family history考察
前史で探る(福澤家のルーツ」
 はじめに
 (福澤家の歴史」調査で上田市誌を三冊買い込んだ。その、上田市誌⑦「上田の庄園と武士」より興味を持った部分を抜き出してみた。
 第一章 都へ向かう武士
 第二章 鎌倉時代の上田
 第三章 南北朝時代
いずれの章も興味があるも「第四章平安初期の上田地方」に的を絞ってみた。
 、増えてきた荘園
 -1、荘園の成立
 最初に、荘園がどのようにして成立するのか、上田小県地方の例で調べてみましょう。
①八条院領常田庄
・官符をもたない常田庄
 常田庄の名が史料に初めて見えるのは、「山科家古文書」(やましなけこもんじょ)安元
2年(1176)の「八条院領目録」という古い文書の中で、今から800年余も前のことです。信濃に関係する史料を集めた「信濃史料」という本の中で、安元2年前後の史料が入っているのは第三巻(1155-1226)ですが、同巻が刊行された昭和28年より後に発見されたものですから、「第三巻」には採録されていません。この「八条院領目録」は不要になってから、その用紙の裏を別の事に使われて伝えられたため「二つに別れ」、前半は「高山寺古文書」の中に、後半は「山科家古文書」の中にあります。そして前半は「信濃史料」補遺編に、後半は「平安遺文」に、全容は「源平争乱期の八条院領」(石井進)に「官省庄々目六」(がんしょうしょうじょうもくろく)の名で収められています。
 そこには、安楽寿院の庄園として
31、歓喜光院の庄園18、弘誓院(ぐぜいいん)の庄園6、智恵光院の庄園1、蓮華心院の庄園4(いずれも興との寺院)、「庁分御庄」(ちょうぶんみしょう)という見出しのついた庄園が41、全体で101ヶ庄ありました。
 常田庄は、上田市街地の常田付近にあったと推定される庄園で、「山科家古文書」の「庁分御庄むのひとつとして、次のように記されています。
・「官省庄々目六」 庁分御庄
 摂津国兵庫     参河国高橋
 讃岐国姫江本庄   伊予国新居浜高田 已上帯 官符之
 河内国川田 高安  和泉国宇多勅使
 信濃国捧 大井 常田
 豊後国豊田     伝法寺
                安元二年二月
※信濃国の庄園三か庄のうち、「捧」は松本市南松本付近にあった「ささげの庄」で、「大井」は佐久市岩村田付近にあった大井庄です。この史料で大事な事が二つ分ります。その一つは「常田庄が庁分の庄園」だったということです。「庁分御庄」というのは、八条院のいろいろな院務を所轄する役所が八条院庁で、常田庄から納めた年貢等は八条院庁の費用に当てられていたという意味です。
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 二つめは、官符(かんぷ)を持たない(帯/たいさない)庄園だったということです。「官」は太政官(だじょうかん)、「符」は上級の役所から下級の役所に命令を伝える文書のことですから、「官符を帯さない荘園」とは、ここを庄園として認めたという太政官からの書付がなくて荘園になったことが分ります。それは、信濃国の捧庄や大井庄もそうですが、「以上が官符を帯する庄園」とあって、常田庄はその中に入っていないからです。
・八条院領常田庄の成立
 保延
34月(1137)、鳥羽天皇の三番目の皇女が生まれました。名は暲子(しょうし)といいます。鳥羽天皇が最も愛した美福門院得子(びふくもんいんとくし)との間に生まれた子なので、格別大事にされて、暲子が数え年5歳の時、鳥羽天皇が出家に際して、12の庄園を譲り渡したのです。この時から、八条院領が成立し、その役所八条院庁は、嘉応2年(1170)の史料から見ることができます。その後、母の美福門院が亡くなった際に、母の所領の中から歓喜光院や弘誓院が領有した庄園を譲られ、八条院暲子が承安4年(1174)に建てた蓮華心院の所領も合せ、更に庁分の庄園も増加して、八条院が領有する庄園は、ますます増えて行きます。暲子は、応保元年(1161)数え年25歳で八条院と称し、建暦元年(1211)数え年75歳で亡くなります。死後、庄園は春華門院(しゅんかもんいん)-順徳(じゅんとく)天皇-後鳥羽上皇に伝えられ、更に「承久の乱」(1221)後、一次鎌倉幕府(第2代執権北条義時)に没収されて、承久3年(1221)後高倉院に渡された時には221ヶ庄という大変な数の大所領になっていました。
・常田庄
 さて、常田庄はいつ頃庄園になったのでしょうか、史料は見当たりません。「官省庄々目六」にあったように、安元
2年(1176)には、すでに庄園になっていたのは確かなことです。常田庄は、庁分御庄の庄園でした。「後鳥羽上皇領有」(114112ヶ庄-出家に際し八条院暲子に譲り渡す(114112ヶ庄-官省庄々目録が書かれる(117641ヶ庄(官符帯17ヶ庄、官符付帯24ヶ庄)と29ヶ庄増えています。1160-1170の間と推察できます。
②最勝光院領塩田庄
・塩田庄の成立
 鎌倉時代の初め、鎌倉の源頼朝と後白河上皇との間の連絡役(関東伝奏、かんとうでんそう)が初めて設けられ、藤原氏勧修寺家(かじゅうじけ)の嫡流(総本家の家筋)藤原経房が任じられました。その居所が吉田(京都市上京区荒神橋の東側付近)であったため、通称吉田経房(よしだつねふさ)の名で知られた人です。この経房が
24歳の仁安元年(1166)から書き始めたとみられるている日記があって、それを「吉記」(きつき)と呼びます。現存する「吉記」は承安2年(1172)からですが、この日記の承安48月(1174)の記事の中に、信濃国の塩田の事が出てきます。「吉記」によりますと、813日午前11時頃、経房は院に出仕して後白河法皇に三ヶ条の事を申し上げました。そのとき、法皇の前で一緒に評議していた別当が信濃国の庄園の情況を説明申し上げたところ、法皇は、「年貢がまだ少ない、差しだしてくる分がどれほどか書いて出しなさい」と申されたということです。それから三日後の816日のことです。麻早めに院に出仕していた経房の前で、別当は、信濃国の塩田郷の年貢千段を差し出せるようにしたいと申しますと、法皇は「寄文を出させなさい」と申されました。寄文が用意できたのでしょう。98日の午前9時頃、経房は院に出仕して三ヶ条の事を申し上げました。それは「信濃国の塩田庄の事」「但馬国にあった温泉庄(ゆのしょう)と隣接の八太庄(はたのしょう)との庄園所領をめぐる争い」「肥後国の所領の事」でした。塩田庄に関係する記事は、これで終わっています。この記事の中に出てきた別当とは、後白河院庁の長官にあたる人のことでしょう。承安4年(1174)の後白河院の別当は、権大納言藤原隆季(ごんのだいなごんふじわらたかすえ)でした。
 
816日には「塩田郷」とあり、97日には「塩田庄」とあります。この間は22日間で、郷から庄に名が変わり、後白河法皇の「寄文を出させなさい」という命令が、この間に挟まっています。寄文とは、寄進状のことです。
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 このことから、塩田庄は承安4年(1174)に成立し、それは、塩田郷の側から寄進状を差し上げて庄園になったものと解釈されます。塩田庄から毎年差し出す年貢は、千段でした。何が千段かは書いてありませんが、当時の千段は、「布が千段」のことでしょう。当時の普通の布だと長さが二文六尺(7-8m)、幅が二尺四寸(72cm)です。
・最勝光院領塩田庄
 「吉記」の記事から
12年経った文治2年(1186)、「吾妻鏡」(あずまかがみ)の同年312日条に、信濃国など庄園の名前が書きならべられた注文が収められています。「最勝光院領(さいしょうこういんりょう)塩田庄」と書かれています。塩田庄は、立庄の当初から「最勝光院の庄園」として設けられた庄園だったのです。後白河法皇の御所は、「法住寺殿」(ほうじゅうじどの;京都市東山区)と呼ばれた広大な敷地でありましたが、最勝光院は、法住寺殿に附属した寺院の一つとして、現熊野神社の西方に建てられました。後白河天皇の女御(天皇の寝所に侍する女官)で高倉天皇の生母となった建春門院(けんしゅんもんいん;平滋子)の願いによって建てられた寺院で、承安31021日(1173)に供養が行われています。この最勝光院領の早い時期の庄園は承安42月に3ヶ庄みられますが、塩田庄など続いて寄進され、段々と数が増えて行きました。
・立庄にかかわった人々
 これまでずっと公領であった塩田郷を寄進させて私領に変えることは、そうたやすいことではありませんが、誰がこれに関わったかを見てみましょう。後白河院の別当で、年貢千段の寄進を進言した「藤原隆季」、院別当藤原隆季の父家成には多くの子供がありました。「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)によりますと、男が
9人、女が10人、の子がいました。その内、塩田庄の立庄に関係する人(承安4年当時)は以下の通りです。
 家成-女子(嫡子兼雅の母)=忠雅(信濃国知行国主)-兼雅(前太政大臣)
   ∟隆季(後白河院庁別当)
   ∟実教(信濃守)
 家成の長女は、藤原忠雅に嫁ぎ、忠雅は従一位太政大臣にまり上り、すでに引退し、信濃国の知行国主になっていました。(
51歳)長女は忠雅の嫡子兼雅の母です。長男隆季は48歳、母は高階(たかしな)宗章の娘。隆季と腹違いの弟実教は、藤原経忠の娘を母に持ち、25歳、承安2年(1172)から信濃守になっていました。これらより、次のような筋が浮かんできました。建春門院の願いを入れて最勝光院を建て、経済的にも安定した状態にしたい「後白河法皇」、後白河院直属の院庁の長官である「藤原隆季」、最勝光院の建立経営に深く係ってきた「吉田経房」の三者が最勝光院の庄園を欲しいと考えた時、方策は、隆季の兄弟から助力を得ることでした。姉の夫が知行国主、弟が国司である信濃国の塩田郷を目につけたのです。兄弟だったから、立庄の交渉が滑らかに進んだのでしょう。義理の兄弟や異母兄弟三人のところへ、吉田経房が加わって出来上がった話だったので格別のいざこざもなく、立庄手続きが進んだものと考えます。
・庄園の成立
 奈良・平安時代から南北朝・室町時代にかけて、日本国内に立てられた庄園の数を、「庄園分布図」で数えてみると
4,100を超えます。庄園がこれほどあっても、塩田庄のように、その成立の事情が分かる庄園は、決して多くはありません。むしろ、大部分が不明です。この中で、上田市域にあった常田庄は官符を持たなかったこと、塩田庄は公領(国衙領)の寄進によって成立したことの二点が分ります。
 -2、中世初期の庄園
・「吾妻鏡」文治2年の記録
 「常田庄の成立」(
1160-1170)、「塩田庄の成立」(1174)、木曽義仲や源頼朝が平氏追討の旗上げをした「治承・寿永の乱」治承4年(1180)の直前で、新しい時代の波音が聞こえるときのことでした。12世紀後半の中世が始まった頃、この地方の他の所はどうであったのでしょう。文治2年(1868)の頃、信濃国内にどんな庄園があったのか、「吾妻鏡」の文治2312日の条に記録されています。
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 そこには、下総・信濃・越後三ヶ国の、当時年貢が納められていない庄園の名が書き並べられています。この部分の書付を「乃貢未済の庄々注文」(のうぐみさいのしょうじょうちゅうもん)と呼んでいます。この注文に記された庄園の数は、信濃国が一番多く、庄園が61、牧が28、合計89ヶ所の庄園や牧の名があります。この中から、上田小県地方の庄園と牧を拾って書き出してみましょう。
 ①日吉社領(ひえしゃりょう)「浦野庄」 ②最勝光院領「塩田庄」 ③一条大納言家領「小泉庄」
 ④八条院領「常田庄」 ⑤殿下御領(でんかごりょう)「海野庄」
 ⑥前齊院御領(さきのいつきのいんごりょう)「依田庄」
 ⑦馬寮領(さめりょうりょう)「塩原牧」(しおばらのまき)・新張牧(みはりのまき)・塩河牧(しおがわのまき)で、次の事由によります。
 寿永210月(1183)、後白河法皇と源頼朝とが交渉の結果、約束が成立しました。これより先、信濃から北陸路(ほくろくじ)を回った木曽義仲は、此の年の7月末に平氏を追って京都に入りました。けれども、日が経つにつれて、後白河法皇や都人の義仲に対する支持は減り、摩擦も生まれてきました。一方、大勢の御家人を従え、鎌倉を本拠の地と定めた源頼朝からみると、義仲は邪魔者に映っていたに違いありません。頼朝は、後白河法皇に、こんな話を持ち掛けました。「戦乱のために庄園からの年貢が納入されずお困りでしょう。東海道・東山道・北陸道の諸国の国衙領や庄園の年貢を国司や本所のもとに進納するように命令してください。そして、その命令の末尾に、もし、この命令に従わない者がいたら、源頼朝に連絡して命令を実行させるようにと書き加えておいてください」という提案でした。後白河法皇は、木曽義仲の立場も考え、北陸道を除いて、東海・東山二道については、頼朝の提案通りの勅令を10月に宣旨(せんじ)の形で発布されました。この宣旨は、寿永210月宣旨と呼ばれます。
 では、「吾妻鏡」に記された上田・小県の庄園が何処にあって誰が領有する庄園なのか見てみましょう。
・日吉社領海野庄
 上田市の西部、旧川西村の地域に、現在も浦野と呼ばれている集落があります。この浦野を中心として、青木村へかけての地域の中に設けられていたのが「浦野庄」(うらののしょう)です。領家である日吉社(ひえしゃ)は、滋賀県大津市の坂本にある「日吉大社」(ひよしたいしゃ)のことで、当時は、「日吉社」(ひえしゃ)とか「山王権現」(さんのうごんげん)とか「日吉山王社」(ひえさんのうしゃ)と呼ばれていたお宮です。日吉社の境内には、二つの本殿を中心に、合せて百八社の摂社や末社があり、その西側の山頂部を占めている比叡山延暦寺の地主神として信仰されていたお宮です。日吉大社は神代の昔より比叡山の麓に鎮座する全国に約
3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮です。
・小泉庄は一条大納言家領
 上田市の旧川西村に小泉と呼ばれる集落があります。この小泉の周辺の村々が小泉庄(こいずみのしょう)でした。小泉庄の領家は、一条大納言家です。しかし、「一条大納言」については諸説あり、何処の誰とも特定出来ないのが現状です。
・殿下渡領海野庄
 小県郡東部町(現東御市)に、本海野(もとうんの)があります。上田城築城で城下町を造ったとき、この東部町の海野の人達を城下に移住させて、新たに町をこしらえました。それ以後、両方を区別するため、上田城下町を海野町、東部町の海野を本海野(もとうんの)と呼ばれるようになったと伝えられています。海野庄は、この本海野を中心とする庄園です。庄園の範囲は時代によって異なりますが、鎌倉時代の末には、東部町の西部と上田市の岩下から林之郷辺りまでを含んだ範囲です。「吾妻鏡」に書かれている「殿下御領」は「てんが御領」と呼びます。殿下とは一般には「でんか」と読み天皇の妃・皇太子・皇族に対する敬称に用いられていますが、
10世紀の頃から摂政(せっしょう)や関白に対しても敬称として使われることになりました。「殿下御領」(てんがごりょう)は、摂政・関白殿下の御領という意味であり、当時の発音は「てんが」でした。
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 平安時代の藤原・源・橘などの大氏族数氏は、その氏の中で官位が一番高く、一族を束ねる人を「氏長者」(うじのちょうじゃ)と呼んでいました。藤原氏の氏長者の多くは、当然摂政や関白の地位に就きました。藤原氏の氏長者には、朱の器とそれを載せる脚付きの台、はかりの竿と重り、氏長者でいる間だけ保有できる氏長者に附属した庄園の券が引き継がれていきました。この氏長者から氏長者へと渡されていく庄園のことを、「吾妻鏡」では「殿下御領」と記し、一般には、「殿下渡領」(てんがわたりりょう)とか「摂関家領」(せっかんけりょう)といっています。「吾妻鏡」の文治2年(1186)に殿下御領とあったときの氏長者は藤原基道でした。都における勢力者が、「平氏-木曽義仲-源頼朝」へと目まぐるしく変わった時代でしたら、氏長者も転々とかわりました。基通は三度も氏長者になっていた。
 海野庄は、文治
2年当時は藤原基通(ふじわらのもとみち)が管轄する殿下御領でした。時は更に下り、建長51021日(1253)の「近衛家所領目録」には氏長者が荘務を進退(荘官の任免・栃の管理・年貢率の決定・庄内の管理等)する庄園のひとつとして、海野庄も次のように記されていました。「信濃国高陽院領内 海野庄 教俊朝臣」、「教俊」は海野庄の預所、「高陽院領」(かやのいんりょう)とは関白忠実の娘で、長承2年(1133)に鳥羽上皇の後宮に入り、後に皇后になった泰子の所領のことです。
 海野庄の年代不詳の古い史料、「執政所抄」(しっせいしょしょう)の記事。「執政所」とは摂関家の政所(まんどころ)と考えられ、「執政所抄」は摂関家関白忠道時代の年中行事を記したもので、この時代すでに海野庄は摂関家領の庄園であったことが分る史料です。等々を分析考察すると、おそらく摂関家藤原忠実に寄進されて成立したと考えられます。忠実から高陽院泰子に譲られ、久寿
2年(1155)に泰子が崩御された後は基実の管轄に戻り、文治2年には基道が殿下御領として保有していた。と、なると「海野庄」は12世紀前半、上田小県地方では「常田庄」「塩田庄」より古く、最古の成立になります。
・前齊院御領依田庄
 依田庄は、丸子町の依田地区を中心にした庄園で、飯沼・中山・内村・腰越・真田が庄域でした。一般には、「前齊院」を「さきのさいいん」と呼んでいますが、当時は「いつきのいん」と呼んでいたと思われます。
 天皇家には、天皇が即位したとき、安泰に国が治められますようにと祈って、まだ結婚していない天皇の娘を神に捧げて奉仕させるお宮が二ヶ所ありました。「伊勢神宮」と京都の「加茂神社」です。そして、その娘を「斎王」(いつきのひめみこ)と呼びました。伊勢神宮に奉仕する斎王の居所を「斎宮」(さいぐう)、加茂神社に奉仕する斎王の居所を「斎院」(さいいん)と呼びました。後には、混用されて両方を「斎院」と呼ぶようになりました。「斎院」の起こりは、嵯峨天皇の弘仁年間(
810-824)といわれ、以後、建暦2年(1212)までの大凡400年間、35人の斎王が奉仕されてきました。
 依田庄の名が初めて見えるのは、「吾妻鏡」の「乃貢末済の庄々注文」です。そこには、単に斎院ではなく、「前」が付いています。研究の結果、「五辻齊院」と呼ばれた鳥羽天皇の娘「頌子」(しょうし)のための「前齊院庁」が設置、依田庄の領家が五辻斎院頌子のための「前齊院」あったと確かめられ、承安
5年(1175)前後に依田庄が成立したと推定できます。
・吾妻鏡には載らない上田庄
 これまで述べてきた六つの庄、「八条院領常田庄」「最勝光院領塩田庄」「日吉社領海野庄」「一条大納言家領小泉庄」「殿下渡領海野庄」「前齊院御領依田庄」は、皆「吾妻鏡」の「乃貢未済」(のうぐみさい)の「庄々注文」(しょうじょうちゅうもん)に記されたものでしたが、「上田庄」は記載されていません。
 上田庄という庄園の名が初めて見られる史料は、ずっと時代がさがった嘉暦
4年(1329)の「諏訪大社上社文書」の「諏訪上社造宮目録案」です。あと数年で鎌倉幕府が滅亡するという年代です。
 -3、荘園と公領の実際
・荘園と公領
 「荘園」という言葉が史料の中に初めて見えるのは、弘仁
13年(822)だと言われています。
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 「荘園」とは、古代前後から中世にかけてみられた土地の領有のしかたの一つで、「大化の改新」(645)で全耕地を国の所有とし、公地としたことと比べると私有地と言うことになりますが、今日の私有地と意味合いが異なるところがあります。ては、誰の私有地であるかというと、「院・天皇・皇族関係の所領・上級貴族・有力な神社やお寺の領有」でありました。
・寄進地系荘園の急増
 
