上氏の家臣では「ない」と思える。 |
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⑦村上知行代官福沢左馬助信胤(文明6年/1474)を見てみよう |
七月卅日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、小県郡塩田庄等ニ充ツ、 上増、塩田庄、村上知行代官福澤左馬助信胤、御苻礼五貫六百六十六文、御教書同前、神鷹・神馬栗毛、五貫六百六十六文、同福澤左馬助信胤、使四郎殿、頭□五拾貫、 |
・・・・とあり、「知行」(大名が家臣に俸給として土地の支配権を与えること)、塩田庄が村上政清の領有下に置かれていたことが解る。その村上氏は、村上政清(顕国の祖父、義清の高祖父)だが直系ではない。 是より「村上」の名が入っている。「家臣」の意、「知行」の肩書の意、何となく後者のように思える。 |
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⑧福沢五郎清胤(文明11年/1479)を見てみよう |
七月卅日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、伊那郡飯田郷等ニ充ツ、 左頭、塩田庄、村上兵部少輔政清知行、代官福澤五郎清胤、御苻祝五貫六百六十六文、使路銭一貫使□六、御教書祝五貫六十六文、使銭一貫、神鷹・神馬神長取候、五拾貫、 |
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⑨福沢入道沙弥頭賢(文明16年/1484)を見てみよう |
七月廿九日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、佐久郡野澤郷等ニ充ツ、 左頭、塩田庄、村上福澤入道沙弥頭賢、御苻礼五貫六百六十六文、使□六、御教書祝五貫六十六文、使□六、頭□五拾貫、御苻上御教書礼五貫六百六十六文、神鷹・神馬神長取候、 |
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⑩福沢左馬助政胤(長享3年/1489)を見てみよう |
七月卅日、諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役ヲ、筑摩郡浅間郷等ニ充ツ、 右頭、塩田庄、御苻礼五貫六百六十六文、村上福澤左馬助政胤、使□六、御教書札五貫六百六十六文、神鷹・神馬何も神長取候、頭□七拾貫、 |
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蓮華定院宛書状 |
享禄03年(1530)、蓮華定院宛契状 福沢五郎顕胤契状 天文13年(1544)、福沢修理亮顕昌寄進状 天文16年(1547)、塩田以心軒真興(福沢一族庶家、重臣)書状 天文18年(1549)、預修前匠作舜曳源勝禅定門(蓮華定院過去帳日坏) 天文20年(1551)、福沢昌景書状 |
福沢五郎顕胤契状 | 福沢顕昌寄進状 | 塩田真興書状 | 福沢昌景書状 |
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「発給・発出文書より見る福沢氏」として、寺島氏は文書の添付と福沢氏の塩田城主的存在について考察を加えられておられる。一般論では「村上塩田城」と紹介されているが、実質的には「福沢塩田城」であると・・・・ |
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塩田福沢氏の深堀り |
page.2 「福沢氏の系譜」で触れた[
不詳(41年の空白)・・前;御射山祭 後;村上義清・蓮華定院]、前者は「神社」、後者は「寺院」である。 「塩田福沢氏を見直す」(寺島隆史氏)が「未完成の前山寺五重塔」で、『塩田城主村上福沢氏の極盛期は、前述の通り海野平合戦の戦勝により支配領域を大きく拡大した天文一〇年(一五四一)より二二年の塩田落城までの間であったと言える。小県では他を圧する最大の領主になっていたことは確かである。だが、それはまた、福沢氏が滅亡への道をたどることになった時期でもあった。繁栄の一方で、不安な空気もただよう中、現世利益の伊勢神宮に神領を寄進し、高野山蓮華定院には死後の冥福の祈念をしきりに依頼、という面があったのかもしれない。』と述べられている。 「北条氏残党狩り」「村上義清」「戦国時代」等々、心身休まることがなかった時代背景をレビューし「塩田福沢氏」を通じ「福澤家の先祖」を考えてみたい。 |
歴史区分を、①[1277-1333](塩田北条氏)-②[1334-1466](空白の132年)-③[1467-1478](塩田福沢氏前期)-④[1490-1530](空白の40年)-⑤[1541-1554](塩田福沢氏後期)と分けての深堀り。 |
①[1277-1333] 時政-義時-重時(極楽寺)-義政(塩田)-国時-俊時 |
