村上義清の履歴書
村上義清の歴史は武田信玄と共に語り継がれる その陰に福沢氏1335-1553)あり 福澤家の歴史(1433-2023
 村上義清の履歴書
文亀元年 1501 村上顕国の子として葛尾城に生まれる
永正12 1515 元服し右京権亮を称し諱(いみな=死後に贈る称号)を義清とする
永正13 1516 従五位下に叙位し佐渡守に任官(官位等は朝廷への献金で得られた)
永正14 1517 家督相続し葛尾城の城主になる
大永元 1521 従四位下に昇叙し左衛門佐に転任
1521 武田晴信(信玄)誕生 義清20
大永7 1527 左近衛少将に転任
天文5 1536 正四位上に昇叙
天文7 1538 韮崎合戦;風説(晴信17歳、義清37歳)
天文8 1539 野辺山合戦;風説
天文9 1540 海尻合戦;風説
1540 小荒間合戦;風説
天文10 1541 海野平の戦い;武田信虎・諏訪頼重と同盟し海野棟綱・滋野一族を駆逐し小県郡を掌握する
天文11 1542 瀬沢合戦;風説
1542 平沢合戦;風説
1542 大門峠合戦;風説
天文13 1544 砥石合戦;風説
天文14 1545 塩尻峠合戦;風説
天文15 1546 碓氷峠合戦;風説、此処まで風説10戦あり(晴信25歳、義清45歳)
天文17 1548 上田原の戦い;(晴信27歳、義清47歳)武田晴信の小県南部侵攻を撃退する
天文19 1550 砥石崩れ;武田晴信の砥石城侵攻を撃退する
天文20 1551 砥石城落城;砥石城の足軽大将・矢沢頼綱(幸綱の弟)が幸綱に内通し攻略される
天文21 1552 常田の戦い;この戦いの真実性も賛否両論あり
天文22 1553 葛尾城自落;諸城を攻略された村上義清は葛尾城を捨て越後に逃れ長尾景虎に支援を乞う
1553 八幡の戦い;支援を受けた義清は反攻し武田軍は一旦兵を引き葛尾城奪回に成功する
1553 塩田城自落;武田軍再び北信濃に侵攻し塩田城を攻め義清越後へ逃れる(晴信32歳、義清52歳)
1553 川中島の戦い(一次/布施の戦い);長尾景虎が北信国人衆を支援し初めて武田晴信と戦う
天文24 1555 川中島の戦い(二次/犀川の戦い);晴信vs景虎200日余におよぶ長期にわたる対陣
弘治3 1557 川中島の戦い(三次/上野原の戦い);晴信の勢力伸張に反撃すべく長虎も出陣するが避ける晴信とは未決着
永禄4 1561 川中島の戦い(四次/八幡原の戦い);五回の合戦中で唯一大規模な戦いとなり多くの死傷者を出した
永禄7 1564 川中島の戦い(五次/塩崎の戦い);両軍にらみ合いで終戦
元亀4 1573 義清 越後根知城(謙信の城;糸魚川市根知谷姫川右岸、武田軍の侵攻に備え築城)で病没享年73
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 風説10(内容・年次違い含む)
 韮崎合戦、野辺山合戦、海尻合戦、小荒間合戦、瀬沢合戦、平沢合戦、大門峠合戦、砥石合戦、塩尻峠合戦、碓氷峠合戦、10戦の風説があります。現在の紛争・戦争においても同様に国内向け・周辺や広域への諜報等にも用いられる戦略、これは戦国時代に多用された戦法でもあるようです。尚、戦力の中身にしても詳しい数字は出し合うはずがないので単なる伝聞に過ぎないと見た方がよかろう。
 海野平の戦い;天文10年(1541
 村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡や佐久郡では滋野三家を中心とする滋野一族が、上野国の関東管領・山内上杉氏を後ろ盾としていまだ一定の勢力を保持していた。翌年の天文105月、甲斐の武田信虎は諏訪頼重・村上義清と同盟を結び、佐久郡・小県郡侵攻を行う。武田氏は佐久郡へ、諏訪・村上氏は小県郡へ侵攻する。海野棟綱ら滋野一族は抵抗するが尾野山城(上田城)が落城し、海野平・矢沢などにおいて三氏の連合軍に敗退し、棟綱の嫡男・海野幸義は513-14日にかけての葛尾進撃の際の戦いで討死している。滋野一族は525日に総崩れとなると、海野棟綱・真田幸綱・根津政直ら滋野一族は関東管領の上杉憲政を頼り上野国へ亡命する。

 図中に「長尾景虎、村上義清被頼、与武田晴信於信州海野平、天文十六丁未十月十九日午之刻ヨリ未之半マデ合戦也」との説明がある絵図。
(信州海野平合戦絵図;毛利家文庫58絵図849

