family historyⅢ Fukuzawa |
福澤家のルーツは「室町時代中期」 |
生まれ変わりの旅 | ||
昨年(2022)の4月8日、大動脈乖離を発症し救急車からドクターヘリと厚生連佐久医療センターに連携搬送、6時間を越える大手術を経て3週間の入院、結婚記念日の前日の4月28日に退院、大手術時の脳梗塞で左下1/4の視野欠損、普通に生活できる状態で満1年を迎えた。 そこで、「我がルーツ」を極めたいとの気持ちが高まり「生まれ変わりの旅」(タイムスリップ)を計画した。 |
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散り桜命と思ひ拾ひけり | ||
再び眺めることが出来た「ピンクムーン」(4月17日、佐久医療センター2階22号室) |
タイムスリップの道標(旅マップ) |
鎌倉 | 1299 | 4 | 正安 | 1350 | 3 | 観応 | 1452 | 4 | 享徳 | 桃山 | 1593 | 5 | 文禄 | 1744 | 5 | 延享 | |||
1302 | 2 | 乾元 | 1352 | 5 | 文和 | 1455 | 3 | 康正 | 1596 | 20 | 慶長 | 1748 | 4 | 寛延 | |||||
1303 | 4 | 嘉元 | 1356 | 6 | 延文 | 1457 | 4 | 長禄 | 江戸 | 1615 | 10 | 元和 | 1751 | 14 | 宝暦 | ||||
1307 | 3 | 徳治 | 1361 | 2 | 康安 | 1461 | 7 | 寛正 | 1624 | 21 | 寛永 | 1764 | 9 | 明和 | |||||
1308 | 4 | 延慶 | 1362 | 7 | 貞治 | 1466 | 2 | 文正 | 1645 | 5 | 正保 | 1772 | 10 | 安永 | |||||
1311 | 2 | 応長 | 1368 | 8 | 応安 | 1467 | 3 | 応仁 | 1648 | 5 | 慶安 | 1781 | 9 | 天明 | |||||
1312 | 6 | 正和 | 1375 | 5 | 永和 | 1469 | 19 | 文明 | 1652 | 4 | 承応 | 1789 | 13 | 寛政 | |||||
1317 | 3 | 文保 | 1379 | 3 | 康暦 | 1487 | 3 | 長享 | 1655 | 4 | 明暦 | 1801 | 4 | 享和 | |||||
1319 | 3 | 元応 | 1381 | 4 | 永徳 | 1489 | 4 | 延徳 | 1658 | 4 | 万治 | 1804 | 15 | 文化 | |||||
1321 | 4 | 元亨 | 1384 | 4 | 至徳 | 戦国 | 1492 | 10 | 明応 | 1661 | 13 | 寛文 | 1818 | 13 | 文政 | ||||
1324 | 3 | 正中 | 1387 | 3 | 嘉慶 | 1501 | 4 | 文亀 | 1673 | 9 | 延宝 | 1831 | 15 | 天保 | |||||
1326 | 4 | 嘉暦 | 1389 | 2 | 康応 | 1504 | 18 | 永正 | 1681 | 4 | 天和 | 1845 | 5 | 弘化 | |||||
1329 | 4 | 元徳 | 南北 | 1390 | 5 | 明徳 | 1521 | 8 | 大永 | 1684 | 5 | 貞享 | 1848 | 7 | 嘉永 | ||||
1331 | 4 | 元弘 | 戦国 | 1394 | 35 | 応永 | 1528 | 5 | 享禄 | 1688 | 17 | 元禄 | 1855 | 7 | 安政 | ||||
1332 | 2 | 正慶 | 1428 | 2 | 正長 | 1532 | 24 | 天文 | 1704 | 8 | 宝永 | 1860 | 2 | 万延 | |||||
室町 | 1334 | 5 | 建武 | 1429 | 13 | 永享 | 1555 | 4 | 弘治 | 1711 | 6 | 正徳 | 1861 | 4 | 文久 | ||||
南北 | 1338 | 5 | 暦応 | 1441 | 4 | 嘉吉 | 1558 | 13 | 永禄 | 1716 | 21 | 享保 | 1864 | 2 | 元治 | ||||
1342 | 4 | 康永 | 1444 | 6 | 文安 | 1570 | 4 | 元亀 | 1736 | 6 | 元文 | 1865 | 4 | 慶応 | |||||
