-古希こえて趣まゝに初門出-
初門出 奥の細道を外れ“鎌倉”へ
2018.01.019(金) 薄曇り
 冬季の「旅の未知草」は、雪道を避け東京回りの公共交通機関利用、ここ数年は「東京下町句碑めぐり」と「奥の細道」(深川・千住・草加・粕壁めぐり)等々であった。いくら何でも「再々紀行」は避けたく思案した結果、・・・・いざ「鎌倉」へという次第に落ち着いた。今月は、「北鎌倉→鎌倉」周辺で「110寺院+1句碑」(境内含めず12km弱という遠足!)、「足腰鍛えて臨むべし」と2大目標を立て事前準備に入った。
 
1/4スタートで1/121日休み)に「事前散歩50km」を達成、1/16に「同距離12km/day13.8km走破」を果たし本番に臨んだ。結果を先に述べよう。徒歩総距離は15kmを越えたと思う。
 鎌倉は見る所が多く、今月と来月の二回に分けることにした。第1回目は「鶴岡八幡宮」(北鎌倉~鎌倉)界隈、第2回目は「高徳院」(鎌倉大仏)界隈に「江の島」まで足を伸ばしたい。今回は「碑撮り旅」でなく、「新年初詠み旅」(参詣地毎に詠む)として臨むつもりだ。
 【北鎌倉駅】
 家を5:00、佐久平5:40→8:27バスタ新宿、1時間の遅延を見込み9:34新宿→10:35北鎌倉着という予定を立てた。流石「碑撮り旅」名人、1時間強遅れのバスタ新宿着、新宿駅同一ホームへの複数乗入線に戸惑い、北鎌倉駅下車は10:427分遅れ)と「離れ業」を発揮してのスタート。撮影画像の時刻で場所特定が100%一致!
 
 「北鎌倉駅」の臨時出口を出ると、そこは「円覚寺」。しかし「北鎌倉駅」のローカルぶりと「円覚寺」境内を横切る「横須賀線踏切」を撮りたく通常口より出て遠回りする。古希を越えたのだから馳せることもあるまい。
古希越て趣まゝに初門出 00.2018 初門出;新年
 【円覚寺】 鎌倉五山第二位の禅寺、「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)の一つ
 県道「山の内道」から「円覚寺」境内にある「白鷺池」石橋を渡ると「横須賀線の踏切」になる。「白鷺池」の石橋を撮り込む価値は見出せなく撮影位置として留めた。踏切の先に「総門」そして「山門」へと進む。
 「円覚寺」は鎌倉独特の谷戸(丘陵地の浸食谷)に沿って建てられ、階段状に配置された仏閣は、より壮大さを醸し出している。鎌倉五山第二位の寺院、鎌倉唯一の国宝「仏舎利」は日本最古の唐様建築(国宝)で、境内は広く紅葉の時期は北鎌倉を代表する秋の景色が広がる。
 
 踏切に沿った狭い道路を渡ると「総門」(右)があり、石段の上は広く「山門」(左)へと続く。
 石段を上ると、堂々とした「山門」の全貌が・・・・。その「三門」は「三解脱」(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払って涅槃・解脱の世界である仏殿に至る門とされている。左画像は左側面からの姿。
 
 「仏殿」は、ご本尊が祀られている建物です。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊、昭和39年(1964)に再建、禅宗様式の七堂伽藍の中心に位置する建物です。右画像は、「ご本尊」と「天井の白龍図」です。
 「鎌倉五山」は、1位が建長寺、2位が円覚寺、3位が寿福寺、4位が浄智寺、5位が浄妙寺と本日拝観する。
 
