family history Fukuzawa
福澤家のルーツは何処に
 Ⅰ、龍光院殿山洞源清大禅定門なる人物考
 ルーツの探索旅、その紀行をまとめた「福澤家の歴史」を読み返す。初代先祖「龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門」とは、どんな人物であったのだろう。その人生への理解を深めたく多角的に考察をしてみた。
 ● 続柄の呼名
自分との関係呼名 読み 摘要

高祖父母の高祖父母 福澤家初代先祖(龍光院殿山洞源清大禅定門)の
 「雲孫」(八世)から俗名が判明している
福澤家初代先祖(龍光院殿山洞源清大禅定門)は
 従前の家系図の祖の高祖父母の曽祖父にあたる
高祖父母の曽父母
高祖父母の祖父母
高祖父母の父母
高祖父母 こうそ
曽父母 そうそ
祖父母
父母
自分

息子・娘 長寿、100歳を迎えると最大で5世代になる
まご
曽孫 そうそん・ひまご
来孫 らいそん
昆孫 こんそん
仍孫 じょうそん
雲孫 うんそん
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 ● 「福澤家の歴史」・・・・ルーツを何処に置くか
 福澤家伝承の初代先祖は、「龍光院殿山洞源清大禅定門」明応2520日(1493)卒、没年不詳にて生誕年も不詳。明応2年は室町時代中期、当時の平均寿命は男性で35.8歳、女性で36.7歳と推定されている。飢餓・疫病・内乱等に加え乳幼児の寿命が著しく短かったので平均寿命がそのように推察されたようだ。「福澤家の歴史」調査過程で、20歳で第1子を儲け、現役40-60歳、人生70-80歳もあったであろうとして繰出位牌より先祖系譜づくりの基準を想定した。
 
120年、高祖父の高祖父は20年×9=180年、「初代先祖」60歳卒として180+40=220年を遡り1273年;文永10年(1493-220)を福澤家のルーツとして紐解いてみよう。
 Ⅱ、時代背景(日本史・郷土史)
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1073 延久05 白河天皇即位、この頃から武士たちは自分の支配する土地の地名を名字として名乗りはじめた
1094 嘉保01 惟清;白河上皇を呪咀するに依り参河守源朝臣惟清及び父子兄弟を配流に処す
盛清;惟清の弟盛清信濃に流さる(源→村上)
1174 承安04 国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され最勝光院領塩田荘が成立
1186 文治01 源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す
1203 建仁03 比企能員の変
1217 建保05 小泉庄関連、泉親衡の乱
1221 承久03 幕府、島津忠久を水内郡太田庄地頭に補す
1226 嘉禄02 最勝光院が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
1227 嘉禄03 北条重時(2代執権義時の子)、信濃守護を施行す
1247 建長01 塩田流北条氏の塩田荘は「信州の学海」と称されるほど禅宗文化の中心地となった
1273 文永10 義政;叔父政村の死去を受け連署に就任
福澤家の源(初代先祖の高祖父の高祖父)は、1227-1273 辺りと推察(北条義政、塩田荘に遁世する前)
塩田福沢氏は南北朝(1337-1392)末期以前(北条氏の代官)には塩田に入っていたとの説あり
1277 建治03 義政;連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
1281 弘安04 義政;塩田荘にて死去
1325 正中02 幕府;山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す 小県郡塩田庄東寺被物月宛を課せらる
1328 嘉暦03 小泉庄関連、小泉庄(泉親衡の乱後)の分断知行
1329 元徳01 国時;諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す
1330 元徳02 国時;諏訪社上社七月頭役勤仕のため所領小県郡塩田庄に赴くにあたり金沢貞顕を訪ふ
1331 元弘01 義光;元弘の乱・討幕運動で村上義光(義日)等之に供奉す
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞軍に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
1335 建武02 北条氏残党狩り
信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1387 嘉慶01 頼国;小笠原長基・高梨朝高等 信濃守護斯波義種に叛し兵を善光寺に挙ぐ
1400 応永07 満信;大塔合戦(大文字一揆)
1433 永享05 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
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西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1439 永享09 村上安芸守某(満信)、幕府に「降参」、これをもって信濃の国人すべて小笠原氏に服従
1441 嘉吉01 嘉吉の徳政一揆、農民にも名字を与える武士がでてくる
1448
1454
文安05
享徳03
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1459
1465
長禄03
寛正06
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1469
1474
応仁03
文明06
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479 文明11 五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
1483 文明15 文明の内訌(諏訪家の内紛)
1484 文明16 入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭
1485 文明14 福沢(頭賢)殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(この年を最後に記録途切れる)
1493 明応02 明応の政変;戦国時代へのキッカケ
龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501
1520
文亀01
永世17
義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
小泉庄関連、小泉氏に所領安堵
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
1561 永禄04 川中島の戦い(第四次合戦/大激戦)
1578-1603 舞田村は小泉庄から塩田庄に移っている
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 Ⅲ-1、気候変動から読み直す日本史
 これまで人類は何度も気候変動を経験してきました。過去の気候変動が農業生産等にどんな影響を与え、その変化に社会がどう対応したかについて、古気候学と考古学・歴史学の協同による研究が始まっています。
 気候と農業の関係は、温暖だと農業生産力が高まり、寒冷では低下したと考えられがちですが、降水量も考慮に入れると単純ではありません。藤原氏による摂関政治が行われた10世紀は、気温は温暖でしたが、樹木の年輪に含まれる酸素の同位体比から降水量を復元した中塚武の研究によると、千年単位でみても異常に少雨だったことがわかりました。温暖な気候は稲作に有利ですが、雨が降らなければ元も子もありません。
 考古学では10世紀に古代集落の多くが消滅したことが判明していましたが、その原因が深刻な旱魃だったことがわかったのです。摂関政治ではこの事態に際し、地方を治める国司に大きな権限を与え、税収を競わせることで危機を克服しようとしました。国司は有力農民に田地の耕作と納税を請け負わせ、貴族や寺社の荘園を認可して農地の再開発を促して、土地制度は律令制から荘園制へと転換してゆきました。
 前述の「10世紀」は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。日本では平安時代中期に差し掛かるころである。律令国家体制を支えていた古墳時代以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた班田や戸籍による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司(受領)に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた富豪層を負名に編成し、田堵として公田経営を請け負わせる王朝国家体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として武士が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。
 11世紀後半からは比較的安定した気候が続き、大規模な再開発や荘園の設立も進みました。武門の平家も後白河上皇と結んで数多くの荘園を設立し、一族は高位高官に昇って栄華を極めました。しかし平清盛は後白河上皇と対立して幽閉したため、皇子の以仁王が諸国の源氏に蜂起を促し、治承4年(1180)から源平の争乱が始まります。平家にとって不運なことに、温暖多雨の気候が終わって寒冷・少雨に転じており、養和元年(-1181)にかけて「養和の飢饉」が発生しました。
 各地で蜂起した反乱軍に対し、平家は討伐軍を派遣しようとしますが、飢饉のために兵糧米を集められず、やっとのことで関東に派遣した軍勢も富士川の戦いで源頼朝らに敗れて、平家は滅亡への道をたどります。戦いの勝敗に気候変動が影響したのです。
 鎌倉時代には新田開発が進み、牛馬耕の普及等によって農業生産力は増しましたが、異常気象には勝てませんでした。寛喜2年(1230)の夏は異常な冷夏となり、新暦727日に雪が降り、百人一首の選者として有名な藤原定家も綿入りの衣を取り出し飢饉を予想して庭木を掘り捨て麦を植えています。この年から翌々年にかけて「寛喜の飢饉」という大飢饉になりました。さらに正嘉2年(1258)にはインドネシアのサマラス山の大噴火の影響で「正嘉の飢饉」が発生しました。現代でもフィリピンのピナトゥポ山の噴火の影響で1993年が異常な冷夏となり、タイ米を輸入したことを覚えておられる方も多いでしょう。
 30年弱の間に繰り返された飢饉によって多くの人々が亡くなり、食うために自分自身を売って下人になる農民が多く生まれました。それでも当時の朝廷や鎌倉幕府はこの危機に真摯に対応しました。朝廷は貞永元年(1232)に公家新制42箇条を発布し民への救援米の施しや病者や孤児の置き去りの禁止などを定めました。
 鎌倉幕府は御成敗式目を発布し、逃散した百姓の財産や妻子の差し押えの禁止を定めたほか、追加法で飢人を下人にしても主人が亡くなれば解放し、流浪の飢人が山で芋を掘り川海で魚や藻を採るのを制止しないよう命じました。また幕府は文永元年(1264)に水田の裏作麦に課税することを禁じ、飢饉のリスクヘッジとして二毛作の普及を後押ししています。
