family history考察(前史の研究) |
平安初期の上田小県郡 |
はじめに |
(福澤家の歴史」調査で上田市誌を三冊買い込んだ。その、上田市誌⑥「東山道と信濃国分寺」より興味を持った部分を抜き出してみた。 第一章 正倉院宝物が語る上田小県地方 第二章 上田市域を通る東山道 第三章 信濃国府と信濃国分寺 第四章 平安初期の上田地方 第五章 上田地方の古代人のくらし いずれの章も興味があるも「第四章平安初期の上田地方」に的を絞ってみた。 |
Ⅰ-1、「延喜式」と小県郡 |
「延喜式」(平安時代中期に編纂された律命の施行細則をまとめた法典/927年に成立、967年に施行、50巻で構成)巻二十二「民部上」の中には、全国を幾内(きない;天皇が住む都と周辺地域)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分け、それぞれの道に属する国をあげ、その国ごとに郡名が書きあげられてあります。信濃国が所属していた「東山道」のところには、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八つの国名が記され、各国ごとに郡名が書かれています。信濃国は次のように記されています。 信濃国 上管 伊那・諏訪・筑摩・安雲・更科・水内・高井・埴科・小県・佐久 これによると、当時の信濃は上国(じょうこく;面積・人口で四等級に分け、大国・上国・中国・下国)で10郡あったことが分ります。現在の郡名と基本的には変わっていません。現在の木曾郡・旧西筑摩郡は、古くは美濃国に所属していました。これらの郡名は「延喜式」(10世紀)より古く8世紀中頃には既に成立していた。 |
Ⅰ-2、「和名抄」と小県七郷 |
「延喜式」は国とその国に所属する郡があげられているのに対し、「和名抄」廿巻本(和名類聚鈔;わみょうるいじょうしょう)には、それに加えて、それぞれの郡に属する郷名が記されています。その中で最も古い「高山寺本」(京都高山寺)に記載されている信濃の郷は、「国郡部」では郡・郷まで知ることが出来ます。 小県郡七郷 童女郷(おむなの)・山家郷(やまがの)・須波郷(すわの)・跡部郷(あとべの)・安曾郷(あその)・福田郷(ふくだの)・海部郷/餘戸郷(あまべの/あまるべの)です。更級郡・水内郡と同様に面積に比べて多くの郷が存在していたわけで、当時の人口密度は高かったと推察されます。 50戸一里(郷)という「令むの規定から考えて御野国(美濃国)加毛郡半布里(大宝2年戸籍)の例一戸20人前後で58戸、一里の人口1,100人から推計すると小県郡八郷て9,000人近く、200年後の和名抄の時代に至る人口増加を考慮して一戸(郷戸)の平均人数を50人とすると、一郷の人口は約2,500人小県郡七郷(八郷)の総人口は約17,000-20,000人ぐらいと推計できます。 |
・童女郷 現在の東御市(東部町)本海野付近から神川流域の豊殿地区(上田市)までの地域、その中心なる本郷は本海野地区の大平寺地籍(海野館/大平寺城跡)辺りにあったと考えられています。古代は、本海野一帯を「海野郷」と言われていた。 |
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・山家郷 「山家」は訓に「也末加」とあるので「やまか(が)」と読む。おそらくは、山あいに位置した郷という意味合いからの郷名ではないかと考えられる。「和名抄」には筑摩郡の中にも同名の「山家郷」がある。こちらは「也末無倍」(やまむべ)、諏訪郡に「山鹿郷」があり「也万加」(やまか、やまが)と訓じられ、小県郡の山家郷と同じく地形の特色からの郷名かと思われる。小県郡真田町字真田に「山家」という小字があり、そこには延喜式内社の山家神社が祀られている。山家郷は、この山家神社一帯付近を本郷として、神川下流域にある集落の下郷を含む真田町(上田市)域一帯に当ると考えられる。この郷は近世に活躍した真田氏の発祥の地域でもあります。 |
・須波郷 須波は諏訪と同じ、上田市の中央を東から西に流れる千曲川の南岸に諏訪形集落があり、北岸にはやや下流にかけて諏訪部集落がある。諏訪形は諏訪県で諏訪部と深い関係が考えられ、諏訪氏の系に属す部(べ)または県(あがた)がこの地域にあったと考えられる。諏訪形と諏訪部の二集落は、千曲川を挟んで一するも、往古は近接しており千曲川の流路の変化によって現在のようになったと考えられる。当時、千曲川は諏訪形の南の段丘下を流れていたと思われる。これらより、須波郷の郷域を考えると、諸説あるも、諏訪形・諏訪部の二集落を中心として、旧上田市全域(旧上田城下・塩尻村・城下村等)を含む地域と考える説が有力です。 |
・跡部郷 小県郡の「跡部郷」は「あとべ」と読んで間違いないでしょう。この郷の所在地については二、三の説があります。跡部郷は上田市西方の旧浦里村・旧室賀村さらには青木村にかけての一帯ではないかと推察されます。その本郷は青木村の当郷であったと思われます。この地域一帯は、延喜の官道といわれる東山道の道筋であり浦野駅が置かれたと推定される地域です。中世になってから浦野荘といわれた荘域の前身が跡部郷のおよその範囲角思われます。 |