1174 「吉記」信濃国塩田庄、年貢を布で千反進上(代納) 1180 源平合戦(治承・寿永の乱)源氏と平氏の間での戦い始まる 1185 平氏が滅亡、源頼朝が守護・地頭の任命権を得る(鎌倉幕府の成立) 1189 藤原泰衡が源義経を殺害、源頼朝が奥州を平定(奥州藤原氏が滅亡) 1192 源頼朝が征夷大将軍(鎌倉幕府)となる 1199 源頼朝が没し、この源頼家が家督を継承 1203 源実朝が将軍に就任する、北条時政が執権となる 1204 源頼家が伊豆の修行寺で殺害される 1205 牧氏の変(北条時政が平賀朝雅の将軍擁立に失敗し出家)、北条義時が執権に就任 1219 源実朝が兄・頼家の子の公暁に暗殺される 1221 承久の乱、六波羅探題が設置、後鳥羽上皇が隠岐に配流される 1224 親鸞が浄土真宗を開く、北条泰時が執権に就任する 1230 北条重時 小侍所別当から六波羅探題北方に異動 1232 御成敗式目(貞永式目)の制定 1246 北条時頼が執権に就任する 1247 北条重時 六波羅探題北方から幕府連署に異動 1256 北条重時 連署を辞し出家する 1268 北条時宗が執権に就任する |
1284 北条貞時が執権に就任する 1297 永仁の徳政令を発布 1318 後醍醐天皇が即位する 1321 後醍醐天皇が親政を開始する 1324 正中の変(後醍醐天皇の倒幕計画が露呈する) 1331 元弘の変(後醍醐天皇が再び倒幕を計画)、楠木正成が挙兵、鎌倉幕府が光厳天皇を擁立する 1332 後醍醐天皇が隠岐に配流される 1333 後醍醐天皇が隠岐を脱出、足利尊氏が六波羅探題を攻略、新田義貞が鎌倉を攻略、鎌倉幕府が滅亡 1334 建武の新政が始まる |
- 7 - |
初代北条義政は鎌倉幕府の六波羅探題北方、連署を務めた北条重時の5男として生まれ自らも幕府の要職(引付衆、評定衆、二番引付頭、連署等)を歴任し北条時宗の側近として補佐する立場にあった。 元寇(蒙古襲来1度目)の「文永の役」(1274)で、時宗との意見の違いから建治3年4月4日(1277)に善光寺詣でをかっこつけて領地である塩田荘に隠遁し、後年は幕政から距離をおいていた。 塩田時代には居城である塩田城の築城や別所温泉にある安楽寺の再興などを行い弘安4年11月27日(1281)に死去、享年40歳。 |
北条国時は、二番引付頭人、一番引付頭人などの要職を歴任、安楽寺や常楽寺、前山寺、中禅寺などを引き続き庇護している。元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に救援に向かうも新田義貞軍に敗れ北条俊時と共に鎌倉東勝寺で自害した。 |
②[1334-1466](空白の132年) |
②_1南北朝時代(1337-1392) |
第88代後嵯峨天皇(在位1242-1246)が後継者指名なく崩御、当初は「持明院統と大覚寺統が交代で天皇を出しましょう」という話であったが、その後「そんなの納得いかない」と言い出した天皇が何人かいた。この後継者問題に仲裁に入っていた鎌倉幕府が滅び、同じく仲裁すべき室町幕府でも内輪モメが始まり、それどころではなくなってしまった。 |
鎌倉幕府の滅亡後・・・・権力闘争に巻き込まれる信濃武士 |
鎌倉幕府の滅亡後、京に後醍醐天皇の建武政権が樹立(建武の新政)すると、鎌倉には鎌倉将軍府が置かれた。建武政権に反抗する諏訪頼重は、建武2年(1335)、北条時行(14代執権・高時の遺児)を擁立し挙兵する。鎌倉幕府の再興を企て、鎌倉を占拠するのでした(中先代の乱)。この乱は足利尊氏によって鎮圧されますが、その後、北条時行は南朝に属して北朝の足利方と戦うことになります。また、後醍醐天皇の第四皇子・宗良親王(南朝の征夷大将軍)が大河原(下伊那郡大鹿村)を拠点としたこともあり、南北朝時代の信濃国では南朝が優勢でした。 |
反乱が頻発し・・・・強大な大名が育たないまま戦国時代へ |
信濃国は鎌倉府の管轄に移管されたこともあり、鎌倉公方の発言力が強く、幕府が任じた守護(小笠原氏、斯波氏)と鎌倉府が推挙した守護(上杉氏)が並立する二人守護体制が取られました。南北合一(明徳の和約;1392)後、小笠原氏が守護職に復しますが、かねてより小笠原氏と対立してきた国人たちは一斉に反発し、大規模な国人蜂起へと発展します(大塔合戦;1400)。この合戦に敗れた小笠原氏は京都に追放されました。信濃は幕府直割の時期を経て、再び小笠原氏が守護となりました。その後も国人衆の反乱は頻発し、信濃国内には自立した強大な大名が誕生しないまま、応仁の乱(1467)、戦国時代を迎えます。 |
北条氏残党狩り |
元弘三年5月(1333)に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が帰京すると天皇による親政(建武の新政)が始まる。建武二年8月(1335)に足利尊氏が政権から離脱して以降、南北朝時代の前哨戦ともいうべき内乱状態が始まる。反乱は北条氏が守護職を持っていた国(日向・越後・紀伊・越後・信濃)、もしくは北条氏の旧領(陸奥)で北条氏の一族 家人が参加発生。建武政権に不満を募らせる武士たちは足利尊氏に期待を寄せていきますが、北条氏残党はその尊氏への復讐と北条氏再興のために反乱を各地で引き起こした。この親政は、建武三年10月(1336)に終焉する。 |
ここで重要な推察事項をレビュー |
南北朝時代(1337-1392)末期以前には福沢氏(福澤入道像阿の父世代)は村上代官として、塩田城に入っていたと考えられる。一方、福澤家先祖初代「龍光院殿山洞源清大禅定門」(村上流福沢氏なら)、享年60なら永享5年(1433)に塩田庄で孫世代として誕生している。 |
