芭蕉句碑 奥の細道(第二の故郷宮城編)
 2014.04.18-19 (金/土) 薄曇/晴-晴
 宮城は17年間住んだ「第二の故郷」です。「生まれ故郷」に戻り満10年が経ちました。当時は全く興味がなく居住地の「二木の松」しか見ていません。10年記念行事として“奥の細道「宮城編」”を計画しました。
  【諏訪神社】白石市越河
 現地日の出時刻を調べ5時到着予定で昨夜出発した。夜中走行で予定より40分近く早くの現着。
 夜明け前ということで車中で妻が容易してくれた稲荷寿司で朝食・休憩をとり夜明けを待った。
 
 
 「諏訪神社」は「定光寺」の北並びにあり、石段を登り詰めた右手に芭蕉句碑があります。「咲みたす 桃の中より 初さくら」(さきみだす もものなかより さつざくら)、晩年の頃に詠まれた句です。
  【白石城跡/益岡公園】白石市益岡
 白石城跡は改修前を含め何度も行っていた。
 宮城の桜は「やや葉桜」で散り初めの風情の中での撮影紀行、欲言えばもう少し青空が欲しかった。
 
   

 公園内には芭蕉の句碑だけでなく「高浜虚子;羽と陸と 併せて蔵王 夏の山」や地元出身の俳人「松窓乙二;栗まくや わすわすの山 西にして」や「鈴木綾園;行秋の 山風あらき 籬哉」の句碑もありました。
 まだ5時半なので早朝散歩の人ぐらいしか見掛けません。静かで写真撮影には助かます。
 ※「右写真」にマウスポインタを当てると、ポインタは「リンク」表示に変ります。そのような画像はリンクを張っています。
 
 「白石城跡」の句碑は、「かけろふの 我肩に立 かみこかな」(かけろうの わがかたにたつ かこかな)、元禄2年2月2日、「奥の細道」出発直前に大垣で詠まれた句です。ちなみに、出発日は3月27日で江戸深川の採薬庵であり、約600里150日間で東北・北陸を巡り元禄4年に江戸に戻った。
  【曹洞宗吉祥山繁昌院】大河原町
 「繁昌院(東の寺)」とも呼ばれ白石川の岸辺にあり、対岸の柴田町船岡で有名な「一目千本桜」を見渡せる。写真は「仁王門」と「本堂」です。
 
 大河原町は宿場町で商店街に面した参道から入った。質素で小さいながらも風情があるお寺さんだと思った。その参道から入る門は勝手門のようなもので右手には仁王門という立派な山門があった。裏口とか勝手口からお邪魔することが多いのはグーグルマップに頼るが故なんだろうか・・・・。
 「仁王門」を入ると右手に「選仏堂」(座禅堂)があり、その正面に芭蕉句碑がある。
 
「鶯の 笠落したる 椿かな」(うぐいすの かさおとしたる つばききかな)伊賀上野の西島百歳亭で詠まれた句です
 
 
 大河原町の俳人村井江三が、この地を通った芭蕉を偲び「韮神山の麓」に句碑を建立した。その「模刻」が「繁昌院」にある句碑である。(句碑の横に“説明書き”がある)
  【韮神山の麓】村田町国道4号沿い
 「繁昌院」にある芭蕉句碑の説明にある「韮神山の麓」の句碑です。
 「繁昌院が模刻」で「韮神山の麓が原刻」になる。新旧は別として、ならば見ておかなきゃ。
 
 「模刻」と同じ句であるのは当然ですが「かな」と「漢字」が異なります。俳句特有の表現方法で「耳と目の感じ方」なのでしょうか。「鶯の 笠おとしたる 椿かな」(うぐいすの かさおとしたる つばきかな)、元禄3年2月6日に伊賀上野の西島百歳亭で詠んだ句です。
【船岡の一目千本桜】ビューポイントから撮影したものです。(画像クリックで拡大)
 
対岸の繁昌院より   白石川に架かる柴田大橋より 柴田大橋左岸上流堤防歩道
 
麓より船岡城址公園を見上げる   船岡城址空堀 JR東北本線
  【曹洞宗妙高山大光寺】柴田町船岡
 本堂裏手に地下霊場のようなものがあり、内部に五百羅漢の石仏があるという。
 流行した疾病平癒を祈り「環中道一和尚」が彫ったものだという。
 
 「大光寺」の芭蕉句碑は、「名月や 池をめぐりて 終夜」(めいげつや いけをめぐりて よもすがら)、隅田川に舟を浮かべて名月を楽しみ芭蕉庵で詠んだ句です。
【竹駒神社】岩沼市稲荷町  