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 室町時代に入ると、耕地だけでなく周辺の山野も含めた土地利用の高度化が進み、のちの「里山」の原型が作られて行きます。しかし建築材や薪炭生産のための樹木伐採は森林の荒廃を招いたとみられます。14世紀末からは年々降水量が低下し、応永27年(1420)には旱魃による「応永の飢饉」が発生しました。ところが1423年からは一転して多雨傾向となり、気温も急上昇して1428年にピークに達しました。これは最近の気候のように集中豪雨が発生しやすい状態です。実際に東寺領山城国上野荘は14299月の桂川の洪水によって壊滅しています。この時期には米価も上がり、播磨国矢野荘での米価は1424年に1石あたり650文だったのが1427年には1300文になりました。正長元年(1428)には「日本開白以来、土民の蜂起、これ初めなり」と言われた「正長の土一揆」が勃発しますが、その原因の一つにこの異常気象があったことは間違いないでしょう。こののち気温は低下に転じ、「寛喜の飢饉」に近い水準まで下がります。長禄3年(1459)~寛正2年(1461)にかけて「寛正の飢饉」が発生し、3年目の京都での死者は82000人に及びました。しかし時の将軍足利義政がやったことは、粟粥の炊き出しをした僧に銭100貫文(約1000万円)を援助したぐらいでした。この6年後には守護大名や将軍家の相続争いから「応仁の乱」が勃発し、室町幕府の体制は崩れてゆきますが、その背景には飢饉に無策な支配層への失望が人々のなかにあったことでしょう。
 こうした歴史をみると、自然は気まぐれに試練を与えますが、それに当時の社会がどう対峙するかで、危機を収拾する、危機によって混乱に陥る、危機の克服のため社会が刷新されるなどの途が分かれたように思われます。
 -2、飢餓の日本史より
 平安時代末期、世情の不安を背景に「六道思想」が流行しました。すべての生命は六道を輪廻するが、生前に罪を犯した人間は、そのなかの地獄道や餓鬼道に落ちるというものです。六道は上から「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」で、いわゆる人間世界の下には「苦の世界」が4つも広がっているのです。
 平安時代に作られた国宝「餓鬼草紙」はその思想を反映したものとされ、たとえば餓鬼のおぞましい姿が描き出されています。しかし、現実には、人間道はしばしば餓鬼道より悲惨でした。食糧不足になれば、たちどころにして飢饉となるからです。「日本書紀」には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」とあります。欽明天皇28年(567)には「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」と、いきなり食人の記録が書かれています。
 養和元年(1181)には、京都で42300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の「方丈記」には「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり」とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。1230年から数年間続いたのが、「寛喜の飢饉」です。極端な寒冷気候で、全国的な大凶作に。「吾妻鏡」には、「今年世上飢饉、百姓多以欲餓死」寛喜3319日(1231)とあり、幕府は出挙米を拠出して救済に乗り出します。このとき、妻子や自分自身を「売却」する者が続出。幕府は当初これを認めませんでしたが、暦仁2年・延応元年(1239)「飢饉の際の人身売買は有効」としました。寛正元年-2年(1460-1461)には、風水害や疫病で「人民の2/3が死んだ」、「興福寺略年代記」飢饉もありました。
 -3、戦国武将が目指すもの
 戦国時代の「戦い」は、NHK大河ドラマのような格好いいものではなかったようです。領内の武士・農民総出、武士は刀や弓、農民は鎌や竹槍を持っての戦い。その前哨戦は「投石」、まさに前記の「喧嘩」ですね。そして、「戦国の争乱」には暗黙のルールがあったようです。
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 地域の領主であっても、危なくなったら手を上げて(降参)しまえば大抵助かります。もし降伏するのが嫌なら逃げてしまえば(自落)いいのです。「去る者は追わず」ここでお終い。往生際が悪ければ、ルール違反と見做され「皆殺し」が待っています。「皆殺し」も武士の範囲で農民まで及ぶことは稀なことのようです。あれだけ「城落」を成し遂げた武田信玄でも「皆殺し」は3城ほどと記録されているようです。武田信玄は、地元衆(農民)まで皆殺しにしたと伝えられていますが、基本域に農民には手出しをしていないようです。
 戦国大名が軍事行動を起こす時には「利益」(戦利)で配下の者たちを奮い起こし、その行動が正しいものであると大義名分を示し、さらに神さまも味方してくれていると精神的に安心感を持たせるなどして参陣する者たちを奮い立たせるようです。武田信玄は、信濃国が自分の思う通りになったら相応の土地を与える(知行)ぞと書面に書いて朱印を捺して(約束手形)家臣にばらまいていたようです。そして、戦争に行って戦功をあげ味方が勝てば、武士たちは領地がもらえます(知行宛行)。一方、農民たちは適地での略奪による収入となります。百姓たちは無理矢理に財産を奪い取って帰ります。戦勝の勢いに乗って敵方から略奪したものは取った者の利益になります。その時の相手が百姓家だったら特別な財産はないでしょうから略奪品は人(奴隷)になります。中世は奴隷制の時代でした。武田氏の志賀城攻撃の際には、甲州勢はお城にこもっていた大勢の人たちを連れ帰っていました。農民は殺さないと前述していますが、領地を奪いとっても耕す農民がいなければ無価値です。農民から年貢を取ればよく、皆殺しにしたら元も子もなくなってしまいます。
 さて、戦国武将が戦う目的は何であったのだろうか・・・・、巻頭で記した「飢饉」から領民を救うことだったのだろう。「寒冷化」から「温暖化」に変わる中で「不安定」な気象環境で「作物」が思うように獲れない。作物の品種改良は何十年もかかる。「飢饉」から領民を救うには、手っ取り早い「略奪」しかなかったのだろう。「領地」それもなるべく肥沃な土地をを求めて侵略する。「領地」を確保したら、そこで「作物」を生産する「農民」が必要である。だからこそ、人の命を奪うことなく領地を奪うという政策をとったのだろう。
 -4、代官の為人(ひととなり)
 本項「戦国武将が目指すもの・・・・」を書きまとめ、自分なりに「代官の為人」への思いを箇条書きに書き上げてみた。その人物像は、目先は主君でなく領民である(領内に精通し領民と一心同体の堅い絆を保ち、主君の為でなく領民の為に命を捧げる。武官でなく文官であり戦略家でもある。
 Ⅳ-1、北条重時と義政の関係
 北条時政の先祖
  桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-平直方

   家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある

  北条時政
-政子
      
義時-泰時(得宗家)
         ∟朝時(名越流)
         ∟
重時(極楽寺流)-時継(苅田流)
                  ∟長時(赤橋流)
                  ∟時茂(常盤流)
                  ∟業時(普恩寺流)
                  ∟
義政(塩田流)--時治-重貞
                           ∟
国時俊時
                              ∟藤時
                           ∟胤時
                  ∟忠時(坂田流)
- 6 - 
         ∟政村(政村流)
         ∟実泰(金沢流)
         ∟有時(伊具流)               ※時政は初代執権、義時は
2代執権
 国時・俊時は、鎌倉幕府の役人を務め鎌倉で暮らす方が多く、塩田庄を留守にする時は代官が務めていた。鎌倉末期の頃は塩田の他、小泉・上田の3ヶ庄の地頭職(じとうしき)を務めていた。塩田庄の留守中は代官が務めていた。
 Ⅳ-2、北条義政が塩田に遁世した際の家臣・・・・宮澤家・福澤家伝承
 「福澤家の歴史」をまとめ終えた年の「塩田中学校同級会」(中塩田小学校・東塩田小学校・西塩田小学校・別所小学校からの進級)で、前山(西塩田)出身の宮澤さん(県外から毎年参加)に「ルーツ探索の旅」の話をした。その時、彼女から、「塩田北条氏」に関する話を聞くことができた。「北条義政」が塩田庄に遁世する際、鎌倉から連れてきた家臣(御付)に「宮澤氏」と「福澤氏」が居た。「宮澤家の墓」は「龍光院」(塩田流北条氏の菩提寺)で、「宮澤一族で先祖供養」をしていたが、「御付直系と後世」が混同で行うのは問題があるとのことで分離して行ってきたが、今では消滅して行われていないという。(福澤家伝承には無い)
 龍光院の墓地に「福沢家の墓」もあるが、家(我が家)よりずっと後世であり福澤氏一族とは異なる。(父よりの話)実家の「福澤家の墓」は、「宮澤家の墓」と折半の形で個人所有となっている。東半分が「福澤家の墓」、西半分が「宮澤家の墓」で、宮澤家の範囲に「北条家の墓」がひとつある。この「北条家」は、元は「宮澤家」である頃から改名したとのことである。この「宮澤家」は「北条流宮澤氏」であるか聞かされていない。
 Ⅳ-3、福澤家のルーツは・・・・北条重時の塩田庄の代官との可能性
 義政は、①塩田流北条氏で、塩田に遁世し4年後に卒、子国時・孫俊時と56年にわたり塩田庄を治める。②父重時は極楽寺流の祖であり鎌倉幕府代第6代連署・六波羅探題北方を務め、③祖父の義時は2代執権、④曽祖父の時政は初代執権、⑤鎌倉幕府執権約100年間を17代で務めた一族。
 塩田流北条氏は、①平氏の流れを継ぐ一族であり、②北条氏の通字は「時」である。福澤家のルーツは、塩田城代官(領主)村上流福沢氏一族の可否を問う前に、塩田流北条氏の家臣であったに違いないと確信する。
 福澤家の先祖八世(家系図の祖)、福澤市兵衛廣時(承応3年/1654)卒/福澤院月居宗泉居士・妻福松/自性院空誉理貞大姉(貞享3年/1686)卒。八世より一部を除き俗名が判明、通字に「時」が現在まで続く、また廣時の墓石に「平氏」の刻字あり。
 Ⅴ、村上氏と福沢氏の微妙な関係
 福沢氏は、村上氏の一家臣である。村上氏は 埴科郡坂木の五里ヶ峯中腹に葛尾城を居城とし坂城町一帯を直領とする全国的に名を馳せた武士である。福沢氏は、小県郡塩田庄を預かる代官である。最盛期には、村上氏が小県郡のほぼ全域を手中にした領地の代官である。領主と代官の関係なのに村上氏は福沢氏に一目を置いている。両者、主従関係なのに、それを越えた何かが感じとれる。
 -1、村上氏と塩田流福沢氏の歴史(抜粋)・・・・村上氏衰退・滅亡-再興の歴史追加あり
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1329 元徳01 国時;諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す
1330 元徳02 国時;諏訪社上社七月頭役勤仕のため所領小県郡塩田庄に赴くにあたり金沢貞顕を訪ふ
1335 建武02 信貞;新田義貞軍との戦い(中先代の乱)における戦功として塩田荘が与えられる
1400 応永07 満信;大塔合戦(大文字一揆)信濃国守護小笠原長秀と東北信国人との戦い
1403 応永10 満信;幕府方細川慈忠との戦いで国人方の中心であった村上氏は勢力拡大(最盛期)
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西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1416 応永23 満信;上杉禅秀の乱を機に村上氏の勢力は弱体化
1433 永享05 中務大輔(持清?);鎌倉公方に加勢、歴史より名が消える(衰退・滅亡?)
龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1448
1454
文安05
享徳03
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1455 1483 享徳の乱       この頃に信濃村上氏再興(衰退・滅亡から1455-1403=52年)
1459
1465
長禄03
寛正06
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1469
1474
応仁03
文明06
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479 文明11 五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
1484 文明16 入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭
1485 文明14 福沢(頭賢)殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(この年を最後に記録途切れる)
1493 明応02 龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 塩田福沢氏に関する史料空白(41年間) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1501
1520
文亀01
永世17
義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
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 -2、信濃村上氏
 塩田庄、「塩田流北条氏」から「村上信貞」へと歴史に切れ目なく繋げて見た。村上氏の数ある系譜より①「信貞-師国-満信-中務大輔(持清?)」-②「村上氏の衰退・滅亡」・・・・③「顕国(不詳)-義清」へと更に繋げてみた。本項の最も重要な「信貞・・・・義清」の期間については、「ほぼ未詳」、「福澤家の歴史」より「村上家臣福沢代官」を考察してみたい。
 村上信貞(のぶさだ)
 村上信貞(のぶさだ)は南北朝時代の武将。清和源氏信濃村上氏当主。建武政権期の信濃惣大将。村上信泰の三男。義日(義光)、国信の弟。師貞、師国の父。
 信濃村上氏は、更埴南部の村上・坂木を中心に勢力を拡大してきた。おそらく南北朝末期の元中
2年(1385)前後に、坂木郷へ本拠を移したようだ。坂木は鎌倉時代、薩摩氏が所領していた。鎌倉幕府滅亡時の地頭職は薩摩十郎左衛門尉祐広であった。南北朝期まで工藤祐経の後裔に当る武士の活動が埴科郡坂城を中心に見られる。建武2年(1335)に、大祝諏訪頼重や海野・祢津・望月など滋野一族ら北条党が、北条高時の遺児北条時行を擁して「中先代の乱」を起こす。この時工藤一族もこれに加担し、工藤四郎左衛門という名が乱の参加者に見えている。破れて首謀者の諏訪頼重親子が鎌倉で自害した後になっても、仁科氏などの残党が信濃各地に反抗を続け、薩摩刑部左衛門入道とその子五郎左衛門尉親宗も、北条氏恩顧に報いんとして坂木に城郭を築いて抵抗した。しかし小笠原貞宗・村上信貞らが攻め落としたといわれている。ここで坂木の薩摩工藤一族は没落し、それ以降の消息は途絶える。以後坂木は、村上信貞か恩賞として領有する。更級郡村上から、本拠を坂木に移したのは、元中2年(1385)、船山守護所が水内郡平柴に移転した後とみられる。北信を揺るがす中先代の乱(省略)後、村上信貞は建武2年(1335)、足利直義から恩賞として塩田荘(12郷)を与えられ、一族の福沢氏を代官として派遣した。
 足利直義(ただよし)
 足利将軍
 貞氏-・高義
    ①尊氏-②義詮-③義満-④義持-⑤義量
    ・
直義        ∟⑥義教-⑦義勝
    ・源淋             ∟⑧義政-⑨義尚
                    ∟・義視-⑩義稙(義材)

                    ∟・政知-⑪義澄-⑫義春-⑬義輝
                                ∟⑮義昭
                            ∟・義維-⑭義栄
初代将軍足利尊氏(1338-1358198ヶ月)
02代将軍足利義詮(1359-13679年)
03代将軍足利義満(1369-139526年)
04代将軍足利義持(1395-1423284ヶ月)
05代将軍足利義量(1423-1425111ヶ月)
   空 位  (
1425-142941ヶ月)
06代将軍足利義教(1429-1441123ヶ月)
   空 位  (
1441-144215ヶ月)
07代将軍足利義勝(1442-14438ヶ月)
   空 位  (
1443-144949ヶ月)
08代将軍足利義政(1449-1474248ヶ月)
09代将軍足利義尚(1474-1489154ヶ月)
   空 位  (
1489-149013ヶ月)
10代将軍足利義材(1490-14933年)
   空 位  (
1493-149515ヶ月)
11代将軍足利義澄(1495-1508134ヶ月)
10代(再)将軍足利義稙(義材)(1508-1522136ヶ月)
12代将軍足利義晴(1522-154725年)
13代将軍足利義輝(1547-1565185ヶ月)
   空 位  (
1565-156829ヶ月)
14代将軍足利義栄(15688ヶ月)
15代将軍足利義昭(1568-1588193ヶ月)
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 信濃の反乱 建武2年(1335
07.13 諏訪頼重、その子時継・滋野一族等と共に、北条時行を擁して兵を信濃に挙ぐ、
07.22 北条時行等の軍、信濃を進発して、武蔵に入る、足利直義、諸将を遣はして、武蔵府中等に之を拒がしめんとして利あらず、是日、直義、自ら、同国井出沢に邀撃せんとして敗退す、
08.01 後醍醐天皇、五壇法を宮中に修して、北条時行・諏訪頼重等の討滅を祈る、また、東大寺等諸寺をして、之を祈らしむ、
市河倫房・同助保、小笠原経氏の軍に属し、北条時行の党を、佐久郡望月城に攻めて、之を破る、
08.09 是より先、足利尊氏、北条時行を討たんとして、京都を発す、是日、尊氏、時行の軍を遠江橋本に破る、安保光泰等、尊氏の軍に属して功を顕わす、
08.14 北条時行の将諏訪次郎・塩田陸奥八郎等、足利尊氏の軍と、駿河国府に戦ひて、虜らる、
08.18 足利尊氏、相模の相模川に北条時行の軍を破る、尊氏の将小笠原七郎父子並びに小笠原彦次郎父子等討死し、時行の将金刺頼秀もまた戦死す、
08.19 足利尊氏、北条時行の軍を相模辻堂・片瀬原に破り、鎌倉に入る、時行逃れ、諏訪頼重父子等、鎌倉勝長寿院に自害す、 諏訪頼重の孫頼経、諏訪郡原郷に匿れ、藤沢政頼、諏訪社上社大祝となる、
08.26 堀口貞政、北条時行の党追討の綸旨を、村山隆義に伝へ、一族を催すべきことを促す、
09.03 市河倫房等・同助保、小笠原貞宗の軍に参ず、尋で安曇・筑摩・諏訪・小県・伊那の諸郡に北条時行の党を破る
09.22 是より先、市河経助、村上信貞の軍に属して、北条時行の党薩摩刑部左衛門入道等を、埴科郡坂木北条城に攻む、是日、経助、軍忠状に証判を請ふ、
12.11 村上信貞、足利直義の軍に属して、新田義貞の軍を相模竹の下に破る、直義、その功を賞して小県郡塩田庄を信貞に与ふと伝ふ、
 村上満信(みつのぶ)
  京と鎌倉のはざまで 室町・戦国時代の争乱 (上田市誌⑧)