11世紀後半から12世紀にかけて、開発領主による開発が増加してきました。開発領主とは、地方の有力な農民が自分の力や農民を使って新しい用水を掘り、田地を開墾し、私領を開発した領主のことをいいます。開発した土地と農民が、前からあった郡や郷の中に組み入れられてしまうことを拒否し、別の単位の郷や村を主張しました。そして、水田の面積や農民の家などを調べるための国司が派遣する役人を実力で防いで、入らせない慣わしを作り上げました。このような動きに対して、中央政府や国司の側は、当然禁止や抑止をします。開発領主は、抑止を受けないように有力な貴族や有力社寺に開発地を寄進して、祖を納めない不輸(ふゆ)の権と、田地を調べる役人を入らせない不入の権とを守りました。昔から地方を治めてきた郡や郷とは別枠の郷や村となり、不輸と不入の権を持ち、雑役も免除され、表面は有力貴族や有力社寺の私有地の形をとり、実質は開発領主の支配力が相当に強い、このような荘園があちこちに出来てくるようになったのです。開発領主が中央の有力者に開発領地を寄進して成立した荘園ですから寄進地系荘園です。この寄進地系荘園は、12世紀は言って急増しました。
※是より興味深い記事(荘官の起源か?)「荘園公領制」11世紀中頃-12世紀初め
・荘園の職(しき)と得分(とくぶん)
 寄進地系の荘園といっても、実際のところは何をどうやって寄進したのでしょう。開発領主が寄進した土地は、寄進された人の所有となります。しかし、その荘園で生活している荘園の農民については、支配できるだけで、所有物となるわけではありません。寄進の場合、常田庄や海野庄を例に考えてみると、開発領主が都の八条院庁や藤原氏の氏長者の政所に出向いて寄進を申し込んで開発領主の地位を守ってくれるよう、直接に頼み込めるはずがありません。一般的に歯、まず手づるがつく中間の勢力者に寄進します。中間の勢力者は、何らかのつてを求めて更に上級の有力者に寄進し、荘園の保護を求めました。こうして、二段階の寄進によって成立したといわれています。荘園の所有者を「領家」といいました。領家となった八条院暲子内親王や関白が、常田庄や海野庄の年貢の納入や労役の割り当ての面倒をいちいちみるわけにはいきません。そこで、荘園は多くの場合、これらの荘務をみる役をおきました。今は「預所」(あずかりどころ)といいますが、とうじは「あずかっそ」と呼びました。預所は、第一段から第二段の寄進を勧めた中間の勢力者が任じられる場合が多くありました。預所はやはり領家の近くや都に住む人が多いので、信濃の荘園とは、かけ離れた都に住んでいます。そのため、
預所と連絡を取り、現地で荘園の管理をする荘園の「下司」(げし)がおりました。この下司には、第一次の寄進者である開発領主が任じられた場合が多いとみられています。荘園の中のある地域を分担し、下司の配下となり手先となって荘園の実務を進めた者が「公文」(くもん)です。寄進を受けた荘園の領家となった荘園領主の中には、取り消されることがなお心配で、さらに上位の有力者に領主や領家自身の取り分を割いて寄進し、荘園が取り消されないよう保護を依頼しました。寄進を受けた最上位の者が荘園に対してどれだけの権限を持てたのかは、寄進のときの契約によって異なりましたが、寄進を受けた人を、本家とか本所と呼びました。寄進地系荘園に係るそれぞれの職分は、次のように階層的になっていました。
 [本家(本所)-領家(領主)-預所-
下司公文
 荘園の農民は、勿論、年貢を出さなければなりませんでしたし、労役にも駆り出されました。土地の私有者である本家または本所から田畠を貸し与えられ、その御恩に報いる奉公として年貢や公事を勤めると考えられていました。農民から納められている年貢や公事を、本家から公文までの人達は、職分に応じ、寄進時の契約に従って取り分を持ったのです。このような取り分が付随した職分のことを、当時は「職」(しき)と呼び、職に伴う取り分のことを「得分」(とくぶん)といいました。
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・荘園と公領の比
 荘園は私有地であることに対し、国司が支配し管轄する領域を「公領」と呼びます。「国衙領」(こくがりょう)という言い方もほぼ同じ意味に用いられます。中世(
12世紀末-16世紀の終わりまで、鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代を指す)には、公領も得分の一部が人に給付されたり、それぞれの郡や郷に地頭が任命されておりましたから、経済的な機能からみると荘園と大差ないものでした。白河・鳥羽・後白河三上皇の院政時代(平安時代後期)に荘園が急増したが、公領の中ではどのくらい増加してきたのでしょうか、信濃国の公領と荘園、面積でなく所領数では、公領113ヶ所に対し荘園98ヶ所となっています。
荘園 荘園内郷村 公領の可能性 推定公領
海野庄 加納田中郷・三ヶの条・鞍懸条賀沢・深井・林三ヶ条・岩下 祢津
常田庄 塩尻・秋和
国分寺
小泉庄 津井地・上田原・穂屋・前田・加畠・御子田・室賀・岡村 小泉・吉田・上之条・中之条・下之条
塩田庄 別所
上田庄
浦野庄 柿木堰灌漑地域
依田庄 飯沼・山中・内村・腰越・真田 丸子・長瀬・塩川
山家郷
 12世紀後半の情況では、荘園領と公領が入り混じっていた庄園も多かったとみられます。荘園より公領の方がずっと多かったという景観が浮かんできます。
・公領と知行国主
 平安時代の後期になると、知行国主(公領から納められた税の喪の雑役等の公納物より中央政府分を除いた分を給料の代わりにそっくり与えられた人)が任命されるようになります。信濃国の初知行国主は藤原忠雅、嘉応
26月(1170)に太政大臣(だしょうだいじん)を48歳で辞退し、前太政大臣として出仕はするが、受け持つべき仕事がない「散位」(さんい)という立場になって2年ほど過ごした人です。
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下級の荘官と地頭
 荘園の現地の管理にあたる職を「公文」(くもん)と先述しておきました。荘園では、現地に臨んで「田数」(でんすう)や貢納を文書に記録し、それを領主に送る役が必要でした。それが「公文」でしたが、
12世紀後半のころには、現地の荘園管理全般を掌(つかさど)るように変わってきたといわれています。「公文・下司(げす)・荘司(しょうじ)など、現地で荘園管理に当る立場の人を総称して、下級の荘官(しょうかん)」と呼ぶことにします。寄進地系の荘園では、この下級の荘官を任命する場合には、在地領主が任じられました。特に、開発領主が開発した所領を寄進して成立した荘園は、殆どの場合開発領主が下級の荘官に任じられたものとみてよいのでしょう。それは、開発所領の寄進は、開発領主の得分を守りたいがための寄進でしたから、寄進の際に開発領主の得分権が守られる形で寄進の契約を結んだはずです。在地領主の得分を表すとすれば、中心に「館」、その周囲に直営田と在地領主が保有する在家、更にその外側に加徴米(年貢に追加して徴収される米)等を徴収する「庄園所領」が同心円状に広がっていたとされます。
 このような平安末期の荘園と公領の制度に変化が起きました。それは、武士の力が強くなり、源頼朝や鎌倉幕府が関係するようになってのことです。源頼朝は、木曽義仲を滅ぼし、平氏を討ち、更には源義経を捕えることになった文治元年
11月(1185)、後白河上皇と交渉して、国内の荘園公領を問わず、義経を追捕(ついぶ)する名目で「地頭」(じとう)を置く権利を認めてもらいました。その後、機会が出来ると各地に「地頭」を任命して配置してきました。島津忠久が塩田庄の地頭に、小笠原長清が佐久郡伴野庄の地頭に任命されたのは、ともに文治2年(1186)で、全国的にも早い時期の補任(ぶにん)でした。この時代の地頭は、水田一反歩につき五升の兵糧米(ひょうろうまい)を徴収する権利は得ましたが、地頭に与えられる水田(給田)の率は一定していませんでした。地頭で重要なことの一つは、寄進地系荘園の多くの場合、開発領主が地頭に任じられ、一方では鎌倉幕府の御家人となったことです。二つめは、これまでの律令制のもとで地方を治める役人を任命してきた中央政府や国の守(かみ)の系列とは全く別系統の武士の棟梁によって任命された武士が、荘園や公領の支配系列の中に深く割り込んできたことです。
 、開発領主
 -1、手塚氏
・手塚氏の開発所領
 上田市南部の塩田平は、すでに述べたように最勝光院領塩田庄があった所です。けれども、どこが荘園領でどこが公領か分る史料は残されていません。塩田平の南西部の山地から発した川は産川(最上流は沢山池)と呼ばれ、その産川(右岸)が造る扇状地の扇頂部が手塚と呼ばれる地です。大字手塚字堰口(せんげぐち)、手塚の堰は、取入口が上流から下流へ「一の堰」「二の堰」「三の堰」と呼ばれています。手塚氏の居館は、「二の堰」が字小木取で取り入れられ、段丘崖を横に走って段丘面上に上がり、これから水田に灌漑されるという首部分にあります。その「舌喰池」(手塚池)の北側に「唐糸観音堂」「手塚氏屋敷跡」(手塚大城)「手塚太郎光盛五輪塔」が残る。「手塚氏屋敷跡」を過ぎると三方に枝分れ、この三筋の堰で灌漑される水田と周辺の畠地が手塚氏の開発所領であろうと推定されます。この西側は「一の堰」で灌漑され、東側は「三の堰」で灌漑される地域です。「一の堰」は、上流の山の腰を
300mもさかのぼって取り入れています。
 手塚氏の開発所領は、どんなに遅くみても
1180年代には開発されていたとみられます。当時、西側の山寄りの低地や東側の新町辺りは未開発の荒野で、その中に手塚氏が開発した水田が南北に延びていた景観(後の前山地区)を思い浮かべてください。開発所領と推定した部分と追開沢川(おっかいざわかわ北側の水田には、方形をもとにした区画線が認められます。かつては、条理遺構地帯の一つと認められてきましたが、よく見ると、東西方向の区画線はほぼ一丁(108m)ごとに等間隔なのに、南北方向の線は不規則です。よって、条理的な開田方法といった技術といえます。開発所領全面が水田化されたのではないでしょうから、6割程度とみて、ほぼ13-14町歩位(39,000-42,000坪)の広さと考えられます。
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・手塚光盛と諏訪盛澄
 「平家物語」と「源平盛衰記」の両書とも、手塚太郎光盛と手塚別当の二人が並べて書かれている場面が二ヶ所出てきます。養和元年
6月(1181)の「横田川原の合戦」の勢揃いと、元暦元年(1184)義仲が戦いに敗れ、手塚太郎光盛が都で討ち死にをする場面です。そして、「諏訪大明神画詞」(えことば)上には、「下宮祝金刺盛澄」(しものみやのほうりかなさしのもりずみ)ハ、弓馬ノ芸能古今ニ比類ナシ」と盛澄に関する記事を書き「サレハ寿永2年(1183)夏ノ比(ころ)、北国ヘモ相ク(具)シテ、毎度ノ合戦ニ高名シテ、越中ノ阿努(あぬ)ト云所(氷見市内)マテ随逐シタリケルカ、手塚ノ太郎光盛ハヲト(弟)ヽヲ留置テ、当社御射山神事ノタメニ帰国シタリケリ」とあって、光盛と盛澄は兄と弟であったことがわかります。光盛は、越中での戦いの途中から帰国してまで、諏訪社の御射山の神事に参加するほどの騎射(うまゆみ)の名人でしたし、盛澄もまた、世に稀な弓馬の達人でした。
 既に、「諏訪大明神画詞」には、盛澄の姓を「金刺」(かなさし)で記していますが、兄の光盛について、「平家物語」や「源平盛衰記」は、「信濃国住人手塚太郎金刺光盛」とか「信濃国諏訪郡住人手塚太郎金刺光盛」と書いていますので、手塚氏の本姓は「金刺氏」だったのです。手塚氏は諏訪郡の武士とする説が多く、上田市手塚を出自とする説は古代中世編でも書かれていなくなりました。
 Ⅲ、前史研究
 平安時代の始まりを、「平安京遷都」(794)あるいは「長岡京遷都」(784)に置くかより、「福澤家の歴史」そのルーツを極める「前史研究」とするなら「後期」あるいは「鎌倉時代」からでも十分かな・・・・
①「前期」(
782-900)は、平安京遷都(794)から、遣唐使を廃止し唐との交流が途切れるまで
②「中期」(
901-1093)は、藤原氏を中心とした摂関政治の時代
③「後期」(
1094-1086)は上皇が院政を行うようになった時代
 ・白河上皇が院政を始めた時代
 ・源氏と平氏が争っていた時代
 ・古代から中世への変革の時代
④鎌倉時代(
1180;源頼朝、鎌倉に侍所設置からでもよかろう)
 -1、保元・平治の乱
・保元の乱
 皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分れ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約
700年に渡る武家政権へつながるキッカケの一つになった。
 保元(ほうげん)元年
711日(1156)夜明け、東三条殿におられた後白河天皇の下に集まった源義朝の率いる軍平200余騎と平清盛の軍平300余騎ほか足利義康・源頼政ら合せて700余騎が、崇徳(すとく)上皇がおられた白河北殿に夜討ちをしかけた。
 崇徳上皇側には左大臣藤原頼長(公卿藤原北家藤原忠実の三男)をはじめ源為義・源為朝・平忠正等の平氏軍兵
300余騎が参集していて、両軍勢の間に激しい戦いが始まり、この時、目覚ましい活躍をしたのが上皇方の源為朝でした。義朝や清盛らは機先を制して白河北殿に放火したので混乱に陥り、崇徳上皇側の無残な敗戦を持って終結しました。
・保元の乱の経緯
 保元元年
6月(1156)、鳥羽院が危篤になり、側近の大納言藤原公教(きんのり)に後の事を頼み、下野守源義朝・左衛門尉源義康に院宣(いんぜん)を下し、後白河天皇のおられる禁中(きんちゅう;宮中の高松殿)を守護させ、出雲守源光保(みつやす)・和泉守平盛兼(もりかね)以下源平二氏の武士には鳥羽院自身が病気で床についている「鳥羽殿(京都市南部)の守護をさせました。
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 「兵範記」(ひょうはんき)に「これは、院が崩御されると崇徳上皇と左大臣藤原頼長が同心して軍を起こし、国家を傾け奉ろうとしているという噂があるので御用心のためだ」と記されている。鳥羽院は既に我が身の亡き後、崇徳上皇と後白河天皇との争いが生じることを察していました。同79日、崇徳上皇は鳥羽の御所から白河北院に移り、藤原頼長・源為義・源為朝・平忠正らを集(平家方)めました。それをみた後白河天皇も高松殿に源義朝・源頼政・平清盛らを招集(源氏方)しました。また、「保元物語」では、「鳥羽院の死後7日間に事態は急変し、同710日には「源平」両軍とも作戦会議を開いた」とあります。崇徳上皇から相談を受けた源為義は、歴戦の経験者として子の源為朝を推薦し、源為朝は後白河天皇への夜討ちを提案するも、藤原頼長は「天皇と上皇との国争いに夜討ちなどもってのほか、およそ合戦は謀をもってもととし、勢をもって先とす、まだ軍平が集まっていないから軽率に行動すべきでない」と源為朝の提案を取り上げませんでした。
 源為朝は、「源義朝は合戦の心得ある者だから、必ず明日をも待たず夜討ちを仕掛けてくるだろう。今に敵に襲われて味方は慌てふためくことだろうよ」と罵って退出したといいます。合戦の結果は、4時間足らずで崇徳上皇側の敗北に終わりました。藤原頼長はこの戦いで重傷を負いまもなく死亡し、崇徳上皇は讃岐に流され、平清盛は叔父平忠正を処刑するだけでしたが、源義朝は一族を殆ど処刑しなければならなかったのです。それは平清盛の思う壺でした。源氏にしても平家にしても一族が天皇方と上皇方に分れて争ったのは、都始まって以来の出来事でした。
 鳥羽院が武士を使って、皇居や鳥羽殿を守護させたことや、作戦会議で武士の意見通りになり、乱が起きたことを「愚管抄」(ぐかんしょう;鎌倉時代初期の史論書、天台宗僧侶の慈円著)の著者慈円(じえん)は、「保元の乱以後、日本国は武士の世の中に変わってしまった」と記しています。この「保元の乱」(
1156)で、千騎近い軍勢が都路を駈け廻ったこと、天皇と上皇の争いに武士が召されたこと、武士の戦いによって天皇と上皇の勝敗の決着がつけられたことは、長い律令政治の中で初めての事件でした。
 「信濃史料」に、「後白河天皇、保元元年710日(1156);崇徳上皇、兵を白河殿に集む、信濃の人村上為国・同基国父子等、之に参ず」とあり。以下別史料より参考に、村上基国は、平安時代末期の武士で、信濃国更科郡村上郷を本領として京都に寄宿していた。「保元の乱」の際は父と共に崇徳上皇方に加わり、その後は八条院蔵人に補任されたらしい。寿永2年(1183)平家を負って上洛した木曽義仲に従ったが、その後離脱、義仲滅亡後、源頼朝の代官である源範頼の軍に属して平家追討に参加した。源(村上)為国は、平安時代末期の武士・官人、清和源氏頼清流、信濃村上氏の祖。
 村上氏はその出自(しゅつじ;己の出た所、出身地、生まれ)をまったく異にするものが各地に多く散在しているが、戦国武将「村上義清」を出した村上氏は清和源氏頼信流といわれている。「尊卑分脈」によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任らの兄弟があり、そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったという。顕清の子が「為国」で、以後、代を重ねて戦国武将の義清へと続く。もとより、そのような所伝があるだけであって、史料的な裏付けになるものは見当たらない。村上氏の系図は各種伝わっているが、それぞれ異同が少なくない。それらは、「尊卑分脈」にみえる信泰の子(信貞)あたりから少し違う系譜(継承の無い系譜)になっている。
皇位継承のもつれ
 「保元の乱」は、律令中心の時代から、やがてくる武士の時代に移る転記となった。その直接の原因は崇徳上皇と後白河天皇との争いですが、摂関家や武士までも巻き込んだ複雑な縺れからでした。応徳
3年(1086)に白河上皇は院政を始め、堀河(1079.8.8-1107.8.9、第73代天皇、白河天皇の第3皇子)・鳥羽(1103.2.24-1156.7.20、第74代天皇、堀河天皇の第1皇子、白河天皇の孫)・崇徳(1119.7.7-1164.9.14、第75代天皇、鳥羽天皇の第1皇子)の3天皇43年間に渡り、更に鳥羽上皇は、崇徳・近衛(1139.6.16-1155.8.22、第76代天皇、鳥羽天皇の第9皇子)・後白河(近衛天皇の急死で皇位継承1127.10.18-1192.4.36、第77代天皇、鳥羽天皇の第4皇子)の3天皇27年間の間「院政」を続けましたが保元元年(1156)に没しました。
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 日本の歴史上白河上皇が初めて行った「院政」とはどんな政治形態を指すのか紐解いてみましょう。天皇の地位を他の者に譲り、自らは上皇となり、国の通常政務などの「小事」は天皇に行わせ、重要な国の「大事」は上皇が決定する仕組みを「院政」という。天皇が幼少のうちは良いけど成長してくると上皇との対立も生まれます。
 しかし、天皇を超える存在ですから天皇の想う通りにはなりません。天皇にまつわる摂政・関白・公卿たちも含め不平不満を託(かこ)ちながらも「院」の意志に従わないわけにはいかないのです。やがて時が過ぎ、院が病臥したり没したりすると、これまでの不満だった人々の動きがにわかに活発になってきます。院政をする上皇の立場からみると、我が子である天皇に譲位を迫ることも、次の皇位継承者についても「通例の順」を無視して院がお気に入りの孫に譲位させることも可能でした。
 天皇は「白河-堀河-鳥羽-崇徳(顕仁)」と続いたが、白河院からみると曾孫(そうそん、ひまご)となる顕仁親王を自らの猶子(ゆうし、実親子でない二者が親子関係を結んだときの子、特に兄弟の子すなわち甥が多い)として早く皇位に就けるためでした。
 