・安宗郷 上田市の南東の塩田平の南にそびえる独鈷山の北の山麓に阿曽岡といわれている所があります。その南方の山を阿曽岡山と呼んでいます。さらに、阿曽岡の北方約2kmには本郷という集落があります。これらのことから、安宗郷は、本郷を中心として上田市塩田平一帯を含む地域であったことはほぼ間違いないものと考えられます。この安宗郷が古代の信濃国の政治の中心地であったことは、式内大社の生島足島神社(上田市下之郷)の存在によっても明らかであり、九州阿蘇にその出自をもつ一族が大和国十市郡に定着し、多氏を名乗り、欽明天皇のころ信濃国造となり、小県郡の塩田平のこの神社を中心とする一帯にその本拠を構えたところとも言われています。安宗郷の名は九州の阿蘇にかかわって名づけられたものといわれています。この郷の後身が中世の塩田荘と考えられています。 |
・福田郷 上田市の南西の福田(旧泉田村)を本郷として、その周辺の平坦地一帯を含めた地域であったことは、間違いありません。その範囲には諸説あるも、福田郷は福田を中心として、小泉・吉田・築地・上田原・神畑・小島などの浦野川・産川下流域の沖積地一帯かとも考えられます。 |
・海部郷 「安末無倍」(あまむべ)と訓じられている。「海部」というのは「海人部」とも書き、大化改新以前の部民の一つで漁業を中心としてその産物を中央に献納していた部民です。ところで、海のない小県郡に漁業に従事した海部一族が中心として住んでいた郷「海部郷」があったことは不思議に思われますが、実は古代には千曲川など大河の上流域は鮭などの遡上してくる絶好の漁場であり、山国の信濃からの魚類(主に鮭)が多く献上されています。 |
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10世紀半ばに編集された「延喜式」には信濃から貢納品が記され、「中男作物」(17-20歳の男子に課せられた税)の中に鮭楚割(さけのすわやり)・氷頭(ひず)・背膓(せわた)・鮭子(さけのこ)などがきされていました。その「海部郷」の所在には異説もあるものの、前述の6郷が小県郡内のそれぞれの地域に比定されると、郡内で残る地域は依田川流域の依田窪地方一帯となります。しかも千曲川の支流の依田窪流域は古代にあっては鮭などの絶好の漁場であったと考えられます。丸子町の旧依田村と上田市塩田平の境界には海部野城という城跡があり海部郷の名残りとする説もあります。 |
・余部郷 律令制では50戸をもって一里となす「50戸一里制」として、50戸ごとに政治的集落の単位とされてきました。それを超す分が10戸以上になったときは、新たに一郷(里)を設けました。これが「余部郷」で全国に100余の余部郷が所載されています。それは、山間地や特別な地域に設置されることが多く、郷(里)に準ずる行政単位となりました。この郷の所在をどこの地域に考えるか研究の余地を残すものの、前述の海部郷が50戸以上になったために出来た余部郷と考えれば、依田川の上流域に所在と考えても無理はないように思われます。 |
※信濃国の郷 ここで、信濃全体の郷の分布について触れておきます。信濃国の郷数は、「高山寺本」では62郷、「流布本」では67郷にになっています。その分布は、中・南信地方22郷、東・北信地方45郷となっており、千曲川流域に特に濃い分布となっています。特に、更級郡・埴科郡は2郡だけで面積に比べて密度が高く16郷もあり人口の集中地域であったことが分ります。しかし、信濃国の郷があった場所について、ある程度確執に地域が特定出来るのは、67郷中約30郷程です。 |
Ⅱ、上田市域を通る東山道 |
本誌、上田市誌⑥「東山道と信濃国分寺」を購入した目的は、前述の「小県七郷」と「東山道」にあります。理由は、「福澤家の歴史」調査で、実家がある「舞田」は古くは小泉庄の「前田」(東山道福田郷)であると知ったことでもあります。しかし、信濃を通る「東山道」は不詳な点も多く正直言ってガッカリしました。小生の「旅の未知草」では、「東山道」の「上野」「下野」は訪ねてみました。続いて「陸奥」(福島県)を計画した時点で「大動脈乖離」を発症し、仙台の顧問先との契約も解き月一度の出張もなくなりました。その後、上田-松本間の「保福寺道・東山道」を訪ねてみました。と言うことで、前後しますが「信濃を抜ける東山道」について記載します。 |
Ⅱ-1、「延喜式」にみられる七つの駅路 |
いつの時代も、交通網の整備は、国に撮ってもそこに住む人々にとっても大きな課題であります。今から1,400年前、大和朝廷の誕生した七世紀から、奈良時代・平安時代を通じて、十二世紀に至るまでの600年間にわたる日本国の交通網の整備と上田小県地域にとって重要な道路である東山道についてみていきます。 今迄のイメージでは、都は広い道で整然と区画され人やものがたくさん行き来している一方、都を離れた地方では田圃の畦道程度の道を細々と人や馬が行き来している。というのが一般的理解でした。しかし、最近の調査や研究では、幅6-12mにもおよぶ道路が日本列島を巡り、都から地方へ、地方から都へ、あるいは地方と地方の間を、人やもの、情報を運んでいたことが分って来ました。 |