 上田市誌第8巻「室町・戦国時代の争乱」(室町時代から戦国時代まで)と、第7巻「上田の荘園と武士」を購入した。これらを参考に研究・考察としてまとめた。
  大塔合戦(大文字一揆)
 応永7年(1400)、信濃国の守護(幕府から任命される武士を取締る最高責任者)となった小笠原長秀の軍勢と反守護陣営(村上満信・海野幸義・高梨朝高・大文字一揆等、東北信の国人層の連合軍)との間で、篠ノ井の大当(大塔)を中心に激しい合戦が起きた。この合戦を「大塔合戦」という。
  小笠原長秀の信濃国入り
 長秀は室町幕府から応永6年(1399)に信濃國の守護に任じられた。ところが、北信濃の島津国忠・高梨朝高ら国人が新守護長秀に反対する動きをみせたり、また長秀が大内義弘征伐(応永の乱)のため和泉の堺(大阪府堺市)に出陣したりで、信濃へ正式に入ったのは翌応永7年(1400)になった。
 関係者のプロフィール
・小笠原長秀
 信濃小笠原氏・小笠原貞宗(曾祖父)-政長(祖父)-長基(父)-次男長秀、鎌倉時代後期より代々信濃守護を務めてきた一族である。曽祖父貞宗は弓矢の名手であり小笠原流弓術の中興の祖であった。
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・村上満信
 信濃村上氏の系譜は不明確な点が多い。村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながる。師国-満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず。守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになった。応永23年(1416)「上杉禅秀の乱」が起こると小笠原政康(長基の長男)が中心になって一族・国人衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機に信濃国内の軍事指揮権を掌握した小笠原政康(長秀の兄)は幕府にその実力を認められ、12月に信濃守護職に任命されて力をつけていった。その結果、相対的に村上氏の勢力は弱まり始めた。
・海野幸義
 海野氏は滋野氏の後裔で根津氏・望月氏と共に「滋野三家」と呼ばれた氏族。幸義は海野棟綱の嫡男として誕生。天文
10年(1541)、甲斐国の武田信虎・信濃小県郡の村上義清・信濃諏訪郡の諏訪頼重連合軍が滋野領に侵攻(海野平の戦い)において海野方は敗退、幸義は村上方との神川の戦いで戦死し、棟綱は上野国に敗退し関東管領の上杉憲政を頼った。
・高梨朝高
 高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、井上家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。明徳
3年(1392)、当時の惣領である高梨朝高が室町幕府に対して10名の一族や被官の所領の安堵を求めて言上状を出しているが、その中には東条荘をはじめ、高井郡北部から水内郡にかけての惣領の所領9ヶ所を含む30ヶ所の所領を書き上げられている。なお、既に高梨氏の本領として安堵されている土地は記載されていないと考えられるため、実際にはより広い所領を有していたと考えられる。また、所領の中には須田氏・井上氏・村上氏の勢力圏と近接する地域もあった。それだけに惣領の権力や求心力の維持や他の国人との関係が課題としてあったことが知られる。さらに応永7年(1400)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。この戦いで高梨朝高の名が見える。
福沢入道像阿(1448-1400=48)誕生直前、像阿の父世代(村上満信の子と像阿は同世代)と推察する
村上信貞の頃から代官を務めていたなら、村上初代代官は像阿の高祖父(5代前)になる
  故敵当敵(古くからの敵)
 小笠原氏と関係のある国人(香坂・窪寺・仁科・西牧・春日・祢津・小田切・落合・宮高など)たちは、長秀が将軍の御教書(三位以上の貴人の意向を伝える奉書)を奉じているから協力もしかたないとするも、大文字一揆と呼ばれる「大」の旗印が意味する「相互に助け合う契約」を交わしていたので評議した結果、「故敵当敵」であるから絶対承服しないとして「別の守護」を幕府に申請することにした。
 「ばさら大名」(善光寺入りする長秀の呼称)
 善光寺は、三国一の霊場であるうえ、ひざ元は後庁が置かれた場所、さらに北信地方の土地所有は国人にとって父祖伝来の領地であると受け止めている神聖な場所。それを幕府方が公領を押領し守護の支配下であると権力をかざして善光寺に乗り込んできた守護長秀の方針であるとして受け止め反発したのである。
 まして、長秀一行の行列は、花を折って身を飾った者、紅葉の枝を挟む者、童子や諸芸にたくみな連歌師などまで引き連れ、長秀は力者の担ぐ塵取に乗るなど、華やかで奇抜で、見物した人々の目には、ただただ異様なものとして映ったのであろう。これをして、長秀は「ばさら大名」であると称されたのである。「ばさら」は「跋折羅・婆娑羅」などと書き室町時代の流行語で「遠慮なく勝手に振る舞ったり、派手に見栄を張ったりする」ことを意味する。長秀一行の行列は、まさに「ばさら」であり国人たちにとって反発はさけれないものであった。
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  「傍若無人」な振る舞い
 善光寺入りした長秀は、まず奉行人を定め禁令事項を書いた制札(立札)を立てて政務を執り始めた。長秀は、願い事や訴え事のためにやって来る国人と対面するとき、扇も持たず紐も結ばず、まして一献の用意をすることもなく、非礼不遜な振る舞いで国人たちの不興をますます高めてしまった。その上、時期は収穫期を迎えていた。事もろうに国人たちの知行地に守護使を入れ、これは不法の押領地であるとか、守護の課役であるとか言って強引な年貢・課役の徴収を始めた。特に、村上満信の知行地に対しては、押領地であると言いがかりをつけ返還を求めるだけでなく、使者を遣わして収穫物(稲)を取り上げたりした。
  立ち上がる国人
 長秀の行いに対し、「信濃武士の雄」である村上満信や大文字一揆をはじめ東北信濃の国人たちの不信と敵対心は一気に爆発し、諸所で守護使を追い立てたり打ち殺したりし、ついに守護小笠原長秀と信濃の国人の間に一大決戦を迎えることになった。
  幕府による国人の制圧
 室町幕府は、信濃の国人の統制に失敗した信濃守護小笠原長秀にかえて、長年にわたり義詮(2代)・義満(3代)・義持(4代)と三代(1359-1423)の足利将軍に仕え、管領(将軍を補佐し幕府の政務をまとめる役職)として幕府内では最重要人物と言われた斯波義将を再び信濃守護に任命したことは、信濃の国人層の守護への強硬な反抗をどうしても黙視することができなかった。義将は早速島田常栄を守護代として、応永8年(1401)に信濃へ下向させ合戦跡の混乱した信濃の荘園や公領の支配と治安の回復に当らせました。
 しかし、代官による信濃統治についても国人層による反発が根強く守護の思い通りに運ばなかったため、幕府は合戦から2年後の応永9年(1402)に信濃国を幕府直轄の料国にした。先ず支配を任されたのは、飯尾氏・依田氏そして細川慈忠であった。ところが、幕府直轄の料国になっても、信濃の国人層は従わず、翌応永10年(1403)、村上満信・大井光矩・伴野・井上・須田らは檀原・生仁城・塩崎新城等で細川方と戦いました。この辺り一帯は村上氏の勢力範囲だったので、佐久・高井まで広範囲に反乱は広がるも中心になったのは村上氏であった。応永11年(1404)、将軍の命令を受けた細川慈忠は、幕府の方針に従わぬ国人層の制圧に乗り出したことで、国人の反抗ももようやく終息に向かった。
 中務大輔(持清?)
