福澤家の歴史
- 繰出位牌と墓石で紐解く福澤家の家系図 -
 福澤家の墓
第八、第十、第十一世の墓 第八世の墓 龍光院殿山洞清大禅定門の墓
 父の話しに基づき従弟が作成した家系図(直系先祖代々)、その「第一、第三、第四世代」の墓です。今回の「福澤家の歴史」調査で当ご先祖様は「八、十、十一世」になりました。一段高い杉の木の先に見えるのが、今回の調査で新たな第一世代先祖になった「龍光院殿山洞清大禅定門」の追贈供養五輪塔です。繰出位牌は「源」、供養塔は「玄」、この度、作った位牌は「源」、これも歴史として残そう。
 兄が「福澤家の墓」として、墓地全体を整頓し祖父母の代から墓誌に刻んであります。次男の兄と私の墓誌も建ててくれてあります。今回の「福澤家の歴史」調査で、『貴家のご先祖様は塩田福沢氏一族で間違いないでしょう』との認定を「塩田福沢氏を見直す」論者の寺島隆史先生から頂いたので、私の墓誌碑の目的変更をして私達夫婦の預修と明応人なる龍光院殿山洞源清大禅定門なる新初代ご先祖名を彫らせて頂くことにした。
 私達の預修 三雄 福知牧翅禅定門  美江子 西福玅雲禅定尼
 新ご先祖様 塩田福沢氏一族 龍光院殿山洞源清大禅定門 
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福澤家の墓から眺める塩田城跡付近 塩田城跡から眺める福澤家の墓付近
塩田城跡入口 福澤家の墓 墓地の東側にある菩提寺
 室町時代後期、「塩田流北条氏」滅亡後から福澤家は、庭先からも同じ景色が眺められます。「明應の人」から先祖代々、子孫永久に一日足りとも忘れることなく塩田城を眺め見守っています。
 菩提寺「飯綱山法樹院」の創建は、文治元年(1185)。渋谷土佐入道昌順(鎌倉時代の武将)と縁のある人が菩提のために一寺を建立し、幼名をとって金王寺と称した。また、永禄三年(1560)に寺は大破し、当時の領主・室賀入道信俊は寺の由緒を訊いて室賀甚七に奉行を命じ、再興させたと伝えられる。その折に「飯綱山法樹院報応寺」と改め、応誉廓然和尚を住職にした。生島足島神社、別当寺2寺の一つが明治の廃仏毀釈で廃寺となった。これに伴い福澤家の菩提寺は当寺に移った。
 塩田福沢氏の系譜
福沢氏系譜(推察) 室町時代から戦国時代(六世代120年強の一族)

入道像阿

入道沙弥像阿・左馬助信胤

五郎清胤・入道沙弥頭賢・左館助政胤・四郎

不詳

五郎顕胤・顕昌

昌景
 
入道像阿(1448、1454、1455没)

入道沙弥像阿(
1459)・左馬助信胤(1469
           左馬助信胤代理・四郎(1459、1474
五郎清胤(
1479)・入道沙弥頭賢(1484)・左館助政胤(1489

不詳
41年の空白)

五郎顕胤(
1530、1543没)-顕昌(1544

昌景(
1551、1554
 塩田福沢氏の名が歴史に刻まれたのは、文安5年(1448)-長享3年(1489)の41年間(7名の続柄不詳)、41年間の空白を経て享禄3年(1530)-天文23年(1554)の24年間である。福澤家の先祖は「福沢氏前半」と重なる。なお、塩田福沢氏の最盛期は後半である。
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 福澤家伝承の初代先祖(一世)
 不詳
 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應
2 (1493)
 