5歳で皇位に就いた崇徳天皇が譲位したのは、永治(えいじ)元年(1141)数え年23歳で、すでに白河院が没して父鳥羽上皇の院政下でした。ここで上皇は白河から崇徳に代ります。ところが近衛天皇(崇徳天皇の弟)は17歳の若さで崩じ、子がありません。崇徳上皇は我が子重仁(しげひと)が当然次期天皇になると思っていましたが、実際には順序が逆戻り29歳の雅仁親王(崇徳天皇の弟)が即位して後白河天皇となりました。これが、保元の乱が起きる前年の久寿27月(1155)のことです。崇徳上皇にしてみれば、父鳥羽院の院政下で天皇在位が12年間、院政も開けず父鳥羽院に抑えられた上皇の生活が14年間、合せて26年間耐え続けた挙句、我が子重仁の天皇になる道が永久に閉ざされたのですから、その失望と憤懣は世人の想像を超えていたかと思われます。鳥羽上皇の院政下で、亡くなった近衛天皇より12際も年上の兄後白河天皇へと逆戻りした裏にはそれなりの理由があったのです。鳥羽院が77代の天皇にしたかったのは孫である雅仁親王の皇子守仁でしたが、父雅仁親王が皇位にも就かず親王として存生しているのに、それを飛び越して守仁王子を天皇に就かせるのは穏当(おんとう)ではない、ひとまず守仁の父雅仁を天皇にということで後白河天皇が誕生したと言われています。
・摂関家内部のもつれ
 保元の乱の要因には、天皇の政治を支えるべきはずの摂関家内部にも対立がありました。鳥羽天皇の頃関白を務めていた藤原忠実には泰子、忠通、頼長の
3人の子供がいました。白河上皇は忠道の娘泰子を鳥羽院の後宮にさせようとしたのですが、忠実はそれを断り、白河上皇の機嫌を損じて以来、白河上皇から遠ざけられてしまいました。
 また、鳥羽上皇に速く譲位させ崇徳天皇を即位させたのは白河天皇です。白河院と崇徳天皇は藤原忠実を遠ざけた代わりに忠実の子の忠通を関白に任じて近付けました。忠実と忠通の親子仲はしっくりいきません。ところが、白河上皇が崩御し鳥羽上皇が院政を始めると、今度は関白忠通が遠ざけられ、一旦辞任していた父忠実が天承
2年(1132)再び召されて内覧に任じられました。我が子の忠通と対立していた忠実は、もう一人の子頼長を頼りました。忠実と頼長が結んで、忠通との間で「関白を譲れ譲れない」「一度渡した氏長者権を返せ返さない」「近衛天皇の后の入内について忠通は養女の呈子(ていし)を推し」、頼長は「幼女で美貌の多子(たし)を推し」て争うなど、摂政関白の家も事ごとに対立していました。藤原頼長は内覧・左大臣・氏長者にまでなりましたが、鳥羽院第一のお気に入り藤原家成(家保の三男)と雑色(ぞうしき)の捕縛問題で争い、「愚管抄」に「和漢の才に富て、腹あしく、よろずにきわどき人なりけり」と評されたほどの人で、次第に鳥羽院の信用を失い、忠実・頼長親子は孤立、宇治に籠居して、不遇だった崇徳上皇と結びつくようになりました。一方、忠通は鳥羽院や美福門院の信用を得て関白に留まっていました。両者の関係は不詳。
 
