塩田流北条氏の履歴書 |
- 福澤家のルーツを探る - |
Ⅰ、北条義政の家系図 |
北条時政の先祖 桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-平直方 家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある |
北条時政-政子 ∟義時-泰時(得宗家) ∟朝時(名越流) ∟重時(極楽寺流)-時継(苅田流) ∟長時(赤橋流) ∟時茂(常盤流) ∟業時(普恩寺流) ∟義政(塩田流)--時治-重貞 ∟国時-俊時 ∟藤時 ∟胤時 ∟忠時(坂田流) ∟政村(政村流) ∟実泰(金沢流) ∟有時(伊具流) |
承安04 | 1174 | 国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され最勝光院領塩田荘が成立 |
文治01 | 1185 | 平家が滅亡 |
文治01 | 1186 | 源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す |
建久03 | 1192 | 源頼朝が征夷大将軍となる 比企能因の変 |
正治01 | 1199 | 頼朝死去 |
文治05 | 1202 | 源頼家が征夷大将軍となる |
建仁03 | 1203 | 頼家追放され源実朝が征夷大将軍となる 北条時政が初代執権となる 比企能員の変 |
元久01 | 1204 | 頼家暗殺される |
元久02 | 1205 | 北条義時が2代執権となる |
建保05 | 1217 | 泉親衛の乱 |
元仁01 | 1224 | 北条泰時が3代執権となる |
嘉禄03 | 1227 | 北条重時(2代執権義時の子)信濃守護を施行す 福澤家ルーツの源流と考えられる |
文永10 | 1273 | 北条義政、叔父政村の死去を受け連署に就任する |
建治03 | 1277 | 北条義政、連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代) |
弘安04 | 1281 | 北条義政、塩田荘にて死去 |
元弘03 | 1333 | 国時・俊時、鎌倉に救援し新田義貞軍に敗れ(東勝寺合戦)鎌倉東勝寺で自害する |
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Ⅱ、執権北条氏 17代130年(1203-1333)の歴史 |
源頼朝は平家(平清盛;1167-1185、山城国平安京、京都六波羅、六波羅政権)を一掃すると天皇陛下に圧力をかけて自分を征夷大将軍(1192-1199)に任命させ、鎌倉幕府を開きます。それが1192年のことで、本格的な武家社会の始まりです。このときから政治の実権は朝廷(摂政や関白)から鎌倉幕府へ移ります。頼朝の存命中は頼朝による鎌倉幕府将軍の独裁政治が行われていたのですが、開幕からわずか7年で頼朝は死去します。頼朝の後継ぎとして2代将軍には頼朝の正妻である北条政子が生んだ長男頼家が就任しました。しかし、このとき頼家はまだ18歳です。そのため、将軍を補佐するという名目で母親の北条政子とその父北条時政(初代執権)を中心とする政治が始まります。これが北条氏による執権政治の始まりです。 |
北条政子は猛女、北条時政(政子の父)は平氏と源氏の両家で猛将と謳われた人物です。この北条父子を中心とする政治をよく思わなかった頼家は自分のお気に入りの部下ばかりを重用して自分の好き勝手に政治を行おうとします。北条父子はこれではダメだと判断し、頼家を幽閉してその弟実朝を3代将軍に擁立します。すると、頼家が可愛がっていた部下たちが北条氏に反発しました。そうなると北条氏は2代将軍である頼家を亡き者にしようと計略を用いて頼家が懇意にしていた梶原景時や比企能員などの有力な御家人を殺害(比企能員の変;1203)し、頼家を入浴中に暗殺します。この頃になると、北条氏の身勝手な立ち振る舞いに反感を抱く御家人が増えてきました。源義経のもとで激戦を潜りぬけてきた畠山重忠や和田義盛たちは北条氏を滅亡させようと計画を練り、乱を起こすのですが、北条氏によって返り討ちにあってしまいます。そうなると、北条氏に盾つこうとする御家人はいなくなり、北条氏による執権政治の基盤ができあがりました。 |
初代執権;北条時政(1203-1205、1年11ヶ月) 享年78 北条氏(得宗家初代) |