 福澤家伝承の先祖、江戸時代に追贈供養を行い「戒名」が付けられた。それなのに墓石が無いのは何故なのだろう。きっと経年崩壊してしまったのだろうと決めつけ探そうともしなかった。23.9.11私の墓誌柱を取り外し刻字作業に取り掛かる時に立ち会った、その間に墓地の墓石を改めて見回ったところ、家系図先祖墓の後方に1基ある事は知っていたが改めて見ると「何と」であった。また「源」でなく「玄」となっている。
 福澤家の先祖(四世)ご夫婦で残る最古のご位牌である
不詳
光現院覺忠誓本居士 弘治
3年(1557
不詳(覺忠誓本の妻)
清光院壽覺妙相大姉 天文
20 (1551)
 福澤家の先祖(七世)
不詳
成圓院願誉宗本居士 寛永
4 (1627)
※重要事項ゆえ、ここで記載させて頂きます。
 後の歴史調査に於いて「舞田村」は、「
天正6年(1578)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)の塩田12郷にはみえないが、慶長9年(1604)真田氏の「大鋒院殿御事蹟稿」には塩田18ヶ村の末尾に舞田があり、また同13年(1608)の上田領最初の貫高帳に「七〇貫文、舞田」とある。」との歴史的事実を知ることになりました。
 従来の系譜の先祖初代「福澤市兵衛廣時」と没年で27年の差より「父」と推定。舞田村は塩田庄に編入。
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 福澤家の先祖(八世) 従来の家系図の初代先祖
福澤市兵衛廣時
福澤院月居宗泉居士 承応
3 (1654)
市兵衛廣時妻 福松
自性院空誉理貞大姉 貞享
3 (1686)
 「先祖枠」右から2番目、妻(下之郷、横関佐衛門/横関院理覚源智居士1674.10、二女)は右端に並ぶ。
 福澤家の先祖(九世)
不詳
月西宗入禅定門 延寶元年
 (1673)
月西宗入妻
源誉□□禅定尼 寛文
2 (1662)
 従来の家系図では、福澤市兵衛廣時→福澤勘兵衛好時で、没年差43年と長く、没年がほぼ中間で判読できた繰出位牌があり、福澤何某として九世代に引き当てた。
 福澤家の先祖(十世)
福澤勘兵衛好時 元禄10 (1697)
不詳
勘兵衛好時妻 不詳 元禄14年(1701
受徳院貫應玅正大姉 元禄
11 (1698)
 従来の家系図には福澤勘兵衛好時、元禄1010月没、妻不明、元禄141月と記載あり。繰出位牌で判読できるもので受徳院貫應玅正大姉、元禄11年が有り引き当てる。妻は「先祖枠」右から2番目。
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 福澤家の先祖(十世並び)
福澤平治右衛秀時
冬雲□岩禅定門 宝永
3 (1706)
平治右衛秀時妻 不詳
着相妙更禅定尼 宝永
5 (1708)
 勘兵衛好時と没年の差は9年、妻同士の没年差は7年(もしくは10年)と、没年差が少なく親子ではなく兄弟と推察し同世代と扱う。妻は松代藩、佐久門小太夫 娘。
 福澤家の先祖(十一世)
福澤何某
福受院□傳源□居士 享保
3 (1718)
何某妻 不詳
桂香院松誉芳室大姉 正徳
2 (1712)
 夫婦揃って俗名不詳で繰出位牌と墓石がある。「先祖枠」左端と「先祖枠」右外と並びに疑問を感じる。
 福澤家の先祖(十二世)
福澤何某
無翁宗智居士 延享
3 (1746)
 十一世代の次ぎは源左衛門頼時と没年で50年の差があり、一世代あるのではと繰出位牌を探る「無翁宗智居士」なるご位牌が目に留まり十二世代として引き当てた。
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 福澤家の先祖(十三世)