 左画像は関東で最も大きい「洪鐘」(国宝)で、円覚寺の開基である北条時宗の子(貞時)が正安3年(1301)国家安泰を祈願して寄進。右画像は「選仏場」(仏を選び出す場所という意味)で、修行僧の坐禅道場です。
 「大方丈」は、住職が居住する建物。各種法要・坐禅会・説教会・講演会・秋の宝物風入等に使われている。拝観を終え、「妙香池」や「舎利殿」(国宝)を拝観することなく次へと先を急いでしまった。
枯庭に鎌府栄枯や円覚寺 01.2018 枯庭;三冬「枯園」の子季語
 鎌倉五山第二位の禅寺「円覚寺」、その冬枯れの庭に鎌倉幕府の栄枯盛衰を垣間見るようだ。
 【明月院】 足利三代時代に「禅興寺」(関東十刹の第一位)、明治初年に廃寺、明月院のみ残る
 「円覚寺」より線路沿いの小路を左手へ、丘陵の縁を登って行くと「紫陽花寺」で知られる「明月院」がある。拝観受付門を入ると、左手に「北条時頼公の墓所と廟所」(右画像)がある。遠目に奥へと進む。
 
 「山門」前の参道両側に枯れ紫陽花が・・・・「紫陽花寺」と呼ばれるに相応しく、咲き乱れる様は正に「明月院ブルー」と評される。梅雨の季節が最高・・・・雨降りこそ行くべきお寺さん。
 
 「山門」を抜けると白石が敷き詰められた「枯山水庭園」を有する「方丈」があり、「悟りの窓」の部屋が公開されている。窓越しに見える「後庭園」(ハナショウブと紅葉の季節に特別公開)は通常非公開である。
 「方丈」奥に「開山堂」(右画像)がある。その回りを囲むように鎌倉最大級の「やぐら」があり、上杉慶方の墓と言われる「宝篋印塔」(左画像)が祀られている。
 「明月院ブルー」と名高くも、この季節の「枯れ紫陽花」を笑うが如く拝観者の目を楽しませる「竹林」がある。「木漏れ日」射し込む「竹林小路」は、芭蕉言うが如く正に「松島」(紫陽花)と「象潟」(竹林)のようだ。
枯庭の紫陽花寺や竹笑ふ 02.2018 枯庭;三冬「枯園」の子季語
 
 「竹藪」と「竹林」の差は・・・・。「耳障り」の違い、「藪と林」の違い、「向う」が見えるか見えないか「林と森」の差で随分違う。それも「整え」られると、こうも違う。
 【浄智寺】 鎌倉五山第四位の禅寺、「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)の一つ
 「浄智寺」の「総門」前には池があり石橋(通行禁止)が架かっている。左画像の左端に標柱が立っている。それは「甘露の井」と言われ「鎌倉十井」の一つとして名高い。「鐘楼門」まで続く参道石段(磨り減った鎌倉石が歴史を刻む古刹の佇まいを醸し出している)、その右側にある「大木タチヒガン」(彼岸桜)は見事な美しさで「県指定百選」の一つに指定されている。
 
 「鐘楼門」(2007年再建)は、鎌倉では珍しい唐門、「山居幽勝」(山の住まいはいいところ)の額が飾られ、花頭窓の上層に「梵鐘」(1649年)が二階に吊るされている。鐘楼を兼ねた唐風山門という珍しいもの尽くし。
 「曇華殿」(三体の仏像が鎮座)、右画像は鎌倉第一の巨木「高野槇/コウヤマキ」(市指定天然記念物)。ここまで「枯園」を見て来て、やはり「花の鎌倉」を見ずに鎌倉を語るべからずと再認識した。「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)にも指定されている。
浄智寺の枯庭にみる維新かな 03.2018 枯庭;三冬「枯園」の子季語
 
 茅葺の「客殿」(書院)および庭園が美しい。バタフライガーデン“蝶狂人”の一画を「枯山水」仕立てに造り変えてみたくなった。そんな「白日夢」に疲れを忘れ、散策路の竹林を抜け奥へと足を向ける。
 鎌倉界隈は凝灰質粗粒砂岩(鎌倉石)と呼ばれる岩盤からできている。鎌倉石を切り出した石切場は鎌倉界隈の至る所に見られ、谷戸の寺社の崖や「やぐら」が見られる場所は大抵は鎌倉石を切り出した跡であろう。古くは墓地として、近年は倉庫としても利用されてきたとか・・・・。
 
