family history考Ⅱ Fukuzawa
村上氏と福沢氏(福澤家を含む)の関係を考察
 はじめに
 「福澤家の歴史」を調査・分析する早い段階で、「村上氏と福沢氏の関係」に違和感を感じた。今回、それが何であるかを考察し「ある事実」に気付いた。「福澤家」は「荘官」であったのではなかろうか・・・・
 Ⅰ、時代背景(日本史・郷土史)
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1073 延久05 白河天皇即位、この頃から武士たちは自分の支配する土地の地名を名字として名乗りはじめた
1094 嘉保01 惟清;白河上皇を呪咀するに依り参河守源朝臣惟清及び父子兄弟を配流に処す
盛清;惟清(これきよ)の弟盛清信濃に流さる(源→村上)
1174 承安04 国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院(後白河天皇の女御/女官)に寄進され最勝光院領塩田荘が成立
1186 文治01 源頼朝、惟宗(島津)忠久を小県郡塩田庄地頭(じとう)職に補す
1203 建仁03 比企能員(ひきよしかず)の変
1217 建保05 小泉庄関連、泉親衡(いずみちかひら)の乱
1221 承久03 幕府、島津忠久を水内郡太田庄地頭に補す
1226 嘉禄02 最勝光院(後白河法皇の御願寺)が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
1227 嘉禄03 北条重時(2代執権義時の子)、信濃守護を施行す
    福澤家の源(初代先祖の高祖父の高祖父)は、1227-1273 辺りと推察(北条義政、塩田荘に遁世する前)
塩田福沢氏は南北朝(1337-1392)末期以前(北条氏の代官)には塩田に入っていたとの説あり
1247 建長01 塩田流北条氏の塩田荘は「信州の学海」と称されるほど禅宗文化の中心地となった
1273 文永10 義政;叔父政村の死去を受け連署に就任
1277 建治03 義政;連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
1281 弘安04 義政;塩田荘にて死去
1325 正中02 幕府;山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す 小県郡塩田庄東寺被物月宛を課せらる
1328 嘉暦03 小泉庄関連、小泉庄(泉親衡の乱後)の分断知行
1329 元徳01 国時;諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す
1330 元徳02 国時;諏訪社上社七月頭役勤仕のため所領小県郡塩田庄に赴くにあたり金沢貞顕を訪ふ
1331 元弘01 義光;元弘の乱・討幕運動で村上義光(義日)等之に供奉す
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞軍に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
1335 建武02 北条氏残党狩り
信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1387 嘉慶01 頼国;小笠原長基・高梨朝高等 信濃守護斯波義種に叛し兵を善光寺に挙ぐ
1400 応永07 満信;満信;大塔合戦(大文字一揆)信濃国守護小笠原長秀と東北信国人との戦い
1403 応永10 満信;幕府方細川慈忠との戦いで国人方の中心であった村上氏は勢力拡大(最盛期)
- 1 - 
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1433 永享05 中務大輔(持清?);鎌倉公方に加勢、歴史より名が消える(衰退・滅亡?)