福澤源左衛門頼時
福受院澤道良山居士 明和
5 (1768)
左衛門頼時妻 不詳
受法院智光讃大姉 明和
399 (1766)
 従来の家系図では、「廣時-頼時-」と初代に続くも、この間没年差114年あり、繰出位牌より可能性の高い「五世代分」(単純平均22.8年/世代年齢)を「明応の先祖」以降で追加させて頂いた。
 福澤家の先祖(十四世)
福澤勇藏時澄 享年51
眞如自觀居士 安永
8 (1779)
勇藏時澄妻 のぶ
照誉壽榮大姉 享和
4 (1804)
 時澄妻のぶ様は当村高橋栄藏娘と記されている。
 福澤家の先祖(十五世)
福澤時慎
龍便淵山居士 天保
8 (1837)
時慎妻 不詳
虎月
嘯山大姉 弘化4 (1847)
 従来の家系図で「廣時-頼時-秀時-好時-時澄-時慎-」と続く、今回の調査で「廣時-追加-好時-秀時-追加-追加-頼時-時澄-時慎-」と改めさせて頂いた。妻不詳なるも家系図に十二人村武田吉左エ門娘と記されている。
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 福澤家の先祖(十六世)
福澤勇治宥時 享年74
賢林院秀福澤道居士 慶応
4 (1868)
勇治宥時妻 志げ子 享年68
徳壽院諦山喜淳大姉 明治
4年(1871
 家系図に、宥時様には號若水と記され、志げ子様は常田村小島久兵衛・玉馬娘と記されている。
 福澤家の先祖(十七世)
福澤源左エ門時粛 享年42
福植院田譽澤聖賢薫居士 慶応
2 (1866)
源左エ門時粛妻 だゑ 享年80
福壽院澤譽潤室智薫大姉 明治
40 (1907)
 家系図に、妻だゑ様は麻績駅林仁左ヱ門長女と記されている。
 福澤家の先祖(十八世)
福澤甚左エ門
常徳院轉誉法□覺道居士 明治26年(1893
甚左エ門妻 不詳
願徳院相誉智□□操大姉 不詳
 従来の家系図は、「時粛-知義-」と続くが没年差44年あり、その間に一世代考えられるが家系図にも繰出位牌位牌にも該当なし。墓石調査の過程で本墓石に眼が止まり十七代として引き当てた。享年は側面に甚左エ門、明治二十六年七月廿四日卒とあり、妻の法名が先に刻んである。
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 福澤家の先祖(十九世)
福澤謙左衛門知義 享年65
福田院生誉澤善潤戒居士 明治
43 (1910)
謙左衛門知義妻 政子 享年42
温譲院恭誉柔順智貞大姉 明治
15 (1882)
謙左衛門知義後妻 てる 享年68
智福院徳譽惠淳貞瑞大姉 大正
5 (1916)
 政子様、村上村網掛、塩野入黒兵衛娘。てる様、室賀村清水伍作妹と記されている。
ここからは廿世以降になります
 福澤家の墓
この墓は廿世(祖父母)から埋葬されています。
 廿世(祖父母)、廿一世(父母)、廿二世(兄)、私たちも「その時」がきたら福澤家の墓に埋葬されます。二男の兄は東京に墓があります。
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福澤家の先祖(廿世) 祖父母 福澤家の先祖(廿一世) 父母
福澤 司 享年61
福徳院還誉浄國直道居士 昭和
12 (1937)
福澤深見 享年91
徳厚院深誉福翁寿仙居士 平成
3 (1991)
福澤たけじ 享年87
澤祥院順譽浄刹寿香大姉 昭和
38 (1963)
坂城町網掛 小宮山昌人 妹
福澤多美 享年84
智照院薫誉徳香栄鏡大姉 昭和
59 (1984)
東部町栗林 竹内茂市 三女
福澤家の先祖(廿二世) 兄 調査・編集者 深見・多美 三男
 