11 - 
・源氏内部の嫡子(ちゃくし)争い
 一族の内部で後継者をめぐって対立する事象は、武家社会にもあらわれていました。源義家(みなもとのよしいえ、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当る)の跡継ぎが「為義」(一般的には祖父が義家、父が義親とされるが、義家を父とする説もある)とされる系図も多いが実際は義家の嫡子義親の五男であり、孫に当る為義を後継者にしました。その為義は嫡子に当る義朝を遠ざけ、二男の義賢か四男頼賢を嫡子にしようと考え凍てたとみられます。義朝やその子義平は鎌倉を本拠地にしながら武蔵方面に勢力を伸ばしていました。保元の乱の前年、久寿(きゅうじゅ)
2年(1155)には義朝の子義平が上野国に勢力を伸ばしていた木曽義仲の父義賢を攻めて殺害しています。それは、鎌倉に本拠を持つ源義朝が下野守(しもつけのかみ)となった直後、源為義は二男の義賢を上野に向かわせ、同じ頃三男の源義憲を常陸の信太庄に派遣して源義朝を挟み撃ちできる勢力を張らせようとしました。
源氏方
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平氏方
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 ■崇徳上皇方
 ▲後白河天皇方
 ×すでに死亡
 このとき、武蔵の大蔵館まで進出した義賢は甥義平に討たれたとみられます。源義賢の訃報を聞いた四男源頼賢が源義平を討つため東国へ向かいましたが、途中信濃で鳥羽上皇の荘園を侵したという理由で上皇から源義朝に弟源頼賢を討つように命令が出ています。「義朝が鳥羽上皇に結びついていた」ことを示しています。これらのことは、源為義が後継者に二男義賢か四男頼賢をと考えていたことに義朝が反発したからでしょう。このように、朝廷・摂関家・武士ともに、父が自分の目をかけた一人の子供に家を譲ろうとし、それに反対する他の子供との間に争いを起こす。これが「保元の乱」が起きた最も大きな要因だと考えられています。鳥羽上皇(崩御;保元元年72日/1156)が報じられると直ぐに、後白河天皇・関白藤原忠通・源義朝・平清盛らと、不遇の崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正らがそれぞれ結び付いて争いになりました。
・信濃から馳せ参じた武士
 「保元の乱」で「源義朝」(源氏方)に従った武士を「保元物語」から国別にみると、安房(あわ)と上総(かずさ)と下野は千葉県、常陸と下野は茨城県、下野(栃木県)、上野群馬県)、武蔵(埼玉県と東京都)、相模と武蔵は神奈川県、伊豆と駿河と遠江(とおとうみ)は静岡県、三河と尾張は愛知県、美濃(岐阜県)・信濃(長野県)・甲斐(山梨県)・近江の東国勢で総勢
200余騎が都へ馳せ参じ、このほか足利(源)義康勢100余騎、源頼政の勢100余騎も加わりました。一方、平清盛(平氏方)へ従った武士は国別にみると、河内(大阪府)、伊勢と伊賀は三重県、備前と備中は岡山県の西国勢で総勢300余騎が馳せ参じ、これに藤原頼長の兵が200-300余騎。両方軍勢を合せると1,000余騎の武者を頼みとした争いになりました。
 
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 保元の乱を書いた「保元物語」のうち最も古いといわれる「半井本」(なからいぼん)から、この乱に参加した信濃武士名を拾うと、「舞田・近藤武者・桑原・安藤二・安藤三・木曾義太・弥中太・根井大弥太・根津神平・熊坂四郎・志津間小二郎」が源義朝(源氏方)に従って天皇側についた武士です。国ごとの武士の数は武蔵にの33名に次いで二番めです。それは、当時の信濃は他国に比べて武士団の成長が進んでいて、源氏の勢力基盤となっていたのではと考えられています。この乱に参加した信濃の武士のうち根津神平は、東部町の祢津に館を持ち新張(みはり)牧や諏訪上社と関わりが深かった祢津神平貞直でしょう。また、舞田とか蒔田の文字で記されている舞田氏は、塩田に舞田の地名が残っていますが、この舞田かどうか確かな証拠は残されていません。この他では、海野氏や望月氏の名もみられます。一方、敗者となった崇徳上皇や源為義方には、坂城町の村上地区に所領を持っていた村上為国・基国父子が加わっていました。
・平治の乱(1160
 保元の乱(
1156)の後、敗者となった崇徳上皇方(平氏方)は厳しい処分を受けました。崇徳上皇は讃岐(香川県)に流され、藤原頼長は流れ矢で重傷を負い間もなく死亡し、源為義・為朝や平忠正をはじめ多くの武士が死罪になりました。乱の恩賞し処刑が終わってみると、平氏は平清盛以下の主要な一族が残り、源氏は源義朝一人が残っただけで大きな痛手となりました。源義朝は一族を敵にまわしてまで後白河天皇側に加わり戦ったのにその恩賞は少なく、この乱で手柄も上げなかった平清盛の方が多かったのです。恩賞の多少を決定したのは、武勲の大小でなくて院との結びつきの強さでした。源義朝と平清盛の反目は一層強くなりました。後白河天皇は3年間在位して子の守仁親王に位を譲って二条天皇とし、自らは院政を開きました。保元の乱の後、後白河院の近臣である少納言藤原通憲(みちのり)と権中納言藤原信頼(のぶより)との争いが激しくなり、通憲は平清盛を頼み、信頼は源義朝と結びました。平治元年12月(1159)、藤原信頼・源義朝の側(源氏方)に好機が訪れました。平清盛が熊野詣(和歌山県の熊野三山/本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の参詣、巡礼の起源、熊野古道)のため、一族を引き連れて都を離れました。源義朝らは直ちに兵をあげ信西(藤原通憲の法名)を捕えて斬首しましたが、平清盛帰京後激しい戦いのすえ源義朝方は破れてしまいました。
 保元の乱で、ばらばらになっていた「源氏」は、この平治の乱で滅び、中央に残るのは平清盛を棟梁とする「平氏」だけになりました。そして、平清盛は、武士として最初に公卿の座につき、中央政界でも強い発言力を持つようになり、政治の実権が武士の手に握られるきっかけが出来たのです。平清盛(
1118-1181)は、保元の乱・平治の乱で躍進し、源氏の勢力を抑え従一位太政大臣となり、対宗貿易を振興し、六波羅政権を樹立。娘徳子(建礼門院)を高倉天皇(第80代天皇、在位1168-1180)の妃とし、その子安徳天皇(第81代天皇、在位1180-1185)の即位により皇室の外戚として威を振った。後、反平氏勢力との内乱のさなか熱病で没した。
 -2、木曽義仲の挙兵
・旭将軍義仲(木曽義仲)の生涯
 平安時代の終わり頃から鎌倉時代の初期にかけて、源氏と平氏が争っていた頃、義仲は木曾谷で中原兼遠(かねとう)に育てられ成長、信濃を代表する鎌倉時代初めの武将です。「以仁王」(もちひとおう、後白河天皇の第
3皇子)の平氏追討の令旨(りょうじ、以仁王の令旨)を受けた義仲は木曾谷を出て、依田城(小県郡丸子町)で兵を集め、白鳥川原(小県郡東部町)で勢揃いした後、平氏の大軍を横田河原(長野市篠ノ井、1181年横田河原の戦い、越後の城氏/垣武平氏の流れをくみ陸奥の鎮守府将軍として武勇を振った平維茂/しげなりの子孫)で打ち破りました。その後破竹の勢いで、北陸地方に進撃して、有名な越中倶利伽羅峠の合戦で平氏の大軍を破り、その後も連戦連勝し、木曾を出て出てから2年後には、平氏を西国へ追い落として京都に入り、都の警護に当たりました。義仲は功によって左馬頭(さまのかみ)や伊豫守に取り立てられ、続いて部門としては最高職の征夷大将軍に任じられ朝日将軍(旭将軍)と呼ばれるようになりました。しかし宮延の実験者、後白河法皇の術策に苦しめられたり、同族の源頼朝に疑われたりした上、法皇と頼朝の策略によって、源義経や源範頼に攻められ近江の粟津(大津市)で討ち死にし波乱の生涯を終えました。
- 13 - 
・木曽義仲の生い立ち(先の源氏方の系図参照)
 義仲は久寿元年(
1154)帯刀先生(たてわきせんじょう、皇太子の警護に当たる人を帯、その長を先生といった役職名)源義賢(よしたか、河内源氏源為義の次男)の次男として、武蔵国鎌杉館(埼玉県嵐山町)で生まれたと伝承、幼名を駒王丸といいました。駒王丸が2歳のとき、「河内源氏為義の子、次男義賢と長男義朝とのいがみ合い(大倉館の戦い、1155)」で父義賢を亡くす。
 義賢を討った義朝の長男義平は、郎党の畠山庄司重能(しげよし)に、駒王丸を生かしておくと後々の禍のもとになるから探し出し必ず殺すよう命じました。重能が駒王丸を探し出してみると、わずか2歳の幼児、不憫で殺す気になれず、たまたま都での勤めを終え武蔵に戻っていた斎藤別当実盛に駒王丸を預けてしまいました。当時源氏の棟梁であった源義朝の後継者義平からの「駒王丸を殺せ」との命令を源氏の家人である東国の武将たちは背くわけにはいかず。家の浮き沈みをかけてまで駒王丸を助けようとはしなかった。そこで、斎藤実盛は困り果てて思案をめぐらし、駒王丸の乳母の夫である右少史として官職につき都で過したこともある木曽の士豪中三権守兼遠(かねとう、中原兼遠)に養育を頼みました。兼遠は東国からはるばる依頼のために訪れてきた、実盛の願いを裏切るわけにもいかず。教育を決意した本心は、当時の関東や京都における源氏や平氏の動きを見極め、深く考えた上での承諾だったことでしょう。
・中略(義仲の勢力の確立)
・京都へり進撃
 「白鳥川原の勢揃い」(東御市海野の千曲川べり)から「横田川原の合戦」(治承
5613日、1181)で大勝利をおさめ、勢いに乗じ越後の国府まで進攻するも、一旦信濃に戻り横田の城に留まったといわれます。「横田川原の合戦」の後、北陸道の大部分が義仲についたため兵力は5万騎を数えるようになり、京都へ入ることを決意しました。
 信濃に戻って
1年数ヶ月が経った寿永23月(1183)、源頼朝との不和(鎌倉殿として源氏の棟梁は自分であると辞任する頼朝にとって、義仲が源為義の三男義広(義憲)と手を結ぶのは見過ごせない)が表面化しました。
 義仲は、「般若野の戦い」(富山県高岡市)-「倶利伽羅峠の合戦」(富山県小矢部市)-「篠原の戦い」(福井県武生市)と進攻、最も気掛かりであった「比叡山延暦寺」に「牒状」(ちょうじょう)を送り、越前国府を出て今城(福井県今庄町)-近江国柳瀬(滋賀県余呉町)を通り京都を目指しました。
 後白河法皇は、義仲の軍勢に備えて、京都の警護を厳重にするよう努めさせていましたが、
725日には六波羅や西八条等の舎屋は全て灰燼(はいじん)に化し、平氏の総師平宗盛(清盛の三男)はついに、天皇や法皇を奉じて西国へ逃げようとしました。ところが、後白河法皇は、平氏の様子を知って、いち早く比叡山に身を隠しました。やむをえず平氏一門は、725日、6歳の幼帝安徳天皇や建礼門院(けんれいもんいん、平清盛の娘、安徳天皇の生母)を奉じて西国へ落ち延びました。
 義仲は源行家と共に、
5万余騎の軍勢を従えて、寿永2728日、ついに京都入りを果たし、蓮華王院(三十三間堂)の御所で後白河法皇に謁(えつ)して、平氏追討の院宣(いんぜん)を受けました。さらに、730日に、後白河法皇は、義仲に京都を鎮めることを命じ、義仲は12人の主な武将に、都の所々を分担して警護させました。義仲は九重の内(皇居)の警護のほか、京都守護として武将たちの総支配者に任命されました。810日には、義仲は左馬兼越後守に、行家は備前守に任ぜられましたが、二人ともあまり喜ばなかったので、その後義仲は伊豫守に、行家は備前守となりました。なお、その2日後には、平氏から没収した500余ヶ所の荘園のうち、140ヶ所ほどが義仲に与えられました。
・義仲の栄光と挫折
 義仲は京都入りしたものの、前途は容易ではありませんでした。「養和の大飢饉」(
1181-1182)から立ち直っていなかったこともあって、義仲の軍勢は食糧補給が思うにまかせませんでした。
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 加えて軍勢の中には、北陸道などで寄せ集めた兵も多く、統制のとれない兵は、田畑を刈り取って馬の秣にしたり、年貢米を差し押さえたりで、公家や都の人々の反感を買ってしまいました。また、義仲は、武将の長としての力量はあったものの、京都の公卿たちのように、先例とか慣習を重んずる都の習わしには慣れていませんでした。支那化の対応がどこまで事実であったのか定かではありませんが、法皇や公卿、更には噂を聞いた都の人々にまで、義仲が支持されなくなっていたことを物語っています。
 義仲は820日、以仁王の子、北陸宮を皇位につけるよう推挙しましたが、後白河法皇はこれを避け、高倉天皇の皇子を皇位につかせました。後鳥羽天皇です。義仲は意見を入れられないまま、920日には法皇の命によって、平氏追討のため西国播磨(兵庫県)へ向かいました。続いて1012日には再び、備中(岡山県)へ向けて平氏討伐のため京都を立ちました。ところが西国に出向いていた1014日、義仲にとって耐えがたい宣旨が出されました。「寿永210月の宣旨」で、後白河法皇が源頼朝と図り、「東海・東山諸国の年貢・神社・仏寺・王臣家の荘園は、もとのように領家に返すこと。もしこれに不服の者は、源頼朝に申し出て、指図を受けること」というものでした。これは北陸道は除いたものの、東海・東山両道の支配者は、事実上頼朝であることを認めるものでした。自分の本拠地がある東山道まで頼朝の支配下に移ってしまうことを知った義仲は、「生涯の遺恨である」と激怒しました。そこで1023日法皇は義仲に、信濃・上野二国を与えなだめました。
・法住寺殿攻め
 西国での義仲の軍勢は、備中水島(岡山県倉敷市)で平氏と戦いましたが、慣れない海戦のため、頼みとしていた東信濃の有力武将海野行広をはじめ多くの将兵を失いました。敗戦の後、京都に戻った義仲の軍勢は「その勢甚だ少なし」と記されています。義仲は敗戦で大きな痛手を受けた上、京都に帰ってからいろいろ画策しますが、後白河法皇はいずれも反対し、
1117日には義仲に京都を退去するよう命じました。怒った義仲は1119日には今井兼平など側近の諌めを押し切って法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)に攻め入り(寿永21119日、1184)放火して法皇を五条東洞院の摂政藤原基通邸に後鳥羽天皇を閑院に幽閉してしまいました。九条兼実はこの日の義仲の行動を「義仲はこれ天の不徳の君を誡める使いなり」と記しています。1121日には義仲勢は、藤原光長以下100余人の首を五条河原にさらして勝鬨をあげました。また前(さきの)関白藤原基房(藤原忠通の子)と相談して、法皇方の藤原基通ほか近臣40余人の官職を取り上げ、基房の子藤原師家(もろいえ)を内大臣・摂政としました。なお義仲は、院の厩(うまや)の別当(長官)となり政治・軍事の実験を握りました。明けて寿永3110日(1184)には、武門の最高職である征夷大将軍に任じられました。義仲を朝日将軍と呼ぶようになったのはこの時からでした。
・義仲の挫折
 義仲は法住寺殿攻めの後、実権を握ったかにみえましたが、これまで平氏追討のため、行動を共にしてきた源行家や摂津源氏の多田行綱などが、義仲と不和となり袂を分かちました。法皇は以前から密かに鎌倉の源頼朝と連絡を取り、上洛を促していました。京都では、義仲を非難する落書も見られ「玉葉」の
95日の日記には「頼む所は、ただ頼朝の上洛」と記されています。こうした情勢の中で、11月頼朝は義仲を追悼するため、源範頼・源義経を大将とする東国勢を京都へ差し向けました。12月上旬には、義経の軍勢が伊勢へ、明けて寿永31月上旬(1184)には東国勢が美濃に着いたと「玉葉」に記されています。更に115日頃には、源範頼勢が勢多(滋賀県)から、源義経勢が宇治(京都府)から数万の大軍で義仲追討の総攻撃を開始しました。120日義仲勢は勢多や氏で多くの将兵を失いました。長瀬義員も宇治川の合戦で奮闘の後討ち死にしました。多勢に無勢の義仲方は三条河原や六条河原の戦いでも義仲四天王の根井行親や楯親忠の両名をはじめ幾多の武将が討ち死にしました。宇治川の敗戦を聞いた義仲は、今井兼平のすすめで法皇を伴って北陸へ逃れようとしましたが、東軍勢の進撃が早いため果たせず僅か30-40騎の無勢で近江へ逃れました。敗戦につぐ敗戦で、粟津(大津市)では、それまで義仲に従って奮戦していた手塚太郎も討ち死にしました。
 