1433 永享05 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1439 永享09 村上安芸守某(満信)、幕府に「降参」、これをもって信濃の国人すべて小笠原氏に服従
1441 嘉吉01 嘉吉の徳政一揆、農民にも名字を与える武士がでてくる
1448 文安05 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1454 享徳03 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1459 長禄03 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1465 寛正06 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1468 応仁02 政清;海野幸棟より塩田庄を奪い取る
1469 応仁03 左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
1474 文明06 村上知行左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479 文明11 村上兵部少輔政清御知行五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
1483 文明15 文明の内訌(ないこう;諏訪家の内紛)
1484 文明16 村上福沢入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭
1485 文明14 福沢(頭賢)殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 村上福沢左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(是を最後に記録途切れる)
塩田福沢氏「空白の41年」(1489-1530)是を持って便宜的に前半と後半に区分する
1493 明応02 明応の政変;戦国時代へのキッカケ
龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501 文亀01 義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
1520 永世17 義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
- 2 - 
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1553 天文22 昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
小泉庄関連、小泉氏に所領安堵
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士(福澤家四世)
1561 永禄04 川中島の戦い(第四次合戦/大激戦)
1573 元亀04 義清;越後で病死
1578-1603 舞田村は小泉庄から塩田庄に移っている
1583 天正11 上田城完成に伴い塩田城廃城(真田昌幸)
天正年間 福沢薩摩守政隆 福泉寺(坂城町)塩田福沢氏菩提寺として建立
1627 寛永04 成圓院願誉宗本居士(福澤家七世)
1654 承応03 福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士 福澤家八世、家系図の祖
1686 貞享03 廣時の妻 福松/自性院空誉理貞大姉
 Ⅱ、村上氏の衰退・滅亡から再興
衰退(1433)  滅亡  再興(1468
 「村上信泰」-「信貞」-「師国」-「満信」-「中務大輔」(持清) 海野領 -「成清」-「信清」-「清政」
-「政国」-「顕国」-「義清」
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1335 建武02 信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1387 嘉慶01 頼国;小笠原長基・高梨朝高等 信濃守護斯波義種に叛し兵を善光寺に挙ぐ
1400 応永07 満信;満信;大塔合戦(大文字一揆)信濃国守護小笠原長秀と東北信国人との戦い
1403 応永10 満信;幕府方細川慈忠との戦いで国人方の中心であった村上氏は勢力拡大(最盛期)
1433 永享05 中務大輔(持清?);鎌倉公方に加勢、歴史より名が消える(衰退・滅亡?)
 「中務大輔」(持清・植清)、関東公方足利持氏に属し上総久留里(千葉県君津市)に住した。その子「成清」も関東公方足利成氏に仕え信濃に一旦戻るも「政国」が大きな顔をしているので久留里に戻り後に死す。
 「政国」(祖父)-「顕国」(父)、ここまで不詳。-「村上義清」と続く。改めて「義清」について記す。
信濃村上氏「村上義清」(
1501-1573)は、河内源氏の庶流村上氏の嫡流。「左衛門督村上顕国」(頼平・頼衛)を父とし、母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護小笠原長棟の娘。戒名は日滝寺殿紅雲正清公大禅門。
 村上氏の衰退滅亡(1433)から再興(1468)まて35年余り、義清家督相続(1520)まで87年、この間は海野氏の統治下であった。
・小笠原氏の内紛と村上氏の再興
 小笠原政康の死後、小笠原惣領職をめぐって政康の長男小笠原宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた政康の甥の小笠原持長との間で家督相続をめぐって争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐でも功績があり、幕府の実力者管領畠山持家とも縁戚関係にあり問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃国との縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され、小笠原宗康が信濃守護職に補任された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分れ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。文安
3年(1446)、小笠原宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にしたした場合は光康に惣領職を譲り渡すと取決め、漆田原で持長軍と戦ったが敗れて討ち死にしてしまった。