 
 「竹駒神社/竹駒稲荷」は日本三大稲荷の一つとして知られている。宮城居住17年間で大家さんの都合で3ヶ所引っ越した。最初と最後は竹駒神社から徒歩10分程度の所に住んでいた。主画像は「拝殿」、副画像上は「髄身門」下は「白唐門」である。
 
 「竹駒神社」の赤鳥居そして黒鳥居を抜けた右手に句碑がある。
 2本の石柱句碑、右側が芭蕉句碑で左側が謙阿句碑になる。(説明
 
 芭蕉句碑は、⑥「佐くらより 松盤二木を 三月越し」(さくらより まつはふたきを みつきごし)、江戸を旅立つとき弟子から贈られた餞別の句「武隈の 松見せ申せ 遅桜」にこたえて詠んだ句です。また、白石を出て仙台まで宿泊していません。
【二木の松/武隈の松】岩沼市二木  
 現在の松は7代目で明治になる6年前に植えられたので樹齢150年を越えています。
 「二木の松」(武隈の松)は、岩沼市の指定天然記念物です。
 
 平成26年3月16日、丁度一ヶ月前になりますが「二木の松」(武隈の松)は「おくのほそ道の風景地」として国の名勝(国指定文化財)に格上げされました。
   
 「二木の松/武隈の松」の句碑は、「櫻より 松は二木を 三月越し」(さくらより まつはふたきを みつきこし)で、竹駒神社と同じ句です。
 
 芭蕉が仰ぎ見て「目覚める心地」を覚えたという根方が二木に分かれた樹形の老松(五代目)と現在の松の樹形は極めて似ているとのこと。
【道路神路】名取市館腰  
 「道路神路」とは市内愛島笠島に鎮座する「道祖神社」(佐倍乃神社)への道標・・・・芭蕉は天候や体調で行くか行くまいか葛藤した場所。
 
 「道路神路」にある句碑は、⑧「笠島は いづこ五月の ぬかり道」(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)という句を残し仙台への道を急いだようです。私の旅路も予定より10分遅れの8時30分、蝶が飛ぶ陽気ではないので予定変更して笠島に行くことにした。(芭蕉とは逆の選択)
  【笠島の句碑】名取市愛島
 平成元年に建立した芭蕉句碑で、⑨「笠島は いづこ五月の ぬかり道」(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)がある。
 
 芭蕉句碑の撮影を終え「仙台空港」近くにある「観音寺」の句碑(ここも時間があったらという予備の地)に向かおうと旅支度を済ませ、隣の畑で仕事をしていたご婦人に挨拶をしたら「折角なので実方中将の墓」をご覧になられたらと勧められた。
【実方中将の墓】名取市愛島  
 藤原実方中将朝臣が赴任途中、当地で落馬し一命を落とした歴史的に有名な場所です。
説明文「実方中将の墓
 
 後方は「高舘丘陵」という自然豊かな里山で何10回も探索したことがある。この近くに「笠島廃寺跡」があり訪ねたことがある。その際に「道祖神社」にも立ち寄っている。
  【観音寺】名取市下増田
 「観音寺」は仙台空港の太平洋側にあります。東日本大震災・巨大津波により全てが消滅した場所です。
 主画像の左後方が仙台空港、小画像の後方が太平洋です。
 
 「観音寺」の句碑は修復されたと知っていました。⑩「うたがふな 潮の花も 浦の春」(うたがふな うしおのはなも うらのはる)、元禄2年春(奥の細道出発前)旅の安全祈願に伊勢に行った際に詠まれた句です。
 話が前後;翌日の帰路、仙台市から岩沼市まで塩釜-亘理線(浜通り)を走ってみた。名取から岩沼までの農地回復工事(水路新築・耕地の土入替・区画整理)の進捗スピードを見てびっくりしました。
【陸奥国分寺薬師堂】仙台市若林区  

 
 「陸奥国分寺跡」(主画像)、副画像上は「仁王門」下は「薬師堂」です。昭和10年、國分寺(薬師堂)と國分寺別當坊とが合併。別當坊は本坊と改称され宗教法人陸奥國分寺の本部が置かれ真言宗智山派「護國山醫王院陸奥国分寺」になっています。
 
 芭蕉句碑は塗り替えられたばかりの「準胝観音堂」の右手にあり。
 ⑪
「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」(あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)、奥の細道、当地で詠んだ句です。
 
 仙台で3日間滞在。仙台を後にする時に草鞋2足を選別に贈った仙台の俳人北野加之へ感謝の気持ちを詠じた句。芭蕉句碑の建立や同所にある「句碑等の説明文」もご覧ください。
【吉岡八幡神社】大和町吉岡  

 
 「吉岡八幡神社」には2つの芭蕉句碑がある。「八幡緑地」という公園内の一角であるとの認識で望まないと句碑探しは難儀かも・・・・。主画像は「社殿」副画像上は「鳥居」下は「随身門」(山門)です。

