いにしえ 下野・常陸の国府遺跡
2019.01.18(金) 晴
 昨年12月の旅の未知草(上野毛国;東国文化ゆかりの地)に続き「国府遺跡」めぐり。「下野」から「常陸」へ、その後「常磐道」で一気に北上、ETCカードが届いたので初使い。午前3時に家を出る。車に薄っすらと雪が・・・・案ずるも里に下りると雪なし。
 【室の八島】(大神神社) 栃木県惣社町
 「室の八島」(大神神社)の日出は2017.3.17以来、幻想的な「社叢の木立」より昇る日出をもう一度見たく「下野の里」を横目に日出(6:49)より早めに到着(6:02)し社の駐車場で朝食をとりながらタイミングを待つ。二度目の撮影、満足いくものが撮れた。残すは・・・・雪が融け林間に漂う様、「煙」(水煙、水蒸気)を撮りたい。
 
「おくのほそ道」(室の八島:元禄二年三月二十九日)
 室の八島に詣す。同行曾良が曰、此神は木花咲耶姫の神と申て、富士一躰なり。無戸室に入て焼給ふ誓のみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世につたふ事も侍し。芭蕉句碑
01、「糸遊に結びつきたる煙哉」と詠むも掲載なし。
 前回は「
雪解水社叢に漂う煙かな」と詠む短冊を備え、八島で「春暁が社叢に咲かす煙花かな」と詠み替える。そして今回は「夜明け方けぶりたつかな寒の水」と詠んだ。
 【神明宮】(第二公園) 栃木県栃木市
 迷い道程度の回り道になるが、栃木市内の「第二公園」(神明宮)に立ち寄った。ここには、芭蕉句碑02叡慮にて賑ふ民の庭竈」(庭竈集) 、仁徳天皇作と誤伝されている歌「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民の竈賑わひにけり」を下敷きに詠んだ句がある。未撮影句なので撮っておきたかった。
 
 
 「神明宮」境内にある「第二公園」の庭園を一回り、鳥小屋があり飼育されていた。早起きの雀たち庭園の木の枝で飛び回っていた。
 そこで、「
恙なく祈る社に寒すずめ」と詠んでみた。寒雀;晩冬の季語 「雀」には、神聖視されてきた歴史がある。「恙なく」(つつがなく)と、今日の旅路の安全祈願句とでもいおうか。
 【下野国庁跡】 栃木県栃木市
 
 
 国庁は、大宝元年(701)に確立した律令国家体制の地方行政庁で、この国庁の所在地を国府と言う。 平成6年に前殿が当時の姿に復元され、平成8年に敷地内に下野国庁跡記念館が開館し、出土品が無料公開・当時の国庁での政務や官人の生活の一端を知ることが出来る。→俯瞰 Map
 「前殿」と「下野国庁跡記念館」の間に「宮野辺神社」がある。何やら「古風」が残存しているらしい。
 【下野国分寺跡】(天平の丘公園) 栃木県下野市
 下野国分寺は、奈良時代の741年、聖武天皇の詔によって全国60数:ヶ所に建てられた国分寺のひとつ。国分寺と国分尼寺の両方の全貌が明らかになっている所は全国でも少なく、多くの研究情報を提供している。→俯瞰 Map
国分寺跡南端より北方向を見る   国分寺跡北端より南方向を見る
西側にある甲塚古墳   東西に伸びる寺院地溝
南大門跡   中門跡
金堂跡   講堂跡
僧房跡   経蔵跡
塔跡(七重塔と推定)   画像クリックで拡大
 「国分寺跡」に、一部建物の土台が復元されている。建物想像図、建物構造、規模が各建物跡前に立て看板として説明され当時の建物を想像することが出来る。栃木県立「しもつけ風土記の丘資料館」もあるが、午前9時開館ゆえ先を急ぐので見学は出来ない。(滞在は8:17-8:57
 【防人街道】(天平の丘公園) 栃木県下野市
 
 「天平の丘公園」内に「防人街道」という松林の中に作られた遊歩道で創造的なもの・・・・
 【下野国分尼寺跡】(天平の丘公園) 栃木県下野市
 
 「国分尼寺」の正式名は「法華滅罪之寺」という。
 【国分寺】(下野薬師堂) 栃木県下野市
 
 「下野国国分寺(跡)」と「国分寺」は異なる。「下野国国分寺」は、11世紀-12世紀頃衰退したと見られている。その国分寺跡北方に位置する当寺(下野国分寺)はその法灯を伝承すると伝えるが、その経緯は不詳である。
 
