富岡製糸場(群馬県富岡市) 世界遺産登録直前記
 2014.05.09(金)晴
 イコモスが「富岡製糸場と絹産業遺産群」を「世界文化遺産」に登録勧告、平成26年6月に世界遺産委員会で登録可否の最終審議が行われ「略決定」の見通し。あまり混雑しないうちに見てきました。
  【正門と城町通り】
 宮本町まちなか交流館市営駐車場から城町通りを歩き富岡製糸場に向かう。
 この通りも世界遺産に相応しい再開発が検討されているとかいないとか・・・・。
 
【行啓記念碑】  
 東向きの「正門」を入り右手に「行啓記念館」がある。これは明治天皇が創業翌年の明治6年(1873年)行啓されたことを70周年記念として昭和18年(1943年)に建立された。
 皇后陛下が「いと車 とくもめくりて大御代の 富をたくする道ひらけつつ」と詠まれた。
 木立の先に屋根部が見える建物は「旧候門所」です。
 通路の1階右手がガイダンス展示と売店になっている。30分毎にガイドツアーが回っている。
  【東繭倉庫(重文)】
 正門を入り左手の「発券所」で大人500円、一行4人なので2000円を支払う。
 正面に「東繭倉庫」長さ104m×幅12m×高さ15mの2階建の木骨煉瓦造」の建物が「東繭倉庫」だ。
 
 通路入口前には30分毎にスタートするガイドツアーの囲み幾つかできていた。タイミングよく姉夫婦と妻は加わったが私は撮影があるのでマイペースでの単独行動をとった。
 富岡製糸場の敷地面積は16,255坪(53,738㎡)、ほぼ正方形なので一辺が230m強になる。その周囲は塀に囲まれ、南側は利根川水系の一級河川である鏑川の左岸となり10mほどの崖になっている。
【東繭倉庫1階の展示場】  
 通路の1階右手がガイダンス展示と売店になっている。
 富岡製糸場の歴史がパネル展示(下)されていたり明治5年当初の仏式繰糸器(右)が復元展示されていた。
 
 ギャラリーのパネル展示をキチンと読めば「富岡製糸場」について理解が深められただろう。私にはもう一つの目的である「芭蕉句碑めぐり」(群馬西部編)があり、来る途中の4ヶ所の他、帰路の3ヶ所が残っている。
  【乾燥場】
 「乾燥場」は平成26年豪雪で半壊、早期復旧が計画されている。大正11年建設、昭和17年増改築で操業停止まで使われていた。
 乾燥場の反対側にトイレがあり、その奥は「社宅群」になっている。
 
 「富岡製糸場」と「絹産業遺産群」から構成される「世界文化遺産」、その遺産群の主なものは「荒船風穴」(下仁田町)・「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)・「高山社跡」(藤岡市)がある。
【蒸気釜所煙突/副蚕場】  
 現在の「煙突」は、昭和14年の鉄筋コンクリート製で直径2.5m×高さ37.5mのもの。
 水色の屋根の平屋(下)は「副蚕場」で西繭倉庫まで続いている。
 
 手つかずの「廃工場跡」という感じだが建造物が無い場所は(この時期故なのか)不要な雑草もなくとても綺麗だった。飾り気ない「産業遺産」として、そこが良いところだろう。
 「富岡製糸場」にある6つある重要文化財で、一部見学出来るのは「東繭倉庫」「繰糸場」だけ、「西繭倉庫」「検査人館」「女工館」「ブリュナ館」は外観見学のみだ。世界遺産への登録後はどうなるだろうか。
  【西繭倉庫(重文)】
 建物の構造・大きさ・建設年度等は東繭倉庫と同じようです。
 建設当初から昭和後期まで、1階北半分の煉瓦壁はなく蒸気エンジンの燃料である石炭置場であったようです。
 
 これで見学コースの北半分が終わり、最初の正門まで戻ってから南半分の見学コースへと移る。今だから問題にならないが、世界遺産に登録され大勢の観光客が来るようになったら戻らずに回れる通路が必要かも・・・・。
【検査人館(重文)】  
 生糸の検査を担当した仏人男性技術者の住居として明治6年に建設された。
 2階には皇族や政府役人が訪れた際に使われた「貴賓室」が当時の形で保存されている。
 
