芭蕉の思い (宮城県名取市) 笠島リベンジ
2016.07.16 (土) 曇
 今回の仙台出張は妻の予定と重なり、年老いた「みみ爺」(愛猫)に留守を頼むわけにいかず、旅の未知草は無しということで15日23時少し前に出て翌16日の午前中の営業会議と午後の役員会議で役目を果たし15時過ぎに帰路に着く。仙台南ICから西那須野塩原ICまで東北道を走り、矢板から日光・足尾経由の通常ルートで22時半に帰宅、一睡もしないで847kmを走破した。
 そう言っておきながら、鞄の中に密かに「TG-4」を忍ばせていた。5時半過ぎに、「道祖神路道標」(名取市)に着いたので「句碑」面の確認と、芭蕉・曽良が断念した「笠島道祖神社・実方中将軍朝臣の墓」を再訪した。
 【道祖神路の芭蕉句碑】宮城県名取市
道祖神路道標(正面)  左側の句碑面を撮影  句碑面を覗き撮る 
 実は過去に何度も撮影しているが、句碑面の確認かつ撮影は何故か行っていなかった。句碑01「笠島はいづこ皐月のぬかり道」(かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)、元禄2年5月4日「奥の細道」旅中「笠島」で詠まれた。いつか確認・撮影をしなきゃと思ってはいたが、時間的余裕がなく今回まで果たせていなかった。ほんの少しでいいから句碑面全体が見れるよう垣根の刈り込みをして欲しいと思った。「TG-4」で3枚の接写撮り、何とか2枚で雰囲気撮りが出来たかな。(4枚、それぞれ画像クリッリで拡大)
 芭蕉と曽良は、奥羽街道を「岩沼宿」-「増田宿」-「中田宿」-「仙台宿」と北上する。「岩沼宿」と「増田宿」の間「4:6」、岩沼寄りの旧奥羽街道の路傍に「道祖神路道標」がある。「道祖神路道標」の右・北面(仙台側)には「道祖神社や中将藤原実方の由来・建立の主旨や仙台城下への距離等、左・南面には「笠島はいづこ皐月のぬかり道 はせを」と刻まれている。
 岩沼で「櫻より松は二木を三月越シ」と詠み、「道祖神路」の場所まで来て「笠島はいづこ皐月のぬかり道」と詠み、「ぬかり道」だからと仙台に向かわず岩沼泊・・・・これについて、「道を迷った」「名所にあらず」「演出」等々の説がある。私は、碑撮り旅を重ね芭蕉という人と成りについて(おぼろげなりに)描いてきた。芭蕉翁は、実方の墓参りをせずに仙台に向かったとなれば「笠島は」の句は何だったのか?・・・・芭蕉と人と成りを知れば「礼節」であることぐらい容易に分かる。脚色が多過ぎるという考えは「紀行書」と決めつけているからであろう。
 【佐倍乃神社(さえの)/笠島道祖神社】宮城県名取市
 「道祖神路道標」「道祖神社」、いずれも「勝手知ったる地」・・・・この近くで泊まり込みの「合宿訓練」をしたことがある。その合宿には妻もアシスタントとして加わった。早いもので、その合宿訓練から14年も経つ、懐かしく「どうということもない風景」だがパノラマ風にトリミングした。明治初期に「道祖神社」から「佐倍乃神社」に名称変更した。
 
 「道祖神社」の標柱を左折、細道の先に境内駐車場がある。一旦、車を止め南側に回り込み参道上部の「鳥居」(小画像上)を潜り「神門」(小画像下)を抜けると正面に「社殿」がある。「神門」右側は舞台になっていた。
 「道祖神路道標」から「道祖神社」まで直線距離で3.2km程度、一里もないのに芭蕉は何故取り止めたのだろうか・・・・松島から古川経由で一関に行くつもりが、迷ったと言えども「尋ねれば」分かるのに1/4も遠回りの石巻経由を引き返すこともせず進んだ訳が疑問・・・・。
 「奥の細道(石の巻)」 十二日、いよいよ平泉を目指して進んでいく。あねはの松・緒だえの橋など歌枕の地があると聞いていたので、人通りもとぼしい獣道を、不案内な中進んでいくが、とうとう道を間違って石巻という港に出てしまった。大伴家持が「こがね花咲」と詠んで聖武天皇に献上した金花山が海上に見える。数百の廻船(人や荷物を運ぶ商業船)が入り江に集まり、人家がひしめくように建っており、炊事する竈の煙がさかんに立ち上っている。思いかけずこういう所に来たものだなあと、宿を借りようとしたが、まったく借りられない。ようやく貧しげな小家に泊めてもらい、翌朝またハッキリしない道を迷いつつ進んだ。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱原など歌枕の地が近くにあるらしいが所在がわからず、よそ目に見るだけで、どこまでも続く川の堤を進んでいく。どこまで長いか不安になるような長沼という沼沿いに進み、戸伊摩というところで一泊して、平泉に到着した。その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。
 「佐倍乃神社」(さえのじんじゃ)は、別称「笠島道祖神社」という。「道祖神社」として創建されたのは景行天皇40年(110年)と古く、明治時代初期に「佐倍乃神社」へ改名された。「正一位」(しょういちい)という神階の最高位を授与されたのは享保17年(1733年)、芭蕉が「奥の細道」行脚は元禄2年(1689年)。芭蕉が行きたかった「実方中将の墓」は「道祖神社」より更に直線距離で北へ1km強行ったところ。
 「奥の細道」に関する既述を探すと「神門」と「本殿」の間、左手に「由緒」(下画像)があった。最初に「奥の細道」について書かれていた。句02「奥の細道」行脚の時、「笠島はいずこ五月のぬかり道」(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)と詠んだ句にある名取市愛島笠島に鎮座している神社で・・・・。(拡大画像
 そして、由緒の最後に「藤原実方中将朝臣が、・・・・当社の前を通過した途端落馬し、一命を落した・・・・」との記述があった。(拡大画像)・・・・ぬかり道、足を滑らし怪我でもしたらと芭蕉は大事をとったのかな?
 
 【芭蕉句碑】宮城県名取市
 「(藤原)実方中将の墓」の入口に平成元年建立(300年記念)の芭蕉句碑がある。句碑03「笠嶋はいづこ皐月乃ぬかり道」(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)。小画像下は、西行の歌碑で詠われている「かたみのすすき」で、句碑の後方にある。
  【藤原実方朝臣の墓(実方塚)】宮城県名取市
 
 藤原実方朝臣は、摂関家の流れをくむ由緒ある家柄に生まれ、平安時代の中頃(990年頃)花山・一条天皇に仕えた公家で「中古三十六歌仙」の一人に数えられ、美しい容姿をそなえた貴公子として知られている。
 特に和歌の才能に優れていたが、殿上の三蹟の一人に挙げられる藤原行成とのいざこざで、一条天皇より「歌枕を見て参れ」と陸奥国守に左遷され陸奥の地に下った。
 藤原実方が出羽国阿古屋の松(山形市の南西にある千歳山の名木)を訪ねた帰り、佐具叡神社(道祖神社の本殿左)前を通る際に、村人より「霊験あらたかな神様なので馬から下りて通るように」と言われたが、それを無視し馬に乗りながら過ぎようとしたため神罰が下って落馬、その怪我がもとでこの地で亡くなったと伝えられている。
佐具叡神社(道祖神社境内) 西行歌碑 実方歌碑
 西行歌碑「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて 枯野の薄 形見にぞ見る」、実方歌碑「桜刈り 雨はふりきぬ おなじくは 濡るとも花の 陰に隠れむ」。→説明版