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 最後は義仲と兼平の二人だけとなり、兼平は自害し義仲は相模国(神奈川県)の石田次郎の手にかかり粟津で討ち死にしました。ときに寿永3120日、31歳、波乱の人生でした。挙兵して35ヶ月余、都で過したのは6ヶ月ほど、朝日将軍としては10日余の短い栄光と挫折の人生でした。しかし、義仲が信濃武士を中核にして、短い年月の間に京都まで進出し、平氏を西国へ追い落として政権を握り、信濃武士の力を示したことは信濃にしって実に大きな出来事でした。その後、貴族の世の中から武士の世へと移り変わり、武家政権が長年に渡って全国を支配することになりますが、義仲は新しい次代をつくり出す先駆けとなったとも考えられます。
 Ⅳ、鎌倉時代の上田小県地方
 -1、鎌倉殿の御家人
 義仲が粟津で敗死したのは元暦元年120日(1184)です。それから20日ほど経った27日には、源頼朝方の源義経の軍勢が平氏を摂津一ノ谷で破っています。有名な鵯越(ひよどりごえ)のの逆落(さかおとし)です。この戦い以後、平氏は没落の運命をたどることとなりますが、義仲の死から9日ほど経った129日には、義仲に味方した残党を追補するようにとの命令の宣旨(せんじ)が出されました。この宣旨について「玉葉」(ぎょくよう)には「まさに散位源頼朝をして、その身を召し進めしむべき源義仲余党の事」として「謀反の首(おさ)義仲の余党遁(のが)れて、都鄙(とゆう、都や田舎)にある由、普(あまね)くその聞えあり。宜しく彼の頼朝をして、件(くだん)の輩を召し進むべし」「五幾内・七道諸国に同じく之を下知(げち、指図・言いつけ)す」といった文言が記されています。
 頼朝によって、義仲の残党を追補するようにと記されていますが、京都周辺の大和・山城・攝津など五ヶ国と、東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七道にも、下知したということは、義仲の残党追跡が、全国にわたっていたことがわかります。
 なお、頼朝は人質としていた義仲の嫡子義高を、どう処遇するか苦慮し、愛娘大姫の婿と決めていた義高を、将来の禍を絶つため、極秘のうちに殺害することを部下に命じました。ところが、これを聞いた女房(大姫に仕える女)が大姫に知らせたため、義高は我が身危難の降りかかったことを察知して、父義仲の討死後
3ヶ月ほど経った元暦元年421日(1184)、海野幸氏を身代りに残し鎌倉を逃げ出しました。追手をかけられた義高は、逃げ切ることが出来ず426日武蔵入間川のほとりで斬られてしまいました。その後頼朝は、義仲や義高に心を寄せる武士たちが反乱を起こそうとしているとして、数日後の51日、足利義兼・小笠原長清に御家人を伴わせて甲斐に出向かせました。また信濃には、小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林など、下野・上野・武蔵などの武士団を下向させました。
 義仲の勢力下にあった信濃へ、数多くの御家人を派遣して、取り調べをするといった動きの中で、頼朝は元暦元年
6月(1184)には三河・駿河・武蔵3ヶ国を賜り、知行国主となっていました。更に文治元年8月(1185)には伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予の6ヶ国を加えられていることなどからして、頼朝の信濃支配がより強力に進められようとしていたことが分ります。
 義仲が敗死してから、
19ヶ月ほど経った文治218日(1186)に、塩田八郎高光氏(五加)の本拠地である塩田庄には、惟宗(これむね)忠久(後の島津忠久)が地頭に任命されました。同じく文治210月に、野沢氏の本拠地伴野庄(佐久市伴野)と根井氏の本拠地大井庄(佐久市岩村田)には、頼朝の信頼が厚かった甲斐の加々美(小笠原)長清(信濃守護家小笠原初代当主)が地頭に任命されたと考えられます。これらのことから、義仲挙兵の拠点となっていた小県や佐久地方の残党を厳しく抑え込もうとする頼朝の意図を汲み取ることが出来ます。
・頼朝に許された武士たち
 討ち果たされた者もいますが、多くの武士については、いろいろ理由付けをして恩を与える形で赦免し、配下に組み入れるなど相手に応じた手立てをとり御家人に加えていることが分ります。