 戦後に武田・諏訪・村上氏は滋野領の分割を行う。「神使御頭之日記」によれば、海野平合戦で降伏した人物に「矢沢殿」がおり、これは真田幸綱の弟とされる矢沢綱頼(頼綱)にあたると考えられている。綱頼は武田・諏訪・村上氏に帰参し、本領へ帰還している。綱頼は武田氏と敵対した村上義清に帰属するが、幸綱が武田氏に属すると村上方を離反した。また、諏訪氏猶子であり、諏訪神党であった禰津元直は許され本領安堵されている。一方、信虎は山内上杉氏と同盟関係にあったため、64日に信虎・晴信親子は信濃から撤兵した。
 614日、甲斐へ帰国した信虎は駿河国の今川義元訪問のため出立するが、その最中に信虎が嫡男の武田晴信(信玄)により駿河へ追放されるクーデターが発生する。7月には海野棟綱の要請を受けた上杉憲政が、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡に出兵し、佐久郡の大井氏、平賀氏、内山氏、志賀氏らは戦わずに降伏している。この上杉軍には海野棟綱や真田幸綱(幸隆)らも参陣していたと思われるが、長野業政は諏訪頼重と和睦して、海野氏の旧領小県郡には入らずに帰還してしまった。このことが、真田幸綱が上杉氏を見限り武田氏に臣従する遠因とされる。
 上田平の戦い;天文17年(1548
 上田原の戦いは、天文17214日(1548)に信濃国上田原(上田市)での、甲斐国の戦国大名武田晴信と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失った。合戦自体は村上方にも損害が出ているため痛み分けともとれるが、それまで武田家中の中心だった板垣信方、甘利虎泰を同時に失ってしまった戦いであったため事実上の敗北といえる。
 21日、晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始した。武田軍は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や郡内衆と合流し、大門峠を越えて小県郡南部に侵攻。一方、村上義清は天白山の居城葛尾城と北東部の戸石城を拠点に陣を敷く。さらに岩鼻まで南下して上田平に展開し、産川を挟んで武田方と対陣。214日に両軍は合戦となった。
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 合戦の具体的な経過について書き記した同時代の史料はないが、江戸時代に書かれた軍記物『甲陽軍鑑』等によると、武田軍は8000余、村上軍は5000余(又は7000余)。武田軍は先陣を願い出た真田幸綱を退け、板垣信方を先陣に栗原左衛門尉・飯富兵部少輔・上原昌辰(小山田虎満)・小山田信有・武田典厩信繁らが村上方に攻撃をしかけた。先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進するが、勝ちに奢った信方は敵前で首実検を始めた。
 板垣信方の油断をついた村上勢は反撃に出て、不意を突かれた板垣勢は混乱状態に陥り、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られた。これにより板垣衆は崩れ、村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけ、先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩される。『甲陽軍鑑』では上田原合戦における戦死者は武田軍は
700人(又は1200人)、村上軍は300人(又は1700人)としている。
 村上義清が武田晴信の本陣に攻めかると晴信の旗本衆は後退し、脇備の工藤祐長(内藤昌秀)と馬場信房(信春)が横槍を入れてこれを打ち払うが、晴信は二か所に薄手の傷を負った。以上の『甲陽軍鑑』における上田原合戦の戦闘の状況のうち、小山田勢の奮戦と晴信自身の負傷の様子はにも見られる。
 武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失う大敗を喫したが、村上軍も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利らが戦死し、損害も多く追撃する余力はなく退陣した。合戦に敗れた武田軍だが、『勝山記』によれば晴信の指揮のもと態勢を立て直して20日余の間「シハヲ踏」戦場に留まる。「シハヲ踏ム」は「芝(芝居)を踏む」の意味と考えられており、『甲陽軍鑑』では戦場に踏みとどまる意味で用いられる用語であることが指摘される。甘利虎泰の子・藤蔵(後の甘利昌忠)が甘利氏の家督を継承すると、晴信を支援した。晴信側近の駒井高白斎は今井信甫と相談し、晴信生母の大井の方に働きかけ、大井夫人は野村筑前守・春降出雲守を使者として派遣して晴信を説得し武田勢は撤退する。
