-細道を訪ね描くや古希の旅-
幻想の旅 奥の細道“石の巻”描き
(宮城県)
2017.04.014(金) 晴
 「奥の細道“石の巻”」は、「碑撮り旅/スケッチ旅」とは別に「被災地7年目の春」を見てみたいという思いもあり楽しみにしていた。仙台の日出時刻は53分、日没は1812分、最初の地点は顧問先からそう離れていないので出張途中の道草ではない。未知草始めの前に400km以上走らなくてはならない。家を21時前に出た。17年住んでいた最後の場所である藤浪(岩沼市奥州街道と陸前浜街道の分岐点)を通過したのは4時少し前、出張先の顧問先脇(仙塩街道)を通過し「浮島」(多賀城市)に着いたのは446分、朝食を済ませ撮影開始、ほぼ走り通しなので予定より約1時間早いスタートになった。
奥の細道“石の巻”前編
 十二日、平泉と志し、姉歯の松・緒絶えの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉莵芻蕘(ちとすうじょう/猟師や木こり、草刈りなどの人々)の行きかふ道そことも分かず、つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ。(石の巻の章段)・・・・「道踏みたがへて石の巻」とあるが、実は「予定のコースである」。「高城宿」を立ち、直進すれば「緒絶えの橋」(古川)、右に曲がれば「石巻・金華山道」だ。当時の古川古道は確かに「雉莵芻蕘」であったかも知れない。「奥の細道」以降、そう経たなく街道整備がなされている。
 「浮島」(浮島神社);多賀城市・・・・「おくのほそ道」には記載なし。
 
 八日 朝之内小雨ス。巳ノ剋ゟ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ剋、塩竈ニ着。湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハく二の橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竈ノかまを見ル。宿、治兵へ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。(曽良旅日記より抜粋)。右画像は「明治天皇歌碑」である。
 1時間も早いスタート、「予定外の2ヶ所」を急遽割り込ませる。それは「多賀城碑」(壺の碑)と「野田の玉川の碑」である。
 「多賀城碑」(壺碑/つぼのいしぶみ);多賀城市
 
 すぐ近くの「多賀城碑」、日出時刻から15分後の到着。小山の上にある「多賀城」を照らす朝日がつくる影が静けさを醸し出している。北側から撮影、碑表は西向きである。史跡は「多賀城碑」、歌枕として「壺碑」と呼ぶ。撮影は、晴れた日の明け方が・・・・やはり絵になる。「早起きは三文の徳」・・・・一日の内、一回だけ、それも数分となれば目標設定は狙い撃ち。(計画段階での特等席は「扇谷」だった・・・・実際にこの後に行き、どう思えるか?)
 ←多賀城碑
 書道史「日本三古碑」の一つ。「多賀城碑」(宮城県多賀城市)、「多胡碑」(群馬県高崎市)、「那須国造碑」(栃木県大田原市)、「宇治橋断碑」(京都府宇治市)。「多賀城碑」は、陸奥国(陸前国)令制、西暦
762年建立、11140字。

           芭蕉句碑→
 句碑
01、「あやめ草足にむすばん草鞋の緒」(あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)、元禄254-8日「奥の細道」旅中「仙台」での作。
多賀城碑の碑表   芭蕉句碑
 「野田の玉川の碑」;塩釜市 能因法師の歌碑
 
 「野田の玉川の碑」は能因法師の歌碑「ゆうされば しほ風にして みちのくの のだの玉河 千鳥なくなり」。「野田の玉川」は、信州の方言で言う「せんげ」(用水路、小川)だが「歌枕」になると「河」という字までも使われる。「野田の玉川の水源地」は・・・・ネットで調べてもヒットしないのでグーグルマップで見ると「加瀬沼」かと思われるが・・・・説明文
 「八幡神社」;利府町
 
 芭蕉句碑02、「やすやすと出でていざよふ月の雲」(やすやすと いでていざよう つきのくも)、元禄4816日、義仲寺における十五夜の月見の翌夜堅田で十六夜の月(堅田十六夜の弁)を詠んだ句。
 「扇谷」(幽観);松島町 「松島四大観」の一つ
 