北条時政は源頼朝亡き後、娘の北条政子とともに2代将軍頼家を補佐します。頼家の自由気ままな独裁を止め、宿老(家老と同義)拾三人の合議制を提案しました。この合議制の内容は政務の議会において13人の宿老が同意しないと法案や政策を可決しないというものでした。これは、2代将軍頼家が自分のお気に入りである5名を指名し、その5人に逆らうことを禁じ、自分はその5人にしか会わないという突拍子もない制度を作ったことに対抗する手段でした。その後、北条時政は梶原景時や比企能員をはじめとする有力な御家人を滅ぼして政所別当に就任します。鎌倉幕府ではこの政所別当が執権と呼ばれるようになります。3代将軍実朝の治世では補佐役として幕政を左右しました。 |
2代執権;北条義時(1205-1224、18年11ヶ月) 享年62 得宗家 |
北条義時は畠山重忠が北条氏を滅ぼさんと乱を起こしたのを機に父である時政を出家させて鎌倉幕府から追放し、自らは政所別当に就任します。侍所別当(武士が常駐する機関の長官)である和田義盛が乱を起こしたときにこれを鎮圧し、侍所別当も兼任します。以来政所別当と侍所別当を兼任する者が執権となり、両機関は北条氏が代々世襲するようになりました。2代執権北条義時のころは鎌倉幕府3代将軍実朝(甥っ子)の暗殺(実朝の実母北条政子との兄妹による共謀と言われている)と後鳥羽上皇による承久の乱が起きます。実朝が死去したことによって源氏の嫡流は絶滅します。それでも鎌倉幕府将軍はいなければならないので、この頃から公家より7-10歳くらいの少年を選抜して将軍に就け、政治の実権は北条氏が握る。将軍が成人すると廃位してまた公家から少年を選抜して将軍につけるという流れが慣例化します。承久の乱(1221、後鳥羽上皇が義時に討伐の兵を挙げるも敗れた)鎮圧後には朝廷を監視する機関である六波羅探題が設置されます。 |
3代執権 北条泰時(1224-1242、18年) 享年60 得宗家 執権政治の最盛期 |
北条泰時は伯母の北条政子が死去(1225)すると鎌倉幕府を宇津都辻子(1225-1236)に移し、政務(源氏政権から合議制を旨とする執権政治への移行を目指し)を執ります。3代執権北条泰時のころは、裁判をスムーズに進行できるよう連署や評定衆の設置と武家の法律である御成敗式目を制定します。和賀江嶋という貿易港を築き、巨福呂坂や朝夷奈切通などの流通ルートを開通させ、本格的な北条執権体制を確立しました。 |
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幻の4代執権 北条時(㤗時の長男)1230年卒 享年28 得宗家 |
建仁3年(1203)、北条泰時(第3代執権)の長男として生まれた。承久3年(1221)の承久の乱では父の泰時とともに東海道を攻め上り、5月21日に18騎で従軍した。この乱の最中の大きな戦いであった6月14日の宇治川合戦において、朝廷方の激しい抵抗と宇治川の急流に阻まれた幕府軍が苦戦している中で、時氏自らが宇治川を敵前渡河する功績を立てた。貞応3年6月(1224)、父が第3代執権として鎌倉に戻ったため、入れ替わりで六波羅探題北方に任じられ、京都に赴任した。嘉禄3年4月20日(1227)に修理亮に任官し、安貞元年(1228)には若狭国の守護となった。若き時氏は将来、第4代執権となることを期待されていた。時氏の六波羅探題在任中の京洛周辺は、先の承久の乱の余波で治安が乱れており、京都の警備担当者として治安の取り締まりに当たる一方、得宗家の嫡子である事から南北両探題の主導的立場にある執権探題として在職した。翌寛喜2年3月28日(1230)、六波羅探題在職中に病に倒れて鎌倉へ戻った。4月11日に鎌倉入りした時氏は病の床に着いた。泰時らは様々な治療や祈祷を行わせたが時氏の体調は回復せず、6月18日に父泰時に先立って死去した。享年28。北条氏の後継者として期待していた愛息に先立たれ、泰時は悲しんだと伝わる。また関東では、時氏の死を悼んで出家する者が数十人にのぼったという。時氏の死から12年後に泰時が没し、第4代執権には時氏の長男の経時が就任した。 |
4代執権 北条経時(北条時の長男)(1242-1246、3年9 ヶ月) 享年23 得宗家 |
北条経時の時には将軍が実権を握ろうとするなど、反執権勢力が盛り上がりを見せました。経時はそんな実権を握ろうとした将軍を下ろして、別の将軍を擁立することに成功します。 |
鎌倉幕府第4代征夷大将軍の藤原頼経は寛元2年(1244)の時点で27歳に成長していた。そのため、将軍の側近には北条光時、三浦泰村など反執権勢力による集団が形成されつつあり、得宗家(初代時政の嫡流/本家)と対抗するようになっていた。 |
5代執権 北条時頼(北条時の次男)(1246-1256、10年8ヶ月) 享年37 得宗家 |