 「やぐら」を刳り貫いたのだろうか、狭いトンネル状の通路を抜けると「布袋尊」(鎌倉・江の島七福神の一つ)があった。「布袋尊」は中国禅僧の布袋和尚を神挌化したもの、弥勒菩薩の化身とも、注意深く見るとある方向に指を指している。その方向に福があるとか・・・・。
 【建長寺】 日本最古の禅寺で鎌倉五山第一位の禅寺
 県道「山の内道」に面した「西外門」(右)、中は広い駐車場になっていて、正面に「総門」(左)がある。
 
 「総門」から「三門」(山門)間の参道に沿って紫陽花が植えられ、その外側は桜並木になっている。「三門」には「建長興国禅寺」と書かれた額が掲げられている。「三門」を三度くぐれば解脱出来ると伝えられている。
春を待つ大哉建長寺 04.2018 春待つ;晩冬
 「三門」を抜けると「仏殿」と「法堂」と「本派宗務本院」が縦列建立されている。右手には「梵鐘」がある。創建当時の伽藍配置は、「総門」「三門」「仏殿」「法堂」等主な七つの建物が中軸上に並ぶ「中国の禅宗様式」に配置、四十九の塔頭(小寺院)を有する大陸的な荘厳なものだったという。その後、14・15世紀に起こった数度の火災で多くが焼失、江戸時代になって沢庵和尚の進言で再建された。
 
 「仏殿」には、本尊の「地蔵菩薩座像」(左)が祀られている。室町時代につくられた「格子天井の花鳥図」も写っている。
 現在の「法堂」(はっとう)は、文化11年(1814年)に再建されたもので関東一の大きさ。天井の「雲龍図」は約80畳にも及ぶ。「釈迦苦行像」(右画像クリック)は、ガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されているものの模造。愛知万博(2005年)陳列後にパキスタンより寄贈されたもの。
 
 「方丈龍王殿」(右)と、その「唐門/方丈正門」(左画像クリックで内側の唐門が見れます)。
 「本派宗務本院」(庫裏)と「ビャクシンの古木」。「建長寺」は、境内を含め寺全体が国の文化財にしていされている。
 【亀ヶ谷坂】(切通) 「鎌倉七口」の一つ
 「鎌倉」は三方を山で囲まれ前面が海のため、鎌倉への出入りには険しい峠越えが必要になった。そこで開かれたのが「切通」である。山を切り開き、交通の便を良くしたり、有事には防御の拠点とした「切通」は「鎌倉」の特徴の一つと言える。ここ「亀ヶ谷坂」(約350m)は「建長寺や円覚寺」がある「山ノ内」と「亀ヶ谷」を結ぶ重要な道として13世紀中頃に整備された。「奥の細道」の「芭蕉の辻」ならぬ「源頼朝」も「通った切通」、そんな歴史を伝える「雰囲気」を満喫し「亀ヶ谷坂」を上った。
 【海蔵寺】 「建長寺派」の禅寺一つ、「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)の一つ
 鎌倉にある海蔵寺は通称「花の寺」や「水の寺」と呼ばれ、ゆったりとした自然を楽しむ人々に人気のお寺です。常に観光客で賑わう鎌倉駅から少し足を延ばすだけで、すがすがしい自然と静寂を楽しむことができます。日々の忙しさや騒々しさから離れて、静かにゆっくり自分と向き合いたい。そんな人にお勧めの海蔵寺をご紹介します。・・・・こんなPRに魅かれない人はいないでしょう。
山門 底脱の井(画像右端;水の寺)   本道前の庭園(花の寺)
 
仏殿(薬師堂)   本堂(龍護殿)
庫裡と鐘楼   鐘楼と紅梅
 「花の寺」「水の寺」をストレートに詠むなら、「四季之花鎌府十井海蔵寺」(しきのはな/れんぶじゅっせい/かいぞうじ)・・・・「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)に指定、そして「鎌倉十井」に指定、更に「十六ノ井」をも持つ上、寺の名も「海の蔵」とくる。美人を誉める最高の言葉は、「自分のものに!」とのことで以下の駄作。
谷戸ならば山居幽勝鎌府かな 05.2018 駄作;無季
 谷戸(やと;丘陵地の浸食谷) 山居幽勝(さんきょゆうしょう;山の住まいはいいところ) 鎌府(れんぶ;鎌倉の古称)
・・・・「鎌倉」の旅先で、今住む「御牧の原」の素晴らしさを六感で見直すことが出来た。それ故、終に季の詞入らず。
 「歩行ならば杖つき坂を落馬哉」(芭蕉)
・・・・と物うさの餘り云ひ出で侍れども、
終に季の詞入らず。(笈の小文「伊賀上野へ」より)
 
