Family History 廿四代続く 福澤家の歴史 先祖と語る My Roots
福澤家の初代先祖は明應の人
 福澤家のプロフィール (所在地と時代背景)
小泉は東山道の福田なり南に城を見守る前田
 福澤家は上田市舞田(旧小県郡塩田町舞田/その前は旧小県郡中塩田村舞田、いずれも塩田庄)に在り、その昔は前田といい、小泉庄(東山道福田郷と一致)に属し前田村と称していた。その前田から塩田庄の南側に聳える聖なる山「独鈷山」(1266m)があり、その裾野に塩田庄前山村がある。鎌倉末期(建治3年/1277)に北条義政が連署を辞し塩田荘に遁世(塩田流北条氏初代)、塩田城に国時-俊時と3代に渡り塩田荘を治める。元弘3年(1333)、鎌倉東勝寺で自害し幕府と共に滅亡。
 その後、建武2年(1335)北条氏残党狩りが全国的に広がり、新田義貞軍との戦いに参戦した村上信貞は戦功を認められ同年に塩田荘が与えられた。その拠点なる塩田城の代官として「村上福沢氏」が名を残す。
 「福澤家の歴史」の調査・考察の過程で、歴代先祖の通字「時」より「北条氏の派流」との係りを強く感じ否定すべきではないと考える。「塩田城代官」は「村上福沢氏」より「塩田福沢氏」(小泉福沢氏)の方が、北条残党狩りや戦国時代の予兆を考えると何かとして戦略的な強みになったのではと考える。
 そもそも、「塩田流北条氏」、「義政」公は遁世後4年にして塩田荘で死去している。子国時公そして孫俊時公は鎌倉幕府の連署なる北条氏の要職に就いている。塩田荘を離れる事が多く、多くを代官に任せていた。その代官の名は不詳、宮澤家あるいは福澤家であったとしても不思議ではない。福澤家の歴史、1433年から1281年、152年/25年=6代更に遡ることが出来たら・・・・
 「福澤家の歴史」調査の一貫として、「島津忠久の履歴書」(塩田庄・東塩田安宗郷)なるものを別添している。その中で、「塩田庄」(塩田城)の代官探し」の一項を以下に転記してみた。(出所;信濃史料)
延喜02 0902 「延喜の荘園整理令」で新たな租税制度下で「国衙領」となる
承安04 1174 平安時代に国衙領だった小県郡塩田郷が建春門院に寄進され最勝光院領塩田荘が成立
文治02 1186 源頼朝、島津忠久を小県郡塩田庄地頭職に補す
承久03 1221 幕府、嶋津忠久を水内郡太田庄地頭職に補す
嘉禄02 1226 最勝光院が焼失すると塩田荘は教王護国寺(東寺)領になる
建治03 1277 北条義政、連署を辞し塩田荘に遁世する
正中02 1325 北条国時が地頭になる
元弘03 1333 塩田北条氏の滅亡
建武02 1335 村上信貞、新田義貞軍との戦いの戦功として室町幕府・足利直義(北朝/尊氏・弟)より塩田荘が与えられる
文安05 1448 塩田城代官福澤入道像阿、諏訪社上社御射山祭りの頭役
天文22 1553 福沢昌景守る塩田城の自落
 塩田城の代官が命じられる「機会」は少なくとも、福沢氏までに「6回」あったと考えられる。その7回目が福沢氏(1448-1551103年間)であり、それより前は「誰」が代官を務めたか、可能であれば明らかにしたい。
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 福澤家の新たな系譜 (初代から十七世まで)
世代 1500 1600 1700 1800
01 * * * * * * 不詳/龍光院殿山洞源清大禅定門 小泉荘前田村
02 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索 *享年不詳の場合
 暫定
60歳として表示
03 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索
04 * * * * * * 不詳/光現院覺忠誉本居士
* * * * * * 妻;不詳/清光院壽覺妙相大姉
05 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索
06 * * * * * * 判読不能な繰出位牌より探索
07 塩田荘舞田村 * * * * * * 不詳/成圓院願誉宗本居士
08 * * * * * * 福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士
江戸時代 * * * * * * 妻 福松/自性院空誉理貞大姉
09                                     * * * * * * 不詳/月西宗入禅定門