 計画段階で、「扇谷の日出」は松島随一であることを知っていた。諸条件を鑑みスタートポイントにすることは出来なかった。さて、これで良かったのか現地での確認を念頭に「幽観」の眺めを堪能した。
松島四大観;扇谷からの“幽観”
松島四大観;扇谷の海岸近くの双観山からの“幽観”
石斛の花に惹かれし瑞巌寺(松島)21.2017.sum
 松島湾の島々に咲いていた和蘭の一種「セッコク」は乱獲により絶滅の危機にあった、瑞巌寺の杉の木に着生していたセッコクから原株を採取し「愛・らんど松島」で増殖に成功。「石斛の花」は松島町の花、仲夏の季語。
 瑞巌寺界隈;松島町
 旅立ち前から「あさよさを誰まつしまぞ片ごゝろ」と詠んだ地、面白味に欠ける紀行になってしまった。
 「五大堂」(瑞巌寺)は、伊達正宗公が造営した東北地方最古の桃山建築で国指定重要文化財である。
放生池(瑞巌寺) 参道をはさみ宝物館の反対側

文学碑03 芭蕉翁奥の細道松島の文碑(右拡大) 側面(向って右)

背面 側面(向って左)  芭蕉碑(芭蕉祭俳句大会記念碑)
円通院 観瀾亭 比翼塚(紅蓮尼) 
 「紅蓮尼」・・・・何処かで耳にした名前だと思ったら、「象潟」だった。
 松島の街並みの後方高台に「新富山展望台」がある。「松島四大観」並みの眺望だ。
 高城宿(石巻街道);松島町 日本橋より百里目の一里塚
 「新富山の麓を通る松島宿の旧道」(名残りは?)を抜けた芭蕉・曽良は、一歩(一尺≒30cm)進むたびに景観が変る「見返りの松島」に後ろ魅髪を引かれたことだろう。
 そして石巻街道「高城宿」を抜け「迷い道」という虚構の旅を、ここ「一里塚」(日本橋より百里目)の前を通り抜けたのだった。
 今回は「松島四大観」のうち、「多聞山からの偉観」と「大高森からの壮観」は立ち寄れない。芭蕉・曽良の時代は知られていなかったので通り道でも寄れなかったわけだ。(お気の毒)
 「富山」(麗観)/大仰寺;松島町 「松島四大観」の一つ
 
 「富山」(大仰寺)までは270余りの石段を登る。まだ8時半前、朝食を済ませてから4時間ほど経っている。結構きつい参道だ。今回で3度目になろうか?
 「奥松島パークライン」は、宮城在住時に野蒜と矢本に顧問先があったので4往復/月以上走っていた。この先の「東名運河」(貞山堀運河の一部)周辺は甚大な津波被害を受けている。
松島四大観;富山からの“麗観”
 「富山観音堂」の展望台でパノラマ撮影をしていると、目線よりわずか上空を「ブルーインパルス」が発煙をひき通過した。近くの松島基地から飛来したのであろう。
 小野の追分(道標);東松島市
 
 石巻街道と気仙道の分岐点、石巻街道は画像手前から左手方向へ、気仙道は右手へと別れて行く。
 野蒜築港跡;東松島市
 津波で全て流された成瀬川左岸河口(北上運河/貞山堀運河)、ナビ設定出来ても工事車両が踏み固めた管理路、手探り状態で行き着いた場所が「石上神社跡」、そこから徒歩で堤防上(北上運河)まで行ってみた。対岸の「橋脚跡」が残っていた。その対岸に「野蒜築港跡」(黒澤敬徳の碑と石ローラー)が確認出来た。途中まで「野蒜築港跡」の案内板があったが、肝心なところで消えてしまい迷う恐れがあるので取り止めた。
 
 
 この後、松島基地の前を通り「矢本海浜緑地」にある新興住宅地の復旧状況を見たく立ち寄るも、居住不可地域に指定されたのだろうか、過去に撮影した場所が何処か分らないほどの更地になっていた。

 金華山道碑;石巻市

 山道と岬回りで入り組んでいることから「近くて遠い道」と呼ばれた金華山参詣の「金華山道」(金華山道・表浜道路)で、「石巻-小積峠-山鳥-(船)-金華山」まで、その石巻起点を示す「金華山道碑」である。
 
 日和山公園(日和山人樹);石巻市
 「十二日、・・・・“こがね花咲く”とよみて奉りたる金華山①、海上に見渡し、数百の廻船入江②につどひ、人家をあらそひて③、竃の煙立ち続けたり。思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家④に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り⑤・尾ぶちの牧⑥・真野の萱原⑦などよそ目に見て、遥かなる堤⑧を行く。心細き長沼⑨に添うて、戸伊摩⑩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。(おくのほそ道“石の巻”の段より)
 