薬師堂
 
釈迦堂(釈迦如来座像は下野市指定文化財)   五輪塔(下野市指定文化財)
 「五輪塔」は、聖武天皇・光明皇后・行基を祀ったものとの伝承。
 【下野薬師寺跡】(安国寺) 栃木県下野市
 
復元された「下野薬師寺 回廊」
 「下野薬師寺」は、7世紀末、この地方をおさめていた豪族、下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと考えられている。下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバー、中央政権とのつながりの深さは、下野薬師寺の重要度を高めることになる。→俯瞰 Map
 今回は広大なグランドめぐり、建物に代え航空写真で、いにしえの枯野の国府俯瞰かな」と詠んでみた。
 
薬師寺の戒壇跡と伝わる場所に江戸時代末期建立の「安国寺六角堂」
 薬師如来を信仰する「薬師信仰」が盛んになったのは、聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来を造立して以来、天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立(680)してからのこと。「下野薬師寺」も奈良時代以前に冬至の中央政権が建立した寺とされる。即ち、「国分寺・尼寺」より古いという訳である。
 
鑑真和上の図を納めた厨子・不動明王像・韋駄天像が祀られている
 奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内僧侶の統制を図っていた。
 
 宝亀元年(770年)、中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている。道鏡は772年に当地で没し、龍興寺に墓が伝わっている。(日本史上、天王に一番近づいた一般人と言われる怪僧・道鏡最期の地)
 
 室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ、暦応2年(1339)に「安国寺」と改名した。ただし、一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた。
 古刹「安国寺」が、大修理を機に「薬師寺」(通称下野薬師寺)に、679年ぶりに寺名を復活変更(2018.9)。
 
 
 近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領10石を寄進された。また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領20石を寄進された。両寺は天和元年(1681)から享保4年(1719)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。議論の末、天保9年(1838)、「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護」という合意に達し現在に至る。
 【薬師寺八幡宮】 栃木県下野市
 
 
 貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として石清水八幡宮の御分霊を勧請、創建される。(神社伝)一説には奈良時代天平勝宝元年(749)、下野薬師寺(日本三戒壇)の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも考えられている。
 【龍興寺】 栃木県下野市
 
 下野薬師寺の南方に立ち、同寺の別院とされている。寺伝では奈良時代の天平宝字5年(761)、鑑真が唐の龍興寺の舎那殿壇の法を移し「生雲山龍興寺」として開基したという。かつて存在した薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる寺院で、近世には佐竹氏から寺領20石を寄進されている。また、薬師寺の跡に建てられ薬師寺不動院の流れをひくという安国寺との間で、天和元年(1681)から享保4年(1719)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。議論の末、天保9年(1838)、に「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護するという合意に達し現在に至っている。境内には道鏡の墓と伝わる円墳や鑑真和尚碑がある。
 「下野の国」(10:00)から「常陸の国」(11:20)へ。「筑波山塊」(筑波山地・筑波連山)を右手に南下、途次の山間抜けでのすれ違いは徐行が求められるほど・・・・。
 【常陸国分寺跡】 茨城県石岡市
 
 国分寺(浄瑠璃山東方院国分寺)は、創建時の国分寺跡の遺構上に位置し、常陸国国分寺の後継寺院にあたる。寺域は東西約270m・南北約240m。伽藍として中門・金堂・講堂を一直線上に配置し、中門左右からの回廊は金堂に接続する。七重塔の位置は寺域東側に推定されるものの明らかでなく、塔心礎は境内に移され保存。→俯瞰 Map
 
常陸国分寺 中門址
 常陸国分寺の建立は天平勝宝4年(752)とあり、同年5月に百済王敬福が常陸守に任ぜられた。 金光明四天王護国之寺と称され、金字金光明最勝王経1部を安置した七重塔を設け、常住の僧20名と最勝王経10部が置かれた。
 
大師堂   芭蕉句碑
 参道右手「大師堂」前に芭蕉句碑がある。うっかり見落とすところだった。芭蕉句碑03以左行ん雪見爾古呂婦所ま天」(いざ行む雪見にころぶ所まで)、貞享4年、「笈の小文」旅中「名古屋の風月堂」で詠まれた句。ところで「石岡市」に聞き覚えがある。編集時に気付く、何と「鹿島紀行;霞ヶ浦周辺の芭蕉句碑」(2015.11.20)に立ち寄っているではないか・・・・全く記憶に残っていない。
 