 村上信貞以降の系図を「系図纂要」(村上安信系系図)と「応仁武鑑」を並べてみましょう。
 系図纂要
  信貞-師貞
    ∟師国-満信-植清----成清----信清
 応仁武鑑
  信貞-師国-満信-直清-持清-成清-信澄-信清
 「系図纂要」の方は「持清」と「信済」が落ちていて精粗の差があるも「御苻礼之古書」に記されている塩田の領主村上兵部少輔政清の名が出てこない。更に名称「村上義清」も載っていない。どういうことでしょう。そこで、「村上政清」の名が出てくる系図を探してみました。同じ「系図纂要」(村上安信系系図)ともう一つは「更級郡埴科郡人名辞書」の「清和源氏信濃村上氏系図」です。同様に並べてみましょう。
 系図纂要
  安信-
2代略-信泰----義国-頼国-国衛-国清-満清----政国-顕国-------義清
 更級郡埴科郡人名辞書系図
  安信2代略-信泰-国信----------国清-頼清-国衛-政清-顕国-頼衛----義清
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 「系図纂要」系図では政国となっているが、「更級郡埴科郡人名辞書」系図には寛正年代(1460-1466)以後の人として「兵部大輔政清」の名があり、その3代後に「村上義清」も記され、この系図こそ、塩田も治め、この地方の人々が村上氏として親しんできた系統と言えよう。・・・・とすれば、どこかで異変が起きている。塩田荘は、拝領した「村上信貞」の系図とは別の「兵部大輔政清・義清」の系図に移ってしまったことになります。さて、どうしましょう。
 「頼清、関東公方に属して没落」
 その原因を追究するために、村上氏の系図を丹念に見て行く中で「あること」が分りました。「尊卑分脈」の系図で「兵部大輔政清」の祖先「安信」以降を抜書きしてみました。
 尊卑分脈(村上屋代部分)
  安信-信村-胤信-信泰-信貞-師国----満信
                ∟師貞
             ∟義日----朝日
             ∟国信
 「尊卑分脈」系図は以上ですが、「兵部大輔政清」や「義清」の系図は「信泰・国信・義国」と続いた方の系統であり、国信は村上信貞の兄弟にあたるわけです。
 大塔合戦のとき、信濃の国人領主の先頭に立って守護小笠原長秀に反抗したのは村上満信でした。この時点(1400)までは村上氏惣領信貞の系統の満信が、埴科郡坂城も、更級郡の村上も、小県郡の塩田もみな領有していたに違いありません。それが、応仁2年(1468)の坂城郷の諏訪上社花会頭役は、村上兵部少輔政清が勤めています。よって、坂木や塩田の領主が変ったのは、応永7年から応仁2年(1400-1468)までの約70年の間、村上氏の名でいうと次の3代の間の出来事になります。
 信貞の系 満信-植清-成清  国信の系 頼清-国衡-
政清
福沢入道像阿(1448-1400=48)誕生直前、像阿の父世代(村上満信の子・頼清と像阿は同世代)と推察する
村上信貞の頃から代官を務めていたなら、村上初代代官は像阿の高祖父(5代前)になる
 「系図纂要」(信貞系)をみると、村上惣領の家に異変が起きたことを推定させることが書かれている。
●満信-中務大輔
●植清-中務大輔、入道覚玄。
 世々信濃に住す。持氏卿に属し、卿生害(自害)の後信濃国を去り、他邦に走り、後、上総久留里に居す。
●成清-信濃守、法名一岳。
 成氏朝臣に属し、成の字を賜り父祖の旧領信濃国に帰居す。而して勢い微かにして保邑する能わず。小弓御所義明に属し、久留里城を守る。北条氏康来攻、粮尽きて自殺
 満信の子植清は、関東公方足利持氏に属すも事がうまく運ばず。信濃の所領を去って上総の久留里に移り持氏亡きあとは成氏に仕えた。成清は一度信州の所領に戻ってみたが以前のように領主に戻れる余地がなかった。
 源経基(経基流清和源氏の初代)・・源頼信(968-1048)-村上頼清(995-1073)-村上為邦-村上安信
  村上安信-信村-胤信-
信泰信貞師国満信植清-持清-成清-信清-清政
               ∟義国-頼国-国衡-国清-満清-政国-顕国-義清
 信濃村上氏、幕府に降参
 大塔合戦のあと、小笠原長秀が信濃守護の職を失ってから再び小笠原氏が任じられるようになったのは、小笠原政康(長秀の弟)、応永32年(1425)の頃でした。
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 この間、政康は幕府の命令を受け信濃の内外の合戦に手足のようになり働きました。幕府は、幕府の料国になった時代から大塔合戦で反抗した国人領主を、応永10年(1403)以降34年間をかけ個別に攻め、井上・大井・伴野・須田・高梨・海野・祢津・依田の各氏を服従させてきた。
 永享8年(1436)、小笠原政康は芦田下野守を降伏させ、守護に逆らい思い通りにならない国人領主は、いよいよ「村上氏」のみになりました。周辺に応援してくれる国人領主が居なくなった村上氏は存亡の瀬戸際に立たされ、幕府や守護小笠原とは対立関係にある関東公方の持氏に支援を頼み込んだ。これは大変な規則破りの悪手である。関東公方の権限は、安房・上総・下野・常陸・下野・上野・武蔵・相模の関東八ヶ国に伊豆・甲斐を入れた十ヶ国の範囲内であり、信濃は室町幕府の管轄である。その信濃のことに持氏が口をはさみ兵を出すということになれば、室町幕府の領域に手を出し攻め込むことになる。
 持氏の執事上杉憲実は必死で信濃に援兵を出すことの非を諌めた。これにより、援軍の来なくなった村上氏は一族挙げて戦う以外には道はなく、室町幕府を後ろ盾にした小笠原氏に対し力尽きた
村上氏は、永享9818日(1439)、京に出向いて将軍義教に対面し「降参」を申し入れた。
→「十八日、丙子、雨降、早旦相府に参る。年来攻めらるる所の信濃国住人村上安芸守某降参、今日相府の見参に入る。乃ち、人々賀し申す。
 幕府側からみると、これで信濃の情勢は落ち着きました。しかし、この後、大変だったのは関東の情勢です。持氏が村上氏への援兵を思い留まるように諫言した上杉憲実を討とうとしているとの「噂」から、「憲実と持氏」、更に「持氏と幕府」が対立、永享
112月(1439)、持氏は小笠原政康や上杉憲実に攻められ鎌倉の永安寺で自刃して果てた。
 村上満信の次の代の村上氏当主は、系図や史料によって様々な説が・・・・
 植清・直清・頼清の実名と、安芸守・中務大輔等の官途名とがあります。実名と官途名の両方を書いてある文書史料は見当りません。ただ「越前勝山小笠原家譜」に村上中務大輔が頼清であり、永享8年(1436)に小笠原政康と村上頼清と確執があったことが記録に残っている。中途での名前変更は良くあること、植清や直清を否定することはできないものの、これによって満信1360-1420の次は頼清(福沢像阿と同世代)であったとみて良いと考えられる。
 村上信貞の後は、その子村上師国、そして師国の子村上満信と系譜がつながり、師国・満信父子は、村上氏の勢力と権益を認めず守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、幕府が補任した守護を排斥する動きを見せた。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信州惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国人衆の代表格として認識されるようになる。満信以降、村上中務大輔という者が反守護の中心となる。系譜上で中務大輔という人物を特定できないが、村上持清の可能性がある。・・・・村上中務大輔にかわり史上に現れるのは、氏祖の源頼清と同じ名を持った村上頼清で永享9年(1437)に自ら将軍足利義教に出仕した記録がある。
 村上信泰 - 信貞 - 師国 -
満信 - 中務大輔(≒持清)→ 村上頼清 - 国衛 → 政清
 小笠原氏の内紛と村上氏の再興
 実力者小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職をめぐって政康の長男の小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥(兄の子)の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安3年(1446)、小笠原宗康は弟の小笠原光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取り決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れて討ち死にしてしまった。
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 持長は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持長と光康の対立は続いた。 その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分かれて対立する小笠原氏を尻目に北信濃を手中に収めていった。