やぐら   心字池の庭園(本堂裏で立入禁止;花の寺)
 「海蔵寺仏殿」裏のトンネルの先に岩窟があり、丸く掘られた穴が縦横416穴並んでいる。これを「十六ノ井」と呼ぶ。岩窟内部中央に「観音菩薩像」が安置(1446年)されている。この「井」が何であるかは諸説あり。
 【英勝寺】 「鎌倉で唯一の尼寺」、「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)の一つ
 
 室町時代の武将「太田道灌」の屋敷が亀ヶ谷の地にあった。「道灌」の子孫にあたる「お勝の方」(徳川家康の側室)は、家康の死後出家し「英勝院」と名を改めた。「英勝院」と「家康」の子「市姫」は4歳で早世、不憫に思った家康は「水戸徳川家」初代「頼重」(水戸光圀の父)の養母にした。後に「英勝院」の希望で寺をつくり、江戸時代は水戸徳川家のお姫様が住職になり、現在も「尼寺」として水戸徳川家の菩提寺としての寺格が高い寺院、上品さが香る花の寺として人気が高い。「英勝院」に聞き覚え→「奥の細道」(日光);「養源院」(説明板)
 「奥の細道」碑撮り旅(奥の細道“例幣使・日光街道”描き/2017.3.17)を思い出した。数日前に降った残雪があちこちに、「東照宮」の「養源院跡」は何処と尋ねての一句が・・・・
三猿に問へど廃寺は雪間かな (日光/養源院跡)17.2017 雪間;仲春
 「英勝院」(お勝の方)の部屋子が「養源院」(お六の方)で、後に家康公の側室、「大奥」12代と14代側室。
 先掲載の「惣門」(総門)は常に閉じ、徳川様のお寺ゆえ「通用門」(勝手口)が出入り口?。よって下々の者は、勝手口から入り塀沿いに境内を回り込む?。それは別として、県内でも珍しい「袴腰」に覆われた(格式が高い)「鐘楼」(袴腰鐘楼)を左手に見て、拝観順路は「惣門」の内側へと向かう。
 
 境内の端を右回りに回り込み「山門」の右手から正面へと、隣家との境で「三門」前は狭く見上げるためレンズを交換し広角でフレーム内に納めました。
 
 「三門」左手に「やぐら」が迫り、これを「三門」前から撮影していると後方頭上に「生物の気配」を感じ振り向くと「リスちゃん」(寺守忍者の化身?)が私を見張っていました。冗談が続きましたが、「谷戸」故の・・・・いいなぁ~この感じ!我が家には、カモシカ・ニホンジカは訪問してもリスは来ない・・・・これって格式の差?
 
 「やぐら」手前の高台から「英勝院墓塔」(祠堂)背後の鎌倉石(凝灰岩)の山肌に掘られたやぐらに「来迎の三尊石仏;来迎阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩」(左)が祀られている。(見えるのが来迎阿弥陀仏)。右画像は、「太子堂」と「聖観菩薩」です。
 「仏殿」は、拝観者が障子を開けてご本尊様(徳川家光公寄進の阿弥陀三尊像)を拝見し拝むことが出来ます。尼寺らしい煌びやかで、天女の極彩色の壁画が描かれ、鏡天井には十二支が彫られています。
 