北条時頼は反執権勢力を一掃することに成功。さらに、執権に次ぐ有力な御家人を排除し、当時の将軍を追放。後嵯峨天皇の皇子を次期将軍に擁立しました。また、時頼の治世以来北条嫡流による専制的な執権政治が始まります。さらに、裁判沙汰を効率よく処理するために領地問題に特化した引付という裁判機関を設けます。 |
寛元4年(1246)、第4代執権北条経時が早世すると、北条光時が前将軍藤原頼経と共謀して新執権北条時頼を廃しようとした謀反が発覚する。『保暦間記』によれば、光時は時頼の執権就任に対抗し、「我は義時(2代執権北条義時)の孫なり。時頼は曾孫なり」と述べたという。結局頼経派は敗北し、将軍御所にいた光時は陰謀の発覚を悟り、御所を出たものの自邸には戻らず出家して弟らと共に時頼に髻を送って降伏し、所領を没収されて伊豆国江間郷へ配流となった。 |
第一次中継ぎ執権(眼代または目代) |
5代執権北条時頼は、6代執権(1256-1264、7年7ヶ月、享年35、赤橋流)北条長時に執権を譲位します。それは嫡男北条時宗が幼少だったためにとられた措置(幼稚の程の眼代なり)でした。しかし、譲位された長時も間もなく病のため執権を辞任すると、7代執権(1264-1268、3年7ヶ月、享年69、政村流)に北条政村が就任しました。そしてこの頃、元の第5代皇帝フビライ・ハンが日本を元に従わせようとして侵攻してきます。これが第一次元寇(蒙古襲来)です。 |
初代塩田流北条氏 北条義政(1277-1281) 父は極楽寺流 重時;2代執権 兄の長時は6代執権 |
鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王(11歳で皇族将軍、1252-1266北条氏の専制体制にあり何ら権限は無く和歌の創作に打ち込んでいた)に仕え、7代執権(1264-1268)北条政村において、文永2年(1265)に引付衆、文永4年(1267)に評定衆、文永6年(1269)に二番引付頭に昇進し、幕府要職を歴任した。文永10年(1273)に叔父北条政村が死去し、政村に代わって連署に任じられ、8代執権北条時宗を補佐する。 |
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8代執権 北条時宗(1268-1284、16年1ヶ月) 享年34 得宗家 |
北条時宗の就任時は2度に渡って元寇(蒙古襲来)という日本の危機に直面しました。元寇は神風によって撃退されたとされていますが、2度目の元寇では鎌倉幕府の御家人が7日間粘って上陸を許しませんでした。その間に暴風雨が降って元は撤退していきました。また、当時福岡では2度目の元寇に備えて200kmにおよぶ石垣を海岸線に沿わせたと言われています。 |
9代執権 北条貞時(1284-1301、17年4ヶ月) ここまで得宗家(時政の嫡流/本家) 享年40 得宗家 |
平氏のご落胤(父親に認知されない庶子、私生児)、管領の平頼綱が勢力を伸ばして、恐怖政治を強行します。貞時はこれを誅殺して執権政治体制をより強固なものへと整えました。 |
第二次中継ぎ執権 |
北条貞時は執権の座を10代執権(1301-1311、10年1ヶ月、享年37、宗政流)北条師時に譲ります。その後は執権を第11代執権(1311-1312、8ヶ月、享年54、大仏流)北条宗宣、第12代執権(1312-1315、3年1ヶ月、享年37、政村流)北条煕時、第13代執権(1315-1316、1年、享年48、善恩寺流)北条基時を経て、第14代執権に北条高時が就任します。 |
2代塩田流北条氏 北条国時(塩田陸奥入道) |
10代執権(1301-1311)北条師時の徳治2年1月28日(1307)、二番引付頭人に就任、応長元年10月25日(1311)、一番引付頭人に就任。正和2年(1313)一番引付頭人を辞任。 |
14代執権 北条高時(1316-1326、9年7ヶ月) 享年31 得宗家 |
北条高時の辞任により北条貞顕が15代執権(11日)に就任しますが、反発勢力によって高時の弟泰家を就任前に推挙されていました。泰家は兄に失望し、意固地になって出家します。やがて泰家によって貞顕が謀られているとの噂があり、貞顕就任後わずか10日で執権を辞任しました。 |
15代執権 北条貞顕(1326、11日) 享年56 金沢流 |
14代執権北条高時の辞任により北条貞顕が15代執権に就任しますが、反発勢力によって高時の弟泰家を就任前に推挙されていました。泰家は兄に失望し、意固地になって出家します。やがて泰家によって貞顕が謀られているとの噂があり、貞顕就任後わずか10日で執権を辞任しました。 |
16代執権 北条守時(1326-1333、7年1ヶ月) 享年39 赤橋流 |