* * * * * * 妻;不詳/源誉□□禅定尼
10 * * * * * * 福澤勘兵衛好時/不詳
* * * * * * 妻;不詳/受徳院寶應玅正大姉
10 * * * * * * 福澤平治右衛秀時/冬雲□岩禅定門
* * * * * * 妻;不詳/着相妙更禅定尼
世代 1500 1600 1700 1800
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
世代 1700 1800 1900 2000
11 * * * * * * 不詳/福受院□傳源□居士
* * * * * * 妻;不詳/桂香院松誉芳室大姉
12 * * * * * * 不詳/無翁宗智居士
13 * * * * * * 福澤源左衛門頼時/福受院澤道良山居士
* * * * * * 妻;不詳/受法院智光讃大姉
14 * * * * * 福澤勇蔵時澄/眞如自観居士(51)
* * * * * * 妻;のぶ/照誉壽榮大姉
15 * * * * * * 福澤時慎/龍便淵山居士
* * * * * * 妻;不詳/虎月嘯山大姉
16 * * * * * * * 福澤勇治宥時/賢林院秀福澤道居士(74)
* * * * * * * 妻;志げ子/徳壽院締山喜淳大姉(68)
17 * * * * 福澤源左エ門時粛/福植院田譽澤聖賢薫居士(42)
* * * * * * * * 妻;だえ/福壽院澤譽潤室智薫大姉(80)
世代 1700 1800 1900 2000
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
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 塩田福沢氏と福澤家 家系図の相関
世代 福沢氏 1400 1500 1600 1700 福澤家
初代 * * * * * * 福沢入道像阿;1395-1455 初代祖父
二世 * 福沢入道沙弥像阿 初代父
二世 * 福沢左馬助信胤 初代父
三世 * * 福沢四郎(信胤代理) 初代
三世 * 福沢五郎清胤 初代
四世 * 福沢入道沙弥頭賢 二世
四世 * 福沢左館助政胤 二世
五世 福沢某氏(未詳)空白の41 三世
      上社御射山祭を含め信濃史料自体が少なく「情報不足」とすべき        
六世 * * * * * * 福沢五郎顕胤;1483-1543 四世
七世 * 福沢顕昌 五世
八世 * 福沢昌景 六世
九世 七世
世代 1400 1500 1600 1700
 「福澤家初代先祖」(1433-1493)は「塩田福沢氏三世」(1430-1490)と一致する。その方は「福沢四郎」「福沢五郎清胤」の兄弟、「福沢左馬助信胤」の子であると推考する。尚、叔父に「福沢入道沙弥像阿」がいるとなれば、福澤家「初代先祖」は「福沢入道沙弥像阿」の子、もしくは「福沢五郎清胤」との線も考えられる。そして、「福澤家四世」は「福沢五郎顕胤」と同世代になる。「福沢氏」の「三世・四世」から少なくとも「初代」の「子・孫」世代で「分家」が読み取れる。
 福澤家の新たな系譜 (十八世から二十一世/父母まで)
世代 1800 1900 2000 2100 2200
18 * * * * * * 福澤甚左エ門/常徳院轉誉法□覺道居士
* * * * * * 妻;不詳/願徳院相誉智□□操大姉
19 * * * * * * 福澤謙左衛門知義/福田院生誉澤善潤戒居士
* * * * 妻;政子/温譲院恭誉柔順智貞大姉
* * * * * * * 後妻;てる/智福院徳譽惠淳貞瑞大姉
20 廿世(祖父母)、廿一世(父母)、廿二世(兄)、廿三世(甥)、廿四世(姪孫)は省略します
世代 1800 1900 2000 2100 2200
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 初代 龍光院殿山洞源清大禅定門 明應2520日卒(1493)推定生涯 (1433-1493
 北条氏残党狩り建武2年(1335)から略100年経っての誕生、「北條流福澤氏」であったとしても、隠遁生活の必要性は消えていたであろう。かと言ってね、「戦国時代」の予兆は少なからず感ずる中での生涯は如何なものか・・・・
 霊峰「独鈷山」(1266m)は塩田平を潤す水源であることから「雨乞いの山」でもあり、荒々しい山容で古くから山岳信仰、空海(弘法大師)にまつわる伝承も多く残る。私も10回近く登っている。初代先祖も塩田城を含め、数えきれないほど訪れていたであろう。