 一旦「通用門」に戻り奥へと進む。「唐門」(平唐門形式;唐破風が横向き!)があり、石段を上り右手に「祠堂」(価値あるもの)があるも、網入ガラスで内部撮影が難しく残念でした。これも「尼寺」ゆえ、執拗な撮影行為は行えませんでした。
尼寺に冬葵かな英勝寺 06.2018 冬葵;初冬
 増殖する季語、「東国花の寺百ヶ寺」、四季を通じ「花を絶やさぬ」光景を詠みたく「四季の花」を登録して頂きたいと願う。願い叶えば「尼寺や四季花絶たぬ英勝寺」とか・・・・「四季花」(=側室)擬人化、英勝院と養源院の関係をも詠み込める。時期は少し過ぎるが、初冬の季語「冬葵」を英勝院と養源院の「間」(13代)に入れた。
 「唐門」前を右奥に進むと、綺麗な「竹林」と「書院」がある。書院前には藤棚が、いかにも「花の寺」といわれる構え・・・・「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)に相応しい。
 【寿福寺】 鎌倉五山第三位の禅寺
 「海蔵寺」を後に、緩やかな下り道から横須賀線沿いに足を運ぶ。右手に「鎌倉山荘」(老人ホーム)が見えてきた。その先に「歴史的風土寿福寺特別保存地区」という標柱があった。右に折れる小道(寿福寺に通じる山道のはず)があるも表示は直進、表示はないがすぐ先に「英勝寺」があると先を急いだ所・・・・。
 
 「英勝寺」の山際隣りが「寿福寺」になっている。大回りして「寿福寺」へ、通常拝観(正月とゴールデンウィークは解放)は「総門」から「中門」までの「参道」と「源実朝・北条政子の墓」のみだ。→説明板
 
 閉じている「中門」から境内を写す。正面に見えるのが「仏殿」と思われる。拝観順路に沿って「仏殿」の左手に回り込む。「崩壊で危険」とロープが張られた石段がある。その先に「源実朝・北条政子の墓」があるはずだ。
 「寿福寺」は、鎌倉幕府を興した源頼朝の父の屋敷跡、鎌倉幕府の本家の地といえる由緒ある地。また、日本に鎌倉日本臨済宗の開祖である「明菴栄西」を寿福寺初代住職に据えたのが北条政子。そして、日本に「お茶」を再び伝えた「茶祖」(著書に「喫茶養生記」)も「明菴栄西」である。
寿福寺や栄西崇め茶湯始 07.2018 茶湯始;新年「初茶湯」の子季語
 「仏殿」裏に「唐草やぐら」が2つ並んでいる。左側「源実朝の墓」、右側「北条政子の墓」(画像クリック)。
 【寿福寺トンネル・小町通り】 「寿福寺」から「鶴岡八幡宮」へ
 
 「寿福寺」着は、14:10「予定通り」とマイペース、「お昼?・・・・まだですよ!」「低血糖?・・・・問題ナシ!」
 【鶴岡八幡宮】 古都鎌倉の中心に鎮座する神社
 「段葛」(二ノ鳥居から三ノ鳥居まで一段高くなっている参道)、「大鳥居」、「太鼓橋」(源平池)、広場に構える「舞殿」、「大石段」の上にそびえる「鶴岡八幡宮」の「本宮」(上宮)がある。
 
 「舞殿」(下拝殿)は、「源義経」の愛妾であった[静御膳」が義経を想う舞を納めたとされる「廻廊跡」に建っている。「鎌倉まつり」(毎年4月に開催)では「静の舞」が行われている。
 「鎌倉ほっつ記歩」も後半、事前「14km歩行」時を超す足の傷み、三里をさすり頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮の大石段を登る。頼朝の第二子実朝は12歳で将軍になり、後に鶴岡八幡宮で公暁に暗殺。陰暦正月廿七日が実朝の忌日
古希越て三里灸すや実朝忌 08.2018 実朝忌;新年
 
 「源平池」の島には「旗上弁財天社」「政子石」がある。
 【杉本寺】 坂東三十三観音第1番札所 鎌倉最古の寺
 歩行地図を見る。「鶴岡八幡宮」の東方へ約1.5km/15分のバス路線上に「杉本寺」がある。脹脛や太腿が大分張り、距離感も結構長くなっている。ようやく辿り着き参道石段を仰ぎ見る・・・・なんだ!この急段は!
 「山門」(仁王門)までは「急な石段」を登り、「山門」から「茅葺本堂」までの「苔むした石段」は保護のための参道で登る。これも急坂だ。参道・本堂周辺には「十一面杉本観音」の旗がなびく。
 