北条守時が最後の執権です。守時の代で鎌倉幕府は新田義貞や足利尊氏によって倒幕されます。一般的な知名度は低いのですが、守時は足利尊氏の正妻の兄。つまり足利尊氏にとって義理の兄にあたります。北条守時は最後まで北条氏の威厳を保ちながら自刃し、事実上の倒幕がなされました。 |
3代塩田流北条氏 北条俊時 |
16代執権北条守時(1326-1333)元徳元年11月11日(1329)、評定衆に任じられ、同3年1月23日(1331)、四番引付頭人に就任した。 |
17代執権 北条貞将(1333、1日) 享年32 金沢流 |
貞将は「冥土への思い出になるでしょう」と御教書を受け取って戦場に戻り、新田軍に対して突撃を敢行し、嫡男の忠時ら多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は『太平記』に壮烈な描写で記されており、高時から与えられた御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を棄てて公が一日の恩に報ず)と大文字で書き、それを鎧に引き合わせ(胴の合わせ目)に入れたのち、敵の大軍に突撃して討死にしたという。天皇に任命された鎌倉幕府将軍、それより下位の御家人が日本の頂点となる執権政治は前代未聞の政治です。この執権政治は鎌倉幕府を開いた源頼朝の没後から鎌倉幕府が倒幕されるまで、約100年以上も続きました。 |
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Ⅲ、北条重時(極楽寺流の祖、塩田流北条氏・義政の父) |
北条重時は、鎌倉時代前期の武士。北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘姫の前。極楽寺流の祖。第8代執権北条時宗の母方の外祖父。六波羅探題北方鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄北条泰時から娘婿の第5代執権北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。極楽寺流北条氏は、鎌倉時代の北条氏の分流。「極楽寺殿」と称された北条重時の子孫を極楽寺流と称する。北条氏内部で家格は高く、得宗家に次いでおり、その子孫は執権・連署・六波羅探題をはじめとする幕府重職に就き、また得宗家正室にも入っている。重時から伝わる「六波羅殿御家訓」と「極楽寺殿御消息」の2つの家訓があった。 |
少年期 |
建久9年6月6日(1198)、源頼朝死去の前年に北条義時の三男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった「姫の前」で、父義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄泰時は16歳の時である。建仁3年(1203)、6歳の時に「比企能員の変」が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、源具親と再婚した3年後、重時が10歳の時に京都で死去している。『吾妻鏡』には、兄泰時・朝時、異母弟政村・実泰の元服記事があるが、重時の元服の記録はなく、元服した頃と思われる時期には母が京で亡くなっており、あまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。建暦2年(1212)、15歳の時に義時の嫡男であった同母兄の朝時が父の勘気を被って義絶されている。 |
六波羅探題 |
承久元年(1219)に22歳で小侍所別当就任、貞応2年(1223)には26歳で駿河守となり、同母兄の朝時の官位を超越している。元仁元年6月13日(1224)、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜2年3月(1230)、京都で六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して泰時から重時にあてた書状はよく知られている。仁治3年(1242)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権泰時が重病となると、鎌倉帰還を命じられて急ぎ鎌倉へ下った。泰時は六波羅探題北方である重時のみの鎌倉帰還を命じたにもかかわらず、南方の従弟時盛も無断で鎌倉に帰還し探題を解任されたため、泰時が没すると重時は六波羅に帰任し、最後の5年間は重時単独で任に当たった。泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。 寛元4年(1246)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。9月1日、時頼は三浦泰村に対し、自分の相談相手にするために重時を京都から呼び戻したいと打診したが、泰村は頑なにこれを拒んだ。 |