 
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 -2、鎌倉時代の荘園と御家人
①小泉荘と泉氏
・泉親衛の謀略が発覚
 建保(けんぽう)元年(
1213)というと、源実朝が3代将軍の座に就いて既に10年が過ぎています。この年の215日、鎌倉の甘縄(あまなわ、鎌倉の長谷辺り)にあった有力御家人千葉成胤(なりたね)の屋敷を一人の法師が訪れました。法師は信濃国に住む青栗七郎の弟で阿静房安念(あせいぼうあんねん)です。何事かを成胤に打ち明け、合力を得ようとしたところ、成胤に召し捕られ、北条義時(2代執権)や将軍(源実朝)のところまで報告され、二階堂行村のもとで子細を白状(実朝を倒し義時を抑え込む謀略、首謀者は信濃国住人泉小次郎親平;泉親衛)させられました。
・室賀郷の六町余善光寺へ寄進
 信濃国小泉庄室賀郷の六町六反の水田が信濃国の善光寺へ不断念仏(ふだんねんぶつ)の用途として寄進されました。延応元年
715日(1239)のことで「吾妻鏡」に記録されています。この寄進者が「正四位上行前武蔵守平朝臣(たいらのあそん)」と署名している3代執権北条泰時」(執権体制を確立、執権政治の最盛期)であったことです。北条泰時は、この寄進の3年後に亡くなっています。寄進状の内容は「水田六町六反は室賀郷内にあり、念仏の僧は才能や力量の優れた人を選ぶように」とあって、不断念仏用途とは僧が経文を奉読し念仏を唱え、祖先や子孫の法界平等の利益を祈ることを休まずに続けるための給付という意味です。
・小泉庄
 鎌倉時代の上田小県地方の荘園で郷村が判るのは小泉庄だけです。嘉暦(かりゃく)
4年(1329)、諏訪上社五月会(さつきえ)と御射山祭の当番(頭役)記録(頭役注文)に、「上田原・津井地(築地)・穂屋(保野)・前田(舞田)・岡村(岡)・加畠(神畑)・御子田(仁古田)・室賀」の8ヶ所が記されていました。後、穂野・前田は塩田庄に編入されています。郷村名だけでなく頭役の名も記されています。上田原・津井地・穂野は薩摩守知行分、前田・岡村は泉小次郎知行分、加畠・御子田・室賀は海野信濃権守知行分。薩摩守は北条氏かと思われます。海野氏は会田御厨(みくりや)の地頭を兼ねた庶流系海野氏、官途名から国衙との関係を持っていたとも考えられます。泉氏の系譜は「尊卑(そんぴ)分脈」や「系図纂要(さんよう)」の系図では清和源氏満快(みつよし)の子孫とされています。
 -3、塩田庄と地頭の島津氏・北条氏
 「塩田庄」を含む東信濃一帯も「源平の争乱」に巻き込まれ、元暦元年1月(1184)の木曽義仲の敗死という悲惨な結果は新しい武家の棟梁「源頼朝」の支配を受けなければならなくなりました。文治21 8日(1186)には、島津忠久が源頼朝から塩田庄の地頭に任命されて塩田庄を治めるようになりました。
 忠久は文治元年11月(1185)に、薩摩・大隅・日向三国にまたがる大荘園島津庄の下司職に任じられ、翌24月には同庄の地頭として認められています。この大庄園の地頭となったことから、島津の姓を名乗るようになりました。島津氏の子孫は以後も守護大名・戦国大名として薩摩・大隅両国を支配し、江戸時代ににもそのまま70余万石の大大名となって存続し、明治維新にも大きな働きをしたことで知られています。
 塩田庄地頭になって11年経った建久8年(1197)時点の島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国三ヶ国の守護職と同国内の8,000町歩に及ぶ地頭職を持つ桁外れの有力御家人であったわけです。島津忠久は、塩田庄に在地したかは定かではない。
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・地頭(じとう)とは
 鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職で「地頭職」(じとうしき)という。守護とともに設置された。平安時代(平氏政権期以前)には、荘園領主・国司(知行国主)が所有する庄園・国衙領(公領)を
現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官・下司・郡司・郷司・保司)を命じたが、鎌倉時代には源頼朝がその職の任命権を持つこととなり朝廷も認めた。鎌倉幕府はこれを地頭職と呼ぶこととし、御家人から任命し、領主へは年貢を納めることを保証した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を持つこととなった。また、江戸時代にも領主のことを地頭と詠んだ。
 惟宗忠久(後、島津忠久)の出自は諸説あるが、源頼朝の乳母「比企尼」を中心とする比企氏一族と深い関係にあったことは事実のようで、忠久の母親は比企尼の長女「丹後局」と伝承されています。
・比企一族と信濃そして北陸道
 源頼朝は久安
3年(1147)、京で生まれました。数え年13歳のとき、父義朝が「平治の乱」に破れ、翌永暦元年(1160)伊豆国に配流(はいる)になり、およそ20年間平家の監視下で暮らします。都で乳母を務めた比企尼(ひきのあま)は夫比企掃部允(ひきかもんのじょう)とともに比企郡(埼玉県)を請所として武蔵国に移り住み、心を用いて頼朝の流人生活を支えました。文治の頃は掃部允はすでに他界、男子がなかったので甥の能員(よしかず)を猶子(ゆうし、兄弟や親族の子を養子にする)として一族の中心に据えました。能員の妻は2代将軍頼家の乳母となりました。能員には嫡子余一兵衛尉(いちひょうえのじょう)・三郎・四郎・五郎や女子も多く、その婿笠原・中山・糟屋の各氏がいましたが、特に娘の若狭局(わかさのつぼね)は頼家の室となって頼家の息子である一幡(いちまん)や公卿(くぎょう)の乳母になっています。このように比企氏は2代にわたって当主の妻が将軍の乳母になっています。このように
、比企一族は鎌倉幕府内においての地位も大変高い一族でした。比企能員は、信濃の目代(もくだい、代官)であったことは勿論、上野国の守護も兼ね、文治
5年(1189)の奥州藤原氏討伐の際は北陸道大将軍を命じられ、建久元年(1190)の「大河兼任(かねとう)の叛乱」のときには東山道大将軍に任じられています。比企朝宗(ともむね、掃部允の弟)は、源平争乱期に鎌倉方北陸道軍の指揮官として北陸道一帯の木曽義仲勢力の一掃に努め北陸道全体の守護にも当る役を務めました。以上が島津忠久の後ろ盾になった人々の要点です。
・文治21月の「袖判下し文」(そではんくだしぶみ)・・・・前頁画像
 島津忠久(惟宗忠久)を信濃国塩田庄の地頭に任命した時期、下し文の日付は文治
218日です。源頼朝が、武家の棟梁として全国の武士を統率化に置いていく過程を振り返ってみましょう。
 治承
48月(1180)、伊豆で旗上げをして以来、関東の平定、木曽義仲の追討を進め、平家を滅亡させたのが文治元年3月(1185)のことでした。これで残るは奥州の藤原氏だけという情勢でした。平氏討伐の戦いが一段落した後に新たに浮かんできたのが「義経との対立」でした。背後に後白河上皇が糸を引く姿も見えていました。義経は兄との戦いを決意しましたが兵力を集められず頼朝の追手から逃れるために、文治元年116日(1185)以後幾内を転々と逃れ、その後行き方知れずになりました。頼朝は義経の追捕を表の理由として、後白河上皇から国内の庄園・公領を問わず守護・地頭を任免する権限と反別5升の兵糧米を集めることを勅令によって許されました。それが1128日のことでした。島津忠久が塩田庄地頭に任じられた補任状の日付は勅令がくだされた日から数えて39日しか経っていません。
 下し文の何処にも源頼朝の文字は見当たりません。右下に花押(かおう、署名の代わりに書いた一種の記号・書判)が書かれていますが、これが頼朝の花押です。この形式の文書を「袖判下し文」(そではんくだしぶみ)といいます。文治
3年(1187)頃迄の頼朝初期の文書に多いと言われています。木曽義仲の根拠地依田の館の隣りの庄園であり、信濃国や北陸道諸国の中のおそらく最初の地頭という事実を重ねてみると、忠久に対する信頼と優遇とが一体となった措置といえます。この背後に、孫を思う比企尼や、なみいる鎌倉御家人たちに目を配りながら甥の成長に期待を寄せる比企能員の顔が見え隠れしています。
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・比企氏の滅亡と島津氏
 「比企氏」と同じような大きな勢力を持つ御家人がもう一人いました。頼朝の妻「政子」の生家の「北条氏」です。「北条氏」は、北条時政の娘「政子」が将軍頼朝の正室であったばかりでなく時政の娘「阿波局」(あわのつぼね)は頼朝の第
2子「実朝」(さねとも)の乳母でした。比企氏と北条氏の対立が生まれないはずがありません。
・比企能員の変
 事件は、建仁(けんにん)
3年(12037月から9月のことです。2代将軍頼家の代(頼朝は、建久1029日/1199に病死)になっていました。720日に頼家は病気になり827日には生命が危うくなりました。そこで頼家は、「関東28ヶ国の惣地頭」は嫡子「一幡」(いちまん、6歳)に、「残り関西の38ヶ国」は時政の娘阿波局が乳を与えた頼家の弟「千幡」(せんまん、後の実朝10歳)に譲る」と決めました。66ヶ国の惣地頭が「一幡」に譲られるのが普通なのに、その6割近くが将軍にならないはずの「千幡」に与えられるのは異例というほかなく、「時政や政子の北条氏勢力拡大のための策略」に違いありません。
 比企能員が頼家の病床の枕辺(まくらべ)に伺い、「嫡子一幡や頼家の周辺が危ういこと、早く北条氏を討たなければと密談している」のを障子を隔てて聞いていた政子が一族に急報したのです。北条時政は、仏像供養を口実に比企能員を自邸に招き、能員は「密談が漏れている」とは知らずに数人の従者を連れただけで北条邸に足を運びました。言わずと知れたこと、比企能員が門に配流やいなや立待ち殺されてしまいました。直ちに比企一族の邸に軍勢が差し向けられ、一幡をはじめ一族ことごとく滅亡します。建仁
392日(1203)、たった一日の出来事(比企能員の変)でした。
・島津忠久
 
97日、2代将軍頼(在位1202-1203)は髪を剃り落し、10日には「千幡」が第3代将軍源実朝、初代執権北条時政になりました。この比企・北条氏の対立(比企能員の変)のあおりを受けたのが島津忠久です。「吾妻鏡」では「忠久は能員と縁のある物という理由で大隅・薩摩・日向3ヶ国の守護職を没収された」と30字の短い説明を加えているだけです。ちなみに薩摩国守護職は間もなく忠久に返されたとみられますが、大隅・日向2ヶ国の守護職は、その後北条一族の手中に入っています。さて、塩田庄の地頭職が没収されたか否か、その記録は見当たりません。しかし、この後の塩田庄地頭が北条氏であることをみると、おそらくこの時地頭職も島津氏から北条氏へ移ったのでしょう。
・塩田北条氏
 鎌倉時代の塩田庄の歴史としては、「北条義政が塩田庄へ遁世」したことをあげなければなりません。この「遁世」(とんせい、出家して世間の煩わしさから逃れ暮らすこと)の事情を記すものとして、建治
3522日(1277)の項に「建治三年日記」「関東評定衆伝」「北条九代記」の三史料があり、その直前の45日の項には三通の「入来文書」を掲げています。
 「建治三年日記」から、四月四日、六月二日、六月五日条
 四月四日晴る。(中略)末刻許(ひつじのこくばか)り、武州(北条義政、武蔵国の別称、相模国)出家の暇(いとま)を賜らしめ、申時素懐(さるのときそかい)を遂げしめ給うと云々。
 六月二日晴る。武蔵入道殿、去月二十二日御遁世、善光寺へ趣くかしめ給う。御家中の人々日来猶(ひごろなお)以て存知せず、今日始めて披露の間、内外仰天の由、土持左衛門入道行正山内殿(北条時宗)に参り申し入ると云々。
 六月五日晴る。武蔵禅門御遁世の間留め申されんがため、御使工藤三郎右衛門入道道惠(どうけい)を立てらると云々。御遁世、去月二十二日の由披露するの處、定日は二十八日と云々。
 このように記されている「建治三年日記」からは、「おそらく44日時宗(8代執権、在位1268-1284)から出家の許しが出て」、「528日出家(善光寺において)」「62日時宗に報告し、御家中の人々に披露」「5日工藤道惠が遺留のため」使者に立ったという経過が読み取れます。
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 さらに「関東評定衆伝」「北条九代記」からは、「初めて信州善光寺に詣で、後に塩田庄に籠居(ろうきょ、閉籠る)した」「同6月に所帯を収公(しゅうこう、権力が領地などを取り上げる)された」ことの二つが書き加えられています。
・連署北条義政の系譜
北条時政の先祖
 桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-
平直方
  家系は「桓武平氏」平直方流を自称する北条氏であるが直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説あり
 北条時政-政子
     
義時-泰時(得宗家)
        ∟朝時(名越流)
        ∟
重時(極楽寺流)-時継(苅田流)
                 ∟長時(赤橋流)
                 ∟時茂(常盤流)
                 ∟業時(普恩寺流)
                 ∟
義政(塩田流)--時治-重貞
                          ∟
国時俊時
                             ∟藤時
                          ∟胤時
                 ∟忠時(坂田流)
        ∟政村(政村流)
        ∟実泰(金沢流)
        ∟有時(伊具流)
義政との関係
時政(曽祖父);初代執権
義時(祖父);
2代執権
泰時(叔父);
3代執権(最盛期)
重時(父);極楽寺流北条家の祖
長時(兄);
6代執権

北条氏の中でも
鎌倉中期には最も勢力のあった家筋
・鎌倉武士二番めの負担額
 「建治元年六条八幡宮造営注文」、義政
34歳で鎌倉にあって連署を務めていたときのもの、最初に書かれている「鎌倉中」に続く御家人111人は鎌倉に常駐するように義務付けられていた人たちの名。筆頭の相模守とは北条時宗(8代執権、在位1268-1284)のことで「500貫」、次の武蔵守が北条義政のことで「300貫」と書いてあります。また、義政のところには割書きで「相渡す所の陸奥入道跡 并 武蔵入道跡」と書き込まれています。これはこの5年前に亡くなった陸奥守時茂、4年前になくなった武蔵守長時の所領を含めてという意味でしょう。長時や時茂の子供が小さかったので義政が重時(父)の流れをくむ一族をまとめる立場にいたと推定されます。義政の負担額300貫は、信濃の在国の御家人32人の総額171貫の2倍近い経済力です。これだけの地位と勢力があって、大変な経済力を持ちながら「何故に自ら望んで引退したのでしょう。
・義政引退の事情
 義政引退時の執権内部には「いろいろなごたごた」がありました。何が原因かはいずれも推測の域を外れません。ここでは「嫌気がさした」に留め省略しておきます。
・塩田北条氏
 塩田に「籠居」したことが「塩田北条氏」といわれるもとになったと考えられます。塩田に移る以前の鎌倉における住まいは何処か定かではありません。北条義政の子、国時(くにとき)・時治(ときはる)の二人が知られ、国時の子が俊時(としとき)です。国時・時治・俊時三人とも、それぞれ幕府内の重要な人物として引付衆(ひきつけしゅう)・評定衆(ひょうじょうしゅう)・引付頭人(ひきつけとうにん)を勤めています。

 
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・塩田北条氏系図
 重時(武蔵守・相模守)
  六波羅北方・連署(
3代)
極楽寺
 

長時(左近・将監・武蔵守)
 六波羅北方・執権(
6代)
常盤
 

 
時茂(陸奥守)
 六波羅北方
塩田
 

 
義政(駿河守・武蔵守)
 

国時(陸奥守)
 評定衆・引付頭人

  
俊時(中務大輔)
 