 「院号+道号+戒名+位号」、現在では「道号」は故人の人柄や性格を連想させる部分として解釈される。場所・人や性格・住居を表す文字が引用され、「戒名」には先祖代々受け継いでい文字(通字)・師匠や尊敬する人に通じる文字・生前の職業を連想させる文字が引用されるという。
 道号に「山洞」が引用されている
・山
 塩田平と言えば南側に聳え立つ霊峰「独鈷山」がある。穿った見方と言われるのを覚悟すれば、「塩田城」がある「弘法山」が連想される。
・洞
 洞穴、貫く・見通す・洞察、深い・奥深い・虚ろ・空しい等。塩田城を「見通す」場所、即ち「前田」を連想。
戒名に「源(玄)清」が引用されている
・源(玄) 繰出位牌では「源」、墓石では「玄」の字が使われている
 源は「水の元」の意より水源、物事の起こりより、期限・根源。塩田福沢氏の「本家」を意とするか・・
 玄は 天の色、奥深い・奥深い道理、はるか・とおい等。
・清
 清は同年代の塩田福沢氏の「福沢五郎清胤」を指呼できる。
いずれにせよ、「龍光院殿山洞源清大禅定門」、威厳を感じさせる戒名であることは素人でも感じる。何かの機会に、ご専門であるご住職さまに伺いたいものだ。
 二世 不詳 永正7----日(1510)卒 推定生涯 (1450-1510
 三世 不詳 享禄3----日(1530)卒 推定生涯 (1470-1530
 初代先祖の子・孫。福澤家創始三代に渡り塩田福沢氏の「極盛期」を目の当たりに小泉郷の地から見守ってきた。当時を知る史料は何も残っていない。可能であれば「三代」からお話を聞かせて頂きたいものである。
前山て塩田庄を司る話訊かせよ囲炉裏かこみて
 四世 光現院覺忠誓本居士 弘治365日(1557)卒 推定生涯 (1497-1557
  妻 不詳 清光院壽覺妙相大姉 天文2044日(1551)卒 推定生涯 (1491-1551
 夫婦揃う繰出位牌(最古)、光現院と清光院。「1521-1527」;村上義清が家督相続し葛尾城主になった頃から塩田福沢氏未詳の一代辺り、戦国の足音が間近に迫る頃。その「時の光」が射し始め清らかなものであって欲しい。「院号」から「福澤家」子孫への先祖からの期待が伺われる。
暮ゆけは諸行無常の響きあり盛者必衰の理をあらはす
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 五世 不詳 慶長15----日(1510)卒 推定生涯 (1550-1610
 六世 不詳 寛永7----日(1510)卒 推定生涯 (1570-1630
 先祖四世の子・孫。「五世」は塩田城自落(1553)、「六世」は塩田城廃城(1583)を目の当たりにした。その20年後、慶長8年(1603)に江戸時代が始まる。
 七世 成圓院願誉宗本居士 寛永4416日(1627)卒 推定生涯 (1567-1627
 舞田村は、1578-1604年の間に小庄庄から塩田庄に移っている。七世は小泉庄生まれ塩田庄育ちになります。これを機に、「福澤家」の役目も終え「ほっと」したのだろうか・・・・「初代先祖」の卒(1493)より100年後(1567-1627/2=104)に生きている。もしかしたら、「龍光院殿山洞源清大禅定門」(卒後100年/1593追贈法要)を執り行ったのは、早くて「七世」だろうと推察した。
 小泉庄は東山道の福田郷、上田-松本を結ぶ保福寺街道も通過する交易が盛んな集落であった。江戸幕府は、慶長6年(1601)から7年間で五街道とともに中山道を整備した。徳川家康の五街道整備により、長野県域でも慶長7年(1602)に中山道、ついで甲州街道が開通しました。
伝承の明應人の百年忌塩田庄と名乗れるころに
 中路駅路には、原則として30里(16km)ごとに駅家を置くことが決められ、駅馬数も10疋に定められ、保福寺峠は難所なので錦織駅と浦野駅の駅馬は15疋と定められていた。駅馬や伝馬は公用で旅行する官人たちの交通機関であり又公の通信連絡、文書の逓送などに用いられ、一般の公民が駅馬や伝馬を利用は出来なかった。
 八世 福澤市兵衛廣時/福澤院月居宗泉居士 承応345日(1654)卒 推定生涯 (1594-1654
  妻 福松 自性院空誉理貞大姉 貞享343日(1686)卒 推定生涯 (1626-1686