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②_2この時代の村上氏(1393-1466) |
鎌倉幕府統幕と村上氏 |
鎌倉時代末期の村上氏(本文p4参照)は村上信泰、祖先が承久の乱に参陣しなかったことが響き幕府内では忘れ去られた存在であったとされる。歴代の村上氏は鎌倉幕府に対して恩顧の意識はなく、逆にその勢力を認めない幕府に対して不満を募らせていたと思われる。 |
建武の新政と村上氏 |
義光・義隆父子の後は、信泰の子で義光の弟である村上信貞が家督を相続し、義光親子の功績などもあり信濃国での権益と勢力を建武の新政下で一定の枠内で認められ、「信濃惣大将」と称せられるようになった。建武2年(1335)に諏訪氏や仁科氏などが北条高時の遺児北条時行を奉じて挙兵した(中先代の乱)の際には、信貞は乱鎮圧のため京から下向して信濃国各所に出兵し、事実上鎮圧軍の主力として北条与党の豪族たちと交戦した。 |
南北朝争乱と村上氏 |
足利尊氏が天皇に謀反を起こすと、朝廷は東海・東山両道に官軍を発向し、村上義貞は箱根・竹ノ下の戦いにおいて尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍の鎌倉進軍を阻止し、延元2年・建武4年(1337)には越前国金ヶ崎城で村上信貞、村上房義らが義貞軍と交戦し、これらの戦功により小県郡塩田庄を宛がわれた。それ以降、信濃守護職に補任された小笠原貞宗とともに、信濃国内の北条与党の討伐に邁進した。北条時行とその与党が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。 |
惣領家である信濃村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である。 |
この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。畿内では村上貞頼が正平10年(1355)に平等院の末寺善縁寺の下司職を務め、その子孫の村上正貞が幕府の推挙で鎌倉府の寺奉行を務めている。 |
室町幕府との対立 |
村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながり、師国・満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになる。 幕府はそれに対して、幕府の重臣であり足利一門で実力者の斯波義将を信濃守護に補任して、村上氏らの動きを抑え込もうとした。至徳4年(1387)、村上師国は斯波氏の守護代二宮氏の軍と信濃国北部の各所で戦い、斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできずに終わった。 師国の子・村上満信の代にも、信濃守護に補任された小笠原長秀が率いる守護軍と村上満信を始めとする国人勢力(大文字一揆)が篠ノ井で激突し、小笠原勢は撃滅され長秀は京都に逃亡し、守護を罷免されている(大塔合戦;応永7年1400)。その後、幕府は代官として細川慈忠を派遣し、満信ら国人勢力の反乱は鎮圧されたが、村上氏は国人(国衙領民=地方自治の住民)の盟主として一定の役割を果した。 一族には入山氏や屋代氏、小野沢氏、山田氏、今里氏、栗田氏、千田氏、出浦氏、寄合氏の所領は更級郡、埴科郡と水内郡の一部でその間には配下の領地もあって一円支配とはなっていない。他には建武2年(1335)の恩賞で得た塩田荘12郷で信濃守護の威令が及ばなくなると自領の拡大を図る活動が見られる。享徳3年(1454)坂木郷は諏訪上社頭役を務めているが当主村上政清ではなく代官である。寛正5年(1464)にも頭役が割り当てられ代官を謹仕させ同じ頃に政清は他で弓矢の争いをしている記録がある。 |
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③[1467-1478](塩田福沢氏前期) 福沢氏については記載済みにつき省略 |
応仁の乱(1467-1477) 守護大名の没落と戦国大名の誕生 |
応仁の乱の直接の原因は、足利将軍家の継嗣問題と、管領家である斯波・畠山両氏の家督争いであった。将軍足利義政には子がなく弟の義視を後継ぎと定め、管領細川勝元を後見役としたが、その翌年、夫人富子に義尚が生まれた。富子は義尚を将軍に立てようと山名持豊(宗全)に託した。この頃、畠山家では義就と政長が家督をめぐって対立し、斯波家でも義廉と義敏が同じ問題で争っていた。 |
この頃は、鎌倉時代と異なり単独相続が定着し相続者の選び方にも変化が現れた。相続する人物が領国や所領を安定して支配できることが大切で、判断にあたっては家臣がその人物を支持するかどうかが大きな問題だった。そのため、守護大名の家督をめぐる相続争いは、単に当事者だけでなく家臣や国人らを巻き込み、そこに将軍や有力守護大名らの意向も絡んで争いは複雑になり長期化した。 |
文正2年・応仁元年(1467)、斯波・畠山氏の軍事衝突を口火に応仁の乱が勃発する。一方の、細川の東軍は24ヵ国16万、山名の西軍は20ヵ国9万の兵をそれぞれ集めて京都を舞台に激しい戦闘を繰り広げた。 |