1345 | 6 | 貞和 | 1449 | 4 | 宝徳 | 安土 | 1573 | 20 | 天正 | 1741 | 4 | 寛保 | 明治 | 1868 | 45 | 明治 |
さあ、旅に出よう。「旧家屋の写真」と「繰出位牌」そして「先祖の墓」を見に・・・・「旅マップ」持参で実家に向かう。旅の出発地は「承応3年」(1654)、水戸黄門さまの後「4代将軍徳川家綱」の時代である。 | |||||||||||||||||||
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福澤家の家系図 平成5年8月(1993) 母方の従弟が作成(父が資料提供) |
①福澤市兵衛廣時 | 承応3申丑年4月没 | 妻 福松 | 貞享3卯年4月没 | 下の郷 横関佐衛門 次女 | ||
②福澤源左衛門頼時 | 明和5戌子年1月没 | 妻 不明 | ||||
③福澤平治右衛秀時 | 不明 | 妻 不明 | 正徳2年1月没 | 松代藩 佐久間小太夫 女 | ||
④福澤勘兵衛好時 | 元禄10年10月没 | 妻 不明 | 元禄14年1月没 | |||
⑤福澤勇蔵時澄 | 安永8巳亥年3月没 | 51歳 | 妻 のぶ | 享和4甲子年1月没 | 当村 高橋栄蔵 女 | |
⑥福澤勇蔵時慎 | 天保8丁酉年1月没 | 妻 不明 | 弘化4末年1月没 | 十二人村 武田吉左エ門 女 | ||
⑦福澤勇治宥時/号若水 | 慶応4威申年10月没 | 74歳 | 妻 志げ子 | 明治4年4月没 | 68歳 | 常田村 小島久兵衛玉鳥 娘 |
⑧福澤源左衛門粛時 | 慶応2年5月没 | 42歳 | 妻 だゑ | 明治40年9月没 | 80歳 | 麻績駅 林仁左エ門 長女 |
⑨福澤謙左衛門知義 | 明治43年7月28日没 | 65歳 | 妻 政子 | 明治15年12月7日没 | 42歳 | 村上村 塩野入黒兵衛 娘 |
後妻 てる | 大正5年8月14日没 | 68歳 | 室賀村 清水伍作 妹 | |||
⑩福澤司(祖父) | 昭和12年12月19日没 | 61歳 | 妻 たけじ | 昭和38年12月16日没 | 87歳 | 坂城町 小宮山昌人 妹 |
⑪福澤深見(父) | 平成3年10月8日没 | 91歳 | 妻 多美 | 昭和59年6月7日没 | 84歳 | 東部町 竹内茂市 三女 |
⑫福澤謙時(兄) | 平成22年9月8日没 | 80歳 |
第一目的の「旧家屋の写真」 | |
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旧家屋の取り壊し | ||
母家の西2/3が写っている。上画像の右奥は蔵で、並び手前は離れの奥座敷で母家と渡り廊下でつながっている。右下の屋根は門である。門の土台部は石垣になっていて、門の右下は古の馬屋跡である。右上は土蔵であり養蚕具が入っていた。中央の暗部は裏庭になっている。懐かしい想い出が込み上げてきた。新館の「やがため披露」は昭和43年2月12日(1968)に行われた。私が家を出て2年後になる。 取り壊し画像で、南向きの母家部分が白線で各部屋跡が記されている。左手前の細長い長方形が2つ並んでいる。これは一続きになっている縁側/廊下(前頁、上段右上)である。その後方に2部屋があり、左が座敷(客室)で右が茶の間(居間)であり養蚕時は蚕室になる。その後方に2部屋があり、左が中の間(畳部屋と呼び畳が積み上げられていた)で右が北の間(養蚕時の居間)、その後方に1部屋があり祖母の寝室兼箪笥部屋そして私の勉強部屋で西側には土蔵への通路、北側は障子の格子戸、東側は障子戸で裏庭に下りられる。次は母家の東半分、縁側の東端は昔は機織り部屋であったが、浴室・脱衣所に改築されていた。私が幼い頃、機織り部屋で、妣が紡ぎから機織りまで行い小学校に通う私のシャツを縫製してくれた。当然、風呂は外にある大きな五右衛門風呂であった。浴室の東側に一間大木戸があり台所(土間)、台所の南側は水場、東側に大きな内室がある。北側には米櫃があった。なお、台所と北の間の間はお勝手(DK)で「へっつい」(かまど)薪置場、2階への階段があり1部屋と台所の天井上の物置がある。台所の北東側に裏庭に出る勝手口と味噌部屋への入口がある。 右下に見える瓦屋根は門(前頁、上段右下)、後方右手に土蔵(養蚕用具等)、後方中の暗部は裏庭の一部で垣根の塀がある。裏庭には古井戸、栗拾いも出来た。