加護坊山 ; 田村麻呂伝説を訪ね
− 2001.3.10 (土) 晴れ −
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田村麻呂伝説 8世紀の仙北平野は、版図の拡大を図る律令国家と先住民の蝦夷とが覇を争った舞台であった。多賀城に続いて仙北平野に前進基地の桃生城や伊治城が造られたのもこのころである。これに対抗して蝦夷側も幾度となく反乱を繰り返した。ある時はその勢いが国府の多賀城にまで及んで建物を焼失させたこともあった。派遣されてくるどの征東軍も際立った戦果を上げることができなかったばかりでなく、一度ならずひどい大敗を喫したのである。これは蝦夷側にアテルイという優れた武将がいたからである。このアテルイ軍と戦って、降伏させたのが田村麻呂であった。 田村麻呂は、初め桃生城に入った。そこからは北上川を挟んで美しい緑の丘陵が眺められた。箟岳山と加護坊山である。箟岳山は、戦場でもあるはずの仙北平野の中に静かにたたずんでいた。田村麻呂は、この箟岳山が気に入って登ってみた。そこからは蝦夷軍の潜む地域が余すところなく眺められた。西の彼方には薬莱山がそびえている。田村麻呂は自慢の強弓に鏑矢をつがえると薬莱山めがけて放った。鏑矢はうなりをたてて真一文字に薬莱山を射た。蝦夷の将兵たちはそれを見て恐れをなして北に逃げた。それからは征東軍は行く先々で蝦夷軍を討ち破った。アテルイが降伏するのは、それから間もなくのことである。 人々は薬莱山を射た戦勝記念の鏑矢を争って捜した。しかし矢壷という大穴があいているだけで矢はどこにも見当たらなかったため、この山が矢を呑み込んだと信じた。それ以来、加美の人々はこの山を「矢くろう山」といい、それがやがて薬莱山になったと伝えるのである。凱旋した田村麻呂は箟岳山の頂に壮大な観音堂を建て近くに白山社を祀った。(河北新報社刊「宮城の名山」より) |
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岩沼を8時に出発、仙台東部道路と三陸自動車道を利用し田尻町大貫地区の加護坊山北登山口に着いたのは10時でした。加護坊山林道には残雪が20〜30cmあり、右足首骨折後初めての山歩きのためゆっくり登りました。雪道を1600歩、約1時間かかりました。今日のため2月6日から市街地や阿武隈川の土手をリハビリ散歩し、一昨日で10万歩を超えたばかりです。まだ右足首に捻挫痛が残っているので少し不安もありました。 |
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仙北平野に浮かぶ残丘であるが故に、どこが山頂なのか判別できません。しかし、加護坊山の頂上は遮るものが周囲にないことから360度の展望に恵まれ、少しオーバーに言うと宮城県の80%近くが一望できるほどです。風も少なく好天でしたが、午後から時雨れるとの予報通り奥羽山脈方面は雪雲がかかり見通すことはできませんでした。 | ||||||
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箟岳山は山頂近くまで家があり、山歩きに向かないので車で行きました。山頂からは西方の展望が全く、田村麻呂伝説で鏑矢を放ったのは加護坊山ではなかったのか、個人的にはそんな気がしました。 加護坊山は、山歩きの対象としては物足りなさを感じましたが、その展望は一級品だと思います。山肌の露出拡大が進んでいるようで残念な気もします。遊歩道周辺だけでも、落葉樹の雑木林にして頂きたいものです。 |