 
時治(越後守)
 評定衆・引付頭人
極楽寺
 


業時(駿河守・陸奥守)
 連署(
7代)
・塩田北条氏の残響
 義政は、塩田庄た
4年暮らしてこの世を去りました。義政が塩田に籠居(ろうきょ)した跡、所帯が収公(しゅうこう)されたと書いてあるのは「関東評定衆伝」や「北条九代記」でした。しかし、義政になにがしかの罪状があったわけでもないので、文字通りの「所帯の収公」などはなかったのでしょう。ただ、「連署」の職にまつわる何かの「収公」(権力が領地などを取り上げること)があったのだと考えられます。国時や俊時は、鎌倉にいる方が多かったのでしょうが、鎌倉と塩田を往返して暮らしていたとみられます。住んでいた場所は、東前山の県道に近い「竹之内」の地が塩田北条氏の館跡であろうと推定されました。遁世して塩田にきた義政は、塩田庄に居るのが当たり前でしたが、国時や俊時の代になると鎌倉に出仕していることも多く、その時は、家臣の中から代官を定めて塩田庄の管理に当らせたものと考えられます。
・領主と年貢
 塩田庄が最勝光院領として立荘されたことは周知のことです。それからずっと長い間、荘園領主側の記録は見当たりません。
150年ほど経った正中2年(1325)になって、最勝光院領の目録が作られ、それが京都の東寺に所蔵されてきて、「東寺百合文書」として保存されています。20ヶ所の庄園についての年貢の種類と量・納入状況等を記していますが、塩田庄の分だけを取り出してみましょう。
 〔最勝光院荘園目録 案〕
 最勝光院
  注進寺領庄園年貢近年所済分出物等散状(しょさいぶんだしものとうさんじょう)
    (中略)
 一 信濃国
  塩田庄 地頭関東武蔵左近将監請所
   本年貢白布千六十反
   綾被物(あやかずけもの) 二重 内 二月御月忌一重 七月八講一重
  十一月兵士十人
   近年染物廿一端之を進済(しんさい)す。但し正応二年用途十四貫を以て之を進済す。
   而(じん)して弘安二・三年、一向に沙汰無しと云々。
   近年代銭(だいせん)十三貫八百沙汰歟(さたか)。
    (中略)
   右、初見に就いて注進件(くだん)の如し。凡そ近年先例に背き、執事公文に返抄(へんしょう)を
   成されざるの間、委(くわ)しく之を存知せず。
    正中二年三月 日   
公文左衛門少尉(くもんさえもんしょうじょう)大江(花押)
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※先述の「公文左衛門少尉(くもんさえもんしょうじょう)大江花押)とは、鎌倉殿の重臣のひとり「大江広元」(1148-1225)かと思われる記述をネット検索で見付けました。
 儒学を専門とする京都の下級貴族・中原広季の養子で、実父は大江維光とされています。京都で朝廷のキャリアを重ねていましたが、源頼朝が挙兵すると、兄弟の中原親能の縁もあって鎌倉に下向します。戦地には赴かず京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍し、
政務処理を行う公文所や政所が設置されるとその別当(長官)となりました。頼朝の死後、源頼家にも側近として仕えますが、有力御家人らの対立からは一線を引く立場をとりました。続く源実朝の代になると、北条氏との協調関係を保ち、鎌倉殿の政治を補佐するとともに、和歌などの文化的な活動も支えました。承久の乱では、京都への進撃を強く主張し幕府方の勝利に貢献しました。
※塩田庄の公文と勘違いしたことに気づきました。よって、「福澤家」は「代官もしくは荘官」であったのではとの考え方は継続します。
 立庄当時の年貢は白布1,000反でしたが、後さらに白布60反と綾織りの被物(かずけもの)二重ね、それに11月に兵士10人を番役に差し向けることが、いつ頃からの事か分りませんが増加しています。しかし、それは、年貢の量が一番多い時であって、この目録を作成した直前の鎌倉時代後期には、驚くほどに減っています。しかも、請所とありますがから、塩田北条氏が年貢の徴収と納入を一切請け負っていたわけで、それで、近年は染物にした織物21反納めるだけだというのです。正応2年(1289)には、銭14貫を納めて年貢を済ませ、さらに最近は、もう200文減らして13800文に減っています。なお、弘安2年と3年(1279-1280)の分は、45年間も経過しているのに、まだ受け取っていないという状態でした。
・地頭の年貢抑留(先の続きに戻ります)
 先の記述に見る「
13800文」という銭が、当時どれだけの価値を有する年貢なのか分りませんが、現在の米に当てはめると塩田庄全体の年貢が白米15俵半に減っているわけです。白布1,000反余の年貢が白米15俵余に減ったが、決して百姓層の負担が軽くなったのではなく、あれやこれやと理由をつけ少しずつ年貢納入量を減らそうと荘園領主と粘り強く交渉を続けてきた地頭の取り分になっていたと考えられます。地頭が自分の手元に年貢を留めてしまうことを「年貢抑留」といいます。塩田庄の地頭といえば、それは他ならない塩田北条氏です。地頭の年貢抑留は、塩田北条氏一人に見られたものではありません。日吉社領(ひえしゃりょう)浦野庄の場合は元応元年(1319)の文書で、全く年貢が届いていないと領主側は嘆いています。地頭の年貢抑留はこの時代の傾向でした。
・荘園領主が東寺に替わる
 鎌倉時代初期から弘法大師信仰に支えられ真言宗の中心寺院としての役割を果たしていた「東寺」(京都府)、寺の別名を「教王護国寺」とも呼びました。後宇多上皇(
1287-1324)は、延慶(えんきょう)元年(1308)に東寺の漑頂院で漑頂(かんじょう、仏教儀式)を受けたほど信仰をよせ、同時に「庄園」の寄進を進めました。最勝光院は嘉禄2年(1226)に火災に遭い法灯は受け継がれていましたが、後醍醐天皇は元徳元年(1329)に最勝光院とその所領をそっくり東寺に寄進しました。正中2年(1325)に公文大江氏の手で作成された「最勝光院所領目録」は、この寄進のための準備であったと考えられます。以後、塩田庄は東寺領となるのですが、鎌倉幕府の滅亡が数年後に起こりましたので、まもなく「塩田北条氏」は滅亡します。塩田庄にとって、領主が交代してから束の間のことでした。そして、建武の新政の時代から地頭が変ります。以後、室町時代にかけての荘園領主の同行や貢納について記したものは見当たりません。
※中略(第二節鎌倉時代の荘園と御家人(p89)から第四節鎌倉時代の文化(p144)迄飛ばし読み)
・聖一遍(ひじりいっぺん)の新風(見過ごす項目名に、とんでもない記事が)
 鎌倉時代は、禅宗をはじめ浄土宗や日蓮宗など多くの宗教興隆(特定の宗教が信仰される人が増えること)の時代でしたが、浄土宗の中の一派に「一遍」という僧を宗祖とする「時宗」(じしゅう)があります。一遍は延応(えんのう)元年(
1239)伊予(愛知県)に生まれ、仏門に入って浄土の教義を学びました。
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 文永8年(1271)に信濃の善光寺に参籠(さんろう、寺にこもり昼夜祈願すること)し、念仏三昧を修したのが大きな転機となり念仏の行によってこそ人心を救い浄土に往生することが出来ると言う意趣のもとに、全国を行脚遊行して布施につとめ世に一遍上人と親しまれた名僧です。一遍が有縁の善光寺は、周知のように三国伝来といわれる一光三尊の阿弥陀如来を本尊として、宗派を越えて信仰され全国に知られた寺です。
 「吾妻鏡」には源頼朝が文治
3年に信濃の領主に厳命して復興に協力したことや、執権北条泰時が室賀郷の田地を念仏料として寄進するなど、鎌倉幕府が崇敬の念を怠らなかったことでも知られています。(中略)
 北国街道の道筋を通って、一遍上人は少なくとも上田界隈を二度は通っていますし、信濃の地に
4ヶ月から半年近くも留まっていたことになります。一遍上人の教えが下層の民衆も引き込んで上下を問わず帰依した人がいたのは疑いのないことです。上田地方の人々の中にも、帰依者が生まれたであろうと推察されます。
 
さらに時代は昭和の時代まで飛びますが、当地方各地に「念仏講」という集団の組織が見受けられます。起源については不明ですが、念仏の行事を通して庶民生活と仏教との深いつながりを知ることが出来ます。念仏講については、塩田の舞田地区を中心に大変興味深い一文「念仏講について」を紙上講座に載せています。それによると、昔は各集落には「念仏講」という組織があって、10人、15人、あるいは一集落全体が一つの組織の中に含まれ一定の日に講の集まりを催して念仏三昧にひたりました。念仏は各宗派いずれも行われていましたが、中でも浄土宗・真宗が最も盛んでした。そう言えば、私が小さかった頃、実家(舞田村六班)で当番制で行われていた事を思い出しました。
・法名に「阿」、その意は
 今は故人になられた寶月圭吾博士(東大名誉教授・歴史学者)から「
この時代の法名で“阿”のつく法名を持つ人は、北条時宗(8代執権、在位1268-1284歴代執権の中で特に政治手腕に長けていた)の信者であった可能性が高い」という講義を受けたことがあります」(上田市誌歴史編の本編筆者)。そこで、上田小県地方の人を挙げてみても、延慶2年(1309)臼田氏の田中経氏(道阿)、応長元年(1311)長門町大門の宝篋印塔(ほうきょういんとう)銘にみえる人肥前太守(ひぜんのたいしゅ、成阿)、建武3年(1336)の安保文書の安保(あぼ)光泰(光阿)、貞治(じょうじ)4年(1365)、青木村宝篋印塔銘の朝阿、国分寺の明阿、「塩田庄の像阿」、岩下氏の重阿、海野定阿等々があります。いずれも鎌倉末期から15世紀中頃までの人です。
 塩田福沢氏の出自 室町時代から戦国時代(八世代106年の一族)
 福沢氏の苗字の地は、小県郡に隣接する現埴科郡坂城町村上地区網掛の字福沢とみられている。また、福沢氏は村上とも称しており、村上氏の庶流として福沢の地に居住したことにより、福沢姓を名乗ったことに相違はないと考えられる。
 鎌倉時代の塩田庄の諏訪上社頭役(祭祀の責任者の役)は、塩田北条氏が勤めていた。室町時代の塩田庄も同社頭役を勤めており、「諏訪御苻礼之古書」により文安
5年(1448)以降は、福沢氏が塩田庄を支配していたことを確認出来る。塩田城跡について、かつては鎌倉時代の守護所または塩田北条氏の館跡とみられていた。しかし、昭和50年代に行われた発掘調査で大量に出土した土師質土器や陶磁器などの遺物は、室町期から戦国期のもので、鎌倉期までさかのぼるものは確認されなかった。また、発掘された礎石建物などの遺構も同時期のものとみられた。その後、塩田北条氏の居館は塩田城跡ではなく、その北にあたる東前山の字「竹之内」にあったのでは、と考えられるようになり現在に至っている。塩田城は、南側の弘法山から派生した東西の尾根に囲まれた中央の平坦地を屋敷地としている。この形態の城館は、国人領主の所領支配の中枢として南北朝期以降に出現していると言い、塩田城も南北朝時代(1337-1392)頃に築かれたかと説かれている。福沢氏が塩田へ入ったのは、文安5年以前に相違なかろうが、いつであるか不明である。これについて「上田小県史」では、福沢氏の塩田入りは、諸情勢からみて南北朝末期(村上信貞、塩田庄領有化/1335を指すのか?)のことであったろうとしている。(寺島隆史先生の“塩田福沢氏を見直すより”)
 
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 坂木福沢氏の出自推察;村上信貞が塩田庄地頭職になったのは建武2年(1335)、福澤家が代官(北条氏時代から継続)、福澤入道像阿の最初の記録「文安5年/1448」まで113年。この時点で「福澤家」から分家(坂木福澤家)し坂木村上の地に移り「村上福沢氏」を名乗ったと考える。村上氏同様、氏名から地名が付くケースもあり得る。その後、比企能員が塩田庄の地頭職(1203-1221)名目で現地赴任はなかったと考えられる。その後に北条重時が信濃守護を施行(1227)とある。福沢氏の名が「信濃史誌」に出てくるのは、文安5年(1448)から長享3年(1489)までの41年間で7名。その後39年間記録なく、享禄3年(1530)から塩田城自落の天文22年(1553)までの23年間で3名、通して(未記録を含め)105年間で10名の名が見られる。便宜的に、未記録期間を境に前を「福沢氏前期」と後を「福沢氏後期」とする。その記録は、前期は「諏訪社上社御射山祭」(神事)であり、後期は「蓮華定院宿坊契約・日牌月牌料」(仏事)である。
・塩田福氏(前半)・・・・4135名(父2子各孫)
 入道像阿(
1448、1454、1455没)・入道沙弥像阿1459)・・・・像阿と沙弥像阿は同一人物との説
 左
馬助信胤(1469)・左馬助信胤代理・四郎(1459、1474)五郎清胤(1479)・入道沙弥頭賢1484
 左館助政胤(
1489)・・・・沙耶頭賢は五郎の法名との説
・記録なく不詳41年の空白、2-3代)
 塩田福沢氏(後半)・・・・
33名(父子孫)
 五郎顕胤(
1530、1543没)
 顕昌(1544
 昌景(
1551、1554
 像阿の父像阿    -左馬助信胤
            ∟左馬助政胤-  空白(
392代) -五郎顕胤-顕昌-昌景・・・・・・塩田福沢氏
     ∟(沙弥像阿)四郎(左馬助信胤代理)
            ∟五郎清胤
(沙弥頭賢)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福澤家
 福澤家先祖一世 龍光院殿山洞源清大禅定門(卒
1493)         先祖四世 現院覺忠誓本居士禅(卒 1557
 「塩田福沢氏」(前半)において、「像阿」以降の「名」(胤の有無)から、「四郎」-「五郎清胤」(沙耶頭賢)」と「左馬助信胤」-「左馬助昌胤」の2系統に分けることが出来る。
 「福澤家」は、北条流福澤氏であるという根拠、
八世の墓石にある「平氏」の刻字
「時」という通字は北条重時(極楽寺流)である
初代先祖「龍光院殿山洞源清大禅定門」(明応2年卒)は塩田福沢氏(前半)と同世代に生きる
法名の意味するところ「龍光院(北条氏菩提寺)、山(弘法山、塩田城郭)、洞源、清(五郎清胤)」
福澤入道像阿・福澤入道沙弥像阿は北条仲時(法名時阿)の信者(平氏)/村上福沢(源氏)ではない
福澤家先祖四世「光現院覺忠誓本居士」(弘治3年卒)は塩田福沢氏(後半)と同世代に生きる
檀那寺(菩提寺)が生島足島神社の別当寺の一つ「新宮寺」であった謎
 以上を根拠に推察、少なくとも「福澤家」のルーツは「極楽寺流北条重時」に始まり、福澤家(本家)は塩田流北条氏(国時、俊時)の「代官」もしくは「荘官」であったと考えられます。
 補記 村上氏の簡略系譜 清和源氏 源頼信流(河内源氏)
 頼信-頼義-義家-義国
   ∟
頼清-仲宗-惟清
         ∟顕清-為国(盛清の養子になる)
              ↓
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         ∟盛清-為国-信国-安国-信村-胤信-信泰-義日(義光)
                                 ∟朝日
                                 ∟義隆
                              ∟国信-国清-頼清-国衛----政清
                              ∟義国-頼国-国衛-国清-満清-
政国-顕国-義清
                              ∟
信貞
         ∟
仲清-盛満-為国(信濃村上氏の祖)
                  ∟道清
                  ∟基国
                  ∟宗実
                  ∟経業
                  ∟信国
                  ∟惟国
                  ∟世延(安延)
                  ∟宗信
               ∟定国(伊予村上氏)
   ∟頼季
   ∟頼任
   ∟義政
 ※別説 源経基-源頼信-村上頼清-村上為国-村上安信
    村上安信-信村-胤信-信泰-
信貞-師国-満信-植清-持清-成清-信清-清政
                 ∟義国-頼国-国衡-国清-満清-
政国-顕国-義清
・坂木村上氏
 村上氏の出自には諸説あり、また系譜の継続性にも断続があるも次のように記されている。坂木村上氏は、平安時代に村上郷で発祥した清和源氏の一族。村上郷は千曲川左岸にあり、平安・鎌倉時代を通じて村上を本拠としていました。南北朝時代後期に坂木に拠点を移した。
 北条時政の先祖
  桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-
平直方
   家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある
  北条時政-政子
      