連署就任と晩年 |
宝治元年(1247)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。建長8年(1256)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年執権時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している。 |
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最期 |
弘長元年6月1日(1261)、重時は病に倒れた。『吾妻鏡』では厠で「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病」のような症状となったという。鶴岡八幡宮別当の隆弁に6月11日に加持してもらったところ、隆弁は6月22日に症状が回復すると告げた。その予言通り、22日に重時は病気から回復し、6月25日に喜んだ重時や一族は隆弁に馬・南庭(銀)・剣などを贈った。それから5か月後の11月3日、極楽寺別業で病死した。享年64。死因は不明だが、6月の病が再発したともいわれる。『吾妻鏡』では「発病の始めより万事を擲ち一心に念仏す。正念に住し、終を取ると云々」と記され、熱心な念仏信者であった重時らしい最期であったという。 |
Ⅳ、北条時政 |
北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。時政以前の系譜は系図により全て異なるため、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。ただし祖父が北条時家、父が時方または北条時兼という点は諸系図でほぼ一致している。 |
『吾妻鏡』は40歳を越えた時政に「介」※や都の官位等を付けず「豪傑」とのみ記していた。また、時政は保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたく、時政は北条氏の当主ではなく傍流であり国衙在庁から排除されていたのではないかとする見解がある。ただし河越太郎重頼(武蔵国留守所惣検校職)、小山四郎政光(下野大掾)のように国衙最有力在庁でも太郎・四郎と表記される例や、後年の護良親王令旨や吉田定房の『吉口伝』のように時政を在庁官人とする史料もある。また北条氏の本拠は国府のある三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあり、国衙と無関係とするのは考えがたく、時政は在庁官人であった可能性が高い。また京において時政の眼代(代官)として活躍し、左兵衛尉の官職を持つ北条時定が北条氏の嫡流で、傍流の時政が在庁していたとする説もあったが、現在では系図の分析から時定は時政の弟または従弟と考えられている。 |
※国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏。四等官(長官・次官・判官・主典の4等級から構成される )である。律令国の等級区分で地方諸国を四等級に分けた上から二番めの国司(上国)において守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指す。さらにその下に史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めて扱われてい 。守の唐名は刺史、太守など。大国、上国の守は中央では中級貴族に位置する。 |
いずれにしても、時政の前半生および内乱以前の北条氏については謎に包まれている。ほぼ一代で天下第一の権力を握るに至ったにもかかわらず、兄弟や従兄弟が時定以外は歴史に登場してこない(粛清された記録も無い)。そのため、不遇の死であったにもかかわらず、得宗家以外にも名越、金沢、大仏などの名で大きく枝葉を広げていく北条一族はすべて時政一人の系統(息子のうち義時と時房の系統)である。 |
Ⅴ、源平合戦 |
強大な平家勢力の威光の前に、思うように兵を集めることができず焦燥する頼朝を支えた北条氏一族の源流について・・・・何故、平氏の子孫と名乗る北条氏が源氏方について戦い、その後の源氏社会の執権一族になれるのか?。 |