 この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。政清は享徳の乱(享徳3年/1455-文明14年/1483)の際には反幕的態度を取り、寛正4年(1463)に幕命により越後から侵入した上杉右馬頭が足利成氏に通じる高梨政高を攻撃し、政高がこれを中野付近で討ち取った際には高梨氏を支援している。応仁元年(1467)、海野氏が領していた小県郡塩田荘を奪い、応仁2年(1468)には海野荘に攻め入り千葉城(長野県上田市洗馬)の詰口を奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社に送っている。文明2年(1470)海野氏の一族が支配する矢沢(上田市)でも戦っており村上郷から坂木郷に本拠を移したことで海野氏と境を接し摩擦を増し続いていたものと考えられる。一方善光寺平の高井郡や水内郡にも進出し文正元年(1466)高井郡山田郷で井上満貞と戦い、同年の満貞死去はこの合戦との関係や高梨氏との挟撃にさらされたことが考えられる。
 信濃村上氏(衰退・滅亡)・・・・この間の塩田荘代官は・・・・不在期間50年のうち35年福澤入道像阿であった
 村上氏の衰退滅亡(1433)から再興(1468)まて35年余り、義清家督相続(1520)まで87年、この間「塩田庄」を守ってきた者(荘官)がいる。(海野氏統治下を含む)その「荘官」は誰か、史学者たちは触れていない。
 それは「福澤入道像阿」の他に誰がいる。「入道像阿」(1459)-「村上氏衰退・滅亡」(1433)、この間「26年」、海野幸宗の領地下なるも「荘官」としての立場で管理下においていたと考えられる。
 塩田福沢氏に関する新たな説(考察)
 「福澤家の歴史」を調べている過程で「仮説」が浮かんできていた。その「仮説」の信憑性が高まった。
 ①塩田福沢氏の本家は「福澤家」である
 ②「福澤家」は、「嘉禄
3年(1227)北条重時、信濃守護を施行す」より塩田荘の代官を務める
  →「文治元年(
1186)源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す」の代官であった可能性もあり
  →「北条義政」のお付として鎌倉から移ってきたとの考え方もあるが、より古い説に変更したい
 ③「坂木・福沢氏」の出目は「塩田」であり、「福澤家」の分家との考えられる
  →建武
2年(1335)「北条氏残党狩り」で、塩田福沢氏は「塩田庄」から離れ「小泉庄前田」(本家)に
  隠遁、福澤入道像阿の頃に「埴科郡坂木」(分家)に分れたのではなかろうか、地名から苗字でなく、氏
  族から地名も有り得る
 福澤家が本家であるとする根拠
 ①初代先祖
  龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門 明応
2520日(1493)卒
  追善法要を神明寺でなく龍光院(塩田流北条氏の菩提寺)で行っている
 ②子孫
  私の甥の子、第廿四世、第一世享年
60歳とすれば、福澤家は24592年続く家系
 ③通字
  八世(家系図の祖)より
8-10-13-14-15-16-17-22-23世に「時」が付く
 ④墓石に「平氏」
  八世の墓石に「平氏」の刻字あり

 
- 15 - 
 ⑤菩提寺(檀那寺)
  法樹院、墓地は寺の西側にある個人所有墓地(宮澤家と半々)、明治の廃仏毀釈以前は生島足島神社の別
 当神宮寺(廃寺に伴い法樹院に移る)
 ※
福澤家のルーツは北条重時の家臣であったとも考えられる
 福澤家(本家)は戦略家であるとする根拠
 北条氏残党狩り(建武2年/1335)を察知し、前山地区から上田市舞田(当時は小泉庄前田)に隠遁(何時頃か不詳)したと考えられる。「前田」が属す「小泉庄」は、東山道福田郷に属し文化的にも戦略的(小県郡の中心かつ村上郷に地続き)に好立地であるとともに、実家と塩田城、双方から一目で指呼でき、現在の道のりで一里未満(3.5km)、徒歩48分、馬なら常歩で35分、速歩で14分、駈歩なら8分、充分な通勤圏内。坂木村上氏の居城葛尾城ならびに村上の地(福沢氏館跡)へは、山道(舞田峠・室賀峠)、里道(小泉庄経由)いずれでも好し。
 塩田福沢氏(前半)は代官(文官)
 居城は「塩田城」なるも、村上義清の支城の一つ「三水城」(福沢城)と「砥石城」の金剛寺側に「福沢出丸」(監視)があるも数多の村上氏の戦いに名は皆無と言えるほど出てこない。執権北条氏と規模こそ比較にならないが同じ職種である。ノウハウは十二分に習得している。主君が替れど代官職は独占的に105年間(有史)/221年間(推定)に渡り継続・維持している。
 -3塩田城代官福沢氏(前期)関連の年表
西暦 和暦 福沢氏  北条・村上氏 福沢氏(前半)の続柄考察
1277 建治03 北条義政 塩田荘(塩田城)に館を構える  
1333 元弘03 塩田北条氏の滅亡  
1335 建武02     村上信貞に塩田荘12郷が与えられる  
 南北朝時代(1337-1392)末期以前には福沢氏は塩田城に入っていたと考えられる  
1433 永享05 01 龍光院殿山洞源清大禅定門 享年60なら誕生  
1437 永享09 村上頼清、幕府ニ降リ、是日、上洛シテ将軍足利義教ニ謁ス、  
1446 文安03 諏訪社上社御射山祭が始まる  
1448 文安05 諏訪社上社御射山祭頭役 福澤入道像阿 福澤入道像阿;7年間
※系譜考察年度;
1454年間
1454 享徳03 諏訪社上社御射山祭頭役 福澤入道像阿
1455 享徳04 福澤入道像阿死去
村上政清、この頃に信濃村上氏再興
1459 長禄03 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿 福澤入道沙弥像阿;6年間
※系譜考察年度;1454-1459→5年間
→入道像阿と兄弟か
1462 寛正03 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿
1465 寛正06 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥像阿
1468 応仁02 村上顕国 坂木に移り葛尾城を拠点とする  
1469 文明01 諏訪社上社御射山祭 代官福澤左馬助信胤 福澤左馬助信胤;5年間
※系譜考察年度;
1454-1469→15年間
→入道像阿もしくは沙弥の子か
 
1474 文明06 諏訪社上社御射山祭 村上知行代官福澤左馬助信胤
1474 文明06 村上政清 塩田庄を領有下(実質福澤氏)が推察される
1479 文明11 諏訪社上社御射山祭 福澤五郎清胤 ※系譜考察年度;1454-1479→25年間
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西暦 和暦 福沢氏  北条・村上氏 福沢氏(前半)の続柄考察
1484 文明16 諏訪社上社御射山祭 福澤入道沙弥頭賢 ※系譜考察年度;1454-1484→30年間
1489 長享03 諏訪社上社御射山祭 村上福澤左馬助政胤 ※系譜考察年度;1454-1489→35年間
1493 明応02 01 福澤何某/龍光院殿山洞源清大禅定門(没) 五郎清胤・四郎→入道像阿子か孫
沙弥頭賢→沙弥像阿の孫か
左馬助政胤→入道像阿の孫か
1501 文亀01 村上義清 村上顕国の子として葛尾城で誕生
1520 永正17 村上義清 家督相続し葛尾城の当主になる
 塩田城代官福沢氏に的を絞り、最初に名が出てきた「福澤入道像阿」を歴史上の「福沢氏の祖」として、「塩田城代官福沢氏」(前半)の「続柄考察」を行ってみた。
 塩田庄が村上信貞の領地になったのは:建武2年(1335)、坂木村上氏の系譜は多くの説があるものの、「信貞-師国-満信」という説に基ずくと、村上満信の名がでるのは応永7年(1400)「大塔合戦」(大文字一揆)である。福沢入道像阿の名が出るのは大安5年(1448)である。満信より48年後、2代とすれば満信の孫と像阿は同世代となる。信貞に対しては5世代の差、像阿の高祖父の世代に匹敵する。村上信貞は塩田城に入城したという記録は無いので、代官を福沢氏(像阿の高祖父)とした可能性は非常に高い。
 塩田城代官となった「福澤入道像阿」の、それ以前の系譜は全く存在せず推測すら出来ない。代わりに「福澤家」の初代先祖「龍光院殿山洞源(玄)清大禅定門」(明応2年/1493)で見てみよう。享年60歳と仮定すれば、永享5年(1433)生になる。村上満信の名が出ている応永4年(1400)の33年後にな。2代の差、福澤家初代先祖の祖父の子、成人年齢で見れば曽祖父の時代である。
48 49 50 51 52 53 54 55 - - - 59 60 61 62 63 64 65 - - - 69 70 71 72 73 74 - - - - 79 - - - - 84 - - - - 89
像阿 * * * * * * * *
沙弥像阿 * * * * * * *
左馬助信胤 * * * * * *
四郎 *
五郎清胤 *
沙弥頭賢 *
左馬助政胤 *
福澤家 * 初代先祖20
像阿を基準に各氏の続柄(推定世代)
→像阿と沙弥像阿は兄弟(像阿と沙弥像阿は同一人物という説あり)、左馬助信胤は子、四郎も子、五郎清胤は孫、沙弥頭賢は孫、左馬助政胤は曾孫。
 像阿の父-像阿   -左馬助信胤    -五郎清胤-左馬助政胤・・「塩田福沢氏」(後半)に続く?