戦乱は次第に地方に波及し、守護の領国内にも国人の反乱が起こるようになり、戦闘の当初の目的は失われ始めた。文明5年(1473)、細川勝元・山名持豊(宗全)が相次いで死去すると、戦乱はようやく下火となり、諸将は兵を収めて帰国をしはじめた。こうして京都周辺の争いは文明9年(1477)、うやむやのうちに終わりを告げた。11年におよぶ戦乱の終わった京都の市街は大半が焼き尽くされ、公家や僧侶らが地方に逃れ、天皇即位の重要な儀式も中断するほどだった。 |
この戦乱で領国に帰った守護大名たちが、下克上の風潮によって守護代や有力家臣たちにその地位を奪われはじめた。応仁の乱後、約半世紀あまりの間に、守護大名は次々と滅ぼされ、新しい戦国大名が各地に強力な支配権を確立するようになった。応仁の乱の様々な影響のなかで、最も重要なもののひとつは、こうした守護大名の没落と戦国大名の誕生、つまり戦国時代の開幕をもたらしたことである。 |
④[1490-1530](空白の40年) | |
信濃国の勢力図 | |
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平安時代から室町時代にかけて信濃国には中小の領主がひしめきあっていて、勢力を拡大するための争いが繰り広げられていた。その中から近隣の勢力を従えた有力な国人が各地域で現れるようになった。 信濃国は、高井郡(高梨氏)、水内郡(高梨氏・村上氏)、安曇郡(仁科氏)、更級郡(村上氏)、埴科郡(村上氏)、小県郡(海野氏/真田氏)、佐久郡(望月氏)、諏方郡(諏訪氏)、筑摩郡(小笠原氏)、伊那郡(高遠氏)の10区域で構成されていました。 高梨氏は清和源氏井上氏の一族、村上氏は河内源氏、仁科氏は桓武平氏、海野氏と望月氏は清和源氏の滋野一族、諏訪氏は諏訪大社の神官、小笠原氏は河内源氏、木曽氏は信濃源氏の一族、高遠氏は諏訪氏の一族など、信濃国には名門と言われる氏族が多数存在していました。 |
明応2年(1493)龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門(没) →「源」(位牌)、「玄」(墓石)と異なっている。江戸時代になって追贈法要が行われ、住職が追贈戒名として位牌に書かれ、それを見て墓石を建立したのであろう。繰出位牌は、追贈法要よりかなり経て子孫が書いたものであろう。これより判断すると「玄」が正しいとなる。新たに先祖位牌として作った「源」は、繰出位牌を見て作ったので「源」は改めないといけない。「繰出位牌」を書いた先祖に習い「源」を継承し、ここでは併記の形で残す。 |
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塩田福沢氏を見直す |
塩田北条氏は、塩田庄を本拠とすること三代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じた。 その後この塩田地方は、東信の雄族村上氏(本拠地は埴科坂城の葛尾城にあった)の領有するところとなり、塩田城はその前進基地として、村上氏の代官福沢氏が守ったと考えられる。確かな史料としては、室町前期の文安5年(1448)から福沢氏がここに在城したことを示す文書(諏訪御符礼之古書)があり、以降天文22年(1553)武田信玄の攻撃をうけて落城するまで村上氏の有力な根拠地であった。信玄は天文10年(1541)小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのである。塩田城に拠った村上氏の抵抗がいかに大きかったかをよく物語るものであると同時に、塩田平の戦略的な重要性を如実に示すものといわねばならない。 鎌倉時代、北条氏三代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一として記録されているのである。 |
⑤[1541-1554](塩田福沢氏後期) 当地で起きた戦国時代の前哨戦 |
甲斐国の武田信虎(信玄の父)は天文9年(1540)、佐久地方に兵を出し多くの城を落とした。「妙法寺記」に「一日に城を三十六落とし佐久郡を手にいれた」とある。当時は土塁をめぐらした館も、物見・のろし台・小屋・砦も城といっていたので、佐久地方全域という話ではない。 当時の東信濃の雄「海野氏」は、本領の海野・海善寺・太平寺・東西深井・上下青木のほかに、国分寺・踏入・大久保・長島あたりまで領地を広げ、真田郷一帯にも影響力を持ち、さらに東筑摩郡会田地方まで支配下においていた。 一方、村上氏は塩田平の全域を所領、小県郡・佐久郡へ勢力を広げることを画策していたので、海野氏は邪魔な存在であった。これは逆に海野氏も同じ思いである。 |
海野平の戦い 天文10年(1541) |