 武田勢は35日に上原城へ到着し、314日には甘利藤三が上原城へ到着した。武田勢は326日に甲府へ帰還する。『甲陽軍鑑』『勝山記』によれば、晴信はこの合戦で二カ所に傷を負い、帰国後に甲府の「嶋の湯」(甲府市湯村の湯村温泉)で30日間の湯治をおこなったという。上田原の戦いは、武田晴信にとって初めての敗戦であった。武田軍の敗北を知った信濃国人衆は村上氏・小笠原氏を中心に結束して反撃に出る。諏訪郡でも西方衆が反乱を起こし、武田氏の信濃支配は危機に陥った。
 砥石崩れ;天文19年(1550
 砥石崩れとは、天文199月(1550)に信濃国小県郡(上田市)の砥石城において、甲斐国の戦国大名・武田晴信と北信濃の戦国大名・村上義清との間で行われた合戦。砥石城の戦いは武田信玄の生涯において、上田原の戦いに次ぐ二度目の敗戦(軍配違い)として知られる。『甲陽軍鑑』によると、武田家中ではこの合戦における敗退を「戸石くずれ」と呼称したという。
 砥石城は小城ではあったが、東西は崖に囲まれ攻める箇所はその名のとおり砥石のような南西の崖しかないという城であった。砥石城攻めの際の武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547)に晴信によって攻められ、乱妨取りも行われた志賀城の残党(天文16/1546、城主笠原清繁)であり士気はすこぶる高かった。『甲陽軍鑑』によれば、砥石城に籠城する村上方には小県郡の国衆である楽巌寺雅方(釈尊寺城主)・布下仁兵衛(堀ノ内城城主)がいる。また、『村上家伝』では真田幸綱の弟である矢沢綱頼(薩摩守、のち「頼綱」)も村上方に属していたとしている。
 『高白斎記』によれば、99日、武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退した。兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清は対立していた高梨氏と和睦を結び、自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、晴信自身も影武者を身代わりにして窮地を脱する有様であったと伝わる。
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 砥石城落城;天文20年(1551
 『高白斎記』によれば、天文20526日(1551)には武田家臣・信濃先方衆の真田幸綱(幸隆)により砥石城は攻略される。真田幸綱は信濃小県郡真田郷(上田市)を本拠とする国衆で、『甲陽軍鑑』によれば、海野平合戦において海野棟綱とともに上野へ亡命すると、甲斐において晴信への家督交代後に出仕し、天文16年(1547)の山内上杉氏との小田井原の戦いにおいて活躍している。『高白斎記』によれば、天文19年の砥石城攻めでは、幸綱は村上方の埴科郡の国衆である清野氏・寺尾氏に対する調略を行っていたという。
 『高白斎記』では天文
20年の幸綱による砥石城攻略を「砥石ノ城真田乗取」と記しており、調略が用いられたと考えられている。後世の軍記物によれば真田一族・矢沢氏が幸綱に内通していたとされ、幸綱の弟にあたる矢沢綱頼が内通者であったとも考えられている。天文221月に、晴信は砥石城に在城する小山田虎満に対して戸石再興のために出陣すると伝えており、幸綱の「乗取」に際しては修築を必要とする火災など城郭に対する被害もあったと考えられている。
 『高白斎記』によれば、晴信は同年61日に甲斐若神子(北杜市須玉町)まで出陣しているが、この時の本隊の動向は不明。72日に晴信は再び出陣している。これに対して佐久郡の国衆岩尾大井氏の岩尾城主・岩尾行頼(弾正忠)は若神子まで出仕して晴信に降伏している。晴信は砥石城落城後に佐久郡の城郭を整備し、内山城に小山田虎満を配置して支配拠点とした。