     ∟沙弥像阿 -四郎(左馬助信胤代理)-沙弥頭賢・・・・・・・・・・・・・・「福澤家」
 -4、塩田城代官福沢氏(後期)関連の年表
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1501
1520
文亀01
永世17
義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
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西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
1582 天正12 武田氏滅亡により真田氏に替った塩田城が廃城となる
成圓院願誉宗本居士(福澤家七世) 前田は小泉から塩田に編入
 塩田福沢氏 その忠誠心は・・・・
 塩田福沢氏(1335-1553218年)、徳川15代将軍(1603-1868265年)、福澤家の歴史(1433-2024591年)。塩田福沢氏は、それぞれの時代における主君への忠誠心ではなく、「塩田庄」(領民)への「誠の心」ではなかったのかと思う。このことを義清は知っていたのだろう。
 福沢昌景 何処へ・・・・
 天文22年の塩田落城後の福沢昌景の消息は、本書状(天文20年/1551蓮華定院文書)を最後に全く不明となる。武田軍に再度敗れた村上義清は再び越後へ逃れ、上杉謙信より領地を与えられ家臣となった。越後へ随行した村上氏家臣の名簿には福沢氏の名前は記載されていない。塩田城自落時、福沢昌景の推定年齢は「父五郎顕胤、天文12年(1543)卒、仮享年60歳」より割り出すと50歳前後と推定できる。
 福沢昌景の去就 こんな説もある
 「保元の乱」(1156)・「平治の乱」(1160)に参戦して敗れた信濃村上氏一族の村上定国は、平家の追っ手を逃れ昔の縁を頼って伊予へ逃れた。そこで伊予村上氏が生まれ、能島、因島、来島の伊予3島で水軍を形成して強大な勢力を保持していた。伊予村上氏は本家信濃村上氏とは親密な関係にあり、年中行事を本家へ報告し、お伺いを立てた記録が残っていると伝えられる。福沢昌景はこの縁を頼って伊予(愛媛県)へ落ち延びる道を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩(大分県中津市)奥平家(未詳)への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢氏、その子孫は無事に幕末(1853-1868)を迎えた。とあり。塩田城自落後、福沢昌景(推定50歳)はこの縁を頼って伊予へ落ち延びる道(甲斐/山梨ルートは武田本拠地)を選び、村上水軍の頭領能島村上武吉(天文5/1536-慶長9/1604)に助けを求めた。村上武吉は快く本家の縁者を受け入れ、豊前中津藩奥平家(初代奥平定能/貞能;元亀年間(1570-1573)への仕官を仲介した。家臣となって落ち着いた福沢昌景の子孫は無事に幕末を迎えた。とあるが、17年後に始まる中津藩主奥平家に「67歳の老人」が仕官出来ようか。
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 戦国時代の税制
 塩田城が自落し、塩田庄における税徴収者が初めて「塩田福沢氏」の手から離れることになる。武田晴信(信玄)は、北信濃経略(川中島進軍)の拠点として、飯富虎昌(おぶとらまさ)ら重臣を常駐させた。そして12年に及ぶ「川中島の戦い」が始まるのである。天正123月(1582)、武田氏滅亡後は真田氏がこの地方を支配し、上田城に政治の中心が移り、塩田城は廃城となった。
 戦国時代の税制は、税入の内、圧倒的に大きいのが領内農民から徴収する「年貢」であった。「年貢徴収」の方法には、「貫高制」(鎌倉時代・室町時代からの徴収方法)と「石高制」(戦国時代に入り貫高制から石高制)が採用されるようになった。それは、土地の広さを基準に課税する貫高制、土地の平均収穫量を基準に課税する石高制。
 戦時下と言えども
12年間、未徴収であったはずは有り得ません。かといって飯富虎昌に徴収能力があったとは思えません。であれば、「誰」が徴収していたのでしょうか・・・・。
 塩田城代官(領主)福沢昌景以降の隠れた代官
 福沢昌景の家臣、塩田以心軒真興が塩田城自落後も当地に残っていたという史料もあるが、彼に代官職が務められるか疑問(敵方に通じるような人物故)が残る。
 当時(
1570-1582)の「福澤家」は、先祖六世(不詳)・先祖七世「成圓院願誉宗本居士」寛永4年(1627)卒、(家系図の祖/福澤市兵衛廣時の父)です。国家による身の安全が保障されれば、「福澤家」が徴収者(代官)であっても不思議ではありません。福澤家は、古くは庄屋であった。また、上田城関係者の別所温泉湯治途次の休憩所であったとも聞いていた。
 塩田城自落以降の福沢昌景の足跡を考えてみよう
 当地における史料「福沢昌景の足跡」は未詳である。従って、「村上義清の滅亡への足跡」を辿り考察してみたい。
 村上義清滅亡への足跡 小県郡全域に迫る領地、その多くを福沢氏に任せ自ら亡命?‼
天文17 1548 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
天文19 1550 砥石崩れ;武田晴信の砥石城侵攻を撃退する
天文20 1551 砥石城落城;砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通し攻略される
天文22 1553 尾城自落;諸城を攻略された村上義清は葛尾城を捨て越後に逃れ長尾景虎に支援を乞う
1553 塩田城自落;武田軍再び北信濃に侵攻し塩田城を攻め義清越後へ逃れる(晴信32歳、義清52歳)
1553 川中島の戦い(一次/布施の戦い);長尾景虎が北信国人衆を支援し初めて武田晴信と戦う
天文24 1555 川中島の戦い(二次/犀川の戦い);晴信vs景虎200日余におよぶ長期にわたる対陣
弘治3 1557 川中島の戦い(三次/上野原の戦い);晴信の勢力伸張に反撃すべく長虎も出陣するが避ける晴信とは未決着
永禄4 1561 川中島の戦い(四次/八幡原の戦い);五回の合戦中で唯一大規模な戦いとなり多くの死傷者を出した
永禄7 1564 川中島の戦い(五次/塩崎の戦い);両軍にらみ合いで終戦
元亀4 1573 義清 越後根知城(謙信の城;糸魚川市根知谷姫川右岸、武田軍の侵攻に備え築城)で病没享年73
 上田平の戦い;天文17年(1548
 上田原の戦いは、天文17214日(1548)に信濃国上田原(上田市)での、甲斐国の戦国大名武田晴信と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失った。合戦自体は村上方にも損害が出ているため痛み分けともとれるが、それまで武田家中の中心だった板垣信方、甘利虎泰を同時に失ってしまった戦いであったため事実上の敗北といえる。
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 砥石崩れ;天文19年(1550
 砥石崩れとは、天文199月(1550)に信濃国小県郡(上田市)の砥石城において、甲斐国の戦国大名・武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清との間で行われた合戦。砥石城の戦いは武田信玄の生涯において、上田原の戦いに次ぐ二度目の敗戦(軍配違い)として知られる。『甲陽軍鑑』によると、武田家中ではこの合戦における敗退を「戸石くずれ」と呼称したという。
 砥石城落城;天文20年(1551
 『高白斎記』によれば、天文20526日(1551)には武田家臣・信濃先方衆の真田幸綱(幸隆)により砥石城は攻略される。真田幸綱は信濃小県郡真田郷(上田市)を本拠とする国衆で、『甲陽軍鑑』によれば、海野平合戦において海野棟綱とともに上野へ亡命すると、甲斐において晴信への家督交代後に出仕し、天文16年(1547)の山内上杉氏との小田井原の戦いにおいて活躍している。『高白斎記』によれば、天文19年の砥石城攻めでは、幸綱は村上方の埴科郡の国衆である清野氏・寺尾氏に対する調略を行っていたという。
 『高白斎記』では天文
20年の幸綱による砥石城攻略を「砥石ノ城真田乗取」と記しており、調略が用いられたと考えられている。後世の軍記物によれば真田一族・矢沢氏が幸綱に内通していたとされ、幸綱の弟にあたる矢沢綱頼が内通者であったとも考えられている。天文221月に、晴信は砥石城に在城する小山田虎満に対して戸石再興のために出陣すると伝えており、幸綱の「乗取」に際しては修築を必要とする火災など城郭に対する被害もあったと考えられている。『高白斎記』によれば、晴信は同年61日に甲斐若神子(北杜市須玉町)まで出陣しているが、この時の本隊の動向は不明。72日に晴信は再び出陣している。これに対して佐久郡の国衆岩尾大井氏の岩尾城主・岩尾行頼(弾正忠)は若神子まで出仕して晴信に降伏している。晴信は砥石城落城後に佐久郡の城郭を整備し、内山城に小山田虎満を配置して支配拠点とした。
 天文
221月(1553)に晴信は「戸石再興」のために戸石方面に出陣し、この時点で砥石城には内山城を離れた小山田虎満が在城している。同年3月に晴信は深志城(松本城、松本市)に終結すると小笠原氏の諸城を落とし、村上方の国衆も武田方に臣従した。
 常田の戦い;天文21年(1552
 『甲陽軍鑑』の「信州常田合戦の事」は、天文213月(1552)地蔵峠で行われた。そもそも、甲越両軍の合戦は、坂城・葛尾城主村上義清が、天文22年(1553)信玄によって坂城を追われ、越後の上杉謙信を頼って行ったことが発端であるから、そのことからも、「常田合戦」には、史実上の疑問点が多い。ただ、戸石城を失った義清が、北信濃の高梨・須田・井上等の豪族と語らい、一矢を報いようと地蔵峠越えに戦いを挑んだことが、誤り伝えられたのかもしれない。真偽のほどは不明である。
 葛尾城自落;天文22年(1553
 村上氏は砥石城という小県地方のひとつの戦略拠点を失いましたが、その勢力は衰えたとはいえません。塩田城と本拠地葛尾城(坂城町)は健在でした。信玄は葛尾城を落として、北信濃に一歩を踏み込む心づもりでしたが、上田原の戦い、砥石城攻めで村上氏に遅れをとったこともあり、初めからの正面攻撃を避け周りをまず押さえ村上氏の背後を攻めるという作戦をたてました。天文22年(1553)信玄は攻略計画を進めますが、それはあくまでも水面下のことでした。128日に書かれた信玄の書状があります。「これから兵を出すが、世間には砥石城再興のための出馬と触れること。必ず砥石の城普請のために信玄と義信(信玄の長男)が出向いたとしておくこと」。これは、佐久の内山城を守る小山田備中守にあてたものですが、村上氏や北信濃の諸将をあざむくために出されたものです。そして実際は松本盆地から苅谷原・会田・麻績・更級の盆地に出たのです。3月中旬甲府を出て、深志(松本市)・苅谷原方面に出陣した武田軍は、43日会田・虚空蔵山を焼き払い、6日には12の隊に分かれて麻績を経て更級方面に進んできました。攻撃を恐れた塩崎氏も屋代氏も急ぎ武田軍に従いました。