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 持家は宗康を討ち取りはしたが、家督は光康に譲られていたため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に与えた。その結果、持家と光康の対立は続いた。その戦乱の中で村上氏は着実に勢力の回復を図り、中信濃と南信濃に分れて対立する小笠原氏を尻目に来た信濃を手中に収めていった。
 この当時の村上氏の当主は、頼清の子、または孫と思われる政清であった。政清は「享徳の乱」(
1454-1482、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏との抗争に始まる)の際には反幕府態度を取り、寛正4年(1463)に幕命により越後から侵入した上杉右馬頭が足利成氏に通じる高梨政高を攻撃し、政高がこれを中野付近で打ち取った際には高梨氏を支援している。
 応仁元年(
1467)、海野氏が領していた小県郡塩田庄を奪い、応仁2年(1468)には海野庄に攻め入り千葉城(せんばじょう、上田市洗馬)の詰口を奪いこの時陣中から頭役料を諏訪上社に送っている。文明2年(1470)海野氏の一族が支配する矢沢(上田市)でも戦っており村上郷から坂木郷に本拠を移したことで海野氏と境を接し摩擦を増し続いていたものと考えられる。一方、善光寺平の高井郡や水内郡にも進出し文正元年(1466)高井郡山田郷で井上満貞と戦い、同年の満貞死去はこの合戦との関係や高梨氏との挟撃ちにさらされたことが考えられる。
 それは「福澤入道像阿」の他に誰がいる。「入道像阿」(1459)-「村上氏衰退・滅亡」(1433)、この間「26年」、海野幸宗の領地下なるも「荘官」としての立場で管理下においていたと考えられる。
 Ⅲ、「荘官」としての「福澤家の歴史」考察・・・・「塩田福沢氏」(後期)より遡り、時系列に戻す
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1227 嘉禄03 北条重時(2代執権義時の子)、信濃守護を施行す
1277 建治03 北条義政(重時の子);連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)
 この間「50年」、澤家の源(初代先祖の高祖父の高祖父)は、1227-1273 辺りと推察(北条義政、塩田荘に遁世する前)
塩田福沢氏は南北朝(1337-1392)末期以前(北条氏の代官)には塩田に入っていたとの説あり
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1281 弘安04 義政;塩田荘にて死去
1333 元弘03 国時・俊時;鎌倉に救援し新田義貞軍に破れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害
 義政の死後、国時・俊時は鎌倉で執務を行っている。この間、塩田庄は不在であり「代官」を置いていたことは明らかである。その代官は「福澤家」であったことは疑いの余地はない。(最初は、ここが福澤家の源と思った
1335 建武02 信貞;新田義貞軍との戦いにおける戦功として塩田荘が与えられる
1433 永享05 中務大輔(持清?);鎌倉公方に加勢、歴史より名が消える(衰退・滅亡?)
 「塩田庄」の領主は「塩田流北条氏」から「村上信貞」に変わった。領主が変っても領民は変わらない。税徴収の責任者は、税徴収の仕組みに精通し、領民から信頼されている。更に、幕府からの信任もされている「荘官」職が存在している。塩田庄における該当者は「福澤家」であったと推定できる。(信貞-師国-満信/最盛期-中務大輔/持清)
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1433 永享05 中務大輔(持清?);鎌倉公方に加勢、歴史より名が消える(衰退・滅亡?)
1467 応仁01 政清海野幸棟より塩田庄を奪取し村上氏再興を遂げる
 村上氏の衰退・滅亡、そして再興、この間35年は海野幸棟が塩田庄を領有する。この間の「荘官」は「福澤家」が務めたと思われる。後に、再興を果たした村上氏は「福澤家」に「ただならぬ恩」を持つことになったのであろう。これこそ、「福澤家の歴史」を調べ始めて最初に感じた「村上氏が福澤家に対する特別対応」であったと考えると府が落ちる。そして、「福澤家」から「村上福澤家」が分家として坂木に館を設けた時期かと推察する。「左馬助信胤」より「村上」の表示あり。この間で「福澤家先祖一世」が誕生している。
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塩田福沢氏「空白の41年」(1489-1530)是を持って便宜的に前半と後半に区分する
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1493 明応02 明応の政変;戦国時代へのキッカケ
龍光院殿山洞源清大禅定門卒(福澤家一世)
1501
1520
文亀01
永世17
義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 村上五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
義清;砥石城落城
1551 天文20 清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
1557 弘治03 光現院覺忠誓本居士卒(福澤家四世)
 この間52年(塩田福沢氏後半)、福沢五郎顕胤より「村上代官」から「塩田領主」と名乗るようになっている。
 Ⅳ、「福澤家」と「村上福澤家」の関係
 両家の祖は同一であろう。「福澤家」の「通字」は「時」、「村上福澤家」の「通字」は「胤」、「村上福澤家」は「村上氏」の代官になって「領主」への忠誠の表しで「胤」にしたと考えられる。不鮮明な村上氏の系譜の中で坂木福澤家が発生したとは考えにくい。
 「村上福澤家」は何時から・・・・
 「村上氏」の衰退・滅亡(1433)、そして再興(1468)という歴史において、「村上氏の再興」(1468)後、福沢入道像阿の頃に「村上福澤家」(分家)があったと考えられる。
像阿を基準に各氏の続柄(推定世代)
→像阿と沙弥像阿は兄弟(像阿と沙弥像阿は同一人物という説あり)、左馬助信胤は子、四郎も子、五郎清胤は孫、沙弥頭賢は孫、左馬助政胤は曾孫。
 像阿の父-像阿   -左馬助信胤    -五郎清胤-左馬助政胤・・「塩田福沢氏」(後半)に続く?