 天文221月(1553)に晴信は「戸石再興」のために戸石方面に出陣し、この時点で砥石城には内山城を離れた小山田虎満が在城している。同年3月に晴信は深志城(松本城、松本市)に終結すると小笠原氏の諸城を落とし、村上方の国衆も武田方に臣従した。村上義清は同年46日に本拠の葛尾城を放棄して越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り亡命した。義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、武田・長尾(上杉)間で信濃北部の川中島四郡をめぐる川中島の戦いへと発展していく。
 常田の戦い;天文21年(1552
 『甲陽軍鑑』の「信州常田合戦の事」は、天文213月(1552)地蔵峠で行われた。そもそも、甲越両軍の合戦は、坂城・葛尾城主村上義清が、天文22年(1553)信玄によって坂城を追われ、越後の上杉謙信を頼って行ったことが発端であるから、そのことからも、「常田合戦」には、史実上の疑問点が多い。ただ、戸石城を失った義清が、北信濃の高梨・須田・井上等の豪族と語らい、一矢を報いようと地蔵峠越えに戦いを挑んだことが、誤り伝えられたのかもしれない。真偽のほどは不明である。この篇は、『甲陽軍鑑』の記述をもとに常田合戦を再現してみたい。
 地蔵峠は、北国街道(現国道18号線)の脇往還である地蔵峠道の、現真田町傍陽と長野市松代の境界上に位置している。地蔵峠道は、上田市長島を起点に、同金剛寺、真田町曲尾、同軽井沢を経て長野市松代に至る街道である。現在の道は、県道長野真田線と称され、国道144号線の真田町荒井から分岐している。真田町側は比較的緩傾斜で峠まで上っていくが、長野市側は急な斜面を九十九折りの道路が縫っている。下りきると、しばらくして松代の市街地となる。地蔵峠からは、戸隠連山や飯綱山を背景に、善光寺平の眺望が見事である。
 常田合戦は、この峠を挟んで行われた。松代側から上杉軍が峠を越えて進軍しようとし、武田軍は、真田町側から迎え撃った。天文213月(1552)のことである。東信濃の拠点であった戸石城を失い、その勢力に陰りが見えた坂城の村上義清と、一方、信玄によって、本拠である松本・深志城を追われた小笠原長時の両者は、謙信に加勢を乞い、信濃への出馬を要請した。
 「このままではいずれ信玄は、北信濃をも席巻するであろう。となると、わが越後にも累が及ぶ。今のうちに禍根は断たねばならぬ」謙信は出馬を決意した。それに、謙信は、義に堅い武将である。頼まれれば嫌と言えない性格を持っていた。
 「まずは戸石城奪還のため、小県に向け出陣する」
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 謙信の号令は下った。32日春日山を発向し、38日地蔵峠に着陣した上杉軍は、この辺りの民家に放火したり狼藉を働いたりした。かたや武田軍も信越国境に多くの間者を放ち、上杉軍の動静を探り上杉軍の出陣を知ると、武田軍もまた甲府を出発これも38日地蔵峠下に着陣した。まさに疾風迅雷の行動であった。この時、信玄はわずかな近習を伴ない一騎駆けに出馬し、諸将はこれを追うようにして出陣したという。
 上杉軍の先陣は、謙信の姉婿の長尾越前守政景である。配下の桃井清七郎、平賀久七郎、唐崎孫次郎以下三千余騎の兵を率いて、地蔵峠を越えるべく九十九折りの道を進み峠を越えた。この時、謙信は政景に
 「政景、この度は敵を深追いせず一戦したら一度は退かれよ。わしに含むところがあれば」と使いを出した。
 これを聞いた政景は、「若い者に教えられるには及ばぬわ」と満面に怒りを現わし退却にかかった。
 以前から謙信と政景の間に確執があり、上杉軍に統率の乱れがあったことがうかがえる。一方、武田軍は、上杉軍の小県への侵入を阻止しようと、飯富兵部、小山田備中、小山田左衛門、真田一徳斎幸隆、芦田下野、栗原左衛門佐等の軍勢を押し立て、退却する政景軍を追撃した。地蔵峠にかかった政景軍は、大返し(総退却の時に逆に全軍で引き返し戦うこと)の戦略を取ったため激戦となった。戦いは最初のうち武田軍は劣勢で、小山田左衛門、栗原等は傷つき、小山田備中は討ち死にした。しかし、信玄の旗本先陣の甘利左衛門尉、馬場民部、内藤修理の三隊の働きが目覚ましく、攻撃態勢を立て直して長尾軍に襲いかかったため、勝敗の趨勢は逆転、武田軍は勝利を博した。「越後衆を雑兵ともに七百十三人を打ち取り、勝鬨を執行なされる。信州常田合戦(小県郡)というのがこれである」また、「先陣の中で真田一徳斎は、返して義景(政景)がひかえさせていた中の備え陣に突込み、切りかかって崩し多勢をうちとる。それで義景は敗走してただ二三騎で峠を越えて退いた。」と、『甲陽軍鑑』は武田軍の戦勝と幸隆の働き振りを記して「品三十」の文を締めくくっている。
