草加宿 「奥の細道」足慣らし編
 2015.02.20(金)-21(土) 晴
 1月の「深川界隈」「千住宿」に続き、「奥の細道」足慣らし編と位置づけた「草加宿」の探索と翌早朝に顧問先近くの多賀城にある歌枕「野田の玉川」「末の松山」「興井」(沖の井/沖の石)を加えた。先月より30分ほど夜明けが早くなっているものの懐中電灯持参での旅立ちになった。
 「草加宿」だけなので先月より4時間遅らせ佐久平駅発9時20分の高速バスに乗った。
 関越自動車道を降り新宿までの一般道を走るので30~40分遅は毎度のことだ。
 ロスタイムを除くべく練馬で下車し地下鉄で目的地に向かった。
 
 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)松原団地駅で下車し「草加松原遊歩道」に向かう。
 すぐに「百代橋」が見えてくる。橋の下を潜り綾瀬川左岸より撮影し川越しに松並木を眺め北端部で右岸に渡り戻る予定のコースを辿った。(時間と天候で判断する二次案)
 
 このコースを選んだ場合は「芭蕉・曾良壁画」(旅姿を描いた絵タイル)を撮影するのが目的だ。オプション故、下調べも不十分だった。
 探し回れど、通行人に尋ねるも分からなく諦めた。
 これより「草加松原遊歩道」を南下し草加駅まで行く。
 
 「水輪」は中川・綾瀬川流域の治水事業の記念モニュメント。夏になると噴水から水が流れ落ち水遊びが出来る浅瀬公園も造られている。この場所が「草加松原遊歩道」の北端部にあたる。
 「奥の細道」では「日光杉並木」や「羽黒山杉並木」を見てきたが、スケールの大きい「草加松並木」は別の美しさを感じた。
 遊歩道は石道と土道とがバランスよく並行し松並木とも調和がとれ美しい。(江戸時代から千本松原として日光街道の名所であった)
 
 「水原秋桜子」の句碑「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」。昭和初期、医師である水原豊(医学博士)は春日部の安孫子医院の診療医として勤務、その通勤途上で四季の変化を4句詠んでいる。
 
 時折、散歩する同年代の御夫婦とすれ違う。散歩道としては素晴らしい環境だ。このところ、行先折々で日本語以外の声が飛び交うという忙しい旅の未知草、静寂に包まれた松原遊歩道で久しく忘れていた安らぎを感じた。
 
 「松尾芭蕉文学碑」、脇に現代文の「文学碑」があった。碑文は「草加」での「ことし元禄二とせにや・・・・」(西村本より)の全文が刻まれている。出立したばかりの草加では詠んでいないので「句碑」はない。
 最初の「百代橋」に30分で戻った。「奥の細道」の序文にある「月日は百代の過客にして・・・・」から採った名前(公募)。「百代=永遠」の意から「草加松原」を末永く後世に引き継ぐという決意で付けられたようだ。
 
 3枚の写真は、いずれも北側から撮影したものである。この先にも同じような「矢立橋」がある。それなのに、ここではいろんな角度で何枚も撮影した。(結果的に大正解・・・・矢立橋が工事中であることは知らなかった)
 
 百代橋の頂点から行く手である南方向を撮影したものである。背丈がある被写体を多く撮るので、いつもよりは縦置き撮影が多い。10-20mm大口径もバックに入れたが重くなったので止めた。
 
 橋上からの写真は振り返って見た北方向である。最初に目星を付けておいた百代橋の桁下にある「日本の道百せん日光街道草加松原」の石柱を撮りに回り込んだ。
 後で散歩中の方から、スカイツリーに合せ634本(平成25年11月)になるよう植え増したようだ。なお、遊歩道は昭和60年から「埼玉シンボルロード整備計画」で造られた。
 平成26年3月18日、「草加松原」は、草加の名所から国の名勝へと指定変更。地元は盛り上がっていた。
 「百代橋」も衣替えし綺麗になっていました。これより先、その様子が随所から感じ取ることが出来ました。
 
 現代版「歌枕」・・・・名勝「おくのほそ道の風景地」なるものが続々と指定されている。今回の「旅の未知草」は偶然にも重なっている。→「草加松原」「末の松山」「興井」(沖の石)他・・・・10県13ヶ所
 
 奥の細道国際シンポジウム「ドナルド・キーン記念植樹」。竹柵で囲まれた石碑には、「奥の細道」(序文)が刻まれていた。(松尾芭蕉文学碑と重複する・・・・他に工夫は無かったのかな)
 遊歩道「ハープ橋」近くで何やら工事をしていた。覗き込んで見ると「奥の細道行程図」らしい。3月8日に除幕式が行われるとか・・・・。
 行程図は石碑の前に水平に取り付けられるようだ。石碑面には何がはめ込まれるか不明だが・・・・先陣を切って「取材」出来た。
 