 「社殿」の右手にある建物の前に「御祭神や配祀」が集められた一画があります。副画像上は正面、下は斜めから撮影したものです。そこに見落とし易い芭蕉句碑がありました。「花に遊ぶ 虻なくらひそ 友すゝめ」(はなにあそぶ あぶなくらいそ ともすずめ)の句です。
 
 「鳥居」の横に「大和町武道館」という昭和初期建造の洋風建築があります。
 これは旧吉岡尋常高等小学校の講堂として造れたものです。
 
 「吉岡八幡神社」の「鳥居」と「随身門」の間、「大和町武道館」寄りに芭蕉句碑⑬「藤の実は 俳諧にせん 花のあと」(ふじのみは はいかいにせん はなのあと)、奥の細道の終盤大垣で詠まれた句です。
 陸上自衛隊大和駐屯地があり王城寺演習場から聞こえてくる重火器の爆音が腹に突き刺さる。我が家周辺で聞こえる猟友会の銃声とは比べようにならない。
  【保福寺】大和町吉田
 「保福寺」の参道は杉並木になっていて、夏の暑い日だと歩いてみたくなるだろう。
 本堂は改修中であった。
 
 「保福寺」には仙台藩士但木土佐(家老の家柄)の墓があります。戊辰戦争敗戦後、戦犯首謀者として捕えられ処刑された。一旦、東禅寺(東京都港区)に埋葬されたが、後に保福寺に改葬された。
 
 「保福寺山門」の右手前に芭蕉句碑、⑭「卯の花や くらき柳の およひこし」(うのはなや くらきやなぎの およびごし)があります。
 
 この後、かつて「カタクリロード」と表現した「里山歩き」の場所に立ち寄る。10数年前に比べカタクリロードは一段と華やかさを増していた。「春の妖精」を2回目撃するも撮影チャンスに恵まれず目の保養で終えた。「陸奥国分寺薬師堂」の前に立ち寄った里山のカタクリも増えていた。そこでも発生しているとのことだが目撃すら叶わなかった。
  【長興寺】加美町北町
 「長興寺」の門柱左側に芭蕉句碑⑮「枯れえたに 烏のとまりけり 秋の暮」(かれえだに からすのとまりたるや あきのくれ)、37歳時に詠まれた句です。
 
 「長福寺」と称し中新田氏の始祖、欧州管領、斯波家兼公以来の祈願寺であったが大崎氏断絶後廃寺となるが1611年に「長興寺」として「中新田城跡に開山した。
【観水寺跡】大崎市古川  
 「鹿嶋山観水寺跡」(千手観音堂)の歴史は盛衰の中にあり、遂に明治になり完全に廃寺になった。
 
 「観水寺跡」にある芭蕉句碑は、⑯「草枕 犬もしぐるるか 夜の声」(くさまくら いぬもしぐるるか よるのこえ)、「野ざらし紀行」の中で詠まれた句です。
  【緒絶橋】大崎市古川
 「緒絶橋」は平安時代、男女の縺れで都から追われこの地で身投げをしたという伝説があり、悲恋の歌枕として多くの和歌で詠まれた。
 
 「緒絶橋」の句碑は平成8年に当地にあった断碑を復元したもので、⑰「初雪や 雪かかりたる 橋の上」(はつゆきや かけかかりたる はしのうえ)、元禄6年冬、深川大橋の建設を見て詠んだ句です。
 当地にも長年にわたる顧問先があり週2回のペースで片道70km程を通いました。昨年の春に久し振りにお寄りしました。
【瀧澤神社】仙台市青葉区  
 昨日は徹夜ドライブに17の句碑めぐり、これじゃ途中で鼻血が出ても不思議でない。
 明けて19日、いつものようにホテルで朝食を摂る。あれれ、何か忘れている。急いでチェックアウト。
 
 ホテル近くに芭蕉句碑があり朝食前の散歩にと計画していた。昨日の疲れですっかり忘れ食事中に思い出した。時刻を観ると間に合う。ならばと「瀧澤神社」に向かう。芭蕉句碑は、⑬「葉類裳やゝ 希之起昇々南宇 月と梅」(はるもやや けしきととなう つきとうめ)、元禄6年、芭蕉門人の森川許六宅で詠まれた句です。
  【桜岡大神宮】仙台市青葉区
 「瀧澤神社」から早足で駐車場に向かい「桜岡大神宮」に向かう。
 最後の芭蕉句碑は、⑲
「風流の 初やおくの 田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、須賀川で詠んだ句です。
 
 今回の「未知草」は120km(1,050-880km)、句碑は19、浪漫紀行のコンテンツは90で8.7MBと今迄の中で最多になる。好きとはいえ年相応にしておかないと・・・・。