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 こうなると、村上氏の周りは武田方に取り囲まれ退路もありません。49日村上氏が守っていた葛尾城には誰もいなくなり村上義清は北信濃へ逃れました。415日から18日にかけて村上氏の幕下にあった小県の室賀氏、更級の大須賀九兵衛は武田方に出仕しました。423日、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しをはかり、同城を守っていた武田方を攻めて於曾源八郎らを討ち死にさせました。しかし、葛尾城の命運は尽きてしまい、元の姿に戻すことはできませんでした。村上義清は須坂の高梨政頼の元へ走り、自分の城へ帰れることを願って6月政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めた。
 八幡の戦い;天文22年(1553
 423日、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しをはかり、同城を守っていた武田方を攻めて於曾おそ源八郎らを討ち死にさせました。しかし、葛尾城の命運は尽きてしまい、元の姿に戻すことはできませんでした。村上義清は須坂の高梨政頼の元へ走り、自分の城へ帰れることを願って、6月政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めました。これにより上杉氏の信濃侵攻の理由もでき、有名な川中島合戦の基ができたわけです。
 塩田城自落;天文22年(1553
 塩田城は独鈷山の支脈、弘法山から流れる神戸川と御前川に挟まれた南北700m、北端東西160m、中央の最広部東西180mで、およそ600mにわたって20数段に及ぶ段郭が階段状に残る。さらに、段郭は神戸川を越えて右岸の前山寺南方から御前沢を越えて西方の竜光院東側山麓にまで及ぶ。城跡の北方に空濠跡が残る。城の主要部分は鎌倉時代から「御前」と呼ばれ、全体からきわめて広大な遺構で県史跡に指定されている。
 室町初期、塩田地方を領有した村上氏が、代官福沢氏を塩田城主として以来、この城は塩田地方の村上支配の拠点となった。天文228月(1553)の『高白斎記』に、「五日向塩田御動、地ノ城自落、本城ニ被立旗。七日戌刻(午後8時頃)飯富当塩田城主ノ御請被申、滅日。八日本城へ飯富被罷登候」とある。また、同年の『妙法寺記』に「八月信州村上殿塩田ノ要害ヲ引ノケ、行方不知ニ御ナリ候、一日ノ内ニ要害十六落申候、分レ捕リ高名足弱イケ取ニ取申候事、後代ニ有間敷候」と記している(信濃史料叢書)。
 前述のように、
福沢昌景守る塩田城は天文2285日(1553)に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。これから信濃の東部、中部は武田晴信の支配圏に入った。晴信は、塩田城に飯富氏を常駐させ、この城を拠点に北信濃経略を開始した。このため、上杉景虎も信濃に出陣し、12年に及ぶ両雄の川中島の戦いが始まるのである。天正103月(1582)、武田氏滅亡後は、真田氏がこの地方を支配し、上田城に政治の中心が移り、塩田城は廃城となった。
 ちなみに・・・・川中島の戦い(第一次合戦);天文22年(1553
 川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。
 天文
224月(1553)、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して長尾景虎に支援を願った。
 5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(千曲市八幡地区武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城(福沢昌景)を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。91日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。
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 一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして920日に越後国へ引き揚げた。晴信は1017日に本拠地である甲斐国甲府へ帰還した。
 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
 長尾景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。「川中島の戦い」(第一次合戦)は、「長尾景虎」と「武田晴信」の戦いではあるが、その前に「村上義清と福沢昌景」の生き残りの戦いでもある。「福沢昌景」の名も世に出て欲しいと思う。以下に「信濃史料」に載る戦いの記録を抜粋してみた。
 蓮華定院過去帳日杯信州小県分(塩田庄分抜粋) 福沢五郎顕胤-福沢顕昌-福沢昌景
春容理明禅定尼 天文11年寅壬316 1542 塩田城御北 福沢氏(顕胤、顕昌の父)の正室だろう
妙純禅定尼 天文11年寅壬316 1542 塩田備前守殿家中 福沢氏重臣で福沢氏一族であろう
預修前匠作舜曳叟源勝禅定門 天文18713 1549 村上塩田福沢殿
安室源恭禅定門 天文12年葵919 1543 塩田福澤五郎殿
妙厳禅定尼 天文19716 1550 塩田与助殿母儀
春曳榮心大姉 天文2233 1551 塩田福澤大方殿 顕昌の妻、昌景の母親
妙貞大姉逆修 天文2222 1551 塩田前山福沢殿局 福沢氏の「奥向きの女性」
 「大方殿」の登牌が福沢氏の最後の記事である。福沢氏はこの5ヶ月後に居城を落とされ滅亡することになるのだが、領主階級にせよ、その家族の状況までうかがえる史料は、小県郡関係では最古のものでもある。また、「塩田城御北」や「大方殿」という呼称からは、福沢氏はやはり有力領主と、周囲からも認識されていた存在であった様子がうかがえる。
 知られざる塩田福沢氏
 「村上義清、家臣」で検索し、「最もページ数」(75頁)を費やしていたサイトでも「 福沢顕昌」(ふくざわあきまさ(15??~15??)昌景の父、村上義清家臣。官途は修理亮。1548年、「第一次上田原の戦い」(前述)で村上義清に従い武田晴信勢と戦い戦功を挙げた。田畑を伊勢大神宮に寄進した。
 塩田城自落以降の福沢昌景の足跡を考えてみよう
 前述のように、福沢昌景守る塩田城は天文2285日(1553)に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。「福沢昌景の足跡」は未詳である。
 前述のように、福沢昌景守る塩田城は天文2285日(1553)に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。これから信濃の東部、中部は武田晴信の支配圏に入った。晴信は、塩田城に飯富氏を常駐させ、この城を拠点に北信濃経略を開始した。このため、上杉景虎も信濃に出陣し、12年に及ぶ両雄の川中島の戦いが始まるのである。天正103月(1582)、武田氏滅亡後は、真田氏がこの地方を支配し、上田城に政治の中心が移り、塩田城は廃城となった。
 さて、ここまで「福澤家の歴史」と「信頼できる資料等」を基に「年表化した歴史」等より、私なりの分析・考察より「一つの歴史観」をまとめてきました。
 
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 村上義清 連珠砦
 「北信濃の雄」と称された「村上義清」が武田晴信(信玄)と対峙するために太郎山山系の山中に20ヶ所前後の城郭(連珠砦)を築いたとされる。義清は領土拡大に固執し、いざ領有化した小県郡全域に及ぶ領地の管理は、ただ一人「福沢氏」に任せきりだったようだ。そんな義清もろね「塩田城」に来て「福沢氏と別れの対面」をした。当時、「福澤家」は「塩田城」とは係りを持っていなかったと思われるが、多分その場に居合わせたと考えられる。短い間に話された内容は想像に足りる。
 時は天文
22年(1553)、キャストは村上義清(52際)、福沢昌景(推定50歳)、福澤家先祖四世 光現院覺忠誓本居士(弘治3年/1557卒)・妻は清光院壽覺妙相大姉(天文20年/1551卒)であったと推察する。
 義清
vs福沢氏;長らく務めた塩田城の代官職有難う。そちも逃げ延びてくれ、良ければ村上水軍へ
 義清
vs福澤家;村上一族、先祖(信貞)の時代から不在期間を含め塩田庄の管理ありがとう。今後も頼む。
 福沢氏・福澤家
vs義清;身に余るお言葉誠に有難く存じ上げます。
        つつがなく越後にお向い下され、途中までお送り申し上げます。
 福澤家で旅支度を用意したのであろう。福澤家からは夫婦で駆け付けたかと思われる。
こんな感じで、「麻績宿」に向かい、そこで村上義清は「麻績-日理-多古-沼辺-越後」に向かったと考えられる。
 福沢昌景、伊予への亡命の道
 塩田流北条氏時代から都への道は、塩田城下より「鎌倉道」がある。しかし、塩田城下の前山地区から武田勢に占領されている。「鎌倉道」を避け東山道へと抜けたとせよ、まさに武田の本領甲斐国を抜けなければならない。100%不可能な選択肢である。
 残された選択肢は東山道、錦織からの越後道(塩田城から麻績-日理-多古-沼辺-越後へ)、もう一つは「鬼無里-白馬-糸魚川」に抜け東山道(北陸道)、琵琶湖経由で瀬戸内海(河内国)へ、いずれにせよ気の遠くなる遠路である。塩田福沢氏(後期)は村上勢下で参戦していたこともあり、前期福沢氏の文官(代官)ではなく武官(領主-城主代)である。そんなこともあり塩田城自落時、村上義清から伊予村上氏(能島村上武吉)を頼り落ち延びる事を勧められたのではないかと容易に想像できる。(この説について詳しい知人にご教授を頂き、更に分析・考察を進めてみたい)
 塩田福沢氏より古い「福澤家のルーツ」
 「福沢」は、信濃国更級郡福沢(坂木/現坂城町)が起源である。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏、清和源氏村上氏流とある。だからといって、塩田城代官「塩田福沢氏」は清和源氏村上氏流と決め付けてよいものか・・・・
 「福澤家」(八世)の墓石に「平氏」という大きな刻字がある。「平氏」傍系子孫に、鎌倉幕府初代執権「北条時政」が名を連ねている。「塩田城」は村上氏の時代に整備されたが、塩田城と同じ地(前山)に「北条義政」という先客が居る。前述の「清和源氏村上氏流」である「坂木福沢」を否定しないが、「平氏塩田北条流」の「塩田福沢」も無視すべきではないと主張したい。特に、「塩田城代官福沢氏」と的を絞っての歴史を考えた場合、「福澤家の歴史」も参考にして頂きたいものである。
福澤家第廿二世より 合掌  
 新たな歴史の 1page に・・・・乞うご期待



 
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