薬師堂
 
常陸国分寺 本堂   都々一坊扇歌堂
 都々一坊扇歌は、文化元年(1804)医者・岡玄策の子として久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)に生まれた。幼少の頃、病により失明同様となり、芸の道を志し船遊亭扇橋の弟子となる。その後「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名付ける。扇歌は、当時の政治や社会を批判したため江戸追放の身となる。その発端となったのは「上は金下は杭なし吾妻橋」の一句。江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先である府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ嘉永5年(185248歳で没した。昭和8年(1933)、都々一坊扇歌を記念し町内有志の呼びかけで扇歌堂が建立された。
 
旧千手院山門   常陸国分寺 本堂
 千手院は国分寺の東側に存在していた寺院で、一度は衰退するも天正元年(1573)に再興された。山門もその頃建てられたものと考えられ、安土桃山時代の様式を残している。江戸時代には国分寺に対して主導的役割をはたしていたが、大正8年(1919)に現国分寺と合併し、廃寺となる。現在はこの山門が国分寺境内に残るのみ。
 【府中城の土塁】 茨城県石岡市
 
府中城の土塁   石岡の陣屋門(城門移築)
 「府中城」は、第15代大掾詮国が正平元年(1346)より数年を費やして築城したものである。東西500m、南北400mで、本丸・二の丸・三の丸・箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また幾重にも巡らし、当時としては堅固な城郭であった。
 「陣屋門」は、松平氏が入った府中陣屋の表門にあたり、文政
11年(1828)につくられた。陣屋の跡地に石岡学校(現在の石岡小学校)の校舎が建てられると校門として利用された。昭和41年(1966)に石岡市民会館が建設された際に、陣屋門は市民会館裏手の石岡小学校の敷地内に移築、平成26年市民の要望に応えて現在地へ移された。
 【常陸国府跡】 茨城県石岡市
 
 「常陸国府跡」は、石岡市立石岡小学校敷地内にある。地形的には、霞ヶ浦に注ぐ山王川と恋瀬川によって形成された石岡台地上に位置する。国府のはじまりは、今から約1300年前の7世紀末頃。その後も同じ場所で11世紀頃まで、およそ300年間機能していたと考えられ、国庁の誕生から消滅までを通史的に見ることができる。国庁のほぼ全容が確認された例は極めて少なく、全国的にも大変貴重な遺跡(校庭の地下に保存)といえる。
 
箱式石棺(舟塚山古墳より出土)→説明板   風間阿弥陀→説明板
 【常陸国総社宮】 茨城県石岡市
 
 約1300年前の7世紀、現在の茨城県は常陸国と呼ばれていた。広大で海山の幸に恵まれたこの国は全六十余国のうち最上の「大国」とされ、常世の国とも称される憧れの聖地であった。常陸国の中心地である国府があった場所が旧茨城郡、現在の石岡市。茨城の県名はここに由来する。国府の長官である国司が執務した国衙跡の遺跡は近年の大規模発掘に伴い国指定史跡に登録された。国衙の南側にかつて倭武天皇が腰掛けたと伝わる「神石」がある。日本百名山の一つ「筑波山」、日本第二の湖「霞ヶ浦」の悠々たる美景を同時に望めるこの場所に創建された「総社」が常陸国総社宮です。
 
神楽殿・拝殿・本殿   境内社
 「本殿」は、寛永4年に時の領主・皆川山城守の命で建造された境内最古かつ最重要の建造物。三間社流造で銅板葺き。各所に十六菊花紋があしらわれています。→説明板
 
随身門
 随神門は本殿と同じ寛永4年頃造営された境内最古の建造物の一つで、遷座時の仮宮の木材を用いたと伝承。門内には石岡市指定文化財の「随神像」一対が置かれている。
 下野から常陸、石岡市の最初の訪問地は「常陸国分尼寺」であった。ナビの設定に誤りはなかったが、2番目の「国分寺」に着いてしまった。ここより1.7km、さてどうしたものかと悩んだ末、市街地の道路状況も鑑みすぐ近くの「常陸国総社宮」に行くことにした。そして、結局の所2時間弱の余裕があるにも関わらず「常陸国分尼寺」は取り止めにした。→航空写真で代替としよう。→俯瞰 Map
 【府中愛宕山古墳】(北根古墳群) 茨城県石岡市
 
 府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北方約300mの距離にある全長約100mの前方後円墳。5世紀の終わり頃から6世紀の初め頃、今から1500年程前に造られたと考えられている。→説明板
 