天文10年5月(1541)、小県海野平(上田市蒼久保から東御市左岸南西部)で、小県地方としてはこれまでにない大きな戦いが行われた。これが「海野平の戦い」である。 この戦いの先に立ったものは武田信虎であり、これに力を貸すかたちで村上義清と諏訪頼重が兵を出し、戦いに加わった。兵力などは不明だが、戦国大名として次第に力を付けてきた武田勢に、信濃きっての勢力を誇る諏訪・村上勢を合わせると相当の大軍であったことが予想できる。これを迎え撃ったのは、海野氏と海野一族で祢津に拠る祢津氏、矢沢郷に本拠を持つ矢沢氏であった。 村上氏の海野平攻めのねらいは、海野氏の壊滅にあり、戦いに勝利した結果、現在の上田市東部・東御市(旧東部町地域)などの海野氏領が村上氏のものになったと推定される。しかし、天文10年以後、海野氏領に村上氏の家臣が配置されたり、所領を宛行った形跡は残っていない。 この合戦に関係して他の地方でも争いが行われていた。小県郡の浦野に拠る浦野氏は、現浦野・越戸・青木村一帯を領有していた。青木村の山間部には奈良本・田沢・塩原に一族が入り込んで治めていた。海野平合戦に際して村上軍の主力は、浦野氏や内村方面への攻撃に向かったと考えられる。この時、浦野氏と村上氏の争いがどの程度おこなわれたか解らないが、浦野氏が村上氏に屈したことは間違いありません。 |
天文11年(1542)、諏訪頼重の行動を盟約違反とした晴信は高遠頼継と結び諏訪郡へ侵攻し諏訪氏を滅ぼした。次いで決裂した頼継を打ち破り、上原城に家臣・板垣信方を城代として配置し諏訪郡を領国化する。同12年(1543)には佐久郡へ侵攻し大井貞隆の長窪城を陥れる。同13年(1544)には藤沢頼親と結んだ高遠頼継が信濃守護・小笠原長時の支援を受けて再び諏訪郡へ攻勢に出たため、晴信は上伊那郡へ出兵して高遠・藤沢勢を撃破し頼継は没落した。同15年(1546)には再び佐久郡へ侵攻して内山城を陥れ大井貞清を捕らえた。 |
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上田原の戦い 天文17年(1548) |
信濃国上田原で行われた、甲斐国の戦国大名武田晴信(信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失った。合戦自体は村上方にも損害が出ているため痛み分けともとれるが、それまで武田家中の中心だった板垣信方、甘利虎泰を同時に失ってしまった戦いであったため事実上の敗北といえる。 |
砥石城攻略 天文19年(1550) |
武田軍は筑摩方面で大攻勢を展開、小笠原長時を林城に破り、約1ヶ月の間に諸城を殆ど自落させ、松本平をほぼ手中にし、再び村上氏に鉾先を向け小県郡砥石城の攻略にかかりる。村上氏がいつ砥石城を築城したかは不詳、天文19年の時点では塩田城とともに、小県における村上義清の最重要戦略拠点であった。ここを破れば、本原・横尾・曲尾・入軽井沢を経て地蔵峠を越え村上の本拠地の背後に迫ることができ、更に北信濃方面への兵を進めることができる。 |
葛尾城落城 天文22年(1553) |
村上氏は砥石城という小県地方のひとつの戦略拠点を失うも勢力は衰えたとはいえない。塩田城と本拠地葛尾城は健在。信玄は葛尾城を落とし北信濃に踏み込むつもりであった。しかし、上田原の戦い、砥石城攻めで村上氏に遅れをとったこともあり、正面攻撃を避け周りをまず押さえ村上氏の背後を攻める作戦を立てた。 村上氏や北信濃の諸将を欺く諜報作戦を展開し、天文22年(1550)3月中旬甲府を出て、深志・苅谷原方面に出陣し、4月に会田・虚空蔵山を焼き払い麻績を経て更級方面に侵攻した。攻撃を恐れた塩崎氏も屋代氏も急ぎ武田軍に従ったことで、村上氏の周りは武田方に取り囲まれ退路は閉ざされ、葛尾城は自落し村上義清は北信濃へ逃れ、村上氏幕下の小県の室賀氏や更級の大須賀九兵衛は武田方に着いた。その後、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しを図り、同城を守っていた武田方を攻めて於曾おそ源八郎らを討つも葛尾城の命運は尽き、須坂の高梨政頼の元へ走り、政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めた。これにより上杉氏の信濃侵攻の理由もでき川中島合戦の基ができた。 |
塩田城自落 天文22年(1553) |
葛尾城の自落を知った信玄は、5月に一旦甲府へ帰陣し休む間もなく、6月に次なる目的地を村上の残党福沢昌景等が守る小県郡の塩田城に定めた。その塩田城は、独鋸山を背にした弘法山の北斜面に築かれ、広大な山腹一帯に多数の郭を備えた要害なるも、周辺の諸将は度重なる武田方の攻撃で追い払われたり武田方に寝返り頼れる武将もいない状況になっていた。7月25日、信玄は甲府を出発→若神子(山梨県)→佐久海ノ口(南牧村)→28日内山城・30日望月城と進軍し、8月1日には長窪城で陣を整え、和田城を落として城主以下を討ち取り、4日には高鳥屋を攻撃し全員討ち死にさせ、内村城を落城、そして塩田城の後背部を攻略した。これにより塩田城は戦意を失い8月5日に自落した。これで小県郡内から武田信玄に敵対する勢力はすべて撃退され、室賀・小泉氏等も武田配下となり、所領を安堵されました。 |
塩田城落城後の福沢氏の去就 |
武田軍に再度敗れた村上義清は、再び越後へ逃れ上杉謙信より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。平安時代末期の「保元の乱」(1156)・「平治の乱」(1160)に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ、昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にあり、年中行事を本家へ報国し、お伺いを立てた記録が残っていると伝承。福沢氏はこの縁を頼って伊予へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩奥平家への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢氏は無事に幕末を迎えた。・・・・との話もある。 |