・駅路 日本の古代国家によって敷かれた「駅」(えき=うまや)のあった道を「駅路」(えきろ)といいます。駅路は文字通り駅と駅を結ぶ道路のことです。古代の「駅」は、国の緊急の仕事で都と地方を行き来する役人や馬のための宿泊や休憩のための施設をいいました。「延喜式」によると、古代の日本には七つの駅路がありました。 |
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古代の都は何回か移り変わってはいるものの、だいたい奈良や京都、滋賀県などの近畿地方(幾内)にあり、そこから全国に向け六方向へ出る七筋の駅路がありました。一番大切な道とされた大路が「山陽道」で、都から九州福岡の「大宰府」までの道路です。大宰府は、当時の日本と最も関係が深かった朝鮮半島や中国の国々の役人を迎えたり、ひとたび朝鮮半島の国との戦争になれば最前線の軍事基地となった役所です。その次に、中路と呼ばれ重要とされたのが「東山道」と「東海道」です。この二つの道はその名のとおり、都から東へ向かう山の道と海沿いの道です。東海道は、太平洋岸を関東地方まで行き、東山道は今の志賀・岐阜・長野・群馬・栃木の山中を通って東北地方へと延びていました。東北地方は蝦夷(えみし)と呼ばれ大和朝廷の支配下になく、朝廷は蝦夷を武力で制圧・支配すべく繰り返し大きな軍隊を送っていました。そうした国土統一のために敷かれた道ゆえ二番目に大事な道とされたのです。このほかに、「北陸道」「山陰道」「南海道」「西海道」という小路が敷かれていました。 |
・地域名も表す七道 七道は、道路の名前を表すと同時に、地域を表す名前でもあり、「東山道」には、「美濃・飛騨(岐阜県)・信濃(長野県)・武蔵(東京都、771年に東海道に編入)・上野(群馬県)・下野(栃木県)・陸奥(福島・岩手青森県)・出羽(山形・秋田県)」の国々が入っていました。 |
Ⅱ-2、信濃国を通る東山道 | |
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信濃国を通る東山道 太線;延喜式記載の東山道 細線古代東山道 破線;吉蘇路 信濃国駅馬 阿知卅疋。育良。賢錐。宮田。深澤。覺志各十疋。 錦織。浦野各十五疋。日理。淸水各十疋。長倉十五匹。 麻績。日理。多古。沼邊各五疋。 ・・・・と記されているだけです。これは、信濃国の駅に備え付けの馬の数を表しています。なお、当時の信濃国の範囲は、木曾地方が隣りの美濃国(岐阜県)に属していた以外は、現在の長野県とほぼ同じだったことが分っています。 では、それぞれの駅の所在地と、その駅と駅を結ぶ道筋を「美濃国」から辿ってみましょう。 |
・神坂峠 都から信濃国(現在の)へ入る直前の美濃国の駅は「坂本駅」(岐阜県中津川市)です。ここから信濃国へ入るには、高くて険しい木曽山脈があります。この峠越えは東山道中最大の難所です。 |
※「延喜式」での定め 駅路には原則として30里ごとに駅を置くこと。 駅は地形や自然条件によって臨機応変に置くこと 駅に備える馬は原則として大路の駅には20匹、中路の駅には10匹、小路の駅には5匹を置くこと |
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東山道は中路、本来は各駅に10匹ずつだが、坂本駅と阿知駅の間には標高1,595mの神坂の峠があり、長い道のりでしたから特例として30匹が置かれたのです。通常の3倍の馬の数です。また、11世紀、平安時代に編纂された法令集「類聚三代格」という史料にも「坂本駅と阿知駅の間は、74里もあり、雲がかかった山々が連なり、その道は遠く険しい。坂本駅を星が出ている朝早く出発しても、阿知駅には夜遅くならないと到着しない。駅間の距離は、他の数倍もある。駅に勤めて荷を運ぶ駅子の負担は苦しく重く、冬には道で凍え死ぬ者もいる。朝廷はこれを哀れに思い、永久に駅子の税や強制労働を免除した」とあります。また、平安時代の高僧で、比叡山に延暦寺を開き、天台宗の創設者となった最澄がこの峠を越えた時、その困難さを目の当たりにして、美濃・信濃両方の峠のふもとに布施寺(休息所)を設けたという記録もあります。美濃国側を廣濟院(こうさいいん)、信濃国側を廣拯院(こうじょういん)といいました。このことからも、いかにこの峠越えが厳しかったかが分ります。東山道は、恵那山トンネルの上、神坂峠を越えていたという説が有力です。「万葉集」(防人の歌)に「ちはやぶる神の御坂に幣奉り齋ふ命は母父がため」(ちはやぶる かみのみさかに ぬさまつり いはふいのちは おもちちがため)という歌があります。神坂峠には祭祀遺跡(かみさかとうげいせき)があります。東山道の美濃国から信濃国への越境ルートは、この神坂峠と考えてほぼ間違いないと思われます。 |