源頼朝とともに挙兵し、源平合戦、そして幕府創設に大きな貢献を果たすこととなる北条氏。その出自は今もって分かっていないことが多い。北条氏は、時政を始祖とする一族。伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。代々在庁官人を務めた家系であるという。しかし、それほど広大な所領というわけでもなかったため、地方の一豪族として認知されてはいたものの、さほど力がある一族ではなかったというのが定説だ。伊豆に移ってきたのは時政の父である時方の頃で、その時から「北条」を名乗るようになったという。 |
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ただし、『桓武平氏庶流系図』や『平氏系図』といった鎌倉時代から南北朝時代に成立した系図では、時政の父は時方ではなく、時兼となっている。南北朝時代から室町時代初期までの王朝貴族である洞院公定の手による『尊卑分脈』は、信憑性の高い諸家の系図として知られているが、そこには時政の父として時方の名が挙げられており、正確なところが分かっていない。 |
北条氏の系譜として最も古い史料は、鎌倉時代末期に成立したとされる『吾妻鏡』といわれている。同書には次のようにある。 →「爰上総介平直方朝臣五代孫北條四郎時政主者。當國豪傑也。以武衛爲聟君。專顯無二忠節」 これは以仁王(もちひとおう、木村昴)の令旨が頼朝のもとにもたらされた治承4年4月27日(1180)のこととして記された一文で、読み下しでは次のようになる。 →「ここに上総介平直方朝臣の五代の孫、北条四郎時政主は、当国の豪傑なり。武衛を以て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕す」 |
令旨を受け取った際に、頼朝は自分に忠義を尽くしていた時政を呼んで最初に見せた、とする部分にある一文で、これを見ると時政ら北条氏のルーツは平直方、すなわち平氏であることが分かる。源氏による政権樹立に尽力したのが、敵対する平氏にまつわる一族だった、と考えられるわけだが、今日の研究において北条氏のルーツについては、平直方だけでなく、平貞盛、あるいは平氏ではなかったとする説までさまざまだ。なお、「豪傑」とあるのは、武勇に優れた武士だったというよりも、時政が豪族どころか小さな土豪に過ぎなかったために、こう表記せざるを得なかったとする見方がある。いずれにせよ、有力な史料が残されていないのは、時政以前の北条氏にそれほど力がなかったことの証左であるとする研究者もいる。そのため、時政の高祖父にあたる直方から代々、在庁官人を務めた家系であるとする説も、有力な史料から立証されたものではなく、今後のさらなる研究が待たれるところだ。 |
Ⅵ、筆者のひとり事 |
鎌倉幕府の執権北条氏の系譜、諸説あるが「一応、平氏」の流れとしておこう。よって「塩田北条氏は平氏」、さて「坂木村上氏」は、これまた諸説あるが「一応、源氏」の流れとしておこう。 さて、「塩田福沢氏」の出自は、通説では坂木の福沢の地、「坂木村上氏」の家臣かつ村上氏の諸流れである。・・・・とされている。ならば、「塩田福沢氏は源氏」の流れということになる。 ところで、我が先祖「福澤家八世」(俗名が明確に残り、従前の家系図の祖である)の墓石には、明確に「平氏」という刻字が記されている。そして、子孫の多くに「時」なる通字が受け継がれている。当地で「時」は「鎌倉北条氏」である。従って、「塩田福沢氏」と「福澤家」は血縁になくても構わない。しかし、「塩田福沢氏」に詳しい史学者寺島隆史先生から「塩田福沢氏と塩田家は一族で間違いないでしょう」とのコメントを頂いている。 これを、どう解釈したら良いだろうか・・・・。私の見解は、「塩田北条氏」の子「国時」・孫「俊時」は鎌倉幕府の要職に就いていたので、しばしば「塩田城」を空け、その際は某氏が代官として任にあたっていた。それが「誰」であるか未詳であり、学者の先生方誰一人として明らかに出来ていない。 福澤家の先祖一世「龍光院殿山洞源清大禅定門」明應2年(1493)卒、仮に享年60歳としよう。その人生は(1433-1493)である。「塩田福沢氏」の名が歴史に最初に現れるのは「1448」であり、一旦歴史から消えるのは「1490-1529」(39年間、2世代ある)である。福澤家の先祖、繰出位牌で判読できる一世の次は四世であり、夫婦で判読でき「光現院覺忠誓本居士」(弘治3年、1557卒)・同妻「清光院壽覺妙相大姉」(天文20年、1551卒)、享年60歳とすれば妻は1491年生誕、「塩田福沢氏」空白期間を「福澤家」は歴史を刻んでいる。史学者の先生方は、この事実をどう読み解くであろうか、楽しみだ。 |
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