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塩田福沢氏と共に生きた福澤家の先祖 |
周囲の城はことごとく皆殺しになっているが、塩田城は自落の道を選んだことで福沢氏は断絶することなく塩田庄(福澤家はその一族であろう)あるいは坂木でそれぞれ生き延びている。 第一世 [龍光院殿山洞源清大禅定門]明応2年(1493)・・塩田福沢氏(前期) 第四世 [光現院覺忠誓本居士]弘治3年(1557) [清光院壽覺妙相大姉]天文20年(1551)・・塩田福沢氏(最盛・末期) 第七世 [成圓院願誉宗本居士]寛永4年(1627)・・現家系図の「祖父」になる |
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実家の旧家屋;江戸期建造、昭和42年(1967)取り壊し |
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福澤家墓地 | 塩田城跡より眺める実家周辺 |
画像中央の一段高い場所に、第八世(承応、貞享)・第十世(元禄)・第十一世(享保、正徳)と従来家系図の先代辺りのご先祖様(是より俗名判明)の墓が並んでいる。中央後方に第一世代(明応)のご先祖様の墓がある。今回の調査で、従来の家系図の初代(第八世)の父(寛永)の繰出位牌も判明した。 | |
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塩田城跡入口 | 塩田城跡にある北条国時の墓 |
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塩田庄の歴史(追記)平安時代末期以降 |
塩田庄は裕福であった・・・・承安4年(1174)『吉記』八月十三・十六日記事 →東寺の最勝光院から依頼されていた、信濃国塩田庄の年貢を布で千反進上したい申し出を言上。 |
「塩田」という名が初めて史料の上に出てくるのは、平安時代の末期、承安4年(1174)、約850年前のこと。その頃の朝廷の重臣の一人に、藤原経房という人がいた。この人(平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。源頼朝の鎌倉政権(後の鎌倉幕府)より初代関東申次に任ぜられた。吉田家(後の甘露寺家)の祖。)は、大納言という高い位につくほどの人であったが、生前こまめに日記をつけていた。その日記の一部分(約18年分)が残っていて、『吉記』と呼ばれ、日本史研究の上からは大へん重要な史料となっている。 |
最勝光院は、後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺である。そのとき後白河法皇はじめ多くの貴族が、この寺のため三十数カ所もの荘園を寄進したが、その中に信濃塩田庄(寄進地系荘園)があった。そして最勝光院の別当(世話役)は、東寺であり、塩田庄は実際には東寺の支配下になっていた。最勝光院は、時の最高権力者である後白河法皇や平清盛をバックとして創立されたものだけに、「その結構宏麗をきわめ、落成の慶讃会には、天皇・法皇の行幸啓があった」といわれるくらいの寺であったから、ここに寄進された荘園も全国的にみて、富裕で由緒あるところが多かった。塩田庄は、信濃から選ばれたただ一つの荘園であったことをみても、当時中央にあっては、かなり高く評価される土地柄であったと考えねばならない。塩田庄は年貢千段を貢進する事になっていた。仮に「一段=一反」を奈良時代に決められた調布一反とすれば、長さ8.5m、巾57cmの麻布を千反という莫大な量に調製しての貢納。 |
塩田庄がなぜこのように高く評価されたかというと、実はこの地域がふるくから信濃にとっては、政治的にも、経済的にもきわめて重要な場所であったからにほかならない。塩田庄は、その昔-少なくとも今から一千年前は、安宗郷(阿曽郷)といっていたことが、『和名抄』という朝廷が編纂した書物に載っている。この「安宗」という名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(何れも東前山・柳沢両区にまたがっている)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名であると考証されている。今から1300-1400年の昔、日本という国の骨組みができ上りつつある頃、当時文化の先進地であった九州から多くの氏族が大和平野に移り住んだ。そして大和朝廷の国造りに参画し功績を挙げた氏族の中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がいた。この氏族は『古事記』によると神八井耳命を始祖とし、意富臣・小子部連・阿蘇君等と分れ、科野国(=信濃国)の他数カ国の国造(=県知事)に任命されたとの記録。信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したと信濃古代史研究家の説で、その根拠は塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などの「アソ」と称する地名が残り生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存する。 |