・木曾路 前述の神坂は、現在の下伊那郡阿智村大字智里の神坂山付近です。江戸時代には、木曾郡山口村に中山道が通り、三留野宿(みどのじゅく)・妻籠宿(つまごじゅく)などが置かれ、長野県と岐阜県を結ぶ主要道路となっています。美濃国へは十曲峠を越えて落合宿を経て中津川に至ります。中津川から木曾谷を経て、塩尻市へ抜ける道が木曾路です。古代の日本国の正式な歴史書といわれる「続日本紀」の大宝2年12月(702)の記事に「始めて美濃国に岐蘇(きそ)の山道を開く」とあり、同書の和銅6年7月(713)の記事には「美濃・信濃の二国の境、径道険隘(けいどうけんあい)にして、往還觀難(おうかんかんなん)なり、仍(よ)って吉蘇路(きそじ)を通す」とあります。この二つの木曾路を別のものと考え、大宝2年の「岐蘇の山道」の山道は、東山道の略称である山道(せんどう)と考え、駅路としての東山道が初めて信濃坂(神坂峠)を越えて信濃に入った年とし、このときに東山道信濃路がほぼ完成していたと推定しました。そして、和銅6年の吉蘇路は、中山道の木曾路のように、木曾谷に道路が通ったことを示しており、別の事象としてとらえています。また、この二つの木曾路を同一のものととらえ、神坂峠越えの東山道はすでにあり、大宝2年から和銅6年まで、12年かかって木曾路に東山道のバイパスを通したこととしています。いずれの説も、8世紀代に東山道のバイパスが木曾路を通っていたと推測している。また、吉蘇路は特に積雪期の通行が困難だったと思われる神坂峠越えの東山道本道に対するバイパスのようなものと推測する説もあります。等々、諸説あるので、このくらいにしておきます。 |
・伊那谷の駅路 阿知駅を出た東山道が、伊那谷を北上するルートについては、天竜川の西岸を通る点では一致した見方をしています。ただ、具体的に何処を通ったかについては諸説あります。ここでは、大きく三つの考え方について考えてみます。推定される三つの道筋は、育良(ゆくら)駅・賢錐(かたぎり)駅・宮田駅を経由して、深沢駅まで続いて考える必要があります。一つは、段丘の東よりの低地を天竜川に沿って通る下段説。二つ目は、中央部を通ずる中段説。三つ目は、その西寄りの山麓を通る上段説です。この三筋の推定駅路のどれを採るかによって、育良駅・賢錐駅・宮田駅の所在地についても諸説生まれてきます。 下段説は、阿知から飯田市上川路を経由して天竜川に沿って北上する路線です。このルートは、遠州街道とも重なり、古墳時代の東海地方の文化が入ってきたルートとして古くから開けていたと推測されていますが、戦国時代に甲斐の武田氏が東海地方へ進出するための軍用路として整備されてからいっそう開けた街道です。 中段説のルートは途中、伊那郡衙の遺跡と推定される飯田市座光寺の恒川(ごんが)移籍を通っており、中段説の重要な根拠となっています。 |
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上段説は、飯田以南において三州街道、飯田以北においては通称春日街道に通じる路線を推定しています。春日街道は、飯田城主の小笠原秀政が家老の春日淡路守に命じて飯田から松本に至る軍用道路として遠州街道の西に新設した道といわれています。現在では、下伊那郡北部より上伊那郡北部の所々に街道跡が残されているだけですが、慶長年代(1596-1615)に果たして軍用道路を新設する必要があったのかと疑問視する見方もあり、この道が実は東山道ではないかと考える説になっています。 下段説は、「暴れ天竜」の異名をとる天竜川に近く、氾濫の危険があり、古代の駅路として活用できたかどうか疑問があります。また、直線性をなにより重んじる駅路の性格からみると、宮田駅に向かって大回りするので、他の二説より可能性が低いと思われます。よって下段説の可能性は低くなっています。 |
・駅路と伝路 「延喜式」には、駅馬に続いて「伝馬 伊那郡十疋、諏訪・筑摩・小県・佐久郡各五疋」と記しています。これは、信濃国に駅附属の駅馬とは別に、伝馬と呼ばれる馬が配置されたことを示しています。更に「令集解」巻三四式令(くしきりょう)給駅馬条には「事急は駅馬に乗れ、事緩は伝馬に乗れ」(緊急の事態は駅の馬に乗り、急ぎでない要件は伝馬に乗れ)と記しています。実体としては伝馬は駅馬の補助制度として考えられたようです。一方、「伝制」(伝達事項が緊急化通常かの度合いでの使い分け)は不急の公用旅行者を逓送し、食料を供給する制度で、伝馬の運営は郡司があたるとの考え方もあると解釈されています。 これらの諸説を総合的に考えると、「駅路」が直線的に、ただひたすら東北地方や都を目指し、日本国家の緊急非常事態の際に使われたのに対し、「伝路」は、村々や官衙(役所)などを結び、生活道路のような通常の連絡網として機能していたと考えられます。この「伝路」の実態は、駅路と同様に不詳な点があり、古代道路のうち、ほぼ奈良時代に機能していたと思われるものは、道幅9-13m程度のものが「駅路」、道幅6m以下のものが「伝路」ではないかと推定(推察)されています。 このように考えると、伊那谷の三つの推定ルートは、駅路と伝路の差によるもので、いずれかが駅路、他の二つが伝路との考え方が生まれます。そして、伊那谷が他の郡の倍にあたる伝馬を配置されていたことは、伊那郡の郡衙と信濃国府や隣りの郡衙との距離が他の郡に比べて大変に長い距離だったことが伺われます。 |
このように、阿知駅から育良・賢錐を通って宮田駅へ向かう東山道(伊那谷ルート)は、大まかに見て三つの説があり、更に細かく見ると十指に余る説となり、それぞれの説ごとに育良・賢錐駅の所在推定地も異なってきます。現時点では、上段説あるいは中段説が駅路としては可能性が高いということで未確定のままです。 |