 明治30年頃、坪井正五郎博士によって発掘されましたが、主体部や副葬品は見当らず、土師器7個が出土しただけと伝えられています。古墳周囲の畑周りにはホトケノザが咲き、極寒の信州との違いを感じた。
 石岡市には「常陸風土記の丘」(俯瞰 Map)がある。石岡市には、「旧石器・縄文時代から弥生時代、古墳時代の遺跡」「国衙、国分寺・国分尼寺」等々の歴史的財産を活用しながら、歴史、伝承、体験学習、スポーツ、コミュニテイーなど、心ふれあえる余暇活動施設があります。「北根古墳群」(府中愛宕山古墳・舟塚山古墳)には見学者用駐車場もあり、歴史好きには一日の滞在では足りないでしょう。
 【舟塚山古墳】(北根古墳群) 茨城県石岡市
 
 恋瀬川河口付近の高台、南に霞ヶ浦の高浜入江を望み、西には筑波の霊峰を仰ぐ景勝の地にある前方後円墳である。古墳は全長186m、前方部幅100m、後円部径90m、前方部高10m、後円部高11mの東国2位、県内最大の規模を誇る。→説明板
 昭和47年の周壕確認発掘調査で、円筒埴輪が出土し、陪冢と考えられる円墳から出土した木棺・短甲・直刀・盾などの副葬品や墳形から、およそ5世紀中ころの築造と推定されている。→俯瞰 Map
 只今の時刻は13:21です。「千代田石岡IC」から「広野IC」まで常磐自動車道、以北は一般道(国道6号帰宅困難区域を通過)で仙台まで、自分の車に初搭載のETCカード利用で・・・・トラブルなく出入り出来るか不安でした。
 【帰宅困難区域の国道6号線】 福島県富岡町北部→大熊町(第一原発)→双葉町
 富岡町北部    
富岡消防署北信号 新夜ノ森付近 夜ノ森駅(東方)
 国道6号「富岡消防署北」信号より「帰宅困難区域」となり「二輪車以下通行禁止」「窓開け禁止」「全信号黄色で駐停車禁止」、「一定間隔でパトカーが誘導」する中での通過。(不注視にならぬようTG-4で任意撮影)
 大熊町    
熊町集落 三角屋信号 東大和久信号
東大和久信号 中央台公園 中央台信号
「中央台信号」から「長者原信号」までは「福島第一原発」まで半径1,500mの至近距離通過です
 大熊町    
原発の真横(夫沢地区) 長者原信号 双葉町境界
 双葉町    
下条信号 牛踏集落 双葉駅付近
 【除染土仮置場】 福島県南相馬市
 
 国道6号線東側(太平洋側)に広がる「除染土仮置場」・・・・「目隠し」が取り除かれるのは何時になるだろう。「原発再稼働」に向けた議論でなく、「安心安全な国土づくり」に向け「あるべき姿」に向けた議論を「平成以降」を担う政治家を中心に議論して欲しいものだ。→俯瞰 Map
 【夕食】(和風レストラン田園) 宮城県亘理町
 
 「第二の故郷」、仙南の隣り街「亘理町」にある懐かしいレストランで夕食をとる。「はらこ飯」と思ったがシーズンオフ、「ミニ丼セット」(かにいくら丼)を頂くことにした。
 【すきあおのり】(千葉産川海苔) 
 
 「川海苔を去年や土産の握り飯」、季語が二つ「川海苔」(秋)と「去年」(新年)とで「季重なり」になりますが、この使い方は許容されると思う。切れ字の「や」で「去年」が強調され、「昨年はお世話になりました」との感謝の気持ちが込められたお手製の珍味川海苔の握り飯へとつながる「新年の句」と読んでもらえるだろう故。
 顧問先の社長様お手製の「おにぎり」、「先生、お帰りの車の中で召し上がってください」と頂いたものの、滅多に口に出来るものではない。ETCカード装着「初の休日割引」効果をみたく、顧問先近くの「仙台東IC」から第二の故郷「岩沼IC」までと「国見IC→矢吹IC」間を利用した。最も渋滞する2ヶ所ゆえ「2時間弱の短縮」で22:30過ぎに帰宅出来た。早速、妻と半々にして暖めずに「珍おぎぎり」を頂いた。何とも言えない強烈な風味の有難い逸品だった。往路531km、復路418km、ホテルから顧問先まで3km、総走行距離は952km、帰路の郡山付近東北自動車道で雪が降っただけで1月の車出張は難儀なく帰宅出来た。
Midi 空と大地と君と