 葛尾城自落;天文22年(1553
 村上氏は砥石城という小県地方のひとつの戦略拠点を失いましたが、その勢力は衰えたとはいえません。塩田城と本拠地葛尾城(坂城町)は健在でした。信玄は葛尾城を落として、北信濃に一歩を踏み込む心づもりでしたが、上田原の戦い、砥石城攻めで村上氏に遅れをとったこともあり、初めからの正面攻撃を避け周りをまず押さえ村上氏の背後を攻めるという作戦をたてました。
 天文22年(1553)信玄は攻略計画を進めますが、それはあくまでも水面下のことでした。128日に書かれた信玄の書状があります。「これから兵を出すが、世間には砥石城再興のための出馬と触れること。必ず砥石の城普請のために信玄と義信(信玄の長男)が出向いたとしておくこと」。これは、佐久の内山城を守る小山田備中守にあてたものですが、村上氏や北信濃の諸将をあざむくために出されたものです。そして実際は松本盆地から苅谷原・会田・麻績・更級の盆地に出たのです。3月中旬甲府を出て、深志(松本市)・苅谷原方面に出陣した武田軍は、43日会田・虚空蔵山を焼き払い、6日には12の隊に分かれて麻績を経て更級方面に進んできました。攻撃を恐れた塩崎氏も屋代氏も急ぎ武田軍に従いました。こうなると、村上氏の周りは武田方に取り囲まれ退路もありません。49日村上氏が守っていた葛尾城には誰もいなくなり村上義清は北信濃へ逃れました。415日から18日にかけて村上氏の幕下にあった小県の室賀氏、更級の大須賀九兵衛は武田方に出仕しました。423日、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しをはかり、同城を守っていた武田方を攻めて於曾源八郎らを討ち死にさせました。しかし、葛尾城の命運は尽きてしまい、元の姿に戻すことはできませんでした。村上義清は須坂の高梨政頼の元へ走り、自分の城へ帰れることを願って6月政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めた。
 八幡の戦い;天文22年(1553
 423日、村上義清は北信勢とともに葛尾の奪い返しをはかり、同城を守っていた武田方を攻めて於曾おそ源八郎らを討ち死にさせました。しかし、葛尾城の命運は尽きてしまい、元の姿に戻すことはできませんでした。村上義清は須坂の高梨政頼の元へ走り、自分の城へ帰れることを願って、6月政頼と共に越後の上杉謙信のもとに助けを求めました。これにより上杉氏の信濃侵攻の理由もでき、有名な川中島合戦の基ができたわけです。
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 塩田城自落;天文22年(1553
 塩田城は独鈷山の支脈、弘法山から流れる神戸川と御前川に挟まれた南北700m、北端東西160m、中央の最広部東西180mで、およそ600mにわたって20数段に及ぶ段郭が階段状に残る。さらに、段郭は神戸川を越えて右岸の前山寺南方から御前沢を越えて西方の竜光院東側山麓にまで及ぶ。城跡の北方に空濠跡が残る。城の主要部分は鎌倉時代から「御前」と呼ばれ、全体からきわめて広大な遺構で県史跡に指定されている。
 室町初期、塩田地方を領有した村上氏が、代官福沢氏を塩田城主として以来、この城は塩田地方の村上支配の拠点となった。天文228月(1553)の『高白斎記』に、「五日向塩田御動、地ノ城自落、本城ニ被立旗。七日戌刻(午後8時頃)飯富当塩田城主ノ御請被申、滅日。八日本城へ飯富被罷登候」とある。また、同年の『妙法寺記』に「八月信州村上殿塩田ノ要害ヲ引ノケ、行方不知ニ御ナリ候、一日ノ内ニ要害十六落申候、分レ捕リ高名足弱イケ取ニ取申候事、後代ニ有間敷候」と記している(信濃史料叢書)。
 前述のように、福沢昌景守る塩田城は天文2285日(1553)に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。これから信濃の東部、中部は武田晴信の支配圏に入った。晴信は、塩田城に飯富氏を常駐させ、この城を拠点に北信濃経略を開始した。このため、上杉景虎も信濃に出陣し、12年に及ぶ両雄の川中島の戦いが始まるのである。天正103月(1582)、武田氏滅亡後は、真田氏がこの地方を支配し、上田城に政治の中心が移り、塩田城は廃城となった。