福澤謙時 享年80
福徳院還誉浄國直道居士 平成
22 (2010)
福澤三雄 昭和22611日生
預修 福知牧翅禅定門
※兄の代で、福澤より福澤の字になったという。 福澤美江子 昭和221020日生
預修 西福玅雲禅定尼
北御牧村羽毛山 西野入憲重・栄子 二女
位牌を作る予定はありません
福澤家の祖父母からの系譜 父方・母方の叔父・叔母
福澤 司・たけじ-福澤深見 - 福澤謙時・和子
  たけじ     多美 ∟福澤譲時・ミチ子
             ∟福澤三雄・美江子

             ∟淳子・五十嵐敏秀
             ∟潔子・小山 治
福澤 司  -福澤深見・多美
  たけじ ∟清水廣見

      ∟ひろ・滝澤親雄
      ∟波子・西野入博巳
      ∟はる子・岡田芳太
      ∟谷子・柳澤好春
      ∟政子・田中欽弥
竹内茂市 -竹内金一郎
  とり ∟竹内 郎・みどり
     ∟竹内 保・さかえ
     ∟竹内土夫・初江

     ∟求馬・澤山弥門
     ∟森・ 田中伊三郎
     ∟多美・福澤深見
     ∟八重・竹内貞良
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 追贈法要
 令和5816日(お盆)に兄の十三回忌と福澤家の歴史調査で確証が得られた塩田福沢氏としての先祖の追贈法要を行った。そして、私の記録「蝶棲庵の記」(墓誌に代るもの)の工事を同年911日に行った。その際の立会で探していた「新先祖」の墓石だと初めて気付いた。そして、戒名の文字違いにも・・・・
 どこで過ちがあったか問いただすことも出来ない。これも歴史のひとつであろう。「源」「玄」の意味は大きく異なる。双方の解釈を記すに留め修正変更はしないことにする。
 ①「源」・・繰出位牌、新たに作った先祖位牌、塩田福沢氏に関する文章も変更しない
 ②「玄」・・先祖の墓石、家系図の墓石
 ③家系図では「源」「玄」の併記
 ①「源」・・音読み「ゲン」、訓読み「みなもと」、意味「みなもと」「水の流れるもと」「物事のおおもと、はじまり」。面白いことに「源氏」の姓との記述あり。
 ②「玄」・・音読み「ゲン」、訓読み「くろ」、意味「赤または黄を帯びた黒色」「奥深くて暗い」「奥深い道理」。面白いことに「はるかに遠い」として「玄孫」の記述あり。
改めて比較掲載し眺めてみましょう   龍光院殿山洞清大禅定門  龍光院殿山洞清大禅定門
 改めての考察
 「福澤家」の先祖は、「塩田福沢氏」(塩田城城代)の一族に相違ないであろう。また、八世廣時の墓石に「平氏」との刻字は「福澤家の源は建長年間(1249-1256)である」と後世に伝えたいのであろうか・・・・。
 北条義政-治・国-俊・藤と塩田北条氏3代系譜を眺めてみると、通字に「時」と「胤」、前者の「時」は福澤家、後者の「胤」は塩田福沢氏で塩田北条氏より引き継いだとしよう。どう見ても、「村上福沢」は当時の就職先であり系譜とは異なるものである。歴史上「村上福沢」は「家臣」であり、家柄は「北条福沢」ではなかろうか?
 北条義政の子・孫世代5名の名で、「時」は5名全員、「胤」は1名となっている。多数決で決めてはいけないが、「時」は満票、「胤」は胤時のみである。「北条胤時」-「塩田福沢氏」、義政の子「三男」の流れと推察できよう。塩田流北条氏は鎌倉で全員戦死とされている。
 私が考えるに、「塩田流北条氏」との関係者(血縁不詳)が「北条残党狩り」から身を隠すため「福澤」を名乗ったのではなかろうか・・・・。「塩田北条流福沢氏」の本家筋が福澤家、分家筋が塩田福沢氏と考えたらどうだろう。本家福澤家は塩田庄に留まり、分家塩田福沢氏は坂木郷に移り村上氏家臣として名を残した。もうひとつの考え方として、本家福澤家は「塩田福沢氏」の前期(清胤もいるが)を務め、分家坂木福沢氏は「塩田福沢氏」の後期・最盛期を務めたのではなかろうか。福沢氏の前期・後期の史料から性格・力量に違いがありそうに思えてならない。
 福澤家で行われた「江戸期での追贈法要」、長くに渡って隠遁生活を送ってきたが、戦国時代も過ぎ世の中も穏やかになり「隠遁明け」に問題がなくなったとして行われたのであろう。福澤家は上田城の奥方・お姫様方の別所温泉湯治行のご休憩処でもあったので、「八世代~十一世代先祖」の頃は庄屋でもあり羽振りもよく墓石も立派である。ただ、隠遁者(龍光院殿山洞源清大禅定門)ゆえ、追贈法要とはいえ派手さを抑える必要もあったのであろうことが墓石より感じられる。
 追記)昭和23年の民法改正、ひとつの戸籍に記載できるのは「夫婦とその子」になった。それまでは、「兄弟姉妹・叔父叔母・兄弟の配偶者・孫等」と非常に広いものであった。(諸問題はあるもののルーツ探索」に限定すれば、それなりに価値あるものであった)
 その後、戸籍法の部分改製が数回行われている。その際に、「福澤→福澤」に改字されたようだ。八世廣時以来の墓石で用いられているのは、「福」であり「福」はいずれにも使われていない。
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