ところで、南箕輪(南箕輪村、伊那市と蓑輪町の間)の「古代道路」は「東山道」、あるいは「伝路」なのでしょうか、道路幅で分ければ「伝路」と考えられます。しかし「律令制」の崩壊とともに道路幅の規格も崩れていったので決め付けは出来ません。例えば、上野国における東山道の発掘調査などで、奈良時代の当初の東山道の道幅が12m前後であるのに対し、平安時代の改修工事でその道幅が6m前後に狭められていることが分ったからです。 これに基づくと、南箕輪村の古代道路も、発掘調査区域とは別のルートを通っていた東山道が、災害などで通れなくなり、改めて造り直したものかもしれません。現在のところ、駅路とも伝路とも決め難く、長野県でも初の道路跡の発見なので今後の研究に期待したいものです。 |
さて、伊那谷最後の「深沢駅」の推定地は、箕輪町の伊那北IC辺りが有力地になっています。根拠は、ここに「深沢」という地名が残るからです。また、「山堂」(せんどえう)という地名もあり、東山道の別称「山道」につながる可能性も考えられます。 一方、この「深沢」(ふかさわ)を「みさわ」と読んで、岡谷市の「三沢地区」に想定する考え方もあります。この「三沢説」は、「深沢駅」の次ぎの「覚志駅」を国府のあった松本平に想定した場合、東山道の直進性から大きく逸脱し、大回りして「覚志駅」に向かうことになり、疑問点が残ります。 |
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・古(代)東山道 しかし、「延喜式」の中で「深沢駅」は、諏訪郡の範囲にあり、現在は上伊那郡に属する蓑輪町が当時、諏訪郡の範囲あったかという点で、「三沢説」は優位性が考えられます。律命制以前の古代道路東山道や諏訪国の存在を考えた時、この「三沢説」は簡単に切り捨てることのできない説になります。「延喜式」に載っている東山道以前に、その原形ともなる「古東山道」が通っていたことも考えられるとし、信濃国における[道筋は、「神坂峠」越えて「下伊那地方」に出て、天竜川に沿って北上し、伊那市辺りで天竜川の支流の三峯川に沿って東に折れ、高遠町に出て、再び北上し、杖突峠を越えて諏訪地方の安国寺に下り、茅野市域を通って大門峠の近くから蓼科山中腹の雨境峠(あまざかいとうげ)を越えて北佐久郡望月町(現佐久市)に出、千曲川を渡り、浅間山の南麓を東に進み、入山峠を越えて上野国に入って行くという説です。] この「古東山道」の推定根拠は、古墳時代の峠の祭祀遺跡(さいしいせき)を結ぶ考え方によるものです。古代の人々は、峠には神が宿ると信じ、峠越えの時には、幣(ぬさ)などを奉納していました。その幣と考えられる滑石製模造品の出土する遺跡結んで道筋を想定した説です。 |
・須芳(すわ=諏訪)山嶺道(すわやまみねみち) 前述の「古東山道」の道筋を諏訪湖東岸に求めましたが、諏訪湖西岸の三沢を通って行く道筋は全く否定されてしまうのでしょうか。確かに、松本平に想定される国府を通過すると考えた場合は大きな迂回となりますが、東山道の最も重要な役割である「東北地方への軍事道路」という性格を考えると、伊那谷を抜けた後、「松本平に北上し、上田盆地を通って碓氷峠」へ向かうよりも、三沢から古東山道に「蓼科山中」で合流する道筋の方がより直線性にかなった道筋だと考えられます。 また、養老5年(721)には、信濃国を分割して諏訪国がおかれ、設置後まもなくの天平3年(731)には廃止され再び信濃国に合併されています。この720年代にあっては諏訪国府が諏訪盆地内にあったので、東山道は善知鳥峠(うとうとうげ;塩尻市にある峠、かつて三州街道、現在は国道153号が通る。辰野町から塩尻市に抜ける分水嶺公園付近)の手前で諏訪盆地に折れ、諏訪盆地から北東へ峠越え・谷を通って小県郡に通ずる駅路と、天武天皇14年(685)の束間行宮(つかまかりみや)造営にともなって開かれた善知鳥峠を越えて松本平に入り、奈良井川の東岸を走っていた御幸道の2本の駅路があったとのではないかとと考えられました。束間の湯が終着点となる後者の駅路「御幸道」は、その後筑摩郡衙と小県国府結ぶ「伝馬」の道と重なり、10世紀には「延喜式」に記載される駅路(錦織-浦野-日里-清水-長倉)として定着したものと推定し、諏訪盆地内を通る駅路「東山道」を想定しています。 奈良時代の国家の組織を定めた法律「令」の注釈書「令集解」(りょうのしゅうげ)は、特に優れた功績の例として、須芳(諏訪)郡の主帳(役人)が、須芳山中に道を開いて正八位を授けられたことを挙げて(古記に云はく、殊功とは、笠大夫岐蘇道/きそみちを作りて、封戸を増され、須芳郡の主帳須芳山峯道を作りて、正八位を授けらるる類いをいふなり)います。この説では、古東山道を改修した道路ではないかと推定しています。諏訪盆地から白樺湖までの間、古東山道が災害を受けやすい谷筋を通るので、より安定した霧ヶ峰の尾根筋を選んで須芳山嶺道(女神湖・北蓼科高原辺り辺り)が開かれたとの説です。仮に東山道が、三沢から須芳山嶺道を通って佐久地方に向かったと考えると、三沢から碓氷峠までの間に、「覚志・錦織・浦野・日理・清水・長倉」の6つの駅が置かれたことになり、「覚志・錦織・浦野・日理」の駅に当る地名が見当たりません。