義時-泰時(得宗家)
         ∟朝時(名越流)
         ∟
重時(極楽寺流)-時継(苅田流)
                  ∟長時(赤橋流)
                  ∟時茂(常盤流)
                  ∟業時(普恩寺流)
                  ∟
義政(塩田流)--時治-重貞
                           ∟
国時俊時
                              ∟藤時
                           ∟胤時
                  ∟忠時(坂田流)
         ∟政村(政村流)
         ∟実泰(金沢流)
         ∟有時(伊具流)
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・「福澤家」の出自(ルーツ)
 
鎌倉幕府、初代執権北条時政の孫北条重時(極楽寺流)に関する記録。信濃史料に「嘉禄3年(1227)北条重時、信濃守護施行す」とあり、かつ北条国時・俊時の代で「代官職」の記録が伺える。「福澤家の歴史」分析・考察を以て「通説」は塗り替えられ、「福澤」の出自は「坂木」でなく「塩田」であると考えられる。
「塩田城代官後城主福沢氏」は、北条重時の家臣「福澤家」(本家)よりの分家、「福澤家庶流」であると考えるのが自然かと思われる。
 参考記載
 此れにて本論の「福澤家の歴史」(ルーツの探索)は終了するも、「上田市誌」に面白い記事があるので参考記載してみます。
  第二章 鎌倉時代の上田小県地
・鎌倉時代の交通(鎌倉時代の道)
 道は、目的地を目指して造られています。時代の変化によって廃道になったものもあれば、舗装されていても古代からの道を脈々と受け継ぎ今もりようされている道もあります。古代から中世にかけての東山道は、都と地方を結び荘園の管理や年貢の運搬、夫役(ぶやく)の負担などで人馬の往来が多かったことでしょう。鎌倉時代になると、幕府との結びつきが強くなり、武士の往来を中心にした鎌倉に向かう道も大きな役割を果たしました。また、この頃盛んになった善光寺道や中世豪族の館を結ぶ道も残されています。戦国時代になると、軍用的な目的で最短距離を通るための、直線的な道にかわってきます。これらの道は、ひとつの目的に利用されたものでなく、多目的に利用されていたでしょう。現在、はっきり鎌倉時代の道と分る道は、そう多くはありませんが、中世郷村、城跡、社寺、字名などから主な道を辿ってみましょう。
・千曲川沿いの道
 「源平盛衰記」の養和元年(
1181)横田川原合戦(治承・寿永の乱の一つ、平氏方木曽義仲と源氏方の越後城氏との戦い)の記述に「白鳥川原(海野宿)ヲ打出テ塩尻サマヘ歩セ行テ、見渡セハ、横田・篠野井・石川サマニ火ヲ縣テ焼払・・・・」と記されており、塩尻から横田(篠ノ井橋下流付近、千曲川右岸)・篠野井(篠ノ井)方面が見える所と言えば、下塩尻字岩鼻(通称の岩鼻は右岸でなく左岸)の崖上にある和合城(坂城町南条、千曲川右岸崖上)の位置(古道は千曲川右岸なので場所は正しい)だと考えられます。また、正安3年(1301)僧明空が書いた「宴曲抄」には、鎌倉から善光寺への道筋が地域の描写を交えて書かれています。この道は海野(前述の白鳥川原)・岩下・踏入とほぼ後の北国街道筋と考えられ、上田城下へ入ると天正年代(1573-1592、上田城完成直後)の城下町づくりで手が加えてあるのではっきりしません(東山道日理駅があったとされる上田市常盤城)が、秋和を経て上塩尻の東につながっていたのでしょう。「宴曲抄」に記述されている県内の道筋は、「臼井山(碓日坂とか碓日山、入山峠、軽井沢バイパスの県境駐車場の脇下)-離山(軽井沢西部)-浅間山(?)-桜井(滋野)-海野-白鳥-岩下-塩尻-赤池-坂木(坂城)-柏崎(戸倉)-筑摩(千曲川の渡し、雨宮の渡し)-篠ノ井(千曲川右岸、妻女山との間)-西河(犀川の渡し、千曲市雨宮、千曲川右岸)-善光寺」と記され、おぼろげながら(十分に)当時の道筋が分ります。これらから、平安時代末期から鎌倉時代末期にかけての岩鼻の下は通行出来たと考えられます。南北朝時代(1336-1392)から戦国時代(1467-1615)に此処を往来した記録は見当たりません。(本文説明とは異なり、村上義清の上田原の戦い(1548)で坂木から着た道はあります。)しかし、文政3年(1821)の下塩尻原与家の古図には、虚空藏山城から和合城の間にかけて坊主道(尾根道?)、そで道、切つや道、東山道(東山道は日理駅から千曲川を渡り浦野駅に向かうので有り得ない)の4本の山道の呼名が記され埴科方面へ通じています。南北朝時代から戦国時代には、この山道を行き来するか、室賀峠越えの善光寺への道を利用していたと考えられます。(これについては疑問を感じます。東山道日理駅から小泉より室賀峠と説明するなら理解出来ます。しかし、遠回りになるので本来の「岩鼻の下を通り、千曲川左岸の道で善光寺に向かう道があったと考えられます。)
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・上州への道と松代への道
 室町時代に房山で善光寺道筋から分岐し川原柳の東で矢出沢川(千曲川渡渉点の東山道日理駅辺りから金剛寺集落にさかのぼる千曲川支流)を渡り、矢出沢川沿いに河岸段丘上を北に向かい蛇沢・金井を過ぎ東金井と大日で二度矢出沢川を渡り東条の北で上州吾妻への道(伊勢山集落-鳥居峠-沼田へ向かう真田街道の前身古道)と地蔵峠越え松代への道(金剛寺集落を抜ける松代道)に分かれます。松代への道は少なくとも南北朝から室町期にかけて以後の道筋と考えられます。
・府中への道
 信濃国の国府が筑摩郡へ移転した後(府中への道)、上田小県地方と府中(松本)を結ぶ道も、保福寺峠を越えて東山道の道筋が使われていたでしょう。
 このことは、中世に入っても変わらぬことだったとみられます。(保福寺街道は律令東山道とほぼ同じ道筋で、戦国時代には軍事道として利用され、慶長
5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には上田城攻めをする徳川秀忠に援護する為、松本城主石川玄蕃頭は2,400の兵を東山道・保福寺街道を利用し上田に向かわせています。また江戸時代になると保福寺街道は松本藩主の参勤交代や松本畔の江戸城米搬出経路と整備され松本城城下町-岡田町は善光寺西街道と同じで、岡田宿北側で分岐して保福寺宿に入り保福寺峠-奈良本宿-上田城下に至ります。)
・鎌倉への道
 (別所から)塩田北条氏の館(前山竹之内)の北を通り砂原峠を越え木曽義仲挙兵の地に至る「鎌倉道」と呼ばれる道です。また、塩田平からの「海野道」は来光寺池の先で「鎌倉道」と分れ二ツ木峠へと向かいます。この分岐から下之郷の生島足島神社の脇を抜け上田原に至る古道(上田原の戦いで武田晴信(信玄)が軍事道として用いたので「しんげん道」とも呼ばれています)もありました。鎌倉への道は、平時は修行僧の通った学問の道や鎌倉幕府を警備する鎌倉番役などの夫役負担の旅路だったりしてでしょう。「いざ鎌倉」の非常時は馬で駆け付ける大事な軍用路にるなったと考えられます。
・善光寺への道
 先の「鎌倉道」「海野道」「しんげん道」の分岐点から、古安曾大六から本郷-保野-小泉-下室賀日影の油田(執権泰時が善光寺に寄進した地)-室賀峠越えで善光寺へ至る。
・塩田平における鎌倉への道
 改めて「鎌倉への道」・・・・
 木曽義仲が依田城に入る直前から、「塩田庄」は最勝光院領となり塩田平の文化には中禅寺の文化財に代表されるように京の都の香がみられます。木曽義仲が都に上がったことからも推察されるように、この頃塩田平における人々の関心は京都へ向いていました。一方、別所では
11世紀末頃には常楽寺が存在したものと推定され、古代末から鎌倉時代にかけて仏教文化が栄え、無関普門(鎌倉時代中期の臨済宗の僧、長野市保科の信濃源氏井上氏の一族)を初め大勢の坊さんや人々が集まって学び、人々の往来が激しくなり各地と行き来する道が開かれたものと考えられます。木曽義仲が依田城へ入るようになって、東北信濃に大きく勢力を伸ばしましたが京都へ上って滅亡したことにより、塩田は源頼朝の支配下に入りました。塩田庄と鎌倉幕府が深く結びつき人々の眼が鎌倉を向くようになったのは、島津忠久(惟宗忠久)が源頼朝によって塩田庄の地頭職を得てから以降のことです。北条義政は建治3年(1277)連署の職を辞し信濃善光寺へ参詣した帰り塩田庄に入って塩田の前山に館を構えました。義政から国時・俊時と3代に渡り鎌倉幕府滅亡までの間(1277-1333)、鎌倉大番役など出仕の道として、また物資の行き来する道、文化を伝える道として、人々に活用された道が「塩田平における鎌倉への道」です。現在、塩田平が「信州の鎌倉」と言われているのは、この鎌倉への道を利用して、鎌倉の文化が直接塩田平に伝わってきて、花開き多くの文化財と史跡が残っているからです。

 
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・塩田平の道筋
 別所温泉からほぼ東の方向へ一直線に丸子町との境界にある砂原峠に通じている道が塩田平における鎌倉への道と推定されています。その間約
9kmの道のりがあります。別所温泉から湯峠を越えて山田に出て、女神岳の尾根端を回り、現在の県道82号別所・丸子線に沿って手塚氏が開発した開発所領を横切り新町へ進みます。産川を渡り終えた所で藤ノ木と箱田の境界を独鈷山の方角へと南に進み藤ノ木と道場の境界を東へ戻すと北条義政が館を構えたと推定される東前山の竹之内・道場・下城戸・藤ノ木の中心部藤棚のある所にでます。手洗池から来光寺池の中央部を抜け鈴子公民館から奈良尾方面へ進み砂原池へと向かいます。
 諏訪の神と信濃武士のかかわり
 砂原峠を越え丸子町御岳堂に出ます。この直前には木曽義仲挙兵の地・木曽義仲館跡等があります。これから先、おそらく白井峠(入山峠)越えから関東に出て上野・武蔵と南下する多くの道が利用されたのでしょう。また、諏訪上下社との関係も色濃くありましたので、諏訪・甲斐経由で鎌倉に行く道も考慮に入れておく必要がありましょう。
・信濃の武士と諏訪社
 「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)に載る信濃の神は全部で
48座でしたが、内、名神大社が7座、同小社が41座です。10世紀初頭の頃、いずれの神社へも国司が幣帛(へいはく、神前に供える供物)を用意して供え社の造営や修理も国の税物(ぜいもつ)を割いてあててきました。その出どころは公領や荘園に課した税としての貢納物でした。しかし、このような神社の造営や維持の仕方が何百年も同じであるはずはありません。武士が地頭になり、荘園や公領の年貢収権を持つようになった鎌倉時代に入ると神社の維持も造営も自ずと地頭の手が必要になってきます。
 治承
4年(1180)に、源頼朝の旗揚げを支持した甲斐源氏の一条忠頼が信濃に出陣(信濃史誌;甲斐の人武田信義・一条忠頼等、諏訪大明神の神託に力を得て伊那郡大田切郷に菅冠者を滅ぼす)し諏訪の地で仮寝したとき、夢想の中で諏訪明神の託宣(たくせん、お告げ)を受け、勝つことができました。諏訪の上下社が武士の信仰を集めるようになり、以後、源頼朝や執権北条氏も厚い信仰を寄せました。また、諏訪社上社御射山祭の起源になりました。
・塩田北条氏の滅亡
 鎌倉時代末期(
1333)、上田小県地方で北条仲時が地頭職を持っていた荘園は、塩田庄・小泉庄・上田庄と3ヶ庄もあるのですから、もっと北条与党の勢力が強くて当然の地域でしょうが、なぜか塩田北条氏のほかには、この地方の武士の名を記した史料は見当たりません。信濃守護であった「北条仲時」は、六波羅探題の職にもあり、近江の番場峠で潰滅したとき仲時も自害しました。この時の戦いで討死・自害した探題方軍勢430余人のうち、名前が判明する者を記録した近江番場宿の「蓮華寺過去帳」の第一番に「越後守仲時28歳」とあります。仲時の父であり仲時の前に信濃守護だった「北条基時」は鎌倉にあって討幕軍の猛攻を受け鎌倉北西口の化粧坂を守っていたのですが、我が子仲時の番場峠の自害を知り夜昼5日間の合戦に疲れ果て残る郎従20騎ばかりになり元弘3522日(1333)自害して果てました。北条高時ほか北条氏一族や郎等ことごとくが東勝寺とその周辺で自害むして果て、きことに凄惨な鎌倉幕府の幕引きでした。この大混乱の中で、ひとり「北条泰家」は自害を装い密かに奥州へ逃れました。またこの泰家に仕えていた諏訪三郎盛高は幼い「北条高時」の子「亀寿」(かめじゅ)を抱いて何処ともなく立去りました。
 北条仲時;六波羅探題北方、攝津守護も兼務、基時の子、
法名「時阿」
 北条基時;第
13代執権(在位1315-13161年)、第二次中継執権(代10-13
 北条泰時;第
2代執権義時の長男、第3代執権(在位1224-124218年)、御成式目を制定
 北条高時;第
9代執権貞時の三男、第14代執権(在位1316-132610年)
 北条亀寿;第
14代執権高時の遺児、時行、諏訪頼重らに擁立され中先代の乱、廿日仙台(北条氏復興)
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