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信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したのだろうと、信濃古代史の研究家の説で、その根拠は、塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などの「アソ」と称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存する。国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例、一族の小子部氏の名が小県(小子部の県の意)として残っている。大和政権は、日本全土をその支配下に固めて行く時点で、各国に国府をおき、そこに今迄の国造に代って国守(信濃守・越後守等)を任命し中央集権の実をあげた。信濃国の国府は、いまの上田市内におかれたことは、まず疑う余地がない。信濃国分寺が現にここに所在しているからである。国府の所在地を上田市内に定めたことは、その前代の科野(信濃)の国造所在地が、塩田平にあったことと深い関係があると想定される。 古代の歴史的背景を考えると、平安末期に成立した「塩田庄」という荘園は、政治的にも経済的にも信濃では極めて重い意味を持つところに位置していた。それが、信濃で唯一最勝光院領として撰ばれた光栄を担うことになった理由の一つであろう。平安終期、中央政権を支えていた平家の勢力を打倒しようと、まず旗を上げたのが、源頼朝と源義仲の二人であった。従兄弟であるこの二人は、ほとんど同時(治承4年=1180)に挙兵したが、頼朝は流所であった伊豆を根拠としたのに対し、義仲は隠れていた木曽谷を出てきて、はるか東信濃の地を根拠地としている。そしてその地は塩田平の東境に当る依田城であったことも、塩田平に大きな意味を見出してのことと考えられる。義仲は木曽で育っていたため木曽義仲と名のっていたが、彼が集めた兵力は、東信濃と西上州の武士を中心とするものであったことは、多くの史書が立証するところである。彼はこの兵力を精鋭な軍団に組織し、千曲川筋を下り、北陸道を通って京都に向った。途中必死になって阻止しようとする多数の平家軍を幾度かにわたって撃破し、怒濤のように進撃する軍勢をみて、人は「旭将軍」の名を奉って畏敬した。この戦列に塩田平をはじめ、東信濃の多くの地域の武人が加わっていたことを忘れてはならない。義仲は上京して平家撃退の志は達したが、頼朝や後白河法皇に排除されて「形勢日日に非となり」結局栗津ガ原で戦死してしまう。その後を受けた頼朝は、弟の義経・範頼とともに平家を滅亡させ、幕府を鎌倉に創めて武家政治を開始した。これからが所謂「鎌倉時代」である。頼朝が第一に着手したのは、全国枢要の地に腹心の地頭をおき、幕府の直接の指揮が及ぶようにすることであった。その枢要の地として信濃で、まず撰ばれた土地の一つが、この塩田平である。文治元年12月(1185)、彼は全国惣地頭に補せられると、直ちに翌文治2年の正月、信濃国小県郡塩田庄に地頭を任命している。任命されたのは、彼の信頼が最もあつかった惟宗忠久(後の島津忠久)であった。このときの地頭補任状は、信濃における確実な地頭補任状としては最初のものであり、全国的にみても最も早いものである。塩田地方を、いかに頼朝が重視していたか想像することができよう。 |
鎌倉幕府における源氏の政権は三代にして終った。これに代わったのが北条氏である。北条氏も頼朝と同じように信濃国を大変重要視したことは、信濃国守護(今の県知事)として、北条氏で宗家(本家)に次ぐほどの家柄である北条重時およびその家流をもって宛てていることから想察できる。その北条重時が信濃国の守護に任命されたころから、この塩田平は、「信州の学海」という名によって、信州一円に鳴り渡るようになる。 信州の生んだ鎌倉時代の名僧(天下第一といわれた京都南禅寺の開山)無関普門という人の行跡の記録をみると、この方が幼時塩田平に学んだことを記して、塩田は「信州の学海」と言われているところで、勉強に志すものは、みなここにやってきた・・・・という意味のことが記されている。(嘉禄元年1225)頃のこと。 これから25年後と推定されるころ、別所に安楽寺が創建された。開山は樵谷惟仙という高僧で、鎌倉の建長寺(鎌倉第一の名刹)の開山であった蘭渓道隆という名僧と、中国で一緒に学んだ親友の間柄であった。この高僧が別所安楽寺の開山となったということは、それだけで塩田の存在が高く評価されたことを物語っている。安楽寺が、信州では、とびぬけて早くできた禅宗寺院であるという点も、当時塩田平が、文字通り信州教学の殿堂であったことを示唆するものである。20年ほどたった建治3年(1277)北条氏の一門で、時の幕府の連署(今でいえば副総理に当る)という重職にあった北条義政が、引退して信州に入り、塩田に館を構えるのである。義政は、当時の信濃守護北条義宗の叔父であり、執権(総理に当る)北条時宗を補佐して、文永11年の蒙古襲来という国難をきりぬけた人だ。 |