 川中島の戦い(第一次合戦);天文22年(1553
 川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。
 天文
224月(1553)、武田晴信は北信濃へ軍を出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して長尾景虎に支援を願った。
 5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(千曲市八幡地区武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城(福沢昌景)を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。91日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして920日に越後国へ引き揚げた。晴信は1017日に本拠地である甲斐国甲府へ帰還した。
 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
 長尾景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。「川中島の戦い」(第一次合戦)は、「長尾景虎」と「武田晴信」の戦いではあるが、その前に「村上義清と福沢昌景」の生き残りの戦いでもある。「福沢昌景」の名も世に出て欲しいと思う。以下に「信濃史料」に載る戦いの記録を抜粋してみた。
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 信濃史料にみる戦いの記録
725 武田晴信、村山義清を小県郡塩田城に攻めんとし、是日、甲府を発して甲斐若神子に到る、尋で同郡内山城に入る、
801 武田晴信、小県郡和田城を陥る、
805 武田晴信、小県郡塩田城を陥る、尋で飯富虎昌をして同城を守らしむ、
809 武田晴信、大日方美作入道等に条目を送り、村上義清の軍に備へしむ、
810 武田晴信、真田幸隆に、小県郡秋和の地を宛行ふ、尋で小県郡の諸士に所領を宛行ふ、
814 武田晴信、小県郡下之郷上下社をして、社領等を安堵せしむ、
816 武田晴信、更級郡村上庄内の地等を祢津某等に宛行ふ、
901 是より先、越後長尾景虎の軍、村上義清を援けんがため信濃に攻入り武田晴信の軍と更級郡布施郷に戦ひ、是日、また、晴信の軍を更級郡八幡等を攻めて之を破る、尋で筑摩郡青柳城等の諸城を攻む、
908 武田晴信、曲尾越前守に小県郡松本郷の地を宛行ふ、
913 武田晴信の兵、筑摩郡麻績・更級郡荒砥両城に放火す、
917 長尾景虎の兵、埴科郡坂城南条に放火するにより、武田晴信、兵を出す、尋で景虎、兵を班す、
920 武田晴信、飯嶋源助に伊那郡市田郷内の地を宛行ふ、尋で之を安堵せしむ、
1007 武田晴信、小県郡塩田より筑摩郡深志城に入る、尋で甲府へ帰陣す、
翌天文23年(1554
320 小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に、戦乱により、賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す、
 蓮華定院過去帳日杯信州小県分(塩田庄分抜粋) 福沢五郎顕胤-福沢顕昌-福沢昌景
春容理明禅定尼 天文11年寅壬316 1542 塩田城御北 福沢氏(顕胤、顕昌の父)の正室だろう
妙純禅定尼 天文11年寅壬316 1542 塩田備前守殿家中 福沢氏重臣で福沢氏一族であろう
預修前匠作舜曳叟源勝禅定門 天文18713 1549 村上塩田福沢殿
安室源恭禅定門 天文12年葵919 1543 塩田福澤五郎殿
妙厳禅定尼 天文19716 1550 塩田与助殿母儀
春曳榮心大姉 天文2233 1551 塩田福澤大方殿 顕昌の妻、昌景の母親
妙貞大姉逆修 天文2222 1551 塩田前山福沢殿局 福沢氏の「奥向きの女性」
 「大方殿」の登牌が福沢氏の最後の記事である。福沢氏はこの5ヶ月後に居城を落とされ滅亡することになるのだが、領主階級にせよ、その家族の状況までうかがえる史料は、小県郡関係では最古のものでもある。また、「塩田城御北」や「大方殿」という呼称からは、福沢氏はやはり有力領主と、周囲からも認識されていた存在であった様子がうかがえる。