 家系図の祖、妻福松は下之郷横関佐衛門次女。廣時の墓石に「平氏」の刻字有り慶長8年(1603)より江戸時代。八世は、初代徳川家康・秀忠・家光・4代家綱。上田城主は、真田昌幸・信之・仙石忠政・政俊。寛永12年(1635家光公の時代に「参勤交代」が制度化、松本藩主は保福寺街道で上田経由で江戸に向かっていた。
 九世 不詳 月西宗入禅定門 延寶元年----日(1673)卒 推定生涯 (1613-1673
  妻 不詳 源誉□□禅定尼 寛文286日(1662)卒 推定生涯 (1602-1662
 従来の家系図では、福澤市兵衛廣時→福澤市兵衛廣時で、没年差43年と長く、没年がほぼ中間で判読できた繰出位牌があり、福澤何某として九世代に引き当てた。
 さて、「月西宗入」・・・・どのような人生を送られたのだろうか、
 元和8年(1622)に真田氏は上田藩から松代藩13万石に加増転封され、そのまま松代藩主として幕末まで藩政を担いました。松代藩を筆頭に、信濃国内には江戸時代を通じて合計19藩が置かれ、10万石超えは松代藩のみ、松本藩6万石、上田藩5.8万石、あとは1-3万石程度の小藩ばかりでした。こうした大名所領以外にも天領(幕府直轄領)、旗本領、寺社領、他藩の飛び領などが点在し、天領だけで14万石が信濃国内に存在した。
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 十世 福澤勘兵衛好時/不詳 元禄1010--日(1697)卒 推定生涯 (1637-1697
  妻 不詳 受徳院寶應玅正大姉 元禄1149日(1698)卒 推定生涯 (1638-1698
 従来の家系図には福澤勘兵衛好時、元禄1010月没、妻不明、元禄141月と記載あり。
 繰出位牌で判読できるもので受徳院貫應玅正大姉、元禄11年が有り引き当てる。妻の墓は、「先祖枠」右から2番目にあり。
 十世(並) 福澤平治右衛秀時/冬雲□岩禅定門 宝永3----日(1706)卒 推定生涯(1646-1706
  妻 不詳 着相妙更禅定尼 宝永5----日(1708)卒 推定生涯 (1646-1708
 勘兵衛好時と没年の差は9年、妻同士の没年差は7年(もしくは10年)と、没年差が少なく親子ではなく兄弟と推察し同世代と扱う。妻は松代藩、佐久門小太夫 娘とあり。
 島原の乱(1637-1638)から寛永の飢饉(1640-1643)、牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に、幕府は武断政治の限界を思い知らされた。そして幕政は、「百姓撫育」(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、諸大名に課せられていた普請役は激減し、参勤交代に代替された。また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。
 十一世 福澤何某/福受院□傳源□居士 享保3年(判読不能)(1718)卒 推定生涯 (1658-1718
  妻 不詳 桂香院松誉芳室大姉 正徳21--日(1712)卒 推定生涯 (1652-1712
 夫婦揃って俗名不詳で繰出位牌と墓石がある。右端画像は、塩田城跡から指呼できる福澤家の墓。村上義清の里に、貞享58月下旬(1688)松尾芭蕉が訪れている。(更級紀行)
 十二世 福澤何某/無翁宗智居士 延享3124日(1746)卒 推定生涯 (1686-1746
 十一世代の次ぎは源左衛門頼時と没年で50年の差があり、一世代あるのではと繰出位牌を探る「無翁宗智居士」なるご位牌が目に留まり十二世代として引き当てた。
 宝永3年(1706)に上田城主は、仙石氏から松平氏へと交代し、明治維新までの160年余の間松平氏が治めました。最後の藩主は松平忠礼、写真愛好家(撮影から現像まで)でした。
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 十三世 福澤源左衛門頼時/福受院澤道良山居士 明和5----日(1768)卒 推定生涯 (1708-1768
  妻 不詳 受法院智光讃大姉 明和399日(1766)卒 推定生涯 (1706-1766
 従来の家系図では、「廣時-頼時-」と初代に続くも、この間没年差114年あり、繰出位牌より可能性の高い「五世代分」(単純平均22.8年/世代年齢)を「明応の先祖」以降で追加させて頂いた。
 江戸時代の信濃国は、強大な藩が存在しなかったことも一因にありますが、とにかく一揆が多くありました。とくに規模が大きかった騒動としては、貞享3年(1686)に松本藩で起きた加助騒動(貞享騒動、宝暦11年(1761)に上田藩で起きた宝暦騒動が挙げられます。どちらも1万人以上の農民が参加し藩政を揺るがすほどの大事件でした。