     ∟沙弥像阿 -四郎(左馬助信胤代理)-沙弥頭賢・・・・・・・・・・・・・・「福澤家」
 
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 Ⅴ、荘官
 「荘官」(しょうかん)とは、荘園領主から任命され、荘園内の年貢の取立、治安維持等の現地管理を委ねられた者の総称。「荘園領主」が交代しても、現地管理は継続するので「荘官」は変わらない。
 室町時代に入った頃から、荘官は在地領主としての国人へ変質した。それでも荘官は荘園制とともに戦国時代まで存続したが、荘園が解体した太閤検地(
1582-1598)により荘官も消滅した。
 「福澤家」は、「北条重時」時代から「塩田福沢氏」(後期)まで「荘官」職を務めていたと考えられる。
 塩田福沢氏より古い「福澤家のルーツ」
 「福沢」は、信濃国更級郡福沢(坂木/現坂城町)が起源である。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏、清和源氏村上氏流とある。だからといって、塩田城代官「塩田福沢氏」は清和源氏村上氏流と決め付けてよいものか・・・・
 「福澤家」(八世)の墓石に「平氏」という大きな刻字がある。「平氏」傍系子孫に、鎌倉幕府初代執権「北条時政」が名を連ねている。「塩田城」は村上氏の時代に整備されたが、塩田城と同じ地(前山)に「北条義政」という先客が居る。前述の「清和源氏村上氏流」である「坂木福沢」を否定しないが、「平氏塩田北条流」の「塩田福沢」も無視すべきではないと主張したい。特に、「塩田城代官福沢氏」と的を絞っての歴史を考えた場合、「福澤家の歴史」も参考にして頂きたいものである。
 これに基づくと、「塩田城代官福沢氏」(後領主)と「福澤家」(本家)は一族であり、そのルーツは、嘉禄
3年(1227)、北条重時(極楽寺流北条氏、2代執権義時の三男)まで遡るかと考えられる。「村上福澤氏」は、「塩田福沢氏」(前期)の祖は「福澤入道像阿」となり、「福澤家」からの分家になる。
 「信濃村上氏」は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を示す。とあるも、村上信貞以降、村上義清までにおいても、その系譜は諸説あり、同期間で衰退・滅亡している。福澤入道像阿の世代で再興村上氏の家臣になったにせよ系譜まで村上氏に書き換えることは通説であるにせよ如何かと思う。
 通説を変える考えは全くなく、福澤家と村上福澤家の同族を否定されても、福澤家のルーツは、「極楽寺流北条家」との関わりの中にあるとの確信は変えられない。また、「福澤家」伝承の先祖一世「龍光院殿山洞源清大禅定門」は、「塩田城代官福澤氏」(前期)を生涯として生きていたことは事実である。そして、どちらが古いか、そのルーツを辿る「通字」「平氏」という裏付けも「福澤家」には現存している。ここで述べたいことは、「塩田城代官」ということでなく「福澤家のルーツ」であることは忘れてならないことである。
※坂城町に「福泉寺」というお寺がある。天正年間に、福沢薩摩守政隆公が塩田城代官福沢氏を追贈すべく創建した寺という。「福沢薩摩守政」公の位牌を拝見、法名は「福泉院殿仏光法大禅定門」であった。福澤家の先祖一世「龍光院殿山洞源大禅定門」、同世代の「塩田城代官」に「福澤五郎胤」(1479)が居る。これが「何」を意味するか知る術はない。「龍光院殿山洞源大禅定門」の俗名が判明したら「通説」は根幹から崩れてしまう可能性もある。
※先に記した①「通字の時」、②「先祖八世の墓石に刻まれた平氏」、③「檀那寺が生島足島神社の別当神宮寺」など、歴史的事実が片手ほどある。
 -1、塩田福沢氏(前期)
