-“史跡”放っつ記歩き-
日光の社寺 世界文化遺産
2018.05.18(金) 曇
 「旅の未知草」4月篇で行きたかったが、雪融状況が心配で今月に遅らせた「湯殿山信仰の極み“即身仏を祀る寺巡り”」の予定だった。前線通過で「庄内地方」がもろに“豪雨”との予報が出た。やむなく出発の前日に取り止め、国道4号を淡々と北上しようと決断した。午前中の栃木は“曇”との予報、ならば「日光東照宮」(4-5回目になる)に立ち寄ろうと、雨具のみ持ち事前確認なしで「0時発を5時発に変更、8時半着を見込む」として臨んだ。
 【古河掛水倶楽部 】栃木県日光市
 足尾に着いたのは8:20、日光東照宮着をもう少し遅らせようと時間調整&朝食休憩をとった。「足尾の迎賓館」は「旧鉱業所事務所」でした。土・日・祭日営業(10:00-15:00)平日は事前予約。
 
 
 足尾銅山は1550年に発見と伝承、1610年に百姓二人が鉱床を発見し、幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始。足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われ、当時の代表的な通貨である寛永通宝も鋳造された。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出。その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけほぼ閉山状態。1871年に民営化されたが銅の産出量は、年間150トンにまで落ち込んだ。
 足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年に待望の有望鉱脈を発見。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見。古河市兵衛の死後、明治383月に会社としての古河鉱業の経営となった。当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は久原財閥の日立鉱山、住友家の別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長。1973年をもって採鉱を停止し、銅山発見以来360余年の銅山を閉じた。
 【日光東照宮】「世界文化遺産」の二社一寺の参詣
 日光の社寺は、優れた自然環境の中にある二つの神道としての神社(東照宮及び二荒山神社)と仏教寺(輪王寺)にある103の宗教的建造物から成る登録遺産で、栃木県日光市にある。
 
 
 「日光の社寺」は、「二社一寺」(二荒山神社・東照宮、輪王寺)を中核に、平成1112月(1999)、世界遺産として10番目、文化遺産として8番目に登録されている。(撮影時、隣の外人女性に問われたが答えられず)
 9時に「日光東照宮」に着いた。大事を取り雨傘持参で山内表参道大手通りを石鳥居に向かう。「表参道」の両側に柵とロープが張られ、椅子席も設けられていた。何かの「祭礼」であることは容易に理解出来たが、「どのような祭礼」なのかは全く分からなく、それが「今日」行われることも知らずに仕切られた外側を石鳥居へと進む。
 
 拝観料を納め「東照宮」の「表門」より境内へ、正面に「三神庫」(入口より下神庫・中神庫・上神庫)と鈎型に並ぶ。「中神庫」(大画像)と「上神庫」(小画像)の前を左に折れ参道は奥へ、左手に「神厩舎」がある。
 
 「神厩舎」はご神馬をつなぐ厩で、昔から猿が馬を守るとされ長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざるロ聞かざる」の「三猿」の彫刻が有名である。
 中国では「四猿」(しざる = せざる ⇔ しない)のようだ。下画像2枚は、マウスオーバーで入れ替わる。
 
 
 「神厩舎」を通り過ぎると境内参道は右に折れる。「鳥居」の左手は「輪蔵」、そして正面に「陽明門」、その手前は中段になっていて左手に「鼓楼」、右手に「鐘楼」がある。「陽明門」の「廻廊」と「燈籠」の撮影は、帰りの楽しみに残し、未拝観の「奥宮」へと行く手を急ごう。
 
 「百物揃千人行列」参列者の姿も多く、また小さな子供たち(団体)も交り賑やかになってきた。「陽明門」の左右に延びる「廻廊」、我が国最大級の花鳥の彫刻(一枚板の透かし彫り)で極彩色が施されている。
 「石鳥居」「五重塔」「表門」「三神庫」「神厩舎・三猿」「御水舎」と重要文化財が続き、これより「陽明門」「廻廊」「唐門」「御本社」と続くのは軒並み国宝だ。
 
 
 「陽明門」(随身門)の左右両側に随身像、内側には獅子像(唐獅子)。随身より唐獅子の方が珍しい。この「陽明門」は、いつまで見ていても飽きないことから「日暮の門」と呼ばれている。
 