古井戸があり遊ぶには危険であった。左後方に2棟の壁が見える。北側は蔵で南側は奥座敷である。奥座敷は離れになっていて座敷戸と縁側から行ける。奥座敷には2部屋があり南側は畳敷内廊下になっている。門の左手は外便所、右側は物置・味噌部屋、物置の下は農機具倉庫(昔は馬小屋)、手前のこんもりしているのは大きなヒイラギ、家屋の南側は庭園で、奥座敷前の庭の西側は土塀で囲まれている。母屋の南側の庭は広場と奥座敷の庭の築山からの続きになっている。土蔵の東にエンジュの大木が2本直径で約1mほど、南側の庭にも同じほどの太さの銀杏の木があった。土間から茶の間とお勝手に上がる内廊下があり、茶の間との間に珍しいと言われた小さな障子戸がある。庄屋の名残りで座敷の壁に捕具(弓・突棒・袖搦・刺股)があった。(記憶) |
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繰出位牌より探り出した宝(3枚のご位牌) | |||
繰出位牌 | 明應2年(1493) | 天文20年(1551) | 弘治3年(1557) |
仏壇に「繰出位牌」があることは子供の頃から知っていた。薄板に戒名が毛筆で書かれたもので、2箱かと思っていたが3箱あった。更に驚いたのは大半が表裏書きであったことだ。どれも年季が入り、判読不能も少なくない。そんな中から貴重な3枚を見付け出した。 左は最も古く先祖より161年前、「明應2年5月20日龍光院殿山洞源清大禅定門」。中央は、「天文20年4月4日清光院壽覺妙相大姉」。右端は、「弘治3年6月5日光現院覺忠誓本居士」。享年に6年の差、夫婦かと思われる。 家系図の初代先祖、「福澤市兵衛廣時」(福澤院月居宗泉居士)承応3年4月5日(1654)の父あるいは祖父を目標にしていた。何と一気に「161年」もさかのぼることが出来た。享年標記がなく未詳なるも仮に60歳で他界されたとすれば、「1433生」、時は戦国時代以前の「室町時代中期」となる。その凄さに身震いした。 |
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義姉から「持ち帰ってじっくり撮影して」と言われ「完全ではないものの判読可能なご位牌」をもって「新たな家系図」を作成した。(別添) |
福澤家の墓 | |
福澤家の墓は、檀那寺である法樹院さまの西側の山畑の端にある。法樹院の墓地は東側の湯川左岸高台にある。今回の調査で、姪から「法樹院」は明治の「廃仏毀釈」以降の檀那寺であり、それまでは「生島足島神社」の別当寺「長福寺」「神宮寺」のうち廃寺となった「神宮寺」であったと聞き始めて知った。「長福寺」は西前山の中禅寺の末寺から東前山の前山寺の末寺になったとか、前山寺は塩田城主と関係あることは知っているが中禅寺は初耳だ。 前山寺の未完成の三重塔は、塩田城最後の城主福沢昌景の建造とされている。また、西前山の龍光院は塩田城主北条氏の菩提寺である。福澤家の墓は、宮澤家の墓と両家筋で持つ個人墓地である。塩田北条氏の家臣に、福澤氏と宮澤氏が居たことは知られている。 |
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福澤家の墓の西側には分家の墓もある。福澤家の墓地は、兄が福澤家の墓を整備し、祖父母より埋葬される「福澤家の墓」を新たに造り、3兄弟の墓誌も建ててくれてある。すぐ上の兄は昨年亡くなり東京の青山墓地に墓を設け埋葬されている。私達夫婦は、ここに埋葬されることになっている。全墓石を撮影したので、「新たな家系図」に「位牌」「墓石」の画像を添えて作成した。(別添) | |
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明應からの家路で |
福澤家廿二世 |
それまで興味もなかった「自分のルーツ」探し |
信濃なる塩田の里に生を受け先祖を訊ね思ほゆるかも |
数か月で初代のご先祖様「明応の人」にお会いすることが出来ました これから「ルーツ探し」をされようとお考えの「あなた」 初代先祖様が江戸末期という方が大半かと思います 中には明治初期という方もいらっしゃるかも知れません 突然この世に生まれてこられた「神様の子」ではあるまいし 初代ご先祖様の年代なんぞ 単なる記録の差です 直系だけで遡ったら 記録(繰出位牌と墓石)の調査は1日もあれば十分です 明応の人にお会いし 妻が待つ我が家に戻る途次「222」の表札探し タイムスリップという徘徊を経験し「222 = 4,184,304」人の福澤家廿二代縁者さんのお宅を尋ね戻りました 世の中に直系だけでも これほどの「同系DNA」を持つ方が居られる そちらのあなたも こちらのあなたも 「同系DNA」で繋がっているかも 徘徊のなか妻の出迎えで無事帰宅できました |