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1433 永享05 龍光院殿山洞源清大禅定門誕生(享年60とした場合)
1441 嘉吉01 嘉吉の徳政一揆、農民にも名字を与える武士がでてくる
1448 文安05 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
1454 享徳03 入道像阿;諏訪社上社御射山祭の頭役
- 6 - 
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1459 長禄03 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1465 寛正06 入道沙弥像阿;諏訪社上社御射山祭の左頭
1469 応仁03 左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の左頭(代 四郎)
1474 文明06 村上知行左馬助信胤;諏訪社上社御射山祭の上増
1479 文明11 村上兵部少輔政清御知行五郎清胤;諏訪社上社御射山祭の左頭
1484 文明16 村上福沢入道沙弥頭賢;諏訪社上社御射山祭の左頭
1485 文明14 福沢(頭賢)殿善光寺江仏詣候
1489 長享03 村上福沢左館助政胤;諏訪社上社御射山祭の右頭(是を最後に記録途切れる)
1493 明応02 明応の政変;戦国時代へのキッカケ
龍光院殿山洞源清大禅定門(卒)
 像阿(1448・1454)/沙弥像阿(1459・1465)-左馬助信胤/代四郎(1469・1474)-五郎清胤(1479)-沙弥頭賢(1484・1485)-左館助政胤(1489)と名が並ぶ。以下に系譜化を試みた。この間41年、通常なら2代であるが4代になっている。
  像阿の父-像阿   -左馬助信胤      -五郎清胤-左馬助政胤・・・・「塩田福沢氏」(後半)に続く?
      ∟沙弥像阿 -四郎(左馬助信胤代理)-沙弥頭賢・・・・・・・・・・・・・・・・「福澤家」
福沢氏記録なし(41年≒2代)     
 -2、塩田福沢氏(後期)
西暦 和暦 全国史 信濃史 北条氏 村上氏 福沢氏 福澤家
1501 文亀01 義清;顕国の子として葛尾城にて誕生(顕国の史料ほぼ無し)
1520 永世17 義清;家督相続し葛尾城主になる
1530 享禄03 (村上)五郎顕胤;蓮華定院宛文書
1541 天文10 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握
1542 天文11 蓮華定院過去帳日牌;春容理明禅定尼(塩田城御北/顕胤正室)
1543 天文12 福沢五郎顕胤 卒 安室源恭禅定門
1544 天文13 福沢顕昌(修理亮);伊勢大明神宛寄進状(内村を寄進)
1545 天文14 塩田真興;蓮華定院に月牌料を送る
1547 天文16 塩田以心軒真興;蓮華定院過去帳日牌(母儀/玅善禅定尼)
1548 天文17 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
1549 天文18 蓮華定院過去帳日牌;預修前匠作舜曳源勝禅定門 (村上塩田福沢殿)
1550 天文19 義清;砥石崩れ
1551 天文20 昌景;蓮華定院宛文書
1551 天文20 義清;砥石城落城
清光院壽覺妙相大姉(福澤家四世覺忠誓本の妻)
1553 天文22 義清;葛尾城落城 川中島の戦い(第一次合戦)
昌景;塩田城自落(これを最後に塩田流福沢氏の記録なくなる)
海野平の戦い-塩田城自落(1541-1553) 22年間が「塩田福沢氏」の極最盛期
 - 7 - 
 塩田福沢氏(後半)の記録(21年=2代)