その上、あまりに駅間の距離が短すぎ「延喜式」で定めた駅間距離にそぐわなくなります。従って「須芳山嶺道」は、木曾路と同じく「東山道のバイバス」あるいは地方道である「伝路」と考えた方が適当かと思われます。 箕輪の道路遺構でもふれた通り、律令制の崩壊とともに道幅が狭まる傾向があるので、10世紀前後に書かれた「枕草子」に出てくる「望月の駅」の存在も考えた時、平安時代末にはこの道も機能しており、松本盆地や上田盆地を通ることなく、諏訪と佐久地方を直接結んでいたことは十分に考えられます。従って、「深沢駅」を諏訪地方の岡谷市三沢に想定することを全く否定されてしまうのではなく、前述の通り、前後の駅関係や国府所在地との関係を考え、箕輪町に想定した方が当を得た見解といえます。 |
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・松本平の東山道 「深沢駅」の次の「覚志駅と錦織駅」も、信濃国の東山道中、不明な点の多い駅です。しかも、平安時代の初めには、国府が小県郡から筑摩郡(松本盆地)に移っており、信濃国の古代史を解明する上で最も重要な地域であるにも係らず、国府の所在地とともに未だに解明されていません。 「覚志駅」については、松本平の塩尻市あるいは松本市と考えられています。「信濃地名考」は塩尻市広丘堅石(篠ノ井線広丘駅近く)の旧堅石村と考え、「堅石」は「かかし」が変化した呼び方と考えています。また、木曾路と東山道が合流する地点と考え、松本市村井に想定しています。等々諸説あります。駅の所在地とともに考えなくてはならないのが、当然として東山道の道筋です。となると、塩尻から松本に北上する田川に沿った五千石街道に注目し、この道こそが東山道の跡ではないかと推定しました。五千石街道は、諏訪藩の領地五千石の場所が、塩尻市から松本市にかけて所在し、元和2年(1616)頃に諏訪藩によって敷かれた道路とされていますが、諏訪藩だけの力で同街道が開けたとは考えにくく、以前から存在していた直路を整備したとみる方が妥当との指摘もある。また、この道が領地を突っ切って、松本の北、四賀村の刈谷原まで直線的に延びている点を指摘して、おそらくこれが東山道であると推定しています。これは、伊那谷の東山道での春日街道とよく似ています。 ・覚志駅 この「五千石街道」(塩尻宿の上町から長畝へ出て中挟から南熊井・赤木を経て竹淵で村井方面から来る善光寺街道と合流)を東山道と推定した上で、「覚志駅」の所在地を「かかし」の読みと、天文17年(1548)以前は奈良井川の東西とも堅石だったことから、塩尻市広丘堅石が有力としています。 |
・錦織駅 四賀村の七嵐地区(旧錦部村、松本市道稲倉峠線)と推定しています。ここは、中世まで、麻績・善光寺方面に通ずる道路の分岐点て、延宝2年(1674)の「信州筑摩郡御舎山領古来遺緒之事」(しんしゅうつかまぐんみさやまののみねこらいゆいしょのこと)という古文書の中で、「ここの宿」から浦野・村井・麻績の三方面に通じていたという記録を見付け、「村井を覚志駅」(村井は塩尻市広丘堅石と隣り合わせ)の所在地と考えた上で、 |
・東山道の支線 改めて「延喜式」を見てみると、「錦織駅」に続いて「浦野・日理・清水・長倉」の各駅が置かれ、その後に「麻績・亘理・多古・沼辺」という駅が並んでいます。普通に読むと、長倉駅に続いてこの4駅があるように読めますが、そうではなく、どうも錦織駅付近から浦野へ向かう東山道本線とは別に、越国(こしのくに;新潟・富山・石川・福井県)へ向かう支線があったようです。東山道をはじめとする駅路の目的が軍事道路であり、当時、東北地方が蝦夷として、大和朝廷の支配下に入っていなかったことは再三述べてきましたが、その蝦夷平定の軍事道路として東山道が都から信濃国を経て、下野国から蝦夷の支配する東北地方に入って行きました。更にもう一つ、日本買沿岸ルートとして「北陸道」が、都から北陸の日本海岸を通って蝦夷に向かって延びています。「日本書紀」の大化4年(648)の記事に、「磐舟(いわふね)の柵(さく)を治めて、以て蝦夷に備う。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵(さ)の戸(へ)を置く」とあります。磐舟は新潟県の北部、岩船郡(内陸側の栗島・浦村・関川村)とされています。ここに対蝦夷政策として築いた「柵」(古代の防御施設で木を立てて構えた城)の従軍部隊として、地元の越国の民と、信濃国の民が選ばれて配置されています。この東山道支線も、特に奈良時代の終わり頃から平安時代の初めにかけて、信濃国を後方支援の国として、軍隊を越国へ送り込む軍事道路の役を果たしたと思われます。蝦夷(えみし)に対する軍事最前線が7世紀中頃の越の磐舟から、元慶2年(がんぎょう;878)の最北の古代城柵と呼ばれた秋田城(秋田村高清水岡/秋田県秋田市寺内大畑)の蝦夷(えみし)の反乱(元慶の乱)鎮定まで出羽国(山形・秋田県)の征服と討伐が続けられのは確かです。 |
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・麻績駅・日理駅・多古駅・沼辺駅 「麻績駅」は麻績村、「日理駅」は長野市の犀川渡河地点、「多古駅」は長野市の三才地区、「沼辺駅」は信濃町野尻に想定されています。 |