 近年に設置される句碑や文学碑は鏡面磨きされたものを多く見掛ける。写真に撮る者からみれば「風格に欠ける」と思えてならない。これらは写真に撮るものではなく見て眺めるものらしい。
 「矢立橋」に近づいた。「ヤャ、ヤャ・・・・何だこりゃ」・・・・工事中のため立入禁止、フェンスで囲まれている。「百代橋」と異なり「参勤交代」の絵タイルが施されているとか・・・・楽しみにしていただけにガッカリだ。
 
 枝振りの良い松との調和が美しい。「千住矢立初め」から採った橋名、「百代橋」同様に架空の橋、河川に架かる橋ではなく横断陸橋だ。
 日本の道百選「日光街道」の石碑は埼玉県の形にした石碑に刻まれていた。
 高浜虚子(明治・昭和初期の俳人・小説家)の句碑は、「巡礼や 草加あたりを 帰る雁」を刻んだもの。
 「草加宿は通り過ぎる宿場」(曾良日記)への当て付けか・・・・。
 
 
 「芭蕉・曽良の句碑めぐり」も回を重ねるにつれ、句碑が無くても「ゆかりの地」に引き寄せられる。芭蕉が旅をする。曾良も旅をする。その気持ちが少しづつ分かっていくように思える。人生は旅の未知草だと・・・・。
 
 札場河岸(ふだばかし)公園の入口に、「芭蕉見返り像」がある。千住旅立ちの姿を現したものであろう。「百代橋」「矢立橋」と同様、名勝「おくのほそ道の風景地」への指定変えに伴う整備事業の一貫であろう。
 「札場河岸公園」は、「草加松原遊歩道」の南端にある。その「草加松原遊歩道」は、1,500m程なので往復しても45分程度と散歩コースには丁度よい。往復する片道を綾瀬川左岸を歩いても面白い。
 紅梅が咲く傍らに正岡子規の句碑があった。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで」が刻まれている。
 高浜虚子の句と同じく「草加」という地名を組み込まれた句を選んで建てたのだろう。
 そんなことを考えると一味違った句碑めぐりになるかも・・・・。
 
 五角形の「望楼」に登ってみたが、周囲の木の枝が邪魔になり眺めは「百代橋」の方が格段に良かった。公園整備事業費が約1億5千万円とか・・・・綾瀬川の汚染対策に1票投じたい。
 「札場」は、かつての水運事業者の屋号とか・・・・。綾瀬川の物流拠点であったようだ。
 明治中期の煉瓦造りの水門跡「甚左衛門堰」は県指定文化財。かつては県下で有数の煉瓦生産地帯(焼過煉瓦から赤煉瓦への移行期)であったようだ。
 
 綾瀬川(桶川市の田園地帯に源を発する)は利根川水系中川(羽生市街地に源を発する)の支流、江戸時代には大雨のたびに川筋が変わることから「あやし川」と呼ばれていた。
 
 綾瀬川域から市街地に入った交差点脇に「曾良像」がある。逆光だが、この角度が最も良い。「師匠、お待ちください」と手を挙げているような姿だ。そして、先に見た芭蕉像は見返りの像、見送りの弟子に「止まらぬ泪」を見せまいと曾良より先に行く・・・・芭蕉らしい。両者の微妙の距離が面白い。
 
 交差点を挟み曾良像の反対側に「草加煎餅発祥の地」碑がある。隣りに「芭蕉 奥の細道 紀行三百年記念碑」があった。
 遅い昼食を曾良像近くの紅虎餃子房で済ませた。
 神明神社の先に「草加宿神明庵」という無料休憩所があった。江戸末期の建物で、飲食店を営んでいた久野家の店舗部分を市が無償で借り入れ観光案内所としているものだ。
 
 休憩所でお茶を出して頂きいろいろとお話をした。その中で「壁画」を捜したが分からなく諦めたと話すと、折角なので是非行ってみてくださいと薦められ振りだしに戻った。タイル絵の壁画は3枚です。→「壁画①」「壁画②」「壁画③」。「松原団地駅」より「新田駅」のが便利と教えられ、そこから東京駅に戻った。
2月21日 夜明け 宮城県多賀城市;「野田の玉川」「末の松山」「興井」(沖の井/沖の石)
 東京駅八重洲口から23:40発の夜行バス、仙台駅前着4:57、仙石線始発5:12、下馬着5:37。
 日の出時刻は6:22、辺りは真っ暗だが外灯たよりに「野田の玉川」整備地区の最上流部に向かう。
 念のため懐中電灯を持参したが使うことも無かった。
 