 「唐門」の左右に延びる「透塀」、その中は「御本社」(拝殿・本殿)になっている。昭和から始まっている平成の大修理も最終段階に入り「御本社」は足場で囲まれていた。半世紀以上に及ぶ大修理、宮大工さんも親子・師弟で取り組まれているかと思うと気が遠くなる話だ。
 「日光東照宮」の彫刻の中で、「三猿」にならび著名な「眠り猫」、東回廊の出入口(坂下門)部分の蟇股に彫られている。「眠り猫」の裏側には「雀」の彫刻が彫られている。「雀」の天敵の「猫」、猫が眠っている間は食べられません。よって「眠り猫」は平和の願いが込められての対彫刻のようです。
 
 「奥宮」の参詣は初めてのこと、拝殿・鋳抜門・御宝塔からなる御祭神のお墓所である。石畳の参道(石廊下)、左右が石塀で囲まれすれ違うのも大変なのに、どう動くか予測が出来ない子供たちの団体、責任を果たしていない引率者に少し腹が立った。(親をはじめ低学年での学校教育、躾教育をしない社会は国を滅ぼす)
 
 家康公の棺が納められている「宝塔」(大画像左手)、その入口の門が「鋳抜門」(小画像、鋳物で出来ている)。「鋳抜門」は、もともと石造りの門で、五代将軍綱吉公時代の地震で壊れ、銅製に作り替えられた。取り壊された石造りの門はと鳥居は奥社山中に埋められたが、1967年に掘出され「東照宮宝物殿」の脇に復元された。芭蕉句碑がある左奥の建造物である。(最後の画像がこれであると初めて認識した)
 
 「陽明門」の左右に延びる国宝の「廻廊」、帰りの楽しみにとっておいた「お宝」、じっくり撮影した。左手に延びる廻廊、右手に延びる廻廊の拡大画像(左回廊右回廊)。
 「上神庫」の隣り「陽明門」への石段右手前に「鉄燈籠」(南蛮鉄燈籠)がある。仙台藩主伊達正宗候が奉納したものだ。似ても似つかぬ「鉄燈籠」・・・・塩竈神社の「文治の灯籠」(おくのほそ道)を連想した。
 
 オランダ東インド会社から奉納(1643、家光公の時代)された八角形の「回り燈籠」(鉄燈籠)は、三つ葉葵の紋が逆で「逆紋の回り燈籠」と呼ばれている。
 「養源院跡」は昨春に続いて2回目、今春は鎌倉の「英勝寺」にも参詣した。前者では「三猿に問へど廃寺は雪間かな」、後者では「尼寺に冬葵かな英勝寺」と詠んでいる。「英勝院」(お勝の方)の部屋子が「養源院」(お六の方)で、後に家康公の側室、「大奥」12代と14代側室。
 
 「日光東照宮」の参詣を終え「表門」を出る(10:00)と、「百物揃千人行列」(11:00)まで 1時間を切り騒がしくなってきていた。
 「化け燈籠」が立ち並ぶ「上新道」を「二荒山神社」へと向かう。
 「二荒山神社」の境内が「百物揃千人行列」の出発点らしく関係者が続々と集まってきていた。
 「輪王寺大猷院」へと向かう。ここは、今迄一度も参詣したことがない。今日も「仁王門」前で撮影し別の機会へと見送る。
 
 東照宮宝物館(旧館)に、句碑「あらたうと青葉若葉の日の光」(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)「奥の細道」旅中での句がある。日光東照宮に立ち寄って「この場所」に寄らないことはない。
 何度も「芭蕉句碑」の撮影で立ち寄り、その都度撮影しているものだが、「奥宮」(左)のそれと並べてみると「なるほど」酷似している。
百物揃千人行列(ひゃくものぞろい せんにんむしゃぎょうれつ)
 51718日の両日、例大祭が行われます。(日光東照宮HPより)
 
517日には、午前10時より御本社に於いて徳川御宗家、産子会役員、来賓多数参列のもと「例祭」が行われます。また、午後1時からは表参道特設馬場に於いて小笠原流による「神事流鏑馬」が奉納されます。夕刻には、神輿三基が二荒山神社に渡御、両社神職奉仕によって「宵成祭」が行われます。
 明けて
18日には、午前11時より神輿渡御祭「百物揃千人武者行列」が行われます。この行列は、神輿を中心に鎧武者など53種類1,200余名のご奉仕により御旅所へ向かいます。御旅所では、「三品立七五膳」の特殊な神饌が供えられ、宮司祝詞奏上・八乙女神楽・東遊が奉奏されます。神事終了後行列は東照宮にもどります。