Ⅱ-3、上田小県地方の東山道 |
・錦織駅から浦野駅 松本地域から上田地域への道路というと、三才山トンネルを通るルートが一般的です。三才トンネルが開通する以前は、国道143号線の青木峠越えが主でした。近世では、松本藩が江戸に出る際に利用した保福寺峠(保福寺道)もありました。では、古代の東山道は、どこを通って浦野駅に通じていたのでしょう。 浦野という地名は、古代では「延喜式」と「万葉集」に「かの子ろと寝ずやなりなむはだ薄宇良野の山に月片寄るも」(万葉集巻14-3565相聞往来の歌、浦野薬師堂/上田市浦野に歌碑)にでてきます。また、保福寺峠頂にも「信濃路は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましむな履はけ我が背」(万葉集巻14-3399)中世では、「吾妻鏡」に浦野庄として出てきます。天正6年(1578)の上諏訪造宮清書帳に浦野庄の範囲として「中挟郷(なかばさみ)・田沢郷・村松郷・尾上郷・奈良本郷・塩原郷・大法寺分・殿戸分・孫瀬分・高津郷が記されています。現在の「浦野地区」を中心としながらも、現在の上田市福田から青木村の奈良本・沓掛地区までの範囲で拡大・収縮を繰り返していました。従って、「浦野駅」が単純に現在の浦野地区だけに想定できるわけでなく、もっと広く川西地区から青木村の範囲でかんがえなくてはならなくなりました。よって、所在地は多岐に渡っています。その全部についての説は省略し、最有力説に絞ります。 |
東山道の道筋は、「錦織駅」を四賀村に想定すると、松本藩が江戸に向かう際に使った保福寺峠越えが最も有力視されます。この保福寺峠越えは、信濃の東山道中でも難所で、それは、峠の出入口にあたる「錦織駅」と「浦野駅」は中路のひょうじん配置馬数10匹を超える15匹の馬が配置されたことでも判ります。 |
さて上田市誌、「⑥東山道と信濃国分寺」では、東山道跡地については何ヶ所も紹介されています。しかし、「浦野駅」の所在地は特定していません。小生が「東山道と保福寺道」を5回に渡って訪ねた際、浦野駅の中心地と東郷の岡石地区と想定するも、発掘調査では多数の遺物が発見されるも駅跡の存在を示す遺構や遺者は発見されませんでした。しかし、青木村当郷に「令制東山道浦野駅跡」(推定)として公園設置が行われてありました。 ・浦野駅 とは言え、「浦野駅」は、浦野集落より西部、青木村当郷日向の本宿地区に想定される説もあります。その根拠は、岡石遺跡と古刹大法寺の存在によります。岡石遺跡は、昭和50年(1975)に青木村により発掘調査され、平安時代以前の掘立柱建物跡が検出されています。また、大法寺は、大宝年間(701-704)に建てられた寺で、。もともとは大宝寺といっていたとの寺伝があり、平安時代中期の十一面観音像や普賢菩薩像も伝わっています。 |
・浦野駅から日理駅 「浦野駅」を出た東山道は、次の「日理駅」(わたりえき)に向かいます。この駅の所在地については、千曲川の「古舟橋」と「小牧橋」の辺りという2説があります。 昭和48年(1973)に、古舟橋のたもと、上田市常盤城の唐白から、瓦塔片(がとうへん)が発見され、塔の礎石も存在することから、この辺りに千曲川の渡りに伴う布施屋(寺)の存在を推定しました。更に、中近世の古文書や古地図に、瓦塔片が出土した周辺の地名に「越し上がり」や「古屋敷」があることを根拠として示しています。「越し上がり」は千曲川畔の河岸段丘を越してあがったことを、「古屋敷」は古い居館があったことを意味しているとして、中世以前の古い道筋や居館(布施屋)を想定しています。また、諏訪部の対岸中之条地積の「ごうど」(越戸)という地名に対して、これを「越戸」という、山や河を越えた地点を示す地名として、諏訪部(上田市常盤城)の唐白地積を「日理駅」を想定しました。 |
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・日理駅から清水駅 「日理駅」を出た東山道は、次の「清水駅」に向かいます。所在地は、小諸市の旧大里村諸集落とされています。その根拠は、この地に、土井清水、弁天清水などの水量の多い湧水池があり、この地区の飲料水、灌漑用水などに使用されていることや、字屋敷、清水田、大門などの地名が残ることによります。更に、駅舎は大門にあったと考え、その地割を調べ、大門には天王社があり、西隣りの字青木にも青木明神があったり、字名にも天神、寺内などもあり、駅に関係ある寺院の存在を想定しています。日理駅からの道筋を、千曲川沿いの北国街道よりは一段と高い山麓部を通り諸に至るのではとと想定しました。清水駅の所在地は当説のみですが、ここに至る道筋については、近世の北国街道に沿って千曲川直上の段丘上、信濃国分寺の南側を通る考えと、北国街道より一段と高い山麓部を通す考え方があります。北国街道説の重要な根拠としてあげられるのが、正安3年(1301)に、僧明空が記した「宴曲抄」です。(以下省略) |
Ⅱ-4、小諸から東の東山道 |