 五郎顕胤と昌景の記録(1551-1530=21)より、「塩田福沢氏」(後半)は「親子」とみて良いだろう。「顕胤(1530-1544/14)顕昌(1544-1551-7)昌景」の関係から、顕昌と昌景は「兄弟」とみて良かろう。
 正に、「顕胤-顕昌・昌景」親子は「村上義清」と共に戦国時代初期における「信濃塩田庄→小県郡全域」を手中に収め「最盛期」を生きたのだろう。
 -3、塩田福沢氏と福澤家(一世から四世)の関係
極楽寺流北条家 塩田流北条家 村上家A 海野家 村上家B
領主 重時 義政-国時-俊時 信貞- 師国-満信-中務大輔 幸棟 政国-顕国-義清
代官 (福澤家) (福澤家) 村上福沢家
荘官 (下司福澤家)・公文左衛門少尉大江 (福澤家) (福澤家)
 村上家Aの時代に「代官」は存在しているが、その後の海野幸棟が領主になっている。このことを考えると、「村上福沢家」がこの頃から代官になったとは疑問が残る。義清と村上福沢家の関係を考えると「福澤家」が荘官を務めたと考えるのが自然かと思う。村上家ABの「橋渡し」に一役担ったと考えると戦国時代っぽくて面白い。これが事実だと村上義清は福沢五郎顕胤に一目を置くのも理解できる。村上家の中務大輔(本流)は政国(庶流)に対して「偉そうに」と吐き捨てたとか・・・・
※是より興味深い記事(荘官の起源か?)「荘園公領制」11世紀中頃-12世紀初め
・荘園の職(しき)と得分(とくぶん)
 寄進地系の荘園といっても、実際のところは何をどうやって寄進したのでしょう。開発領主が寄進した土地は、寄進された人の所有となります。しかし、その荘園で生活している荘園の農民については、支配できるだけで、所有物となるわけではありません。寄進の場合、常田庄や海野庄を例に考えてみると、開発領主が都の八条院庁や藤原氏の氏長者の政所に出向いて寄進を申し込んで開発領主の地位を守ってくれるよう、直接に頼み込めるはずがありません。一般的に歯、まず手づるがつく中間の勢力者に寄進します。中間の勢力者は、何らかのつてを求めて更に上級の有力者に寄進し、荘園の保護を求めました。こうして、二段階の寄進によって成立したといわれています。荘園の所有者を「領家」といいました。領家となった八条院暲子内親王や関白が、常田庄や海野庄の年貢の納入や労役の割り当ての面倒をいちいちみるわけにはいきません。そこで、
荘園は多くの場合、これらの荘務をみる役をおきました。今は「預所」(あずかりどころ)といいますが、とうじは「あずかっそ」と呼びました。預所は、第一段から第二段の寄進を勧めた中間の勢力者が任じられる場合が多くありました。預所はやはり領家の近くや都に住む人が多いので、信濃の荘園とは、かけ離れた都に住んでいます。そのため、預所と連絡を取り、現地で荘園の管理をする荘園の「下司」(げし)がおりました。この下司には、第一次の寄進者である開発領主が任じられた場合が多いとみられています。荘園の中のある地域を分担し、下司の配下となり手先となって荘園の実務を進めた者が「公文」(くもん)です。寄進を受けた荘園の領家となった荘園領主の中には、取り消されることがなお心配で、さらに上位の有力者に領主や領家自身の取り分を割いて寄進し、荘園が取り消されないよう保護を依頼しました。寄進を受けた最上位の者が荘園に対してどれだけの権限を持てたのかは、寄進のときの契約によって異なりましたが、寄進を受けた人を、本家とか本所と呼びました。寄進地系荘園に係るそれぞれの職分は、次のように階層的になっていました。
 [本家(本所)-領家(領主)-預所-
下司公文
 荘園の農民は、勿論、年貢を出さなければなりませんでしたし、労役にも駆り出されました。土地の私有者である本家または本所から田畠を貸し与えられ、その御恩に報いる奉公として年貢や公事を勤めると考えられていました。農民から納められている年貢や公事を、本家から公文までの人達は、職分に応じ、寄進時の契約に従って取り分を持ったのです。このような取り分が付随した職分のことを、当時は「職」(しき)と呼び、職に伴う取り分のことを「得分」(とくぶん)といいました。