 知られざる塩田福沢氏
 「村上義清、家臣」で検索し、「最もページ数」(75頁)を費やしていたサイトでも『 福沢顕昌【ふくざわあきまさ(15??~15??)】村上義清家臣。官途は修理亮。1548年、「第一次上田原の戦い」で村上義清に従い武田晴信勢と戦い戦功を挙げた。田畑を伊勢大神宮に寄進した。』である。ある戦いで戦死した家臣とさほど変わらない扱いである。
 『福沢氏の名が史料にみえるのは、室町初期の文安5年(1448)ごろからであるが、それより前からここに在城していたという。』北条塩田城から「代官」がいたという。その代官が福沢氏だとすれば、1233年北条義政死去から1553落城するまで320年間、塩田城を管理していたことになる。江戸幕府260年より長い
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 補記 村上氏の簡略系譜 清和源氏 源頼信流(河内源氏)
 頼信頼義-義家-義国
   ∟
頼清仲宗惟清
         ∟
顕清為国(盛清の養子になる)
              ↓
         ∟
盛清為国-信国-安国-信村-胤信-信泰-義日(義光)
                                 ∟朝日
                                 ∟義隆
                              ∟国信-国清-頼清-国衛----政清
                              ∟義国-頼国-国衛-国清-満清-政国-
顕国義清
                              ∟信貞
         ∟
仲清-盛満-為国(信濃村上氏の祖)
                  ∟道清
                  ∟
基国
                  ∟宗実
                  ∟経業
                  ∟信国
                  ∟惟国
                  ∟世延(安延)
                  ∟宗信
               ∟定国(伊予村上氏)
   ∟頼季
   ∟
頼任
   ∟義政
 ※別説 源経基-源頼信-村上頼清-村上為国-村上安信
    村上安信-信村-胤信-信泰-信貞-師国-満信-植清-持清-成清-信清-清政
                 ∟義国-頼国-国衡-国清-満清-政国-顕国-義清
 村上氏はその出自をまったく異にするものが各地に多く散在しているが、戦国武将・村上義清を出した村上氏は清和源氏頼信流といわれている。『尊卑分脈』によれば、頼信の子に頼義頼清頼季頼任らの兄弟があり、そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったという。顕清の子が為国で、以後、代を重ねて戦国武将の義清へと続く。もとより、そのような所伝があるだけであって、史料的な裏付けになるものは見当たらない。村上氏の系図は各種伝わっているが、それぞれ異同が少なくない。それらは、『尊卑分脈』にみえる信泰の子あたりから少し違う系譜になっている。
 信濃村上氏(初登場) 源顕清(村上顕清)
 源顕清(村上顕清)、嘉保元年(1094)に三河守に任ぜられるが、同年8月、白河院(第72代天皇、白河天皇1073-1087)を呪詛したとして伊豆国への配流が言い渡され、白河院の側近であった父仲宗(河内源氏/頼信の孫)及び三人の弟達もこれに連座し同時に失脚した。この呪詛事件の詳細については不明であるが、『吾妻鏡』正治元年819日条に過去の事例として「鳥羽院(鳥羽天皇/白河天皇の孫)が源仲宗の妻(不詳)である祇園女御を奪った上で、仲宗を配流に処した(意訳)」との記述があることが知られ、現在では整合性からこれにある「鳥羽院」は白河院、「源仲宗」は惟清を指すものと考えられている。筑前守源仲宗の次男。兄弟に惟清、仲清、光清らがあり、子に宗清(村上蔵人)、定国、業国、盛国(宗清、弟仲清の子とも)、養子に為国がある。白河院蔵人。村上顕清とも記される。嘉保元年817日(1094)、白河上皇を呪咀するに依り参河守源朝臣惟清及び父子兄弟を配流に処す。惟清の弟盛清、信濃に流さる。
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