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この重臣が何故このとき引退を決意したかについては、諸説があって定かではない。かつては、流謫(島流し)されたといわれたが、進んでこの地に入ったであろうと塩田北条氏の研究で明らかにされてきた。何故この地を永住の地として撰んだかは、いまだ明確な答が出ていない。周知のように、北条氏はその一門から名越・赤橋・常葉・塩田・金沢・大仏等いくつかの支族が出て、それぞれ幕府に近い枢要の地を根拠としている。 塩田北条氏のみが遠く信濃塩田の地に根拠を求め、この地に3代60余年いて幕府滅亡まで宗家に忠誠を尽しているのは何故か。おそらく塩田の地が幕府にとって極めて重要な意味を持ち、ここが「信州の学海」と称されるように、信濃における政治・文化・宗教の一大中心であったこと等、義政をして本拠を定めさせた基本的な理由になったと推察できよう。ならば、どうして塩田平がそのような土地になっていたか、おそらく鎌倉時代に入って信濃の守護がまずこの地に置かれたからではなかったかという推考が生まれる。確実な史料によれば、信濃守護ということばが最初に出てくるのは、嘉禄3年(1277)『明月記』の記事で、その時の守護は北条重時である。しかし重時の父義時が信濃守護となっていたことを証明する史料もあるので、おそらく北条氏は、信濃の重要性に鑑み、初めから宗家の義時およびその子孫に、直接守護の役を任せていたものであろう。重時が信濃守護となったころ、塩田は信濃の政治・文化の一大中心であったことは前に述べたが、それは義時のころからすでに塩田に守護所がおかれていたと推定したのは一志茂樹博士である。そしてその場所は塩田地方の南に聳える独鈷山の山麓・現在の東前山区にある塩田城あたりと同博士は指摘した。この地には東西3hr、南北2hrにわたる広大な城館跡があり、信濃最大の城館跡と考えられ、「おそらく鎌倉時代における信濃守護所跡で、南北朝以後引き続き村上氏の最も有力な前進基地として用いられた」と同氏は報告書に記している。昭和43年から3年にわたってこの城跡の一部を発掘したが、そこからは主として南北朝以後の遣物が検出された。しかし、この地にはなお広大な地域にわたって中世館跡と覚しき地形、地名等が分布しかつ北条氏の祈願寺という前山寺、同じく北条氏の菩提寺という竜光院なども存在するので、守護所が設置された可能性は、きわめて大きいと考えられている。塩田北条氏は、ここを本拠とすること三代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じた。その後この塩田地方は、東信の雄族村上氏(本拠地は坂木の葛尾城)の領有するところとなり、塩田城はその前進基地として、村上氏の代官福沢氏が守ったと考えられる。確かな史料としては、室町前期の文安5年(1448)から福沢氏がここに在城したことを示す文書(諏訪御符礼之古書)があり、以降天文22年(1553)武田信玄の攻撃をうけて落城するまで村上氏の有力な根拠地であった。信玄は天文10年(1541)小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのである。塩田城に拠った村上氏の抵抗がいかに大きかったかをよく物語るものであると同時に、塩田平の戦略的な重要性を如実に示すものであろう。 鎌倉時代、北条氏三代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一として記録されている。武田信玄はこの土地の重要性をよく認識していたためか、塩田城を落城させると、すぐこの地方の大社生島足島神社(当時は諏訪大明神)に祈願状や安堵状をささげて民心を安定させるとともに、塩田城に腹心の部下飫富氏を置いて東信濃支配の中心地とし、同時に北信濃へ対する前進基地とした。越後から北信濃へ入って来た上杉謙信と武田信玄が一騎打を演じたという川中島の戦いは、これから9年後の永禄4年(1561)のことで、信玄が塩田城に入ってから8年目に当る。天正10年(1582)武田氏が滅亡して後、小県郡一円は真田氏の領有するところとなった。その翌年、すなわち天正11年、現在の上田城を築いた真田昌幸は、城を中心として上田城下町をつくり、ここを小県郡の政治・経済の中心とした。このとき、鎌倉時代から、小県地方の政治・文化の中心であった塩田城と塩田城下町ははじめてその機能を失い、一農村地帯と変っていく。しかし上田藩は、塩田平を「塩田三万石」と称し、藩の穀倉地帯としてきわめて重要視し、藩政初期仙石氏時代には、塩田城の城下町であった東前山に大庄屋をおいてこれを統率させている。遠く一千数百年前の古代から始まり鎌倉・室町期を通して400年前の上田築城に至るまでの塩田平は、常に信濃そして東信濃の政治・文化の一中心であったと解る。この地域が、地方では希にみる「文化財の宝庫」といわれるのも、当然のことというべきであろう。 - 16 - |