 鳥居から門脇町に下る石段の参道から「石巻湾」②を見渡した。「津波で流された街」③が消えたまま。左画像の北上川河口に架かる日和大橋の彼方に牡鹿半島が見える。半島の山に隠れ「金華山」①を見ることは出来ない。

北上川の中瀬地区にある石ノ森漫画館の先に「袖の渡し」⑤が見える 北上川左岸の丘陵が⑥⑦
 
 芭蕉句碑04、「雲折々人をやすむる月見哉」(くもおりおり ひとをやすめる つきみかな)、貞享2年の作。
 四兵へ(石巻での宿);石巻市
 (おくのほそ道“石の巻”の段より)「・・・・やうやうまどしき小家④に一夜を明かして、・・・・」、⇔「十日 快晴。松嶋立。馬次、高城村、小野、石巻。仙台ゟ十三里余。小野ト石ノ間、矢本新田ト云町ニ而咽乾、家毎ニ湯乞共不与。通行人、年十七八、此躰を憐テ、知人ノ方へ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町四兵へ⑪と尋、宿可借之由云テ去ル。(曽良随行日記より)・・・・その宿「四兵へ」があった場所。
奥の細道“石の巻”後編
 (中略)思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし(前述の曽良随行日記参照/四兵という宿あり)。やうやうまどしき小家に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道迷ひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添うて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。(石の巻の章段)
 袖の渡り(⑤);石巻市
 
 頼朝に追われ逃亡していた義経が、石巻で北上川を渡る時に無一文なので袖の一部を切り取って船賃代わりに渡したことから「袖の渡し」と言われるようになった。東日本大震災の津波で被災、6年経つも・・・・修復は?

 石井閘門(いしいこうもん);石巻市
 
 「北上運河」は、「成瀬川河口」(野蒜築港)と「旧北上川」(石井閘門)を結ぶ運河で、「阿武隈川」(貞山運河)と「塩釜湾」そして「成瀬川」(東名運河)とを結ぶ巨大運河である。
 「貞山運河」は、宮城在住時から全域に渡り略見てはいるが撮影はしていなかった。「東日本大震災」で、景観が残っているのはほんのわずかだ。

 八雲神社;石巻市
 
 芭蕉句碑05、「川上とこの川下や月の友」(かわかみと このかわしもや つきのとも)、貞享3年の作。

 句碑の脇の石段を上がると北上川の土手上になる。水を湛えゆっくりと流れている。
 旧北上川に架かる「天王橋」、かつては「天王渡し」があった。

 

 
 この後、天王橋を渡り右折し、⑨「長沼」(追波川)を見る予定であったが復旧工事中のため通行止、止む無く国道45号(一関街道)に戻り新北上川右岸を走り雄勝に向かった。

 
 追波湾の湾奥部を襲った津波被災地(新北上大橋/旧釜谷大橋);石巻市
 北上川右岸堤を走る県道30号、国道398号に合流(新北上大橋)し雄勝へと向かう。その場所が見えてきた。その交差点の先に「大川小学校跡地」(津波被災地)がある。
 約10km に及ぶ「北上川ヨシ原」(石巻市北上町)は対岸(左岸)であり雄勝からの帰りに回ろうと思う。
 
 校庭跡地の山際に献花台のようなものが見える。この時も、数台の乗用車が着き工程奥へと向かって行った。周囲は住宅街であったと思うが、小学校跡を残し全て更地になっていた。
廃校に花菜供えし那為の痕(北上川)22.2017.spr
 「東日本大震災」で起きた「巨大津波の激甚被災地」のひとつ、ここ「大川小学校」では児童74名・教職員10名が犠牲になった。「那為の痕」(地震の傷痕)、「花菜」(はなな;晩春)
 雄勝;石巻市
 「雄勝硯伝統産業会館」は、この左手にあった。今は建造物が取り壊され更地になっている。ネットで、「戻らない住民“高台移転”」という記事を目にした。6年を経て「今の雄勝」を自らの目でみたく50分ほど時間を割いた。
 私にとっての「雄勝」の記憶は・・・・
 「浪漫紀行45話 硯上山;ふるさと緑の散歩道」(2001.11.23)と言えばホームページ開設初期の頃なので記憶も薄れてもおかしくない。しかし、記憶はクッキリしている。硯上山の山頂より撮影した16年ほど昔の様子。
 典型的な「リアス式三陸海岸」、黒潮と親潮が交わる豊富な漁場を持つ古くからの漁村が点在している。「雄勝」に限らず全ての「湾岸集落」が津波による甚大被災を被った。
心做しか郷邑映す忘れ潮(雄勝)23.2017.spr
 故郷に帰って来ても、津波で流され迎えてくれる郷邑(きょうゆう)すらない。幼い頃に磯遊びをした浜に出て「忘れ潮」をじっと眺める。幼き頃のメモリアルが・・・・打ち寄せる波の音が亡き家族や友の声として蘇る。「心做し」(こころなしか=気のせい)、「忘れ潮」(潮干潟の子季語;晩春)
 