 「野田の玉川」散策のスタート地点は平成9年に廃線になった日本貨物鉄道塩釜線の煉瓦造りの橋梁部。真っ暗だったが手振れを抑え何とか撮影、時間帯を想定し28-75mm、1:2.8の大口径レンズに交換済だ。(5:57)
 治水事業として平成元年~3年に整備された。8月の「行燈流し」は是非見たいものだ。整備地区には上流より「天神橋」「野田橋」「せせらぎ橋」「清水橋」「おもわく橋」と続き、この間は橋元から川床に降りられる。
 「天神橋」の下からの写真(大)と橋上からの写真(小)、いずれも下流方向を撮影している。
 「野田の玉川」は、塩釜市小日向から多賀城市内を流れ砂押川に注ぐ小川である。
 古くから歌枕で知られる日本六玉川の一つ。
 
 平安中期、歌人「能因」が「ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり」と詠んだことに由来する。芭蕉・曾良も「奥の細道」旅中、仙台から松島に向かう途中で訪ねている。
 画像処理をしているので明るいが日の出時刻には20分もある。
 大きい写真は川下方向、小さい写真は川上方向を撮影したものだ。
 歌枕として詠まれた時代は高台から流れ下る千鳥が集まる小川だったろう。それに比べ現代は整備された今様の歌枕か・・・・。(6:05)
 
 台風等の大雨時には、都市化された住宅街から集まる雨水で増水するだろうが・・・・どの程度か気になる。溢れることはないだろうが半分近くまでの増水でも肝を冷やす。
 橋の袂に石段が築かれ川床に降りることが出来る。
 川床を歩き対岸にも渡れるよう踏石が随所に設けられている。
 この写真は「野田橋」付近、玉川両脇の小路は一方通行ではないが歩道だけの場所もある。
 
 多賀城は奈良・平安時代に陸奥国の国府がおかれたところ、古代東北の政治・軍事の中心として役割を果たした。そんな「国府多賀城」のお膝元ゆえ「歌枕」にされたのだろう。
 整備地区で、このような川床になっているのは「煉瓦造りの鉄道橋梁跡」から「おもわく橋」までの650m区間であり、「おもわく橋」より下流は川幅全体に水がある。
 木製の「せせらぎ橋」辺りから生活排水が流れ込む溝が設けられている。悪臭を感じなかったが水そのものは澄んでいなかった。
 川床にはゴミ一つなく、かなりの頻度で清掃していると思われる。我が家の近くの市道に比べ恥ずかしくなるほど綺麗だ。
 
 部分的に残雪があるかと思ったが全くなく凍結もしていなかった。夜明け前の薄明かりで暗い写真になったが思いの外の結果で満足だ。
 探索予定の「おもわく橋」に着いたのは6時15分、日の出直前だ。
 ここで初めて散歩をする人に出会った。予定より20分早い、この分だと「末の松山」「沖の石」にも行けそうだ。足元が明るくなるのが遅かったら会議後の帰路に回しても可とする押さえの計画も立てていた。
 
 小さい写真が「おもわく橋」より下流の様子である。大きい写真は橋上から上流方向を撮影したものだ。欄干の説明版と河川工事の記念碑を撮り広い道で多賀城駅に向かった。
 欄干に「野田の玉川」と「おもわくの橋」について説明されていた。両画像、クリックで拡大画像としてご覧ください。
 夜行バスの中で、状況によっては「野田の玉川」は省略してもいいかなと思ったが、予定通り決行して良かったと思う。
 
 ここから多賀城駅まで15分弱、ようやく地平線近くの雲上に太陽が現れた。「末の松山」までは10分程度、十分に行って来れる距離だ。
 時間に余裕があったことで油断してしまい「寶國寺」を大きく迂回し反対側の住宅街から辿り着いた。朝日に照らされた「末の松山」と逆光をもろに受けた「末の松山」を撮影した。
 左側の画像をクリックすると「末の松山」の歌碑を拡大して見れます。→「きみをおきて あだし心を わが持たば 末の松山 浪もこえなむ」(古今和歌集)
 「末の松山」から数分下った所に「興井」(おきのい)/「沖の井」「沖の石」がある。
 これは「池沼」の一つ。運び込んで造った島ではない。
 「末の松山」と同時に、名勝「おくのほそ道の風景地」として平成26年10月6日に指定された。
 
  窪地かつ家の陰になり露出不足かつハイコントラストの写真になってしまった。大口径レンズでは「末の松山」を捉えきれなく18-250mmレンズに交換していた。「興井」は狭い範囲ゆえ18mmでも全体をとらえることが出来なかった。