・浅間山麓の東山道 さて、「日理駅」から「清水駅」へ向かった東山道は、その後「長倉駅」を通り、碓氷峠・上野国へと向かいます。この浅間山麓の東山道は、「小田井ルート」「馬瀬口ルート」「塩野ルート」の3説があります。 ①小田井ルート 小諸市乙女-三岡-御影-佐久市西屋敷を経て小田井・上宿を通り、その後の中山道沿いに軽い澤の追分へと向かう。この説によると「長倉駅」は御代田町大字小田井の長倉にあったと考えられます。 ②馬瀬口ルート 小諸市加増から八満-乗瀬を経て馬瀬口へと出て軽井沢の追分に向かった。あるいは、加増から平原を経て馬瀬口へと出て軽井沢の追分に向かった。その後の北国街道沿いに東山道がたどったとみる説です。馬瀬口は柵口とも書き、牧場の入口を示す地名とも考えられ、御牧塩野牧(御代田町)の入口を東山道が通過したという説です。これによれば、「長倉駅」は軽井沢町大字長倉となります。 ③塩野ルート 小諸市石峠-藤塚を通り塩野-清万を経て追分へ抜け馬瀬口ルートに合流する。このルートだと塩野牧の中を通過したことになります。塩野には古刹真楽寺があり、東隣りの川原田遺跡では10世紀とみられる寺院跡らしきものも発掘されています。 ※現在、どのルートが適当なのか想定はできていません。ただ、小田井の西で、佐久市・小諸市・御代田町にまたがる「鋳物師屋遺跡群」から、「長倉寺」「長倉□」と書かれた平安時代の墨書土器が出土したことで、御代田の長倉の地名が平安時代にまで遡れる。5頭の埋葬馬をはじめ、30頭分以上にもあたる奈良・平安時代の馬骨が出土し「長倉駅」の15頭の駅馬の遺骨である可能性がある。溝で囲まれた奈良・平安時代の官衙的な創庫群が検出された。鋳物師屋遺跡群に隣接する小諸市宮ノ反遺跡からは、溝で囲まれた古墳時代末から奈良時代初めの居館跡が検出され、駅長などに任命されたとみられる冨裕層が存在した。鋳物師屋遺跡群には、奈良時代に数十軒の住居が構えられ、少なくとも150人と見積もられる駅子を出せるだけの十分な規模であった。等々より、この遺跡が「長倉駅」である可能性を示唆しています。このように、現段階では小田井ルートが条件が揃っています。しかし、東山道の直線性については、他の2ルートの方が合理性もあり今後の研究が俟たれます。 |
・碓氷坂 神坂峠から信濃国に入った東山道は、この碓氷坂を越えて隣りの上野国に入ります。東山道がどこを越えていったかは、長い間、中山道の碓氷峠と同じルートと考えられていました。しかし、大きな峠につきものの祭祀遺跡がこの中山道ルートにはなく、南の入山峠(国道18郷碓氷バイパス)にあることに着目して、東山道は入山峠越えであろうと推定しました。 |
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古代の文書では、「碓氷峠」とはいわず「碓日坂あるいは碓日山」といっている。うすい峠の初見は、碓氷峠に鎮座する熊野神社の銅鐘に記された「施入(せにゅう)し奉る臼井到下(うすいとうげ)今熊野大鐘の事正応五年壬辰卯月八日右志は松井田一結集十二現当悉地(げんとうしっち)成就なり」なる銘文中である。銘文に今熊野とあるので、鐘が寄進される少し前に神社がどこからここへ移されたことを示し、熊野神社は交通の神なので、この移動は峠道の移動に伴ったと考える。入山川の谷には龍馬・龍馬沢・遠人・飯米場・生田・大門・信濃半処等、開発の古さをうかがわせる集落や地名があるのに対し、中山道沿いには集落が殆どない。12世紀半ばの「神楽集」にみえる「昔ハ毛無无通(けなしどおり)ガ奥ノ大道ニテ有ケレバ」の、奥ノ大道は東山道で毛無无通は、「安中志」入山村にみえる「軽井沢の方より入には、少し登りて、嶺といへり、夫(それ)より七曲とか云て無計谷へ下り、田畑いささか見ゆ」の無計谷にあたる。軽井沢の鳥居原と鳥井坂にあったといわれる、峠の熊野神社を拜む鳥居は、入山峠と結びつき、鳥居原の字乙女田は大遠見田を、下発地の字鼠原は烽候(とびひうかみ)をさすと思われる。入山峠経由の方が中山道の碓氷峠よりも、地形的な障害も小さい。等をあげ、「碓氷坂」の所在地を「入山峠」と推定した。12世紀後半から13世紀末頃には、松井田が碓氷峠のひかえた交通集落になっていたと考えられ、駅間距離も入山峠経由の方が約2km短いことから、東山道を入山峠経由と推定しました。 |
Ⅱ-4、東山道の変遷と終焉 |
古代の朝廷の天皇を中心とした日本の国の実権は、藤原氏らの貴族へと移り、中央集権制もうすれ、やがて武士たちにその実権を握られ、政治の在り方も変わっていきます。東山道も、今迄述べてきた通り、政治的な道路でしたから、権力が移るのに伴って、だんだんとその機能を変質させ失っていきます。 |
Ⅱ-5、道が運ぶ文化 |
上田・小県地域には、古代の信濃国分寺跡をはじめ、生島足島神社などの古い神社、大法寺や中禅寺等の古刹等が数多く残っています。これらは全て東山道と関連を持つものです。道は文化やものを都から上田・小県地域へ運び、独自の文化と交わって、新しい文化を生み出してきました。勿論、上田・小県の文化が都や他の地域へと運ばれ、新たな文化が生まれたこともあるでしょう。 |
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