こんにちは 改めまして お変わりございませんか 口には出せませんが(変人扱い無きよう) 心の中で会釈をするようになりました 「ルーツ探し」で持ち帰った貴重なバーチャル体験をしました |
「福澤家の歴史」(初版)と「新家系図」を、「塩田福沢氏を見直す」研究著者の寺島隆史先生(元上田市立博物館館長、東信史学常任理事)にご一読をお願いしたくご自宅に伺った。後日、以下のコメントを頂いた。 |
「福澤家の歴史」拝見しました。ご実家の繰出し位牌や墓石を調査されての、なかなか立派なご成果と存じます。ですが、一般的なことを申し上げますと、戦国時代以前まで確かな系譜がさかのぼれる家は万に一つもないのが普通であります。上小地方全域を見回しても、そのような家は1軒もないというのが実情と存じます。 御宅様の「明応、弘治、天文」(明應2年5月20日龍光院殿山洞源清大禅定門、弘治3年6月5日光現院覺忠誓本居士、天文20年4月4日清光院壽覺妙相大姉)の繰出し位牌については、一般的な事例からみて江戸時代になってから、貴家に伝承のあった御先祖について、法名を追贈して供養したものではと思われます。 「明応」「天文」「弘治」等という戦国時代までさかのぼるご先祖について、伝承にしてもあるのは、ごくまれのことと存じます。貴家もご先祖は塩田城主であった福沢氏の一族であったことには違いないのでしょうし、「承応」「寛文」という江戸時代前期からの系譜が判明するような例にしてもごく稀でもあり、それだけでも大したものと言うべきでしょう。(抜粋、全文と同封された「塩田福沢氏を見直す」を別添) |
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. 善は急げ 早速アクション |
実家の義姉に提案し、お盆に合せ「繰出位牌から追贈位牌」をつくり、「追贈法要」(新たな初代先祖)を行うことにした。兄が「福澤家の墓」を建てた際、男兄弟(譲時、三雄)の墓誌を建ててくれてある。子供のいない私は、福澤家の墓に入れて頂くことにした。この際にと、「墓誌」の刻印を消し「記念碑」として預修を刻み、今回の「福澤家の歴史」調査の証も刻むことにした。 |
. 初代先祖「龍光院殿山洞源清大禅定門」追贈供養 | |||
位牌(表) 福澤家伝承 鹽田城主一族 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應二年丑五月二十日 位牌(裏)経緯 福澤家伝承に基づき 江戸前期に追贈法要が営まれたと推察 没五三〇年を経て繰出位牌より改める |
. 私たちの記念碑(墓誌代わり) | |
蝶棲庵の記 望月の牧なる原の深山辺に吾とたはぶる百種の蝶 三雄 預修 福知牧翅禅定門 美江子 同 西福玅雲禅定尼 東御市羽毛山 西野入重憲・栄子 二女 |
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先祖追贈 福澤家の歴史調査 繰出位牌より改める 福澤家伝承 鹽田城主一族 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應二年丑五月二十日 令和五年八月十五日 |
長い歴史が生んだ行き違い | |
墓誌を記念碑に造り直す工事、石材店の取り外しに立ち会う。待機中に墓地の隅々まで1基づつ見回る。先祖エリアの奥、大きな杉の木と笹竹に囲まれた最上段の墓石を初めて細かく眺めた。何と「龍光院殿山洞玄清大禅定門」と読めるではないか、初代先祖追贈墓石が在ったのだ。「やったぁ-」との歓声。冷静になり二度見、「源⇔玄」、「繰出位牌」と文字違い。 | |
追贈法要では、檀那寺から位牌を頂くはず。多分、追贈法要に合せて墓石を設置したと思う。繰出位牌は、追贈法要よりだてぶ年数が経って何世かの先祖が書いたのだろう。先祖様の誤りを指摘する立場にないので、「長い歴史の過程でのコミュニケーション・ロス」としておこう。もし、私が「追贈墓石」の存在を知っていて、繰出位牌との相違に気付いても悩んだだろう。「墓石」に合せるのが筋かもしれないが、「繰出位牌」に書き留めた先祖様の意向を尊重し「繰出位牌に従う」ことで・・・・合掌。 | |
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