 「雄勝硯」の工場から流された「原石」をボランティアの人々の手で使えるものは回収されたという。それでも、残された「原石」には無数の貝が張り付いている。震災から6年という歳月、長くも短く感じる時の流れをしみじみと感じた。
 
 「おがつ店こ屋街」で「海鮮丼」を頂き、隣の「雄勝硯店」に立ち寄る。「野がけ硯」をオーダーメイドでお願いしたかったが・・・・何となく無理のようだった。(オリジナル商品提案をしたかったが・・・・)
雄にも勝つ野がけ硯や旅の護符(雄勝)24.2017.spr
 「東日本大震災」で起きた「巨大津波の激甚被災地」のひとつ、ここ「雄勝」は「硯」生産の国内シェア90
を占める。激甚災害を乗り越えての復興・・・・めげずに頑張る姿勢をお守りにしたい。「野がけ」(野遊/のあそび;晩春)、「野がけ硯」(≒矢立硯)
 北上川ヨシ原;石巻市
 北上川に架かる「新北上大橋」から左岸上流方向に約10kmに及ぶ葦の群生地がある。これは「日本の音風景100選に選ばれ「耳を澄ませば、風に揺れる葦が奏でる音と水鳥のオーケストラ」に心がいやされます。「葦」(よし)→「蘆」(あし)、「あし」が「悪し」に通じるので、これを避けて「よし」とも呼ぶ。すなわち「蘆」を「青蘆」(あおあし)として三夏の季語、また「枯蘆」(かれあし)として三冬の季語にもなっている。
 おくの細道の碑(明耕院);登米市
 
 左上画像が「明耕院の黒門」で芭蕉・曽良はこの前の道を右手から左手方向に通過したようだ。国道45号に出た所に「おくの細道の碑」(“石の巻”の段、“四兵へ”に宿し、翌朝からの下り「明くれば・・・・平泉に至る)。
 芭蕉翁一宿之跡(北上川);登米市
 
 「心細き長沼に添うて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉に至る」(おくほそ道“石の巻”の段)→説明板
 みやぎの明治村(かつての城下町に明治時代の建造物が数多く残る);登米市
 
武家屋敷「春蘭亭」(お休み処)   日本唯一の「警察資料館」
 登米町教育資料館(登米高等尋常小学校);登米市
 
「奥の細道一宿の地」(左側面) 「奥の細道一宿の地」(背面) 句碑(松の根元)
 「奥の細道一宿の地」の石柱。左面は「おくの細道文学碑」、地面に「歌枕碑」、背面に句06、「古池や蛙飛こむ水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)、松の根元に句碑07、「古池や蛙飛こむ水の音」がある。
 登米神社;登米市
 句碑08、「降ずとも竹植る日は蓑と笠」(ふらずとも たけううるひは みのとかさ)、貞享5年とする説あるも不詳につき貞享年間の作とする。
 秈荷神社(ぜんかじんじゃ);登米市
 
 国道342号(一関街道)から国道398号(本吉街道)に分れ北上川を渡ると登米市東和町米谷に「秈荷神社」が。句碑09「木のもとは汁も鱠も櫻かな」(きのもとは しるもなますも さくらかな)、元禄3の歌仙発句。
 弥勒寺;登米市
 「弥勒寺」の境内に「板碑」があった(板碑の説明)。駐車場から境内(墓地)に通じる車道の上り口に「芭蕉この道を通る碑」がある。「俳聖芭蕉」ともなれば「通った」というだけで碑になり、長野くんだりから撮影に来る物好き者がいるもんだ・・・・。(芭蕉この道を通る碑の背面その拡大画像 
 姉歯の松;栗原市
 
  姉歯松碑 姉歯の松歌碑
 最終地点の「姉歯の松」、予定時刻は17時、時間正確な旅人ゆえ1653分。土産は、「一ノ蔵」から「ワイン」(赤3本+白3本)に、ホテル到着時の走行距離は713km、帰宅時の総走行距離 1,148kmと走ったものだ。