 十四世 福澤勇藏時澄/眞如自觀居士 (51) 安永895日(1779)卒 生涯 (1728-1779
  妻 のぶ 照譽壽榮大姉 享和4118日(1804)卒 推定生涯 (1744-1804
 妻のぶ様は当村高橋栄藏娘と記されている。
 もともと信濃国は寒冷で、冷害に悩まされやすい地域でした。北信の豪雪地帯から江戸へは多くの出稼ぎ人を送り出したように、農家にとっては過酷な環境であり、そこに藩から重税がかけられて農民の不満が爆発したのです。また天明2年(1782)には天明の大飢饉、天明3年(1783)には浅間山大噴火といった自然災害も重なり、庶民生活は逼迫しました。
 十五世 福澤時慎/龍便淵山居士 天保813日(1837)卒 推定生涯 (1777-1837
  妻 不詳 虎月嘯山大姉  弘化4129日(1847)卒 推定生涯 (1787-1847
 妻不詳なるも家系図に十二人村武田吉左エ門娘と記されている。
 従来の家系図で「廣時-頼時-秀時-好時-時澄-時慎-」と続く、今回の調査で「廣時-追加-好時-秀時-追加-追加-頼時-時澄-時慎-」と改めさせて頂いた。
 十六世 福澤勇治宥時/賢林院秀福澤道居士 慶応41017日(1868)卒 74 生涯 (1808-1868
  妻 志げ子 徳壽院諦山喜淳大姉  明治4430日(1871)卒 68 生涯 (1811-1871
 家系図に、宥時様には號若水(書道家)と記され、志げ子様は常田村小島久兵衛・玉馬娘と記されている。
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 十七世 福澤源左エ門時粛/福植院田譽澤聖賢居士 慶応258日(1866)卒 42 生涯 (1824-1866
  妻 だゑ 福壽院澤潤室智大姉  明治4092日(1907)卒 80 生涯 (1827-1907
 家系図に、妻だゑ様は麻績駅林仁左ヱ門長女と記されている。だゑ様から檀那寺は法樹院になっていると思います。
 神仏分離令・廃仏毀釈
 慶応4313日(1868.4.5)に、政府より「神仏分離令」「神仏判然令」と通称される太政官布告、および明治313日(1870.2.3)に出された詔書「大教宣布」など、仏教による国民負担の軽減策が出された。仏教界は1872年から74年をピークとして,廃仏毀釈の嵐にさらされた。都市でも農村でも多くの寺院が廃寺となり,僧侶の還俗が続き,優れた仏像や仏具や仏画が狂騒の巷に消失した。
 「同廃仏毀釈」により、生島足島神社の別当寺(生島神;神宮寺と足島神;長福寺)のうち「神宮寺」が廃寺となり、仏・仏具などの一部は長福寺に預けられ、他は各寺院に配られたという。
これにより、「福澤家」の檀那寺(初代から十七世まで)は「神宮寺」(下之郷)から「法樹院」(舞田;文治元年/
1185創建、塩田庄:島津忠久)に移されました。
 十八世 福澤甚左エ門/常徳院轉誉法□覺道居士 明治26724日(1893)卒 推定生涯 (1833-1893
  妻 不詳 願徳院相誉智□□操大姉  不詳 推定生涯 不詳
 従来の家系図は、「時粛-知義-」と続くが没年差44年あり、その間に一世代考えられるが家系図にも繰出位牌位牌にも該当なし。墓石調査の過程で本墓石に眼が止まり十七代として引き当てた。享年は側面に甚左エ門、明治二十六年七月廿四日卒とあり、妻の法名が先に刻んである。
 十九世 福澤謙左衛門知義/福田院生誉澤潤戒居士 明治43728日(1910)卒 65 生涯(1845-1910
  妻 政子 温譲院恭誉柔順智貞大姉 明治15127日(1882)卒 42 生涯 (1840-1882
  後妻 てる 智福院徳譽惠淳貞瑞大姉 大正5814日(1916)卒 68 生涯 (1848-1916
 政子様、村上村網掛、塩野入黒兵衛娘。てる様、室賀村清水伍作妹と記されている。
 福澤家の墓に眠る「廿世(祖父母)、廿一世(父母)、廿二世(兄)」は、祖父を除き共に生活をしてきたので省略します。
 「繰出位牌」の中で判読不能なお位牌は少なくありません。拾い上げることが叶わず大変申し訳なく思っています。なお、繰出位牌ならびに墓石で、位号(信士・信女・童子・童女)は系譜対象外とさせて頂きました。
合掌
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