 「仁王門」右手に、一輪の「椿」を見つけた。「初札所」には、「札所めぐり」を初めて意識して訪れた「杉本寺」、そして「坂東三十三札所」の第1札所、「古希」を越えた「晩冬」の頃に鎌倉詣でをした。
初札所杉本寺や寒椿 09.2018 寒椿;晩冬
 
 本堂外、少し離れたところより跪き、ご本尊様を逸らし梁上を撮影しトリミングをかけた。画像クリックで拡大
 【浄妙寺】 鎌倉五山第五位の禅寺
 
 鎌倉幕府の重臣、足利義兼が文治4年(1188年)に建てた真言宗の極楽寺、後に義兼の子、義氏の時に臨済宗に改め「浄妙寺」になった。室町時代には多数の塔頭を持つ大寺院であった。
時を経て隙間風かな浄妙寺 10.2018 隙間風;三冬
 境内にある「喜泉庵」(古民家移設)、「オープンカフェ、イングリッシュガーデン、ガーデンテラス」は浄法寺の経営・・・・、時代が変ろうとも、檀家と寺の間に「隙間風」が吹いていないかと他人事ながら心配に思う。
 【報国寺】 「東国花の寺百ヶ寺」(鎌倉11寺)の一つ
 
 明日は「大寒」の入り、「15:30」早くも境内に夕暮れが迫る。竹林に射し込む「寒暮の光」に憂いを感じる。
竹林に寒暮の光や報国寺 11.2018 寒暮;三冬
 
 この谷戸は往時より宅間法眼一派の芸術家達が住いした谷間。現在も「宅間谷戸」と呼ばれたり、他所とは別格のようです。とにかく「竹林」が綺麗で、川端康成は院内を吹く風を「山の音」と表現されていたようです。
 「報国寺」から「鎌倉駅」まで2-3kmある。タクシーを探しながら駅に向かって歩き始めるも無理・・・・少し先にバス停らしきものを見付け、やっとのことで辿り着く。時間通り来ないバスを待ち鎌倉駅に向かう。
 【段葛“二の鳥居”】 「二ノ鳥居」から「八幡宮前」まで500mの参道を「段葛」という
 「芭蕉の辻」と「段葛」は編集の都合で順を入替、撮影終了時刻は16:45(予定10分前)。ここで疲れを癒し夕食(昼食?)・・・・痛む足を引きずり「六自蔵尊」から「鎌倉駅」界隈を探すも飲食店で開いている店が見当たらない。やっと探したお店でハンバーグを食べた。
 【芭蕉の辻】(六地蔵尊) こんな所に芭蕉句碑・・・・
 
 「奥の細道」(平泉)「夏草やつはものともか夢の跡」(建立;天明六年1786.5)、「奥の細道」(1689)より97年後と古い句碑。ちなみにネット検索での最古の碑は、「五月雨の降殘してや光堂」(中尊寺;1746.10)、何か因縁めいている。天明の大飢餓(1782-1788)、浅間山の史上最大噴火(1783)。
 
ニコライ堂(東京復活大聖堂教会) 御茶ノ水駅界隈

Midi
 迷い道
夜行便ニコライ堂に湯ざめ哉 00.2018 湯ざめ;三冬
 この後、「御茶ノ水」まで移動、妻へ土産の文具を買い「夜行バス」の時間待ちに「神田アクアハウス江戸遊」で疲れ流しの入浴3時間コース。そして、東京八重洲口23:55発、この時刻は、若きサラリーマン時代(初乗車は昭和43年頃)に仙台まで出張で常用した夜行寝台列車「新星」(昭和39年-57年)の上野発と同刻で懐かしい。当時は東京八重洲地下街と仙台駅前に大衆銭湯とサウナがあり早朝利用した。
 そんな思い出に耽り高速夜行バス「ホリデースター号」で仙台へと「鎌倉紀行」を終えた。来月は「鎌倉」(其の弐)として長谷観音から江の島に行ってみたいと思う。
鎌倉紀行(其の弐)