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※重複するも別記事があったので補記
・荘官
 荘官は、荘園制において荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、
寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。
・成立
 平安時代中期の
10世紀後半から11世紀にかけて、「田堵」(たと、有力農民層のこと)が国司に認められた免田(租税免除された田地)を中心に田地の開発を進め私有化していった。(このような田堵を開発領主という)。しかし、そうした土地の所有権に係る法的根拠は極めて薄弱であり、国衙によって収公されるおそれが強かった。そのため田堵は所有地を中央の有力貴族や有力寺社へ寄進することで、租税免除と土地支配権の確保を図っていった。寄進を受けた荘園領主を領家というが、寄進の際、開発領主は領家から下司(げし、げす)や公文(くもん)、出納などに任命されることにより、現地管理者としての地位を保全された。これらの下司や公文などを総称して「荘官」という。一般的に荘官には荘園の一部から「給田」が与えられた。給田は免田とされ、収穫は全て荘官の得分となった。なお、下司とは、上位の荘園領主を上司と見たときの対比から生まれた呼称であり、また公文は荘園管理のための帳簿や文書を扱うことからきた呼称である。領家からさらに皇族や摂関家へ荘園を寄進されることもあり、この最上位の荘園領主を本家という。本家・領主のうち、荘園の実効支配権(荘務)を持つ者を「本所」といったが、本所が自らの荘園支配を強化するために、家臣を現地へ派遣し、下司や公文などを指揮監督することがあった。この現地へ派遣された者を預所(あずかりどころ、あずかりっそ)という。預所も荘官の一つである。そのうち、開発領主(下司や公文に任命された者を含む)の中から預所に任じられる者も出てきた。
・武士化
 荘園の支配・管理は、現代のように明確な法規定があった訳ではなく、荘園領主の権威に依存する不安定なものであった。そのため、他の荘園の荘官や国衙との間に、荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が発生することも多く、荘官がその対処に当っていた。当時、中央の官職に溢れた武士身分の下級貴族(軍事貴族)が多数、地方へ下向してきており、荘官たちは荘園を巡る紛争解決のために、それらの武士貴族と主従関係を築いていき、中には
武士となる荘官も現れた。
・変質
 鎌倉時代になると、
鎌倉幕府によって御家人や地頭として認められる荘官も出てきた。このことは、荘園領主による地位保全では十分とは言えなくなり、新たな権威として台頭してきた幕府を頼り始めたことを意味する。荘官は次第に荘園領主(本所)を軽視していき、本所の権益を奪うようになっていった。室町時代に入った頃から、荘官は在地領主としての国人へ変質した。それでも荘官は荘園制とともに戦国時代まで存続したが、荘園が解体した太閤検地により荘官も消滅した。ただし、江戸時代も荘官の名残りとして「庄屋」や「名主」などの呼称は残った。







「荘官の武士化」を目にして
 「福澤家」(荘官)
vs「塩田城代官村上福沢氏」(武士)の考え方に改めて自認する。
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