 現在は事務所として使用され、正門側に「発券所」が設けられている。私のカーナビは「富岡製糸場」でなく「片倉工業」になっている。平成17年に富岡市に建造物一切を寄贈、翌年に土地の売買契約が締結された。(納得)
  【女工館(重文)】
 日本人工女に糸取器機の操作を教える仏人女性指導員の住居として「検査人館」と同時に建設された。
 明治維新から6年、外国人指導者には随分と待遇がいい。私のサラリーマン時代とは大違いだ。
 
 私は平成2年に脱サラをしている。当時は事業部主導の海外シフトの体制構築途上だった。本社から事業部に異動し、その責任者として発展途上国への海外シフトの戦略立案と行使を担当したが「この思想」は皆無だった。
 当時の工女の日常を記した「富岡日記」・・・・その回想録の著者である横田(和田)英女史は信州松代の出身、近いうちに読んでおきたい。
【診療所/病室】  
 現在の「診療所」は3代目で昭和15年(1940年)に建築された。
 創業当時は「病院」といわれ仏人医師が治療にあたっていた。
 官営~片倉まで治療費・薬代は工場負担と厚生面での充実さが伺える。
 
 「あゝ野麦峠」(ある製糸工女哀史)・・・・山本茂実著ノンフィクション文学も併せて読んでおきたい。野麦峠(工女政井みね之碑)には2009年8月16日に行っている。
  【繰糸場(重文)/内部】
 「繰糸場」は、繭から生糸をとる作業が行われた場所、創業当初は仏式繰糸器が300釜設置され世界最大規模の工場だった。
 明治5年建築、長さ140m・幅12m・高さ12m強。
 
 明治5年から操業停止の昭和62年まで115年にわたって一貫して生糸生産が行われた。現在は昭和40年以降に設置された自動繰糸機が並んでいる。
【繰糸機/天井】  
 建物には「トラス構造」という小屋組みが使われている。
 さらに採光のため多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの「越屋根」が取り付けられている。
 
 全国から採用された工女たちは、富岡製糸場で器械製糸の技術を学び後に地元の工場で指導者になることで器械製糸技術の普及と日本の近代産業の発展に大きく貢献したと伝えられている。
 製糸場史;①官営製糸場設立決議(1870/2)②主要建物完成(1872/7)③操業開始(1872/10)④三井家に払下(1893/10)⑤原合名会社に譲渡(1902/9)⑥片倉製糸紡績株式会社に経営委任(1938/7)⑦操業停止(1987/3)
  【ブリュナ館(重文)】
 創業当初に建てられた仏人指導者ポール・ブリュナが2年間という短期間だが家族と暮らした住居、建坪320坪の高級社宅です。
 後に工女のために読み書きや和裁を教える夜学校として利用、企業内教育の先駆けになりました。
 
 内部の見学は出来ないが説明書きによると、建物は木骨煉瓦造(繭倉庫と同じ)、高床で回廊風のベランダをもつ風通しの良い解放感あるつくり。床下には煉瓦造りの地下室が残っているとか・・・・。
【寄宿舎】  
 立派な建物だが、パンフレットには「寄宿舎」と書かれているだけ。
 後に大幅改造が加えられた「工女の夜学校」かも知れない。
 片倉時代には「片倉富岡高等学園の校舎」、近代では「講堂」とか・・・・それなら理解出来る。
 鏑川の崖までは空地になっている。明治初期は土地代も安かったのだろう。官営ということもあり巨額を投じた建設事案だったことに違いない。世界遺産としてのドレスアップにも100億円が費やされるとか。
  【寄宿舎】
 学校の校舎のような二階建ての「寄宿舎」が2棟並んでいる。
 「寄宿舎」の右手後方(木陰)の建物は「揚返場」(生糸を小枠から大枠に揚げ返して品質を統一する工場)らしい。
 
 見学は13時45分から14時50分までの1時間だったが撮影に飛び回りもっと短く感じた。見学を終える頃、天気予報通り空が茶暗くなり強い風が吹き小粒の雨が降ってきた。